(四)(五)(六)

渋谷区・千代田区・江東区・台東区・中央区




(四)


渋谷区:初台:午後


 

 駐車場付の大型スーパーで十人分はあるだろう買い物を済ませ、香坂一希と常代有華は二人がかりでロータス・エクセルのトランクに積み込んだ。

 後部座席を覆う暗幕に首をかしげつつ、香坂はさほど詮索もせずに助手席に収まった。歓迎会の場所は新宿だと聞いて、ありがたいと思う。自分の住処は公務員宿舎で、場所は初台。酔いつぶれてしまっても、どうにか歩いて帰れるだろう。

 それにしても。 

 運転席で二十歳そこそこのOLが豪快にマニュアルシフトをこなす様は圧巻だ。束ねた髪の長いウェーブ、黒目がちな瞳と蠱惑的な鼻から顎の凹凸、よどみのない動きと猫のようなしなやかさは女らしい曲率をまとっている。有り体にいってオフィスに居る時よりも華がある。その一方、ひとたびシートにおさまればスカートの裾は微塵も気にしない。

 クラッチを切る左足がやや高く上がるので、目のやり場に困る。

「……すばらしい車だなぁ」いろんな意味を込めて香坂は称賛した。

「ボロい車の間違いだ」有華は事もなげに返す。

「僕、車に詳しくないからわからないんですけど、これ高い車なんですか」

「相場だと二〇……三〇万ぐらいかなぁ。修理代のほうが高くつくよ」

「……そうだ。トランスミッションジャッキなんて、男の子に生まれても知りませんから。それは声を大にして言いたい」

「そんなこと言ったっけ、アタシ」

「調べましたよ。車の修理工具ですか」

「実家が修理工場やってんの。レストアってわかる? ポンコツの中古車を修理して塗装して、ビンテージとして高く売る商売」

「手伝ったりしてた?」

「してた。怒鳴られまくりでさぁ。バラした車を元に戻すとか、ビス一本、順序間違えられないから」

「……ふむ」香坂は納得した。「凄腕の段取り娘が育つわけだ」

 鞄を開け、おもむろにノートPCを取り出し、電源を投じる。香坂は記憶があるうちに、何でもメモに残す癖がある。

「凄いね。なんかやっぱ、違うな」有華が笑った。

「何が?」

「香坂……さん、高学歴オーラ出てる。私なんてもー、活字とかマジ辛くて。レポートまとめるとか、信じられない」

 香坂は助手席で喜びを感じた。自分が褒められたからではない。怒った顔より笑った顔の方が何倍も魅力的な常代有華の、黒目がちな瞳がキラキラ輝く様は目の保養になるからだ。

 そういえば、彼女の瞳にはあの色が現れない。どうやら勉強ができる人間を恨めしく思ったり、反発する気性ではないらしい。けれど——。

「あのう」

「何?」

「さん付け、いらないですよ。新人だから、呼び捨てで全然オーケー」

 図に乗るべきじゃない、と香坂は自ら戒めた。

「そ……そうもいかないし。歳上だし」

「いいですよ。後輩になります」

「後輩じゃないっす。所属ぜんぜん違うし。呼び捨ては……まずいよ」

「じゃ、ハンドルネームで」

「ハンドルネーム……」

「ネットで使う偽名。僕、ギオンギツネって名乗ってるんです。京都の祇園、動物の狐。仲間内では単に狐とか、狐君って呼ばれてる」

 京都出身という意味でも、気に入っている通り名だ。変わった仇名をつけられるより、キツネ呼ばわりされるのが性に合う。

 すると。

「キツネくん!?」有華は過剰に反応した。「ききき、キツネって何食べるんだっけか。そこらへんの葉っぱをむしゃむしゃ……?」

「ネコ目イヌ科イヌ亜科。肉食いますよたぶん」

「に、肉食なのかっ」

 香坂の目には、彼女が赤面したように見えた。理由はよくわからない。

「ダメですか? 祇園狐」

「だだだダメっていうか、ほ、本人がそう言うなら、しょうがないっていうか」

「好きにアレンジしてください。大学じゃ後輩からも、キツネ丼とか、キツネうどんとか、適当に……」

 そこで矛先が変わる。

「ん!? キツネ丼……って何」

「知らんの? じゃなかった。知らないですか?」

「あ、出た! 京都弁だっ。知らんの? あはは。教えて! 京都、興味あるっ。キツネ丼って何?」

「き……キツネ丼は、お揚げさんを乗せた丼ぶり物……あ」

「お揚げさん!? お揚げさんって何!? 何?!」有華はどんどんヒートアップする。

 方言をいじられて、今度は香坂が赤面した。

「……ええと、油揚げ、か。油揚げを甘辛く味付け……」

「へー。油揚げにまで『お』とか『さん』とか付けるんだ。京都すげー。そっか……私、めっちゃ失礼でしたね香坂、さん?」

「いいですよ。キツネ丼で」

「ねー、キツネ丼」

「はい」

「きつねど~ん。あ、伸ばすとイイ。西郷ど~ん、みたいな?」

「九州……行っちゃいましたか」



 その夜、招かれた先はおもいがけず大物官僚のご自宅だった。特命課課長兼、電網庁管理局局次長。インターネット接続法の仕掛け人、ネット新法の立役者。次官クラスを差し置いて国会答弁を担う時の人。

 岩戸紗英のご尊宅である。

 といっても香坂の家から目と鼻の先——大物といえど彼女は公務員宿舎の住民であった。名札には「岩戸紗英」とだけあって、おそらく一人暮らし。当人は留守で、鍵は有華が預かっていた。

