(七)(八)(九)

江東区・葛飾区・渋谷区



(七)


江東区:青梅:午後

 


 ベガス社と遺族が金銭で和解——そのニュースがテレビやネットを騒がせ始めたのは、夜の六時を過ぎた頃であった。社内では誰もが浮き足だつ。パソコンで情報を漁ってしまう。部下たちにネットサーフィンをやめろ、集中しろというのは酷な話だ。まさしく皆、当事者なのである。

 おかげで四本木篤之は悩み始めていた。

 修学旅行バス事故の顛末で、会社の経営陣はグループ一丸となって賠償に舵を切った。真相が明確になっていないうちに、である。誰の目にも理不尽な結果に映る。まるで「何かやましいことがある」と主張しているようなものだ。自分の周りにいて、オートパイロット研究に従事するほどの賢しい社員達が黙っている筈がない。

 無論、四本木とて事の顛末に疎い。部下から質問攻めに遭っても答えられることは何一つない。さらに困ったことがある。半月ほど前、あの岩戸紗英に「共同戦線を張りましょう」ともちかけられた。もちろん思いは同じだ。ベガスの濡れ衣を晴らし、再び電網庁とオートパイロット研究を加速させたい。だからここ最近は社内で発足した調査チームに横槍を入れ、こつこつと情報収集に勤めてきた。

 なのに頭上で勝手に白旗が揚がったのである。

(ゲームセット、なのか……!?)

 役員たちは俺に何かを隠している。そういう疑念がとぐろを巻く。

 四本木は席を立ち、ワイシャツの上に羽織っていた作業着を脱いで椅子にかけた。更衣室に行く手間も惜しい。すぐに出かけたい。会うべき男がいる。だが今日は会社を休んでいる。否——今日も、だ。ここ三日ほど行方がわからない。電話にも出ないから自宅に押しかける他はない。名前を朽舟滋くちふねしげるという。

(……もしかしたらあいつが鍵を握っている。いや、握らされている)

 朽舟は四十半ばで課長職を勤めるベテラン研究者である。問題の自動ブレーキを始め、自動車のコンピューター制御をライフワークとしている。研究所では長らく四本木の右腕を勤め、オートパイロット技術を育んできたエースだ。しかし昨年起きたトラックのリコール騒ぎに巻き込まれ、再発防止プロジェクトの長として本社に取り立てられてしまった。

 それでも四本木は朽舟とのパイプを密に保った。二人といない切り札を失うわけにはいかない。あの実直そうな丸眼鏡を社内のどこかでみかけようものなら、五分でいいからと茶に誘った。お前を手放すつもりなどさらさらない。隙あらば戻って来い、俺に何かできることはないか。そう声をかけ続けた。

 今年になって朽舟は研究所へ復帰を果たした。オートパイロット研究は再び加速する。四本木がそう信じた矢先の——バス事故。おかげで朽舟は再び本社へ召し上げられ、以来ここ半月ほど顔を見ていない。

 そして今夜。

 和解騒ぎの最中、件のエースは本社にも出勤していないというのである。調べてみると「病欠の連絡はあった」らしい。

(病気、ね……)

 もともと顔色は優れない奴だ。色白で細身、趣味がプログラミングというインドアな男。世が世だけに自動車メーカーのサラリーマン稼業を営んではいるが、一昔前ならハッカーと呼ぶにふさわしい生き方を選んでいたに違いない。一歩間違えればジョブズか、はたまたウォズニアックか。コンピューター・ギークを地でいく男である。



 四本木は慎重を期した。技監という肩書きを持つ自分は、研究所に二台しかない社用車を自由に使える立場にある。社員の住所を運転手に告げて、自宅へ横付けさせることも容易い。しかし敢えて自腹でタクシーに乗った。バス事故の背景には底知れない「闇」が感じられる。だから会社側に悟られず動きたいと思ったのだ。

 タクシーの中でノートPCを広げる。実は三日ほど前、謎めいた電子メールを一通受信した。


差出人:Shigeru Kuchifune

件名:四本木篤之さんに読んでいただくことを想定しています


自己責任です。

That bUiSiNeSShOTeL is awfully bad

because I was LoCkEDouT and that hotel's  fROnt forgot MOrniNgcaLL.


