第3章 空駆ける白銀の剣

 宗護達を乗せた天城は直ぐに出航し、南洋諸島パラオ島を目指した。

 天城と輸送船を中心に、巡洋艦二隻、多数の駆逐艦が辺りを囲う。護衛船団としては優秀だ。この防護をかいくぐって天城を攻撃してくるサメはそうはいないだろう。かつて英仏海峡を恐怖に陥れた全長二五〇メートルを超えるイングランドイーターでさえ、ここに突撃をかけるのは躊躇するはずだ。

 宗護は船室に入るきり、備え付けのベッドに腰をかけて念入りに銃のメンテナンスを行っていた。


「宗護さん」


 そんな宗護に、少年が声をかけた。


「なんだ」宗護は銃のメンテをする手を休めず、不機嫌そうに返事をする。

「自分は何をすれば良いのでしょうか」


 それでも臆せず尋ねた少年に、宗護は顔を上げて答えた。


「邪魔にならないところでじっとしてろ」

「はい。かしこまりました」


 少年は部屋の隅っこに収まって直立不動で立ち尽くす。

 どれほどその姿勢のまま立っていられるのか試してやっても良いかと考えたが、宗護は銃のメンテを止めて、少年に自分から声をかけた。


「三須手記は読んだか?」

「はい。公開されている部分は全て」


 簡潔に、されど正確に少年は答える。それを受けて宗護は語り始めた。


「三須手記は全二〇巻からなるサメに関する記録だ。だが一般に公開されているのはそのうちの二巻分にも満たない。帝国軍向けに特別公開されているのを合わせても三巻未満だ」


 宗護が指折り数えて説明すると、少年が質問した。


「残りは何処へ行けば閲覧できますか?」

「さあな」宗護は短く返す。「そもそも原本がどこにあるかは、俺も知らされていない」


 付け加えられた言葉に少年は驚愕の表情を浮かべた。


「宗護さんは三須手記の全容をただ一人知っていると聞かされていました」

「そんなのは戦意高揚のためにでっち上げられた与太話だ。ただし――」


 宗護は右手で自分のこめかみをとんとんと示す。


「父さんからサメ退治に必要な知識は与えられている。恐らくは三須手記の八割かそれ以上か。世界で最もサメに詳しいというたれ込みはあながち間違ってはいないだろうな」


 少年は宗護の瞳を真っ直ぐに見つめ、決意を固めた表情で頼み込む。


「その内容を、自分にも教えて頂けないでしょうか」

「どうしてそんな知識を求める」

「お国のためです」


 少年の答えに宗護は「ほう」と喉を鳴らした。少年は宗護の瞳を真っ直ぐ見つめたまま続ける。


「北米大陸がサメの海に沈んだ今、日本が対サメ戦争の最前線となることは必至です。日本列島にサメが襲来したとき、サメと戦う知識があれば自分でもお国のために働けると思うのです」

「急ごしらえで身につけた知識など何の役にも立ちやしない」


 宗護は少年の言葉をばっさり切り捨てた。されど口元ににやりと笑みを浮かべて付け加える。


「サメとの戦いでは何より実戦経験が重要だ。俺はわざわざお前のためにサメについて順序立てて説明してやるつもりはない。本当に国家のお役に立ちたいのであれば、戦いの中でお前が自ら学び取って見せろ」

「はい。そのつもりです」


 意志の強い瞳で宗護の顔を見据えて頷いた少年。宗護は鼻で笑って右手を前に突き出すと、人差し指をピンと立てて見せた。


「一つだけ忠告だ。今回の戦いでお前が死ぬ可能性があることを忘れるな。当然、俺が死ぬ可能性もある。サメとの戦いは何時だって命がけだ。常に最悪の事態を想定しろ。それが出来てようやく最低ラインだ」


 宗護の言葉に少年は一瞬戸惑ったが、息をのんでから小さく「はい」と答えた。


「半人前のお前には名乗る資格もない。だが俺の部下はお前一人だ、不便はないだろう。何か命令したときはお前が実行しろ。他の奴の命令には従わなくて良い。何時でも俺の命令に応えられるようにしておけ。いいな?」