 どうやら台所も有華の守備範囲。冷蔵庫の空き具合さえ、頭に入っているようだった。

 紫色の風鈴が揺れる間隙を突いて、包丁がまな板を小突く。中華鍋ががしゃがしゃと騒ぎ、蒸し鍋とすれ違いつつ、四つあるコンロの上を暴れ回る。

 香坂はソファに腰掛けたまま、料理がテーブルを埋めていく様を驚きの目で見守った。雑用の女王は当然ながら、家事全般に強かった。台所での動きは俊敏で、正確性とスピードが高くバランスされている。パスタを茹でるにしろ、調味料を投じるにしろ、のんびり計量などしない。感性の化身。しかも同時進行で洗い物をどんどん片付けていく。手伝うからと申し出ても、狭くて邪魔だからと断られる。

 そのうち一人、また一人と客人が顔を揃えていった。

「ごめぇん。遅くなっちゃった。わ! めちゃくちゃ良い匂いっ」

 家主の岩戸が到着した頃、すでに七人がテーブルを囲んでいた。

「先、やってるよー」垂水局次長は香坂の隣ですでにビールをあおっている。お酌するのは長髪の眼鏡アラフォーとショートボブの肉感的なアラサー。

「岩戸さぁん、こっちこっち!」

「先輩、ワインあけちゃいますよぅ」

 美女二人は出入り業者。垂水が声をかければ断れないのだろう。

 他に管理局の課長が二人、開発局の課長が一人。ハッカーというより官僚といった風情で、引越作業が佳境な中、わざわざ時間を割いてくれたのは幹部ばかりという構図だ。

 岩戸は鞄を適当に放り出すと、席についてグラスを取った。

 彼女と一緒に入ってきた長身の人物は自らをハンドルネームでGEEと名乗り、台所の有華に声をかけて、乾杯だからと連れ戻す。仲がよさげで香坂は少しばかりむっとした。こんなイケメンもいるのか——と思わせる少女漫画のごとき容貌、服を選ばない細身の体躯、そして強引な態度。かなりの短髪で、スーツの仕立ては男性のそれだが、よく見るとピアスのせいで中性的なムードが漂っている。メイクはしていなさそうだがゲイかもしれない。気になる存在だ。

「えー、電網庁の未来を担う期待の新星、香坂一希くん。仲良くしてね! 乾杯ぁい」

 あの岩戸紗英が音頭をとり、笑顔でまっすぐグラスを差し出した。

 香坂はそれに応えつつ、彼女の容姿を真正面から見据えた。

 シンプルな大人っぽいショートスタイルがぞんざいに見えないのは、染め色に秘密があるのだろう。淡い光の中に浮かんでいるような小顔は、近くで見るほど魅力的に映る。天に二物を与えられ、それを効率良く活かせる人なのだと香坂はうなずいた。呉服屋の二男坊としては、どんな着物と帯をお勧めすべきかつい考えさせられてしまう。上玉だけにスタイリングで下手を打てない。

 新人への第一声は、こうだ。「凄いわね! 聞いてるよぉ。早速ご活躍らしいじゃないの」

 香坂は同席する垂水局次長を意識しつつ、こう返した。

「レポート、明日には仕上げようと思います。電網免許証の行動履歴をつけて……」

「さすが大岡先生の秘蔵っ子だね」岩戸が微笑む。

 香坂は頭を搔いた。「とんでもない。あのザルそうな十一階に追尾センサーが張り巡らされているなんて、全然気づけなかった……大岡研出身者の、風上にも置けない」

 ゆりっしーが手を上げる。「はいはーい、大岡って誰?」

 ナナに肘で小突かれ、垂水局次長が赤ら顔で手をあげた。

「ICカード研究の権威。うちが採用した、道路や建物にセンサーを埋め込んで電網免許証を追尾するシステムは、大岡研のセキュリティモデルを基本にしている。というより……」垂水は上げた手を、香坂の肩へと下ろす。「……彼の論文をね」

「恥ずかしいです。教授のいいなりで書いたものですし」

「あの追尾用スマホアプリは、君のお手製なんだろう?」

「はい。コーディングは得意ですね」

「レポート、楽しみにしてるわ」と岩戸。

 やがてメンバーの自己紹介が始まったが、香坂は上の空であった。

 常代有華が忙しそうに動き回っている。料理を携えてリビングに現れ、空いた皿を抱えて台所へ消える。給仕に徹する構えで、宴席へろくに加わろうとしない。それが気になってしょうがない。

 件のレポートはまだ完成にほど遠い。肝心な部分が——どうして有華がトイレの真ん中に犯人が潜んでいると見切ったのか、それが抜けている。何がどう『しゅぱーん』ときたのか書き切れないことには、彼女の功績が見えてこない。

 気がつくと向かい側に有華が座り、岩戸に話しかけていた。

「今日、どうだったんですか一軍は」

「ああ、コレ見て」

 岩戸は着けていたネックレスをアピールした。それを携帯電話に近づける。

 すると電子音が鳴った。

「凄い。それ、電網免許証ですか」香坂は目を丸くする。

「電網2種以上は、免許証としてアクセサリタイプを選べるようにするってアイデアなの。試作してもらっちゃった」

「なるほど……着けてるだけで勲章みたいになるし、欲しいから受験のモチベーションが上がる。そういうことですか」

「そういうこと」

「着け心地ってどうですか」有華が目を輝かせている。

「結構いいのよ、ほら、軽いし」

「女課長、やるぅ。発想がス・テ・キ」そう言ってナナが眼鏡の奥でウインクした。しかも香坂に向かって。

「すばらしい。僕も名案だと思います」

 出入り業者に乗せられるまでもない。形にバリエーションを持たせるという大胆な発想は、大岡研にはなかったものだ。それもネックレスなんて洒落ている。称賛したいと素直に思うし、そもそも上司をおだてるという感覚に香坂は馴染みがない。

 岩戸と少し雑談を交わしただけで、また有華は台所へひっこんだ。料理の準備に余念がない。テーブルに並ぶものはどれも暖かくて、有華の気遣いが感じられる。しかし彼女一人にその任を負わせてよいものとは到底思えない。

