(十)(十一)(十二)
江戸川区・葛飾区・台東区・千葉県・(都内某所)
(十)
江戸川区:臨海町:午前
決戦の朝。
緒方は助手席でHMD越しにフロントガラスの外を見据え、へその下あたり、いわゆる丹田に気合いを入れた。敵は目前に有り。地味めな4ドアセダンを駆るドライバー、勤務先のベガスカスタマーセンター江戸川第二へ赴く男、ハンドルネーム・クラムシェルこと——甲斐原豪だ。
「出社の時はいつも、あの車?」緒方は首をかしげる。「外車にしては地味……」
有華がハンドルを片手でさばきながら、呆れ気味に答えた。「アレ国産だぞ。あいかわらず車オンチだなぁ」
「え!? クラムシェルは外車マニアだって、みんな言うから……」
「出勤は必ずベガス製の車。ルールなんでしょ、会社的に」
「なんていう車?」
「む。そんくらい調べろ自分でっ」
「はい、はいィ」
有華様の苛々は毎度の事だ。いわば通常運転。おまけに朝から渋滞中では機嫌が良くなるはずもない。このオンボロ英国車は残念ながらマニュアルシフト。調子の悪いクラッチで、とろとろ走るのが面倒極まりないということだろう。
もしくは大捕物の前だから、神経が高ぶっているのかもしれない。
あるいは——。
「……悪かったよ」緒方は謝った。謝りつつ、ニヤけた笑いを浮かべる。
「何だ。急に謝ったりして」
「香坂にバレて、叱られたのがお気に召さないんだろ? 俺のせいだもんな」
「……そんなこと一っ言も言ってないし」
有華は顎でフロントガラスを指した。「車の写真を撮って、画像で検索できるから。やってみな」
「はいはい。画像で検索。トライします」
運転中、有華のHMDは緒方が預かっている。日々指導を受けたおかげもあって、この魔法の眼鏡にもずいぶん慣れた。電網庁職員なみとは言わないまでも、電話にチャット、ネットサーフィンをこなしつつ、透過して見える視界をチェックしながら、人と会話をこなせるまでになった。飯島にレポートすべき中身としても、このHMDはちょうどいい具合なのだ。
「あとさぁ、遅れてるって現地組に伝えた方がいいよ」
緒方はHMDのマイクに
「こちらロータス……マル被(=被疑者)、湾岸道路千葉方面にて渋滞に突入。えー現在、新木場駅前……予定より十五分遅れです」
*
広大な敷地——日本で一、二を争う規模の自動車整備工場。その駐車場に二台のマイクロバスが滑り込んだ。まっすぐ来客用エリアへと向かう。
(すごいな……これが大型車両専門の整備工場か……)
香坂はHMDを少し上げて、座席からの眺めを肉眼で確認した。自分たちの乗るバスなんて、まるで玩具に感じられる。
ベガスカスタマーセンター江戸川第二に乗り込んだのは、自分を含む電網公安官二班に加え、ワケアリの女ハッカーGEEと、その仲間であるタマラ——総勢十七名である。
「垂水はん、ワシら面が割れてるからここで待機するでぇ」
GEEは座席の最後列で中腰になり、前方に向かって宣言した。「キツネ丼、それでええか? お前一人で行けるやろ」
垂水は最前列にいて、前を向いたままだ。HMDのイヤフォンを介して香坂の返答を待っている。
「大丈夫です。構内のレイアウトはだいたい教えてもらったんで」香坂はHMDのマイクに呟いた。「……僕が、まっすぐ甲斐原のデスクと作業場を押さえます」
そのときだ。緒方から連絡が入った。甲斐原の車が予定より十五分遅れ——つまり、遅刻するという。
「う……」香坂は顔をしかめた。「弱ったな」
「待ちたいだろうけど、無理だよ?」垂水がきっぱりと言う。
わかっていた。法人の立ち入り検査は表向きこそ抜き打ちだが、対内的には法務省への手続きが必要であり、日時はすでに決まっている。遅刻する社員を待つことはできない。
「予定が書き換えられるはず……ないですもんね」香坂は笑う。
「うん。それじゃ申請の意味、ないからね」垂水はドアに手をかける。「まさか奴(やっこ)さんがそれを知っていて、出社を遅らせているとは思えないけど?」
「この申請手続きには問題ありますね」
「同感だよ。本施行までには変えたい」
「……」
「………………悪いけど、始めるぞ」
垂水が手を挙げる。マイクロバスの中央ドアが開いて、スーツにHMDがトレードマークの一団——電網公安官たちが、ぞろぞろと降りていく。
「……こちら香坂。こっちはもう始まるよ……すまん、時間厳守なんだ」香坂は緒方に向かって言った。「甲斐原はそれと知らずにオフィスへ入ってくるだろう。そこを押さえる。到着したら教えてくれ」
それから、自分もバスを降りた。
*
垂水らがずかずかとオフィス棟に入ったのと時を同じくして、構内に鳴り響いていた音楽が止んだ。朝のラジオ体操がちょうど終わり、職員たちは全員制服に着替え、身体がほぐれた状態で珍客を出迎えた。
「電網庁です!」垂水は首に提げていたカードホルダを手でつまみ、上下に振って、大きめに声を張った。「……えー、電網免許保有者の就業実態と、公認PCの利用実態を調べますので、おつきあいください」
事務員らしき女性が一人、慌てて駆け寄ってくる。「……どちらさんですか?」
「電、網、庁。都条例に基づく抜き打ち検査になります。みなさん、電網免許証をご用意ください……じゃ、取りかかって」
隊長の号令一下、散り散りになる網安官たちの中にあって、香坂だけは壁のホワイトボードをにらみ、職員たちの出欠をそれとなくチェックした。整備課、甲斐原の名札は裏返っている——まだ出社していないという意味だ。
オフィスを少し練り歩くと、座席表らしき物を見つけることもできた。甲斐原の机に見当もつけた。
HMDのイヤフォンから女の囁き声が聞こえてくる。
〈ぬかるなよ、キツネ〉GEEだ。
「その青いPCって……バッグに入れて、斜めがけしてるんですよね? いつも肌身離さない」
〈せや。査察が入ってると知ったら、トチ狂って壊したり捨てたりしよるかもしれん〉
「当面、我々はこのオフィスを離れません。建物の外から中の様子を伺い知ることはできないでしょ? どうです?」
〈……せやな。さっぱりわからんわ〉
「甲斐原が駐車場に着いたら教えてください。この棟に入ったところで、捕まえてPCを出させます」
〈ブート(※コンピューターの起動プロセス)に細工があるかもしれんからな。本人に絶対いじらせるなよ。このマイクロバスまで、真っ直ぐ持ってこい〉
「了解。とにかく手に入れます」
香坂は甲斐原の机と直近にあるドアの間に立ち、同僚の網安官たちと従業員のやりとりを見守った。ちょうど三十半ばの男性職員が机の引き出しを開けるように言われ、しぶしぶノートPCを取り出したところだった。
「公認機種じゃないですね?」網安官は一目で見抜いた。「私物ですか? ベガスは服務規則で私物の持ち込みが禁止されているでしょう。懲戒処分になりますよ」
男性職員は口を尖らせて言う。「私物じゃないっすよ」
「じゃあ電網庁に書類を提出済みですか?」
「書類って何の」
「廃棄予定です」
「廃棄……予定?」
「このタイプは無線機能が搭載されていて、しかも非公認機種だ。年が明けたら持っているだけで処罰されますよ」
「……マジ?」男性職員は青ざめている。