 朽舟とは長い付き合いになるが、こんな経験は一度もない。何かの暗号か? 俺に伝えたいことでもあるのか? そう何度もメールで問い但したが当人からの応答はない。それがとてつもなく怖い。隠された意味を想像する。自分に助けを求めているのだろうか。本音としては、ただの悪戯であってほしいと四本木は切に思う。

 やがてタクシーは建て売り住宅の一角でスピードを落とした。カーナビが「目的地の周辺です」と告げている。

 雨が降り始めていた。四本木は車を降りると、折りたたみ傘を開きつつ、久方ぶりに会うだろう部下の家族に思いを馳せた。結婚式に出席した記憶。朽舟の妻は同じベガスの元社員であり、数少ない女性エンジニアだった。旧姓・三山みやま——幸代さちよ。当時、四本木は朽舟ではなく幸代の上司であった。新婦側としてスピーチを頼まれたのだ。そうだ。俺はスピーチをした。

(ええと、何だっけ……)

 しかし自分がどんなスピーチをしたか思い出せない。

(大事なことを忘れちまうなぁ、最近……)

 三軒並んだうちの一軒に近づいて足を止める。表札に朽舟とあるから間違いない。照明は灯っていなかった。チャイムを押しても返答がない。カーテンは閉め切られていた。人の気配はしない。留守だろうか。

 雨足が強まってきた。生ぬるい横風も感じる。四本木は数歩下がって二階のバルコニーをにらんだ。傘を煽るから雨露が目の中に入ってしまう。だが我慢して目を凝らした。物干し竿が丸裸で水浸しになっている。やっぱり、いないようだ。

(さて、どうするか)

 近隣の住民を訪ね、どこへ出掛けたのか心当たりを尋ねてみようかとも考える。しかし踏みとどまった。先に車屋の性分が鎌首をもたげ、目前のガレージを品定めしたくなったのだ。車が一台だけ停まっている。雨ざらしかというと、そうでもない。ポリカーボネート製の片持ちカーポートで覆われている。でも、この手の屋根では雨が横降りだと避けきれない。四本木は頭をかしげた。スペースはかなり広い。なのに車は端に寄せられていて、だからボンネットにまで雨が降りかかっている。もっと内側へ寄せておきゃあ、濡れなくてすむのに——。そこまで考えた結果。

(そう……だった)

 思い出した。結婚式のスピーチの中身を。

 

——夫婦揃って車好きだから、ドライブには困るでしょう。どっちがどっちの車ででかけるか。そんな事で揉めるなよ、三山さん。旦那の車に乗り、旦那に運転させなさい。もちろん下手なら文句はつけてよろしい。

 

 そんな事を言った記憶がある。

(そうだ。この家にはきっと車が二台ある。けれど今は……一台しかない)

 つまり外出している。きっと病院にでも行っているのだろう。だとしたら携帯電話に出られないのもわかる。四本木は自分の分析に得心し、今日のところは退散しようと決めた。好奇心を満たすために病人を追いかけ回すのも気が引ける。

(厄介な病気でないことを祈ろう)

 朽舟はトラックのリコール騒ぎに精通している。タンクローリーとの併走で誤動作する自動ブレーキ、それを回避するための追加コード——社内で『TRタンクローリー条件分岐』と呼んでいる、小さな、ごく小さな修正プログラム。あれは朽舟のお手製だ。あいつより詳しい奴はいない。あいつは何かを知っている。そして俺には、すべてを話してくれるだろう男だ。

 四本木は朽舟の表札に背を向けた。折り畳み傘の貧弱さに辟易としつつ、水たまりを避けながら住宅地を脱ける。

 大通りでタクシーを拾うべく手をあげた矢先、水上バイクのように飛沫をあげて、流行のビッグスクーターが一台近づいて来た。てっきり通り過ぎるものと思っていたら、なぜか急停車する。

「あんた……四本木はん?」黒づくめのライダーがヘルメットのバイザーを跳ね上げた。「こちらは魔女のバイク便でぇす」

 見知らぬ女に名前を呼ばれ四本木は当惑する。ここに居るということを誰にも告げた覚えがない。恐る恐る頷くと、ライダーは親指を立てた。

「あ、ビビらせた? すんまへん……岩戸の手のもんですわ。八千夜っていうんですけど、みんなギィって呼びます。よろしゅう」








(八)