「はい」


 宗護は三八式歩兵銃を再び手にとってメンテナンスを始める。

 しかし立ち尽くしている少年を見て声をかけた。


「何かききたいことがあるのなら今のうちにしておけ。恐らく向こうに着いたら、休んでる暇なんて無いぞ」


 少年は短く思案した後、意を決して尋ねた。


「どうして宗護さんは陸軍なのですか? シャークハンターは代々海軍に所属していたと記憶しています」

「そのことか」宗護はため息をついた。


 それは幾度も繰り返し尋ねられた質問である。だが気になる者が多いことも事実であった。宗護の祖父も父も海軍大将だったのだ。なのに宗護は陸軍に所属している。その疑問は当然だった。


「簡単な話だ。海が怖い。正直今回だって、船旅は断るつもりだった」

「サメが出るからですか?」

「そうだ」少年の問いかけに宗護は頷いた。「内地にいると分からないだろうが、一歩外に出ると海はサメに溢れている。どこから襲いかかってくるか分かったもんじゃない」


 少年は士官室の外――何処までも無限かと思えるくらいに広がっているだろう大海原を思い起こす。内地から一歩も出たことのなかった少年にとって、今回の船旅が初めての海であった。宗護からサメに溢れているという事実を聞かされて思わず身を震わせる。


「今更帰りたくなっても手遅れだ」

「いえ、大丈夫です」

「なら良いがな。なに心配することはない。天城と護衛船団の防護は十分だ。この船団に襲いかかるサメはまずいないだろうし、もし平気で襲いかかってくるようなサメがいたとしたら恐怖を抱く前にあの世行きだろう」


 宗護は淡々と事実を突きつける。少年の顔色をうかがったが、今度は恐怖に震えたりしていなかった。どうにも、決意が固まったようである。


「勇猛なのと無鉄砲なのは全く別のものだ。誰だってサメは怖い。その恐怖心は忘れないでおけ。そいつを忘れちまった奴は、大抵サメの餌になる」

「はい。肝に銘じておきます」

「それがいい。その辺のサメじゃない、本物の古代サメを一度でも見れば、お前にもサメの真の恐ろしさが理解できるだろう。とにかくコロールまではしばらくかかるだろうからそれまで好きに過ごせ。気晴らしに船内を歩き回るのは良いが、海軍に迷惑かけるのと、波しぶきがかかるような場所に行くのは御法度だ。分かったな?」

「はい」


 頷いて直立不動のまま立ち尽くす少年を尻目に、宗護は分解していた三八式歩兵銃を組み立て始めた。真っ直ぐコロールへ向かうか、途中で補給によるか、どちらにしろ南洋諸島までは数日を要する。充実した護衛船団のおかげで襲い来る小型のサメへの対応は海軍に任せきりで済むのは宗護としては嬉しい誤算であり、少年も二日目の夜が明ける頃には、深夜に襲来したネムリブカに対する機銃掃射の音に対して驚くこともなくなっていた。



