第2話 { 警視庁; }

(一)(二)(三)

小金井市・千代田区・新宿区



(一)



Ⅰ:小金井市:貫井北町:午前


 

 スピーカーが悪霊のごときヴォーカルを吐き出す。

 と同時に、銃身がプラスティックの弾頭を射出した。

 確かに両手は発射の衝撃を感じている。しかし常代有華は引き金に指をかけていなかった。意図して撃ったという実感が伴わない。音はしたけれど、それとて建屋に響き渡るドラムとギターがかき消してしまう。

 当たったかどうかを自分で確認できるほど標的が近くもない。だから——結果が知らされるのをじっと待つ。

 1秒、2秒、3秒。

 転がり落ちた空き缶が拾われて、それから——。

〈お、当たってる! ロゴがへこんだわ〉

 女ハッカーの声がイヤフォンから聞こえた。〈さすがゆかりん……じゃ、こっち狙ってみ〉

 有華は小さく頷いて、銃身をより遠い目標へと向ける。こめかみに乗せた透過型のHMD越しに、デジタルズームの倍率を上げたまま、六〇メートル先にある人間の指先を、それが掴む空き缶をにらんでいる。

 国立研究開発法人・情報通信研究機構(NICT)の嘱託事務員である有華は、研究者に指示されて実験のアシスタントを勤めるのが本来の職務。霞ヶ関へ行かなくてよい日はここ国分寺で、NICT研究員の八千夜大義こと女ハッカー、GEEの——悪童の遊び相手を勤めている。

「ギーさん、缶の置き場所を……もうちょっとズラして」

〈お……標的選びよるなぁ……プロのスナイパーとは言えへんで〉

「だって光が反射してるから」

〈あ、そういうこと?〉

 音楽が唐突に止んだ。

 次の曲が始まるまで、有華は撃たない。

〈ちょっと待っててや……次……次はジャーマン・メタルにしよ……正確無比な感じで〉

 GEEは手元のノートパソコンを操作した。有華を待たせたまま、BGMを入念に選んでいる。

〈……これどう?〉

 再び激しいイントロダクションが女二人の身体を襲う。並の女性なら顔をしかめるところだが、GEEと有華は平然と会話した。

「……いいんじゃない? 聴いたことある」

〈ちょっとロブ・ハルフォードに似てるやろ? 燃えてくる?〉

「うん、燃えてきた」

 そんな風に言えばGEEはニタリと笑ってくれるはずだ。アシスタントとしてうまくやれていると感じている時、有華も自然と笑顔になる。

 かの女ハッカー殿は終日すっぴんで過ごすことが多い。けれどGEEがいるところに派手なロックサウンドがあり、その防風雨のごとき音楽が七難を隠していた。こうしておけば所長の耳に届くのは危険行為の噂ではなく、切り裂くようなギターへのクレームになる。ちなみにNICTは総務省から得た莫大な予算の下で様々な研究開発を行っているが、このライフル銃は表向き許可を得ていない。そもそもGEEが研究員・八千夜大義として出入りし始めたのは「ブラックハットの行動を統計的に分類する」という研究テーマが採択されたためだ。つまりGEEは自分で自分の俗悪さ加減を研究するためにやってきた。それをいいことにこっそり持ち込んだダーティな研究対象は、すべからく七難といえる。

 竜巻のようなドラム・ソロ。

 それにテンションをあげたGEEが放つ女グルーピーの如き絶叫。

 すべてが体育館のごとき大空間に木霊こだましている。ここはNICTの敷地内に設置されたサイバークライム実験場、通称「クライム・ラボ」。電網免許証の探知やHMDによる尾行などをテストする施設である。ラボというより、ここはさながら「街」だ。ハリボテの民家があり、道路、公園、コンビニ、オフィスビルがある。そこにGEEはいろんな物を隠す。それを取り出しては遊び、そしてまた隠す。

 幸い、有華にはGEEのやんちゃぶりとヘヴィーメタル・ミュージックへの耐性があった。車の修理工場を営む親の道楽で思春期をサーキットで過ごした身としては、暴走族出身でバイク通の女と趣味が合うのも道理である。

 総じてGEEとはうまくやれている。最近は二人で銃を撃つのが日課。

「ぬ……これ……ぐらいか? ……よし、マーカー打った」

 有華はドラム缶の上に左肘をつき、電動エアコッキング式ライフルを構えていた。目標は公園を模したハリボテの一角。手がふらつくせいで狙いはブレる。運動神経と静止する才能は別。有華はどちらかというと、じっとしている方が苦手だ。そもそも五十メートル以上離れた小さな標的に、空気圧で押し出すBB弾(※ボールバレット=遊戯用のプラスティック球形弾)を正確に当てるのは、威力が低いため直進性に乏しく、難しい。

 しかし——今はひと味ちがう。HMDを装着している。

 耳に押し込んだイヤフォンから男の声を模した合成音が聞こえた。

〈トラッキング開始……任されよ〉GEEの相棒。今は有華の相棒である「髷」の声。

「任せたっ」

 有華はトリガーから指をはずした。ただ必死にグリップを握る。HMDに表示された画面。赤い枠線。その範囲に缶全体が収まるよう、銃身をなるべく安定させる。枠そのものは大きい。しかし収めるのは容易ではない。呼気と吸気、心臓の鼓動。人間の刻むリズムは銃身を微かに揺さぶる。ほんの数ミリ手元が狂っただけで、遠い標的に対してはメートル単位の誤差を生む。揺れ具合を計算に入れ、タイミングを合わせて引き金を引く。それがとても難しい。

 だからこそ任せるのだ。髷なるプログラムに——

 唐突にパシャ、と軽い音がした。圧縮空気の炸裂だ。

〈やった! ど真ん中やで〉耳元でGEEが騒ぐ。

 有華は目を丸くした。「ほぇー……手元、ぐっらぐらなのに」

 そして手首にはめた腕時計に視線を落とす。

「お前……すごいんだね」

 

 

 透過型のHMD越しに見える景色は、仮想と現実が微妙に混じり合っている;

 有華の目には、三頭身ほどのかわいいアバター画像が、腕時計の文字盤の上に乗っかっているように見えた;それがひらりと宙返りして、狙撃の成功をアピールする;忍者装束の頭巾からはみ出るほど太く長い髷が、着地の瞬間ふわりと揺れた;

〈光栄至極也〉

 髷は口元を頭巾で覆っているので表情までは読み取れない;でも、両腕を組んで屹立する姿がどこか誇らしげに見える;

〈これが画像認識って奴なの?〉と有華;

〈是即ち画像認識哉〉

 AI野郎は有能なだけでなく愛嬌もあって、なかなかの相棒ぶりだ;

 しかし本来の飼い主GEEは髷をこけにする;

〈標的が近いよなァ。ゆかりんの実家を狙わせたら、さすがに髷の字も音をあげよるで〉

 そういってケラケラ笑う;

〈近所っていっても……三百メートルぐらいありますけど〉

〈此処は風が吹かへんから楽勝やねん。屋外やったら、どれぐらい流されるか計算せなかあかん。当たったらさすがに「ゴルゴ髷」やで〉

〈三百メートル先では無風でも半径一メートルが限界也〉

 髷の結わえた髪束が情けなく顔の前に垂れ下がった;GEEにかかればAIも形無しだ;

〈それに、これ以上望遠になると、私の手のグラグラが大きくなっちゃって……髷っちの頑張りも必要だけど、腕力不足の方が……深刻〉

 有華は女性にしては筋肉質なほうだ; にしても長い銃身を構えるというのは、なかなかに力仕事である;

〈せやから射撃練習で北海道出張いこ。鹿撃ち体験……といいつつ、旨いもん食べて?〉

〈飲んで?〉

〈げへへへへ〉

〈げへへへへ〉



〈そういえば……今日は狐と一緒違うんか?〉

「うん。なんかね、最近忙しいみたい」

 NICTのある国分寺と、合同庁舎二号館がある霞ヶ関。その間を頻繁にロータスで往復する有華は、ときどき香坂一希を同伴する。若い総務官僚がNICTの研究に触れることは有意義に違いない。

