シャークハンター SharKraken

序章 ハンブルク夜会

序章 ハンブルク夜会①

 一九三六年三月、ナチス政権下のドイツがロカルノ条約を破棄し、非武装地帯と定められていた、ラインラントと呼ばれるライン川沿岸の一帯へと軍隊を進めた。


 後にラインラント進駐と呼ばれるこの事件は、ドイツより優れた装備と軍隊を持っていたフランスが大戦の勃発を恐れ傍観したこと、大英帝国がヨーロッパ大陸でのフランス一強を危険視した上、ナチスドイツが共産主義の蔓延を防ぐ防壁になると信じ親ドイツ的な判断を下したことから、条約破棄とナチスドイツの再軍備は黙認されることとなった。


 寡兵でもって重要地域への進駐を果たしたこの事件によって、ナチスと党の指導者であるヒトラーの支持率は大いに増し、ヒトラーはカリスマ的指導者としての地位を確かなものとした。


 抑圧され続けた長く苦しい敗戦下の生活からドイツ国民はようやく開放され、ついに自分の足で立ち上がったのだ。


 国内は大いに沸き、今までナチスへの忠誠を誓わなかった者達までヒトラーを神がかり的な指導者として崇めるようになった。

 後日行われたラインラント進駐の是非を問う国民投票では、98.9%もの指示を受けることとなり、ナチスによる一党支配は不動のものとなった。




 それからしばらく時は経ち、一九三六年の初夏。ナチスドイツが次なる戦争に備えて軍備増強を進める中、ことの発端となったかのラインラントの地で、変わった噂が流れるようになった。


 曰く、多数の触手を持ったぬめりのある巨大生物が目撃されたと。曰く、その生物がドイツ軍の軍用トラックを丸呑みにしたと。曰く、その生物はヒトラーが極秘に開発した対フランス戦で用いる決戦兵器だと。


 噂が噂を呼び真偽は定かでは無かったが、現地に取材に訪れた新聞記者は、確かに巨大生物に襲われたらしい牛の惨殺体を発見した。丸太の如き太さのロープでねじりきられたような痕跡の残るその死体に、ラインラント進駐以降センセーショナルな事件が久しくなかったドイツの大衆は興味津々であり、連日ビアホールやバーは謎の巨大生物の話題で持ちきりだった。


「タコよ」

「イカ」


 ドイツ北西部にあるハンブルクの片隅のこぢんまりとしたビアバーのカウンター席で、この場にそぐわない二人の美女が件の巨大生物について言い争っていた。

 二人は周りの目を惹きつける美女であったが、その外見は対照的だ。


「タコだって言ってるでしょ」


 タコ派の女性は典型的なドイツ美人であった。椅子に座っていても分かる長身はメリハリのある魅力的な体つき。美しい金髪を短く束ねて、流行の小さな帽子を斜めに被る。伏し目がちの若干垂れた両の瞳は碧眼で、アルスターヴァッサーがつがれた手元のビールジョッキへ視線を落としていた。口調は強く、感情の起伏の分かりやすい活発な性格の女性だった。紺色のシンプルなスーツとタイトスカートは女性の活発さを更に印象づけている。


「イカはイカ。真実は変えられない」


 対するイカ派は、女性と言うより少女と言った方がしっくりくる小柄な北欧美人であった。タコ派の女性と比較すると可哀想なくらい薄っぺらい体つきをしていたが、華奢な体つきとどこまでも純白な肌はある種危険な美しさを秘めていた。銀糸のように美しく透き通った髪を束ねて片方の肩にかけ、飾り気のないフェルトのベレー帽を被っている。瞳は灰色で感情薄く、半分閉じた目で手元の空っぽになったショットグラスを見つめていた。飾り気の少なく襟の小さい長袖のブラウスと紺色のロングスカートは少女の物静かな性格を良く表していたが、腰に下げた細身の剣だけが異彩を放っていた。