 香坂はやっぱり手伝おうと思い、立ち上がりかけた。ところが背後から肩をぐいと押さえ込まれ、また座らされる。

 例のタイトなブラックスーツ。ピアスをしたハッカー、その指であった。

「歓迎会の主役は、座ってろという意味や」

 腕が細い割りに握力はある。酒を猛スピードで消費している割りに、有華のことも気にかけているようだった。

「でも……僕は新人です」

 GEEは目を丸くした。「なぁ、お前……京都弁出ぇへんやんけ」

「ギーさん、関西なんですね。大阪?」

「奈良製や。けど大阪でチューンナップされてる」

「ギーってなんですか。ギークのギー?」

「せや。大義のギでもある」

「ハッカー……なんですよね」

「黒帽」そういってGEEは、帽子をかぶる素振りをした。

「ぶ……ブラックハットですか」悪意のあるハッキングを好む、という意味だ。

「今はNICTの研究員って立場やけどな。フリーの頃は犯罪者でございやした」

「……」

「おいおい、突っ込んでくれや!」そう言って、香坂の背中をばんばん叩く。

「ど……どうしてフリーをやめたんですか? 組織に加担するのは、不本意じゃないんですか」

「加担? 違う違う。組織ってのは、作るもんやで」

「……作る?」

「ウチがいないNICTと、ウチがいるNICT。この二つは別の組織になる。当たり前やろ」

 そう言ってピッチャーを覗き込む。「む、酒が足りひんなぁ」

「あ、今度こそ僕の出番ですね」

 そう言って立ち上がる香坂をGEEは止めなかった。「なかなか殊勝やん。イケメン君!」

 その声を聞きつけたのか、有華が台所で顔を上げる。

「お酒でしょ? 車ね! トランクに缶ビール、入ってたはず」

 鍵がふわりと舞う。

 廊下を歩く青年がキャッチしやすいように、ゆるやかな放物線を描いていく。



(組織は加担するものではなく……作るもの……か)

 香坂は謎の電子メールに思いを馳せた。

 組織に尽くせるか。差出人はUNKNOWN、すなわち名無し。そのシンプルな問いかけに何をどう答えるべきか。垂水局次長によると、安易に返答していいものではなさそうだ。

 思えばたかだか二十余年の人生で、組織とは何か真剣に考える機会はなかった。運動部の経験がなく、一度就職したソフトハウスは社長さえ三十代で、組織論を語って聞かせるベテランの姿はなかった。

 そんなことを考えているうちにエレベーターのドアが開く。

 古い公務員宿舎にしては高層といえる十階建ての初台宿舎D棟は、駐車場と隣接していた。あの薄緑色の英国車は、目と鼻の先に陣取っている。

 ビールの箱は少々重いだろうけれど、これぐらいの距離なら両手でどうにか担げるだろう——などと思った矢先、香坂は立ち止まった。

 駐車場の薄明かりの中に収まるロータス・エクセル。

 その傍に人影が見えた。

(誰だ、あいつ)

 香坂は咄嗟に右を向き、郵便物入れを物色する素振りをしながら、横目でちらちらと駐車場を観察した。

 その人物はペンライトのようなものを使い、英国車の室内を執拗に観察している。香坂はストーカーだと訝しんだ。女性が運転していると知った上なら、変態野郎に違いない。

 意を決し、あらためて歩みを進める。

「おい! 何してるっ」大きめの声を出して、威嚇しながら。

 不審者はひょいと頭をあげ、ペンライトを香坂の方に向けた。それをカチリと消してから、咳払いする。

「け……警察、です。怪しい者じゃありません」

 男の声だ。ごそごそとポケットをまさぐっている。

 香坂は待ってやることにした。バッジを取り出すつもりだろうが、その所作がぎこちない。警官の制服姿ではなく、くたびれ気味のリクルートスーツに童顔、小柄な若い男。信用しろというのは土台無理な相談だ。

「警察? が、何の用ですか」香坂は棘のある言い方で攻めた。

「……あなたは、この車の持ち主?」

「いいえ。でも関係あります。おおありです」

 ストーカーなら毅然とした態度で接する必要がある。なんなら、ナイト役がいるんだと誤解させるのも手だ。そう考えつつ香坂は車の背後に回り、手慣れたムードを醸すように素速く鍵を差し、リアハッチを開けた。

 ビールの箱に手をかけて、もう一度男をにらみつける。

 怪訝そうに眉をひそめて。「何か?」

「……関係って、まさか……ゆ、有華の」

「有華? ……聞き捨てならないなぁ。なんで呼び捨て? そのバッジ本物ですか? あんた、単なるストーカーとちゃうの?」

「ごめん。あいつの彼氏なら、むしろ挨拶しなきゃいけませんね」

「へ?」

「……緒方隼人といいます。有華とはその……顔見知りで」

 若い男は急に態度を軟化させ、自らを名乗った。それが余計におかしいと感じたから、香坂はビール箱をアスファルトの上に置き、なるべく力強く、どん! とリアハッチを閉めた。

「やっぱり怪しいなぁ。知り合いやったら最初から知り合いって言うやん……お前、どういう魂胆やねん」感情が昂ぶったせいで京都弁が出た。

「ご、誤解です。マジで。すいません、ちょっと順序を間違……」

「常代有華に用があるんやったら、堂々と自宅にいって、チャイム鳴らせばええやん。それともアレか。ストーカーで訴えられて、仮処分が降りて、半径50メートル以内に近づいたらアカンとか、そういうアレになってんのとちゃうか?」