葛飾区:東新小岩:夜



 調子の悪いロータス・エクセルを騙し騙し転がすのは楽しくない。

 クラムシェルこと甲斐原豪の行動範囲にあししげく通うようになった有華は、もっと早くにクラッチの修理を終えておくべきだったと後悔していた。国分寺で仕事を終えてから車に乗って霞ヶ関に立ち寄り、その足で新小岩まで来て、夜遅くに初台の宿舎まで帰宅。この繰り返しはなかなかに辛い。

(ごめんね、ロータス)

 有華は左の路肩に車を停めて、対向車線の向こう側に建つ整備工場に視線を投げた。ベガスの子会社とは違って、かなり規模の小さな町工場である。

 たった今、甲斐原の車が吸い込まれてシャッターが降りた。

〈あんまり近づいたらあかんで。顔は絶対見られないこと。できれば車も〉

 耳元でGEEの声が響く。

「わかってますって」

〈ゆかりんは慌てん坊やからなぁ〉

「そんなに心配なら来てくれりゃいいのに」

〈……涸れた小太りのおっさんと絶賛お茶中。電話変わったろか?〉

「四本木さんでしょ。いいよ。楽しくやってください」

〈まぁまぁ楽しいで。蛙に似てるって言うたら、機嫌悪くなって大変やねん〉

「はぁ。あいかわらずだね……人を怒らせる天才」

〈クラムシェルは?〉

「なんかね、ちっちゃい整備工場みたいなところに入っていった。島﨑カーファクトリー、だって……アジトなんじゃないの? 二階に電気が点いてる。何やってんだろね」

〈……遅くなる前に帰りや〉

「はぁい」

 連日連夜の探偵ごっこで疲れがたまっている。有華はほっぺたを叩き、眠気を吹き飛ばそうとHMDヘッドマウントディスプレイを装着した。{キーワード:修学旅行バス}を音声で入力。宙返りを繰り返す忍者アバターと一緒に、ニュース記事を眺める。

 ヘリコプターの空撮写真——高速道路の料金所にバスが突っ込んだ有様は、何度見ても生々しく恐ろしい。しかもインターチェンジではなく、大きなハイウェイ二つを接続する巨大な料金所に、である。幹線道路が完全に麻痺してしまう。

「……こんなとこでやらかしちゃってさ……何……和解? ……ふーん。ベガスと遺族が和解するんだ……」

 

 

 車工場の中に車があることは当たり前だ。しかし、ここには珍しい設備がある。

 片隅に鎮座するベガス社製の4ドアセダン車に歩み寄ると、甲斐原豪は手を上げて声をかけた。

「どうよ」その声は車のエンジンが奏でる爆音にかき消される。

 ベガス・テクセッタHVのボディはその場を動かない。だがフロントタイヤは猛然と回転していた。エンジンパワーを計測するシャーシ・ダイナモの上に載せられれば、いくらアクセルを吹かし、いくら車輪を回しても車体は静止する。まるでモルモットが回し車の上を走るように。

 運転席には人が乗っていなかった。

 車を自由自在に操る術——コンピューター・プログラムの罠を試してみるには、シャーシ・ダイナモの上でなければならない。ドライバーの意図に反して速度が落ちなくなり、しかもブレーキが効かなくなるという残酷な仕掛けをテストしようと思うなら。

 エンジンルームと助手席からは長いケーブルが伸び、奥の小部屋まで引き込まれている。中にいたツナギ姿の島﨑拓生がパソコンを弾くと、途端にテクセッタは沈黙した。

「完璧ッスよ、師匠」小部屋から出てきた島﨑が胸を張った。「もう俺、ベガスに雇ってほしいぐらいっすわ」 

「例のネタは?」

「精度高いです……ビビりますよ。pack8back8、恐るべし」

 甲斐原は舌を巻いた。トラックやバスと違って4ドアセダンは自分の専門外だ。その点、あのpack8back8はとんでもない情報を引っ張ってくる。仲間で良かったと思う。

