第5章 無人島の死闘
翌朝、少年が目を覚ますと、既に村木と稲野辺も起きていて昨日とってきた果物をかじっていた。少年も一つもらい受けて平らげる。
「修理は終えたつもりだ。うまく動くことに期待しよう」
修理を終えてふたを閉じた無線機を示して宗護が言った。どうにも徹夜だったらしく目の下が黒くなっていたが、鋭い眼光は衰えていない。
「準備が出来たらこいつを運ぶのを手伝え。北東の方角にアンテナを立てなければいけない」
「はい」
少年はキャラメルを一つ口に運ぶと立ち上がって、宗護の元へと歩み寄った。
無線機とそれを受け取るコロール、もしくはペリリュー辺りの無線基地の間に障害物があってはいけない。偵察機に積まれて空を飛んでいる状態なら気にすることも無かったが、地上から発信するとなれば話は別だ。辺りを木々に囲まれた森の中から発信は出来ない。少なくとも、北東側に視界の開けた海岸まで移動しなければならなかった。
無線機を宗護と少年が運び、村木と稲野辺は手回し発電機を運んだ。
一つしか無い機材。どちらも慎重に森の中を運び、ようやく砂浜まで出た。
東の空は段々と明るくなっている。時期に太陽も顔を出すだろう。
アンテナを北東方向に立てると、宗護は下準備していた無線内容を記した紙を広げる。
平文でも良かったが、念のため暗号を使った。古代サメの出現が他国に知れると何かと厄介である。今や古代サメの存在は一国の情勢を動かす重大な要因だからだ。
「よし、回せ」
宗護の指示で、無線機に接続された手回し発電機のクランクを少年は回し始める。最初はゆっくり。次第に速度を増して。やがて無線機のランプが光った。電力の供給は無事に行われている。
宗護は素早くキーを叩いて暗号文を送信する。こういったときの周波数は事前に決めてある。向こうの電信員は二四時間体勢で待機しているはずだ。
発信者、宛先に続いて現在地と簡易的な古代サメの報告。海軍偵察機の乗組員二人が生存していることを伝え、艦船での迎えを要求。艦船は単独行動をしないように、護衛艦を付けるように指示を加え通信を終了。
「返信を待とう」
受信に切り替え、返信を待った。少年はクランクを回し続ける。
やがて無線機が送られてきた電波を捕らえる。面々は通信の成功に喜びの表情を浮かべたが、直ぐに真剣な表情に移り変わって無線内容に全神経を集中した。
「稲野辺、書き写せ」
宗護が指示するまでも無く、稲野辺は通信内容を書き記す。向こうも暗号文で送ってきていた。通信が途切れると稲野辺は暗号の解読に移る。宗護と少年は無線機に張り付いたまま、続いての通信が無いか耳を澄ましていた。
「コロール泊地より、了解、そこで待て、とのことです」
稲野辺が返信内容を報告すると、一同はようやく力を抜いた。無事に通信は成功。
今日中に迎えは来るだろう。宗護と少年は昨日の今日だが、村木と稲野辺にとっては五日ぶりの帰還である。
「いやあ良かった。何とかなりそうだ」
村木は喜び、稲野辺と肩を組んで喜び合う。
「これで帰還出来ます。米田の死体が回収できなかったのだけが心残りですが」
二人はサメの襲撃で命を落とした観測員の死を悼む。
そんな稲野辺に宗護は信号銃を差し出す。
「まだ喜ぶのは早いぞ。迎えに来た船にこっちから合図をしてやらないと。それに、船を寄せられる海岸の場所も調べないとならん」
信号銃を受け取って、稲野辺は自慢げに頷いて見せた。
「船の寄せられる海岸でしたら調査済みです。北側の湾になら小型船を寄せるのは容易いでしょう」
「ほう。仕事が早いな」
「伊達に四日も――いえ、五日も無人島暮らしはしていませんよ」