網安官はHMDをかけたまま口元に笑みを浮かべた。
「あなたを責めているわけじゃありません。ベガス社がきちんと公認機種への移行を進めているかどうか、指導するのが我々の仕事ですので」
「……」
「じゃあ」網安官が言った。「電源入れてみてください」
男性職員が苦虫を潰す。「こいつ古くて調子悪いんですよ……起動、すごく待たされるんだよなぁ」
「じゃあマルウェアに汚染されている可能性が大きいですね」
「……マルウェア?」
「悪意のあるソフトウェアです。調べましょう」網安官はポケットからスティックタイプのメモリーを取り出し、件のPCに差し込んだ。
「……汚染されてたら、どうなるんすか」
「即、廃棄です」
その時だ。
香坂の耳元で緒方の声がした。
〈マル被、到着した! 構内に進入するっ〉
*
甲斐原の車は従業員駐車場へ。それを追ってきたロータス・エクセルは来客用の駐車場に入り、電網庁が乗り付けたマイクロバスのすぐ傍に腰を落ち着けた。
緒方はHMDを跳ね上げ、目を細め、甲斐原の動向を凝視した。運転席を動こうとしないのは何故だろう。遅刻だというのにハンドルを握ったまま、口を開け閉めしている。独り言の癖でもあるのだろうか——などと訝しむ。
「最初からキツネ丼に相談すればよかったね」
有華が運転席でぼそりと呟く。
「いや。ギィさんが囮になって、此処に観光バスを持ち込んで、甲斐原の青いPCをハックしたからこそ目星がついたんだ。やっぱり囮捜査がある程度必要なんだと思う」
「囮捜査……か」
「麻薬取締官みたいなやつね。じゃないと、捜査が行き当たりばったりになる」
二人はフロントガラスから視線を動かさずに会話を続けた。甲斐原はあいかわらず4ドアセダンの中。
「……そういえば」有華が言った。「日本って囮捜査アウトなんじゃないの?」
「いろいろあってね……ケース・バイ・ケース。たとえば麻薬Gメンは密売人から麻薬を買っても罪に問われない。機会提供型の囮捜査っていうんだけど」
「へー。隼人もラリってOKなの?」
「ブー。麻薬Gメンは厚労省だ。ま、ウチの生安(=警視庁生活安全部)も絡むみたいだけど、警察としてどこまでやっていいのか、俺も詳しくは知らない」
「……ね、ギィさんのやったことは囮捜査っていえるのかな……フリーのプログラマがパソコンをハックとか」
「全然ダメ。本来なら不正アクセス禁止法に抵触して、懲役まであるんじゃないか」
「本来なら?」
緒方は咄嗟にHMDのマイクを握り込んだ。GEEに聞かれると思ったからだ。
「あのな。観光バスの車載コンピューターにスパイウェアを仕込んで、メンテ業者の整備用PCを襲うって……簡単じゃないらしいぞ。公安部にもけっこう腕利きのハッカーがいるんだけど、聞いてみたら、一週間やそこらじゃ絶対準備できないって」
甲斐原はまだ動かない。
有華は視線を正面に保ったまま呟いた。「ふぅん……そうなの?」
「なぁ有華。あのギーって人、本当は何者なんだ? お前、全部知ってるって言い切れるか?」
そのときだ。
「あ……動いた」有華が呟く。
甲斐原がようやく車を降りた。オフィス棟の方へ歩いて行く。やはり、いつものバッグを肩に担いで。
緒方が慌ててHMDに怒鳴った。「マル被、降車しました。そっちに向かうぞ、香坂っ」
〈了解〉
「……あれ?」その時だ。有華の黒目がちな瞳が大きく見開かれる。
「どした?」緒方は車外と車内をやぶ睨みした。「何がおかしい?」
自分の見立てでは、甲斐原豪に特筆すべき事情は見当たらない。いつものブリーフケース、ぼんやりした表情、厚ぼったい唇、半袖のワイシャツにノータイ——ヤモメ男の冴えない出勤姿でしかない。
緒方はHMDを手際よく操作した。ネットワーク経由で、香坂の、HMD内蔵カメラが捉えた画像を表示できるよう設定する。
ほどなくして——切り替わった画像の真ん中に、件の甲斐原豪が大写しで収まった。
〈甲斐原さんですね。電網庁です〉
イヤフォンから歯切れ良い声が聞こえてくる。香坂だ。カメラ画像の中で甲斐原はふてくされている。
「お……やったか」
緒方がガッツポーズを取りかけた——その時。
有華は大きな声をあげた。「まずっ!」
そして——唐突に、強引に。
緒方からHMDをむしり取ったのである。
「っっ痛ててっ!」
無理に引っ張られたので緒方は耳が持って行かれるような痛みを感じた「な……何すんだよ! いいとこなのにっ」
「あんたここに居て。私、それっぽくできると思うからっ!」有華はそのHMDを手に、運転席のドアを勢いよく開けた。
「ハァ!? 何する気だ、おい」
動き出した有華は止まらない。車を降りてドアを閉じるまで二秒足らず。ばたんという音と、緒方の声が重なった。
「おい、馬鹿っ!」
緒方はフロントガラス越しに有華の姿を目で追った。ぞんざいに結んだ長い黒髪をなびかせ、有華は猛然と走り出していた。走りながらHMDを装着し、イヤフォンを耳に押し込んでいる。
どんどんスピードを上げていく。流れるような——動きだった。
*
甲斐原の4ドアセダンは問題じゃない。常代有華はむしろ別の車を気にかけていた。従業員駐車場をうろつく、無関係に思えた白のミニバンである。てっきり敷地の外へ出るものだとばかり思っていたら、何故か甲斐原のセダンに近づいて——隣にすべりこんだ。
(おかしい)
感じるのだ。バリバリに、違和感が。だから走り出した。二台めがけて。
でも走るのはマズい。やっぱり歩こう。堂々としよう。いつもと同じじゃダメ。電網庁の職員らしく振る舞う必要がある。だからあわてて装着したHMDのイヤフォンを、ちゃんと耳に押し込む。
香坂の声が鼓膜に届いた。
〈聞こえるか、緒方……マル秘が例のPCを持っていない!〉
やっぱりか。有華は確信した。
二台まであと二〇メートル。
〈バッグが空だ……今からオフィスを出て整備棟へ移動する……空振りかもしれない……もしかしたら、そっちに〉
香坂の狼狽する声が聞こえる。
二台まで一〇メートル。有華は歩くスピードをさらに緩めた。
白いミニバンのドアが開く。男が降りてきたのだ。緑のツナギにキャップ帽、サングラス。顔に見覚えはない。しかし、きっと甲斐原の仲間だ。
男は何食わぬ顔で甲斐原のセダンに近づいて解錠し、助手席を探り——そして。
青いPCを抱え、ひょい、と頭を上げた。そして有華と目があった。
「電網庁です!」有華は腹筋に力を込めて言った。「ええと、で、電網免許保有者の就業実態と、なんだっけ……公認PCの利用が……ま、とにかく! そのPC調べますからそのまま……」
そこまで言って、有華は身体をこわばらせた。
声が。
動物の、うなり声が聞こえる。
ゆっくり視線を動かした。
大きく開いたミニバンの後部席ドアをしっかり見定める。
奥で光っているのは——中学生ほどの体格を持つ大型犬。その大きく開いた口に生える、長くて、鋭い牙。
きっと猟犬だ。
「行けっ!」
ツナギ男の号令とともに、犬は猛然と飛び出してきた。
自分の方へ真っ直ぐ来る。
血の気が引く感覚があった。
避けられると思えない。
逃げられると思えない。
悲鳴も出ない。
(や……られる!)