 シャーシ・ダイナモを備えている島﨑カーファクトリーの二代目、この島﨑拓生も負けず劣らず役に立ってくれる。根っからのオタクで、コンピューターチューン業界では甲斐原の子飼いも同然。ベガス系列の真面目なサラリーマンたちと違い、渡世に揉まれたスレっ枯らしだ。馬力アップや修理だけでは食えない、時には車を壊すほうが金になる事もある、金は幾らあっても困らない——そういう会話がスムースにできる。

「成功間違いなしッスよ」島﨑は軽口を叩く。

 だが油断は禁物だ。甲斐原は島﨑のかぶるキャップ帽をひっぺがした。

「その仕掛け……何分でできる」

「え……そうッスね。ナビ周りがちょっとかかるから……ま、十五分みとけば」

「五分でできるようになっとけ」

「……簡単に言いますねぇ」

「十五分なら百万。五分なら一千万だ」そう言って、キャップ帽をかぶせてやる。

「やりますやります、はい」

 

 

 島﨑をその場に残し、甲斐原は二階へと上がった。自動車工場にしてはラグジュアリーな応接間があって、ふかふかのカーペットにソファセットが揃っている。

 秘密のたまり場。そこに大事な客人を待たせてあった。

 甲斐原がドアを開けた途端、ソファの上にあぐらをかき瞑想していた開衿アロハシャツの男が、ぱっちりと瞼を開いた。

「待ちました?」と甲斐原。

「……待った。しかし」男は笑って言った。「待つのは平気だ。美味い話なら何時間待ったっておつりがくる。こないだの五千万には痺れたからな」

 空いたソファの一つに、白くつやのある革製ハンドバッグが置かれていた。口が開いたままだ。何かを放り込まれても、男は気づかないに違いない。ヤクザは不用意だと思う。

 一方で甲斐原は肩から斜めに提げていたバッグを外さず、そのままソファに座った。「人選の方、進んでます?」

「三人用意した。ま、どいつもそれなりだ……」ガラステーブルの上に三枚、写真がならんでいた。「……こいつはパチンコ、こいつは競馬。こいつは女で首が回らん。平均で五百万の借金ってとこだな。なんでもやるぜ」

「こないだの人たちとは違いますね」

「あいつらは潤ったからなぁ……ま、クズの代わりは幾らでもいるさ」

「運転はどうです? ……技術としては」

「そりゃあ折紙付だ。奴隷は何百人といるが、厳選したよ。但し」

「但し?」

「……秘密を守らせて、しかも確実に実行できるようにしようと思ったら、ウチの若いのを三人つけておいたほうがいい。つまり貸し出しは六人。どうせ助手席が空いてるだろ?」