 そこまで香坂がまくしたてた途端。

 緒方と名乗る男は唐突に態度を変えた。

「…………関西」童顔をしかめた。険しい、男の顔になった。「関西弁!?」

 関西弁で何が悪い。

 香坂はポケットから携帯電話を取りだした。

「電話するで、本人に。全部バレるからな。覚悟しいや」

 すると。

「そうか……お前……関西弁!」

 緒方はいきなり香坂の胸ぐらにつかみかかった。

「さては、昨日のパンツだな!? 暗幕の中身っ。馬鹿にしやがって」

 まったく身に覚えがない。そもそも有華と知り合ったのは今日のことだ。

 それでも香坂は抵抗した。

「ぐ……何がパンツや! 電話されたら困るんやろ変態野郎!」

「変態はお前だっ、関西野郎!」



 そのまま駐車場で小競り合いを十分ほど続けた後——二人は宴席で隣合い、焼肉の煙に燻されていた。その向かい側に座り、共通の知り合いである娘が、とほほ顔で双方に肉をふるまっている。

 結局、香坂一希の歓迎会には、常代有華の幼馴染みで警察官僚の若侍・緒方隼人も参加したのであった。といってもお互いがお互いを、歓迎していなさそうだという事は誰の目にも明白であった。





(五)


千代田区:霞ヶ関:午前



 翌朝、香坂は七時半に出勤した。定時より随分早かった。十和田美鶴の所業について、なるべく急いでレポートを仕上げたいと思ったのだ。いろいろとやるべきことがある。

 垂水局次長の計らいで、中央合同庁舎二号館十一階の図面が手に入った。電気系統の配線が詳しく載っている優れ物だ。興味があったのは十和田美鶴が根城にしていて、有華が居所を看破した件の女子トイレ。三つある個室の中央にだけ、電源の配置や、窓の向きなどに特徴があるかどうかだ。しかし、これといって奇特な事情は見当たらない 

 次に香坂は電網庁管理局のサーバーへアクセスした。電網免許証の追尾専用アプリを開く。一見、無防備に思えた十一階のセキュリティ事情だが、実際には電網免許証の追尾センサーがあちらこちらに仕込まれていた。誰が何時何処にいるか追跡するシステムを試験するためである。センサーは目立たない仕様の最新型で、だから香坂は初見で見抜けなかった。

 免許証番号と日時を指定すれば、フロアマップに対する赤い斑点として、人間の行動履歴を眺めることができる。どうやら十和田美鶴は、女子トイレに入り浸る時刻を昼休み前後と決めていたようだった。一方、彼女のPCに残るフィッシング行為の履歴(ログ)らしきデータにはアクセスの日時が付記され、やはり十二時前後に集中している。双方はぴたりと合う。これは重要な発見で、ログに対する香坂の見立てを裏づける。しかも十和田がプログラム任せではなく、昼休みに自ら「根城」へ出向いてフィッシング行為に興じていたことも明々白々だ。

 といっても女子トイレについては、入口を通過したかどうかを追尾できるのみで、三つ並んだ個室の中央が常に根城だったとは言い切れない。

 香坂はPCの画面を睨み、レポートの空欄へ「トイレの真ん中?」と入力した。

 この謎にこだわりたい。

 レポートの中で、常代有華の功績を語るためには。



 香坂は気分を変えようと席をたち、廊下へ出た。

 壁を丹念に観察しながら歩くと微妙な凹凸が見受けられた。電網免許証に反応するセンサーの工事の跡は、なかなかの労作だ。

 免許証を紛失、あるいは盗難されたりといった事態への対策として、電網庁は全国規模の追尾システムを計画している。もちろん国家権力が国民の位置を常に監視するということでもある。防犯に貢献するプラス面と、プライバシー侵害というマイナス面。双方を併せ持っている以上、運用側の責任は重大である——香坂は論文をそう締めくくった。

 だからこそ、ここにいる。自分の研究が世のためになるかならないか、見極めずに生きていくのは寝覚めが悪い。一度は民間企業に就職したものの、悩んだ末に公務員試験を受け、電網一種にも挑戦したのはこの為だ。

 やがて、香坂は女子トイレの前で足を止めた。

 三つ並んだ個室。その中の一つだけにコンセントがあるとか、電波の受信や発信に有利だというなら、十和田美鶴が根城にする理由になるだろう。しかしそういった事情は見当たらない。三つの個室にはすべて窓がなく、同じメーカーで同じ型番の洗浄便座が設置されている。コンセントの数も同じ。

 ところが常代有華はおよそ一週間前から、個室の中央にだけ怪しい気配を感じたという。どういうことなのか、さっぱりわからない。だからといって調べに入ることもできないのが、もどかしい。

 早朝を狙ったのは、清掃業者の人間に調べ事を頼めるかもしれないと思ってのことだ。しかし、どうやら十一階の清掃は終わってしまっていた。もっと早い時間に来るべきかもしれない。