 あいつとおしゃべりしながらのドライブは、ちょっと——楽しい。けれど。

 今日は一人でNICTへ来た。

(世界が違うんだよね)

 自分はNICTの職員。独法のプロパーで下っ端、電網三種どまりの高卒。

 あいつは電網庁の職員。国家公務員でエリート、電網一種持ちの大学院卒。

 総務省の傘下なれど、まるで違う二人。

 たまに人生は交差する。たまに。

 でも、たぶんそれだけ。

 あいつは登っていくだろう。自分をここに残して。 

 GEEが言った。〈トイレ事件の報告書、読んだ? なかなか上手いで、あいつ。ゆかりんを持ち上げてるように見せず、さりげなく絶妙に褒めてる〉

「うん……だよね」

〈意識するよなぁ……しちゃうよなぁ〉

「何それ。そんなんじゃないからね」

〈照れるな照れるな〉

 赤面していることを有華は自覚した。GEEの顔は遠くて見えないけれど、どうせ笑っているに違いない。

「ねぇ、この腕時計外しちゃダメ? 撃ちにくくて……」強引に話題を替える。

〈あー、それ大きすぎるよなぁ〉

 射撃実験をする時、きまって装着させられている特別製。必要なのだろうけれど、重くてわずらわしい。「女物ってないんスか」

〈容積が必要なんや……機能を詰めこみたいから〉

 電網免許証のスペシャルバージョンとして、女物は岩戸が愛用中のネックレス型、男物は腕時計型が試作された。ネックレスは単なる免許証の代替品でしかないが、時計は立派にウェアラブルコンピュータと呼べる代物。有華はロレックスと書かれた文字盤をしげしげと眺めた。

〈試作品やからあえて豪華にしてみた。税金で作ったったんやで! 笑えるやろ〉

 GEEはケケケ、と笑う。

「男って時計好きッスよね」

〈……香坂はもうちょっとスマートな時計が欲しいんとちゃう?〉

「は? ……なにそれ」有華は頬を膨らませる。

〈別にぃ……じゃ次、これ狙ってみ。ピンポン玉〉



 まず射手はHMD上のビデオスコープをのぞきこみ、画面を右往左往するターゲットの狙い所に「デジタルマーカー」を記す必要がある;

 マーカーは上下左右を微調整できる;

 次に、マーカーが付与された物体に当てるための弾道計算を「髷」が行い、狙うべき目標点を決める;

 青い三角がそれだ;

 重力を考慮するから、青い三角はマーカーが打たれた位置よりやや上に現れる;

 空中の一点を狙うのはなかなか難しい;

 なのでHMDは、すべてを計算にいれた上で「赤い枠線」を表示する;

 射手は銃身を安定させ、青い三角を狙うかわりに、赤い枠線にマーカーを収めるよう努力する;

 手が微妙に揺らぐから、枠線の中をマーカーは動き回る;

 それが理想的な一点を通過した瞬間、人工知能が「勝手に」トリガーを引く;

 これが一連のプロセス;なかなかうまくいかない;

 有華が苦労しているのを見て、GEEが笑った;

〈意識、してるしてる〉

〈してないからっ〉

 幾度もマーカー作業をやり直し、ようやく有華は構えに入った; 

〈トラッキング開始。任されよ〉

 忍者装束の頭巾の奥深くで、髷の瞳が鋭く光る;

 

 

 銃声が実験場に響いた。

 ピンポン球が弾かれて、宙に高く——高く舞いあがる。

  




Ⅱ:千代田区:飯田橋:午前

 

 

 アスファルトの上にキャップ帽が落ちた。

 男の手が滑ったのだ。当人は口をあんぐりと開けている。かなりの狼狽ぶりに思える。

 香坂一希は初老のガソリンスタンド店長を気の毒に思った。誰だって面食らうに違いない——店先にずらりと同じ格好をした男が並んでいるのだ。ワイシャツにネクタイ、一見夏場の営業マンにみえなくもないが、頭部に装着したHMDがひときわ異彩を放つ。その面々に自分も含まれている。

 先陣をきって話しかけたのはリーダーの垂水昂市であった。

「電網庁です。電網免許保有者の就業実態と、公認PCの利用実態を調べますので、おつきあいください」

 垂水は亀のごとくつぶらな瞳を持つ、口調も穏やかな男だ。しかしかなりの大柄で、真正面に立たれると気圧されるに違いない。

「な、何も……聞いてませんけど」店長はしどろもどろになっている。

「都条例に基づく抜き打ち検査になります」

 全国に先駆けてインターネット免許制をスタートさせた東京都は、法人にも厳しいルールを課していた。個人情報を扱うネット利用業務には三種以上の電網免許が必要で、その業務にあてがうコンピューターも電網庁公認PCでなければならない。電網庁はネットの利用実態が適切かどうか、法人を監査する権限を与えられている。

 資金的な理由から法人の新法対応は総じて遅れ気味だ。速やかな移行を促す意味で、ゼロ種を所持する電網公安官——いわゆる網安官たちは都内を駆けずり回っていた。といっても年内は罰則を適用しない。違反が見つかっても行政『指導』どまりである。

「じゃ……取りかかって」

 垂水の号令を受け、全員が一斉に行動を開始した。ある者は従業員の電網免許証を確認し、ある者はレジに使われているコンピューターの型番を調べる。さらにある者はスタンドへ進入する車に近づいて、ドライバーに「給油業務が中断する」事情を説明している。

 いまのところ抵抗する人間はいなさそうだ。しかし。

(いずれはトラブルになるだろうな……)

 香坂には格闘技の心得がない。他のメンバーも大差ないだろうと思う。勉強ができるだけの官僚風情に、果たして治安維持活動が勤まるのだろうか。警察との合同組織が必要だと主張する岩戸室長の意見には、大いに頷ける。

 といいつつ網安官には別格といえる巨漢もいた。リーダーシップをとる垂水局次長、彼は眠そうな亀の如き愛嬌ある顔立ちに似つかわしくない体躯を誇る。野球の腕前はセミプロ級、らしい。

 その巨漢が香坂の視線に気づいて、のっしのっしと歩み寄った。

「どうなの? そのセンサーは」

「はい。ちょっと角度を変えたほうがいいですね……」

 香坂は壁面に取り付けられた黒い物体を見上げている。ガソリンスタンド内に設置された監視カメラ——実は電網免許証センサーが内蔵されている。

 脚立に登った網安官の一人が両手を伸ばして、カメラを動かした。「こうか?」

「……ああ、逆です逆」香坂はスマートフォンを握り、自前の測定アプリをにらんで指示を出す。

 先輩とバディを組み、あちこちに取り付けられた免許証検知センサーの性能を確認することが今日の任務だ。

「ここに出入りする車じゃなくて、道路を通る車を狙えってことかい?」指示を請ける方が、五つ歳上だった。「こ……こう?」

「そういうことです。片側車線なら充分射程距離だと思うので」

 取り付けたセンサー一台一台で、なるべく広い範囲をカバーしたい。十メートル離れていても反応を拾うことは原理的に可能だ。

「どれどれ?」脚立を降りた先輩が香坂のスマホを覗き込む。

 ブラウザに地図が表示され、自分たちの現在位置が拡大表示されている。ガソリンスタンド傍の大通り。目前に交差点がある。数秒待つと、四つの免許証番号が画面に表れた。

 信号待ちの車に向けられたセンサーが検出したものだ。

「交差点に車は五台……ドライバーは五人」香坂は目を細めた。「でもセンサーが拾った電網免許証番号は……四人分。認識率は80%」

 先輩が目を細めた。「誰か一人、免許証を持ってない奴がいるわけだ」

「そうともいえません……財布に入れていたら、他のRFIDカードなり金属なりが邪魔もしますから」

「結局、一人一人事情聴取しろってことか」

「センサーの精度はこれが関の山です。車の中は遮蔽されているので、特に厳しい……」

「……怪しいのが一人いるな。あいつじゃないか?」先輩が笑う。

 香坂は目を細め、交差点に停まっている一台の車に注目した。

「確かに怪しいですね」

 自家用タクシーという表記の白い4ドアハイブリッド車。だが、乗っているドライバーは黒いヘルメットをかぶっている。

 顔はまったくわからない。

(サーキットじゃあるまいし……あんなタクシー運転手、やだな)