 天城を旗艦とした艦隊は四日の航海の後コロールの泊地にたどり着いた。

 到着したのはちょうど昼時で、真昼の南洋の空は青く澄み渡っていて、水平線の彼方まで雲一つ浮かばぬ快晴だった。

 天城から降りた宗護は空をぐるりと見渡して呟く。


「おかしいな」


 荷物を担いで這々の体でタラップを降りた少年が尋ねる。


「どうしました?」

「ともかく直ぐに現地司令官に会おう」


 宗護は海軍士官に出迎えられて、コロール泊地内の海軍倉庫へと向かった。

 そこで待っていたのは、南洋方面海軍参謀副長、藤野少将だった。


「帝国陸軍大尉三須宗護、到着いたしました」

「わざわざご苦労。しかしすまなかったね。立て込んでいるもので、司令官が出迎えに上がれなかった」


 壮年の人の良さそうな少将は小さく笑みを作って宗護を迎えた。

 宗護は少将と握手を交わして単刀直入に尋ねる。


「それで、どんなサメですか」


 問いかけに少将は顔を悩ませ、言葉を選んで返す。


「実物を見たものは誰もいない。こちらへ来たまえ」


 少将は倉庫の奥へと向かい、そこに鎮座していた飛行機の残骸を示す。

 宗護はそのまま残骸の元でしゃがみ込んで、比較的大きな、翼の残骸を確かめる。


「九四式水上偵察機ですね。しかしこの骨組みの切断面は――」


 九四式水上偵察機は、金属の骨組みに布張りを施した偵察機である。

 その翼を支えていたはずの金属支柱がものの見事に切断されている。

 切断された金属面は鏡面のように輝き宗護の顔を映す。引きちぎられたらこうはならない。明らかに鋭利な刃物によって切断された跡であった。


「これは本当にサメの仕業ですか?」宗護が問いかける。

「それが分からないのだ。しかしサメだった場合後手に回ると取り返しのつかないことになる。米国の二の舞にはなりたくない」

「確かに」三須は頷いた。


 しかし全長一四メートルを超える偵察機の翼を切断するサメがいるだろうか?

 刃物のごとく鋭利な歯を持つサメは三須手記にも記載があるし、宗護自身、イギリスでそういった種類のサメと対峙したことがあった。

 だがあくまでそれは鋭利な歯であって、ここまで金属をすぱんと切り落とせるような代物ではない。金属を切断するとなれば、切断面に削れた歯の組織が付着するはずであった。


「しかし分かったこともある。これのせいで飛行機を飛ばしてなかったのか」

「その通り。どうにも空は危険らしくてね。一機はこうして見つかっているが、トラック方面でもアリューシャン方面でも民間の飛行機が行方不明になっていたようだ。そちらは海軍機が行方不明になるより前の話だ」

「南洋諸島全域が危険空域という訳か」


 それで飛行機での移動を許可されなかったのかと納得する。

 戦艦天城での輸送も、飛行機を噛みちぎるほどの巨大なサメが出現していると予想しての事なのだろう。もし巨大サメと決戦になったとき、戦艦の存在はこの上なく頼りになる。


「敵の様態が分からない以上迂闊に手も出せない。これまでとった対策と言えば、飛行禁止区域の設定と残骸の回収、輸送船に対する護衛船団の編成程度のものだ」

「それが正解でしょう。サメとの戦いで必要なのはまず情報収集。これにつきます」

「君にそう言ってもらえるとこちらも安心できる。天城と共に到着した護衛船のおかげで、船団護衛の問題は明日にも解決するだろう。残る問題は、一体どんなサメがどのような方法で飛行機を襲っているかと言うことだ」