 香坂は頭をかしげつつ、男子トイレに進路を取った。

 小水便器の前に立ち、ジッパーを降ろし、用を足しながら物思いにふける。

 情報処理は理屈だけでどうにかなる研究分野。なのに常代有華の感性ときたら、研究対象としてはいささかぶっとびすぎに思えた。

 まさかとは思うが——超常現象的な、霊的な能力の類なのだろうか。 

 香坂が微かに身震いした、その時だ。

 隣に誰かが立つ気配があった。しかも、自分と同じく黙って用を足すものだと思いきや、唐突に驚嘆の声をあげたのだ。

「う……うわっ」

 そしてこう続けた。「ど、どうしよ!? ち、ちんちんが……ちんちんが消えた!?」

 香坂は慌てた。恐怖した。

 だから咄嗟に横を見た。

 隣に立つ人物の顔ではなく、股間を。

 ジッパーの隙間を。

 ない。確かにない。

 あるべき男性のシンボルが見当たらない。

「う……うわああああっ!?」

 こんどは香坂が悲鳴をあげ、もんどりうってトイレの床にへたりこんだ。

 すると。

 隣の人物は香坂に微笑みかけて、こう告げた。

「えへ。女の子になっちゃったぁ」


* 


 男子トイレを出てからしばらく、香坂は憮然としていた。

 腹を抱えて笑うGEEの様子とは対照的であった。

「昨日の晩、お前の態度みてて思いついたんや。だいたいみんな、初対面では男と思い込んでるしなぁ」

 悪戯好きはブラックハットの証。女ハッカーはそう言いたげであった。

 香坂は憤慨しつつ、自分の見極めの甘さを呪った。トイレで卒倒するなど、生涯初の屈辱である。

「……すっぴんで短髪で、長身。左前のタイトなスーツで、足下はライダーブーツ。肩書きはハッカーで、しかもその態度でしょ。無理だ」

「このエロい、エロすぎる女性フェロモンを、嗅ぎ取れんか?」

「いいですか。女子トイレに男が入っちゃいけないなら、逆もアウトですよ」

「ええやんケチケチすんな。狐君は立派なもん持ってるし、恥ずかしいことないで全然」

 どうやら、肝心な部分まで見られたらしい。香坂は赤面した。

「そ、そういう問題じゃなくて」

「あんたも私の股間をきっちり見られたわけやし、ね。おあいこやんか。平等平等」

「くっ……なんでこれが、おあいこなんだ……あ」

 そのとき、閃きがあった。「お願いがあります、ギィさんに」

「なんや」

「女子トイレに入ってみてください」

 GEEは薄ら笑いを浮かべた。「女やから頼まれんでも入るけど……何? 盗撮か?」

「違います」

「写真はいらんけど、売って儲かったら山分けな」

「……違・い・ま・す」

 三つある個室。その真ん中にだけ、何か特別な事情はないのか。それを見極めてほしい。それが常代有華の功績を明らかにする。 

 そう頼んでから、およそ十五分。

 女子トイレから出てきたGEEの表情は極めてシリアスだった。

「なるほどな。化粧っ気は物足らんとこあるけど、ゆかりんはれっきとした女の子やから」

「どういう意味です?」

「……用を足すとき、女の子は便座を上げへん。違和感はあったけど、説明はできない」

 常代有華が真ん中のトイレを疑った理由。

 それを、はっきり説明できなかった理由。

「……狐、お手柄や。オトコオンナのギーちゃんに、頼んだのが正解」

 GEEはすべてを解き明かしてくれた。



 それから香坂のレポート執筆は勢いを増し、午前中には目鼻がついた。と同時に、女子トイレの解体作業がGEEの手によって進められた。

 睨んだとおり、三つ並んだ個室、その中央にのみ特別な事情があったのだ。温水洗浄便座の直下、わずか一センチほどの厚みを持った上げ底。その中には、クレジットカード情報などを読み取るためのスキャナが仕込まれていた。いわゆるスキミングの仕掛けである。十和田美鶴はありとあらゆる手段を用いて、電網庁職員の情報を吸い上げようとたくらんでいたらしい。

 そして常代有華は、そのわずかな上げ底具合を感じ取っていた。足つきの悪さに違和感を覚えていた。そう説明してやると、当人はおおいに納得した。

「そっか! 便座の高さかあ。言われてみたらなるほど。げ、1センチ? 10ミリぃ!? そんなにサス(※サスペンション=車のパーツで、路面の凹凸を吸収する車輪の懸架装置)のセッティングが違ったら、もー、別の車だよ。わかるわかる。さすがアタ……私」

 勝ち誇る有華。

 その手を高くあげさせるGEE。

 解体された上げ底。

 香坂はスマホでこの三つを写真に収めた。レポートに添付するためだ。それから考察として、個人的な見解を付け加えた。


 常代有華の功績は、数字に表せるものではない。強いて言うなら、女性的な思考の特徴であるパターン認識——いわゆるニューロコンピューティングの範疇で議論されるべきものだ。その感性は極めて興味深く、と同時に、コンピューターギークばかりの男性集団が欠く資質、つまりバランスのとれた組織づくりには不可欠な資質であると思われる。また、電網ゼロ種の公布プロセスそのものが不透明で、選抜されなかった職員の不公平感が内部犯行の誘因となった可能性は否定できない。しかしながら、十和田美鶴がスキミングの常習犯であることに疑いの余地はない。


 さらに備考として、こんな一節を打ち込んだ。


(備考)ちなみに常代有華は明るく快活、健康的な笑顔がたいへん魅力的である。機転が効いて雑事に強く、料理も手早い。能力故に男を小馬鹿にする嫌いはあるものの、きっといい嫁に


「な、る……」

 と、そこまで書いて。「……って阿呆か。書かない書かない。書きませんよ」

 香坂はデリートキーに小指を伸ばした。備考のくだりを消去しつつ、記念の写真をじっとにらむ。

 常代有華。野性の華がこうも魅力的に映るのは、どうしてだろう。単純にかわいいと思うからか。京都にはいなかったタイプだから物珍しいのか。あるいは、自分に——

「Mっ気があるのかな? ……うーん」

 そう呟きながら、香坂はレポートを電子メールに添付した。宛先は関係者全員。その中に、かのUNKNOWNも含めておいた。

——”組織に尽くせるか?”

