第1話 { 総務省::電網庁; }

(一)(二)(三)

千代田区




(一)


千代田区:霞ヶ関:朝



 香坂一希は自動改札機の前で歩みを緩めた。東京メトロ丸の内線は通勤ラッシュの真っ最中で、改札はとっとと抜けるべきだ。しかし手にはまだ最新型のスマートフォン——いわゆるスマホを握っている。起床してからずっとネットを眺めっぱなしで、頭の中は事故の事で一杯だった。

 やがて足を完全に止めてしまう。

(レーンとレーンの間にぶつかって……真っ二つか)

 自動改札機の並びを高速道路の料金所に見立てると、まるで自分が吸い寄せられるバスになった気分だ。けれど事故のリアルな状況には見当が及ばない。免許こそ持っているけれど、所詮はペーパードライバーなのだ。

 自分は幸運なのだろう、と香坂は思う。バス事故には巻き込まれなかったし、この改札を抜けてエスカレーターを登れば霞ヶ関の官庁街だが、向かう先は大臣の去就で揺れる国土交通省ではなく、総務省なのだから。

 香坂は歩き出そうと決め、改札を通る前にスマホを片付けたいと考えた。ところがポケットは満杯。どこへどうしまうか悩み始めたものだから、なかなか再スタートが切れない。後続のOLたちが自分を避けていく。でも焦るどころか、むしろポケットを一杯にして歩く男の命運について考えたくなる。

 不謹慎かもしれないが、自分は不運な事故に巻き込まれることがなさそうだ。信心深い母親のせいで、全身義体ならぬ全身御守りだらけなのである。シャツのポケットに『交通安全』、パンツのポケットに『家内安全』『病気平癒』『縁結び』。学生時代は『学業成就』を持たされ、卒業してやっと一つ減ると思ったら『商売繁盛』を持たされそうになった。公務員になるんだから『商売繁盛』は無用とつっぱねたところ、かの母親は『技芸上達』なる御守りを見つけてきた。結局五個から減らないまま、今日を迎えた。

 香坂は悩んだ末に、スマホを上着の内ポケットへねじこむ。財布と一緒になったから胸元がこんもりと膨らんだ。それが不愉快で顔をしかめる。御守りをたくさん持つということはポケットの中身がかさばるということで、それはお洒落最優先な自分にとって腹立たしいことこの上ない。スリムに体型を保ち、シャープなスーツをスマートに着こなしたい。財布の厚みも最小限にしたいから、五つの御守りは各ポケットに分散配置している。そういえば、打ち出の小槌の形をした御守りは最悪だった。薄型オンリーにしてくれと、繰り返し母親に直訴したものだ。いずれ結婚すれば『縁結び』は持たなくてよくなるだろうが、きっと『安産祈願』を持たされるに決まっている。その先は、子供の『学業成就』か——あまり想像したくない。

 京都人だからというわけでもなく、母親はオカルティックな傾向があり、香坂自身にも少なからず伝奇趣味があった。大学院まで出た理系人間のはずが、もらった御札など捨てるに捨てられないし、紛失しようものなら眠れなくなるに違いない。実は京都という町が「霊的に護られている」と少なからず信じていて、でも吹聴しないように気をつけている。



 中央合同庁舎第二号館はいつも節電モードで、薄暗い。ご時世だろうと香坂は思う。着工は一九九七年、竣工は二〇〇〇年。最上階まで吹き抜けの設計にバブルの残滓が感じられた。遥か頭上の採光窓がどこか物悲しい。

 香坂はエレベーターで十一階へと上がった。吹き抜けから一階を見下ろすと雑多な連中が行き交う様が見えた。廊下を歩く途中、メッセンジャーバッグを抱えた男とすれ違う。こういった業者も皆、ドアというドアのほとんどを堂々と出入りしている。いまどき錠前としてカードリーダーが見当たらないオフィスビル——複数の官公庁が入居する建物なので、なおさら不安を感じる。ましてやここは情報通信の要、総務省だ。

 香坂は大学院を卒業後、半年ほど小さなネットベンチャーで働いた。大した組織ではなかったが、セキュリティの意識は此処より遥かに高かった。すくなくともドアにはカードリーダーが設置されていた。

 特命課なる室名札が目に入ると香坂は立ち止まり、スマホを取り出した。電源を投じてカメラを起動、自分撮りモードにして西陣織ネクタイの乱れを確かめる。今日のために夏物スーツを新調した。クールビズだからといって上着を持参しないような不作法は御法度。礼儀はともかく自分は京都出身。呉服屋の息子。だからお洒落はアイデンティティだ。

 ドアをノックした。返事がない。

 開けてみるが——部屋に人影がない。というより人の気配がしない。

「すいま、せーん……あのう」

 照明は点灯していた。オフィス然とした机と椅子が相当に密集しているが、その上にあるべき紙の資料やコンピューターの類が皆無。壁際の書棚も空っぽで、部屋の隅には段ボール箱が数多く積まれている。窓にはブラインドが架かっていて、隙間からガラス窓を磨く清掃員の姿が見えた。

「どなたか……おられませんかぁ」

 すると段ボール箱の隙間から女が顔をひょこっと出した。髪を無造作に束ねている。

「あれぇ!?」

「香坂です。今日から特命課の。ここで合ってますよね」

「ちょっと……一階で電話くれるって話じゃなかった?」

「あ……まっすぐ来ちゃダメでした?」

 どうやら先輩の機嫌を損ねたらしい。といっても彼女は若く見えた。まず化粧が薄い。やや地黒だが肌つやはよく、猫の如き黒目がちな瞳と長い睫に、わざとらしさ、けばけばしさが微塵もない。当然ながら口紅ではなくリップクリーム。髪の束ね具合はぞんざいだがキューティクルは輝いている。背格好はやや小柄、といっても貧弱さより敏捷な動きを想像させる。