北側の海岸を示す稲野辺。村木もうんうんと頷いた。この二人もただただ無為に過ごしていたわけでは無い。救援が到着した際に必要となる情報を収集していたのだ。
「心強い限りだ――」
二人を褒めようとした宗護の左半身が、突然電気が走ったように痙攣した。深紅に染まった視界を海へ向けるのと同時に、大声で命令を発する。
「森へ逃げろ! 今すぐ!」
何が起こったか分からない面々であったが、この場の責任者は間違いなく宗護であり、上官の命令に従うのが軍人の勤めだ。
命令を下された三人は反射的に体を動かして森へと向けて走り出す。
宗護の目が海面につきだした背びれを認めると同時に、その背びれは浮き上がり、本体が姿を現した。
四メートルを超える白銀色の吻がぎらめく。確認するまでも無い。あの巨大ノコギリサメだった。
飛び出した巨大ノコギリサメは宗護の予想を遙かに超える速度で低空を飛行して、宗護の頭の上を飛び越えた。
「伏せろ!」
命令もむなしく、宗護の声が届くより、白銀色の吻の先端が稲野辺の脇腹を捕らえる方が早かった。そのまま吻が横薙ぎに払われて、稲野辺の脇腹右半分が切断される。稲野辺は悲鳴を上げることも出来ずにその場に倒れ込んだ。
振り返った村木と少年は巨大ノコギリサメに正対し後ずさる。二人は巨大ノコギリサメに対抗できる武器を持っていなかった。為す術もなく、背中を見せて逃げることも出来ず、驚愕と恐怖に包まれてじりじりと後ずさる二人。巨大ノコギリサメはそんな二人に闇の底のような漆黒の瞳を向ける。
瞬間、乾いた銃声が響いた。
宗護が三八式歩兵銃を発砲したのだ。
距離は七メートル。体長一〇メートルを超える相手に外す方が難しい距離であった。ただ、サメの表面は硬い表皮に覆われていた。6.5ミリの三八式実包では力不足である。
尖頭銃弾が表皮に食い込み、毛細血管を傷つけて若干の出血をさせたものの、巨大ノコギリサメの巨体からしてみれば虫に食われたようなものだ。
それでも巨大ノコギリサメは戦うべき相手が誰なのかを理解した。
胸びれで地面を叩いて浮き上がると空中で一八〇度回転して宗護へと向き直る。同時に振るった吻から稲野辺の血が払われ、白銀色の刀身が海面から顔を出した太陽の光を浴びてぎらりと怪しげに輝いた。
「稲野辺を連れて森へ逃げろ! こいつは俺が引き留める!」
今度の命令に二人は躊躇した。この化け物と一対一で戦って生き残れる人間がいるとは思えない。
「急げ! 命令だ!」
重ねられた命令に、まず少年が反応して稲野辺へと駆け寄った。遅れて村木が駆け寄ると、止血もままならない状態で重傷の稲野辺の体を引きずって森へと向かう。二人に戦うすべが無い以上、こうする他になかった。
宗護は二人の行動に満足して、正対する巨大ノコギリサメを睨む。
「また会ったな、サメ野郎」
宗護は三八式歩兵銃に着剣した。間合いは一メートル六六センチ。四メートルある巨大ノコギリサメの吻と渡り合うにはあまりに短い。だが宗護は少しでもこの古代サメの注意を引きつけて置かねばならない。
的は大きい。必中の距離であった。
しかし問題は、当てたところで大したダメージにならないこと。どうしても弱点を狙い撃つ必要があった。硬い表皮に守られず、柔らかい肉が露出している場所。狙うべき場所は考えるまでも無い。闇のように真黒な両の瞳か、横に大きく開いた口。どちらかに当てなければ奴はその強力無比な吻で攻撃を仕掛けてくるだろう。
照星を覗いている余裕は無い。
宗護は一挙動で三八式歩兵銃を構えると引き金を引いた。
狙いは寸分違わず巨大ノコギリサメの左目へ真っ直ぐ銃弾が飛ぶ。
だが、その銃弾は軽く振るわれた吻の先に弾かれた。
「化け物め!」
まさかこの距離でそんな器用な真似が出来るとは!