 その問いに正しく答えるレポートではないだろう。けれど、答えの一部にはなるかもしれない。

 そんな願いを込めて、送信ボタンを押した。










(六)


Ⅰ:江東区:豊洲:夜



 十和田美鶴は荒れていた。

 ソファで煙草を煽ると灰皿に捨て、間髪いれず次の一本に火を点す。

 その灰皿をひっくり返す勢いでガラステーブルを蹴る。

「……殺す。殺してやる、あのガキっ」悪態をつく。

 それでも気分は晴れない。愛らしいルームメイトが、甲斐甲斐しく吸い殻を拾いあげる。そんな姿さえ気にくわなかった。

 だから、わざと灰の塊を足裏で潰し、フローリングの床にこすりつけた。

「何が電網ゼロ種だ。ざけんなっ」

「でもクビじゃないんでしょ? 今、余計な事したら危ないよ……痛っ」

 指を踏まれたルームメイトが悲しい声を出す。

 繭という名にふさわしい、少女のごとき儚さを湛えた、憂いのある瞳で見つめてくる。

 それでも美鶴は手加減しない。あえて辛くあたる。いつもなら怪我をしない程度に言葉で。今日は怪我をさせたいと思うから、身体で。そうしなければ気分が収まらない。

 美鶴はソファからずり落ちて、わざと床に座り込んだ。ルームメイトが抱き寄せてくれるという計算があった。案の定、細い腕が自分の身体に絡みついてくる。

 待ってましたと、美鶴は愛らしい手の甲に煙草の先端を押しつけた。

 じゅっ、と音。

「ひっ」悲鳴は小さかった。

「熱い?」

 ルームメイトが手を引っ込める。当たり前のリアクションだ。

 それが気にくわなくて。

 かわいいと思えなくて。

 だから今度は、柔らかそうな頬を強く平手打ちした。眼鏡のフレームが曲がることまで計算に入れながら。痛いだろう、と思いながら。

 大きな悲鳴を期待して——二度、三度。

「顔……だめっ」ルームメイトは痛いと言わなかった。

「キモチいいくせに」

「仕事、行けなくなるからっ」

「私のこと嫌い?」

 そうたずねれば、いつでも首を横に振る。

「好き?」

 そうたずねれば、いつでも縦に。

 美鶴は満足して立ち上がり、缶ビールをあけてテーブルの上に置いた。「謹慎処分だってぇ。飲もうよ、まゆちん」

 そう言ってテーブルを蹴り、缶を倒す。遠ざけるように。

 こぼれおちた琥珀が泡立ち、透明な天板を覆っていく。それをすすれという意味を察して、相手が唇を近づける。

 だが美鶴は許さない。テーブルの上に仁王立ちになり、するりと下着を脱いで、放り出した。

「はい」

 下腹部から放たれる、異なる類の琥珀色の汁気。それがガラスの上で酒と混ざり合う様を見せつける。すると。

 ルームメイトはテーブルに顔を近づけ、舌を伸ばし、一口、二口と舐め取った。それから顎をあげ、これでいいのかと目で訴えた。

 そのときだ。ようやく「かわいい」と思えたのは。

 美鶴は激しい衝動に襲われ、ガラステーブルから降りるや否や、繭を強く抱きよせた。

 よじれた眼鏡を外させることもせず、噛みつくように唇をあわせた。

 自分がわざわざ穢しておいた、その可憐な舌を猛烈にすすった。






Ⅱ:台東区:台東:夜



「今頃飲んでるのかなぁ……? まゆちゃんもぉ」

 津田沼和夫はビールを二缶空けて、それでもハンドルを握っていた。

 東京の夜はすっかり更けていたが、二十八インチの液晶ディスプレイに映っているのはアメリカのサーキットで、CGの演出によれば空は澄み切った青一面、つまり真っ昼間の快晴であった。

 俺はカリフォルニアにいるのだ。そうだ。ラグナ・セカは昼なんだよ。

 アクセルをベタ踏みしながら津田沼はハンドルから片手を離した。器用に缶を開ける。わざわざバドワイザーをチョイス。飲酒運転はいかんぜよ——と呟いて、手短に一口すすった。サーキットでは直線にさしかかれば、数秒ほど手放し運転ができる。こういう芸当が可能になる。だからゲームはいい。現実の車、現実のサーキットなら、無論こうはいかない。

 津田沼は缶ビールを机に戻して、ハンドルを握りなおし、第一コーナーへ飛び込みながらヘッドセットマイクに奇声をあびせた。

「……うらっ、うらうらっ、OK……うまい。うますぎる俺ぇ」

 シフトレバーをさばきながら。ハンドルを激しく微調整しながら。

 独り言である。

 音声入力機能はネットを経由して対戦相手と語り合うためのものだ。しかし今はオフライン。つまりネットにつながず遊んでいる。仮につながっていたとしても、ゲームの仲間に「職場の同僚」なんてものはいない。いるはずがない。警視庁公安部という重苦しい組織の、重苦しい連中。あいつらがゲームするところなんて想像できない……っていうか、想像したくもない。

(繭? 繭なら混ぜてやってもいいけどぉ)

 アフター5を分かち合ってもいいと思える同僚は、あの眼鏡娘だけだ。

 周回を重ね、やがてゴールをむかえた瞬間、津田沼は缶ビールを手にガッツポーズを取った。そして。

「……ねぇー、まゆっ。まゆっちゃーん。飲んでるぅ? ……なかなかのタイムですぞぅ……乾杯しようぜい……シャンパンの方がいいってか。わがまま娘だな」

 勝利の美酒を萌え系レースクイーンと分かち合う。そんなことを夢想して仲本繭の名前を出してはみたが——ただただ、空しいだけだった。

 津田沼はハンドルから手を離し、缶ビールを一気に飲み干すと、ヘッドセットマイクを放りだした。

 はげしく頭をかきむしる。

 ゲームが面白くない。それだけなら、まだいい。酔いが回らない。それも仕方がない。

 気分が優れないのは、昼間の出来事のせいだ。


——彼が直接の担当者になりますので


 かの上司、砂堀恭治はそう言って俺を見知らぬ男に紹介した。自分の部下として。ところが、その相手はこう返してきたのだ。


——本件については、砂堀さんを信頼してお願いするわけです。部下任せにはしないでくださいね


 暗に自分の能力が低いと蔑まれた。津田沼はそう感じていた。

 自分が砂堀の部下だということは重々理解している。警視庁という組織が縦割り社会だということも。しかし、面と向かってコンピューターの素人に、「信用できない」などと言われる筋合いはない。

