第10章 決戦ブレードシャーク後編
宗護は南洋の暖かい海にゆっくりと沈んで行く。
体は熱を持ち、血液が沸騰しそうなくらい熱くなる。
左手に持った軍刀の柄をもう一度深く握り直す。
静かに目をあけると、海は青く、そして暗い。
曇天の空から差す微かな光のおかげで天地は分かったが、海中では重力の感覚が鈍る。
だがのんびりとはしていられなかった。
宗護が海中にいられる時間は限られている。
そして何より、奴が――ブレードシャークが待っていてはくれない。
――思った通りだ。
何処までも青い海の向こうから、ブレードシャークの巨体が姿を現す。
こうして直接相まみえるのはこれで三度目。
一度目は空で、二度目は陸。
どちらもブレードシャークが本領を発揮できる場所では無かった。
だが今回は違う。ブレードシャークが三度目の決闘の場所に選んだのは、四億年前からサメの絶対支配下にある海だ。
宗護の目に映るブレードシャークの姿が段々と鮮明になっていく。
四メートルを超える白銀色の吻。
これからこれを相手に、宗護は僅か刃渡り九〇センチの軍刀で戦わなければならない。
ブレードシャークは凶悪な歯を生やした口で歪な笑みを浮かべる。
つぶれた左目と、闇の底のように真黒な右目が宗護を睨む。
憎悪と殺意の浮かぶ、獲物を見やる狩人の目。
だがその瞳に、本来古代サメが持ち得ない感情が浮かんだ。
海の絶対王者として君臨する古代サメにとっては無縁な感情。それは――恐怖。
ブレードシャークは宗護の姿に、生まれて初めて”恐怖”を感じた。
闇の底よりなお暗い、空虚と絶望のみが浮かぶ真黒な瞳。
宗護の左目は今や本来の姿をなさず、サメの持つものと同じ、小さくそして何処までも黒い瞳をしていた。
【どうした? 俺が怖いか、サメ野郎】
棘のある鋭利な歯を見せて宗護は笑った。
宗護の体をむしばむ、古代サメの毒。
その毒が、故郷である海に帰ることで命を取り戻し、宗護の左半身を古代サメ化させていたのだ。
宗護の左手はざらざらとしたサメの皮膚に覆われ、肺の外に開いたエラからは海水を、そしてそこから酸素を取り込む。
宗護の放つ威圧感は、ブレードシャークより明らかに上位の古代サメのもの。
ブレードシャークは気圧され、恐怖し、攻撃を躊躇した。
だがブレードシャークは強靱な意志で恐怖を振り切った。
ブレードシャークとて古代サメである。海の絶対王者として、この世のあらゆる海の頂点に君臨すべく蘇った種族である。
そして何より、ブレードシャークは強敵との戦いを欲していた。
自分の存在すら否定するような好敵手との戦いを。
ブレードシャークの真黒な瞳に、新たな感情が宿る。
闘争心と虚栄心。
それでも頭は冷静だ。狩人の本性が、迂闊に攻めると危険だと告げている。
一〇メートルの距離をとって宗護の周りを旋回するブレードシャーク。
確かに宗護は異質な存在。半身は人でありながら、半身はサメ。
それは言ってみればどっちつかずということだ。いかに半身がサメといえど、半身が人である以上、水中での機動力はサメのようにはいかないはずだ。ブレードシャークはそう読んでいた。
ブレードシャークは宗護の力を確かめるように周りを旋回し続けた。
【来ないならこっちから行くぞ】
宗護が左足を振るうと、一瞬にしてブレードシャークの間合いギリギリまで距離を詰めた。驚愕に目を見開いたブレードシャーク。その目前から宗護の姿が消える。
【こっちだ!】
ブレードシャークの頭上を押さえての、上段からの振り下ろし。
宗護の左半身はサメの持つ特有の表皮形状を有し、海流をその表面で小さな渦に分解することで、海中での自由自在な動きを可能にさせていたのだ。
古代サメ化した左手で振るわれた軍刀は海を切り裂き、空気の刃となってブレードシャークを襲う!