 総じて、彼女には天然由来の華やかさがあった。野性の美というべきか。

 加えて。

「用事を頼もうと思ってたのに。アレですね。段取り無視系。マイペース野郎だ」

 口の利き方にも野性味が溢れていた。

「え!? ええ……っと」香坂は先制パンチを食らった。

「アタシ……じゃなくて私、常代有華。みんなゆかりんって呼びます。段取り重視なんで、よろしく」

 彼女の親指を立てるガッツポーズには、どこか少年の心が感じられた。

「そっか……ごめんなさい、ゆ……ゆかりん」

「鞄、そこら辺においといて。早速だけど仕事。あ、服汚れるぞ」

「え」

「引越。掃除と荷造り、頑張ってもらうから」

 有華は不敵な笑みを浮かべた。

「もしかして、僕……」

「もしかしなくても、そういうこと」

 総務省を間借りしていた電網庁が霞ヶ関を離れ、新宿方面に新庁舎を構えるという噂を香坂は耳にしていた。つまり自分は引越要員として配属され、あてにされているということだ。セキュリティの甘いこの建物に通うのは、今月限りという事らしい。

 香坂は上着を脱ぎつつ尋ねた。「……ロッカーってあるんですよね」

「ああ、ロッカー古くて廃棄処分しちゃった。ハンガーも捨てた。大事なスーツだったら着てこないほうがいいよ。ただいまクールビズ。うちはノータイがデフォだしね。ロッカー必要?」

「……いいえ」

「でしょ?」

 合理主義の権化。スピード重視の段取り娘。それが常代有華の第一印象であった。

 彼女の前では、おろしたてのネクタイなど風前の灯だ。

 


 疾風怒濤とはこのことか。

 香坂は舌を巻いた。有華が段ボール箱を抱え、廊下を駆け抜ける様は爽快だ。とにかく素速い。

「よっ……はっ」

 迫り来る人や物を予測し、紙一重ですり抜ける。彼女にとって吹き抜けを囲う四角いオフィスは、さながらオーバル・サーキットだ。

「香坂さん、こっち!」

 連れて行かれたのは簡易的なサーバールームで、金属製ラックの解体作業が進んでいた。そこへ参加した矢先。

「ちょっとそれ! 日本製の六角レンチはハマんないって」

 有華にいきなり怒鳴られ、香坂は目を白黒させた。何の気なしに手に取った工具が違ったらしい。確かに金属ラックはアメリカ製で、インチ基準の六角穴だから径が異なる。無理にねじこんだりすれば壊す原因になる。

「パッと見てわかるっしょ普通」有華の責めは過酷である。

 返す言葉もない。「……」

「香坂さん、アメ車とかいじったことないの?」

 相手は女のはずだが、その発言は男の経験不足をえぐり取る。

 それでも香坂は怯まない。勇気を振り絞って、こう尋ねた。

「アメ車のアメはアメリカのアメですか」

 この頃、時計の針は九時を回ったばかりであった。まだ香坂は『さん付け』で呼ばれていた。



 次に取り組んだのは段ボール箱への梱包作業。判子やノートなど事務用品ばかりで、し損じることはないと香坂は高をくくった。

 しかし。

「無理だ。これ全部で一箱じゃ」

 梱包すべき物量と与えられた段ボール箱の大きさ。それが釣り合わない。だからギブアップした。

 未熟者の諦めのよさに呆れつつ、段取り娘は自らお手本を買って出る。速やかに、手際よく。

 すると——結果が変わってくる。

「ウソ。すげ……」香坂は目を疑った。

 何故かすべて一箱に収まっている。しかも無理なく、隙間なく、見栄え良く。

「ぱっと見てさ、入るように見えない?」と有華。

 返す言葉もない。「……」

「エンジンルームとかいじってほしくないなぁ、香坂……さんには」

「それ、車の話?」

「うーん、バイクでも嫌かな」

 この頃、まだ時計の針は十時を回ったばかり。香坂は間違いなく『さん付け』で呼ばれていた。



 その後、段ボール箱を運び出す作業が続いた。

 背の高い、移動式クローゼットのような台車を香坂は初めて見た。スペースに余裕がありそうなのを一台見つけ、それに一箱乗せようとした時。

 やはり有華の叱咤が飛んだ。

「こ……こら! 香坂っ」

「ひぃっ」遂にさん付けで呼ばれなくなった。

「何でそこに載せる!?」

「いや……」

 この台車にはスペースに余裕があるじゃないか。そう言いたくなったが、ぎりぎりで堪えた。どうせ間違いを指摘されるのだ。そうに決まっている。

「耐荷重考えなさいよ。重そうな荷物が、先に乗ってるでしょ!?」

「た……耐荷重?」

「まったく。男の子だったら、トランスミッションジャッキとか使ったことあるでしょ?」

「……全くないです」

「じゃあさ、重さに応じて什器じゅうきを選ぶでしょうが」

「は、はい? ……じゅうき? 重い機械の」

「違うって。にんべんに数字の十で什、キは食器の器」有華は近場にあった雑誌の陳列棚を叩いてみせた。「こういう物の事」

「わかりました。什器」

「わかればよろしい」

 香坂は陳列棚をじっと見る。確かに家ではなく職場に置かれているのだから、これを家具と呼ぶべきではない。しかし日本語として「什器」をまったく耳にした記憶がない。

 香坂は自分の経験不足に辟易とした。

 そして。

——ところで、トランスミッションジャッキって何ですか?

 有華にそう尋ね返すタイミングを逸した自分にも、呆れた。


 *


 十時半を過ぎた頃。

 遂に香坂は、苗字すら呼ばれなくなった。

「ね……悪い予感、しない?」と有華。

 香坂は一心不乱に机や椅子を積み上げていたが、隣り合った山を見比べれば、高さが揃っていないことは一目瞭然であった。

「します。やり直しですね」香坂は汗をぬぐった。

「お願い」

「はい」

 反論の余地は皆無だと思う。理にかなっていることばかりだ。そして自分が望んだ結果でもある。

 最初に勤めたベンチャー企業ではセキュリティの粗探しをしていた。職業・ハッカー——それって格好いいよね、と同僚の女性に評されたことがある。だが香坂はその言い分を認めなかった。認めたくなかった。コンピューターがなければ何もできない男なんて、能力に乏しいと考えられるべきじゃないか? このままプログラミングし続ける人生が、まっとうだとは少しも思えない。キーボードを叩いたり、マウスをクリックしたり。それだけで生きる実感は得られない。得られるはずが、ない。

 だから辞表を書いた。

 そして今、ここにいる。

 格好悪い自分がいる。




(二)


千代田区:霞ヶ関:午前



 香坂は天井を仰いだ。特命課の片隅で、段ボール箱に囲まれた椅子に腰掛け、首にタオルを巻いて。

 窓の外を見ると、ヘルメットをかぶる清掃業者の男が手を振ってきた。彼の汗は輪をかけて凄い。到底かなわない、と思う。

 腰のポケットからスマホを取り出す。御守りを一緒にひきずり出さないよう気をつけて。

 電源を投じ、件の電子メールを眺めた。


 ”組織に尽くせるか?” 