 そのとき、香坂が持つスマホの画面を大男が斜め上から覗き込んだ。

「センサーの感度って、設定変えられるンでしょ?」垂水である。

「設定を下げて、ぴったり五枚見えるようになればいいんですが……ノイズを拾いますから」局次長の影に入りつつ、香坂は言った。

「……五十枚ぐらい見える、みたいなことになるわけか」

「ええ。あまり意味がない」

 香坂は堂々と主張した。新米ながら大学院時代の経歴を買われ、他の網安官に対しても指導的な役割りを担っている。「僕の経験上、今の設定値はリーズナブルです。四枚確定、認識率80%でも御の字だ。電網免許の携帯義務違反を問うには、事情聴取による現行犯しかありません……でも」

「?」

「道路脇のセンサーで車内の電網免許証を追尾する技術は、本命じゃない。でしょう?」

 期待される『自動運転の電気自動車』は、搭乗時に車のセンサーが電網免許証をチェックする仕組みだ。その車を車同士の無線ネットワークが結ぶ。となれば。

「当局は車を追うことで搭乗者の免許証番号を把握できる……わざわざ道端のセンサーで追いかける必要は、ない」

「その通りだよ」垂水は肩をすくめた。「だけど実現にはまだ五、六年かかる」

 やがて液晶画面の表示がめまぐるしく変化し、検出した四つの免許証番号が圏外へと消えた。信号が青に変わったのだ。車が五台、一斉に走り出す。黒いヘルメットのドライバーが駆る自家用タクシーも走り去っていく。

 あの凄惨な事故から一週間。香坂たちは日々の業務に忙殺されていた。だから五台の中でもっとも始動が遅かった大きな車——ぷしゅう、というエアブレーキ音とともに走り出した観光バスに、心をかき乱されることもなかった。

 

 





(二)



Ⅰ:千代田区:霞が関:午前


 

 緒方隼人は毛むくじゃらの男を追いかけて、非常階段を必死に駆け上がった。

 このベテラン公安マン・飯島充はエレベーターを待たない。せっかちというより体力作りに余念がなく、登り坂が大好物なのである。一方、新米とはいえ自分にも空手道を究めた自負があった。肉体派はアピールポイント、遅れをとっては男がすたる。

 ゴリラ男を追いかけながら、休みなく会話も続けた。知力と体力、その両方が警察官には必要だと思う。「欠陥車……ですか?」

 最後の踊り場で飯島はペースを緩めた。「一年以上前だ。同じベガス社の……トラックがな」

「トラック?」

「……ECUとかいう、車載用コンピューターの不具合で何千台とリコールになった。で、今回の観光バスにもトラックと同じ欠陥があったんじゃないかって、死んだ運転手の遺族が主張している。だから科捜研が動いた」

「トラックとバスじゃ、大違いじゃないですか? 言いがかりの類に思えますけど」

「運転手のミスが事故原因だと疑われてる。五十六人を殺した悪魔だと世間が騒ぐ。遺族は必死になるさ」

「確か奥さんと……子供がいますよね」

「小学生が二人。いじめられるんだろ。ネットの書き込みってヤツ、酷いらしいぜ」

「知ってます。顔写真まで晒されてる」

「最低な時代だ」

 二人は階段に別れを告げ、警視庁で最も血なまぐさいフロアへと踏み込んだ。

 刑事部捜査一課。その片隅。小さな会議スペースには先客がいた。ラフなポロシャツ姿の長髪男——サイバー開発専任技師・砂堀と、その部下の津田沼である。涼しげな砂堀と対象的に、太った津田沼のワイシャツは汗臭そうだと緒方には感じられた。

「……遅いです、係長」砂堀が手招きして言う。

「俺はお前らの係長じゃねぇよ、十一係だぞ? お前らは十二……」飯島は腰掛けつつ言った。「……ん? 三人組だったよな。おねえちゃんがいたろう」

 砂堀が口をへの字に結び、肩をすくめる。津田沼はパソコンをにらんでいる。あの仲本とかいう女性がここにいない理由は全く伝わってこない。

「なんだ……発足早々、サボりか?」

 飯島が口髭をひしゃげ、下卑に笑う。

 やがて会議スペースに目の細い刑事が資料を抱えて現れた。テーブルの上に紙束を放りだし、皆に対面する側へと座る。疲れているのだろう——微かな無精髭の具合がいかにも睡眠不足で、綺麗に整えた飯島の髭とくらべれば不健康そうなオーラがある。

「ジマがハッカー番とは驚きだ。公安も人事が大胆になったなぁ」末次警視は開口一番、飯島をジマと称し、ついでに皮肉を口にした。ニヤついた歯並びと歯茎が奇麗で、老練なチンパンジーといった趣がある。

「ち、うるせぇ。何だよ急に」

「だってさ、コンピューターに強いなんて聞いたことないもん。肺活量はゴリラなみにあるよね? だから歌が上手いんだなぁ」チンパンジーが揶揄する。

「そうなんですか!? 意外だなぁ」緒方が目を丸くする。

「へぇ。カラオケ行きましょうよ」砂堀も調子に乗る。

「……」津田沼は無言。

「馬鹿。忙しいんだ。用件を言え」

「まぁ、まぁ……そっちの彼は十一? 十二?」末次が緒方を見初めた。

「十一係の緒方です。まだ配属されたばっかで、ハッキングとかは全然、素人で」新人らしく背筋を伸ばし、くいっと頭を下げる。

「ジマの部下か。大丈夫? 声が小さいと苦労するよ。こいつは肺活量のおかげで声、大きいでしょ。末次的にはさ、歌が上手いんじゃなくて声量で誤魔化してる感じもあってだねぇ」

「ふざけんなスエ。用件言え、用件」今度は飯島がスエ呼ばわりした。

「例のバス事案な。事故のあった木更津の料金所、アクアラインを挟んで両側は神奈川県警と千葉県警が所轄。それにNEXCO東日本、国交省で一丸になって調査をやってる。今のところ事故の線で、過失の有無を探ってるわけだが……ちと妙な雲行きだ。聞いてるだろ?」

「……それで?」

「国交省の仕切る事故調チームとは別で、内々にウチの科捜研や柏(※千葉県柏市にある科警研=科学警察研究所)まで動かそうって話なんだが、どこも手が一杯でなぁ。俺がまとめ役になって、コンピューターに強くて暇な奴がいないか声をかけて回ってるんだ。で、鳴り物入りの砂堀さんを借りられないかって」

「そんなの俺に聞くな。十二係の係長判断だろ」飯島は左隣の長髪男を意識して言った。「紫暮だ、紫暮」

 砂堀は長髪で顔を覆うようにうつむき、溜息交じりで言った。「それがですねぇ、まだお会いできてない。やりとりは電子メールのみです……長期出張って聞いてますけど、顔を見せてくれること、あるんですかね?」