 宗護は立ち上がり、少将へ向き直った。


「偵察機が墜落したおおよその場所と、残骸の発見地点を教えて頂けますか。加えて偵察飛行の許可を頂きたい」


 宗護の言葉に、少将は顎に手を当てて思案する。この状況での偵察飛行が危険きわまりないことは誰の目にも明らかであった。

 しかし、シャークハンターの申し出に対しては、首を縦に振るほか選択肢はなかった。


「細心の注意を払って作戦を行うように。君を失うようなことがあっては大日本帝国の一大事だ」

「存じております」


 少将は控えていた士官に航空地図を持ってくるように命じて、宗護に宿舎と飛行場の場所を伝えた。

 宗護は倉庫から出ると、後ろを歩く少年へと荷物を下ろすように命じて、そこから偵察飛行に必要な装備を取り出してから少年に尋ねる。


「これから偵察に出るがついてくるか?」

「はい!」


 少年はぴっと形の整った敬礼で応じた。


「だったらその荷物をさっさと宿舎へ置いてこい。準備ができ次第出発する。遅れたら置いていくぞ」

「はい!」


 少年は荷物を担ぎ直すと駆け足で宿舎へと走って行った。

 やる気だけは一人前の少年に、宗護は口元を緩めてその後ろ姿を見送った。

 滑走路までは急げば数分でつくだろうが、ゆっくりと歩きながら南洋諸島の空気を味わうのも悪くない。

 南の島らしい、青々とした空に強い日差し。

 湿度の高いむんとした空気を肺にいっぱい吸い込んで吐き出す。

 その空気の中に存在する、ほんの僅かな違和感に宗護は気づいた。


「――サメか。近いな」


 宗護だけが有する、特有の感覚。

 シャークハンターとしての才能か、三須家の血か。宗護には、サメの存在を鋭敏に感じ取ることが出来た。

 しかしそれはあくまで感覚的な話だ。近くに存在することは分かっても、正確な位置はつかめない。

 それでも宗護の直感は、このサメはただ者ではないと警告を発していた。


「行きたくはないが、行くしかあるまい。俺は、シャークハンターだ」




「九四式偵察機だ。こいつの操縦が出来るか?」

「出来ません」宗護の問いに少年が答える。

「だったらお前は後ろだ。操縦は俺がする。こいつを持ってろ」


 少年は宗護から手渡されたコンパスや航空地図、双眼鏡に航空写真機を両手に抱えた。

「こいつもだ」


 最後に宗護が差し出した三八式歩兵銃を、少年は片手を無理に空けて丁寧に受け取った。

 少年が三八式歩兵銃を掴んでも宗護は手を離さず、少年の目を見つめて尋ねた。


「こいつの重さは分かっているか?」

「はい。存じております」


 返答に宗護は鼻で笑って、「知ったような口をきくな」と叱咤したものの、そのまま三八式歩兵銃を少年へ預けた。


「自分の命よりも大切に扱います」

「その命も陛下の持ち物であることを忘れるな。持つ物持ったらさっさと搭乗しろ」


 宗護は飛行帽を少年の頭にかぶせて搭乗を促すと、連絡係として付けられた海軍の若い士官へと視線を向ける。どうにもこの士官も三須信者のようだったので、余計な感情を起こされないように階級章を読み取って、簡潔に用件だけを述べた。


「少尉、夕刻までには戻るつもりだが、もし戻らなかった場合でも焦って行動を起こさないで欲しい。明日の正午まで何の連絡も無かった場合に限って、南洋諸島全域に戒厳令を敷くよう進言してくれ」

