(四)(五)(六)

渋谷区・江戸川区・千代田区



(四)


渋谷区:初台:深夜


 

 香坂はペットボトルのお茶を口に含み、残った量を眺めた。昨日より減り具合が遅い。

「……ふぅ、エアコンが効いてくれるのは、助かりますね」

 今夜は蒸し暑さを感じない。それが嬉しい。

 先輩が言った。「ゴメン。今日は終電車があるうちに帰りたいんだ……あと、頼めるかな」

「あ、どうぞどうぞ。僕、歩いて5分ですから」

 香坂は新婚の上司を気前よく見送ると、背もたれに体重をあずけた。スマホを手に取る。夜の十一時を回っている。

 新宿からやや西へ歩いた初台エリアにそびえ立つ、真新しいオフィスビル。電網庁の新庁舎。その最深部にて居残りを続けるのは、香坂ただ一人になった。

(涼しいってだけで、こうも能率って上がるものなんだな)

 少しずつ工事が進んでいる。環境が整いつつあるという実感が湧く。だが、いまだにほとんどのオフィスは消灯されたまま。明るいのは自分たちがいるサーバールームだけだ。スチールラックは錆びひとつなく、はがしたビニールや取り扱い説明書がところ狭しと床に散乱している。

 霞ヶ関にある総務省や九段下にある関東総合通信局など、散り散りになって仕事を続けている電網庁のメンバーがここ初台へ集結するのは二週間後の予定。但し、電網免許証を用いた入退館のセキュリティシステムはその前に稼働を始めるべきだ。そのために必要最小限のメンバーが前倒しで新庁舎に入り浸り、連日連夜作業を続けている。しかも他の業務と併行して。

 香坂もその面子に加わっている。朝は霞ヶ関、昼からは都条例の取締りで法人を行脚し、一旦霞ヶ関に戻った後、夜は初台へ。その繰り返し。

(さて、もうひと頑張りしようかな)

 有華から届いた飲み会のお誘いメールには気づいていた。場所もゴールデン街で、さほど遠くない。でも残念ながら手が離せない。二週間後という締め切りもあるし、自分が専門家であてにされているという事情は重い。

 香坂はメールに添付されていた店の地図をじっとにらんで、溜息をついた。

 そこへ。

「毎晩悪いな、残業」

 とびきり大柄な男がふらり、と現れた。開発局局次長——垂水昂市である。「金曜日だしな。女の子からお誘い、あったんじゃないのか? 言ってくれよ」

「え!?」

「……なんだ。図星だったか」

「いいんです」香坂は笑って誤魔化した。「人使いが荒いことは噂に聞いてましたから」

「ブラック企業っていいたいんだろう。言っておくけど、総務省に限った話じゃないぞ」

「組織に、尽くせるか……」香坂は謎の電子メールを引用した。「ここは試練です」

 差出人についてはまだ不明のまま。忘れた日は一日もない。

「……ま、そう言うな。今日は終わりにしよう。な?」

「エアコンのおかげで、それなりにはかどったし……局次長がそうおっしゃるなら」

「よし……ということ、で」

 ぱん、ぱん。

 垂水が、まるで給仕を呼びつけるように手を叩き鳴らした。すると。

 サーバールームの入口で女二人の声が響いた。

「はーい! 残業代でぇええええす」通称ナナさん。アラフォー。長い黒髪と理知的な眼鏡のスレンダー。

「おっぱい四つ、ただいま到着しましたぁあ」通称ゆりっしー。アラサー。ショートボブでダイナマイトボディ。

 セクハラ容認を信条とする美人出入り業者二人組が、進軍ラッパのごとくがらがらと音をたて、台車を押して突撃してきた。缶ビールやピザを山盛り載せている。

「わわっ!?」香坂は面食らった。

 垂水がすかさず耳打ちしてくる。「すまん。常代君は別件でこれないと」

「どうして謝るんですか」

「……いや、なんとなく」

 

 

 三人の闖入ちんにゅう者により、サーバールームはにわか宴会場と化した。

「それでねぇ、カ・レ・シが言うわけ。ハッキングってのはさ、いまどき誰でもできるんだよぉ~、って」ナナはすっかり出来上がっている。どこかで飲んできたらしい。頬だけでなく眼鏡の内側まで上気している。

「はぁ」適当に答えつつ、香坂はピザを頬張った。

「(ぐびり)」垂水は缶ビールではなく缶酎ハイを。

「げ、彼氏だぁ!?」ゆりっしーは胸を揺らして言った。「こないだの合コンのあいつ!? 信じられん……つきあってんのぉおお」

 この二人は同じ合コンに参加したらしい。

「へぇ」と香坂。

「(ぐびり)」と垂水。

「そいでね、こうやったら悪いツールが買えちゃうんだぞおおおおって、目の前でやってみせるわけ。ノートPC開いちゃって。わかる? ハッカーってやつよハッカーなのよ」

「ふむ」と香坂。

「(ぐびり)」と垂水。

「やっぱアラフォーは駄目だな飢えてるから」ゆりっしーはナナに激しく詰め寄った。「何がハッカーだ。胡散臭いって。あいつ駄目。絶対駄目」

「実はさ」

「何」

「貢いじゃった……こ・れ」

 ナナはポケットから携帯電話を取りだし、何やら写真を披露している。

「嘘っ。マジ!?」液晶を覗き込むゆりっしーの顔が、みるみる歪んだ。「……で、見返りはあったわけ」

「フェイスブックの垢、教えてくれちゃったー。それがさぁ、偽名でやんの」

「……それだけ?」

「何言ってんの。偽名でアカウント作ってることを、私にはこっそり教えてくれたってことだよぉ。つまり私は特別。へへ。か・わ・い・いぃいい」

「ば、ば」ゆりっしーが胸を揺らして憤慨した。「馬鹿じゃないっ!? この腕時計五十万くだらないっしょ、その見返りがフェイスブックの偽垢って……それでいいのかっ」

 香坂もナナの携帯を覗き込んだ。スイス製の高級腕時計が映っている。

「アラフォー資金は潤沢なのぉ。あは、あはは」ナナが笑う。

「あかん。もー、ア・ラ・フォーじゃなくてア・ふぉだ、アフォ」ゆりっしーがうなだれる。

「なるほど」と香坂。

「(ぐびり)」と垂水。

「あ!」ゆりっしーが唐突に香坂を指差した。「……せっかく若いイケメンがいるのにぃ、他の男の話はアウトだ。話題的にミスってる! だよね? しっかりしてくださいお姉様っ」

 ナナは動きを止めた。眼鏡の表面がぎらりと光る。「何いってんの。ジェラシーでキツネ君を、興奮させる手だからぁ」

「そうか……そんな手があるのかっ」ゆりっしーの熱視線が香坂に注がれる。「ねぇ香坂君はさ、やきもちとか焼くタイプ? こういう話聞いて、むしろ熱くなる? 胸焦がしちゃう? っていうか寝取りたい? 寝取るって意味わかる?」

「うーん」

 苦笑いする若者の肩を、垂水がこづいた。「このピザ、結構旨いよな」

 香坂がうなずく。「ですね。冷めても旨い」

 

 

 ゴールデン街から公務員宿舎までは歩いて帰れる距離だ。

 常代有華は岩戸たちと飲んだ帰り道、その道すがら、緒方と新宿駅で別れ、岩戸とはコンビニで別れ——一人、あえて遠回りなルートをとった。

 明日からはGEEと探偵ごっこが始まる。ということは香坂の顔を見るチャンスはさらに少なくなる。そんな思いをめぐらせた途端、足が初台駅に向く。

 夜の新庁舎を見上げながら、帰ってみようと思う。

 信号待ちで携帯電話を取りだし、香坂からの電子メールをひもといた。

 

 

 ゴメン、行けそうにない

 真新しいサーバールームにてケーブル・スパゲティの具と化しています   

                                祗園狐

 

 

 信号を渡りきったところで立ち止まり、真新しい高層ビルを仰ぎ見た。

 照明が点いている窓は一つや二つではないけれど——仕事中だという香坂の所在に、おおまかな見当をつける。

(あの窓かな……いや、サーバールームって窓とかないのか?)

