序章 ハンブルク夜会②

「こっち。そこの部屋にしまっておいてくれれば構わない」


 ビアバーの裏通りに建つ、小さいながらも比較的小綺麗なホテルの二階に上がって、少女は一室を示した。


「いいのかそんな適当で」

「いいと思う。どうせ寝てるし」


 少女は答えて、そのまま示した部屋の向かいにある部屋へと入っていった。


「わたしの部屋はこっちだから。後はよろしく」


 二人は知り合いのようだったにも関わらず、少女の女性に対する態度は冷たい。少女の半分閉じた瞳はどこか不機嫌なようにも見えて、アジア人は言われるがままに部屋の中へ女性を運び込んだ。


「ほら、ホテルについたぞ。自分で歩いたらどうだ」

「――駄目。あー、気持ち悪い……。水」


 部屋に入るなり女性はベッドの上に崩れ落ちた。アジア人は放っておく訳にもいかずに、保冷庫からミネラルウォーターを取り出すとコップに注いで倒れ込んだ女性に手渡す。


「――ん。んー。ボトルごと頂戴」

「口拭けよ。こぼれてるぞ」

「いいから水」


 アジア人がミネラルウォーターのボトルを渡すと、女性はそれに口をつけて飲み干した。

 口の端から水がこぼれただらしない顔のまま、またもやベッドに身を投げる。


「ユノの奴、あたしを物のように扱って。後で覚えてなさいよ、あのロシア人」

「飲んで潰れるほうが悪い。これに懲りたら飲み比べなんて馬鹿な真似はやめることだ」

「うっさいわねー。あ、ちょっと出ていくんじゃないわよ。こっち来なさい」


 ぐったりとしながらも女性は高圧的な物言いで部屋を出ようとしたアジア人を呼びつける。


「息苦しくてたまんないわ。上着脱がせて」

「俺はポーターじゃない。自分でやれ」

「出来ないから頼んでんでしょー。早く来なさい」


 とても人に物を頼む態度ではなかったが、アジア人は仕方無く引き返し、女性の着ていたブレザーのボタンを外す。

 最後のボタンを外すと同時に女性はアジア人の手首を素早く掴むと、自分の左胸に押しつけた。不意をつかれて豊かな胸を掴まされたアジア人は対応に一瞬困ったが、そんな相手に対して女性は微笑みかける。


「あたし、ヨハンナよ。呼び方は好きにして」

「何のつもりだ?」


 アジア人はヨハンナの胸から手を離そうとしたが、ヨハンナは両手でアジア人の手首を掴み離させなかった。


「名前、聞いてるのよ。それとも名無しかしら?」

金子直忠かねこなおただ


 アジア人は率直にそれだけ答える。


「離して貰っていいか? それともまだ何かあるのか?」

「なーにとぼけてんのよ。旅先のホテルのベッドで男と女が二人きり。やることは決まってるでしょう」


 ヨハンナはアジア人の手首を引いてそのままベッドに倒れ込む。アジア人はヨハンナに覆い被さる形となったが、直ぐに手をついてヨハンナと距離をとった。


「生憎旅じゃなくて仕事でね」


 そのアジア人の背中に手を回して、ヨハンナが力一杯抱きつく。


「仕事には息抜きも必要でしょ」


 アジア人は頭を胸に挟まれて息が詰まったが、からくも脱出する。目の前、鼻と鼻が触れあうほどの距離にヨハンナの顔があった。


「悪いが、許嫁がいるんだ」


 顔をしかめたアジア人が言うと、ヨハンナは青い瞳を輝かせて奇妙な笑みを浮かべた。


「だったら、こんな手に引っかかったら駄目でしょう? ドクトル三須」


 アジア人――大日本帝国陸軍大尉にして、世界で唯一のシャークハンターである三須宗護みすそうご――の喉元には冷たい銃口が突きつけられていた。

 ドイツが私服警官向けに開発した小型拳銃、ワルサーPPKだ。まさか銃を突きつけられると思っていなかった宗護は静かに両手を挙げてベッドから降りた。


「酔ってたんじゃないのか」

「途中から水だったの」

「銃、下ろして貰えるか?」

「そうね」

「下ろすのか……」


 まさか頼んだだけで下ろして貰えるとは思いもしなかった。ヨハンナは銃口を下げるばかりかワルサーPPKをベッド脇のドレッサーに置いて、宗護にベッドに座るよう促す。

 宗護は警戒しながらもベッドに腰を下ろした。


「あなた、シャークハンターの三須宗護で間違いないわよね」

「違うと言ったら信じてくれるのか?」

「残念だけどあなたの身元は割れてるわ。あたしはヨハンナ――は言ったわね。国家社会主義ドイツ労働者党付きの海洋生物学者よ。海洋生物学に身を置いてる以上、あなたの顔も名前も当然知ってるわ。ドイツでもシャークハンターは有名だもの」