「無事の帰還をお祈りしています」


 指示を受け入れなかった海軍士官に対して宗護は不快感をあらわにして、威圧的な態度で再度話しかける。


「サメが相手になる以上何が起こるか予想できない。その時誤った行動を取れば南洋諸島だけでなく大日本帝国がサメの海に沈むことになる。分かるか?」

「は、はい!」


 脅しめいた問いかけに海軍士官は慌てて返答し敬礼した。それを見て宗護はひとまず満足して、九四式偵察機に搭乗する。


「地図の見方は分かるな?」

「はい」

「ひとまず海軍機が消息を絶った海域まで行く。地図と太陽の位置を常に確認しておけ」

「はい」


 少年の返事を受け、宗護はエンジンを回転させて離陸の準備をする。

 滑走路上の誘導員が離陸許可の信号を出すのを確認すると、操縦桿を右手で強く握り直した。


「宗護さん、一つ質問が」

「後にしろ。生憎こいつは天城ほど乗り心地は良くない。口を閉じてないと舌をかむぞ」


 少年はこくりと頷いてぎゅっと口をつぐんだ。

 二人を乗せた偵察機は滑走路を段々と加速していき、海軍兵に見送られて南洋の空へと飛んでいった。




「目的地付近に到着しました」


 機内通信機を使って少年が報告する。

 宗護は日よけのためかけていたゴーグルを上げて、目視で周囲の海域を確認し、小さな島々の集まる場所へ向けて進路を変更する。


「島影に注意して観察を行え。現在地の確認を怠るなよ」

「はい。それで、何を捜したら良いのですか?」

「光か、もしくは人影か何かの破片か――。四日前に墜落した偵察機の情報が欲しい」

「生きていますでしょうか?」

「さあな。確率は低いが、死体は上がってない。その辺の小島に流れ着いて身を潜めている可能性はゼロじゃない。とにかくくまなく捜せ」


 少年は頷いて双眼鏡を構えて周囲の島々を見渡す。

 宗護は機首を下げて高度を落とし、周辺海域を見渡しながらゆったりとしたカーブを描いて偵察機を飛行させる。

 真っ青な海にぽつりぽつりと浮かぶ緑の島。南洋諸島に存在する正確な島の数は誰も把握していない。一つ一つ全てを念入りに捜すことは出来ないが、最も痕跡の残っている可能性の高いこの海域だけは、自らの目で確かめておきたかった。

 大きく弧を描くように旋回させている最中、宗護の左目が海面から飛び出す何かを捕らえた。


「高度を下げすぎたか」

「え?」


 双眼鏡から目を離した少年はきょとんとした表情で操縦席の方へと視線を向ける。


「揺れるぞ。口を閉じておけ」


 エンジンの回転数が上がり機体が加速すると同時に、今までとは反対方向へと急旋回した。

 突然の急旋回に少年は側面に叩きつけられ、宗護も踏ん張って重力にあらがう。

 今まで機体のあった場所に、下から高速で何かが飛来して通過した。


「な、何ですか!?」

「見りゃ分かるだろ、サメだ!」

「空を飛んでます!」

「そりゃ飛ぶだろうさ! トビウオだって飛ぶ!」


 飛び上がってきたのは闇のような漆黒に沈んだ大きな瞳を持つ、全長三メートル程のサメだった。流線型の胴体に、鋭くとがった先端。口には凶悪そうな細長い歯がずらりと並んでいた。

 サメは明らかな敵意を持って、宗護達の乗る九四式偵察機に襲いかかってきていた。


「これが、サメ――」

「ぼけっとするな! 機銃で追い払え!」

「は、はい!」


 叱咤の声に少年は重力にあらがって椅子に座り直すと旋回機銃に飛びついて、銃口を今し方飛び上がったサメへと向ける。

 サメはヒレを使って器用に滑空し、時速二四〇キロまで加速した偵察機に対して真っ直ぐに追撃をかけてくる。


「アオザメだ! 速度はあるが動きは単調だ。しっかり狙って撃て!」

「はいっ!」


 口を開き飛びかかるサメに対して、少年は機銃の引き金を引いた。

 連装機銃が火を噴き、放たれた銃弾は飛来するサメの下あごを打ち抜いた。サメは衝撃で失速し真っ逆さまに海へと落ちていく。


「次が来るぞ! 気を抜くな!」


 サメを撃ち落とし安堵していた少年は宗護の声に機銃を掴む手に力を入れて、新たに飛び上がってくるサメを見やる。

 九四式偵察機は一葉半の比較的古い設計の翼を持つ飛行機だ。その分運動性・機動性は良好で、特に低速からの加速と低空での旋回性能に優れていた。速度ではアオザメが優位であったが、本来アオザメは空を飛ぶ生物ではない。上空数百メートルまで飛び上がり、グライダーの如く滑空しながら獲物を攻撃することは出来ても、高い機動力で旋回を続ける九四式偵察機に対して有効な攻撃法とは言えなかった。

 サメが攻撃する機会は飛び上がる時と滑空して降下する時の二回きり。それさえ躱してしまえば、あとは勝手に海へと帰っていく。


 宗護は海から飛び上がるサメと、滑空するサメの軌道を観察しつつ、最適な軌道で飛行機を飛ばす。少年は最初こそおぼつかなかったものの、段々と旋回機銃の操作とアオザメの飛行特性に慣れてきて、短く切るように引き金を引いては、牙を向くサメを撃ち落としていった。