宗護は驚愕に両目を見開いた。だが戦う意思は失っていない。
その両目は胸びれで砂浜を叩いて飛び上がった巨大ノコギリサメを正確に捉えている。
真上から振り下ろされる一刀を宗護は砂浜を転がって回避した。続いて横薙ぎの一閃。振るわれた吻の衝撃で砂が巻き上げられ空気が震えた。
飛び上がり攻撃を回避し三八式歩兵銃を構える。横を向いているため目も口も狙えない。
「ならばエラを狙うまでだ!」
頭部の後ろの切れ込みのように見える部分。ここならば銃弾も貫通するだろう。そして貫通した先は肺だ。
銃声が響く。
巨大ノコギリサメは放たれた銃弾を見ることも無く転がって避けた。そして砂浜についた片方の胸びれを使って飛び上がる。
空中でひねりを加えながらの一閃。
袈裟懸けに振るわれた一刀を宗護は全力で走ってからくも回避し、反撃に移ろうとした。
だが巨大ノコギリサメは着地の勢いをそのままに真っ直ぐ宗護へと突っ込んできた。接近戦を強いてきたのだ!
「面白い!」
鋭い突きを宗護は軽く躱して、間合いに踏み込むと銃剣の突きを繰り出す。
巨大ノコギリサメは尾びれを使って後退し突きを避けると吻を横に払った。
宗護はあえて前進して吻の根元を銃剣で受ける。重心の都合でこの場所には力が大して加わらない。横薙ぎの攻撃をいなしてその下をくぐり抜けると、宗護の目の前には大きく巨大ノコギリサメの凶悪な口が広がっていた。
狙いも付けず発砲。
銃弾は苦し紛れに口を閉じようとした巨大ノコギリサメの歯に当たり砕いたが、それ以上にダメージを与えられなかった。サメにとって歯はいくらでも換えのきく消耗品だ。
次弾を撃ち込もうとボルトを下げて薬莢を排出する隙に、巨大ノコギリサメは横転してまた飛び上がった。
比較的柔らかい下腹を狙って射撃したが、巨大ノコギリサメが身をひねったため銃弾は浅く皮膚を薙いだだけだった。
砂浜に着地した巨大ノコギリサメは身をよじって後退し宗護との距離をとる。
互いの距離はおよそ一〇メートル。
宗護にとって必中の距離で有り、巨大ノコギリサメにとっても一息で攻撃の届く間合いだ。
これまでの経緯から宗護は互いの戦力を分析していた。
力は明らかに相手が上だ。もしあの吻の最も力の加わるであろう先端付近を貰えば、銃剣ごと叩き切られても不思議は無い。
だが陸上で戦う以上地の利は宗護の側にある。サメは本来海の生き物だ。それに剣術家としても優秀とは言えない。攻撃は単調で、剣術に習熟した宗護にとっていなすのは容易かった。
空薬莢を排出し装弾子を取り出して給弾する。ボルトを押し込んで初弾装填すると宗護と巨大ノコギリサメの陸上戦が再開された。
胸びれで砂浜を叩いた巨大ノコギリサメは超低空を滑空し宗護の右側面へと移動する。
宗護は三八式歩兵銃を構えながらも直ぐに回避に移れるよう周囲の地形を観察し、いよいよ左の胸びれで波打ち際を叩いて飛び上がった巨大ノコギリサメの攻撃を見極めようと目を見開いた。
巨大ノコギリサメは真っ直ぐ宗護へ向かい、されど直前で着地すると真上へ飛び上がった。
「何――」
巨大ノコギリサメを追おうと見開いた宗護の両目が白く、真っ白に染まった。
今まで巨体で隠されていた太陽を直視してしまったのだ!