 ”差出人:UNKNOWN”


 昨日誰かが送りつけてきた奇妙なメッセージは、香坂の喉元へ棘のように突き刺さっていた。

 確かに自分は会社を辞めた人間。一度は組織を裏切った男だ。

(誰ですか? この御仁は)

 香坂はスティーヴ・ジョブズのような人物像を思い描いた。しかし即座に否定する。彼のような男は組織に馴染むというより組織を改変する、いわば現実を歪曲させる存在だと思う。無条件の服従など求めるわけがない。

 僕は——どっちだろう。

 僕に現実を歪曲する力はあるだろうか。

 香坂は深々と溜息をつき、携帯を閉じた。呆然としていたところへドアがノックされ、その音で我に返る。

 振り返ると制服姿の紳士が立っていた。警察官——それも、明らかに大幹部の風格がある。

「……あのー」紳士は脱帽し、おどおどと切り出した。

「なんでしょう」

「……こちらに常代有華というのは……おりますか」

「あ、いますよ」そうは答えたものの、よく見れば姿が見当たらない。「あれ? ……いないなぁ。さっきまで忙しくしてました」

「そうですか! ここにいたか。そうかそうか」紳士は喜んでいる。

「あ、でも引越ししますよ」

「え」そう告げた途端に意気消沈した。「そう……ですか」

 二人はしばし無言で向かい合った。やがて。

「いつも……昼飯はどうしてるんですかね」紳士が言った。

 いつもなんてわかりません、僕は配属されたばかりの新人ですから——そう答えたいところだが、香坂は相手の素性を問い正すべきだと思った。

「失礼ですけど、どのようなご関係……」

「あ、いや。親族なもので」

「親族? 大事なご用ですか」

「いや、ね」紳士は取り繕う。「二階に用事が。け、警察庁ね。ついでで、ちょっと顔出してみようかなと」

「……ここで待たれますか?」

「あ……いえ。また来ます」

「何か伝言があれば」

「そうだなぁ……頑張れ、とお伝えください」

「あ、お名前……を」香坂にこの紳士が何者かわかるはずもなかった。

「そうですよね。高柳、といいます。隣の、警視庁におります」

 名刺を差し出されて香坂は目を丸くした。高柳泰平の肩書きは——警視総監、とある。

「う……承りました。必ず伝えます。あっ」

「?」

「すいません、配属されたばっかりで名刺……まだないんです、けど」

「ああ、結構です結構です」

「出来たらお持ちします、必ず」

 紳士がにこやかに会釈し、背を向け、特命課を出て行く。香坂はその後について部屋を出た。

 廊下にも有華らしき姿が見当たらない。トイレにでも行ったのだろうか。

 振り返って部屋に戻る。すると。

「え?」

 壁の裏側に捜し人が立っていた。

「しーっ。静かにっ」有華はわざわざ隠れていたらしい。

「な……何ですか。いたの? 段ボール箱の裏?」

「あのおっさん、相手しなくていいからね」

「そうはいかないよ、あんな立派な人、邪険にできますか。頑張れ、って言ってましたけど? えーと、タカヤナギ……警視総監?」

 有華はうなずきもせず、大判の茶封筒を差し出した。

「はい。これ。香坂……さんの、赴任手続き。中身は知らない」

「……香坂でいいです。役立たずですいません」

「へへ。人使い荒くてごめん。よく言われるんだアタシ……じゃなくて」有華はわざわざ言い直した。「……私」

「アタシを私と、言い直す人を初めて見ました」

「そこ、さらっと流してくれる? おしとやかさ強化月間なんだよね」

「おしとやかさ?」

「アタシっていうより、私っていったほうが、ほら……」有華は改めて言った。「私。……ね? わかる? 大人っぽく聞こえるっしょ」

「はぁ」

 香坂は首をかしげつつ茶封筒の中身を取り出した。

 書類が数枚とカードホルダが一つ。

 そういえば今日、自分に電網一種の免許証が公布されるはずだ。

 ところが。

「……これって……電網免許証……だけど」香坂は眉をひそめた。「0種って書いてある」

 受け取ったのは1ではなく0。ゼロだ。

「……わ! ゼロ種なんだ香坂……さんは。すげぇ! じゃなくて」有華は照れ笑いしつつ訂正した。「……凄い」

「凄いんですか?」

「聞いてない? 来月から運用されるんだよ。一種の上……ちゃんと使えるのは引越してからって話だけど」

 よく見るとカード番号の桁数が多い。一種から五種の免許証とは素性が根本的に異なるようだ。

「へぇ。まだ使えないんですか。ドタバタしてるから……でしょうね」

 香坂は興味津々でバッグを開き、机の上に自前のノートPCを取り出した。内蔵するカードリーダ/ライタの黒い小窓に免許証をかざしてみる。

 ところが。

 何も起こらない。

 ”ASKQAへようこそ”のメッセージが出ない。

「本当だ。自動接続しない」

「でしょ? あと一週間は、自前の電網免許でネットしろってことだよ」

 香坂はしばしノートPCをにらみ、キーボードをぱたぱたと打って、目を細めた。「……妙だな」

「何?」

「0種向けに無線の電波は飛んでるみたいですね。画面が出てきた。免許証の番号と、パスワードの入力を求めてる」

「気をつけてね。ここは合同庁舎だから、電網庁じゃなくて余所の省庁につながることもあるし」

「でも……これは0種を受け付けるフォーマットだ。桁数が違う」

「じゃあ電網庁か? ……ま、怒られないようにして。アタシにゃ、よくわからん」

 更にぱたぱたとキーを打って、香坂は目を丸くした。

「あらら。つながっちゃった」

 ASKQAへようこそ、の文字列が画面を覆ったのだ。

 有華が笑う。「いいじゃん。つながったんなら問題ないでしょ。ラッキーって感じ?」

「……ダメです。この繋がり方は大問題」

「へ?」

 香坂はノートPCをくるりと返し、有華に見せた。

「実は今、デタラメの免許証番号とパスワードを打ち込んでみたんです。僕のカードとぜんぜん関係のない数値。なのにアクセスが通った。ネットにつながった」

「どゆこと? ……っていうか、なんでそんな事する?」

