第1章 軽井沢のひととき

 軽井沢の一角に建つ、大きなお屋敷。

 建てられてからしばらくは夏期の短い期間のみ華族が避暑のために用いていたが、今年二月以降は華族の孫娘がここに住み始めたようで、大勢の使用人たちが屋敷に出入りしていた。

 地元の商人たちも華族に品を売って一儲けしようとひっきりなしに訪問していたが、厳しい顔つきの使用人長に凄まれては追い返されていた。


 さて、そんな屋敷の現在の主、伯爵家の孫娘である金子かねこチヨは、涼やかな軽井沢の庭園で、英国の知人から送られてきた紅茶でティータイムを過ごしていた。

 洋装に身を包む齢二十四の若き主。色白で手足は細いが、腰まで伸びた艶やかな漆黒の髪はチヨのそんな儚げな美しさを引き立てていた。

 そんなチヨの向かいの席に座るのは陸軍の軍服を着た男性であった。短く刈り上げた髪に精悍な顔つきをした若者であったが、大尉の階級章をつけていた。

 チヨは並べられた洋菓子を一つ口にして、軍服姿の男性へと機嫌良く声をかけた。


「やはり料理長を連れてきたのは正解でしたわ。ねえ宗護。あなたもそう思うでしょう?」


 声をかけられた男性――三須宗護みすそうご――は同じ洋菓子を一つ口にして返した。


「そのようですね、お嬢様」


 返答にチヨは一瞬表情をしかめたが、直ぐに柔和な笑みを浮かべる。


「その呼び方はなんとかなりませんか。二人で居るときくらい昔のように呼んでくれてもいいでしょう」

「そういうわけにはまいりません」

「婚約者の頼みでもですか?」

「はい」


 もう一度チヨは返答に表情をしかめた。

 この堅物の婚約者は、帝都から遠く離れた軽井沢の別荘で二人きりのティータイムだというのに譲らぬ所は譲らない。

 立場があるのは分かる。二人とも華族ではあるが、チヨは伯爵家で宗護は男爵家。金子家と三須家の仲が良かったからこそ婚約が成立したが、本来であれば伯爵家の孫娘が男爵家に嫁入りなど認められなかったであろう。


「婚姻の際には改めて頂きますからね――あら、どうかしましたか?」


 庭園の入り口に給仕服を着た少女が立ち尽くしてこちらの様子をうかがっていたのを確認して、チヨはしかめていた表情に笑顔を貼り付けて声をかけた。

 少女は頭を下げてから、チヨの元へと歩み寄った。


「お茶会中、失礼いたします。電報です」

「またお父様でしょう。全く」


 新入りの少女の辿々しい報告に、チヨはうんざりとした態度をとる。

 二月の帝都不祥事事件後によって治安の悪化した帝都から逃れ軽井沢に越して以来、毎日のように娘の様子をうかがう電報を寄こしてくる。毎日でもうんざりするのに、日に三度も寄こす日があるのでたまったものではなかった。


「いえ――」

「おじいさまですか?」

「いえ、そうではなく」


 少女はチヨの耳元に顔を寄せて、電報の内容をささやいた。

 チヨはやはり顔をしかめて、更に大きくため息をつく。


「全く。良い時間というものは長続きしないものですわね」


 冷めた紅茶を一口飲んで、紅茶を入れ直すように少女に命じる。

 そんなチヨの態度に気づくところがあって、宗護は尋ねた。


「どのような内容ですか?」


 チヨは入れ立ての紅茶のカップを持って一息つく。淹れ立てのダージリンセカンドフラッシュの香りが鼻孔を刺激したが、チヨは硬い表情のままに答えた。


「宗護に陸軍省からの呼び出しです」

「また急な話ですね」

「私の一存でもみ消しても良いですけれど」

「いえ。わざわざ休暇中に連絡を寄こすほどですから、そういうことなのでしょう。素直に出頭します」


 分かってはいたものの宗護のその答えに、チヨは表情を暗くした。


「また、事件ですか。どうして宗護ばかり事件にかり出されるのでしょう」

「三須家の宿命のようなものです。逃れることは出来ないでしょう」


 三須家の宿命。確かにその通りだった。

 先々代は日露戦争で、先代は世界大戦で、それぞれ抜群の功績を残した。そして大戦後の不安定な世界情勢を、今度は宗護に治めさせようとしている。

 それは逃れられぬ宿命。三須家当主が代々受け継いできた、世界で唯一の称号によるものだ。

 チヨは宗護に何か言いかけて、結局思いとどまった。

 代わりに給仕の少女へと宗護に紅茶を入れるよう命じて、それから自動車の手配を頼んだ。


「せめて旅立ち前の最後の一時くらい、ゆったりと過ごしましょう」

「ええ。そうさせて頂きます」

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