 俺だってスキルがあるから採用されているのだ。

 そこで砂堀がどう返したか。返してくれやがったのか。


——僕が手を動かすと、彼の為になりませんから


 すっかり教育者面だ。これがまた、サイコーに気に入らない。確かに俺はお前を上司と認めた。それはチームとして機能するためだ。けれど師弟関係まで結んだ覚えはない。望んで弟子入りしたつもりがないのだから、当然だ。

 彼ならやってくれると思います、とか。彼なら間違いありません、とか。そういった答え方をしてもらわないと困るのだ。

(くそめっ……あの長髪むかつくぜ)

 苛々がつのる。ゲームでは気分が晴れない。津田沼はバッグをたぐり寄せ、中から茶封筒を取りだした。座椅子を深くリクライニングさせつつ中身を取り出し、仰ぎ見る。『都道府県別Nシステム脆弱性テスト概要』と名打たれている。

 Nシステム。これが押し付けられた仕事だ。警察が道路に設置している監視カメラのネットワーク。犯罪にまつわる手配車両のナンバープレートを照合するのが主な目的で、いわゆるスピード違反の監視カメラとは別。そちらはオービスと呼ばれている。

「なんで俺がNシステム担当なの……俺を試してんの?」

 お前の得意分野じゃん——砂堀恭治。

 津田沼は知っていた。知り抜いていた。砂堀は長年、セキュリティのサービス業者として警察との信頼関係を築いてきた男だ。なかでもNシステムの脆弱性を幾度となく指摘し、守りのレベルアップを促してきたことが高く評価されている。だから警察は、砂堀を手の内におきたがった。

 なのに。

 なんでだ。

 なんで俺にNシステムをやらせるんだ。

 別の御題ならお前はさほど口出しできないはずだ。俺が何をどう頑張ろうが、依頼する側も担当者の能力を認めてくれるだろう。だがNシステムは違う。俺が新たな脆弱性をみつけたとしても、お前が上司というだけで——砂堀恭治が面倒をみているというだけで、誰も俺の手柄だとは認めない。結局お前の得になるんだ。そういう流れが存在するんだ。おまけにお前は俺に恩を売って、師弟関係を強要するつもりだ。マウンティングって奴。そうだ。そうに決まっている。そんな事、誰にでもわかる。わかるって。余裕でわかるって。わかっちゃう俺が頑張れるわけない。そうだろ?

 なんでだ。

 なんで俺にNシステムをやらせるんだ。

 なんでお前みたいなリア充を、余計にリア充にする手伝いをしなきゃならないんだ。 

(畜生っ)

 砂堀の事を考えると虫唾が走る。どんどんやる気がうせていく。それどころか、足を引っ張りたいとさえ考えてしまう。

 津田沼は茶封筒を放って、座椅子の背もたれにのけぞった。

 知ってるよ? 

 肩書きちらつかせて女口説くんでしょ? 

 どうでもいいブスをその気にさせて、貢がせるの得意なんでしょ?  

 砂堀恭治はイケメンで通っている。ネットで顔写真を公表しているからだ。それもあって、ネット民からの嫉妬深い誹謗中傷がそこかしこにあふれている。特にクラッカー(=ブラックハットと同義)が集う犯罪系コミュニティでは、警察に加担したという報道が槍玉にあがり、体制側の人間として砂堀はすこぶる毛嫌いされている。

 噂によると学生時代から女に貢がせるのがお得意らしい。なんだそれ、と津田沼は吐き捨てた。最低野郎にも程がある。

(そうだ)

 俺も裏コミュニティにぶちまけてやる。奴がどれほど酷いブタなのかを明かしてやる。手土産もあるぞ。

 Nシステムという——手土産が。

 津田沼は赤ら顔で微笑んだ。ノートPCをたぐりよせ、ネットサーフィンを開始。ブラウザを立ち上げ、暗黒街のごとき仮想空間を練り歩く。都度「Nシステム」あるいは「砂堀恭治」というキーワードを入力しながら。

 案の定、コアな連中が集う掲示板がごろごろとヒットした。いずれネット新法の取締が本格化すれば、当局から袋だたきにされそうなサイトばかりだ。警察をあざむくことに喜びを覚える連中——前科者、ヤクザ、某国の工作員、違法グッズの販売業者などが、匿名で蠢く気配が感じられる。

 そいつらと一緒になってNシステムをいじめよう。

 あの長髪野郎をいじめぬいてやろう。

 もちろんバレないように。巧妙に。

 前の前の会社にいた頃、上司の陰口をネット上の掲示板に書き込んでバレた経験がある。自分は病気なんです、治したいですと頭を下げたこともあった。

 しかし。

(バレなきゃいいのさ)

 津田沼の手は小気味よくキーボードを弾いた。小指の先まで、酔いと悪意が充満していた。





Ⅲ:中央区:銀座:早朝



 まだ朝の七時四十五分である。 

 フロアは灯りも薄暗い。呼び出された四本木篤之の足音だけが響いていた。

 自動車メーカー重役陣の朝はどうして異常に早いんだ。八時に全員揃うなんてことはザラである。仕事のジャンキーが多くて困る、と思う。加えて、朝早くから呼び出される意味を四本木は噛みしめていた。役員たちは午前中を経営レベルの会合に費やし、午後はそれぞれの担当事業所で忙しく過ごす。朝っぱらから現場の人間を呼び出すということは、イレギュラー且つ危急の要件だ。