 有華は左手に小さな紙袋をぶらさげていた。中身は香坂の落とし物に違いないと思われる『技芸上達』の御守り。ロータス・エクセルの助手席で見つけた物だ。

(どうしよう)

 わざわざこれを届けるためだけに、仕事の邪魔をするのは気が引ける。やっぱり宿舎のポストに放り込んでやろうかな。んー、ポストもダメかも? 一応は御守りなんだし、バチが当たるといけないから、やっぱり手渡すべきかも。

 有華は所在なく歩き始めた。

 香坂は期待されている。だから忙しい。並の新人とは段違いに。それは公務員でない自分にもわかる。

「おやすみ……がんばれ、キツネ丼」

 そう告げて、新庁舎に背を向ける。

 

* 

 

 同じ夜、コンビニの外で。

 女性エリート官僚は携帯電話を手に深呼吸した。

 修学旅行バス事案の真相究明。GEEと有華が動くために、出来る限りの援護射撃をしておきたい。だからベガス社のキーマンに大事な相談をしておこう、早い方がいい——と意を決する。

「もしもし、岩戸です……ええ。そうです。その件でちょっとお話が」

 四本木篤之は私に好意を持っている。それは充分に理解している。でも利用したいとは思わない。ポイントはそこじゃない。

「そうなんです。私、全っ然納得できてないの。で、ウチの特命チームを動かして、バスの一件は仕組まれた事故だってことを証明しようと思うんです。ええ。ベガスグループでも観光バス会社でも運転手でもない……どこかに真犯人がいるんじゃないか? って線で」

 陽気なカエル顔。気の良いエリート・エンジニア。あの中年男は汚れていない。純粋。純真。車が好きというだけ。少年っぽい成分が多め。

「四本木さん、私と共闘しません? だって……」

 正義漢をストレートに刺激する。これが正着。「だって悔しいじゃないですか」

 魔女は男の声色に手応えを感じていた。

 

 

 同じ夜。都内某所。

 女ハッカーはセーフハウスで徹夜作業に没頭した。

 本気になっていた。酔いは当の昔に吹っ飛び、頭を冷やすなどというレベルにとどまらず——覚醒状態で突っ走り、朝を迎えた。

 自分に対する怒りがそうさせるのだ。

 常代有華の前で「誰かのプライバシーを攻撃する」などと非道な物言いをぶちまけたのは大失敗。もちろん毒を吐くのは自分本来のキャラであり、いつでもどこでもたっぷり悪意は持っている。

 けれど有華だけはあまり傷つけたくない。

 ネットで散々にプライバシーを叩かれた。酷い仕打ちに遭ってきた。一見立ち直ったように見えて、でもひきずっている——そんな娘だ。

(アホやであんた……八千夜大義)

 わかりきっていたのに。

 禁句だったのに。

 酔った拍子で枷が外れた。思いつきが、そのまま口を突いて出てしまった。

(許せ、ゆかりん)

 GEEは珍しく本気モードだった。自ら尻を叩いた。

 左目で液晶モニタを。

 右目でHMDをにらみ続け。

 一心不乱にキーボードを叩き。

 六時間近く集中した結果——やがて。

「ハハァ」

 女ハッカーはゆっくりとHMDを外した。「……貴様らかぁ」







(五)


江戸川区:臨海町:午前



「おおお!?」

 助手席で緒方隼人は大きな声を出した。「……忍者だ」

 コンピューターが描き出した三頭身に満たないキャラクター、いわゆるアバターが目の前にいた。忍び装束に足袋。口元は隠れているが、ぱっちりとした大きな瞳と、大きすぎてほうきのように飛び出ている髷がアンバランスだ。

〈御初に御目にかかる。拙者、髷MAXと申す。以後、御見知り置きを〉

 手のひらサイズの忍者は片膝をついて頭をさげた——車のダッシュボードの上で。

「お……緒方です。よろしく。髷MAX? って……もしかして髷が物凄く大きいって意味?」

〈御名答。お恥ずかしい限り哉〉

 アバターの電子的な音声はイヤフォンを通じて耳に届いた。少年のような若々しい響きを持つ古風な言葉使いは、おふざけというより、実直な印象を与える。

 緒方は首を軽くかしげてみた。そもそもHMD——眼鏡タイプの透過型ディスプレイを着ける事自体が初経験。自分の頭の角度に関わらず、チビ忍者がダッシュボードにぴったりと張り付いて見えるだけでも驚く。

「すごいすごい。へー、これがARか……」

「ええか、見とけよ」

 後部座席から女ハッカーの指示が飛んだ。「髷、さっきのアレ出してんか」

〈御意〉

 チビ忍者が何かを投げた。ぼうん、と煙が出る。

 すると間もなく、緒方の視界を六人分の顔写真が埋め尽くした。

「こいつらが……そのブロウ……メン」

「ブロウメン。車専門のハッカー集団。業界では最右翼……というても、犯罪者という意味やないで。コンピューターチューニングって、わかるか?」

「チューニング……車のエンジンをパワーアップするって事?」

 運転席でマニュアルシフトに苦労しつつ、有華が言った。「……こういうボロ車じゃなくて最近の車はね、エンジンを制御するコンピューターをいじるだけで、馬力をアップしたりできるわけ」

「へー」

「で、ブロウメンはそのデータやノウハウを売買してる連中の中でも、極めつけの凄腕や」GEEは暗幕をはねあげて言った。「世界広しといえど、日本車に精通してる最強ハッカーは日本人。それも一握りしかおらん……叩いたらホコリが出る。と、ウチはにらんでる」

「出るんですか」

「実はちょっと叩いてみた。ホコリ臭かった」

「どんな風に叩いたんですか」

「教えてもええけど」

 有華が口を挟んだ。「聞くな。どうせ合法じゃないから」

「……また今度にします」

 緒方とGEEは有華の運転するロータス・エクセルに揺られ、郊外へと向かっていた。

 あの飲み会からちょうど一週間が経つ。女ハッカーはバス事案について嗅ぎ回り、自動車業界のダークサイドに——その奥底に延々と潜っていたらしい。

「この……パックエイトバックエイト? ……って奴は、写真も本名も全くわからないんですね」緒方は目を凝らした。

 件のハッカーグループについて、全員の素性が割れているわけではなさそうだ。

「パケットバケット(pack8back8)な。用心深い奴や。たぶん一番の大物で黒幕の可能性大。とりあえず、狙い目はクラムシェル(k1amShe1l)って男」

「クラムシェル……本名・甲斐原豪。どうしてこいつを?」

「車のチューニングってのはパワーのあるスポーツカーの世界や。そっちはニーズもあるし手掛けるマニアも多い。しかしな、トラックのコンピューターチューンなんてニッチもニッチ、隙間産業もええとこや。その狭ぁい世界でクラムシェルは神とあがめられている。理由は簡単、こいつはメーカーの人間や」