万事休す——が、次の瞬間。
大型犬は斜め横から、新手による猛烈な一撃を食らった。
「せぇええええええいっ」
気合いを込め、猛然と突進してきた緒方隼人が体当たりを放ち、絡みあったままミニバンのボディに激突した。
どかん。
鉄板が大きく凹むほどの衝撃。そのまま両者はもつれ合い、アスファルトの上に倒れ込んだ。
犬は猛烈な勢いで緒方の服を食いちぎろうとしている。
緒方も負けじと拳をたたき込んでいる。
「ちっ」
ツナギ男は舌打ちしつつ、青いPCを抱いて走り出した。
敷地の外へ持ち去ろうという魂胆か。
「お……おとなしくしろっ」有華が猛然とダッシュして、ツナギの背中に飛びついた。
しがみつく。でも、かなわない。
ずるずるとひきずられていく。
「なんだぁ、このクソアマっ」
ごつん、と衝撃。
男の肘鉄がもろに——顔に入った音。
「ぶっ」
有華は激しい痛みとともに、口から飛び散った血がアスファルトに落ちるのを見た。
へたりこむ。
景色が。
世界がぐらぐらする。意識が朦朧とする。
ノートPCを抱えてツナギ男が逃げる、その後ろ姿が。
ぼやけて見える。
(悔しい)
逃げられる。
(超悔しい!)
そのときだ。
ツナギ男の向こう側に——誰かが仁王立ちしているのが見えた。
金髪の筋肉男である。
「女の顔に肘いれるたぁ、男の風上にもおけねぇな!」
タマラが豪快なキックを放つ。
一発。
ツナギ男がぐらついた。
さらに二発、三発。
立てないほどに痛がっている。やがて。
最後に——何かが宙を舞った。
(わ、ダメ!)
飛んだのは、青くて四角い板状の物。
ダメ。それを、それを壊してはダメ。
有華は血を吐きながら、立ち上がろうとして——また膝をついた。
無理。
立てない。
キャッチなんて無理。
空飛ぶ青いPCが。
PCが。
地面に。
地面に落ちる。落ちてしまう。
(ああ)
意識が保てない。
やがて。
有華は気を失う寸前——地べたに滑り込む、全身黒で決めた、スレンダーなオトコオンナの気配を感じた。
「……っ。とったどぉおおおおお」
間違いない、あの声。最後に吼えたのは、あの性悪女。
八千夜、大義。
ギィさんだ。
(十一)
江戸川区:東葛西:午後
その日の午後。
常代有華はエアコンの冷気とガーゼの感触を左頬に感じていた。視線を廊下に落とすと、看護士や患者たちの長い影が、短冊のように揺らめいている。
右頬には隣に座るGEEの気配が感じられた。でも、いつものような調子のいい会話ができない。ここは病院。自分は怪我人で、GEEは付き添いで。しかも、その自分よりさらに大怪我をした人間がいるのだから、あっけらかんとはしていられない。
GEEが溜息をついた。時計を意識しているのだろう。治療に時間がかかっているのは、具合がよろしくない証拠。
外科のドアががらりと開いた。
包帯で腕を吊った小柄な男が、苦笑いを浮かべている。
「やっちゃった」緒方だ。顔も包帯やガーゼで覆われている。
有華は座ったまま、口を尖らせて言った。「なんで笑ってんのさ」
「古傷なんだよ、左手首……」
GEEが言った。「折れてるんか?」
「ヒビです、ヒビ。まぁ、正確に言うと骨折になるけど」
緒方は有華の左に腰を下ろし、エアコンの風を遮った。「……鍛え方がたりないっす」
「謙遜すな。名誉の負傷やろ」GEEが慰める。
「昔からなんですよ。だよなぁ? 俺、ドジっていうかさ。車のボディとやりあっても、黒帯なら叩き割れって話ですよ。ねぇ?」
自虐的な緒方の口ぶりが有華には辛かった。自分は明らかに——独断専行。暴走して、危険を招いて。
そのピンチを緒方が救ってくれた。というより自分が怪我を負わせてしまった。
目尻に涙が浮かび、垂れた滴がガーゼに吸われる。「……」
「お前が泣くなよ。痛いの俺なんだから」緒方は優しい。
「……さっき、垂水はんに叱られよったんや」右からGEEの細くて大きな手が伸びてきて、有華の髪をくしゃ、と撫でた。「独法(=独立行政法人)の職員に怪我されても、総務省は責任取れへん言うてな」
「……」
「そ……りゃそうでしょうけど……結構厳しい言い方だな、それ」緒方は、左から肘でこづいてくる。「お手柄じゃんなぁ?」
「せや、お手柄。でもミソつけたな……ウチかて口は達者やけど、立ち回りとなったら一対一は避ける。追い詰める時は、特にな」
それからGEEは「戦場におけるハッカーの脆弱さ」について語り始めた。現代の戦闘には必須の戦力であるコンピューター、そしてそれを扱うエンジニア——つまりハッカー。しかし、いざリアルな銃撃戦や格闘になってしまえば、電子機器を抱えるエンジニアは逃げ足が遅く、足手まといになる。そんなハッカーと機材を守るべく、サイバー戦争のフォーメーションにおいては「論理兵(=ハッカー)」の世話係たる「物理兵(=ソルジャー)」が存在する。二人がコンビで行動するのが基本、常識であるという。
こういう話題になると女ハッカーの表情は精悍そのものだ。
「ウチにとってはタマラが物理兵……」GEEが言った。「ゆかりんは緒方と二人、せぇので行動するべきやった」
「でも俺、ボディガードのキャラじゃなかったもんな」緒方がうそぶく。
「何を謙遜しとんねん、空手黒帯のくせに」
「いやぁ、高校まではただのガリ勉眼鏡っス。跳んだり跳ねたりは常代有華の専売特許で、緒方少年はそれをカメラで撮る係。しかも安全なところから、望遠レンズで……なぁ?」
緒方は楽しげに語る。包帯の痛々しさを誤魔化そうとする。
「……………………そうだったね」有華はつられて口を開いた。
「俺はスポーツ系カメラ小僧。で……へへ、こいつは」緒方の作る笑顔は絆創膏のせいでやや引きつっている。「筑波のアイドルレーサー。紅一点。すごかったよな、十六歳のデビュー戦。周りは大人、しかもおっさんばっかでさ。もう有華にカメラが殺到して」
「レースクイーンかよ! って……」二人、声が揃ってしまった。
それが可笑しくて——。
「言ってた言ってた。あれが、私の人生の頂点だね」有華の口角が自然に持ち上がった。
「そうか。十六から四輪OKか、筑波サーキットは」GEEも口元をほころばせる。「十五まではバイクやってたクチか」
「うん。好きだったよ。でも大きいのに乗れなくて」
「身体……か」
GEEは細身で手足が長い。単車に必要な資質を備えている。一方、有華の体格は平均的な女子並みだ。
「足つきが悪くてさぁ……格好悪いから二輪はすぐあきらめた。でも」
ついその名前を出して、出してしまって、有華は言葉を切った。
かまわないのだ。ここには、自分の過去を——常代啓太の存在を知っている人間しかいない。
「啓はね。どんどん背が高くなった」
空気が張り詰めた。GEEも、緒方も黙っている。
「あいつは二輪でガンガン……悔しかったなぁ。男に産んでくれって思ったよ。双子なのにさ、なんで足の長さ違うんだーって。思うでしょ普通?」
沈黙に——耐えられず。
GEEが、緒方の包帯で吊った左手を叩いた。
「いだっ!?」
「お前が古い話、持ち出すからやろ阿呆っ」
「……すいません」緒方は立ち上がると、GEEに向かって頭を深々とさげた。
「なんや。そこまでするか?」
「……俺、ギーさんに詫びることがあります……実は」
「あー、ええよ」中身も聞かずにGEEは緒方を許した。
「へ?」