「セオリーなんです。こういう画面が表示されたら、まず間違った番号とパスワードをデタラメに入力してみる。それで通った場合……」

「……ちゃんとプログラムが機能してないってこと?」

「それならまだマシです」香坂は険しい顔で言った。「もっと怖い事があり得る」

「……何だ。もっと怖いって」

「フィッシング詐欺の疑いがある。番号やパスワードを盗むために誰かが用意した、偽物の画面という可能性がある。だからデタラメな番号やパスワードを打ち込んでも、つながってしまう」

「ちょ、ちょっと。アタ……私にもわかるように、言ってくれない?」

「つまり、このフロアのどこかに、0種の免許証番号をこっそり集めてる人間がいる……かもしれないってことです。そいつは電波を出して、僕はそれにひっかかった。わざと。そいつは僕が入力した適当な番号とパスワードを盗み見しつつ、僕を騙すために、自分のPCを経由して外のアクセスポイントへ繋いだ」

 有華の顔が神妙になった。何か考えている。

「どうしました?」

「……あのね、朝から苛々してたんだけどさ」

「僕のせいですね」

「じゃなくて。実は……隣の部屋で機材が一個、消えたらしいの。引越の梱包しつつ数を数えたら、買った台数分無かったらしくて。知りませんかって尋ねて来たんだけど……知るわけないじゃんね。自分が疑われたみたいで、気分悪いったらありゃしない」

「無くなった機材って」

「ポータブルの……アンテナだってさ。高性能なんだと」

「ふむ……同一犯の可能性、あります。アンテナの性能が高いと、この手の無線詐欺には有利だ」

「おぅいマジか。どうする……上司に報告?」

「おおっぴらに騒ぎ立てると、本人が勘づいて逃げるかもしれない。報告した上司が共犯ということもありうる……慎重に探して、目星をつけておいて、それから囲んで縄にするのがいい」

「報告より先に探すってこと?」

「そうです。先に探す」

「今すぐだよね」

「今すぐです」

「やれる? 二軍だけど」

「二軍?」

「今日は一軍がお留守。アタシとあんたの二人しかいないけど……できる?」

 香坂は眉を片方あげた。「興味ありますか……フィッシング詐欺の犯人捜し」

「ある。っていうか、捕まえたい。アタ……じゃなくて私ね、電網庁に出入りしてるけど、実は独法(独立行政法人)の職員でございますのよ。NICTってんだけど、知ってる?」

「情報通信研究機構、ですね」 

「それ。でも、ずーっと辞めたいって思ってて……できれば電網庁に雇ってもらいたい。なんかさぁ、いわゆるお手柄とかあると……いいよねぇ」

「ふむ。そういうことなら」

 香坂はPCのキーボードを弾いて、自作のアプリを起動した。

「今、僕はそいつとつながった状態です。回線速度を計測しながら、歩いてみましょう……出所がわかると思います」

「そんなことできるの?」

「計測は特技なんで」



 ノートPCを抱えたまま、香坂は足を止めた。

「まいったな。ここか……」

 女子トイレの前だった。

「怪しいよね、トイレって」有華は鼻をつまんだ。「臭い……と思わない?」

「臭そう……です」

「どっちの意味だ」

「どっちの意味でも」

「よし、行こう」段取り娘は進撃を宣言した。

 もちろん青年は躊躇する。「僕も、ですか」

「ったり前でしょ。四の五の言ってる場合じゃ」

 そのときだ。

「……あ」

 手にしていたノートPCに変化が現れ、香坂の表情が一変する。

「何っ」

「電波……が途絶えました。引き払うつもりだ。逃げますね」

「ど……どうすんのっ」 

「持ち物検査するしかない。トイレって普通は手ぶらでしょう」

「女の子はそうでもないよ。化粧ポーチとか持ってく」

「大きめのビジネスバッグか、スリーブケースだ。結構なノートPCを持ち込んでる奴がいたら怪しむべき。記録媒体を調べれば、たぶん痕跡が……」

「鞄の中身、出させればいいのね? あとは香坂が何とかしてくれる?」

 有華がトイレの中へ消えた。

 しかし、すぐに戻ってくる。

「三人、入っているんだけど。手が足りないから来てっ」

「……パニックになるだけかと」

「作戦があるのっ」

 香坂はしぶしぶ女子トイレに突入した。生涯初だ。

 三つ並んだ個室。いずれもドアにロックがかかっている。

 段取り娘の命令に従って、青年は真ん中に立たされた。

「死守しろ」有華が耳元でドスを効かせて言う。

 しかし理由がよくわからない。「なんで真ん中?」

「(しーっ)」

 水音が鳴り、まず右のドアが開いた。

 中に向かって有華は両手を合わせ、口にチャックをしろとほのめかす。頼むから静かにして、というジェスチャー。

 それを見て不思議そうに首をかしげながら、一人目の女性が現れた。

 すぐに香坂の——男性の存在に気づく。

 当然ながら仰天して、声をあげようとした。

 その口を有華が手で塞ぐ。

「む……むぐ」

「(しーっ)」

 有華は強引に一人目をひきずり、どうにか外へ連れ出した。持ち物は化粧ポーチ一個。シロだろうと香坂は思う。

 残りは真ん中と左。

 運悪く、有華が戻ってくる前に左のドアが開いた。

 二人目が手にしていたのは、かなり薄いハンドバッグ。ジッパーを開け閉めしつつ現れたので、中身が電子機器の類ではないと一目でわかった。

 こいつもどうやら、シロだ。

「……!」

 彼女は半歩も進まないうちに、香坂の顔を目撃した。

 驚きすぎて声が出ない。

 一秒、二秒。にらみ合う二人。

「……え!」

 絶叫に変わる寸前、常代有華が飛びかかった。二人目の口を押さえ、耳元でワケアリなのと囁き、必死に頼み込む。

 くわえて「え!」の続きを唄って誤魔化した。

「え、ええ! ごほん。え……えーんやこーらぁ♪ あ、よーいこーらぁ♪」

 お世辞にも上手とはいえない民謡がトイレに木霊する。有華は唄いながら口を押さえ込み、腕力に物をいわせ外へずるずる引きずっていく。二人目は目を剥いて怒りの色を露わにしたが、香坂は必死に両手をあわせ、拝みこんで、事なきを得ようと努力した。