「職業・会社員……勤務先・ベガスカスタマーセンター江戸川第二。整備課、係長」

 髷が宙返りを決めた。すると画面いっぱいに写真が映し出される。色とりどりのトラックを膨大に停めた郊外の整備工場である。

「すご……壮観ですね」

〈さーびすせんたー江戸川第二は大型車専門也〉

「……ふむ。でもその立場にいるというだけで、疑うのはどうかと思いますが」

「フェラーリ三台持っててもか?」

「フェラーリ?」

「こいつの金回りは異常。疑われてもしょうがないで。髷、アレ見せてやって」

〈御意〉

 チビ忍者は一旦ダッシュボードの左端へと走り、巻物を解きほぐすと、それを引っ張って右へと走った。

「なんですか、これ……」

 巻物に記されている大量の文字列。

「……車検でアウトになるような違法改造の情報ばっかり晒してる、アングラの掲示板や。車種毎に分類されててな。便利やで」

「凄い数ですね」

「トラックのスレには、クラムシェルの面白い書き込みが幾つかある……読めるか?」

「なになに……EX122のECU? に……LA300Tのファームウェアをロード成功? 思いっきり燃費削ってやった……財布が傷むだろ……」

 さっぱり意味がわからない、と緒方は苦虫を潰す。

 すると髷が更に何かを二つ投げた。

 みるみる膨らんで二枚の写真になる。観光バスとトラック。各々にEX122、LA300Tとある。

「つまりな。甲斐原は悪戯で、EX122というバスにLA300Tというトラックのプログラムを強引に移植したって意味」

「なんでそんなことを?」

「腹の立つ客がいたら、こっそりエンジンの燃費を下げるような改造をして悦に入ってる。そういうことやろ」

「セコい野郎ですね……で、どう考えるべきなんです?」

「ええか。こいつはバスやらトラックやら、大型車両のありとあらゆるプログラムをコレクションしてるってことや。当然、古い物もストックしている筈。意味わかるな」

「なるほど……そういうことか。あの事故を起こしたバスのECUでは、一年前にトラックで起きた不具合を解消した最新のプログラムが動作してる筈。でも整備士が自分の判断で、勝手に古い方のプログラムに入れ替えたとしたら」

「……しかもそいつが、大金を掴まされているとしたら。ヤバいやろ?」

 緒方の口元が引き締まった。「大金の出所はどこです? 猪川大臣の失脚が狙いか……あるいはベガス社を窮地に陥れたいのか」

「わからん。けど証拠を掴んで甲斐原をしょっぴいたら、客にダメージは与えられるで?」

「うーん……末端の兵隊を一匹、捕まえてもなぁ」

「甘いなぁ、タヌ公」

「は? ……タヌ公って俺?」

「公安の腹黒狸やからタヌ公でええやんか。あのな、トラックは単体兵器として需要があるんやで。自動車爆弾ってわかるか?」

「……テロですか」

「ビンラディンは日本車使うの大好きみたいやからなぁ。アルカイダはトヨタやら日産のトラックに一トンぐらい爆弾積んで、世界中のアメリカ大使館にがんがん突っ込みよる。中東、アフリカとは限らへんで。何年か前にバリ島で二〇〇人死んだテロがあったやろ。三菱製が使われたんは有名な話。死のミニバンいうてなぁ……たった一台でインドネシアのGDP1%分の被害を出したらしい」

「インドネシアのGDP1%って数百……いや、違うな……数千億円?」

「ま、とにかく日本車の性能は最高。ダークサイドからの信頼も厚い」

「日本のトラックを操る技術は高値で取引され……最後は国際的なテロリストの手に」

「そーいうこと。ただの兵隊で済ませてエエ奴かどうか? もしかしたらクラムシェルの手は血まみれ。死刑でも足らん……そんな証拠が、出てくるかもしれへんでぇ?」

 

 

 郊外をひた走るロータス・エクセルは、やがて広大な荒れ地へと滑り込んだ。

(ここは……?)

 廃屋にしか見えないプレハブを、分断され錆び付いたスクラップの車が膨大に折り重なり、取り囲んでいる。日本有数の自動車メーカーが誇る最新鋭の整備工場にしてはお粗末。どうみてもジャンク屋だ。

 緒方はHMDを外すと助手席で首をかしげた。ここが最終目的地ではないらしい。

 車を降りた三人を出迎えたのは、スリムで筋肉質で日焼けしたタンクトップの金髪男であった。名をタマラという。

「あーらー、そっちのかわいい子が、噂のゆかりん?」タマラは流暢なオネェ言葉を操る。ジャンク屋の主らしい。

「え……あはは。噂ってどんな?」

「じゃあこっちが噂のイケメン君……?」タマラは緒方を露骨に指差した。「……言っちゃ悪いけど、割りとフツーね。フツー」

「ああ、そいつは緒方。公安の狸。タヌ公や」GEEが笑う。

「なんだ。キツネ君じゃないのね」

「普通ですいません」緒方はふてくされた。

「でも空手黒帯らしいで」

「いやん! お手合わせ願おうかしら」

 金髪男は足を高くあげ、空中で蹴りを連発する。

 緒方は咄嗟に腰を落とし、低く身構えた。「キック(=キックボクシング)ですか?」

「イエス。心配しないで、金的攻撃なんてしないわよ。反則だから……昼・間・は、ネ。ぐふふふふふ」

 べちん。

 高く足を上げたままほくそ笑むタマラの後頭部を、GEEが素手で張り倒した。

「こら。お前、金髪どうにかしろって言うたやろ」

「えー」タマラは口を尖らせる。「帽子かぶるって、言ったジャン」

 ぱん、ぱん。有華が手を叩いた。

「さ、みなさん。とっとと着替えますよ、着替え」


 

 それから待つこと一〇分。 

「は? 記念写真?」緒方は唖然とした。わざわざカメラと三脚を持参させられた理由に、肩すかしを食らったのだ。「……なんだよ。てっきり被疑者の顔とか、隠し撮りするんだとばっかり」

 着替えを終えたタマラとGEEはバス運転手に。有華はバスガイドに。三人の背後には観光バスが鎮座していた。

 どうみてもコスプレ撮影会である。

「カメラ持ってきてって、頼んだだけじゃん」有華は旗をぱたぱたと振った。「はぁい。江戸川区廃工場ツアーへようこそぉー」

「……お前なぁ。だったら普通のデジカメで十分だろ」

 緒方はキャスター付きのカメラバッグを持参していた。スポーツシューティングを意識した大口径超望遠レンズは七キログラムもある超重量級。それに見合う頑丈な三脚は、どう考えてもオーバースペックだ。

「何。俺の最高級カメラと最高級の腕前は、お前らを撮るためにあるんじゃないんだって意味?」有華がふてくされる。

「そうならそうと言え、ってことだよ」

「あっらー、自意識過剰だねぇ狸クンっ」制服を着崩したド派手な金髪運転手が言った。「……ねぇねぇねぇ。オカマにナルシストって言われるの最悪よ?」

 同じく着崩した女ハッカー運転手が追い打ちをかける。「わかったぞ。空手のやりすぎやろ緒方。ほれ、お前ら型とか好きやろ? 鏡ばっかり見て、うっとりしてるんやろ? 図星?」