「財前セミコンダクタに顧客データを出せと迫った警察官は誰か。とばっちりでウチがNICT出入り禁止になった直接の原因……その話やろ?」
「……ご存知だったんですか。いつから?」
「狸君の顔みてたらな、最高に笑えたから。あのバーで消化したわ」
「え、ゴールデン街の!?」
緒方は口をぽかんと開けて、次に有華を恨めしそうに睨んだ。睨まれた事で有華も理解した。あの飲み会の夜、財前セミコンダクタに乗り込んだのが当の緒方であるという事まで、GEEは調べ尽くしていたらしい。
「ええっ、アタシ? 知らなかった、全っ然」有華は全力で否定する。
「頼むよぉ」緒方は溜息をつき、それから口元を引き締めた。「でも、謝ります。自分の勇み足で顔見知りが職場をクビになるなんて、想像もしなかった」
「謝る必要……あんのか?」GEEは嘲る。「ウチが前科者やから、ライフルを隠してたから、クビになっただけやんか」
「判りません……俺は職責を全うしただけかもしれない。でも気分的には謝りたいと思います」
「……直球な奴や、狸のくせに。じゃあウチも謝ろっかな」GEEはニタリと口角を上げた。「NICT出入り禁止は、ホンマに痛かった。けど無職になったっちゅうのはウソ。せやから気にせんでええ。本業はしっかりやってるし」
「本業?」
「……いずれ、アンタにもわかるやろけどな」
「そう……ですか。ホッとしました。あ」緒方のポケットで携帯電話がバイブする。
メールをチェックした途端、その表情が弾けた。
「誰から? キツネ丼?」と有華。
「警視庁やろ?」とGEE。
緒方は包帯をした左手首をかばいつつ右腕で鞄を抱え、腰を上げた。「……バス事案の事件化にむけて捜査一課が動き出しそうなんで、顔出して、ケツ叩いてきます……テテ」
「キツネ丼のケツ?」
「まさか。お堅い刑事のケツだよ」
「げ、固そうやな!」GEEは右の拳を上げた。「叩くんやったら右でな」
「はい。右で」
包帯と絆創膏にまみれた手負いの青年は、鞄を持った右手をあげ、さらに敬礼した。そして踵を鳴らし、翻った。
*
運転席で有華は大きく溜息をついた。キーを差し込んで、しかしエンジンをかけることなくハンドルを握り込む。フロントガラス越しに見る夕陽が赤い。
「あーあ、置いてかれちゃった……キツネにもタヌキにも」
座席を仕切る暗幕がごそごそ揺れていた。GEEが電子機器の類をいじくり倒す気配が背中に感じられる。
「よういうわ」くぐもった関西弁が聞こえた。「幼なじみのナイトぶり、なかなかのもんやったで。どや、御姫様の気分は」
もちろん有華は素直に喜べない。「私のせいで、怪我させたんだと思う」
「不可抗力ってやつちゃうか?」
「でも評価はマイナスだよ。私だけ」
あの垂水局次長にまた小言を食らったのだ。それが頭から離れない。
「……あーあ、トイレにしろバスにしろ頑張っても頑張っても叱られちゃう。これじゃあ電網庁に転籍なんて、夢のまた夢って感じ」
NICTすなわち独立行政法人の職員が、総務官僚の運転手をするなんて大問題。おまけに自分は警察幹部、それも警視総監の姪——岩戸に「特別な意図」があると外野に勘ぐられても反論できない。それは岩戸自身、一番わかっている筈だ。なのに手続きを進めてくれるムードは微塵もない。
当然だ、期待する方が馬鹿だ、と有華は自分に言い聞かせている。電網庁は一種保持者で固めるエリート集団。一方の有華は三種の凡人。車の運転だけが取り柄の半端者。私の居場所なんてない。あるわけがない。努力をアピールしたいのはやまやまだ。けれど、頑張れば頑張るほど垂水局次長の心証を悪くする。
「なぁ、ゆかりん」ばさりと音を立ててGEEが暗幕から頭を出した。「……岩戸はんがイジワルしてるって、思ってるんとちゃう?」
まさか。そんな風には思わない——けれど。
「…………ギーさんどう思う?」
「実はな」GEEは険しい顔で言った。「岩戸はん気がついてるみたいやで。ゆかりんが、ずっと実家に帰ってないこと」
有華はハッとした。まさか岩戸にバレているとは思わなかった。
有華の実家は国分寺市にある。総務省の研究機関NICTは目と鼻の先で、縁あって就職が叶った。後に有華は新宿で一人暮らしを始めるが、経済的に独立したかったからではなく、実家から遠ざかりたいが故の選択であった。NICTから電網庁への転籍が実現すれば、国分寺くんだりまで出向くことは半永久的になくなる。そういう意味で都合がいい。
にしても、実家と距離を置きたいという心情がどうして岩戸にバレたのだろう——正月にしろ盆休みにしろ、用もないのに国分寺まで出向き、土産にスイーツを買って、このケーキ有名なんですよ、このパティシエは帰国したばっかりで云々などと、さも帰省したように話す努力までしていたのに。
「……ギィさん、告げ口したな?」
GEEが口を尖らせる。「阿呆。告げ口してウチに何の得があるねん」
「えー!」有華はハンドルから両手を離し、運転席で大きくのけぞった。「……なんでバレたんだろ?」
「NICTに行く用事が無くなったら、ゆかりんは実家にますます寄りつかなくなる……岩戸はんは、そうさせたくないと思うてる。とか」
GEEの分析はなかなか鋭い。けれど。
「そんな事が理由で、転籍させないような人じゃないと思う。やっぱりイジメられてるのかも、アタシ」
スイーツのくだらない偽装がバレて、信用を失って、評価を下げてしまったのだろうか——有華は深刻にとらまえる。
「そういうウチが、NICT出禁やから始末が悪いわ」GEEは自ら嘲った。「人の心配してる場合ちゃうよな。せや……例の、新庁舎に出入りしたろか?」
「初台の?」
「席も机もなくてええわ。食堂があったら長居できるやろ? ノマドワーカーちゅうやっちゃ……メシ美味いんやろか?」
「私も、ずっと食堂でいいや」
「……」
「どうせ……席も机もないと思うから。へへへ」
GEEをセーフハウスの近くまで送り届け、それから有華は一人、とある外車ディーラーへと足を運んだ。店主の瀬戸はレースが趣味で筑波の顔。彼にロータスのクラッチディスクを——新品には交換できそうにないので、手頃なジャンク品を——探してもらっている。だが今のところめぼしい出物はないという。
(あーあ)
ボロ車が修理できれば気分も晴れる筈。そんな期待はあっさり打ち砕かれた。ガソリンを補充する気にもなれず、まっすぐ初台の宿舎まで戻る。駐車場に滑り込んでオンボロ英国車を降りると、有華は後輪に軽くケリをいれた。それからもう一発、重めのケリを入れた。
*
(なんでアタシ、ここにいるんだ)
部屋に入って照明を点すと、じんわり疎外感が襲って来る。空しさがこみあげる。甲斐原豪ことクラムシェルを追い続けてきた半月あまりの努力、それが結実した最高の夜。緒方も香坂も霞ヶ関にかじり付いている。走り回っている。なのに自分は一人、帰宅組だ。
頑張ったのに。あんなに頑張ったのに——気がつくと、いつも観客席。
(あーあ)
有華はベッドの上にバッグを投げつけた。隅に居座る「ビバンダム」——タイヤメーカー・ミシュランの白くて柔らかいマスコットキャラが、ばふん、と衝撃を受けとめる。それとほぼ同時に携帯電話が鳴った。有華はあわてて、ビバンダムの肉の合間からバッグを掘り出す。
液晶表示で相手が香坂と知るや否や、表情はぱっと晴れやかになった。