 そうして真ん中が残った。

 このとき香坂は、常代有華がどうして三つ並んだトイレの真ん中に最初から自分を立たせておいたのか、まったく想像できなかった。加えてフィッシング詐欺を疑う事そのものが、見当外れかもしれないという不安もあった。取り越し苦労かもしれないと。

 しかし昨日と同じではいけない、とも考えていた。今日から自分は電網庁の職員。失敗を恐れるべきじゃない。何事もなければ、それはそれで結構じゃないか。そう言い聞かせた。

 やがて——運命のドアが開いた時。

 大きなトートバッグを抱えた女性が現れ、その表情に狼狽の色がみえた時。

「すいません。ちょっと荷物の中身、見せていただけませんか」

 香坂は力強く言った。








(三)


千代田区:霞ヶ関:午後



 二百席分はありそうな大会議室。

 その片隅で、フィッシング詐欺の嫌疑をかけられた女性職員と、その上司が静かに対峙していた。

「言い訳を聞きたいところですが、君のバッグから行方不明の、そして機密扱いのポータブルアンテナが見つかってしまった。どうにもならないよね」

 電網庁開発局・局次長は、きっぱりと言った。名を垂水昂市たるみこういちという。

「……はい」

 十和田美鶴とわだみつるはしおらしく返答した。おなじく開発局に所属、肩書きは技師。ありていに言えば職業ハッカーだ。

 第一発見者として垂水の隣に控えていた香坂は、十和田の表情に反省の色がないと思った。一見神妙にみえるけれど、怒りを堪えているように感じられる。

「それでも言い訳したい?」垂水は問うた。

「……出来心で。すいませんでした」

「君のノートPC、調べさせてもらうよ。ところで、もしも全てがマルウェア(=悪意のあるソフトウェア)の仕業だ……なんて主張するつもりなら、諦めたほうがいい」

 十和田美鶴が唇を噛む。肩が震えていた。

 サイバー犯罪においては「他人にPCを乗っ取られ、遠隔操作されていた。その証拠に、PCからマルウェアがみつかった」と主張することで、無罪放免になるケースが存在する。もちろん当人が自らマルウェア——いわゆるスパイウェアをインストールするといった「自作自演」である可能性も否定できない。結果裁判は紛糾し、判決の行方はグレーゾーンを漂うことになる。

 その対策として電網免許制度は編み出された。使われたPCや携帯電話の「正規所有者」に厳しく責任を問うための立法だ。免許証による認証動作が歯止めになり、安易な貸し借りも許されないので、「ネット経由で知らない誰かが、勝手に悪いプログラムを自分のPCへ放り込みました」といった言い逃れは難しい。

 ましてや彼女は電網1種。スパイウェアに操られたとしても、免責されない立場にある。

「ログインしたのは君で、使われたのは君自身のカードだろう?」

 垂水はいやらしい訊き方をする。

 聞くまでもないだろうに、と香坂は思った。認証プロセスを経れば、あるネット機器が誰の免許でログインされ、どの時間帯にどんな用途で使われたのか、電網庁のサーバーは仔細まで掌握できる筈だ。ログを握っているのは垂水の側。自分が十和田美鶴の立場なら、取り繕うのを諦める。

 きっと局次長は彼女を煽りたいのだろう。感情的にさせて、性根を引き出したいのだ——と香坂は読んだ。

「……私のカードで認証しました。私のやったことです」

 十和田は抵抗しなかった。傷口を広げない賢明なやり方だ。

「じゃ、こっちから幾つか質問させてもらうね。まず、あなたはあなたの意思で、0種の番号を収拾しようと思ったの? まったく個人的な趣味として?」

「……はい」

 垂水は履歴書を手にしていた。「十和田美鶴。三ヶ月前まで都内のIX(=インターネット・エクスチェンジ……ネット相互接続点)に勤務。そのIXが電網庁に統合されるタイミングで、経験が買われて面談の上で嘱託技師となり、一種を取得した後、現職」