「あのね」緒方はカメラの電源を切った。「撮りませんよ、そんな態度だと」

 バスガイドが言った。「あ、でもカメ小(=カメラ小僧)としてはこいつ、一応一流なんでございまぁす。空手なんて大学から始めただけ。高校生の頃は、写真キチガイのガリ勉君でしたぁ」

「あっらー、あんたキモヲタなの? キモっ」幼なじみの曝露ばくろ話にタマラはますますテンションを上げる。「……アレレ? オカマにキモイって言われちゃったぞ。残念だぁ」

「なるほど……そうか! わかったでぇ」GEEはとことん品を下げた。「お前盗撮専門やろ? せやから記念撮影に自信ないんやな。ヘタクソなんやろ? 図星?」

「ち」

 売られた喧嘩は買わねばならぬ——これでも高校時代は賞状までもらった男だ。

 緒方は背後のバスとうまく構図が収まるよう立ち位置を変え、焦点距離を調整した。「撮りますよ。はい」

 シャッターを繰り返し切る。小気味よく。

 するとすべてのタイミングで、コスプレ三人組はモデルさながらにポーズを変え、決めてみせた。

 無駄にフォトジェニックであった。

「くっそー、みんなきっちり笑顔なのが、腹立つ……」

 

 

 それから四人は作戦行動を開始した。

 タマラが運転する観光バスはGEEを乗せて十キロほど走った後、「ベガスカスタマーセンター江戸川第二」へと滑り込んだ。件のクラムシェルこと甲斐原豪の勤め先だ。一方、緒方は有華のロータス・エクセルでバスを追走し、整備工場の手前で停車。敷地の外から様子をうかがった。

「なぁお前、その格好必要なかったんじゃ……」

 助手席で緒方は首をかしげ、訝しんだ。「まさか……着てみたかっただけ、とか?」

 中に乗り込んでいった二人がバスの運転手に扮装した理由はわかるものの、どうして有華までがバスガイド姿なのか、と。

「ち、違う違うっ」有華は慌てて取り繕った。「何かあるといけないから着ろって、GEEさんがあんまりうるさいから」

 緒方はニタニタしながらバスガイド姿を値踏みした。

 本来、常代有華といえば顔立ちこそ整っているが化粧はリップクリームのみ、髪も年中ショートカットで通し、言葉使いは男子よりも雑、普段着はBMX系のブランド一辺倒という野生児だ。高校時代をよく知る同級生としてはOLのスカート姿でさえ貴重なのである。そこへきてコスプレ。そもそもスタイルが良く何でも似合う上に、今日のバスガイドはピンク系の制服。だから猫の如く黒目勝ちな瞳・小麦色の肌・ひたすら黒い髪とのコントラストはとても鮮やかで、見栄えがする。

「正直になれよ。いやー、かつて筑波の鬼っ子と恐れられた常代有華ともあろうものが……立派に女だねぇ」

「……うっさい、黙れ」有華はばん、と緒方の右肩を叩いた。それから「ぶつぞ」と凄んだ。

「痛ってぇ。もうぶってるだろが、遅いだろがっ」

「空手、黒帯。だったら気配で避けられる」

「無茶言うな……ところで、香坂はどうして巻き込まないの」

 有華は黒く大きな瞳をさらに開いて丸くした。「あ……キツネ丼は、土日も本業で忙しそうだから」

「何だよそれ。俺だったらいいのかよ」

「隼人はほぼ本業じゃん? それに社会人二年目だ。少々ハメを外してもエリート街道は外れないでしょ……香坂は新人だからね。しかも期待の」

 バス事案の犯人捜しが電網庁の本業でないことは明らかだ。確かに香坂は巻き込んで良い人間ではない。

 しかし緒方は有華の発言に別のニュアンスを感じた。

「いい奴……なんだろ」

「どして?」

「……あの晩、歓迎会。駐車場で俺を見つけた時、アイツの態度は毅然としてた。お前を守ってやろうという男気を感じたよ」

「公安マン君が怪しすぎるからだ」

「ぬ!? ……まぁな」

「へへ……ま、しょうがない。とっくみあいになっても、ちゃんと手加減したのは黒帯の態度として正しい……隼人も褒めてやる」

 緒方は鎌をかけた。「……男前だよなぁ」

「香坂? 外見が、って意味?」

 やっぱりだ。イケメンの部類に入るらしい。でも、これ以上突っ込みを入れるとまた叩かれそうだと思った。

 なので。

「ごほん」咳払いして話題を切り替える。「……にしても……あのバス、例の事故を起こした車両と同型だろ。あのオカマとオナベの運転手コンビ、何を始めるつもりなんだ?」

 緒方は柵の向こう側を——整備工場の敷地の中を観察するべくHMDを装着した。内蔵カメラのデジタルズームでどこまで見えるものか、試したいと思ったのだ。

「カメ……ラって、どうやって使うんだろ」

 すると、ダッシュボードに鎮座していた髷MAXが軽く頷いた。長い髷が床に届きそうだ。

〈お任せあれ〉

 マイク越しに入力された緒方の言葉に反応したらしい。音声認識で頼み事ができるようだ。間髪入れず、透過型のディスプレイ一杯にカメラが撮るリアルタイム動画が表示された。

 GEEたちはバスを降りて整備士と話をしている。 

「さっきのハッカー集団……ブロウメンたちの顔写真って、見られる?」

〈御意〉

 チビ忍者が宙返りを決める。すると男の顔写真が眼前に現れた。と同時にカメラの動画がやや縮小され、二つが左右に均等な大きさで並ぶ。

 更にアバターは三度、四度連続して宙返りし続け、着地の度に太い髷をぶらぶらと揺らし「顔を比較したい」という緒方の意図を汲んで、隣り合う顔画像の倍率を最適に調整した。

「う……気が利いてるね」

〈恐悦至極に候〉

 GEEと会話する整備士は顔写真と同様、唇が厚ぼったい。目の下に隈があって不健康そうな顔立ちだ。視線がぎらついて感じられる。

「……クラムシェル。こいつが甲斐原豪か」

 有華が手を組んで、ぽきりと鳴らした。「直接対決、ってわけね」

 


 GEEがバスの運転手に化け、観光バスで整備工場へ討ち入りを遂げたその夜。

 有華たちを乗せたロータスは、仕事を終えた甲斐原豪が乗る最新鋭フェラーリを尾行していた。

(わかんねぇな……どうしてあんな乗りにくそうな車がほしいのか) 

 緒方には甲斐原の気分が解せない。自分たちの乗る古くさいハッチバックスタイルの英国車に比べ、目の前を走る赤いイタリアン・クーペは背がとびきり低い。乗り降りが面倒だし燃費も悪そうで荷物を載せる場所もない。無論、時価にして二桁は違う超高級外車だということは朧気に理解している。しかし馬力や最高速度といった細かいディテールには一切興味が湧かない。一応運転免許を取るには取った。けれど、実用性のまるでないスポーツカーに魅力を感じるのは狂気の沙汰だと思う。

 写真に燃えていた頃は超望遠レンズを構え、十代の天才少女がサーキットを縦横無尽に失踪する様子を追いかけたこともあった。しかし「つまらない写真」「よくある写真」の山に肩を落とす日々だった。モータースポーツは観るものじゃない。やるものだ。それが結論であった。