ブレードシャークは胸びれと尾びれを使って即座に身を翻すと白銀の吻でそれを弾いた。しかしその瞬間には宗護はブレードシャークの間合いの深いところまで踏み込み、下あごを切り裂きにかかる強烈な斬り上げを放っていた。
身を縮ませて吻の根元で受けるブレードシャーク。安直な受けを宗護は見逃さず刃を滑らせたが、ブレードシャークは咄嗟に上昇し体をひねり、吻を小さく振って反撃にかかる。
隙の少ない攻撃を宗護は紙一重で回避し、瞬間的に加速してブレードシャークの間合い内側に入り込んだ。
脳天を狙った一撃を放とうとした宗護。その体が突然痙攣した。――電撃だ!
命令発信や妨害電波に使用できる電波は、極近距離の敵の動きを一時的に奪う威力すら持ち合わせていたのだ!
硬直を狙って振るわれる渾身の威力を持った白銀の吻。宗護はそれを避けず、軍刀を横にして受け止めた!
海中でぶつかった二つの刃から青白い電光が弾ける!
海中において力は互角だった。
宗護の持つ古代サメの力によって振るわれたサメの血を受けた軍刀は、ブレードシャークの白銀の吻と同等の威力を持っていたのだ!
どちらともなく相手の武器を弾いて距離をとる。
またしても互いの距離は一〇メートル。
宗護は一度頭を冷静にして戦況分析を行う。
一見宗護有利のように見えるが、実際はそうではない。
瞬間的な機動力では宗護に分があった。先程体を一瞬動かなくした電撃も、来るのが分かっていれば硬直は最小限まで抑えられる。力は互角。どちらの攻撃も、一刀で相手を戦闘不能にする威力が十分にある。
それでも宗護が絶対有利と言えない理由は、サメ化した左半身が原因だ。
宗護は左半身をサメ化することによって一時的に海中で古代サメを圧倒できる能力を得ている。だがそれは諸刃の刃。
活性化した古代サメの毒は今も宗護の体を蝕んでいる。宗護は長年の修行の末にそれを自力で押さえ込む手段を身に付けていたが、長時間にわたって古代サメの力を引き出し続ければ、いずれ力を取り戻した古代サメが宗護の体を乗っ取り、支配下に置くだろう。
そうなってしまったら全てが終わりだ。故に、宗護は長時間古代サメ化していることが出来ない。そして海中で古代サメの力を失ったらどうなるか――。
答えは明白だ。海中で人間がサメに勝てる訳が無い。それは太古の時代より変わらない絶対の法則だ。相手はワニでは無いのだから。
残された時間は僅か。
幸い、ブレードシャークは宗護の存在に恐怖し、恐怖を覚えた自分自身にまた恐怖している。恐怖することを恐れる生物は、一度恐怖したら最後、無限に続く恐怖の連鎖に引きずり込まれその身を滅ぼす。
次の攻撃で攻め切る!
宗護は決心を固め、人間の体が耐えられるギリギリの温度まで血液を暖める。
サメは温血動物だ。
海の中において血液の温度を高く保つことにより、冷血動物である他の魚類を圧倒する速度で動くことが出来る。サメが巨大な体を持ちながら俊敏な小魚を追い回せるのは一重にその血液温度によって筋速度を高めているからに他ならない。血液の温度が一〇度上がるだけで、運動速度は三倍にも跳ね上がるのだから。
【さあ、これで決着だ!】
血液の沸騰により深紅に染まった視界を真っ直ぐブレードシャークへ向け、大きく水をかいて突進をかける!
間合いギリギリまで踏み込み、吻が振るわれる瞬前に身を翻した。
ブレードシャークの潰れた左目の死角を利用し背後へ回り込む。
だがブレードシャークはノコギリサメ。電磁波を使って泥の中から獲物を探し出す夜のハンターだ。
宗護の動きは吻の持つ電波感知機関によって鋭敏に捉えられていた。
尾びれを切断せんと振りかぶった宗護に対して、ブレードシャークは一八〇度急回転しての横切りを放つ!
必殺の一閃――かと思われた。
しかしその一太刀は、軍刀によって受け止められていた。
ブレードシャークが電波を武器として利用してくることは当然予測していた。あえて隙を見せることで、渾身の一撃を引き出したのだ!
軍刀の横腹で受けた白銀の吻を、宗護は滑らせる!
海中でもお構いなしに、古代サメ化した半身で海を蹴って前進する。必殺の一撃の威力を吸収し、雷光の如き速度で軍刀が振るわれる!
ブレードシャークは尾びれを振るい、威力を殺された白銀の吻を無理矢理に押しつけた。力の失われた白銀の吻に、新たな運動エネルギーを与えたのだ!