「……はい」

「経歴に詐称はないよね?」

「はい」

「じゃあ教えて。このIXに残ってる職歴は二年。大学を卒業したのが五年前。空白の三年間、君はどこで、何をしていた?」

「お答え……できません」



 のべにして一時間ほど尋問が続いた後、十和田美鶴は見張り役を付けられ、大会議室を出て行った。 

 彼女の私物——ピンク色のノートPCが机の上に残されていた。光沢のある天板が西日を弾いている。

「……これ、香坂君に解析をお願いしようかな。盗み取った番号をどこかへ転送していないか、電子メールの履歴等々をレポートにまとめてほしい」

 部屋には開発局のメンバーも数名残っていた。それでも垂水局次長は、あえて新人の自分を指名する。

 香坂はとても意気に感じた。しかし。

「謹慎……処分。軽いですね」不満も覚えている。「局次長、彼女をフィッシング詐欺……不正アクセス禁止法違反に、問えませんか?」

 警察に突きだそう、という意味だ。

 局次長はパイプ椅子の背もたれを抱え、背中を丸めた。といっても相当に大柄でさほど小さく縮まない。四十過ぎにしては童顔で、二重瞼がぶ厚く眠そうに見える。

「グレーだろうね。彼女は開発局のコアなメンバーだから、今回のケースは業務の一貫に見えなくもない。警察は首をかしげると思う」

「っていうか……アンテナ泥棒じゃないですか!?」末席に控えていた常代有華が、我慢できずに声を出した。

「組織内だから背任、横領というやつだね。そんな小さな罪に問うのは損だよ……」

 垂水はやんわりと言う。だが眼光は鋭い。「……裏があるようだから、しばらく泳がせる」

 香坂はうなずいた。

「単独犯で片付けられない、というわけですね……にしても、本来の処罰はどうあるべきなんですか」

「電網1種は剥奪。一年間は5種で生活してもらう。2種以上の受験は永遠に不可能。かなりキツイ処置だ。罰として適当でしょ?」

「……罰則が適用されるのは、来年からでしたね」

「取り締まりもね。違反者の現行犯逮捕にも取り組む」

「逮捕……今日は穏便に済みましたけど、警察の協力が必要かもしれませんね」

「わかってないようだから言っとくけど……電網0種を持つということは、司法警察権を持つということだよ」

 垂水のつぶらな瞳が、じろりと香坂をにらむ。「警察官と同等の国家権力を担うんだ……君がね。自覚ある?」

「警察官と同等!? ……僕が……ですか」

 垂水は片方の眉を動かして、悪戯っぽく笑った。「一種の試験、覚えてるかな。性格診断みたいな項目があっただろう? 何が目的だと思う?」

「職務上の適性を計られている。そういう感覚はありました」

「電網庁は日本中のネットワークプロバイダを統合、つまりネットを事実上国有化した。そして集めた人材を二手に割った。ソフトやハードを開発する連中は開発局へ。システム管理が仕事の連中は管理局へ。そして今から第三の部局が誕生する。現在、メンバーを選抜中でね」

「それが……」

「公安局。電網免許証の規定する義務を国民が守っているかどうか常に目を光らせ、現行法の手が届かないサイバー犯罪やサイバーテロを抑止する組織。ネットのおまわりさん。電網0種を保有する『電網公安官』で構成する組織だ。十和田も公安局入りを希望していたが、適性検査で落ちた。今回の事はその腹いせかもしれない」

「電網、公安官……」

「君の配属された特命課は、その母体なんだ。ようこそ公安局へ。期待通りのいい働きだった」

 垂水の求めに応じて握手をしながら、香坂は思いつきを口にした。

「もしかして……局次長ですか? 僕にメールを投げてきたのは」

「メール?」

「短い文面でした。UNKNOWNって署名があった。名無しって……誰です?」

 垂水は苦笑して頭を搔いた。心当たりがあるらしい。

「僕じゃないけどね。それ、返事は書いたの?」

「……返信すべきでしょうか」

「さぁてね。特命課の責任者は岩戸さんだから、彼女に会って確認したらどうかな。たぶん君の研修期間に関係がある……何か意味があると思ったほうがいいかもしれない」

「研修……期間。つまり香坂一希はお試し中ってことですね?」

「電網公安官としての、ね。研修が済めば、晴れて正式なゼロ種保持者となる」

「今日のことは、プラスですか」

「二人だけで行動したのは減点対象かもな。上司への報告は最優先。もっとも今日は特命課が出払っていたし、無理もないけれど」

「常代さんの勇敢な行動がなければ、犯人逮捕には至らなかったと思います」

 それを聞いて、垂水は抱えていた背もたれから身体を離した。背筋を伸ばして有華の方に向き直る。

「ちょっと無茶だなぁ……常代さん。総務省傘下といっても、君は独法の職員なんだから。怪我なんかしないでね」

「……はい……」

 有華がしょげかえる。

 香坂は咄嗟に助け船を出した。「今回の件は……常代さんのお手柄にしてください」

「は!?」有華が驚いて目を丸くした。

「彼女が、僕に適切な指示を与えてくれました。トイレの真ん中が……」

 がたり。垂水は香坂の言葉を制するように立ち上がった。

 腕時計をひとにらみして、こう告げる。

「……電網庁へ転籍を希望していることは、僕の耳にも届いてます。でもね、最終的な判断は岩戸女史になると思う」

 それから有華の肩をぽんと叩いた。「特命課が出払ってた留守を、守ってくれて感謝します。希望、叶うといいね」

「……はい」

 香坂は立ち上がり、垂水を引き留めようと粘った。

「あ……あの。全部説明させてください。常代さんが……」 

 その時だ。

 シャツの裾を、有華が引っ張った。

「いいって……黙れっ」



 会議室を出た香坂は、廊下を歩きつつ、前を行く有華の背中を黙って眺めていた。

 かけるべき言葉がみつからない。

 常代有華。総務省傘下の研究機関NICTの職員。彼女は地方公務員ですらない。正真正銘のOLだが訳あって特命課——公安局と行動を供にしている。

 彼女に対する評価は不当だと香坂は感じた。引越の段取り、新人の受け入れ、そして大捕物。獅子奮迅の活躍ぶりながら、しかし出入り業者相当の扱いに甘んじている。明らかに正規職員なみか、それ以上の働きぶりだというのに。

 もしかしたら資格に問題があるのかもしれない。電網庁の職員に必須とされる電網一種は難関。一方で彼女は首から提げたカードホルダの先端をポケットにしまいこんでいる。種別を晒して歩くのが恥ずかしいのだとしたら、一種ではないということか。有り体にいって勉強机に腰を据える気性ではなさそうだし——

(おっと……そんな想像は失礼だぞ……にしても)

 彼女の能力は資格なんかじゃ測れないと香坂は思った。直感力と行動力が並外れている。何故だろう。どんな子供時代をおくれば、ああなるのだろう。

 香坂は、自分があの野性の華に相当な関心を寄せていることに気がついた。訊きたいことが山ほどある。特に不可解なのはトイレの件。

 そう思った矢先。

 廊下の途上で彼女の背中を見失った。

「あ……あれ? ゆかりん? 常代さん?」

 


 青年の預かり知らないところで、段取り娘は給湯室に引っ張り込まれていた。

 先輩女子の二人組に口を、手足を押さえ込まれている。

「(むぐぐぐぐぐ!)」

 一人は長髪で、一人はショートボブ。髪の長い方の眼鏡アラフォー、通称ナナさんは百七十センチはあろう大柄。ど迫力グラマーのアラサー、通称ゆりっしーはジム通いの筋肉質。この二人に襲われれば抵抗は諦めるべきだ。