「ち」飯島は舌打ちしながら身体をのけぞらせ、砂堀の後頭部に小声で囁いた。「……スエはホモっ気があるから、気をつけろよ。お前はたぶん好みだ」

「げ!?」長髪男は顔をすぱっ、と上げた。眉を寄せ、とほほ顔で笑った。「……はは」

 そんなやりとりをしてから、ゴリラは姿勢をただし——

「どうなんだぁ砂堀? 忙しいんだろ、お前ら十二係は」あらためて問う。

 砂堀もそれを受けて大仰に手帳を取り出し、ぺらぺらとめくった。

「忙しいですよぉ。ええと……ここ一週間で、四件のオーダーがありました。警察庁サイバーフォースセンター様から遠隔地に対するネット監査の相談、おなじくフォレンジック(デジタル鑑識作業)ツール開発の相談、生活安全部サイバー犯罪対策課様より不正送金防止プログラムの仕様策定……など、など」

 それを聞いて、大袈裟にうなずきつつ飯島は結論する。「忙しいってよ」

「いや、そうだろうけども……」

 末次警視は弱り顔だ。テーブルに置いた資料を指で押し出す。「一緒に科捜研で話を聞いてくれるだけでもいいんだ。バス事案、ちょいと厄介なんでね」

 砂堀の部署が桁外れに忙しいという事情は、部下の津田沼がだんまりを決め込んでいる態度からも察して余りある。緒方はそう感じた。きっと仕事を増やされたくないのだ——件の欠席女子も、多忙すぎて来られないに違いない。

 事の行方をただ眺めていた緒方の側に、飯島が振り向いて言った。「そうだ……お前が御用聞きしてくるか?」

「俺がですか?」

「あー、それ助かるなぁ」砂堀が微笑んでいる。

 緒方は冷や汗をかきつつ、喜んで、と返答した。警視庁内で一身に期待を集めるハッカー部隊、十二係。その助っ人とあらば引き受けてみたい。飯島と旧知の仲らしき刑事のやり口にも興味をそそられる。

 但し、ホモっ気なる事情は聞き捨てならないが——。

 



Ⅱ:(都内某所)


 

 仲本繭は時の流れを感じさせない、空調の効いた暗い個室にいた。此処には安らぎがある。冷暗と安息は同義だと思う。

 滞在時間に料金を支払う漫画喫茶のシステム。窓もなく、照明は申し訳程度、見えるところに時計はない。何時間でもいろということ。会社をサボろうが、学校をサボろうが、この狭い壁は「忘れろ。漫画でも読め」と語りかけてくる。眼鏡を修理に出した足でそのまま此処にしけこんだから、今は十一時頃だろう。朝からずっと目の周囲を冷やしたけれど殴られた痣は一向に消えない。癒えるまで出勤は無理だ。

 痛くされるのが好きという非人道的な性癖は、どんな社会とも折り合いがつかない。怪我が絶えない繭は過激な愛の交歓を経た翌朝、腹が痛いだの目眩がするだの散々理由をつけて休みまくる。そうやって職場の心証を悪くしつつ——最後は居づらくなって退社。そんなことを繰り返すうちにフリーランスという安住の地に落ち着いた。

 漫画喫茶でのサボりは自分にとって通常運転そのもの。

(警視庁なんて無理に決まってる)

 お固い職場で自分のような変態の居場所があるはずもない。けれど高級マンションのローンを抱えたいがため、待遇のいい仕事を欲した。無理を承知で飛び込んだ。

 同居人としての話合いは頻繁にやっている。顔だけはやめて。仕事に行けなくなるから。いつもそう頼んでいる。けれど美鶴は機嫌が悪いと躊躇なく顔を殴る。駄目だといえば余計に興奮する女だ。それに感じてしまう自分がいるのも事実。

 病気だよ。私も、ルームメイトも。

 一日二日ずる休みしたところで、しばらくクビにはならないだろう。職場に女性の姿が皆無だから、陰口の進行も緩やかだと思う。でも時間の問題。どうせまた、よるべなきフリーランサーへ逆戻りする。

 裏の仕事にも手を出さざるを得ない、と思う。

 繭はしばらくリクライニングチェアにねそべっていたが、おもむろに身体を起こし、備え付けのPCに電源を入れた。しばらくにらみつけて、しかし電源を切る。

 これは都条例に即した電網庁公認PCだ。自分の免許証を認証しないと動かない。認証した途端、当局に追尾される。ネット上で何をどうしたか筒抜けになる。だからバッグにしのばせている小振りな紫色のノートPCを取り出し、LANケーブルを差し込むと、机の下にあるはずのコネクタをまさぐった。

 この漫画喫茶はアングラのインターネット回線を持っている。つながる先は電網庁に統合されていないダーティな私設ISP、一説によると台湾系企業が構築した代物らしい。仮に摘発されたとしても、現時点では罰則がないから、のらりくらり商売を続けることは可能だろう。

(あった)

 コネクタを探り当ててケーブルを差し込む。クレジットカードの番号などを求めるダイアログに答えていくうちに、繭はインターネットへの接続に成功した。

 無法地帯——といっても去年までの東京と同じ、そして東京以外では今も当たり前の風景だ。

 繭は勝手知ったる裏コミュニティへアクセスした。表向きは私設美術館のホームページ。しかし特定の順序でクリックすると危険な扉が開かれる。ライオンの口が限度を超えて開くアニメーション。それに伴ってブラウザが一旦ブラックアウト——やがて、巨大で邪悪な掲示板が姿を現す。

 牙城ストロング・ホールズ。日本最大の「サイバー犯罪オークション」会場だ。

 スレッドの一つを開くと、〈出資者〉を名乗る人物からの違法な要求、法外な予算が晒されている。それに答えようと〈企画者〉たちの違法なプランが数多く投稿されている。誰かが要求を勝ち取りプランを実行に移す。それが一日程度の仕事であっても、サラリーマンの年収を凌駕するほどの謝礼が動く。スレッドには〈企画者〉が〈作業者〉を募る子スレッドも発生する。繭はそこに名乗りを上げることが多い。受け取る額は一桁減るが、それでも真面目に働くのが馬鹿馬鹿しくなる金額だ。

 営利目的のサイバー犯罪にはこうしたビジネスマッチングが不可欠である。例えば一人のブラックハットが企業のサーバーをこじあけ機密情報を手に入れる。しかしそれで終わることがほとんどだ。セキュリティの不具合を見つけて面白半分に襲う一方、その企業に恨みなどなく、情報を活用して儲ける目算が立たない。そうやってブラックハットたちは無価値な情報を大量に蓄える。けれど然るべき連中にとっては宝の山に見えるかもしれない。だからマーケットが形成される。

 この犯罪オークション会場は厳格に管理され、一定の貢献度がなければランク上位の案件には参加できない。繭のランクはDで、まだまだひよっこ。同居人の十和田美鶴は一つ上のランクC。ランク下位の人間は上位のスレッドを覗き見することさえできない。〈企画者〉として旨味を得るには〈作業者〉としての実績を積み、闇社会の信頼を得ることが必須なのである。この厳格さが「ストロングホールズ」という名の由来でもある。犯罪行為に加担しなければランクアップが望めないので、当局の捜査員たちは入り込み辛い。

 繭は公募中の〈作業〉案件を、自分に許されるランクDに絞ってリスト化した。低レベルだけに簡単そうな仕事が多い。とある一家の家族全員分の電話番号をセットで入手せよというものや、某企業役員の不倫行為を暴いた後にネットで糾弾するお手伝いというものまで、多種多様だ。どれに手を出せるか考えているうちに、時間はどんどん過ぎていく。没頭した。非合法な行為だとわかっている。けれど耽った。

 漫画喫茶には監視カメラが存在する。けれど構うものか。お金が——必要なのだ。

  





Ⅲ:千代田区:霞ヶ関:午前

 


 緒方隼人は会議室の一角に腰を据えていた。あくまで代理。そういう立場で末席にいる限り、面白い仕事に感じられる。プロジェクターで投影される資料の中身もさることながら、科学捜査員という人種の言動には強く興味をかきたてられる。