しかしその選択はあまりに愚かだった。
宗護の必殺の剣は相手の攻撃の威力を利用して放つもの。力を加えれば加えるほど、返しの一撃は強力になる。
そしてなにより、古代サメの力を限界まで引き出した今の宗護に、返せない攻撃など存在しなかった。
苦し紛れの電撃が放たれたが、宗護は痛みを無視し、雷光そのものとなった軍刀を振り抜いた!
――シャン。
薄い金属を切り裂いたような鋭い音。
ブレードシャークの攻撃を全て吸収した必殺の一太刀は、白銀の吻を根元から見事に切断せしめていた!
痛み、驚愕、恐怖。そして死。
死を恐れる生物の絶対的な意思が、ブレードシャークをかつて無い早さで待避させた。
あまりに強力な一撃を放った宗護はその強大な反動で追撃が遅れ、ブレードシャークを取り逃がす。
――こんな状態で何処へ逃げる気だ?
深紅に染まった視線でブレードシャークの行く先を睨む。
ブレードシャークは海面を目指していた。
――海面に飛び出したら、上で待機している春風の良い的だ。
そう思い宗護が見上げた先は、唯一春風の攻撃出来ない聖域であった。
そこにいたのは、未だに海上に浮かんでいた少年だった。
――あの馬鹿野郎!
少年は何を思ってか春風に避難せず、海面で溺れているかのように浮き沈みを繰り返している。あそこに対してだけは、春風は攻撃を仕掛けられない!
――まさか人質を盾にするつもりか!
宗護は全速力でブレードシャークの後を追った。
――なりふり構わずとはこのことか! ブレードシャークめ、遂に狩人としての誇りを捨てたか!
怒りに震え、限界を超えた速度で海面を目指す宗護。
その眼前にブレードシャークの潰れた顔が現れた。後先考えず後を追っていた宗護の目前で、急遽一八〇度回転して見せたのだ!
――馬鹿なっ!
宗護は思わず軍刀を振るうが、突然の事態に慌てて振るった威力の無い一撃は、ブレードシャークの二列ある歯でがっちりと挟まれた。
この土壇場で、ブレードシャークは宗護を罠にかけたのだ!
少年を餌に宗護を海中へ引きずり込んだブレードシャークは、少年に宗護を釣上げる餌としての価値が十分あったことを確信していた。それを利用し、宗護から迂闊な行動を見事引き出して見せたのだ!
がっしり挟まれた軍刀は押しても引いても動かない。
この体勢はブレードシャークにとっても諸刃の剣。攻めと守り。どちらでもありどちらでもない。一瞬の気の緩みで、どちらが生き残るかが決定する。
ブレードシャークが歯を離した瞬間どう動くか。
歯から解放された宗護の軍刀がどう振るわれるか。
そしてこの体勢は長く続かない。
軍刀を受け止め歯を食いしばるブレードシャークの鼻先からは、今もなお、おびただしい量の血液が流れている。とてもこのまま長期戦にもつれ込むことは出来ないのだ。
一瞬の静寂――。
打ち破ったのは、アオザメの咆哮だった。
残された短い鼻先を使って、ブレードシャークが近くにいたアオザメを一匹呼び寄せたのだ!
突然背後から奇襲を受け、宗護は判断が遅れた。
【失せろ!】
一喝してアオザメを追い返したが、その瞬間ブレードシャークが口を開いた!
――甘く見られたな! これしきのっ――
反撃体勢に移ろうとした宗護の体を電撃が貫く。
鼻先に溜め込んでいた電気を一気に開放した、ブレードシャーク最後の電撃!