「……はは、はい。常代です」
〈香坂です。今いい?〉
「ん……んんっ」声が擦れたので咳払いした。「な、何?」
〈……今日の出来事について聞きたい。なぜ常代有華は、一目散に走っていったのか?〉
「出た」つい、笑顔になる。「また分析すんの?」
〈……甲斐原が車を降りた時、青いPCが車にあると気づいた。そうだよね?〉
「うん。どうしてか、ってことっしょ? んっとねー……待ってよ……っとねぇ……そうだ! バッグの持ち方だ」
〈バッグって例の、ショルダーバッグ?〉
「そ。甲斐原はね、いつもこう、肩から斜めに掛けてる。あの青いPC、けっこう重いんだと思う。だけど今日は右肩に軽くひっかけてた」
〈なるほどね……ちなみに車を降りる前の、甲斐原の様子ってどうだった?〉
「様子? ……延々と電話してたよ。なげーって思った。それもなんか、怪しいって気がしてたんだけど」
〈やっぱりそうか!〉香坂の声のトーンが変わった。合点がいった、という声。
〈ヤツはどこかへ電話してたんだな。君と緒方で認識がズレたのは、そのせいだね〉
「ズレた? ……ってことは」有華は苦笑いした。「隼人は、電話してるとは思ってなかったわけ?」
〈両手でハンドルを握ったまま口を開け閉めしてるドライバーは、歌を歌っているわけでもグチを垂れているわけでもなくて、ハンズフリーフォンで誰かに電話している……車を持たない都会育ちの若者には、それがイメージしづらいんですよ。僕も含めてね〉
「そーなの!? 困った男たちだなぁ」
〈だからゆかりんは白いミニバンが近づいて来た時、すぐに怪しんだ……さっき甲斐原が電話で連絡を取り合っている相手じゃないかと、イメージできた〉
「ああいう駐車場にずっといろ、って言われたらさ。ついチェックしちゃうよね、停まってる車をさ。あのミニバン目立ってた。だって従業員用の駐車場に止めてるくせにベガス製じゃなかったんだぞ? どうみても従業員の車じゃねーな、しかもDQNに人気の車種。性根が悪そーだな……って感じで」
〈なるほど。そのあたりも緒方にはわかりっこなさそうだ。その白いミニバンが駐車場の中でわざわざ移動し、甲斐原の車の傍へ滑り込む。怪しい、危ないかも……ということだね〉
「………………ねーねー、キツネ丼」
〈はい。何ですか〉
「アタシさ、なんでこう、ちゃんと人に説明できないんだろね」
〈……〉
「隼人に説明できれてればさ、あいつ頭いいんだし、空手黒帯で警察官だし、もっとこう……」
〈うん〉
「もっとうまく……やれたよね?」
〈……でも説明しているうちに、青いPCを拾ったミニバンは逃走したかもしれない。暴走も辞さないだろうから、カーチェイスなんて危険だ。怪我人は出たけれど、駐車場で決着したのはベストだった〉
「でも……叱られたぞ?」
〈観察眼と感性、そして正確無比な行動力。良くも悪くも、それが常代有華だね。やや前のめりなのが玉に瑕ってとこかな。功を焦りすぎ?〉
「前のめり、ね……焦りすぎ、か」
懐かしい。昔、サーキットでよく耳にした小言だ。
〈気持ちはわからなくもないよ。人を納得させて動かすのは手間だ。自分で動けば手っ取り早い。そう思う時は、僕でもある〉
「……遅れをとりたくないだけかも」有華はじぶんのせっかちさに辟易とした。「ダメだよね」
ずっとそう。ずーっと、そうなんだ。人間なんて簡単に変わるものじゃないし。
やや間が開いて、それから香坂は専門的な話を始めた。〈データ通信の世界では、細かい交信をすっとばして、必要なデータをだーっ、と……一気に送ることをバースト転送って呼ぶんだ。効率は最高なんだけど〉
「バースト!? ……響き、よくないぞ。タイヤがパンクしたみたいだ」
〈……バースト転送そのものは悪いことじゃない。むしろ必要なんだ。問題はタイミングだけ〉
「ふぅん……そうなんだ」
〈こういう考え方はどうかな……ゆかりんが感じて、僕が分析して、緒方が行動する。三人はチームだ。三人で一人前〉
三人で一人前。そのフレーズに、有華はハッとした。在りし日のサーキットを思い起こしてしまうからだ。
ピットで手を組んで祈る自分。ドライバーではなくメカニックとして。
スタジアムで身構える隼人。同級生ではなくカメラマンとして。
そしてホームストレート——駆け抜ける漆黒のアプリリア。手足の長い少年の、完璧なライディングフォーム。
「……」 有華は絶句していた。
ずいぶん間が空いてしまう。空けてしまった。
〈……ダメかな?〉と香坂。
「高学歴のエリート男子二人と、しがない高卒女子か……」有華は笑った。「足手まといじゃない? 余計に焦っちゃうかも」
〈……だから前のめり?〉
「で、つまづいて……」
〈そうだ……三人で腕組んで、一緒に走ればいいんじゃないかな。そしたら飛び出せないでしょ。つまづいても転ばない〉
ダメだ。どうしてもスリーショットの一角に、違う顔を思い浮かべてしまう。だから。
「わ、ワハハ、何よ。女相手にお洒落なこと言い過ぎっしょ?」悟られまいとして、有華は明るく返した。「格好つけてもダメだから。キツネ丼ってなんかトロいし、腕なんか組んだらこっちが転ぶって!」
〈お! ……いいね。復調の兆しだ〉
「でも……ありがと」忘れずに素直な言葉も添えておく。香坂の優しさが嬉しかった。
〈どういたしまして〉
「……あ……そそ、そうだ。あのツナギ野郎、何者だった?」
〈島崎拓生……甲斐原が、わざわざ呼び出しておいた仲間らしい〉
「島﨑……そうか……島﨑カーファクトリーだ」
〈知ってるのか?〉
「新小岩にあるちっちゃい車屋だよ。ここしばらく、甲斐原がいりびたりだったからね」
〈島崎は甲斐原の弟分らしい。二人が行動を供にしていたのは、いざというとき、青いPCを守るためなんだろう。あと、これは僕の読みなんだけど……〉
「何?」
〈もしかしたら……今日の抜き打ち検査、情報が事前に洩れていた可能性があるね〉
「げ」有華は顔をしかめた。「……私のせいじゃないよね」
〈わからない。僕は甲斐原が車の中で二回電話してるはずだと思ってる。一回目は、誰かからかかってきた。それで電網庁の立ち入り検査を知った。だから車に青いPCを置きっぱなしにしようと判断する。で、今度は甲斐原が島崎に電話をかける。青いPCをピックアップして、カスタマーセンターを離れろという指示だ。それから甲斐原は空のバッグを肩にかけて、車を降りた〉
「二回電話してた可能性、あると思う……それぐらい時間かかってた」
〈一回目の電話が誰からなのか、そこが気になるんだ〉
「どうやって調べるつもりなの」
〈甲斐原については、例のノートPCだけじゃなくて携帯電話も没収済み。時計もね。とにかく隅から隅まで調べ尽くす〉
「時計?」
〈台湾製の、ウェアラブル・コンピューター的な物を持ってたんだ……小さいけどタッチパネル式のね。最近流行ってるやつ。こいつも違法ネット機器として没収できる〉
「……ふぅん」
有華はバッグの中から顔を覗かせていたスイス製の高級時計を手に取った。男物、ちょっと成金趣味。ライフル銃とセットで使うアレ——GEEからの預り物だ。これもウェアラブルコンピュータだと聞いている。きっといろんな機能があるのだろうけれど、詳しくはわからない。
「キツネ丼も、時計とか興味あるんだ?」
〈どうだろ……画面が小さいから、そんなに興味ないかな。時間はスマホで見るよ〉