「なんとかなったか――」


 機銃弾を浴びて海へと落ちた同胞の流す血によって興奮状態に陥ったアオザメ達は、群がるように死体へと食いつき、やがて無差別に互いを攻撃し合うようになった。

 飛び上がるサメがいなくなり一息つく宗護だが、その視線は次の攻撃を警戒してくまなく海面を注視する。


「今のが、海軍の飛行機を襲った犯人でしょうか?」

「まさか。お前も見ただろう、あの偵察機の切断面を。アオザメはどう猛なサメだが、その歯は細く短い。あんな風に金属を切断したり――」


 宗護の左半身に突然激痛が襲った。

 左腕の古傷が痛み、目の奥、眼底が焼けるように熱くなり、視界が深紅に染まる。


「宗護さんどうしました?」

「サメだ! 本命の方だ、来るぞ!」


 宗護は痛みを振り切って、エンジンの回転数を最大まで上げ偵察機の機首を上げた。

 その真下の海面が盛り上がると同時に、白波を立てて巨大な何かが飛び上がった!

体長一〇メートルを超える巨大なサメ。褐色の平べったい胴体。横に大きく開いたヒレ。

 しかしこのサメの最大の特徴は、鼻先に伸びる白銀色の物体であった。


「ノコギリザメだ――」


 偵察機はサメの一刀を紙一重で避けた。

 サメの鼻先、吻と呼ばれる突きだした部分。ノコギリザメはこの吻が独自の進化を遂げており、細長く鋭いこの吻を槍や刀のように使って獲物を狩る。

 されど今し方現れたサメは、それとも明らかに異質な存在だった。

 そもそもノコギリザメは大きな個体でも全長二メートルを超えない。

 それをこのサメは、体長だけで優に一〇メートル有り、更にそこから突きだした吻は四メートル近い。

 その吻も異常だ。とても生物の一部とは思えない金属光沢。それは日本刀のような怪しげな質感を放ち、斜陽を浴びてギラリと輝く。切れ味は試すまでも無いだろう。


「馬鹿げてやがる。こいつが今回の事件の犯人か!」


 操縦桿を握る手に力を込めて、限界まで旋回半径を小さくする。空中での機動なら九四式偵察機に分があると踏んでの判断だった。

 巨大ノコギリサメはヒレを空中で器用に動かし滑空を始める。

 先ほどのアオザメとは違う。ヒレは完璧に空気の流れを掴み、エラから吹き出した空気流を推力に完璧に”飛行”している。


「何をしてる! 機銃を撃て!」

「は、はい!」


 あまりの出来事に硬直していた少年は宗護の一括で現実に意識を引き戻された。機銃をつかみ、ぴったり六時の方角上方から襲いかかる巨大ノコギリサメへと照準を定める。

 引き金が引かれ銃弾が放たれる。冷静さを失った少年は引き金を引ききり、機銃を乱射した。

 巨大ノコギリサメはヒレを羽のように大きく振って、空中で回転しながら銃弾を回避。更に正面からその眉間へと向かってきた銃弾を、あたかも工場労働者がラインに流れてくる製品から不良品をそっとはじき出すように、吻の先でピッと弾いて見せた。


「じゅ、銃弾が、効きません!」

「当たってないだけだしっかり狙え!」


 間近に迫るサメ。完璧に後ろをとられた。

 宗護は振り切ろうと急加速と急旋回を繰り返すが、巨大ノコギリサメはその巨体からは想像できない機動性で九四式偵察機に追従する。頼りの旋回機銃も、ついに火を噴くのを止めた。


