(一)

新宿区・千代田区


(一)



 夜を夜と正しく受けとめて真っ当な朝を迎える。

 香坂一希こうさかかずきがその幸運を噛みしめたのは、目が覚めてから随分経ってからのことだ。高速バスが減速した気配で目覚めた当初は、感謝する由もなく、むしろ余り眠れなかったぞと運転の粗さに悪態をついた。同夜、別の高速バスで、多くの命が奪われた事など想像だにしなかった。

 カーテンの隙間が少し明るい。朝の五時から六時の間と見当をつけ、香坂は勘の鋭さを確かめようと携帯電話を取りだした。ところが液晶画面には見慣れないメッセージが映し出されている。時刻よりも目を惹くそれは、乾いた調子で旅の終わりを告げていた。

〈この携帯電話は電網免許証に未対応です。インターネットを利用しないでください。条例違反となります〉

 まさしく東京都に着いたという証しだ。

 カーテンを開けて位置を確かめる。高速道路上では、東名と首都高を分断するこの料金所が境界線らしい。まどろみながら携帯電話をいじるうちに、母親から三度も電話された履歴が示された。非常事態らしいが——他の客がいる手前、降りてから電話しようと香坂は決める。

 やがて照明が灯り、乗客の起床をうながす運転手のアナウンスが流れた。予定より十分以上早く〈池尻大橋〉に到着すると告げている。〈新宿駅東口〉はその次。

 一つ目のバス停を過ぎて香坂が支度を整えた頃、二列隣りに乗り合わせた女性客が何か口にし始めた。周囲に聞こえるほどの声で。

「マジ……どうしようもないって……えー」

 二十歳前後の学生らしき佇まい。スマートフォンをじっと見つめ、いじりながら、小声でぶつぶつと呟く。挙動に不安がみてとれる。そのとき。

「おほん! おお、おほん」誰かが聞こえるように咳払いした。朝からうるせぇぞ、という意思表示だ。

 結果、彼女は声を出さなくなった。けれど香坂の視線に気づいたらしく、こちらに振り向き、やばいっスよこれ、やばいっスよと唇だけを動している。助けを求めているのだろうか。表情は悲壮そのもので両の眉と目頭が強く寄せられていた。そういえばサービスエリアでのトイレ休憩で乗り降りしているときから、彼女の顔は何かに似ているけれど、何だろうかと香坂は夜通し考え続けてきた。そして遂に脳裏が一閃する。

 般若。般若だ。般若のお面にそっくり。

 香坂は無言で般若と対峙していた。目がずっと合っている。何がやばいのかまるで見当はつかない。けれど凄い形相だから反応しないのも気まずい。

 香坂はあえて声を出さずに口だけを動かして返答した。

「(失礼ですが、何かに似てるって言われませんか)」

 彼女はうんうん、と激しく縦に首を振った。たぶん通じていない。

 やがてバスが停車する間際になり、彼女はボストンバッグを抱えて席を立った。香坂と同じ〈新宿駅東口〉で降車する構えだ。

 ところが——降車は許されなかった。般若の不安は的中していた。

「駄目ですよ」

 乗降口の外に降り立った運転手は、ドアのステップに佇む女性客に対し、開口一番叱責した。「そういう決まりですから」

「だって、仕方なくないですかっ」

 般若女はむくれている。「ケータイが調子悪いんだもん」

 どうやら電子チケットが表示できなくなってしまったらしい。乗り降りに紙の切符ではなく電子チケットが運用され始めて間もないが、長距離の高速バスでは電車と同じで降車駅ごとに料金が異なるから、乗車時だけでなく降車時にもスマホでのチケット表示が求められる。表示できなければ無賃乗車。短い距離の料金を払って遠くまで乗ることが許されるはずはない。