思わず太陽に灼かれた目を細め、直感だけで回避行動に転じた。一歩後ずさり、素早く横方向へと身を投げる。
一回転して起き上がると多少ましになった視界で巨大ノコギリサメの影を捉えて低い姿勢のまま数歩走った。
その真上から巨大ノコギリサメの袈裟斬りが襲いかかる。からくも回避したが、直ぐに二撃目。半回転しながら突き出された吻が宗護の右肩を嘗めるように貫く。
服が破れ、肉を裂かれた肩から出血する。
幸い骨まで達してはいなかった。痛みに顔を歪めながらも宗護は直ぐに横に身を投げてでたらめに照準して発砲。
銃弾は巨大ノコギリサメの鼻先を掠めた。宗護は体勢を立て直すと森へ向かって走る。
地の利を最大限に活かさなければ勝機は無い。相手が太陽を利用したように、宗護は森を利用するつもりであった。木々の生い茂る森であの巨体は不利だ。
追ってくるならば地の利を活かし追い返す。追ってこないのであれば海軍の迎えが来るまで森に立てこもれば良い。
だが巨大ノコギリサメがどちらを選ぶか宗護ははっきり理解していた。
森に入った宗護を追って、巨大ノコギリサメが飛び上がる。
地面を嘗めるような低空飛行だ。そして森の入り口に達すると吻を横に払って木々をなぎ倒す。すっぱりと切断された三本の木がミシミシと音を立てながらゆっくり倒れた。
「やはり追ってきたか。いいだろう、受けて立つ」
先の一閃は試し切りだろう。
森の木がどれほどの強度を持っているのか確かめたのだ。若い木を同時に三本なら優に切断できる。半日も暴れればこの島は丸裸になるであろう。
がっしりした根をした太い幹を持つ木の裏に駆け込んだ宗護は、木の隙間から狙いを定めて発砲した。発砲の反動が右肩の傷が開き血を噴出させる。痛みに顔を歪めながらも銃弾の着弾を見やった。
銃弾はやはり吻によって弾かれる。不意をつかなければ通用しないのだ。
巨大ノコギリサメは地面すれすれを移動して木を薙ぎ払った。しかし幹の太い木は一刀で切断しきれず皮一枚残して吻が止まった。
これを待っていたと、宗護は飛び出した。この機会を逃してはならない。冷静に巨大ノコギリサメの目を狙って引き金を引いた。
巨大ノコギリサメは吻に力を込め木を切断せしめるとそのまま身をひねった。銃弾は命中したが目の後ろ。それも角度が悪く表皮を傷つけただけだった。
振り切った反動を利用して巨大ノコギリサメは攻撃に転じる。短く跳躍しながらの横薙ぎを宗護は避け、森深くに退路をとる。森が深くなればなるほど宗護に有利だからだ。
「この辺りか」
周囲の木の配置を確認してそれに満足した宗護は、決着を付けるべく追ってくる巨大ノコギリサメを睨んだ。
巨体で木をなぎ倒しながら進んできた巨大ノコギリサメは宗護に向かって跳躍し、上段斬りを繰り出す。
それは宗護が予想していた通りの行動だった。二本の堅牢な木に囲まれたこの場所では横薙ぎに払う事は出来なかったからだ。二本の木に行動を制限された巨大ノコギリサメの目を狙って宗護は発砲する。
ここからとれる回避経路は上に避けるか後ろに下がるか。
さあ、どっちだ――
巨大ノコギリサメは上を選択した。
尾びれで地面を叩き、浮き上がった頭で再び地面を叩き、前転するように宙へ舞った。上に行くほど細くなる木々の間を通り抜けてまたしても上段斬りを繰出す。
宗護は横に避けるだけで良かった。行動の制限される森ではすこぶる攻撃の予想が立てやすい。
エラを狙って発砲。
巨大ノコギリサメもこの攻撃の隙を学習し、下あごを地面にこすりつけて支点として身をよじっていた。正対するのもつかの間、体全体をくねらせて前進した巨大ノコギリサメは横薙ぎの攻撃を繰出す。