「よう、四ちゃん」

 専務は廊下で四本木を出迎えた。というより鉢合わせだ。「あっちでやろう。コーヒーも飲めるし」

「自販機ですか。専属秘書がいるご身分でしょ? 専務殿ともあろうものが」

「事業部の癖だ。味に舌が慣れてる」

 要は煙草が吸いたいのだ。役員室さえ禁煙になったご時世は難儀だろう。四本木はそう理解しつつ、専務と連れ立ち、誰も居ない喫煙室にしけ込んだ。

 まずは専務が自販機の前に立つ。ミルが豆を挽くタイプの物で少々時間がかかる。

 その後ろで四本木は作戦を練った。

 今日の話題は何か。それを予想し、材料を整理しておかなければ兆単位で利益を出す企業の専務とは会話が噛み合わない。無論、このタイミングで危急の用といえば高速道路で起きたバス事故が絡む。事故を起こした車種に欠陥でも見つかろうものならベガスグループは未曾有の批難を浴びる。役員たちは誰がどう責任をとり、株主にどう説明するべきかで頭が一杯だろう。

 四本木の役割は研究部門を統括する技監、すなわち部長職である。当面の課題は来週予定されていた合同記者会見であったが、それは一旦お流れに。次のターゲットは月末に迫った研究用オートパイロット車の納品。相手は電網庁だ。先方の希望で当日はセレモニーまで開催する予定。メディアをかきあつめる。しかし四本木は、そのセレモニーを控えろと社命が下るに違いないと予想した。このご時世であるからして浮かれたイベントは自重せよ、と。その程度なら、岩戸紗英に頭を下げてねじ込めると思う。上玉のロータス・エクセルをイギリスで一台仕入れ、健康そうなクラッチディスクを進呈するぐらいの事はしよう。研究資材として購入し、オートパイロット車の備品としてプレゼント。へそを曲げるだろう女帝の機嫌とりに、うってつけのアイデアだ。

「手短に言うよ」

 専務は自販機からコーヒーを取り出した途端、自分だけさっさと煙草に火を点け、単刀直入に切り出した。「例のオートパイロット車な。電網庁に納品させるな、って動きがある」

 四本木はまだ自販機に顔を向けていた。背中でさらりと聞くには、重すぎる一言だった。まさか。

 たった車一台、しかも研究用車両を納品できないなんてことが、あろうはずがない。

「……納品させるなって、誰が」振り返って顔をしかめる。「岡本さんですか。井村氏? それとも浜野……」

 社長に近い役員の名前をあてずっぽうで並べる。

 しかし専務は顔色一つ変えない。「四ちゃん、今月末って言ってなかったか」

「ですよ。突貫工事中です」

「それ、遅らせたらどれぐらい問題になる?」

「……おわかりでしょう。相手は国だ。ハリボテでいいから、形だけでも期日には納品しろっていうお客さんです」

「そうだよなぁ」

「納品したら……何が困るって言うんですか。こいつは社長の肝入り案件だ」

 四本木はコーヒーを手に分煙機を手でさぐって、電源を入れた。

 煙が吸い込まれはじめる。「……五カ年計画の柱じゃないですか」

「五カ年計画なんてかすむほどの、とんでもない話が動いてる」

 専務の目がうつろだ。バス事故の裏に何かある。そうに決まっていた。

「こういうのはどうですか」四本木は踏ん張った。「納品のセレモニーはなし。メディアも呼ばせない。こっちから電網庁にお願いして、その代わり納品だけは予定通り月末に行う。派手にしない。これなら客も納得してくれるかと」

「……納得するかい」

「納得させます。ただ、納品ナシはありえない。下手を打つと電網庁が余所のメーカーと組む。ここは正念場だ」

「…………うん」

「……バスの件、そこまで深刻ですか」

 専務は押し黙ってしまった。しかし、長年のつき合いだから四本木には専務の気持ちが痛いほどわかる。同じ研究畑の出身。他のメーカーに先んじて自動運転を国と共同開発することがどれだけ大事か、理屈ではなく感覚として判っている。納品できるところまでこぎ着けた。納品したい。そう直訴する部下を相手に、専務は納品させたいに決まっている。



 その日、四本木は会社を早退して警察に出向いた。いきつけの寿司屋から、さほど遠くない交番をネットで探し当てておいたのだ。

 落とし物を拾ったと告げて、財布を差し出す。

「どちらで拾われたんですか」警官が尋ねてくる。

 寿司屋の前で拾ったと答え、立ち上がり、地図を指してその場所を説明した。しかし其の実、四本木には拾った記憶がない。家に帰って気がついたら背広のポケットに財布が入っていました——などと答えるのは気が引けた。いくら酔っていたとはいえ上着を間違えたわけでもない。泥棒だと思われるのも心外だ。特にこのご時世である。会社に迷惑がかかることだけは、なんとしても避けたい。だから拾ったことにした。もしかしたら本当に拾ったのかもしれない。とにかくあの晩は酔っていた。

「中身は見られましたか」警官の言葉が冷たく感じられる。

 見ました、でも細かくは見ていません——そう答えた。まず顔見知りの落とし物かどうか勘ぐるべきだから、中身は確認した。しかし運転免許証のような身分証明書の類は見当たらない。クレジットカードに刻印された名前にも記憶がない。あとは数万円程度のお札と小銭。ありきたりな財布である。

 警官の指示に従い、四本木は拾得者として名前と住所、電話番号を調書に書き込んだ。三ヶ月以内に落とし主が現れない場合は拾い主の物になり、現れた場合でも五パーセントから二〇パーセントまでの報労金を請求する権利があるという。その際は落とし主と金額の摺り合わせが必要になる。そんな説明を受けながら、四本木は終始首を縦に振った。正々堂々とすべきだ、と自分に言い聞かせながら。本当に悪気はないのだから。

 交番を後にして、四本木は胸のつかえが下りた気分であった。歩きながら、あらためて財布の持ち主について考える。クレジットカードの刻印、名前の響きからすれば持ち主は女性に思える。そういえばカード型の、とても薄い電卓が入っていた。落とし主は暗算が苦手な主婦。そんな風に想像ができた。しかし。

 それが電卓以外の何かではないか、などと疑うことはしなかった。

 誰かが自分の上着に財布を放り込むなどという、きわめて性悪な悪戯にも——まるで想像が及ばない。 










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