「……ベガス社が起こした一年前のリコールは、こちらのトラックになります。ECU(=車載コンピューター)の不具合で、出荷された全台数、修理が完了しています」

 科学捜査研究所・物理科機械係・交通事故班に属する捜査員の一人が立ち上がり、スクリーンに投影したトラックと道路の模式図を手で直接指した。「……このトラックには自動ブレーキシステムが搭載されています。レーダーの反射をつかって、車間距離を測定して、車間が詰まったらブレーキが効く仕掛けです。それだけでは誤作動するので車載カメラとも連動する。画像認識ですね。レーダーとカメラが合わせ技で動く。そこに不具合があった。車間距離が詰まっていないのにブレーキが誤動作した。結果、何台かが突然減速して車に追突されるという事故が起きた……ベガス社は対策として衝突回避アルゴリズムの改良……つまりレーダーとカメラに関係するECUのプログラムを書き替え、問題を回避したそうです。これが一年前。で……」

 画像が切り替わり、観光バスらしき設計図が投影された。「こちらが、先日のバス事案を起こした車種です。トラックには79個のECU、バスには88個のECUが搭載されている。同じメーカーの大型車ですが設計は大きく違う。でもよく見ると共通部分も幾つかあって、特に、衝突回避系に関していえばまったく同じECUが使用されている」

 緒方より上座に陣取っている刑事の一人が手をあげた。末次警視だった。

「同じといってもだなぁ……トラックはブレーキが効きすぎて追突されるって不具合だろ? 観光バスは料金所に突っ込んだわけだから、どちらかといえばブレーキが効かなかった。真逆じゃないの?」

 その捜査員は「仰るとおりです。詳しく調べてみないと、関連があるかどうかはわかりません」と答えた。

「ベガス社は何と言ってるんだぃ?」

「運転手の家族にこの件を指摘された後、テレビ局に書面で回答しています。事故を起こしたバスは今年の最新型で、アルゴリズムは改良されている、というのが公式見解……と言いつつ、怪しさはぬぐいきれていない」

「……ウソついているかもしれねぇ、ってわけか。調べられる?」

「同型のバスについて、ECUで動いているプログラムのバージョンが適切かどうか解析するという話になりますが、これはかなり難しい。バスを一台押収してリバースエンジニアリング(※動作を解析してプログラムを導出する)をかけることになりますが、仮に成功したからといって、そのアルゴリズムが適切かどうか科捜研で判定することは不可能でしょう。ベガス社の協力を得ないことには」

「だけど連中に手伝わせたら隠蔽を働くかもしれない。社員が全国を行脚して、片っ端からバスのプログラムを書き換えて回るなんて、簡単だろうぜ。だろ? 末次的には、打つ手ナシって印象だけども」

「それに……まだある」座っていた別の科学捜査員が口を開いた。

 末次が眉間に皺を寄せる。「まだ、何?」

「別の可能性が。バスの外から信号を送り込んで、ECUが誤動作する可能性。ゼロとは言い切れない」

「外から妨害電波みたいなものを浴びせるってことかぃ? ……素人っぽく言えば」

「実は……トラックのリコールの件、ベガス社は透明性をアピールしようと頑張りすぎた嫌いがある。不具合について公表された資料が、詳しすぎるんです。半導体の型番までが、広く出回っている」

「ははぁ。正直すぎるのも困りもんってわけだな」

「……特に、このカメラ画像を処理するチップが曲者です。最近発表されたSoCで、何十億画素もある気象衛星のカメラにも使われてるそうです。車専用じゃない汎用チップだから、その気になれば誰でも手に入れることができる。誤動作するかしないか、誰でも実験できる。そして、こいつはSoCだ」

「そのソック……って何だぃ?」

「システム・オン・チップ。画像処理を担うデジタル回路以外にも大容量のDRAMやアナログ回路まで、様々な機能を統合した盛り合わせの半導体です。掌サイズの石ころだが、こいつは立派なコンピューターだ」

 プロジェクタに半導体の拡大図が投影された。立っていた捜査員がその一角をとんとんと指で小突く。

「チップ上の……この部分に、無線通信用の信号処理部まで盛り込まれている。もちろんアンテナはつながってません。ですが、本当に無害と言い切れるのかどうか」

「要するにぃ、運転手が寝ていたわけでも、ベガス社の過失でもなく、第三の可能性が……誰かが外からバスを操って、故意に事故を起こした可能性があるってことかい?」

 誰もうなずきはしない。否定もしない。黙っている。

 末次警視が背伸びをして、パイプ椅子がしなる音が——ぎぃ、と響く。「……国交大臣の息子が殺されたとみるべきか、否か。分かれ道ってわけだ」

 殺された。

 その響きに、緒方は生唾を飲んだ。

 





 

(三)


Ⅰ:千代田区:霞が関:午後


  

 岩戸紗英は警察庁のゲートを抜け、広々とした踊り場で足を止めた。遅めのランチを摂ると決めて、総務省のある十一階へ戻らず、一階を目指すことにする。

 中央合同庁舎第二号館の広々とした吹き抜けには、二階の警察庁と一階のロビーを結ぶためだけのエスカレーターが奢られている。下りに乗った岩戸は、上り側からやってきた風変わりな男に声をかけられた。ポロシャツで警察庁に出入りする長髪男といえば、砂堀恭治をおいて他にはいない。

 食事でもどうですか——とのお誘い。

 岩戸は時間が許す限り、人と会うようにしている。二号館は高級官吏の巣窟。パワーランチで得られる情報が些末であった試しがない。おまけに砂堀の仕事領域は岩戸が「狙っていた」フィールド。電網庁と警察の蜜月に「水を注した」男だ。その仕事ぶりを聞き出しておいて損はないと思う。そうやっていろんな人物と会食する様子が、魔女呼ばわりされる一因であることは知っている。でも、その噂がかえって自分を事情通たらしめてくれた。情報を得ようと近づく人間がいれば、提供するとみせかけて別の情報を吸いだす。

 二人が向かった先は一階奥の食堂。時間を外していたから、人手はまばらであった。定食をトレーにとって窓際に腰を落ち着けるなり、砂堀は「人手が足りないんです」と愚痴をこぼした。

「……何の件で?」

「例のバス事案」

「ああ……猪川大臣の」岩戸はそっけなく返事をしたが、其の実驚いていた。国交省と地元の警察署は動いているだろうけれど、ハッカーの所業が疑われているなどと公表された事案ではない。砂堀がそういうのだから——コンピューター犯罪の線があると警察は睨んでいる、ということか。

 さっそくの情報提供に目を白黒させず、岩戸は続けた。「猪川さんは私と同門なの。ゼミの大先輩。私もショックで……バスの構造か何かが問題なの?」

「いやぁ、まだ詳しくは。というか、なんでもかんでも僕に相談がくる。車酔いが酷いとか、そういう適性に関係なくですよ」

 砂堀は食事をするときも、やや斜に構えて座る癖があるようだ。岩戸は続けた。

「車酔いが酷いのって、誰?」

「僕ですよ」右耳にかかる髪をかき上げる。「まったく……バスの構造なんて知るわけないじゃないですか。プログラマーにも得意不得意があるって、申し上げるんだけどわかっちゃくれない。オタクはみんな一緒だと思ってる」

 オタク。岩戸はその表現に同世代特有の皮肉を感じた。ポロシャツにしろ腕時計にしろブランド品であることがわかる——わかるようにロゴがあしらわれたものを身につけている。物と金に執着してきたバブル世代の男。ならばオタクという言葉には侮蔑の感情が含まれる筈。