 むしろ緒方はHMDに興味津々で、目前のフェラーリはさておき、ガラス面に投影される小さな画像に注目していた。録画済みの動画である。

 GEEは整備工場に持ち込んだ観光バスに隠しカメラを仕込んだ。そこにツナギ姿の甲斐原がコンピューターを運転席に持ち込み、ケーブルをつないで作業する様子が延々と映っている。そして。

「これですか? この青い奴?」ひときわ目立つのが、甲斐原の私物らしきノートPCである。「……どこにでも売ってそうな、ありきたりなパソコンって印象ですね」

「こいつ、ずっと後生大事に持ち歩いとるで。仕事中も、仕事が終わってからも」暗幕をまくりあげて、GEEがフロントガラスを指差した。「……ほれ、今も」

 ちょうど赤いクーペが路上に停車し、ドライバーが降りたところだった。自販機に歩み寄り、缶コーヒーを手に戻ってくる。たったそれだけの用事。それなのに甲斐原は肩からブリーフケースを斜めに提げていた。大きさ的に、ちょうどノートPCがすっぽりと収まるサイズだ。

「ほんとだ」有華が目を丸くした。「よっぽど……大事なんだね」

「大型車両のECUについて、あらゆるデータがぎっしり詰まってるお宝。アレを落とそうと思うてな」

「落とす? ハッキングするってことですか」緒方はHMDをはねあげ、後部座席の暗幕に声をかけた。「今から?」

 すると暗幕の中から片手がにょっきり突き出された。

 ピースサインである。

「実は……もう落ちてる」

「……え?」



 その後、赤いクーペは住宅街の中へ滑り込んでいった。それを見届けると尾行を切り上げ、ロータスの三人は帰路につく。

 その途上。

 深夜〇時を回った頃、GEEが後部席で雄叫びを上げた。

「あほめ! 尻尾出しよった。ザマァみさらせ」

 甲斐原豪の青いノートPCを手中に収めた。そういう響きがあった。

「ハッキングに成功したってことですか?」緒方は改めて問うた。

「甲斐原のおっさんが、大事な大事な青パソをネットにつないだ……と、髷の字からご報告がございました」

「そう……か!」有華が大きく頷いた。「あのバスに細工しておいたってこと?」

「御名答。ギーちゃん特製の悪徳スパイウェアをECUに仕込んでおいた。整備士め、勝手知ったるバスや思うて舐めとったんやろ……あっさりつなぎよった。阿呆丸出しや」

 有華がニタニタと笑った。「スニーカーネットだっけ? USBメモリ経由でパソコンにコンピューターウイルスを流し込むって攻撃手法は、聞いたことあったけどぉ」

 緒方は腕を組んで唸った。「観光バス経由で……パソコンを襲ったんですね」

「名付けて、スニーカーネットならぬ……バス路線じゃ!」GEEが暗幕を跳ね上げ、ガッツポーズをとった。「こちとら、あの画像処理チップには馴染みがある。細工はし放題や。けど、車の事がようわからんくてなぁ……バス手に入れたり、なんやかんや調べたりしてるうちに、一週間もかかってしもたわ」

「一週間も、って……遅いんですか?」

「遅い遅い。そこらへんのサーバー相手にウチと髷が本気出したら、三分間クッキングやで?」

「冗……談ですよね」

「まぁ、ジョークやね。厳密にいうたら三分もいらん」

 GEEがゲラゲラと笑う。

 

——恐ろしい。これが本物のブラックハットというやつか。

 

 緒方は女ハッカーのスピード感覚に舌を巻いた。と同時に、事件の核心に迫りつつあるという高揚感に痺れていた。

 整備士という立場を悪用して何の咎もない人々を大勢殺す。報酬を得て高級外車を乗り回す。そんな輩がいるのなら捕まえたい。

 絶対に捕まえるべきだ。







(六)


千代田区:霞が関:午後


  

 科捜研の会議室にもかかわらず、エンジニアたちを差し置いて、緒方は自らスクリーンの前に立ち、熱弁をふるった。

「……一年前、ベガス社のトラックに不具合が見つかりました。前方に障害物がないにもかかわらず、センサーが反応して自動ブレーキがかかり、追突事故を起こした。原因は併走する車です。光沢のある車、たとえばタンクローリーの鏡のようなボディに映り込んだ車を、接近する車と勘違いしてブレーキが誤動作した」

 投影された道路の模式図にレーザーポインタを合わせる。「特に斜め前方ですね……このあたり。ここにタンクローリーが来ると危ないらしい」

「斜め前方、か……」古参の刑事は顎をなでた。「その不具合は修正されたんだよなぁ?」

「……出荷された全トラックのプログラムは書き換えられた。新聞発表ではそうなっています。で、こちらは……」

 緒方は手元のパソコンを操作して、次の画像へと切り替えた。

「バス事故があった当日。Nシステムが捉えた写真です」

 高速道路に設置された警察の監視カメラ——Nシステムが捉えた写真が、会議室の壁一杯にずらりと並ぶ。全部で一四枚。そのいずれもが同タイプの車両をとらえていた。

 上の七枚が、あの惨事を引き起こした観光バス。

 下の七枚は光沢感のあるタンクローリー。

「あの夜、例のバスの次にタンクローリーが映るというパターンで、七回もシャッターが切られていました……どうやら三時間ほど、このタンクローリーはバスを追走していたらしいのです」

 科捜研の科学捜査員たちが机に身を乗り出す。

 その反応を横目で見つつ、緒方はこう続けた。「……もちろんこの位置関係では誤動作しない。タンクローリーがバスの斜め前に出る必要があります。ここからは僕の想像ですけど、このタンクローリーは観光バスを追走しながら機をうかがっていたんじゃないでしょうか。で……最期の瞬間、料金所の手前で……バスの斜め前に出た」

 科学捜査員の一人が言った。「その瞬間の写真は、ないですよね」

「……Nシステムの写真ですから、そう都合良くは揃いません」

「にしても、三時間追走しているタンクローリーは確かに怪しすぎる」別の捜査員が言った。

 末次が口を開く。「車のナンバーは調べた?」

「残念ながら写ってないんです。赤外線を吸収するナンバーカバーが装着されていると思われます」

「オービス(速度違反取締用カメラ)逃れ用の奴か」

「なのに、この車はずっと左車線を走っていた。観光バスの後ろですから、おそらく法定速度は守っていたと考えられる」

「ふむ……ますます怪しいですね」科学捜査員の一人が机をこつんと叩いた。「そのタンクローリー、本格的に探したほうがいい」

「ええ。写真から車の型式はわかる。大型の中でも特殊な車だし、狭い業界なので事故当時の乗り手は絞ることができそうです。危険物、毒物、高圧ガスの資格からも攻められる。あと、大型車専門のハッカー〈クラムシェル〉こと甲斐原豪はキャリアが長い。甲斐原の人脈を洗えば、タンクローリーが扱えてアングラ仕事に精通する運転手とのつながりも見えてくる……と期待できます」

 別の科学捜査員が手をあげた。「その……クラムシェルは併走するタンクローリーから、タイミングを狙いすましてきっかけを与えられるんですかねぇ? そこまでできるなら確実に事故を引き起こせる気がします。本当だとしたら、とんでもないですね。通り過ぎるだけのタンクローリーに疑いはかからない……完全犯罪だ」