「弾が――」

「無駄弾の撃ちすぎだ」


 文句を言っても状況が好転しないことは分かっていた。宗護は叱責はそれきりにして巨大ノコギリサメとの戦闘に集中する。

 機銃が沈黙したことを確認した巨大ノコギリサメは加速して、ついに九四式偵察機の真上をとった。巨体の影が九四式偵察機を包み込む。


 次の攻撃は――


 宗護は真上を一瞬だけ見やり、攻撃を予測して操縦桿を倒した。

 急降下した巨大ノコギリサメの右からなぎ払うような一刀。間一髪左に機体を振った機体は一撃を逃れ、巨大ノコギリサメの上をとるように急上昇した。


「化け物めこれでも食らいやがれ!」


 一瞬の攻防によって機体を追い越した巨大ノコギリサメの背後をとった宗護は、スコープを覗いて照準を定め、引き金を引いた。

 空気が唸りを上げ、前方の固定機銃が火を噴く。放たれた銃弾の一つが巨大ノコギリサメの胸びれ近くを浅く薙いだが致命傷には至らない。

 巨大ノコギリサメは水面すれすれを旋回して銃弾を回避して、そのまま海面に突っ込んだ。海中へ待避されたら機銃弾は通用しない。


「あの野郎、逃げやがった」


 与えた傷は浅い。闘争心を失っていなければ、確実にまた飛び上がってくる。

 今のうちに高度を出来るだけとっておきたかったが、速度を落としすぎたらあの刃の餌食だ。宗護はやむなく速度を落とさない限界の角度で機首を上げて、ゆったりと機体を上昇させた。


「あの、自分は何をすれば――」

「無線でコロールの泊地に現在地とサメの情報を伝えろ。それでも暇なら航空写真機であいつの姿を納めておけ」

「はい。了解です」


 巨大ノコギリサメの恐怖に取り憑かれた少年は震えた手で無線機の操作を始める。次にサメが飛びかかって来るまでに必要な情報を伝えきれるか宗護は心配だったが、そちらに気を遣っていられる状況でもなかった。

 目を大皿のように見開いて海面を具に観察する。巨大ノコギリサメが飛び上がってくる兆候を見逃したら、次こそ命はない。


「来ないな。退いたか?」


 口にしてはみたがそんなことあり得ないことは宗護も分かっていた。

 不意に、左目の奥がうずく。

 古代サメの発する独特な波長に、宗護の体が反応していた。


「正面だと――」


 先ほどの交戦から巨大ノコギリサメに十分な知能があることははっきりしていた。

 それがまさか正面から出てくるとは全くの予想外であった。

 しかし現に正面の海面が盛り上がり、巨大ノコギリサメがその巨体を露わにした。白銀色に光る吻をギラつかせて、一気に高度を上げて九四式偵察機の同高度まで上昇すると、そのまま真っ直ぐに突っ込んでくる。