 だから額面通りには受け取らない。

「オタクってそんなに日に焼けてる?」と突っつく。 

 砂堀は頭を搔いた。「はは……困ってるように見えませんか、俺」

「嬉しい悲鳴って感じじゃないの? 売れっ子ぶりが様になってるぞ」 

「……電網庁にはデジタル・フォレンジック(※データ専門の鑑識)に強そうなエンジニアがたくさんいますよね。一緒に仕事しませんか」

 悪くない話だと岩戸は思った。件のバス事案には不気味なものを感じている。オートパイロット計画の妨害を狙った陰謀だとしたら、放ってはおけない。

「あなたの上司が本気で打診してる……と思っていいの?」

「いいえ。捜査一課と科捜研が内々に動いてる。僕は、とばっちり組」

「科捜研か……」

「横流しじゃご不満ですか?」

「科捜研の仕事にうちが加勢するということを」岩戸は天井を指差した。「二階の連中は喜ぶかしら」

 合同庁舎二号館の、二階。それは警察庁を意味する隠語だ。

「電網庁の公安部隊って、将来的に警察と合流する計画なんでしょ? まったく問題ないじゃないですか」

「ところが、こっちはラブコールしてるけどフラれそう……わかってる? あなたにいいところ、持ってかれちゃったってこと」

 砂堀は深々と溜息をついた。「やっぱりそういうことでしたか。僕的にはちっとも嬉しくない……だいたい当局に懐柔されるなんて、ハッカーとしては矛盾してますよね。砂堀恭治が警視庁に入ったらしいってネットじゃボロクソに叩かれてますし、もともと忙しいの嫌いだし……いつ辞めてやろうかって気分になる」

「聞いてるわよ。三年前におきた警察のデータ漏洩、予言してたんだって?」

「ああ」砂堀は片方の眉を持ち上げた。「愛媛県警の件ですか」

「他にもたくさんあるんでしょ? 武勇伝が」

「穴を指摘するのが仕事でしたからね。愛媛のときなんて、僕はここに呼び出されて、五時間もかけてご説明申し上げたんです。だけど結局、四国にまでうまく伝わってなかった。で、あのザマです。骨折り損ですよ」砂堀は肩をすくめた。

「それから延々と、警察にラブコールされてたんでしょう? 断り続けてたって聞いたわよ。格好いいじゃん。やっぱりギャラが安すぎた?」

「いいえ。単に、組織の一員って柄じゃないんです」砂堀は長髪をかきあげて、白米を口に運んだ。

 岩戸もカレーライスに手をつける。「電網庁としてはバス事案の早期解決に向けて出来る限り協力はしたい……でも、あなたが引っ張りだこってことは、うちをアテにしたくないっていう警察の意思表示だと思うけれど? それでもうちに孫請けをやれってことかしら、商売敵さん」

「堅いこといわないでくださいよ。奢ります、何か。何だろ。ちょっと思いつかないけど」

 岩戸は苦笑した。「あいかわらず軽いノリね」

「これでも無理して明るくしてるんです。何人か雇ったんだけど、連中は癖がありすぎちゃって……オフィスにいると滅入る」

「ああ。あの二人? おデブ君と、かわいいメガネっ娘」

「自分にリーダーシップの才能があるなんて思ってないですけど……それでもね、ちょっと落ちます」

 如何に腕利きといえど、人事の才能は別。名選手名監督に非ず。砂堀チームは万年人手不足——岩戸はそう納得して、うなずいた。

「……ご愁傷様。とにかく八月五日までは無理かな。引越が終わってから相談にのるわ。初台で」

「初台? NTT東日本のある?」

「そ。あの真向かいに電網庁の新庁舎が出来あがるの。スタッフもシステムも、全部集結する。今は余剰人員を割こうにも難しいタイミングね」

「サーバーも引越ですか。大変そうだ……システム一旦、落とすんでしょ」

「引越してメンテしなおして再起動だから、けっこう停めるみたい」

 岩戸はさらりと内部情報を提供してみせた。しかし其の実、すべてが公表済みの話だ。何か聞き出せたと相手に思わせる。そういうテクニックを駆使した。

「その間、電網庁が提供するサービスはどうなるんですか? 免許証の認証とか……」

「一日ぐらいは、しょうがないんだ。新庁舎に期待ってことで」

「東京は無法地帯ですか? パソコンの販売とか、携帯電話の契約とか……」

「販売店に任せる。免許証は目視で確認」

「民間に通達を出して、業務を全て停止させるべきだったんじゃ?」

 砂堀の目つきが鋭い。セキュリティの煩型うるさがたらしく、行政の甘さを突いてくる。手強い男に感じられる。

「え? ……無理よ無理」岩戸は小さく舌を出した。「民業圧迫! って経産省に噛みつかれたら面倒だもの。敵が多いの、私」

「岩戸さんに敵? ファンの間違いじゃ」

「魔女って言われてるのに?」

「魔女っていうか……魔性の女ですよ」

「一緒でしょ」

「全然違う」

 砂堀は笑って言った。「僕は正直、インターネット免許制がこんなに早く立ち上がるとは思っていなかった。キーパーソンは間違いなく貴方だ。行政の担い手でありながら実は有力政治家の娘。理想を実現するために省庁を横断して動き、それと同時に政治家ともよく会う……表と裏の取引全部を仕切っている。貴方がいるから加速する」

「……」

「しかも美人とくれば、イコール魔性のオンナ。ネットではもっぱらそういう事になってます」

「……そうみたいね」

「僕は岩戸紗英と仕事がしてみたい。貴方がいったい何を狙って、日本をどう動かすつもりなのか……興味がある。無論、本気でネット鎖国をやるつもりなら、ハッカーコミュニティの一員として見過ごせない」

「免許制イコール鎖国。ありがちな暴論ね」

「そうかなぁ。一種や二種に許されている権限の箇条書きなんて、舌先三寸。後でどうとでもなる。そうでしょう?」

 ネット鎖国——砂堀はあえて過激な物言いをしてみせる。挑む姿勢が見え隠れしている。ならば。

「ふぅん……さすが。国家権力の担い手を監視して、暴走しないよう嗅ぎ回る……ホワイトハットの性分ってことかしら」

 岩戸も突っ込んだ表現で出方をうかがった。

「ただの女好きって説もありますが」砂堀は髪をかきあげ、微笑んだ。「……魔性とか魔女とか、美人に使う形容詞だ。勲章みたいなもんです。悪い気はしないでしょ?」

 誤魔化された。そう思う。だから、岩戸もはぐらかしにかかった。

「そうね……悪い気はしないな。こないだ、子犬クンにも言われたし」

「子犬クン?」

「そ。オスのね。いつの間にか家に上がりこんで来ちゃった。いきなり初対面で私を魔女呼ばわりするのよ? マジョっ! ってさ」

「犬の鳴き声が!? ……うらやましいな、その子犬。蹴っ飛ばしてやりたい。まさか……人間のオスじゃないですよね」

「うふふ」

 




Ⅱ:千代田区:霞ヶ関:午後


 

 緒方隼人は激しいくしゃみを繰り返した。

「なんだおい……夏風邪か?」

 缶コーヒーを手渡そうとした末次警視が目を丸くする。

「すいません。何だろ急に……あ、いただきます」大ベテランの奢りを両手で受け取ると、緒方は無理に笑顔を作った。

 二人は昼になって科捜研の会議から解放され、一緒に食事を摂り、それから捜査一課のフロアに戻って、自販機前のベンチに腰掛けていた。

「新人同士の、飲み会のやりすぎじゃねぇのかい。コンパっての……脱いで騒ぐんだろ」

「え?」脱ぐ、という響きに警戒心が駆り立てられる。末次のホモっ気は本当なのだろうか。「……二年目ですからね。そこまで浮かれてないっス」

 そういえば、脱いで騒ぎこそしなかったものの岩戸紗英の宿舎では大恥をかいた。あの宴会——香坂との小競り合いが酒の肴にされ、公安の犬だの幼なじみ兼ストーカーなどと罵られ、延々と嘲笑され続けた。苦い想い出である。