「ですよね。ただ僕的には」緒方は頭を搔いた。「技術的に不明な点ばかりで」

 当惑する緒方を余所に、次から次へとエンジニアたちがまくしたてた。

 或る者は件の事故が深夜二時に起きた事情を問題にする。自動ブレーキはカメラの画像認識が肝だが、夜でも充分に性能は発揮されるのか? 計画的に事故を起こせるほど異常動作の発生確率は高いのだろうか——と。

 また或る者は「ECUのプログラムは整備工の甲斐原の手で古い物に戻されたのではなく、甲斐原に改変されたプログラムに置き換えられたのではないか」と指摘する。タンクローリーの通過によってブレーキが効いてしまうのではなく、逆にブレーキを効かなくする必要があるのだから——料金所へ、バスを突っ込ませようとするならば。

 そんな風にハッカー陰謀説に傾く会議の中にあって、或る者は手綱を締めようとした。車を外から操るためにそこまで手の込んだ細工ができるのなら、わざわざタンクローリーで併走する必要すらないのではないか? この仕掛けには不自然さが感じられる。どこか無理がある、と。

「ともかく」物理科機械係・交通事故班のリーダーが言った。「ECUで動作するプログラムの書き換えで、車の動作全体がそこまでコントロールしうるかどうかが鍵になる。ここまで来たらベガス社に協力を仰ぐべきですよ……警部」

「是非ともそのあたり、突っ込んで調べていただいて……」

 緒方は横目でちらり、と末次の表情を見た。

 当のベテラン刑事は腕時計を気にしている。「あー、今日はこの辺にしよう。ちょっと次があるんで」

 


 会議を終えて廊下を歩きながら、緒方は存外な大声を出した。ベテラン刑事の一言があまりに想定外だったのだ。 

「和解!?」

「…………整備不良が疑われる、って方向でまとまるらしい。というのも」末次は苦々しく言う。「運転手は前の車に追突しそうなところをわざわざハンドルを切って料金所に衝突した。だから意識はあったはずだっていう話でなぁ」

「つまり……居眠りでも運転ミスでもない、という運転手の家族の主張をベガスは認めたんですね」

「……逆に、車両そのものの設計に原因があるわけではないというベガスの主張を、運転手の家族側は呑んだ。悪いのは車の整備だった……」

「ある意味で、我々のにらんでいる真相に近づいてませんか。本当に甲斐原が何かやったのであれば運転手もメーカーも悪くない。整備不良という言い方に、間違いはない」

「まぁね。でも事故調が真相を解明できたわけじゃないんだぜ……なのに和解する。これは異例だよ」

「……どうしてそんなことが」

「こういう交通事故では、運転手と観光バス会社、自動車メーカーと整備工場の四者で責任の擦り付けあいをやる……泥仕合になることもしばしばだ。しかし、今回の整備工場はベガスカスタマーセンター第二……メーカーの系列会社だから、こういうアクロバットが可能になったってことらしい。車体の設計より整備のせいにしちまったほうが、親会社の看板につける傷が浅い、と踏んだわけだね」

「口裏を合わせられる、ってことですか。なんかムナクソ悪いな」緒方は顔をしかめた。「整備不良の証拠ってあるんですか?」

「ない。千葉県警と事故調で車体をいじくりまわした結果、クルマに異常があったかどうか結論はできないそうだ。衝撃と火災で……ぐしゃぐしゃだとさ。証拠不十分、過失の線は諦めムードって話だ」

「証拠もないのに手打ちだなんて、理解に苦しむ……運転手の家族はそれでいいとしても、運転手以外の遺族が黙っちゃおらんでしょう。整備工場を告訴する気になりませんか」

「ところがベガスは遺族全体の賠償を申し出ている。真相の如何に関わらず」

「……どういうことっスか……ますますわからない」

「つまりな、遺族への賠償と観光バスのリコール、ダブルパンチになるのをベガスは避けたかったのさ。賠償だけで済ませられる方法を見つけちゃったってことじゃないの?」

「……観光バス会社はなんて言ってるんですか」

「過労の線が消えて、しかも賠償責任から免れられるんだ。小躍りしてるだろうよ。ベガスの手打ちに協力しない手はない」

「国交省は」

「事故調は割れてるみたいだけどな。ま、事故原因の解析が物理的に進まなきゃ、どんなに批判したって、この結論を受け容れるしかないだろう」

「……グレーゾーンに真相を葬るってことですか。運転手を悲劇の英雄として扱いつつ、決定的なミスの所在をうやむやにして、結局お金で遺族を黙らせ……」

「うまい手かもしれん……原因がわからないまま賠償に応じれば、ベガスの評価は下がらない。遺族の様子をみると、和解条件が相当いいんだろうなぁ」

「……」緒方はうつむいて必死に頭を整理しようとした。

 末次が気まずそうに語りかける。「で、ウチなんだが……緒方君」

「ま、待ってください」緒方は刑事の言葉を制して言った。「わからないな。どうしてベガスは賠償に前向きなんですか……そんな金、無実なら払わなくていい筈だ。胡散臭い。そうですよ。やっぱり車体に問題があったんだ。それを隠そうとするから、賠償金を払うつもりなんだ。ベガスは臭いですよ!」

「お前さん、高校生56人が死んで、幾ら必要になるとおもう」

「一人5千万として、3億弱ぐらい……でしょうか」

「俺がベガスの社長ならその十倍出すぞ。あの会社は年間で利益が一兆あるんだ。一兆だぞ。30億だってハナクソみたいなもんさ」

「……そんな」

 末次は溜息をついた。「……経費だよ経費。仮に車の不具合だとわかって、ワールドワイドな不買運動にでもなってみろ……数百から数千億、いや、数兆だって売上が下がる可能性もある」

「NEXCO(日本高速道路株式会社)は? 料金所が黒こげだ」

「運転手が目を開けてしらふで運転さえしていりゃあ、観光バス会社が入ってる保険が下りるんだと」

「整備工場は? 潰すんですか」

「まさか。賠償さえすれば禊ぎは済む……親会社御用達のクローズドな工場だから、市場競争がない。不名誉を被ったとしても商売に影響ない。安泰だろ?」

「……」緒方が遂に黙った。

 末次が見計らって切り出す。「で、だ。ウチの捜査……アングラで続けてきたけども、自重しろとお達しがあってね」

「手を引けってことですか」

「放っておいても事故調がいずれ線を引く。NEXCO東日本、千葉県警、神奈川県警が協力した上での報告書が出てくる……それまで様子見しようということだ」

「様子見……」

「ま、末次的には裏でボランティアを続けるのも面白くない。やれやれって感じなんだ。すまんなぁ」

「……納得できません。さっきの会議を忘れたわけじゃないですよね? 陰謀の気配がある……って、皆で話合ったばかりじゃないですか」

「言うと思ったよ。けど思い出せ。科捜研の結論は何だ? 事件解決にはベガス社の協力が不可欠。車のなかでウヨウヨしてるソフトウェアの詳細な仕様がわからなきゃ何も始まらない……そうだろ? だが当のベガスは収束に向かって必死だ」

「……手打ちにしたいメーカーに、あらためて捜査の協力を要請しても応じない。応じてくれなければ手も足も出ない。そういう事ですか」

「応じてくれるだろうさ、表面的にはな。しかし連中にとって都合のいい結論に誘導されないよう、俺とお前と科捜研が踏ん張りきれると思うか? 相手は最先端企業の超優良エンジニアがこしらえたハイテク自動車なんだぞ? こっちは道路のプロでも車のプロでもない」