「お値段的には」

「追加料金ナシだ」

「込み込みなら問題ないです」

「へへ……」男が笑うと十八金の歯が光った。「にしてもスゲぇな。まさか次があるとは……示談成立って噂だが、それがお気に召さないか」

 甲斐原は苦笑した。「さすがですね」 

「詮索はしねぇさ。クルマ転がして、決まった相手に併走するだけ……妨害される事もないし、足もつかない。こんな楽な仕事ねぇもんな? 是非ともお引き受けしてぇよ」

「リスクの低さがウチの〈企画〉の売りですからね」

「その〈企画〉だが……他にも手当が必要なんじゃないのか?」

 もっと〈作業〉があるなら引き受ける。引き受けたい。そういう申し出だ。

 甲斐原は丁重に断った。「席が一杯なんです……車窃盗系のエキスパートなんかも参画してて……なんというか、デカいヤマなので人が集まり過ぎちゃった」

「ブロウメンの手は汚れないってか?」

「ですね。俺たちはあくまで企画運営のみ」

「手を汚さないってなぁ、夢だな、夢。まったく、オタクのボスには一度会ってみてぇよ」

「パケット・バケットですか」甲斐原は少しムッとして言った。「ボスではないです。俺たちは共同体ですから」

「ハッカー万歳ってとこだな……いや、違うか。ブロウメン万歳、か」

 ただのハッカーと、名前が売れたハッカーとでは収入に雲泥の差がある。そういう指摘であった。裏社会では——裏社会こそ——信用と実績が第一である。

「売れちゃいましたからね。昔は企画力だけでした……マーケットに上がった案件に、アイデアを投じるだけの。けど最近は、おかげさまで実行力も証明された」

「マーケットって、例のアレか……名前忘れちゃったなぁ……なんだっけ?」

 アロハシャツは笑っている。サイバー犯罪者の巣窟、『牙城ストロングホールズ』の存在を知りながら、うわべでとぼけている。甲斐原は微笑んだが腹の中では警戒を解かなかった。大手の暴力団があのコミュニティに目をつけ、入り込むことは避けられない。だが図に乗せてはならない。下手をすれば自分たちのスポンサーをかっさらう。その上、警察まで引き連れて来るのだ。

 その点、牙城の「貢献度ランキング」は堅牢である。ヤクザだろうが警察だろうが、〈作業〉で実績を積まなければ末端の情報しか得られない。こっちは何歩も先を行っている。この距離感をキープすればいい。

「……ネットの方は任せておいてくださいよ。大きな案件があれば、必ず、こちらから直に声をかけます」

 最近じゃ、ブロウメン絡みの案件が一番大きいですけどね。そう付け加えると、アロハ男は金歯を見せつけてニタリと笑った。

「金づるの方から歩いて来るってか……羨ましい限りだ。お客は海外かな?」

「…………ご想像にお任せします」

「そういえば聞いたぜ? アフガンと取引があるって話。つっても……アフガン直ってこたぁ、ねぇだろうしな。香港経由か? シンガポール?」

 甲斐原は口をへの字に結んだ。「……お答えできません」

「前回と今回でスポンサーは同じなのか? 別口じゃねぇのか?」

「……………………」

 沈黙に耐えかねてアロハ男はあぐらを解いた。膝をパチンと叩き、それからローファーに足を入れる。

「あーあ。ビジネス上手で仕掛けも一流ってのは、恐れ入るよぉ。ハッカー様のやり口、楽しみにしてる」

 立ち上がろうとする男を制止するように甲斐原は言った。

「そうだ。修学旅行の件、お察しのとおり生徒の遺族はもっとゴネてくれたほうがいい。折り合いがついちゃうと企画倒れになりかねない。もう少しやれますか? ……ベガスいじめ」

 追加で何か〈作業〉を与えておこう。その方がいい。甲斐原はそう勝手に判断した。pack8back8に相談など必要ない。時には俺の独断専行でも。

「いいね。盛大にかき回してやるよ……この件が終わってからでもいいか?」

「遅くないと思います。料金は?」

「そっちはサービスでいいぜ。嫌がらせは朝飯前だ。仲良くしようや」

「……助かります」

「ここだけの話、俺も二桁ったヤマは生涯初でな」男は革製のハンドバッグに噛みつくような仕草をして、おどけた。「血が騒ぐのさ」

 

 

 島﨑カーファクトリーから車が出て行くのを、有華は見逃した。厳密にいえば車の音には敏感に反応したけれど、瞼が重くて上がらなかった。

「うぁ……ね、寝ちゃった」

 涎を拭き、あわててイグニッションキーに指をかけた。ひねりかけて——やめる。エンジンをかけなければ、遠ざかる車の音がよく聞こえるからだ。窓を開ける。深夜で車が少ないこともあり、排気音は明瞭だった。シフトタイミングにしろアクセルワークにしろ、甲斐原のそれだと手にとるようにわかる。

 有華に方向転換して追いかける気力はなかった。今日は帰ろう。帰ったほうがいい。体力的に限界だ。







(九)


渋谷区:初台:深夜

 


 深夜——日付変更線を超えた頃。

「何? まさか……待ち伏せ?」そう言って香坂一希は足を止め、目を丸くした。

「うん、まぁ」

 緒方隼人はバツが悪いと感じている。新宿の外れ、初台駅の真上にそびえたつ電網庁の新庁舎。ビルの表側は地下鉄と行き来する人々が集う庭となっていて、店舗も多く人通りが絶えない。しかし夜が更けると庁舎の出入は裏口に限られる。深夜業をやっつけて公務員宿舎へ帰る一年目の新人官僚は、ビルの裏側から現れ、薄暗がりの駐車場を脱け、路地へと消えていく筈だ。香坂一希は必ずここを通る——そんなルートに見当をつけて、緒方はここに構えた。これが待ち伏せでなくて何なのか。言い訳しようがない。

