第9話
猪瀬君をはじめとする一年目が入社してからかれこれ二週間が過ぎた。やっと猪瀬君たちは新入社員研修を終えて、アキ子たちの部署に配属された。どこの会社でもそうであるように一年目はまずは雑用を教え込まれる。その雑用を教え込むのはもちろん二年目のアキ子たちの仕事となる。この会社には先輩社員が来るより前に一年目がデスクを拭いたり、ゴミ箱のゴミを回収したりする朝当番なるものが存在する。
「そういうわけやから、一年目は皆より少し早く来て朝当番をせなあかんから」アキ子がハキハキと大きな声で、猪瀬君と同じ一年目の女の子の高橋さんに教えた。猪瀬君は適度に低く良い声で「はい」と言い、高橋さんも「はーい」と元気よく応えた。 実はアキ子はこの高橋さんが苦手だった。
高橋さんは身長も小さく可愛らしい。女子にしては大柄のアキ子と比較するとより、高橋さんの小ささ、可愛らしさがどうしても際立ってしまう。そういうビジュアルの点においてアキ子は高橋さんにどうしても引け目を感じずにはいられなかった。さらに、アキ子は高橋さんの可愛らしいルックスに加え、計算しつくされたぶりっ子が気に食わなかった。
「あっ、全然届かないです」とか言って、あえて高いところのものを男性社員の前で取ろうとし、男性に手伝わせたりするところなどもアキ子の神経を変に刺激した。しかも、ちゃんと彼氏がいる癖に、猪瀬君に色目を使っているようにアキ子には見えていた。そこいうところがあるせいで、よりアキ子がより高橋さんに対して良くない印象を持ってしまったのだ。なんといってもアキ子は猪瀬君に対して好意を持っていたわけだから。
「じゃあ、二人とも明日から朝当番よろしくね」アキ子は猪瀬君と高橋さんに言った。
次の日、「ごめん、ちょっと遅れちゃった」と、ほぼ猪瀬君が朝当番を終えたころに高橋さんは少し息が上がった様子で現れた。
ほら、またこれきたとアキ子は心の中で毒づいた。そう一回目の人生でもアキ子はこのシーンを目撃している。前回も今回同様に朝当番を任せた当日から高橋さんは遅れてやってきたのだ。こういうのも繰り返されるのはほんま嫌やわとアキ子は思った。
「ほんとうにごめんね。猪瀬君」高橋さんは可愛らしく上目使いで謝罪の気持ちを口にした。
猪瀬君もまんざらでもない様子で「うん、全然いいよ」と応えた。
「猪瀬君、ありがと」と高橋さんは付け加え、猪瀬君に小さなチョコレートを渡した。
「えっ、いいの?」
「うん、コンビニで見かけた新発売のチョコレート」
「ありがとう」
ちょっと、なんなんよ。コンビニに寄り道する時間あるんやったら、朝当番に間に合うように来いよと、アキ子は心の中で毒づいた。
「ああいうの女子力高いって言うやろうな」おじさんが突如横に現れ、高橋さんをさらっと褒めた。
それが気に入らなかったのかアキ子はさっとおじさんの方へ身体を向け睨み付けた。
アキ子は横を向き「ほんま最悪」とこぼし、仕事に取り組み始めた。
そして、ほどなく時間は過ぎ去り昼休みを迎えた。
「ちょっと、あんたさっき高橋さんのこと褒めてたやろ」アキ子は屋上のベンチでおじさんに問いただした。今は13時半。電話当番でアキ子はみんなと違う時間帯に昼食をとることになったため、少し遅めの昼食を屋上で食べている。この会社ではお昼休み中に事務所にいる人間がいなくなってしまうと、外部からの電話に対応できなくなってしまうため、このように順番に電話当番をまわしている。
「いや、別に褒めているというか。普通にああいうの男喜ぶやろ?」
「ほら、また褒めたやん」
「おい、おい、何殺気だってんねん」おじさんは後ずさりした。
「どうせ、男はみんなあんな女が好きなんや」アキ子は目を見開き言った。
「なんやねん。さっきからお前ちょっとおかしいぞ。少し落ち着け」と、いつもおかしいけどさらに酷いなとおじさんは思いながらもアキ子をなだめようとした。
「ほんまむかつくわ。あの女」アキ子は自身の唇を強く噛んだ。
「別にええやんけ。遅刻したことはあかんけど、そのお詫びに猪瀬君にチョコレートあげるのが、何があかんねん?」