「チケットが表示できない時は、この路線での最長料金を払っていただく決まりです」運転手は厳しく言った。「現金、お持ちじゃないですか」

「酷っ」女はドアのステップにしゃがみこむ。「お金ないから高速バスなのにっ」

 香坂はその背後に立ってやりとりを聞きながら、助け船を出そうと決めた。

「あのう、ちょっといいですか」

 運転手と若い女、双方が困惑した顔でこちらを見る。

「僕、総務省の職員なんですけど、そのスマホ見せてもらっていいですか。解決できるかもしれないんで」

「時間、あまりないですよ」運転手が冷ややかに言った。さっさと払ってくれ、という面持ちだ。

「三分もあれば」

 香坂は不具合の原因におおよその見当をつけていた。深夜の休憩時間、サービスエリアで一同が乗り降りした時、彼女がディープにスマホをいじっていたのを見た記憶がある。

 見知った機種ならば、やりようはあった。

 香坂はバスのステップに腰掛けると、ショルダーバッグからノートPCを取り出し、女のスマホとケーブルで手際よく接続する。

 やっぱりだ。「乗っ取られてますね」

 女が言った。「なんですか、それ」

「途中、サービスエリアで不審な電波が飛んでいたんです。無料の無線LANスポットがあったでしょ? あれ、下手につなぐと逆にスマホが乗っ取られちゃうやつ」

「あ」女は心当たりがあるという顔をした。「嘘……そんなに怖いものなんです、か」

 案の定である。通信費の捻出に苦労している学生、無料という言葉に惑わされる庶民。お金をセーブしようとするから騙されやすい。リテラシーが低くて、だからこそ怖い物知らずで、ありがちな罠と相性がいい。

「タダほど高いものはないって、言いますよね?」香坂は淡々とキーを打つ。

 駆除ツールを持ち合わせていたおかげで、作業には一分もかからなかった。

「はい。アプリ、起動してみてください」

 こうして女性客は電子チケットの表示に成功して無罪放免となり、香坂と二人で発車するバスの後ろ姿を見送った。事なきを得た彼女は感心することしきりである。無料の無線LANスポットには気をつけます、と言う。表情もやわらかい。

 しかし香坂は決まり文句を告げた。「この機種は東京だと条例違反になるから、買い換えてください。その方が安全なんです」

 すると若い女は溜息をつき、眉を寄せ、再び般若面を披露した。条例、という単語に反応したのだろう。世論はアンチで大合唱中だから無理もない。


——ネット新法は世紀の悪法! そのモデルケースとして全国に先駆け条例施行に踏み切った東京都知事は悪魔!

 

 だから「あなたは私を助けてくれたナイスガイ、だけど都条例の味方ならやっぱり敵認定」といわんばかりの般若面にもうなずける。

 しかし言わねばならない。相手が般若面だろうとおかめ面だろうと。

 香坂は自らを奮い立たせた。

「検定合格品なら、こういうトラブルは発生しません。妙な無線スポットにつなぐことができない。代わりに国有の無線スポットへ自動で接続します。あ……僕、電網庁の職員なんです。新条例、世間ではとやかく言われてますけど……あなたのような人を守るためにあるんですよ。わかってください」

 まだ罰則はありませんし、国から補助金も出ますし——などとごたくを並べ、やがて一人の若き公僕は、さっそうと踵を返した。

 ちなみに香坂一希はハッカーである——公僕である前に。



 公務員ほどハッカーと矛盾をきたす職業も珍しい。公務員はオープンかつ潔白でなければならず、一方のハッカーは閉鎖的でモニョモニョゴソゴソと怪しいのが常である。「ハッカーを犯罪者のような目で見るのは大きな間違いで、悪意のあるハッカーのことはクラッカー、あるいはブラックハットと呼びましょう」などと主張する輩もいる。「現代の子供はハッカー的な資質を磨くべき」などと推奨する風潮もある。しかしいずれもハッカーの本質たる〈反社会性〉に蓋をしている、と香坂は感じる。ハッカーは犯罪者でないにしろ、およそ社会的な存在とは言いがたい。