「気持ち悪いって」香坂は怪訝そうに言った。「僕の電話番号ぐらい、公安なら調べられるだろ」

 緒方は電話しようなどとまるで思わなかった。会って話がしてみたかったのだ。だから一言——悪い、とだけ告げた。

「で……何」

 香坂の物言いは雑だった。面倒くさい、と顔に出ている。疲れているから手短にしてくれ、ということだろう。

「一つ、教えてくれないか」

 緒方はポケットに入れていた手を出し、仁王立ちになって尋ねた。「……香坂一希は会社を辞めてまでして、公務員試験を受験した。しかも電網一種を突破した上で、総務省に入省。希望どおり電網庁への入庁を果たした……そうだろ」

「そうだけど」

「でも世間じゃ、インターネット接続法は世紀の悪法で、それを司る電網庁は国民を監視する恐怖の組織で、やがて検閲を始めるだろうって論調だ。かなり前から」

「……確かに。僕が公務員試験を受ける前、インターネット接続法がまだネット新法って呼ばれてた頃から、電網庁への風当たりは強かった」

 最近ではネット禁止法とまで言われてるけれど——そう付け加えて、香坂は苦虫を潰す。

「なのに、どうして……」緒方は切り込んだ。「電網庁入りを志望した?」

 香坂は黙っている。だから畳みかけた。 

「入ってみた感想は? 岩戸紗英って信じるに足る女なのか?」

「その質問には即答できないな。というか、したくない」

 一回り背の高い伊達男が、自分を見下ろし、棘のある言い方で答える。緒方は薄々察していた。気に入られていないに違いない、と。

 あろうことか香坂はこう続けたのである。

「…………平日も休日も関係なく、緒方隼人と常代有華は車でどこかへ出かける。何をしてるのか聞いても、僕は教えてもらえない。なのに僕だけが質問に答える義務はあるのか?」

「え……え?」緒方は面くらった。「おいおい、そりゃあさすがに誤解だ。有華は……」

 しかし、そこで言葉を呑み込む。口止めされているからだ。

 

——キツネ丼には内緒ね。あいつは今、大事な時期だから。

 

 バス事件の真犯人を突き止める。この一件に香坂を巻き込んではならない。あの約束を守ろうとすれば、有華と自分がなぜ最近行動を供にしているのか、説明が難しい。だから別の、適当な言い訳を考えなければならない。

「ええっと……有華と俺は……あのぅ」

 それがよくなかった。余計に香坂の感情を逆撫でしたのだ。

「有華、か。また呼び捨てだ」

「いや…………ちょっと」

「はっきり言うよ。気に入らないんです、お前さんが」香坂はワイシャツのネクタイを緩めた。「有華が有華が……って、幼なじみで熱血漢風な顔して。その癖、実は公安警察だ。うちの岩戸女史を見張っている。つまりは食わせ狸じゃないか……よくそんな仕事ができるな。ま、ある意味感心するけどね。意味わかる?」

「…………」何も言い返せない。

 香坂は容赦無く攻め込んでくる。「幼なじみという間柄を仕事に利用するなんて、気持ち悪くないの? 東大生にはプライドってないんですか? 組織に尽くすことだけが、人生か?」

 組織に尽くすことだけが人生か。

 その響きに、雷に打たれたような衝撃を覚えた。

 

 

 どれぐらい経っただろう。一分、二分——三分は過ぎたかもしれない。緒方隼人は延々と、まるで廊下に立たされる小学生のように、無言で歯を食いしばっていた。書類の束でずっしりと重いバッグを握る右手が、痺れている。

「……ね」根負けしたのは香坂の方だった。「あのさ。黙ってるだけなら……得意な空手で殴りかかってくるとかしないなら、もう行っていいかな? 明日も早いし、お互い疲れてるんだし」