 ヨハンナはそこまで説明すると宗護の反応を待って一呼吸置いた。


「ナチスか」

「あまりその呼び方は好きじゃないわ。略すのならNSDAPエンエスデーアーペーかもっと縮めてNSエンエスが好みよ」


 ヨハンナは笑って見せたが、宗護は訝しげな表情を崩さなかった。

 日本とドイツは友好関係にあったがナチス党員との過度な接触は禁じられていたし、人種差別を公言するナチスと人種差別撤廃を目指す日本とでは根幹の部分でわかり合えていなかった。


「そんな顔しないでよ。確かに総統閣下が無茶苦茶してるのはあたしだって承知の上よ。でもね、世界大戦に負けて以来、ドイツはとんでもなく貧しかったの。大学に入るのも難しかったし、入ったところでお金がなくてろくに研究も出来なかった。それがNSDAPの下でだったら、研究分野が限られるとは言え、あたしみたいのでも学問が出来るのよ。これって凄いことなのよ。なんて言っても分かって貰えないかも知れないけど」

「いや、悪かった。団体と個人は別だ。あんたが――」

「ヨハンナ。名前で呼んで」


 ヨハンナに割り込まれ、宗護は言い直す。


「ヨハンナがNSだろうと、海洋生物学に身を置いているのなら同学の士だ。それで、ヨハンナもサメの研究をしてるのか?」


 宗護の問いかけにヨハンナはかぶりをふった。


「無理無理。サメ研究は海洋生物学の中でもトップクラスの人間にしか勤まらないもの。あたしの専門はタコよ」

「タコ?」


 そう言えばヨハンナが、ビアバーで妙にタコを推していたことを宗護は思い出した。


「そ、タコ。総統閣下の命令でね、タコの足を七本にする研究をしているの」

「あん? 足を七本に? 何でまた?」


 妙ちくりんな研究課題に宗護は首をかしげたが、ヨハンナは至って真剣である。


「八って数字はこっちじゃ縁起が悪いの。日本と違ってね。総統閣下はその辺のオカルトにこだわりがあるらしくて、何とか七本に出来ないか頭を悩ませていたらしいのよ。それで、たまたま海洋生物研究がしたいって申し入れをしていたあたしのところに、その研究テーマが降ってきたって訳」

「一本切り落としたら駄目なのか?」


 宗護は最も安易な解決法を提示したがヨハンナは否定する。


「そういうのじゃなくて、遺伝的に七本にしたいのよ。ズィーベンアームクラーケってタコは知ってる?」

「ズィーベン――。ああ、セブンアームオクトパスか。カンテンダコだな」


 太平洋のやや深い海で良く見つかる、名前の通り七本の足と寒天のようにぶよぶよした体が特徴のタコである。


「そこに答えがあるんじゃないかって調べたんだけど、残念ながらあれは七本足じゃなかったわ。オスのズィーベンアームクラーケが足の内一本を生殖に特化させて、それを外部に露出しないように内側に隠してるだけだったのよ。

 ――とまあ、そういう研究を真面目にやってた訳」


 宗護は本来の生物学者としての知識欲が、ヨハンナの調査したというカンテンダコの生態について強く興味を示していたが、それよりもまず聞き出さなくてはならないことがあった。