宗護はそれをも読んでいた。
地形を利用して上段斬りを誘発させ、その弱点を突いて攻撃することでそれ以外の行動を引き出したのだ。
そしてその横薙ぎの一閃こそ、宗護の反撃の起点となった。
宗護は退かない。それどころか前進して距離を詰める。
巨木も薙ぎ倒す一閃。無謀にも宗護は、銃剣の刃先で白銀の吻を受けた。
正確には受けてはいない。滑らせたのだ。
これこそ宗護が最も得意とする技。敵の攻撃を刀身で受け、その威力を利用して刃を滑らせ一気に間合いを詰める、攻防一体の剣技。相手が剣士ならば一太刀でその手首を切り落とす必殺の剣だ。
ぶつかり合う刃が火花を散らし、宗護は体を滑り込ませる。相手の攻撃の威力を吸収しきった銃剣が空気を震わせて繰り出された。
ザクッ――
会心の一撃は吻の下。巨大ノコギリサメの鼻先を切り裂いた。
深く肉を抉った一撃に巨大ノコギリサメは跳ね上がり、本能が距離をとらせた。
――仕留め損なった。
宗護は目を細めて今し方後退した巨大ノコギリサメを睨んだ。
威力は十分あった。
本来ならば鼻先から脳天にかけて切り裂けた一撃だ。それを巨大ノコギリサメは身を縮めてギリギリで避けた。
人間相手のようにはいかない。分かっていたことではあるが、古代サメ相手の戦闘に絶対は無い。
宗護は空になった弾倉に装弾して相手の出方を覗う。
相手の傷は浅くない。退くことも考えられた。地上で戦うのは分が悪い相手だと、巨大ノコギリサメは理解しているはずである。理性は一度身を退けと告げているはずだ。それでも襲いかかってくるとしたら、凶悪な闘争心かそれとも肉食獣の本能か――。
巨大ノコギリサメは退かなかった。
闇の底のような漆黒の瞳に全てをねじ伏せる殺意をゆらゆらと燃やして、今一度宗護に対して突撃をかけた。
攻撃は上段からの振り下ろし。宗護はこれを横に避ける。
横薙ぎに払って追撃をかけてこない。その攻撃は反撃を喰らうと学習したのだ。
エラへの射撃を防ぐため直ぐ宗護に正対し、体全体をバネに小さく跳躍すると近くの木を薙ぎ払う。
倒れた木がメキメキと音を立て宗護に襲いかかる。既に戦いはお互いの体だけではなく、地形を利用した戦いに発展していた。
倒木の一撃は宗護を行動不能にするのに十分な威力があるだろう。だか木は根元を切断されたからと言ってそう簡単に倒れはしない。枝や葉が周りの木と干渉し合い、音を立てながらゆっくりと倒れる。
宗護には回避方向を見定めてから倒木を逃れる余裕があった。
されどそれは巨大ノコギリサメも理解している。巨大ノコギリサメは体をひねり飛び上がると、空中で一回転して尾びれで倒木を叩いた。
倒木は勢いを増し、慎重に回避経路を選んでいた宗護の真上に襲いかかる。
宗護は窪地に飛び込み倒木を避けた。降り注ぐ小枝が頬を傷つけるがそんなものを気にしてはいられない。
素早く起き上がり、飛びかかる巨大ノコギリサメに対して発砲。これは空中で回転して回避された。
巨大ノコギリサメは真っ直ぐ突きを放った。宗護に向けてではない。その直前の地面に。
掘り返された土が巻き上げられる。砂浜ならともかく森ではその手は通じない。水分を多く含んだ土はそうそう砂のように巻き上がらないからだ。
やはりこいつは海の生き物。宗護は確信した。こいつはまだ、地上での戦いに慣れてはいない。
斜め下からの切り上げ。これは初めて見る攻撃だ。
宗護は後退しつつ攻撃を躱して、振り切った直後の硬直を狙い発砲。右目を狙ったが若干外側に逸れた。