 何も言い返せない。そんな状況の中、緒方は必死に考えていた。言い訳を、ではない。有華との約束を守りながら、香坂に何をどう伝えるべきか。それを必死に。

 渾身の力で脳をフル回転させていたのだ。

 顔は真っ赤だったと思う。自分でも血がのぼっているのがわかる。

「……悪かったよ」香坂は面倒くさそうに言った。「言い過ぎました。僕は腕力で勝負できないから、口でやり込めちゃうんだ。返答できないところへ、理詰めで追い詰めた。詫びるよ。詫びます」

 そうじゃない。香坂は悪くない。俺が何も説明していないからだ。悪いのはこっちだ。

 くそっ。

 緒方はやぶれかぶれの策を一つ編み出した。「……か」

「か?」

「借りじゃ、だめか」

「かり?」香坂が目を丸くする。

「借りはかならず返す。だから、貸してくれ」

 呆れた面持ちで、香坂は嘆息した。

「いろいろ……ややこしい御仁だね。僕が何を貸せますか」

「有華に……常代さんに口止めされていることがある。それは言えない。許してくれ。その上で、無理を承知で教えて欲しい。どうしてキツネは……香坂は電網庁に入った。どうして岩戸紗英についていく。教えてくれ」

「何故それが知りたい?」

 緒方は今日の出来事を振り返った。GEEなる女ハッカーの掴んだ重大情報。それを召し抱える岩戸紗英なる魔女。その魔女が率いる電網庁。その一切を、警察は不信に感じているという事情について——思いをめぐらせた。

 そして結論する。何故知りたいか説明はできない。説明を始めてしまえば、事件のあらましを喋ってしまう。

「……頼む。聞かないでくれ。いずれ話せる」苦汁の決断であった。

「貸しは高いぞ。いいのか?」

「礼儀は尊ぶ。礼に始まり……礼に終わるのが武道だ」

「ふむ。じゃあ空手黒帯に免じて、一つ目の質問に答えよう」

 香坂は右肩に提げていた重そうなビジネスバッグを、左肩へとかけ直した。「……僕が電網庁を目指した理由。それは単純な話だ。メディアの論調に嫌気が差したからです」

「……嫌気?」

「電網免許ネットワークを基礎におく電網庁のコンセプトは、国民を規制するばかりじゃない。メリットも提供する。パスワードの管理が不要、とか諸々ね。僕は大学で研究していた立場だから、声を大にしてそう言いたかった。と同時に、電網庁がそのメリットを実現するには相当な労力が伴う……時間がかかることも知っていた。僕の力が役に立つはずだ。ずいぶん考えたけれど、その志に従って前の会社を辞めた」

「……志」

 緒方は不意打ちを食らっていた。そこへ香坂はこう畳みかける。

「二つ目の質問。どうして岩戸紗英についていくのか。僕は面接のとき、彼女から『泥だらけになるよ、綺麗な仕事じゃないよ』と脅された。で、覚悟はありますと答えた。それが当面、答えだと思う」

「?」

「実は……実家が呉服屋でね。僕自身、お洒落は大好きだ。で、着物ってやつは着る時こそ美しいけど、染める側はドロドロになって作る。爪の隙間が青くなったり、気持ち悪いもんなんだ。そんな職人の努力の上に、美しさが成り立ってる」

「……」

「そういう世界が好きなんです。憧れがある」

「あこが……れ」

「岩戸紗英って存在は、一見華やかそうに見えるでしょ。けれど、それだけの人なら僕はつまらないと思う。あの人は汗を流すのが好きなんだ。実は泥臭い。泥臭く戦ってる……けれどそれを人にアピールしない。表向きは、あくまでエレガントに振る舞う。そういうの好みなんです、端的にいえば」

「……」

「答えになっているかな。僕は貸しを作った?」

「……」

「何とか言ってくれよ」

「……すまん」

「は?」

 緒方は顔をまっ赤にして、頭を下げた。「聞いた俺が、馬鹿だった」

 そして頭をあげ、目を閉じて——言った。

「許せ」

 くるりと背を向ける。そのまま歩き出す。

「おい、待てよ」

 香坂の声は耳に届いていた。けれど目が見られない。振り返りたくない。肩が。肩が震えているのがわかる。自分が愚かに思えた。恥ずかしい。恥ずかしさで胸が一杯になる。こんな立ち去り方をすれば、また香坂は機嫌を悪くするだろう。でも、その顔が見られない。それほどに恥を知った。