「で、結局何が望みなんだ? わざわざビアバーで一芝居うって俺を連れ出したからには何か理由があるんだろう?」


 単刀直入な問いかけに、ヨハンナは手を打って「ああ忘れてた」と声に出し、ドレッサーの上から先程のワルサーPPKを拾い上げた。


「これ、引き金引いたら弾が出るのよね?」

「弾は入ってるのか?」

「入ってるはずよ」

「なら安全装置を外して――その側面のレバーだ。それを上げ――いやそっち方向じゃなくて回すんだ。そうそう」

「上げたわ」

「後は引き金を引き切ればいい」

「なるほど! こうやって使うのね」


 ワルサーPPKの使い方を理解したヨハンナは、早速その銃口を宗護へと向けた。


「鉄の規律という言葉をご存じかしら? ドクトル」


 銃口を向けられたというのに宗護は動じないばかりか、肩をすくめて呆れて見せた。


「もの凄い間抜けなことをしているような気がする」

「あたしもそう思ってきた所よ。あー、もう馬鹿らし。単刀直入に言うわ、ドクトル。あなたは罪を犯した。不法入国、身分証の偽装、ドイツ人婦女子への不埒な行為」


 ヨハンナは銃口を下げて告げる。

 事実、宗護はイギリスからフランスへと偽造パスポートで渡り、そこからまた別の偽造パスポートを使ってドイツへと入っていた。わざわざハンブルクに寄り道したのも、領事館でドイツ国内で使用する偽の身分証を受け取るためであった。


「前二つは認めてやってもいいが、三つ目に関しては断固抗議する。ドイツ人婦女子の方が不埒な行為を強要してきたんだ」

「弁解は裁判所でどうぞ。どんな場合でも、例外は認められないの。罪には罰が必要よ。それこそ鉄のように、規律は固く守られなければならない」


 その割には裁く気が感じられないと宗護は、ついにベッドに投げ捨てられたワルサーPPKを見下ろした。


「ま、鉄と言っても硬いだけが脳じゃないわ。それこそ軟鉄のように、時に柔軟で柔らかく対応することも重要だと、あたしは考えたわけ」

「全く同感だね」

「意見が一致して嬉しいわ、ドクトル。今回の不法入国の目的は、ラインラントの例の生物について調査することでしょう?」

「そんなところだ」


 どこで調べたのか宗護は尋ねようとしたが、ヨハンナが全てを知っているとも思えなかった。どうにもこの海洋生物学者の女は、上から命令されて動いているに過ぎないようだった。


「だったら目的も一緒だわ。あたしはタコの研究をしていた関係で、ラインラントに現れたタコっぽい生物の調査を命じられたのよ。――と言ってもか弱いあたしには、そんな巨大生物の調査なんて一人じゃ出来っこないわけ。後言いたいことは、分かるでしょう?」

「見逃して欲しければ手を貸せと」


 宗護の答えにヨハンナは目の前で人差し指を左右に振って見せた。


「それはちょーっと違うわね。無理にとは言わないわ。見逃すも何も、ドクトルが本気で逃げようとしてたらあたしにはどうしようも無いもの。でも考えてみて欲しいのよ。こそこそと隠れながら調査をするより、NSDAPの正式な許可を得て調査をするあたしと一緒にいた方が、ドクトルにとっても良いと思わない?」


 宗護は考えるそぶりを見せ、ヨハンナの表情をちらと伺った。


「一つ問題点がある」

「勿論、シャークハンターがドイツ国内に潜入していることを口外するつもりはないわ。あたしの上司は知っていたみたいだけど、そっちも内密に話を進めたいからこそ、あたしとあなたをこうして密会させた訳。当然、NSDAP関係者にも国防軍にもドクトルの存在は伏せる。それでも問題があるかしら?」


 ヨハンナの回答は宗護の懸念していた点を全て拭うものだった。

 宗護は口元に笑みを浮かべて、右手をヨハンナに差し出す。


「ヨハンナ博士、是非協力させて欲しい」

「あたしに博士はいらないわ。引き続きヨハンナって呼んで。ま、ともかく、協力に感謝するわ、ドクトル」


 宗護とヨハンナは固く握手を交わした。


「そういやあのユノとか呼んでた北欧の女は?。まさか俺をつり出すためだけに雇ったのか?」

「ああ、ユノ? あの子は海洋生物学の見習いよ。腕も立つから小間使い兼護衛に雇ったの」


 護衛と言われても、あの少女が戦闘に向いているとは考えづらかった。腰に剣など下げてはいたが、今の時代剣一本で守れる物は限りなく少ない。


「信頼できるのか?」

「その点は大丈夫。前々から一緒に行動してたもの。愛想は悪いしすーぐ怒るけど、少なくとも悪人じゃないわ」

「それならいいが」


 ヨハンナが信頼できるというのだから信じるほかないだろう。ここはドイツで、宗護は何をするにも制約がかかる。現地協力者無しで調査を進めるのは至難の業だ。こうしてヨハンナという、怪しげではあるが間の抜けた調子の良い女の協力を得られるのであれば、それに越したことはない。