「タコ」

「イカ」

「タコよ」

「イカです」

「タコだって」

「イカです」


 二人は互いに手元を見つめたまま、言葉だけを投げつけ合う。

 しかしやがて、イカ派の少女がショットグラスでカウンターをどんと叩いた。


「一番強いのを」

「同じ物を」


 物静かに見えた少女がふっかけた飲み比べに、タコ派の女性がのった。美女二人は一瞬ちらとだけ互いに視線を合わせ開戦の合図とした。

 バーテンダーはショットグラスになみなみウォッカを注いで二人の前に同時に置く。

 直ぐさまイカ派の少女がショットグラスを手にとって、その中身を一気に飲み干した。


「イカ」


 空になったショットグラスをカウンターにとんと置いて宣言する。

 対するタコ派も負けじとショットグラスをあおってウォッカを飲み干して、グラスをカウンターへ叩きつける。


「タコよ」


 空っぽのショットグラスにバーテンダーがウォッカを注ぐ。

 街で持ちきりの巨大生物を話題に、美女二人が飲み比べを行う。

 突然降って湧いた娯楽にビアバーに居合わせた客達は白熱し、賭けを始めた。元締めはバーの店主だ。用意されたビールの空き箱に参加費と賭け金が次々と積まれていく。


 四杯、五杯とウォッカが飲み干されたがどちらも余裕綽々といった具合だ。

 二人の周りは人垣で溢れ、大勢の男達が賭け金を張った女性を応援する。

 賭けはタコ派優勢であった。体つきと見た目の年齢からの判断だろう。イカ派の少女は二十歳を超えているかどうかも怪しい体つきでどうにもひ弱そうである。いくら北欧出身者がアルコールに強いといえど、子供と大人ではどうしても差が出る。


「なあアジアの兄ちゃん。あんたはタコとイカ、どっちだと思う?」


 赤ら顔のすっかり出来上がった中年男性が、ビアバーの隅の席でアルスターヴァッサーをちびちび飲んでいたアジア人の男性に声をかける。

 精悍な顔立ちで、髪を短く刈り上げた黄色人種。スーツを着込み商人のように装っていたが、発達した肩の筋肉は最近まで陸軍に所属していたことを如実に語っている。


「ああ、ドイツ語が分からなかったか?」


 回答が返って来なかったことに中年男性は肩をすくめたが、アジア人は顔を上げて答えた。


「いや、すまない。ちょっと考え事をしていたもので」


 アジア人のドイツ語は辿々しかったが、十分に意思疎通は出来た。中年男性はにやりと笑って再び尋ねる。


「それで、どっちだと思う? タコかイカか。あんたも賭けたらどうだい」

「悪いがそれは出来ん」

「ほう。それはまたどうして? 賭け金を失うのが怖いか?」


 中年男性の皮肉めいた物言いにもアジア人は動じず、むしろ口元に小さく笑みすら浮かべて見せて答えた。


「タコでもイカでもないからだ」

「おいおい何を言い出すかと思えば。多数の触手を持ってぬめりのある生き物だぜ? そりゃもう、タコかイカかしかないだろう? どっちでもないとしたら、あんたは何だと言うつもりなんだ?」


 怪訝な顔で尋ねる中年男性。

 しかしアジア人男性は真剣な表情のまま、鋭い目線を中年男性へ向けると、こともなげに答えた。


「決まってる。サメだ」

「サメ? あんたサメといったか? 触手の生えたぬめりのある生き物がサメ?」


 困惑する中年男性。アジア人は頷くだけだった。

 アジア人が大真面目にそう言い切っているのだと察した中年男性は、アジア人に背を向けて声を張り上げる。


「おいおいみんな聞いてくれよ! このアジアの兄ちゃんおかしいぜ!」


 どたん。

 中年男性の声に耳を貸す者はいなかった。

 飲み比べをしていた女性の片方が、ウォッカの注がれたショットグラスを手にしたまま椅子から転げ落ちたのだ。

 もう片方は手にしたショットグラスを大勢の見つめる前で悠々と飲み干して見せ、空になったショットグラスをカウンターにそっと置いて宣言した。


「これで決まり。イカ」


 イカ派の少女に賭けた男達は歓声を上げ、タコ派の女性に賭けた男達はその場に崩れ落ちた。一時ビアバーを騒がせた美女二人の争いに決着がついたのだ。


「残念だったなサメ派の兄ちゃん。勝ったのはイカだそうだ。じゃ、勝ち金を受け取って来ないとだから」


 中年男性はアジア人男性に別れを告げるとその席を後にした。

 アジア人は残っていたアルスターヴァッサーを飲み干すと、馬鹿騒ぎを続けるドイツ人の人だかりをかき分けてバーテンダーの元へ向かう。

 イカ派の少女は空になったショットグラスにまたウォッカを注がせてそれを一口で飲み干す。見た目に反して相当な酒豪であった。


「支払いはヨハンナが起きてからさせる」


 少女の言葉に、バーテンダーは首を振った。


「いえお代は結構。参加費で十分元は取れましたからね。それよりそちらのご婦人はそのままで大丈夫ですかな?」

「大丈夫だと思う」

「――大丈夫じゃない……」


 床に転がる女性はか細い声で反論した。少女はその声に小さく舌打ちして、隣に立っていたアジア人へと感情の薄いか細い声を投げかけた。


「宿まで運ぶのを手伝って貰っていい?」


 突然声をかけられたアジア人は一瞬戸惑ってみせたが、やがて首を縦に振った。


「ああ、喜んで」


 アジア人はアルスターヴァッサーの代金をカウンターに置くと、転がっていた女性の肩を持って、なすがままにされる女性をビアバーから運び出した。

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