 奴はこちらの旋回機銃が弾切れしていることは理解しているはずだった。そしてこの機体には前方固定機銃があることも、機銃には十分な殺傷能力があることも。

 海中に身を隠し不意を打てる機会を有していたというのに、それを捨てて正面切っての一騎打ちをしかけてくるとは――。


「勝つ自信があるって事か。大層な自信家だが、相手を間違っちゃいないか」


 既に悲鳴を上げ始めていたエンジンを更に酷使して、宗護は機体を加速させた。


「通信は後だ。その辺に体を固定して神にでも仏にでも祈ってろ」


 少年は返事も出来ず、言われるがままにベルトをきつく閉めると強く踏ん張って椅子に体を固定する。

 宗護は機銃の引き金に手をかけて、正面から突っ込んでくる巨大ノコギリザメを睨む。

 空中で古代サメとの一騎打ち。

 あまりに馬鹿げたシチュエーションに、そしてそんな馬鹿げた戦いに身を投じる自分自身に思わず口元がほころぶ。

 さっさと旋回していればこんな馬鹿げた戦いを避けることも可能だった。だと言うのに宗護は自ら戦うことを選んでしまった。

 そしてこの戦いをしかけた巨大ノコギリサメ。宗護が正面を見据えると、対する巨大ノコギリサメも大きな口を歪めて笑っているようだった。


「さあ、どっちが上手か、決着をつけよう!」


 機体をロールさせ回転したまま巨大ノコギリサメへと突撃をしかける。相手も勝負に乗って、ヒレをはためかせて巨体を回転させ始めた。

 どちらも互いがこれからどんな動きをするのか全く予想できない。

 武器のリーチは九四式偵察機が有利。だが威力は巨大ノコギリサメに軍配が上がる。

 宗護はギリギリまで引き金を引かなかった。七粍七機銃では急所を狙わない限り巨大ノコギリサメを倒し得ないと分かっていたのだ。

 勝負は一瞬。

 相対距離が五〇メートルを切った瞬間、宗護は遂に引き金を引いた。

 けたたましいエンジン音をかき切って響く銃声。

 飛び出した弾丸は巨大ノコギリサメの下腹を捕らえた。鮮血が吹き出し青空に一筋の跡を残す。

 だが致命傷ではなかった。巨大ノコギリサメは吠えるように大口を開き、九四式偵察機と交差する刹那、白銀色の吻を横薙ぎに払った。

 緊急回避する機体のタイヤを、吻が撫でるように掠めた。

 たったそれだけでタイヤは機体から切り離され、更にその余韻で振るわれた吻によって下部の半翼がすっぱりと切断された。


「チクショウ! やりやがって!」


 揺れる機体を何とか立て直そうと宗護は操縦桿を荒々しく操作した。

 一葉半の翼が命を救った。下部の翼を片方失っても、主翼によって飛行は可能だったのだ。

 ただし今までのような機動性を発揮することは出来るはずもなく、悪いことに無茶をさせ続けたエンジンが煙を吹き始めた。ぶすぶすと煙を吐くエンジンは何時停止してもおかしくない。背後を確認すると、巨大ノコギリサメは追撃のための反転を行っていない。致命傷では無かったが、軽くは無い傷を負わせていたのだ。


「このまま不時着するぞ! 死にたくなければそのまま椅子にしがみついてろ!」

「はい!」


 少年は必至に叫ぶ。

 宗護は目を凝らして正面に浮かぶ小さな島を睨んだ。

 小さな砂浜のある緑生い茂る無人島。当然滑走路なんて物はない。そして着陸用のタイヤと半葉の片方を失った機体。強行着陸の難易度は果てしなく高い。

 それでも無人島へ向けて機体を突入させた宗護は、急減速をかけてそのまま砂浜へ機体を突っ込ませた。

 残っていたタイヤがひしゃげて折れて胴体で砂浜を滑る。

 着陸の衝撃と急減速で機体が歪み悲鳴を上げた。いよいよ限界を迎えたエンジンが悲鳴のような音を立てて黒煙を吐き出す。

 機体はしばらく滑ったあとに砂浜にめり込むような形で何とか停止した。

 壊れたプロペラがからからと回っていたがやがてぼとりと砂浜に落ちて、しばらくすると辺りは波の音に包まれた。


 宗護は額をぶつけ血が流れたが、一命は取り留めていた。ずっと力を込めて操縦桿を握っていた手を離し、指を伸ばしてその全部が動くことを確認する。

 ほんの数分の攻防で疲れ果てた宗護は、何とか生き延びた安堵から深くため息をついて、振り返らず後部座席の少年に声だけかけた。


「生きてるか?」

「はい。何とか」

「だったらさっさと荷物を下ろせ。海岸は危険だ」

「はい」


 正気無く返事をした少年は這々の体で九四式偵察機から這い出して、積んであった荷物を外へと持ち出した。その手から宗護は三八式歩兵銃を引ったくり、無駄の無い動きで装弾子から給弾するとボルトを押し込んで安全装置を外し、構えた。


「動くな」

「ま、待て、味方だ」


 物音を立てて木陰から顔を出した海軍兵と思われる服装をした人物は両手を挙げた。宗護は引き金にかけた指を外して銃を下ろす。


「まさかとは思うが海軍偵察機の乗組員か?」

「そうだ。あんたたちがさっき戦ってた馬鹿げたサメにやられちまってね」


 ばつの悪そうに笑って誤魔化しながら応える海軍兵。

 宗護は少年と顔を見合わせて、そんなこともあるものかと感嘆した。


「偶然にしちゃ出来すぎた話だが、たまにはこういうのも悪くはないだろう」


 下ろした荷物をまとめた宗護と少年は、海軍兵の案内に従って無人島の森の中へと入っていった。

 

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