「じゃあ決定ね。で、ドクトル。どうする?」


 握ったままの手を軽く引いてヨハンナは尋ねた。

 その意味するところが分からず、宗護は尋ねる。


「何の話だ?」

「何って、さっきの続きよ。旅先のホテルのベッドの上で男と女が二人きりよ。今後の親交をより深めるためにも、やるべき事があるでしょう?」


 ヨハンナの返答に宗護は手を振り払い、素早くベッドから降りた。


「悪いが、許嫁がいるんだ」

「日本人はそういう所が堅苦しくて駄目ね。――出発は明朝八時予定よ。隣の部屋をとってあるから好きに使って。気が向いたらあたしと寝てくれても構わないわ」


 ヨハンナは流し目を送って見せたが宗護はまるで相手にせず、背を向けた。


「あ、ちょっと待ちなさい。これ、貸しておくわ」


 立ち去ろうとする宗護に対して、ヨハンナはベッドの上に転がされていたワルサーPPKを拾い上げて差し出す。


「良いのか借りても」

「丸腰じゃ不安でしょ。それにあたしにはそれはどうにも使いこなせないみたいだし、あたしが持ってるよりずっと良いわ。ああ、弾とかも一緒に受け取ってたはずだから探しておくわ」

「至れり尽くせりだな」


 宗護はワルサーPPKを受け取ってグリップを確認すると、安全装置をかけて内ポケットにしまった。


「忘れないで。あたしとあなたは協力関係。調査において指揮は執らせて貰うけど、条件は対等のつもりよ」

「そりゃどうも。ありがたいことだね」

「それはあたしの台詞だわ。それじゃあ今度こそおやすみなさい。良い夢を、ドクトル」


 宗護は軽く相づちを打って返すとヨハンナの部屋を後にした。

 後ろ手で扉を閉めると、廊下を歩いていたユノが慌てて手にしていた物を背中に隠した。


「何を隠した」


 宗護は尋ねながらも、右手は内ポケットのワルサーPPKを握る。


「ウォッカ」


 ユノは小さく答えて、手にしていたウォッカの瓶を掲げて見せた。


「買ってきたのか?」

「買ってきた。わたしの物」


 ユノの答えには、これは自分が飲むものだという強い意志が籠もっていた。慌てて瓶を隠したのも、ウォッカを横取りされるのを恐れてのことだろう。宗護は警戒を緩め内ポケットから手を出す。


「取りはしない」

「そう。それは良かった」


 ユノは小さく、そして短く答えると、ヨハンナの部屋の向かいの扉を開ける。

 しかし宗護の方へ振り返り、半分だけ開いた目で宗護の姿を下から上に眺めると、また小さく声を出した。


「ヨハンナとは寝なかったの?」

「寝なかった」


 宗護の答えに、ユノは首をかしげて問いかける。


「わたしと寝る?」

「寝ない」

「そ」


 ユノは宗護の答えに特に感情を示すこともせず、そのまま部屋に入って扉を閉めた。

 いまいち何を考えているかつかめない少女だ。しかしヨハンナと行動を共にする以上、ユノともうまくやっていかなければならない。


 全ては【サメ機関】より命じられた、ラインラントに出現した謎の生物の調査及びその撃滅任務を完遂するため。恐らくはサメだろうと宗護は予想をつけていた。

 問題は、どのようなサメであるか。

 場合によってはドイツ軍の協力を得なければならなくなるだろう。

 しかしそれを判断するには、今の宗護には情報が少なすぎた。

 何よりもまず明日から、ヨハンナと共に謎の生物についての情報を収集することが重要だ。


 そのために今は、体をゆっくり休めなければならない。軍人にとっては休息も大切な仕事である。

 これと言って荷物もなかった宗護は、あてがわれたホテルの一室に入ると内装の調査もそこそこに、ベッドに横になり目を閉じた。

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