(俺は馬鹿だ)

 たぶん香坂は自分が答えてほしいことを言ってくれる。そうに違いない。そんな風に心の何処かで期待していた。

 たとえば「電網庁のポリシーは社会正義だ」。

 あるいは「岩戸紗英は尊敬すべき立派な女だ」。

 そんな安っぽい、ありがちな台詞が聞けると信じていた。ところが——香坂の答えはまるで違った。だから。だから自分の浅ましい期待に気づかされた。 情けない。情けなくて。

 いてもたっても、いられなかった。

 

 

 翌朝、常代有華は寝ぼけ眼で駐車場を歩いていた。

 今朝はこの初台宿舎から霞ヶ関へと直行する予定。近々ベガス社から納品される噂のオートパイロット車について、段取りの打ち合わせがある。本来ならGEEが受け入れ責任者。けれど今は出入り禁止の身。あのガラクタ倉庫「サイバークライム実験場(クライム・ラボ)」に収まるべきブツの扱いについて、一番精通しているのはGEEのアシスタント、つまり自分である。一介の、末端の、嘱託事務員。けれど——しっかりしなきゃ。

 そんな風に考え事をしながら歩いたせいで、駐車場にたたずむ人影に気づくのが随分と遅れた。

「……お!?」

 車のフロントグリル前に、こざっぱりした理系男が立っている。

 それで目が覚めた。「お……おはようキツネ丼。どした?」

「今朝はどちらへご出勤ですか?」香坂の表情は険しい。「霞ヶ関? 国分寺? それとも……僕に言えないようなところ?」

 棘のある物言いに有華は苛立ちを覚えた。どうやらバスの件を聞き出したいらしい。

「ん……その件は、いつか話すよ。乗ってくか? 今日は霞ヶ関だし」

 軽くあしらいつつ運転席側のドアに歩み寄り、鍵を差し込もうとした——途端。

 香坂は車のボンネットを両手でどん、と叩いた。

「おい。緒方はいい奴なんだろ!」

「……え」

「あいつが、口止めされているからって顔をまっ赤にしてるのは、見るに堪えなかったぞ」いつも穏やかな秀才の顔に、はっきりと怒りが刻まれていた。「君のせいだとしたら酷い仕打ちだ。男として、見逃せないっ」

 

 

 その日、合同庁舎二号館の一階食堂では、早々に「三者会談」が開かれた。香坂、緒方、そして有華。こうやって会うのは久しぶりの事である。

「ふむ」

 香坂は腕組をしたまま瞼を閉じて言った。「……ギィさんは青いPCのハックに成功して、それらしいデータを引っこ抜いた。でもそれはハッキングだから証拠能力がない。警察は動けない。けれど、もしもそのPCを合法的に押収できたら、形成逆転が望める……そういうことか」

「そういうことです……ハハ」

 緒方は苦々しく笑い、幼なじみの表情をうかがう。さっきから有華があまりにも大人しい。朝から香坂とやりあったのが相当応えているようだ。

「にしても、わからん」香坂は片目を開けて言った。「ギィさんの名誉挽回のための真犯人捜し……それをどうして僕に内緒にしていたのかが、さっぱりわからない」

「だって……」有華はうつむいて言った。「バスの件って電網庁に直接関係ないじゃん。キツネ丼は毎日忙しそうだったし」

「元はといえば俺に始まった事……じゃなくて」緒方は慌ててとり繕う。「け、警視庁に始まった事だからな」

 香坂は片目だけを開いたまま、口角を持ち上げた。

「なぁ、この一件……電網庁に関係あるといったら、驚くか?」

「え……ええ!?」有華が、黒目がちな瞳を限界まで見開く。

「そうなの?」小柄な緒方の座高が、座ったままでちょっぴり伸びる。

「関係がある、というか……関係を、作る」

 呉服モデルあがりの男が、顎をあげた。

 不敵な笑みを浮かべている。「青いPCが手に入ればいいんだろう?」








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