「あ……そ」
〈そういえばナナさんが〉
「おふっ!?」突然、女の名前が出た。シモネタ美女コンビの片割れ、眼鏡スレンダーの残念系アラフォー・真宮ナナ。それに驚いてしまって、だから有華は——妙な声を出した。
「ん、な、ナナさんが……何?」
〈合コンで知り合ったイケメンに、めちゃくちゃ高い時計をプレゼントして、見返りにフェイスブックのアカウントをおしえてもらったって言ってたけど……〉
「へぇ。……苦労してるなぁ、あのヒト」
〈本当だと思う? かなり美人なのに。ちょっと癖はあるけど、男には苦労しないと思うんだ、僕的には〉
「……」有華は苛々をつのらせた。面白い話ではないのだ。でも悟られないように、声にあらわれないように努力した。
〈僕だったら、もらっちゃって舞い上がるかもな、って〉
確かにナナさんは美人。それはわかる。嫌な人じゃない。
で、も。
「…………へー」
有華はベッドの上にいたビバンダムのぬいぐるみを手に取った。
大きく振りかぶって——壁にぶん! と投げつける。「……大人の色香が漂ってるって、言いたいわけ」
〈……あ、ごめん。先輩たちが来た。もう切るよ。また明日、連絡する〉
唐突に電話が切れた。部屋が静まりかえる。
有華はあらためて「タイヤのお化け」を手にとる。ベッドに寝転んだまま、頭上へ高く放った。
「ふん! だ」
鋭い蹴りを真上に放つ。静寂を切り裂く。「……馬鹿キツネっ」
ばふ。八つ当たりされたビバンダムが空気を吐く。
*
ダウンライト一灯に照らされたオフィスの片隅。メールチェックを済ませれば帰宅できるという段になり、ようやく香坂一希は自覚した。
「……しまった」
まただ。また常代有華に礼を言うのを忘れた。
引越の準備が最終段階に入った、中央合同庁舎第二号館・十一階。特命課の居室にも荷物はほとんど残っていない。岩戸と有華が兼用で使う机が一つ、あとは自分の机が一つあるだけ。その引き出しにオレンジの紙袋が入っていた。中を開けると「落としたらバチ当たりでしょ」というメモと供に、御守りが一つ。明らかに自分が母親から預かった五枚中の一枚——「技芸上達」である。一週間ほど前から見当たらず、やっぱり縁起物を裸でポケットに入れたりするもんじゃないと後悔していた矢先、かの段取り娘がどこかで拾ってくれたらしい。ロータスの助手席にでもあったのだろうか。
(まぁいいや……会えた時に、顔を見ながら礼を言うべきだ)
緒方から「有華が叱られて落ち込んでいる」と耳にして、電話してみたまでは正解だった。でも明るく振る舞おうと努力するあまり、肝心な事を忘れてしまった。
(礼を言うなんて、急ぐことではないよ)
実のところ急ぐのは苦手なのだ。何でもじっくり腰を据えて取り組みたい。有華と自分は正反対だと香坂は思う。ネットサーフィンなんて、のんびりやってこそ面白い情報を拾うことができるのだ。プログラミングもそう。一発で美しいプログラムを書くことは不可能。再デザインこそが最良のデザイン方法だと、「どうしてオタクはもてないか」のポール=グレアムだって言ってる。言ってたと思う。時間をかけろ、時間を惜しむなってことだ。
でも。でも、それじゃあ間に合わない瞬間だってある。
特に今日のような大捕物において、香坂一希のペースは足を引っ張る可能性がある。そう思い知らされた。あの猫のごとく俊敏な小麦色の野生娘。常代有華が黒髪をたなびかせ、風を切って突っ走った。だからこそ流れが変わったのだ。そうでなければ、甲斐原と島﨑はまんまと逃げおおせていたかもしれない。
彼女には難しい局面を打開する力がある。それって——いったい。
いったい何なんだ?
「……バースト転送、か」
香坂はノートPCに向かうと、興味本位でキーを叩いた。検索エンジンに「常」「代」「有」「華」と入力。リターン。
そして、ずらずらと並ぶ検索結果に呆然とした。
なんだ、これ——?
(十二)
Ⅰ:葛飾区:東新小岩:夕刻
誰も居ない筈の自動車整備工場。そのシャッターが開いた。ガンメタリック色のテクセッタHVが、モーター音だけを奏でながら滑り出す。運転席の
朝っぱらから甲斐原豪と島﨑拓生が電網庁に拘束された。近いうちにここ島﨑カーファクトリーにも当局の手が及ぶだろう。夕暮れ前のタイミングで事をなし得たのは満点に近い。
助手席に手を伸ばす。赤いノートPCの手触りを確かめる。甲斐原のPCが電網庁の手に落ちたのは少々厄介だ。けれど、こっちが本体。当面問題はない。
〈……おい、甲斐原の奴、電網庁にパクられたって聞いたぞ!?〉
耳元でヤクザのがなる声がうるさい。〈……電網庁と警察って、どういう関係なんだ? 押収した証拠、すぐに共有されるのか?〉
イヤフォンのボリュームを絞った。運転しながら手元であらゆる操作を可能にするハンズフリーフォンキットを、あらかじめヘルメットに仕込んである。スリムな台湾製に少々手を入れ、米国製スマートフォンとの相性問題は解決済み。だから。
「ご心配なく」ハンドルを握ったまま答えられる。「電網庁が甲斐原を怪しむことは計算済みです。警察と証拠を共有したとしても、話はそう簡単じゃない」
アクセルをふかし、バッテリー駆動では不満とばかりにガソリンを投じた。ハイブリッド車にそぐわぬ荒い加速で、pack8back8は高速道路を目指す。
〈嘘だろう……甲斐原はブロウメンの重鎮だって聞かされてたぜ〉
「誤解です。
〈計算づくだったか……恐れ入るよ。で、どうする〉
「お願いしている件ですが、仕事の中身に変更点はゼロです」
〈本当かよ、おい……甲斐原が段取りをゲロするだろ〉
「大丈夫です。あいつは計画の半分も知らされていない」
〈どうりでなぁ。甲斐原はいきまいてたぜ? パケットバケットはリーダーじゃない、とか何とか……嫉妬って奴だろ〉
「……とにかく予定には寸分の狂いもない。甲斐原はバスの一件で使い果たしたコマだ。このタイミングで捕まってくれたら、いいカムフラージュになる。すでに次のコマも手配済みです。次の、その次も」
〈使い捨てか〉
「使い捨てですよ。お互い様でしょう?」
〈お互い様だな〉
Ⅱ:台東区:上野:夜
津田沼和矢はハンバーガーショップの階段を登っていた。
緊張のせいで腹は減っていなかった。そもそも夕飯時は自宅にいることが多い。ビールをあおりながらコンビニ飯を広げてゲームに興じるのが日課。外出先といえばゲームセンター、行くなら秋葉原——夜の九時にはシャッター街と化すエリアだから、終わればさっさと帰る。メイド喫茶やガールズバーに入り浸るヒマがあったら、むしろゲームのランキングを上げたいクチ。夜の二十二時に表の空気を吸っている事自体、津田沼にとって珍しい状況であった。
それにしても、秋葉原と一駅しか違わない
(ご苦労なこった)
車のゲームを得意とする津田沼は、カフェという場に魅力を塵ほども感じない。必要なものはグラフィックスチップの圧倒的な描画パワー、ステアリングコントローラのリアルな手応え、そしてアクセルとブレーキのアナログな踏み心地。外出先でバッテリーの残量を意識する生活などクソ食らえだと思う。
買ったコーラを一口飲みたくてストローをカップに刺し、使い捨てマスクの下へと潜り込ませる。わざわざドラッグストアに立ち寄って手に入れた「仮面」は絶対に外さない。