 たとえばプログラマ(おおむねハッカーとはプログラマだ)業界には「くだらないと思う仕事には一切手をだすな」という格言がある。まったくもってその通りと香坂は納得する反面、これを公務員にあてはめれば国家は明日にも転覆すると思う。また「ハッカーの能率を上げたいなら、他の社員がいない時間に出勤させるか、自宅でやれと命じるべきだ」という名言もある。これを公務員に当てはめると、昼の間ずっと市町村役場のシャッターが降りることになる。というわけで、ハッカーは協調性を犠牲にしてのみ成立する存在だ。いや、ハッカーはハッカーとはつるみたがるから、一般人との協調について絶望的というべきか。いずれにせよ公務員とハッカーは、まことに、途方もなく相容れないのである。

 翻って、公務員の道を選んだ自分はどうなのか? こと「電網庁」に限ってのみ、ハッカーであり続けることが可能だと香坂は結論している。民間企業を束ねて発足した画期的な組織。開発局という部署を持ち、大量のエンジニアを雇用している。きっと有能なハッカーがごろごろいる——筈だ。明日の初登庁が心底待ち遠しい。

 ところでハッカーにはいろんな敵がいる。協調性を強制してくる連中、なかでも「母親」という生物はかなりの難敵だ。詮索好き。常識を振り回す。自宅から通う学生ハッカーの分際では、食事のバランスからガールフレンドのチョイスまで微に入り細に入り意見され、連戦連敗を余儀なくされた。社会人になり独立してからも、電話や電子メールを駆使して情報戦を挑んでくる。もちろん恩義も愛情も感じるわけで、それがなおさら難敵を難敵たらしめている。

 というわけで、母親との長電話はハッカーにとって丁々発止の勝負事。暇と体力がたっぷりあるときに限り、香坂は電話するよう心がけている。

 この日は歴代最長記録を更新する勢いがあった。通話開始時刻は、香坂が高速バスを降りた朝六時十五分。

「事故? ……あのな、お母さん。どっかで夜行バスが事故ったからいうて、夜中の三時に電話してもそら出ぇへんよ。寝てるって。死んでへんわ。アホな。修学旅行のバス? 高校生? ……母上、僕は大学まで出た立派な社会人ですよ。イエス、立派に生きておりますとも」

 母親は夜通し起きていたらしく、電話口であれやこれやとバス事故の事情を並べたて、息子の感度の悪さを非難する。

 香坂はやむなく応戦した。「無理いわんといて。僕かて知らんニュースぐらいあるよ」

 ついでに手持ちの携帯電話では、通話は許されるがネット接続が許されないという事情を話した。ネット新法。都条例。機種変更の義務。世間は悪法と批難するけれど自分は監督する立場に着く。だから衿を正す必要がある。人前でニュースサイトを閲覧するのは憚られる、云々。

「……そう。ケータイ今日中に買い換えるつもり」

 スーツケースを転がしつつJR新宿駅前を歩くうちに、報道番組を映し出す大きなディスプレイが香坂の目に留まった。

 ヘリから撮影されたらしき大惨事の空撮映像に、人だかりができている。だからその輪に加わった——というより。

 足がすくんで動かない。

 高速道路の料金所が黒こげ。道路上にも痕跡が禍々しく広がっている。加えてテロップがおぞましい。修学旅行生五十六人死亡の文字が鮮烈で、震えがくる。と同時に、息子が乗った夜行バスを心配せずにいられない母親の気分を察することもできた。

 その当人は電話の向こうでテレビのチャンネルを次次と切り替え、パソコンのブラウザでインターネットを飛び回り、最新の情報を息子の耳に流し込む。香坂はラジオ感覚で京都弁の実況中継に耳を傾けた。ワイドショーと二時間ドラマ仕込みの鋭い分析力は、あなどれないと思うからだ。