巨大ノコギリサメの吻は両刃だ。前進しながら振り切った吻を戻して袈裟斬りを仕掛けてくる。
目に見えて単調な攻撃だ。油断を誘ったのだろう。
宗護は先ほどの倒木が自身の背後を塞いでいることを確認していた。後ろに飛び上がり倒木を踏み越えて攻撃を避ける。躓いていたら間違いなく勝負は決していたはずだ。
それから後ろに下がりながら発砲。頭部のどこかに当たれば良いと放たれた銃弾は身をかがめた巨大ノコギリサメの背びれの近くを通過した。
宗護は周辺を見渡して、自分が村木と稲野辺が作った小屋の近くまで来ていることを知った。これ以上奥に進むわけには行かない。恐らく村木達はこちらのほうへ逃げているはずだった。
巨大ノコギリサメが体をバネにして真っ直ぐに跳躍する。
一瞬で距離を詰めてからの攻撃は、やはり上段からの振り下ろし。
「甘く見られたものだ」
宗護はにやりと笑った。
空高く飛び上がってからの一撃と比べて、水平移動からの振り下ろしは威力が激減する。
宗護の必殺の一撃は、攻防一体の一撃。
相手の手首を切り落とす一撃ではなく、繰り出された攻撃の威力を殺す技術こそ必殺の剣の神髄であった。
上段からの一撃を宗護は踏み込んで銃剣で受け、直ぐに刃を滑らせた。
振り下ろしの強力な一撃の威力を吸収して、一気に距離を詰める。間合いの差は一瞬で失われ、必殺の威力を持っていたはずの巨大ノコギリサメの白銀の吻は小さな銃剣の上で嘘のように制止した。
宗護の踏み込みは深い。先ほどのように回避を許す気はなかった。この一刀で吻を切り落とし、脳天に銃弾を叩き込む!
にやりと笑う宗護の瞳に、巨大ノコギリサメの漆黒の瞳が映る。
感情など存在するはずのないサメの瞳。その瞳の奥に、宗護の左目は確かにある感情を見て取った。
「こいつ、笑って――」
巨大ノコギリサメは攻撃を回避しようとはしなかった。
むしろ前進して更に宗護との距離を詰めてきたのだ。
宗護の狙った吻の根元を通り抜け、銃剣の切っ先は巨大ノコギリサメの口へと向かう。
そう、口だ。
四メートルを超える日本刀のごとき切れ味を持った白銀の吻。その存在に圧倒されて、敵がもう一つの武器を持っていることを宗護は失念していた。
獲物を食いちぎる、ぎざぎざした凶悪な歯が木漏れ日を受けて怪しく光った。
苦し紛れに放った銃弾は横に広い口の側面に当たる。巨大ノコギリサメの攻撃は止まらない――
銃声が響いた。
宗護の放ったものではない。だが確かに放たれた銃弾が五発、巨大ノコギリサメの下あごに突き刺さっていた。
一瞬のその隙に宗護は後ろに飛び退いて、最後の弾を薬室に送り込むと間髪入れずに発砲した。
狙い澄ました一撃は巨大ノコギリサメの左目を捉える。
漆黒の瞳から、真っ赤な鮮血が吹き出した。
苦し紛れに暴れた巨大ノコギリサメの吻と尾びれの攻撃を宗護は地面を転がって回避。
追撃をかけようと装弾子を取り出すが、巨大ノコギリサメは体全体をバネにして高く高く飛び上がった。
そのまま進路を変えて巨大ノコギリサメは海へと飛んでいった。逃げたのだ。
宗護は三八式歩兵銃に装弾してしばらく周囲を警戒していたが、どうやら本当に逃げたらしいことを確認すると胸をなで下ろす。
極度の緊張と長かった戦いの疲労からその場に崩れ落ちて、先ほど自分を助けた銃弾の飛んできた方角へ目をやった。
そこにあったのは不時着してがらくたと化した九四式偵察機。
その後部座席の旋回機銃にとりついて、興奮した面持ちでこちらを見つめる少年が見えた。
――全く、大した半人前も居たものだ。
稲野辺は村木にとって水上機要員として配属されて以来の相棒であった。