二階の天井をにらむ。やっぱりだ。監視カメラがある。
(こういうとき、体形に特徴があるのはいただけないよなぁ)
津田沼は太っていることを後悔した。
やがて携帯電話が鳴る。
「はい…………」津田沼などと名乗らないように気をつけた。
〈ちょうど真向かいだ。見えるか?〉
聞こえてきたのは性別不詳の金属的な声。なんらかの音声処理が施されているに違いない。津田沼は正面を見据えた。窓ガラスの外、路地を挟んだ対岸に雑居ビルが見える。一階と二階は洋品店。その側面、外をつたう非常階段に人影があった。フルフェイスのヘルメットを被っている。黒いライダースーツ。両手は使っていない。ハンズフリーフォンだろうか。
「見えます……あんたが
〈君の名前は……
「はい」
津田沼はあまり馴染みのないハンドルネームを名乗ることに緊張した。手のひらがじっとりと汗ばんでいる。
そこで声をかけられた。砂堀恭治という嫌な奴を貶めたい。奴がブラッシュアップしてきたNシステムをパニックに陥れたい。そういう盛り上がりをみせたチャットに加担した——その弾みで。
〈キミ、Nシステム、祭りにできるんだってな?〉
相手はいきなり本題に入ってきた。
「うん。で、できると思う、よ」躊躇わずに答える。
〈狙った日に?〉
「できる。お金次第だけど……僕の提示した金額ってどうなの? 高いの? 安いの?」
〈君にできる根拠を教えてください。どうやって攪乱する? 信じるに足る理由がほしい〉
「ダメだよ。教えられない。僕の立場が危うくなるし」
自信はある。砂堀から、当面改善すべき「穴」——システムの脆弱性について聞かされていた。
その穴を自分で掘ればいいだけのこと。
〈成功すれば、キミの希望する額の十倍払ってやる〉
「……じ……十倍?」
信じられない。砂堀の年収は幾らか計算したことはあったけれど、それすら超える金額だ。マスクに隠れた口元が、ついほころぶ。
〈だからさぁ、根拠を教えてくださいよ〉
「そうだな……ま、関係者ってことですよ」
〈どうして裏切るの?〉
「ムカつくからだよ、上司が。それだけ」津田沼は自分のペースに持っていこうと努力した。「ね、お金ってどうやって受け取るんです?」
〈その座席の下にバッグを置き忘れる手筈。僕のことも君のことも知らない、けれど中身が大金だと知っている女が運ぶよ〉
「げ……現金なんだ」
〈重いけど運べなくはないよ。なかなかいい体格してるもんね、dudaDidaくんは〉
「……すぐに払ってもらえるの?」
〈キミが予定の夜に事を起こせるなら、翌日の同じ時間に〉
「翌日……なんだね」
〈大金ゲットだね。職場をクビになったって、ぜんぜんオーケー。平気さ。だろ?〉
Ⅲ:千葉県:木更津市:夜
四本木篤之はしたたる汗をぬぐった。黒々と焼けたバスの残骸から死臭が漂う。それが気分を悪くする。おまけに照明は徹底的に明るく、エアコンはさっぱり効かない。夏の暑い夜を過ごすにはまったくもって不向きな場所だ。ビールを煽りたいという気にもなれない。どうにかして頭を使わなければならないし、同僚達の手前もある。
部下の一人が仰向けになって、鉄屑の奥、そのまた奥底に手を突っ込んでいた。
四本木が指先を懐中電灯で照らしてやる。「見えるか?」
「ええ……確かに、焼けています」
国交省と千葉県警の連名で正式な要請が届き、ベガス社員が事故車両と面通しできたのは昨日のことだ。朽舟滋の開けた穴を塞ぐべく、四本木はピンチヒッターを買って出た。おかげで残骸の仔細まで観察できる立場を得ている。しかし。
(アイツが……いてくれたら)
相変わらず朽舟は行方不明。もともと痩せ型で、何かしら持病があったと想像はできる。会社が持つ健康診断の履歴を調べてもみた。消化器系の再検査を受けているが四十台半ばなら不思議でもない。かかりつけの病院が何処かといった類の手がかりは、結局のところ見つからず仕舞いである。
「焼けている……みたいだね」四本木はマイクに囁いた。
大破したバスの前方から入り、懐中電灯を頼りに厄介な電装部へともぐりこむ。そいういう作業においてHMDという代物は、カメラのみならず小さなライトも内蔵しており、こういった状況下で「撮影」を行うには大変便利であった。
これを使う理由はもう一つある。ネット経由で、外部の人間へと画像を送り届けるためだ。
〈焼けてるのはケーブルやろ? ナビの部品は生きてるんちゃうか……ウチの実験やと、ガソリンに引火したとしても、ナビ周りはけっこう燃え残る〉
あのふざけた女ハッカーの関西弁が鼓膜に響く。GEEこと八千夜大義。岩戸紗英の子飼い——奴は真相究明のために、五百万円をくだらない最新型のバス一台を燃やしてみたというから驚きだ。国交省の事故調でさえそこまではしない。そういえば、岩戸紗英にも執念じみたものを感じられる。岩戸の部下ならば、さもありなんということか。
「どう? 焼けてるのってナビ全部? ケーブルは?」四本木はGEEの指摘を部下に仲介した。すると。
「……火が出たのは内蔵バッテリーみたいですね。溶けてる。ケーブルも……軒並み焼き切れてます」そんな返答が戻ってくる。
〈……わかってるで……リチウムイオンバッテリーは衝撃で燃えるしな。でもケーブルはおかしくないか? 切れてるとこ、切り口をようみせてくれ〉
四本木がカメラを操作し件の患部をズームアップした。ケーブルの切っ先は被覆が溶けていて、熱で焼き切れたように感じられる。
〈ほらぁ。難燃性のを使ってる筈やろ……衝撃で切れることはあっても、焼き切れるのはおかしくないか。純正品と違うんちゃう?〉
四本木は部下に伝えた。
「ケーブルの残骸、持って帰ろう。純正品かどうか確かめたい。整備の際に取り替えられたのかもしれない」それからマイクに告げる。「なぁ……一息ついてもいいか、ギィ君。匂いがたまらんのだ」
〈ええよ。ご苦労さん〉
部下が作業する間が待てず、四本木は懐中電灯をその場において残骸の外へ這い出た。
裾についた煤をはらい、部下に「今日はここまででいいよ」と告げる。
〈えー。もう終わりかいな〉
女ハッカーは不満げだ。しかし、こちとら会社員である。
「わかってください。彼は組合員だ。あとは僕で、できる限り対応します。もう十時を回ったしね」
〈宵の口やないか〉
「そうでもないんだよ。うちは大企業。徹夜させるには、もっともな理由が必要になる」
〈……しゃあないな。ケーブルの件、ちゃんと調べてや〉
四本木は残骸を離れて広々とした車両倉庫を横断し、鉄扉のノブに手をかけた。
がちゃり。
「ふぅ」外気を吸った途端、重い気分が晴れた。「……なぁ、八千夜さん。どうしてナビ周りを気にするの。不具合があったとしたらブレーキ系のECUなんだろう? 君がソフトウェアのプロだってことはわかるんだが、どういう理屈で……」
〈四本木はん、あんた最近の車の構造、わかってるか?〉
この女はむっとするような事ばかり言う。だが、いちいち鋭い。
「技監って立場になってからは、予算の折衝事ばかりで……残念だけど、第一線から退いて五年になるよ。でも素人じゃないぜ。君に言われたかぁないよ」
〈プログラムはECUの中で動いてる。でも、車のECUは一個や二個やない。六十、七十、下手したら百個。そのECU同士をつなぐ信号線はクルマの大動脈。せやろ?〉
「まさにそのとおり」