「ちょっとちょっとちょっとぉおお」四十路の親分が耳元で囁いた。

「何よぉ何よ何ィ」三十路の子分が畳みかける。

 二人は公務員ではなく出入り業者。方や事務用品の配送兼営業、方や御菓子のデリバリー。明るいシモネタ美女コンビとして堅物官僚たちのハートを掴んでいる。

「ぷはっ」有華はナナの手を払いのけた。「何でもない! 何でもない! 何も言うことはないっ」

「なんでもなくは、ないでしょうよ」ナナは片眉をひょいと上げた。「配属初日のイケメンをいきなり女子トイレに連れ込むなんて、正気の沙汰とは思えんぞ。アラフォーじゃなくても興奮するし」

「……すっげー誤解だ」有華は呆れた。

「連れ込んだまではいいけどォ、空きがなくて困ったんだってぇ?」ゆりっしーは髪を振り乱す。「うがぁー! あああ、アラサーだから、飢えてるから興奮するのかなぁ、でへへ」

「くっ……二十代前半ですけど、興奮なんてしないからっ! 説明させろ!」

 三人は給湯室からこっそり顔を出した。

 そうとは気づかず廊下を通り過ぎる、イケメン新人の横顔を眺めている。

「一〇五点。いきなり堅物の有華ゲットは超絶テク。人知を超える存在」ゆりっしーは鼻息が荒い。

「いや、違うな。いきなり有華ゲットは凄い。凄すぎてけしからんから減点すべし」ナナの表情は真剣だ。

「減点、了解です先輩。でも興奮しすぎて計算間違いしますぅ二〇〇点」ゆりっしーが呆けた顔をさらす。

「に、二〇〇点! 二人分!? ……ハァハァ、ぜ、絶倫認定っ」ナナは真剣な表情のまま鼻の穴をぱくぱくと開く。

「あーもー馬鹿ばっかだ」

 ノリの悪い有華の髪を、ナナがくしゃくしゃといじる。

「イケメンだってことぐらい、認めなさいよ。ほら、性欲強そうな鼻のカタチしてんじゃん。虎だね。虎君で決定」

 二人組は官僚達を動物に置き換え、隠語で噂を楽しむ癖がある。ゾウガメは長生きしそうだから結婚相手としては面倒だの、メガネザルは家族思いだろうから浮気しそうにないだの、と。

「せんぱぁい、香坂はライオン君じゃないですかねぇ」

「何……百獣の王! くわっ、キタコレっ」

 興奮冷めやらぬ二人を相手に、有華は一言もの申した。

「ねー、肉食獣に例えるのはやめませんか、お姉様方……希望的観測でしょ? どっちかってぇと、香坂は草食系だ」

 ナナとゆりっしーは下卑た笑いで、有華を挟み撃ちにした。

「あなたに決めさせてあげますわよ、ゆ・か・り・ん。香坂はワンちゃん? 猫ちゃん? ツキノワグマ? グリズリー? 担当飼育員の、手応えで決めてよし」

「わぁ……飼育員いいなあ……狼? ハイエナ? ちなみにパンダも肉食だから考慮してぇ」

「知らん、知らない、知りませんっ」



 有華はそのまま三十分近く、鼻の形と性欲の相関について先輩女性陣と語らうティータイムを過ごした。香坂の加勢が効いて引越の段取りは目処がついたし、夜は夜で別の行事が待ち構えている。休憩も必要、と判断してのことだ。垂水局次長とのやりとり——手柄がどうこうという——のせいで、なんとなく香坂に合わせる顔がない、という事情もあった。

 しかし、いつまでも油を売るわけにはいかない。有華は居室のドアをそっと開けてみた。窓から刺す夕陽の中、新人君は黙々とデスクワークをこなしている。

「あ、おかえりなさい」そう言いながらも、キーボードを弾き続けている。

 香坂は特命課のわずかに残った机の上で、ピンク色のノートPCを広げていた。十和田美鶴の私物。垂水局次長から請け負った解析作業を、早速やっているらしい。傍らには自前の黒いノートPCを並べている。

 有華はその向かい側に椅子を置いて、腰掛けた。

「コーヒー淹れたら飲む?」

「あ……大丈夫です。お気遣いなく」香坂はペットボトルを指して言った。

「私だけ休憩しちゃったからさ」

「問題ないでしょう。今日の特命課は、随分働いたと思います」

 香坂は目を合わさず返答した。作業にかなり集中していて、有華はその真剣な横顔を、心置きなく観察することができた。

 端正な割りに鼻は外国人のように大きい。ナナによれば、それは絶倫の証しであるという。

 それを意識した自分が恥ずかしくて、有華は赤面した。

 目が合いそうになる。だから慌てて適当な言葉を吐く。

「……二台、つながってるの?」

 有華はコンピューターにさほど詳しくない。

「いいえ。スニーカーネットです」

「すにーかーねっと?」

「問題のあるマシンには、自分のマシンを直接繋いだりせずに……」

 香坂は、USB端子に差し込んだスティック型の記憶媒体を指して言った。「……この中に、解析ツールを入れて流し込む。最悪でもこのメモリが汚染されるだけで済む」

「なるほど。ネットっていえば無線かケーブルだけど」

「記憶媒体に入れて、足で運ぶ。だからスニーカーネット」

「じゃあこっちの黒いので何やってんの」

「解析プログラムを走らせている最中に、ひまつぶしのネットサーフィンですよ」

「なぁんだ」

 香坂のキーボードを弾く指が止まった。「ところで……猪川大臣、辞任しましたね」

「……やっぱり?」

「わかってたんですか」

「……そうなるだろって、言ってた奴がいたから」

「言ってた奴?」香坂は笑う。「おしとやかさ強化月間、でしょう」

「……言ってたひ・と、がいたからっ」

 有華は訂正しつつ、GEEの言葉を思い起こしていた。

 オートパイロットの旗振り役として、電網庁と運命共同体を張っていた政治家・猪川忠直。その息子が昨日の事故で帰らぬ人となった。しかも被害者の家族となった猪川は、国土交通大臣の職を辞さねばならないという。国交省が事故調査を担うから——というのが専らの理由。

 有華にはすべてが理不尽に思えていた。

「猪川は生粋の道路族議員らしいです。自動車メーカーとは馴染みの仲だし、とどまっていたら便宜を図ってくれと泣きつかれる可能性がある。仕方がないでしょう」

「息子が死んだのに? 便宜を図るなんて、できるわきゃないでしょ」

「奥さんも黙っちゃいないでしょうしね……逆に、猪川がメーカーを糾弾する側にまわりでもしたら、彼自身の支持基盤が揺らぐ。同じ会派の族議員も二手に別れかねないし、そうなると国会も行政も混乱する。本人としては辞めてホッとしているかもしれない」