複座の偵察機の頃から共に空を飛んできた間柄だ。
村木は懸命に処置を施そうとはしたが、宗護が持ってきていた簡易救急箱の中身ではとても出血を抑えられず、痛み止めを打つので精一杯であった。
稲野辺は意識を取り戻すことも無く命を落とした。今は簡易ベッドの上に寝かされて、顔の上には薄い布がかけられている。
「待避命令を出すのが遅かった。それに、電波を出す際は細心の注意を払うべきだった」
サメが吻の先にもつ特殊機関によって電波を感知できることは周知の事項であった。それに今回の相手はノコギリサメ。闇夜でも泥の中から獲物を探し出すほど、特殊機関の精度が高いことを宗護は知っていた。
「いえ、三須大尉のせいではありません。むしろ大尉のおかげで、自分は生きながらえたのです」
稲野辺の側で座り込んでいた村木が答える。戦友の死に両目を赤く染めていた。
「大尉殿。どうかお願いです。あのサメを、あの馬鹿げたサメをきっと倒してください」
見上げられた視線を真っ直ぐに受けて、宗護は深く頷いて答えた。
「ああ。元よりそのつもりで、ここまで来たんだ。絶対に奴は仕留める」
「ありがとうございます、大尉殿」
村木は深く深く頭を下げた。宗護はそんな村木の元に歩み寄って、戦死した稲野辺に手を合わせる。目を瞑ってしばらく黙祷した後、立ち上がって小さく語りかけた。
「せめて、本土まで連れ帰ってやろう」
三人は太い枝を二本結びつけて簡単な担架を作ると、簡易ベッドに乗せた稲野辺の体をそこへ固定した。
宗護は海岸近くで巨大ノコギリサメを警戒し、村木と少年は森の中から遠くの海を監視して海軍の到着を待った。
太陽が真上に昇った頃、現れた艦船に向かって宗護は信号弾を打ち上げて、北側の小さな湾へと誘導する。
輸送船を巡洋艦と駆逐艦四隻で防護する船団であった。不時着した四人を救助するにはいささか規模は大きいが、唯一南洋諸島に出現した古代サメを目撃している宗護達にはそれだけの価値があった。
小さな砂浜から九四式偵察機を運び出して輸送艦に積み込むのには多少苦労したが、それでも昼の内には格納が終了し、船団はコロールの泊地へと向かう。
南洋方面艦隊所属の二等巡洋艦【
傷の処置が完了し、報告書の作成も一段落して筆を休めているところに、少年がやってきた。宗護に命ぜられて士官室へ荷物を運び込んだ報告に訪れたのだ。
「荷物の運搬、完了しました」
「分かった。呼びつけるまで休んでていいぞ」
「かしこまりました」
少年は礼をして医務室を出ようとした。そんな少年を宗護は横目でちらと見て思い出したように声をかける。
「そうだ。巨大ノコギリサメに向かって機銃を撃っただろう」
「はい。勝手に判断し行動してしまい申し訳ありません」
少年は深々と頭を下げた。宗護は稲野辺を連れて逃げろと命じたのだから、少年の行動は明確な命令違反だ。
「別に命令違反をとがめるつもりは無い。だが危うく俺に当たるところだったのは問題だ。コロールに戻ったら射撃の腕を磨いておけ。機銃も自分で整備できるようにしろ。分かったか?」
「はい!」
少年が声を張り上げると宗護は視線を机の上の報告書に戻した。
「分かったら休んでろ」
「はい。失礼します」
少年が医務室を完全に後にすると、宗護は報告書を片付け、医務室のベッドに横になった。
コロール泊地に到着するまでにはしばらくかかる。宗護は昨晩の徹夜と巨大ノコギリサメとの戦闘で疲れ切った体を休めるため、しばしの休息についた。
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