「手を出す前から諦めるんですね。面白くないっス」緒方は噛みついた。

 末次は頭を搔く。「面白いとは思わんよ。お粗末な話だと思ってる」

「……甲斐原のPCからは、バスのROMデータをカスタマイズした形跡が見つかったんです。他の車種じゃない、あのバスですよ? 故意なら当然、犯罪だ。あとは動機。金の流れを明かにして……」

「そのネタにも問題があってな」刑事は諭すように言った。「……警察官が捜査で手にした証拠じゃないわけだ。甲斐原豪イコール悪人だと決めつけたい女ハッカーが一人居て、そんな証拠を手に入れたと主張しているだけ。その女がハッキングで手に入れた証拠じゃあ、とことん胡散臭い……俺の感覚だと捏造とさして変わらん」

「じゃあ押収だ。甲斐原のPCを証拠として押収しましょう。捜査一課で令状、取れませんか」

「難しいね。公安でもろもろ揃えてくれるんなら話は聞く。ただ末次的には動けなくなった。捜査一課は手を引く」

「……」

「すまんねぇ。こう見えて組織の人間なんだよ」

 

 

「とんだ御用聞きだったな」

 飯島警視が椅子をぎしりと鳴らした。「まさかゲームセットとは」

 九時をまわった薄暗いオフィスには人影がほとんど見当たらない。公安部に属する各班のほとんどが警視庁の外に秘密の拠点を持っている。班単位の会議も外で行う事が多い。領収書の清算業務をする時以外に、係長が公安総務課の居室におとなしく座っている様子は珍しい。

 飯島は科捜研へ行った自分をわざわざ待っていてくれたのだ。ならばと緒方は、たたみかけるように熱弁を振るった。

「科捜研にはやる気があると踏んでます。スエさんもやる気がないわけじゃないと思うンです。ウチでネタを揃えてくれたら、動くとも言ってる」

「スエの野郎。舐めやがって」飯島は苦虫を潰す。「緒方。お前の本業はハッカーの監視だ。今は岩戸紗英、あるいは岩戸の野心をサポートする連中をじっくりること。わかってんのか?」

「……本分からは外れてます」

「自覚はあるんだな」

 飯島は顎髭をなでつつ、やれやれと重い腰を上げた。

 二人は歩いて廊下に出る。同じフロアの端にある大きめの会議室を目指す。

 ドアを開けると三十畳はあろうかという部屋の照明はほぼ消えており、隅の一角だけが明るかった。そこを目指して二人は歩くのだが、間仕切りで小分けされており、しかも暗いので、どうやってアプローチしていいかがよくわからない。まるで迷路のようだ。この部屋は新たな部署を立ち上げる際にかならず準備室として使われる。今は十二係——砂堀たちの仮住まいだ。

 やっとのことで闇を脱ける。すると、机に向かう長髪男が振り返った。

「すいませんね。散らかっちゃって」

 この一角だけが明るいのは電子機器用のラック、それに鏤められたLEDの明滅がど派手なせいだ。IT企業かと見紛うほどに豪勢な設備である。

 飯島は足下のケーブルを面倒そうに避けながら言った。「例のバス事案な。資料、目を通したか?」

「え? あー、まだです。ごめんなさい。今、見ますわ」

 砂堀は髪をかきあげ、誤魔化すように笑い、手近の机に山積みの資料を漁った。そこにないことがわかると椅子から立ち上がり、しゃがみこんで、床に散っている封筒類を拾いあげる。

 緒方も床にしゃがみこんで資料を探し始めた。「……あいかわらず忙しそうですね。こないだ片付けたばっかなのに」

 飯島が呆れる。「なんだ。片付けまで手伝わされてるのか」

「いやぁ……四件同時進行なんて無茶ですわ。無茶だよね?」

 砂堀は照れくさそうに笑い、遂に目当てのファイルを拾いあげる。「あったあった。読みますよはい……五件目、ね」

 緒方は多忙を極めるスタープレイヤーを気の毒に思っている。砂堀の手足となるべき部下をこの部屋で見かけることは皆無なのだ。手伝いたいという気にさせられる。

 一方、飯島は不服そうだ。「砂堀恭治の代理として緒方は動いてるんだぞ……顎で使っていいとは言ってない。お前の兵隊はどうしたんだ」

「この件は仲本クンにふっておきました……最近出てこないけど」

「なんだそりゃあ」

「ズル休みっぽいんです」

「もう一人は? あの太っちょの」緒方が言った。

「津田沼君は仕事のやり方に不満があるんだと。プレッシャーきついのはヤだ、という立派な理由で……自宅作業がメイン」

「それって職場放棄でしょ!?」

「……ちょっと叱ってみたんだよね。したら、露骨に反発されたよ」

「なるほど。体形的にみて、胆力はなさそうですしね」

 砂堀はスリッパを脱いで、両足をパソコンデスクの上に投げ出し、椅子をきしませながら資料を仰ぎ見た。ペラペラとめくりつつ、しかし話は続けている。

「……もうね、自分のこと棚にあげて言うけど……中途採用の連中ってこういうことがあるから困るんだ……会社辞めた前科持ちだからね…………ほら、彼氏から寝取った女とは結婚しちゃダメって、これ常識だよ……浮気させたわけだからさ、そいつ、他の誰かとまた浮気するかもしれないじゃん?」

「ち」飯島が舌打ちする。「砂堀恭治も、元会社員だろうが」

「一緒にしないでください」砂堀は資料を抱えた両手を使わず、頭を後ろに振ることで髪を背中へ流した。「自分の事はよくわかってるつもりです。警察からのオファーはずーっと断ってましたからね? 情けない話ですけど身体は弱いし、警察学校で長距離走とか絶対無理。お誘いがしつこくて根負けしただけで」

「持病があるんですよね」と緒方。

「耳の奥がね。三半規管がポンコツなんだって。だから車は大・大・大嫌い。緒方君は運動神経いいんだよね」

「でも僕は左手首が急所です。空手部で二回、折っちゃってて……飯島さんは?」

「阿呆。病気自慢、怪我自慢はしねぇぞ。元機動隊員の名折れだ」飯島は不機嫌そうに言った。「早く読め、砂堀」

「人使い荒ぇ……緒方君だけだよ、慰めてくれるの……」

 やがて砂堀が頁をめくるペースがぐっと落ちた。視線が宙を泳ぐ。

 瞼が一度閉じられ、しばらくしてかっと開いた。「……はい。で?」

 飯島が要件を切り出す。「……観光バスの斜め前にタンクローリーが出る……それがきっかけだとすれば、誤動作は狙って起こせるようなもんじゃない。世間にはタンクローリーなんてごまんと走ってる。あちこちで事故だらけになる筈だ」

「でしょうね。この不具合を利用した陰謀論には無理がある」

「しかしその……ECUとやらに仕掛けがあって、狙ったタイミングで暴走させる手口があり得るなら、こいつは事件かもしれん。可能性ありそうか?」

「誤動作させる、ってだけなら可能性はあるでしょ」セキュリティのプロは簡単に言い放った。「ハッカーは脆弱性を狙います。プログラムにバグが……欠陥があるということは、すなわちつけ入る隙があるということだ。このバスだかトラックは、なんてったってリコールされた車。つまりバグがあった。そのバグを取ろうとして、更にバグを植え付けるなんて事はザラにある……いわゆる脆弱性が残っていてもおかしくない。けど……」