「そんなんあかんに決まっているやん。チョコレート買う時間あったら遅刻しないように来いって話ちゃうん?そんなん社会人失格やで」
「お前さあ、高橋さんが朝にチョコレート買ったっていう証拠ないやろ?昨日の帰り道とかに買ったとか、そんなんかもしれんぞ」
「あいつ絶対性格悪いからそんなんちゃうわ。朝からあほそうな面して、『新発売のチョコレートだ~おいしそう~』とか言って買ったに決まっているやん」と、高橋さんのモノマネを交え、おじさんへ反論した。
「お前、本気で人格ひねくれ過ぎやぞ。そら彼氏もできるはずないわな」おじさんはアキ子のモノマネが意外と似ていたため、笑いを堪え言い返した。
「何よ、なにちょっと笑いながら言ってんのよ。ほんまうちのことバカにしすぎやで」アキ子は真顔でおじさんの顔を覗く。
「お前、マジでやめろよ。おもろすぎるわ」おじさんは笑い出した。
「ほんまあんた。怒るでうち」
「もう怒っているやんけ」おじさんは肩を上下に揺らしながら応えた。
アキ子はおじさんに呆れ果てて、メロンパンとあんぱんをさらっと平らげ、コーヒーにスティックシュガーを三本入れて、一気に飲み干した。
「ちょっとは落ち着いた?」アキ子はおじさんへ聞いた。
「おう、笑いの波はなんとか通り過ぎたわ。お前ほんまおもろいな」
「よく色んな人から言われるわ。それ」
「まあ、おもろいのはええけど、女としてモテたかったら、高橋さんみたいなんをお手本にすべきかもしれんな」
「だから、なんであんなやつがいいのよ。ほんま意味わからんわ」アキ子の鼻息がまたしても闘牛のように荒くなってきた。
「いや、だってその方が男受けええやろ?」
「だから、何で男はあんなんがええよ。ほんまわからんわ」
「なんでなんかなぁ」おじさんは腕を組み、空を見上げた。
「ちょっと、自分でもわかってないん?」
「うーん、まあ、ああいう女が可愛いくて男受けがいい。そういう事実が仮にあったとする。じゃあ、モテるためにどのようにすべきか?ああいう高橋さんみたいな女になればいい。単にそれだけの話やと思うぞ。別になんでああいう女が男から好かれるかという理由は重要ではない。とにかく男はああいう女が好き。それをまず受け入れてから行動してみる。そういうのが重要かもしれんな」おじさんは顎に手をあてながら語った。
「ちょっと、その話やと今のうちのままやと、男にモテへんってことやん」
「あはは、そらそうやろ?お前みたいなやつと誰が付き合いと思うねん。まあ、ただこれは一つの考え方や。お前は前回の人生で普通にしとったら猪瀬君と相思相愛ぐらいまでいったんやろ?なら別にええやんけ。今回は少し頑張って適切なタイミングで告白すれば、そこまで行っていたらまず振られることはないと思うぞ」
「ちょっと、その適切なタイミングで告白がわからんねんけど」
「なんやんねんお前、なんか付き合う前のあの感じわからんのか?」
「だって、うち誰とも付き合ったことないからわからんもん」アキ子は堂々と胸を張り応えた。
おじさんはおでこに手をあてながら「そっか、だから過去に戻ったんやもんな。ごめんな」と優しく言った。
「ちょっと、謝らんといてよ。逆に悲しくなるわ」アキ子は語気を強めた。
「まあ、俺が今回は常時付いているわけやから、サービスとしてさっき言っていた付き合えそうな感じが出てきたら言うわ。その時に告れ。わかったな」おじさんはやれやれという表情を浮かべた。
「うん、わかった。なんか申し訳ないな」
「いや、俺もせっかく過去に戻ったんやから、ちょっとは前回より良かったって思ってもらえた方が良いから」
「あんた。もしかしてええやつなんちゃう?」
「おい、ええやつじゃなかったらわざわざタイムトラベルとかお前に提案せんやろ?」
「それもそうやけど、あんたのキャラクター上なんか人助けっていうのも変やねんな」とアキ子が言うとおじさんはギクッとした。
アキ子はおじさんの顔をまじまじと見つめ、「まあ、ええわ。協力してくれるわけやし。うちは得するわけやし」と言い、屋上のベンチを後にした。
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