一瞬だけ宗護は体を硬直させる。
たった一瞬。だけれど、この極限の勝負の勝敗を分けるには十分だ。
恐怖を抱えていたブレードシャークの真黒な瞳から、恐怖が消え去った。代わりに現れたのは、あふれ出んばかりの優越感。狩人が獲物を仕留める瞬間に発する、特有の感情。
勝利を確信したブレードシャークは、遂に宗護の体にその凶悪な歯を突き立て――
――ザクッ。
ブレードシャークの動きが一瞬止まった。
その脳天に、何かが突き刺さったのだ。
それは三八式歩兵銃の先に取り付けられた、刃渡り四〇センチほどの銃剣。意を決して潜水してきた少年が、ブレードシャークの脳天に銃剣を突き立てたのだった。
【失せろと言ったはずだ!】
だが宗護はその隙を見逃さなかった。
痛みと死への恐怖から無茶苦茶に暴れ回るブレードシャークの鼻先へ、一直線に突きを繰り出す。
最後の一撃は吻の切断された傷口から差し込まれ、銃剣が到達しえなかったブレードシャークの脳を正確無比に突き刺した。
暴れ回っていたブレードシャークの巨体が大人しくなり、頭部から甚大な量の血液を吹き出す。
それは、生物としての終わり。いかに恐ろしい力を秘めた古代サメといえど、脳天を貫かれてしまっては生きていくことは出来ない。
絶命して生物としての最期を迎えたブレードシャークは、何処までも続く暗く、深い海の底へとゆっくりゆっくりと沈んでいった。
宗護は引き抜いた軍刀を持ち直すと、這々の体でブレードシャークの脳天から銃剣を引き抜いた少年の体を抱えて海面へ浮かんだ。
「馬鹿野郎! どうしてさっさと逃げなかった! 水中でサメと戦う馬鹿があるか!」
海面に上がる頃には宗護は古代サメ化を解除し普通の人間に戻っていた。古代サメの痕跡は左腕の古傷以外は消えて無くなっている。
怒鳴られた少年だが、ブレードシャークが暴れた際に全身に打撲を負っており直ぐには返答できなかった。
それでも数回呼吸をして息を整え、宗護の耳元で小さく声を発した。
「宗護さんだって……」
「口答えをするな、命を粗末にする半人前め! 自分も大切に出来ない人間が、どうやって他人を守ると言うんだ!」
宗護は抱えていた少年の体を締め上げる。打撲を負っていた少年は苦痛に悲鳴を上げたが、宗護は容赦なく締め上げ、そのまま春風の元へと泳いでいった。
二人は春風に救助された。少年の怪我は多数の打撲だけで、命に別状は無いようだった。
宗護は一見無傷であったが、長時間古代サメ化を保ったため血液温度が高くなり、酷い頭痛と吐き気を催していた。それでも強がって平気な風を装っていたが、顔色はどうしても優れない。
「大丈夫ですか、宗護さん」
「半人前はまず自分の心配からしろ。何時から他人の心配を出来るほど偉くなったつもりだ」
冷たく突き放し、駆けつけた軍医に少年を先に見るよう促した。少年は診察を受けるため持っていた三八式歩兵銃を宗護へと渡す。
「宗護さん。これですが」
「海水につけたから直ぐに手入れしないと使い物にならなく――」
差し出された三八式歩兵銃の不自然な光沢に宗護は己の目を疑った。異常体温と酸素欠乏で頭がぼんやりとしてはいたが、それを差し引いても明らかに光沢がおかしい。
宗護は三八式歩兵銃を受け取ると、その銃剣の先で三八年式実包を撫でる。
するとまるで羊羹か何かを刃物で小さく分けるかの如く、合金で出来た銃弾がすっぱりと切断された。
「古代サメの血か……。あの一撃で、勝負は決していたというわけだ」
古代サメにとどめを刺してその血を吸った武器は、倒した古代サメの力を授かる。事もあろうにこの三八式歩兵銃は、銃剣付き歩兵銃でありながらブレードシャークの力を得てしまったのだ。
「おお、二人とも無事のようだな!」
艦橋から駆け下りてきた艦長が、宗護と少年の元に駆け寄る。
「艦長、報告します。ブレードシャークは――時計を艦橋に置いてきたので正確な時刻は分かりかねますが、先刻確かに撃滅完了いたしました」
「うむ。流石は三須閣下の息子だ! 良くやってくれたな、シャークハンターよ! して、此度の宗吾君の働き、間違いなく勲章物であろうが、何か他に欲しい物があるか? 私から提督に伝えておこう」
艦長の提案に宗護は指を三本立てた右手を前に出して、指折り数えながら答えた。
「希望は三つ。一つ、この鼻垂れ小僧に十分な報償を。二つ、帰国の際は飛行機が良い。三つ――」
最後の一本。人差し指をぴんと立てた状態で宗護は一呼吸間を開けて、艦長が相づちを打つのを確認してから答えた。
「しばらく眠らせてください。ここしばらく、まともに休んでない」
三つ目の提案に、艦長は満面の笑みを持って応じた。
「勿論。英雄には、休息が必要だ」
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