「何年目だろうが裸踊りぐらいやるだろ? 機動隊じゃ全裸で腕相撲ってのは定番だ。結婚式でもやる」何故か末次は裸にこだわった。ニタリと嗤う歯並びが恐ろしく美しい。

「……科捜研のクーラーが効きすぎてたのかな。ああいう会議に不慣れなせいかもしれません」

「そうだったか」チンパンジーが缶を開け、一口すすった。「妙な事案に巻き込んで、すまんねぇ。なんせ表向きは国交省の事故調が動いてて、所轄(=千葉県警)はその指示下にある。ウチとしてはなんというか、隙間産業的に、ゲリラでやっとくしかないんだわ」

「……砂堀氏には、なんて報告しましょう。とりあえず資料は渡すとしても」

「ひっぱりだこだそうじゃないか。断りたいって顔に書いてあった」

「俺でよければ何か手伝いますよ。合間、合間で。ジマさん、あんまり煩くないし」

「うれしいねぇ。つっても、公安総務課の守備範囲でいいんだけどさ……末次的には」

 警視は缶をベンチに置いて、捜査資料のファイルを手にした。紙を一枚ひきずりだす。「……怪しい画像処理チップ、SoCってのか? 販売元は、財前セミコンダクタって会社だけど」

「ハッカーが手に入れて、研究して、車を誤動作させようとするかもしれない……って部品ですね」

「こういうのってユーザーサポートとかあるはずだろ? メーカーを攻めたら、顧客のリストを出してくれると思うンだが」

「……車に使われている画像処理専用チップを何のために手に入れたのか、顧客毎に調べるということですね。まっとうな買い手といえるのか、それとも……」

「危険なオタク野郎か……手に入ったら公安的にも面白くないか?」

「ハッカー的な人材でしょうから、十二係の監視対象になり得る。ジマさん乗ってくれるかも……やってみる価値、ありますよ」

「頼むぞ青年。こいつが殺人事件なら、デカいヤマになる」

「押忍」

 

 この日、緒方は絶好調だった。末次とのやりとりの後、三十分もせず件の半導体メーカーに接触し、なんと十五時には早々と資料を手にしていた。財前セミコンダクタはバスの一件を重く受けとめ、ベガス製トラックのリコール騒ぎが蒸し返される事を想定していた様子であった。おかげで対応はすこぶる速く、警視庁へとって返した緒方が捜査一課に資料を届けた時、まだ日は落ちていなかった。

 仕事が速ぇな! ——というベテラン刑事の声が、青年の心に誇らしく響いた。 

 




Ⅲ:新宿区:歌舞伎町:夜


 

 超高層ビルとアジア最大級の歓楽街が結託する新宿駅界隈はまばゆい。一日の乗降客は三百万人を超える。消費する電力量も都内随一である。

 しかし怪物ステーションの膝元にあって、ひときわ薄暗いエリアが存在する。築数十年の低層住宅だけで成り立つ古い飲み屋街、いわゆる新宿ゴールデン街だ。店舗の持ち主は頻繁に変わるものの、なぜか風情は永らく保ち続けている。

 そんな裏路地の間隙で携帯電話の地図をにらみ、店を探して歩く緒方隼人の姿があった。

(ここか……)

 赤い看板のバーを見つけ、ドアを開ける。すると。

「くっそぉおおおおおおおお」

 いきなり雄叫びが聞こえてきた。よく見ると雄ではなく雌。女がカウンターで酒をあおり、荒れている。一見ブラックスーツに短髪で男と見紛う風体はあきらかに件の性悪ハッカー——GEEだ。 

 その隣で、常代有華が心配そうに顔を覗き込んでいた。「どんだけ呑むのかなぁ」

 一番手前に座っていた岩戸紗英は煽っている。「呑め呑め。どんまいだ八千夜大義。しょうがないしょうがなィ」

 緒方は出来上がりつつある女三人の背後から慎重に近づき、カウンターの末席に腰を据え、ぼそりと告げた。

「…………遅くなりました」

 壁の時計を仰ぎ見る。約束の時刻から一時間半ほど過ぎていた。

「子犬君遅っ! 私を監視してるって噂、どうやらガセだナ?」岩戸が早速絡んでくる。

 緒方は目を白黒させた。「……こ、子犬君っていうの、やめませんか」

 有華が追い打ちをかける。「イヌっていうか、もー狸って感じ? 俺はお前の幼なじみだ、心配だから来てるんだっ、みたいな顔しちゃって。本当は、岩戸紗英目当てでしょーが。警察エリートの点数稼ぎじゃあん」

「おい! 呼び出しといて、そりゃあないだろ」

「さては貴様、性悪ダヌキやな。そういえば顔もタヌキっぽいし、タッパもないしなぁ」GEEは関西弁で外見をあげつらう。そして。

「ぅいー、オガタヌキのタマのデカさに乾杯」品がない。

 この三名、顔やスタイルは平均以上であろう。上玉の女子会に呼ばれた格好。その点に異存はない。しかし、もっとグレードを下げていいから、自分をちやほやしてくれる場はないものか——緒方はそんな気分でぼそりと問うた。

「あの…………これ、何の会ですか?」

 有華がぐい、っとオレンジ色のグラスを飲み干した。「ギーさん、NICT出入り禁止になっちゃった。だから激励会っ」

「NICT出入り……禁止?」

「クビやクビ! うがああああ」GEEはスコッチを浴びて、喉を涸らすように唸った。

「何が原因だったんですか……」

 有華は緒方の眼前に人差し指を突きつけた。「おたくの警視庁からウチにですね、事情聴取の要請がございましてっ」

「……え?」緒方が目を丸くする。「今日?」

 岩戸は頬杖をついた。「ナントカって画像処理チップを買った顧客リストの中に、前科者がいたと。しかもNICTに出入りする研究者だと。だから早急に、ブツの使い方を確認したいとかって……連絡が入ったらしいのネ」

「誰が前科者やねん! うぃー、俺様です」

 GEEが唸る。

 有華は腕を組む。

 岩戸が頬杖。

 緒方は——うつむいた。「…………そ……うだったんですか。へー。何の事案だろ」

 思い当たる節がある。ありすぎる。が、言い出せる状況ではない。

「猪川大臣のガキが死んだあのバス事故や。ウチの買ったチップが、バスのECUにも使われてたらしいねん」突っ伏したGEEの目が座っている。

「…………そ、そうなんだ。それで?」

「NICTの偉いさんが慌てちゃってサ……けっこう頭堅いんだよ、あの所長」岩戸が蔑んだ。

「チキンだ、チキンっ」有華は鼻息が荒い。「問題ないんだから堂々としてりゃいいのに! 画像認識を使った自動照準システムの研究用だったわけ。ライフルの引き金をコンピューター任せにする優れもの……なのにさっ」

「それだけで出入り禁止ですか。厳しい処置ですね……潔白なら何も問題は」

「ところがどっこい潔白やないねん」GEEがむくりと頭を持ちあげた。「……ウチがこっそり研究用に、けっこうな銃を二丁買ったのがバレてもうた」

「法的にはOKなんでしょおおお」と有華。

 岩戸が苦笑する。「内緒で買うのはよくなかったネ。前科のことも、八千夜大義の履歴書には書いてないし」

「じゃ稟議を上げるべきだったってこと!?」どん、と有華がカウンターを手で叩き、岩戸に詰め寄る。「警察が守ってくれないから、弱小ハッカー部隊は独自にハイテク武器の研究始めます、って」