「へぇ。凄ぉ……なんか分析ってカンジ」

 GEEに似ている、と有華は感じた。物事の裏表をなめ回して、思うまま串刺しにする。ハッカーに共通する資質だろうか。

 自分には到底できない芸当だ、と思う。

「ところで……ゆかりんに質問があります」

「何?」

「アメ車、いじったことあるんですか」

 有華はきょとんとした。「あるよ、勿論。何……そんな事、言ったっけ」

「覚えてませんか? 午前中、サーバーのラックを解体してるときに」

「言ったかも」

「常代有華さんは、あのラックを組み立てたご本人ですか?」

「違うよ」

「……僕が手にしてた六角レンチが国産でメートル基準だから、インチ基準の穴には合わない。理屈はわかりますけど、あのとき僕が穴に差そうとする前に、先手を打たれた気がしました」

「そうだっけか?」

「アメ車をいじった経験があろうとなかろうと、あのタイミングで気づくわけがないと思うンです……が」

「ぴーん、ときた」

「ぴーん。勘ですか?」

「人の行動を先読みする癖があるんだよね。次から次へと」

「ふむ……次の質問です」

「はい」

「段ボール箱の詰め方。精度の話。凡人の僕からすると、あれは入りきらないと感じる量でした」

「アタシの場合ぁ、入るとか入らないとかじゃなくて、入れちゃえって感じだけどね」

「意思の問題? さっき一度箱を開けて、よくよく眺めてみたんですが、ミリ単位の精度でした。恐ろしいほど綺麗に入ってる」

「ぱっと見て、ぜってー入るぞと……、すこーんと来たけども」

「……すこーん」

「そ。すこーん」

「……次。台車に僕が段ボール箱を乗せようとしたら、激怒しましたよね。耐加重オーバーだろうって」

「あはは。いいすぎたよゴメン。許せないんだ、台車とかを無神経に扱ってぶっ壊したりする奴」

「……奴?」

「……人」

「……ぱっと見、かなり大きな業務用の台車だし、乗せられていた荷物は少なかったですよね。後で注意深く観察したら、30kgあるサーバー用の電源が十個乗ってた」

 有華は頬をふくらませた。「何。アタ……私を、信用しなかったわけ?」

「そうではありませんが……台車の最大積載量については、かなり注意深く見ないと上限260kgという数字が見つからない」

「まー、300kgちょいぐらいは、OKなんじゃない。でもアレ、限界だったな」

「サーバーラックの電源を台車に乗せたのは誰ですか」

「アタシじゃないよ」

「電源の重さは? 知ってたんですか」

「バラしてる時に手応えでぐっとキタ」

「30kgが十個。数えて、掛け算したわけですか」

「数えたかな。数えて……ないような」

「台車が限界だってことは? 積載量の上限値をチェックした記憶は」

「チェックした記憶……ないなぁ」

「あの台車に電源を乗せた本人でもないのに、僕がさらに箱を乗っけようとしたら、激怒。どうして? 判断理由が知りたい」

「うー……理屈じゃなかった。なんというか、それぐらいわかれ! って感じ」

 香坂は眉をぴくりと動かし、スマホで撮った写真を有華に見せた。

「もしかして……これじゃ?」

 写っているのは台車の車輪。

 よく見るとゴムタイヤがひしゃげている。

「あ……そう! それだ! それでズギャーンときた」

「ずぎゃーん」

「そ。激怒モノだったよね。ずぎゃーん」

「ふむ。……では、最後の質問です」

「なんか分析されてるぞ。怖いぞ」

「十和田美鶴を捕まえたとき。女子トイレ。使用中で鍵のかかったドアが三つ並んでいた。ゆかりんが、僕を問答無用で真ん中に立たせた。そこに危険人物がいた」

「うまくいったよね」

「右と左は、ハナっから除外してる。何故ですか?」

「……実はさぁ」あえて有華は小声で話した。

「……はい」

「ここ一週間ぐらい、真ん中のトイレにおかしなムードがあったんだ。使うのが嫌で嫌で。だからほら、しゅぱーんときたわけ」

「すぱーん」

「すぱーんじゃなくて、しゅぱーん。ワンランク上ね」

「おかしなムードって何ですか」

「故障してるとかじゃないのに、おかしいの。おかしな……ムードがあるんだよ」

「……だからそれって」

「ごめん。だから言ってるジャン。うまく説明できない」有華は苦笑いする。

「おかしいと思ったのは、一週間前から……ですか」

 香坂が十和田美鶴のノートPCをいじり、おお、と声をあげる。「凄い……十和田美鶴が番号の収拾を始めたのは……履歴を遡ると、一週間ぐらい前です。ぴったり合う」

「へー」

「……ゆかりん先輩」

「え? 先輩はいらないっすよ香坂……さん」

「今日の騒動についてレポートをまとめる際、トイレの件は常代有華の成果だと、きっちり書いておきたいんです」

 有華は顔をほころばせた。「あ……気を遣ってくれてる?」

「純粋に知りたいんです。どうして真ん中のトイレが、おかしいと感じたのか。きっと理由があるはずだ」

「私、説明ヘタなんだよね。感覚だから。超ボキャ貧」

 こういう時に、もっと本を読まなきゃと有華は思う。活字は大の苦手だ。

「勘が鋭いという言い方もある」

 香坂は傷つけないように気遣ってくれる。それが少し嬉しかった。だから。

「才能あるかもね。段取り上手の、雑用係としては……えへへ」

 あえて調子にのってみる。

 すると。

「もう一度、女子トイレ行ってみますか。何が違うのか、調べた方が」

「げ!?」それはダメだ。

 シモネタ美女コンビに、何を言われるかわからない。「……き、今日はやめとこうか」

「でも、そこが肝心要というか」

「明日にしよ明日……香坂……さんの、歓迎会の準備もあるし」

 有華はあわただしく帰り支度をはじめた。今日は早めに切り上げていい——岩戸から、そう指示を受けている。

 窓の外にそびえ立つお隣の警視庁が、まだ夕陽をはじくうちに。



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