「けど?」

「車ごとECUを手に入れて実験してみないと、何とも言えませんね」

「どれぐらい時間がかかる?」

「んー、一ヶ月はほしいな。あ、手が空いてるという前提で」

「悠長だな」

 砂堀は斜に構えた。「だってこの観光バス、六十何個もECUを積んでるって書いてますよ。それ全部マイコンなんでしょ? しかもネットワークされてる……誤動作の可能性を全部調べるわけですよね? まずは車の勉強から始まる。正直、一ヶ月使っても大した発見はできないかも……」

「お前の腕でも無理か」

「返答に苦しむなぁ。CAN(Controller Area Network)でしたっけ? 車のプロトコル。詳しくないんですよね。わかるでしょ? 酔い止めの薬とか持ってる男ですよ」

「使えねぇ野郎だ。何に詳しいんだよ」

「女性の心理とか。そっちは酔うより、酔わせる方……なんちゃって」

「よく吐けるな、そういう台詞」飯島が顔をしかめる。女の扱いは苦手らしい。

 緒方は二人の会話に耳を傾けながら、意気消沈した。飯島にしろ砂堀にしろ表の本業を抱えている。この事案にどうコミットするかは仕事の評価に直結しない。世間話の範疇で議論している。そう感じられた。

 これが「組織の壁に阻まれる」というやつだろうか。若者にはそんな感覚が芽生え始めていた。

 

 

〈じゃ、江戸川方面に偵察行ってきます。甲斐原のヤツ、夜毎遊びに出かけやがるんだけど、絶対パソコン持参なんだよねぇ〉

 携帯電話から聞こえてくる有華の声は軽やかだ。一方の緒方は聞き役に徹している。警視庁の捜査は頓挫しそう——などと言いたくはない。言うべきだろうけれど、うまく切り出せない。言葉が滞り気味で声も湿っぽくなる。

「……うん」

〈Nシステムの件、楽しみだね。科捜研が何て言ってくるかなぁ。いつだっけ? その会議〉

 会議は済んでいた。Nシステムの写真について自分が解説し、科捜研の精鋭たちからもそれなりの反応が得られた。けれど——

「……まだ予定が立ってないんだ」

 何一つ、素直に言えなかった。言ってしまえば、そこから先へは進展しないという事を悟られる。悪友GEEのために奔走する有華を、残念にさせてしまう。そう感じられた。

〈おっけー。じゃ行ってくる。岩戸紗英は本日、タクシーにて出先より宿舎に直行だから。今頃コンビニだと思うよ〉

「……気をつけてな」

 岩戸の監視をする気分にもなれない。緒方は電話を切ると、居室のブラインドを指で押し下げた。合同庁舎二号館はすぐ隣。有華のロータスが駐車場を出て行く様子は、警視庁の庁舎から見下ろせた。

 飯島警視とのやりとりを思い起こして、溜息をつく。

 

——甲斐原の青いノートPCさえ手に入れたら、後は一気に行けそうなんです。だから令状を取りたい。

 

 緒方はそう口走った。ところが飯島は手厳しい。

 

——一気に行けそう、ってどういうことだ? 行けるなら行ける、無理なら無理。二つに一つだろ……なぁ、東大君。捜査令状ってのは、警察官が自ら立件する絶対の自信があるからこそ申請する。しかし、いまのところNシステムの写真から導かれるお前さんの推理は妄想の類でしかない。タンクローリーが追走していたとしても、高速道路の左車線を走る大型車なら何も不思議じゃない。俺なら拙速な真似はせん。それがわからんお前じゃない。だから行けるとは言わない。行けそう、としか言わない。そうだな?


 図星だ。しかし緒方は粘った。

 

——ギーというハッカーが青いPCのハッキングに成功した。明らかにあのバスと同型車のプログラムをいじり倒していた形跡がある。甲斐原が何か企んでいた事は、間違いないんです。

 

 すると飯島は当たり前のように緒方の甘さを突いてきた。

 

——そのギーってやつ、前科者だったな? 東大君。ミイラ盗りがミイラになる、ということわざ、知ってるだろう

——ハッカーを監視する立場の俺が、そのハッカーを信じてどうするってことですね……


 緒方は走り去るオンボロ英国車を見届けると、ブラインドから指を外した。席に戻って荷物をまとめ、居室の照明を落とす。

 薄暗い公安部の廊下をとぼとぼ歩きつつ、砂堀恭治と交わした言葉を反芻した。


——ハッカーの手口って、警察の捜査にうまく馴染まない。それって大問題じゃないですか? いまどきの犯罪者と対抗するには、どうしても必要でしょう。


 緒方はそう問い詰めた。


——ハハハ。気晴らしに合コンでもする?

——誤魔化さないでください。元はといえば、砂堀さんの御用聞きをしたせいなんですよ。


 その答えは、こうだ。

 

——……緒方君の言うとおりだと思うよ。警察とハッカーの相性は悪い。なんでかっていうと、警察は組織であり体制側だから。そもそもハッカーってのは個別的かつ反体制。独立と自由を重んじて、世間の裏をかくカルチャーをモットーにしてる。僕も、その矛盾に喘いでる最中さ。

 

 緒方はさらに尋ねた。


——僕はどうすればいいんですか。

——甲斐原って男を縄にすべきかどうか、って事? さぁて、どうかな。ちなみに、君は脳味噌から基本的な情報が抜け落ちてるようだけど、大丈夫?

——なんですか、それ……

——前科者の女ハッカーを堂々と従える魔女……岩戸紗英が、一体どんな人物かって事。

 

 緒方はその言葉を重く受け止め、砂堀の部屋から居室に戻ると、飯島が帰ってからも延々とノートPCと首っ引きになって公安部の資料を読み漁った。

 今をときめく美人エリート官僚・岩戸紗英。その周辺には、どこか怪しげなリーク情報が多い。

 

〈岩戸の父親は豪腕のフィクサーとして知られた新潟県の大物政治家〉

〈岩戸の大学時代の恩師は「規制」を旨とする過激なファシスト〉 

〈岩戸が電網庁の創設に尽力した動機は、国民を監視する実権を握りたいから〉 

〈岩戸は電網庁初代長官の座を蹴ったが、法整備が進んでネット鎖国が実現する間際まで暗躍し、二代目を狙っている〉

  こういったネタはすべてネット自由化連絡会(通称・ネ自連)なるウェブサイトにまとめられている。ネ自連によれば、「岩戸は日本をネット鎖国に導き、中国並みの情報統制、あるいは米国並みの監視社会を実現しようとしている」らしい。だから「悪しき電網庁の即時解散、悪しきネット新法の完全撤廃」を活動の目標に掲げている。 

 書かれていることを鵜呑みにするなら——岩戸紗英は「ファシスト」、人をかどわかす「悪魔」。その仲間はみんな「悪の手先」。岩戸を手助けするギーという女ハッカーが「前科者」なのも頷ける話。そんな結論に導かれてしまう。


(本当にそうだろうか)

(その考え方を突き詰めれば、常代有華も——悪の手先ってことになる)

(俺はいったい何をすべきなんだ?)


 警視庁の庁舎を出ると、緒方は月明かりの下でスマートフォンを手に取った。写真が見たくなったのだ。

 GEEとタマラ、そして有華。三人のバス乗務員コスプレ姿をじっと眺める。

 ポートレートのシャッターを切ったのは久しぶりだ。その割りに、このスリーショットはなかなか上手く撮れている。

 撮れていると思う——我ながら。








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