「ま、通らないだろうけどサ」岩戸が肩をすくめる。「科捜研、科警研ならまだしも……NICTじゃあ、ね」

「警察酷いぞっ」有華は拳を突き上げる。「蜜月が終わっただけじゃなくて、もはや敵! 警察イコール敵!」

 緒方はこの悪しき流れを、いかに受け流そうか必死に考えていた。「そ……うですか…………そんなことが」

「くっそおおおお、観光バスが何じゃ! 知るか! 興味ないわボケ!」GEEがまたスコッチをあおった。

「……どうなるんですか、ギーさんは」

「無職」岩戸と有華が声を揃える。

「無……職」

「……無職っていうなぁ」GEEの声が、か細く伸びた。

 有華が腕組みしたままうなだれる。「総務省が誇る異才、サイバー犯罪研究の切り札が……」

 岩戸が頬杖しつつ頭をかしげる。「アングラ無双、前科ン犯のブラックハットにィ……」

「……逆戻り」有華が溜息をつく。

「……返り咲き、だよネ」岩戸が苦笑する。

「……無理にほめるな」GEEはつっぷしている。

 緒方は誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。「…………すいません」

「ん? あんた今、なんで謝ったんや」GEEは地獄耳だ。

「す……すいませーん。ええと、ビールくだ……さい」緒方は誤魔化しつつ、ようやく飲み物の注文を遂げた。

「復讐するで」GEEの目がぎらりと光った。

「へ? ……誰に、です?」

「警視庁のボンクラ刑事にや。一泡吹かせたる。ハッカーコミュニティの総攻撃で私生活を暴いて、家族全員血祭りにあげたる」

「……ぐ、具体的には」

「緒方。お前、手伝え。財前セミコンダクタに押しかけた刑事がおるはずや。そいつが誰か、まずは調べて……」

「う、それはちょっと」緒方が狼狽する。

「それは……ちょっと」岩戸も眉を寄せる。 

 有華がいきおい立ち上がった。「ダメっ! それだけはダメっ、ギーさん」

「お」

 その場にいた全員が、有華の剣幕に押され目を丸くした。

「刑事への個人攻撃はナシっ。それやったら、本当のアウトじゃんっ」

「……お説教か?」GEEがのけぞって、今度は有華に矛先を向けた。「ゆかりんはやっぱり真面目ちゃんやな。警視総監の姪っ子ちゅうのは、アレか? 友達がどうなろうと、警察が大事か?」

「…………そんな風に思ってたんですか、私の事」有華が口を尖らせる。

「じゃあ何もせんと、野垂れ死にしたる」GEEがふてくされる。

「そんなこと頼んでないしっ、殺したって死にそうにないしっ」

「アホか。死ぬわ。見事に散ったるわボケぇ」

 緒方は一人、おろおろした。「わ……わ……」

 自分のせいで、仲のいい二人が揉め始めている。

「まぁまぁ。仕事はホラ、私がちゃんと振ってあげるからサ」岩戸が助け船を出す。

 緒方が魔女に頭を下げた。「そうですか。助かります」

 ここぞ、とばかりに有華とGEEが口を揃える。「お前が言うなっ」

「ぐ……」

 まずい。この場をどうにか切り抜けたい。

 緒方は口からでまかせ気味に言い放った。「……こ、こういうのはどうです? ……本当の犯人を捕まえる」

 ぴたり。

 有華とGEEの動きが止まった。四つの眼球が自分を注視している。

 緒方は勢いにまかせて言った。「あ、いや……聞いた話なんですけどね、例のバス事故、運転手の運転ミスじゃないかもしれない、って」

「遺族が必死になってるらしいわね。バスそのものに不具合があったんじゃないかって」岩戸が眉間に皺を寄せた。「……私的には、ベガスにも過失はなさそうだって思うンだけど」

「何か根拠があるんですか」

「タイミングが、ね。猪川大臣とベガス社は、国策として電気自動車やスマートシティを推し進めてきた盟友といっていい間柄よ。その関係をぶちこわす大惨事……なんだか偶然には思えなくて」

「……つまり何者かが、国交省とベガス両方を陥れるために、計画的に事故を引き起こした。そう考えてらっしゃるんですね」

「イエス。陰謀じゃないの……って考えちゃう」

「それだっ」有華がGEEの両肩をむんず、と掴む。「私も手伝うから、真犯人つかまえましょう! 警視庁を出し抜いて、潔白を証明するっ」

「そんなんええねん」GEEの反応は鈍い。「ウチは刑事の私生活、壊したいだけやねん」

「もう! その刑事だけじゃなくて、警察全体に勝ってみせればいいじゃないスかっ」

「めんどくさ。プライバシー侵害の方が簡単やけど」

「……悲しいこと言わないでください」

 有華がGEEを鋭くにらみつけている。研究をサポートするアシスタントとして、本気で心配しているのがよくわかる。

 当の女ハッカーは不満げに舌打ちすると、HMDを装着して仮想世界に引きこもった。

「……おい髷の字、お前はどう思うねん」エージェント・プログラム相手に話しかけ、浴びるように琥珀色の透明をあおる。

「バス事案の真犯人探し……いいわね、それ」岩戸がぽん、と膝を打った。「ゆかりん、私の送り迎えは当分しなくていいわよ。GEE君さぁ、暇になったんだから真面目に考えてみてくれない? 計画的大量殺人なんて絶対許せないし、それに……もしも解決できたら、総務省の底力を警察にアピールできちゃう。向こうからラブコールしてくるかも」

 それから緒方に目配せした。「私って振り向くより、振り向かせる方が……性に合ってるのよね」

 若き警察官僚は顔をひきつらせた。

 有華は酔い覚ましにとチェイサーの水を勢いよく飲み干し、さらに追加をオーダー。

 GEEは、ウチはお茶がええな——としわがれた声を出した。

  

  

 九時過ぎにバーを出た四人は、暗く手狭なゴールデン街の路地を大通りに向かって歩いた。岩戸が一番前を。やや離れて緒方と有華が。

 GEEは最後尾をのそりのそりとついてくる。ふてくされている様子だったが、やがて立ち止まり——おもむろにHMDを外した。

「さっきはごめん」と呟く。何かを反省しているらしい。

 有華が立ち止まって応じた。

「蹴っていい?」笑いながら足をあげる。

「ええよ。一発ぐらい。でもケツにしてんか。股間はチンコが痛いから」

「マジで付いてそうな言い方」

「…………ゆかりんの前で口にするべき台詞じゃなかった。ま、ウチの本音やからしょうがないけど」GEEは苦笑いを浮かべている。

「気にしてない」有華も苦笑する。

「嘘つけ。悲しいって言うてた」

「うん。嘘ついた。ちょっと悲しかった」

「…………一人で頭冷やしてくる」女ハッカーが群れを離れ、闇に消えていった。

 それを見届けて緒方が言う。

「あの人にも……反省するってこと、あるんだ」

「あるみたい」有華が笑った。

「あれか? 警視総監の姪っ子は真面目チャン……っていう発言を反省してるのか」

「あー、そっちじゃない」

「そっちじゃないって……ということは」

「刑事のプライバシーをハッキングで侵害したい、私生活を壊したいって罵ったことを……反省してるんでしょ」

 緒方は神妙な顔になった。幼なじみとして知る間だからこそ共有している闇がある。いつも明るく機敏な段取り娘、常代有華。その実態は、ネットでプライバシーを完膚なきまでに壊された経験を持つ——ネクラ娘。

けいのこと、GEEさんに喋ったのか」

「喋った」有華はさばさばしている。

「総務省の人たちって、みんな……啓のことを知ってるのか」

「ううん」有華は遥か前を行く岩戸との距離を測り、小声で言った。「……ギィさんは特別」

「……仲いいよな」

「あの阿呆な悪人ノリが、私の元気のミナモトなんだ。旅行しようとか……北海道ツーリング、計画したり」

「嘘っ」緒方は目を丸くする。「お前が?」

「そうだよ。あっちがバイクで私が車」

「すげぇ。信じられない」

「ね。アンビリーバボーっスよ、自分でも。だからギィさんの名誉、回復させてあげたいなぁ」有華は真顔になった。「真犯人捜し……手伝ってよ、隼人」

「……そうだな」

 緒方は小さくうなずいて、それから遥か前方に視線を注いだ。ゴールデン街の端っこで立ち止まる岩戸紗英の背中を。

 女帝は重そうなバッグを片手に、裏路地の手狭な夜空を見上げていた。






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