〈信号の経路そのものが物理的にいじられてるか、いじられてないか。これがはっきりせん限り、プログラムの中身なんかナンボ追いかけてもしゃあない。整備士のパソコンを押収したぐらいではなぁ、入口に立っとるだけですわ〉
「まぁ……確かにそうだ」四本木は咳払いした。「けどさ、まず調べるべきはブレーキ周りだろう」
〈ブレーキまわりって何〉
「たとえば……ブレーキフルードとかさ。オイル抜かれたらブレーキが効かなくなる。暴走する。危険極まりない。そういうところから観察するんじゃないの?」
〈……〉
「まぁ、警察も事故調もそのあたりは調べただろうけどね……今更我々が手を出しても、しょうがないって事かな」
〈四本木はん、あんた残念やわ。発想古すぎる。昭和やね、昭和〉
「……え」
〈ブレーキオイル抜いて、ブレーキ効かへん!!! とかいうて、坂道でアレレレレーって、激突……爆死。そんな二時間ドラマみたいな計画犯罪、今どきありえると思うか? よう考えてみぃ〉
「……そういえば、ハリウッド映画じゃ、そういう描写みかけないね」
〈ハリウッドとか関係ないし! ヒントあげよか? オートマ、オートマ〉
「
〈正解。最近はオートマが全盛。オートマの車からブレーキオイル抜いたところで、エンジンかけて、シフトをDに入れた途端、のろのろと時速五キロで走り出してしまいよる。慌ててブレーキペダル踏むやろ? でも効かない。っちゅーことは、駐車場の壁にぶつかって……それで終わり。そんなんでヒトなんか殺せるかいな! いまどきの犯罪者の選択肢やないで〉
四本木は感覚の古さを自覚した。高速道路を延々とドライブしたハイテクバスが、パーキングエリアに駐停車を繰り返した後、料金所へと激突——そんな複雑なシナリオに近づける筈もない。
舌打ちして、それから弁解がましく言った。「せめて朽舟がいてくれたらナァ」
〈クチフネ……って誰?〉
「僕の右腕なんです。こういうことに関しては日本で右に出るものはいないね。超エキスパート」
〈車専門の……ハッカー君か〉
「そう。病欠してましてね。どこかへ入院でもしているみたいなんだ……去年のリコール騒ぎでも対策に奔走したキーマンだし、役に立つのは間違いない」
〈持病、ね……ナァ、四本木はん〉
「何?」
〈そのクチフネとかいう奴……本気で探さなアカンのとちゃうか〉
「打つ手がないんだ。自宅には奥さんもいなかった。だからといって、まさか警察に捜索願を出すわけにも……いちおう会社には病欠の届けがあったわけだし、ねぇ」
〈手が……なくはないで。こちとらバックには電網庁がおる〉
そうか。四本木は刮目した。
「……電網免許証、ですか」当局があのカードを追尾できるという噂は耳にしている。
〈こないだウチが、四本木はんの居場所つきとめたやろ? あれぐらいの規模で絞ることはできる。携帯電話の探知に比べたらざっくりしたもんやけど、電話と違って、電源切られるってことはないし〉
「なるほど。その範囲に病院が見つかりでもすりゃ、そこは入院先ってことだ」
〈……それと……仮にクチフネって奴から連絡があったとしても、今の状況をあんまり喋ったらあかんで……四本木はん〉
「……どういうことだい」
〈……そういうことや〉
「そういうことって……まさか」
四本木の頬が、ぴくりと引きつった。「……そんな。そんな筈はない。朽舟は、そんな野郎じゃないぞ」
Ⅳ:(都内某所)
根城のガソリンスタンド跡地に車を滑り込ませ、ストップボタンでHVのエンジンを停止しても、
黒いフルフェイス・ヘルメットを脱ぐことなく車を降り、スタンド奥のオフィス、その側面へと歩み寄る。グローブをはめた手にはいつもの赤い金属箱をぶら下げていた。数字三桁の鍵がついた、玩具と見紛う手提げ金庫だ。ところが、これはこれで充分に用を為すのである。
箱のダイヤルを回すと、がちりという手応えがあった。蓋を開け、中に忍ばせたカードの束から一枚だけを拾いあげる。壁に埋め込んだカードリーダーにかざすと、ぴぴっ、と電子音が解錠を知らせた。即座にカードは金属箱の中へ。
入城を果たしても、まだヘルメットは脱がない。侵入者がいないことを確かめるまでは。
半円状のカウンターに歩み寄ると、まず金属箱を所定の位置へ——据え置き型の、北欧製デザイン金庫の中へと放り込んだ。こうやってカード束を運ぶ最大の理由は、街中で他人にカード情報をスキャンされる(スキミング)といったへまを防ぐため。中にはいかがわしい方法で手に入れたカードもわんさかある。晒して歩くのは不用意というものだ。また、RFIDカードを大量に持ち歩く時もっとも面倒なのは誤スキャンである。特に自宅のセキュリティシステムなどがからむと、関係のないカードがスキャナに読み取られて誤スキャンが発生した際、侵入者と判断され、ロックが解けなくなるといった不具合が発生しかねない。そういった事情もあり、金属の箱から一枚だけ出し入れする癖をつけた。
もちろん、電網庁が設置を進める電網免許証センサーのくだらない追尾も巻くことができる。監視されるのはまっぴら御免。相手がカード会社だろうが、警察だろうが、ヤクザだろうが。
次にpack8back8はモニター六台分の電源を投じた。構内に設置した十五台の監視カメラ画像を五倍速でプレイバックする。真剣に見入る必要はない。解析プログラムが画像を診断し、危険の有無を判定してくれる。安全を確認するまではライダースーツも脱がない。椅子へ腰かけ、ブーツを机の上に乗せ、静かに時を待つ。
男の顔が一つピックアップされた為、再生がノーマルスピードになった。
このガソリンスタンド跡にはこれみよがしに高級外車やリッター級バイクが並んでいる。通りがかったサラリーマン男が珍しい型のポルシェに魅入られ、敷地の外から策を越えて手を伸ばし、触れようと試みたようだ。結果、大きな警告音が鳴り響く。慌てて手をひっこめた男は、尻尾を巻いて走り去る。そんな顛末の映像だった。危険は感じられない。
以上でプレイバックは終了。セキュリティを司るお手製のアプリケーションが解析結果を告げる。
{
カメラA=不審者5名、うち登録済み4名/カメラB=0名/カメラC=0名/カメラD=……
STATUS:GREEN
問題ないという結果に、pack8back8は満足した;
}
それから、ファックス機のLEDが点滅していることに気づく。留守番電話の録音メッセージが一件。ボタンを押すと、聞き覚えのある女性の声が流れた。
〈身体の具合はどうですか? 関東でまた大きな地震があったみたいね。病気が治ったとはいえ、あなたは丈夫じゃないから逃げ遅れるんじゃないかと気が気でなりません……〉
長い。そして退屈だ。待ちきれない時はキーボードに指を這わせる。ブラウザを立ち上げ、馴染みの
{
pack8back8:電網庁に死を
pack8back8:電網庁に死を
pack8back8:電網庁に死を
pack8back8:電網庁に死を
}
留守電のメッセージはこんな風に締めくくられた。
〈それと……また車買うんですね……名義の件、了解しました〉
聞き届けて、消去ボタンを押して。それから。
ようやくpack8back8は黒いヘルメットに手をかけた。
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