 その頃になってようやく、無難に迎えられた東京の朝に感謝した。



 親子の問答は断続的に三時間以上も続いた。何度切っても、事故にまつわる新情報を手に入れるたびに母親は電話をかけてくる。秋葉原に着いた九時半頃には合計で六本目。

「新幹線? ……バスの方が全然安いからバスでええよ。は? あのね、おたくの息子はケチじゃないんですよ。洋服代がかさむの」

 社会人成り立ての分際でお洒落が過ぎると叱咤されれば、老舗呉服屋の二男坊として産んだのはそっちだろうと切り返す。そうこうするうちに目前で電器店のシャッターが開き始めた。

「京都・東京間、深夜バス路線万歳。これからも僕はバス党です。というわけでバスの件はおしまい。とにかく息子は無事やから。はい、言ってみて。おまじない。む・す・こ・は・ぶ・じ。元気ですから」

 その時、視界に飛び込む特売品の液晶テレビが新事実を報じた。

——猪川いかわ国土交通大臣の長男、バス事故で死亡。

 途端、同じ文字を視界におさめたであろう母親が電話口で再起動する。切るタイミングを失った香坂は、携帯電話を耳にあてがったまま店内を練り歩いた。

「はいはい。確かに息子は無事じゃなかった。でもね、お亡くなりになったのは貴方のじゃなくて余所ん家の息子さんやで……何?」

 展示されるテレビのほとんどが、屋外でマイクを手にするレポーターを映し出している。関係者の自宅前から中継しているらしい。大邸宅の主は、どうやら国交大臣だ。

「……関係ないです。おたくの息子さんはね、総務省に入省なさったの。国交大臣なんて顔も知らんわ」

 やがて画面が切り替わり、霞ヶ関の高層ビルが大写しになった。

「……はぁ。確かに国交省と総務省は同じ庁舎に入ってますけどね。合同庁舎二号館。詳しいなぁ奥様。詳しすぎ。誰に聞いた? はぁ、おたくの息子さんですか。そんなこと教えたかなぁ……え? 僕は映らへんよ。映らないですって。今日は出勤しないから。明日? 明日も映りません。地下鉄の駅から庁舎に直でつながってるからね。正面玄関は通らない。え? …………しないしない。テレビ出演まったく興味ないし。あのねお母様、電話で東京の息子を遠隔操作して、テレビに映そうとするのやめましょ」

 そんな会話を交わすうちに、赤いジャンパーを羽織った女子店員と目があった。その途端、香坂は自分が何をすべきかを思い出した。携帯電話の新調、それが目下最優先のミッションだ。手近にあったモックアップを指差して、これが欲しいとアピールする。別の機種を勧めようとする店員に、そっちは嫌だと首を振る。その間も通話は途切れない。

(まずいぞ)

 香坂は苦笑いした。きっと自分は電話しながら電話を買おうとするマヌケな男だとみられている。もしかしたら何度も「お母様」などと口にしたのを聞かれたかもしれない。冗談のつもりであっても他人の耳に入ればマザコンっぽく響く。そう分析した途端——恥ずかしさがこみあげてくる。

 今から機種変更するのでもう勘弁してくれ、と電話の向こうに頼み込む。丁重に。ぞんざいに扱うと後で面倒な事になるからだ。

 契約カウンターで対面する女子店員の視線が痛い。だから電話を切った直後、つい言い訳が口を突いた。「いやぁ、たいへんですよね今朝は。バスがね。事故が」

「あの……」女子店員は首をかしげつつ、微笑んだ。「身分証明書と、電網免許証の提示が必要なんです。都条例をご存知ですか?」

「ああ、はいはい」

 香坂は財布から運転免許証を取り出して置くと、さらに首からぶら提げていたカードホルダを差し出した。

 女子店員が表面を機械でスキャンする。

 ぴっ、と音。

「わっ……で、電網二種をお、お持ちですね。契約回線数も……資格の範囲内。確認が取れましたのでご希望の機種に変更可能です」

 東京都では条例に基づき、携帯電話の契約には運転免許証等に加えて、国が定めるインターネット利用資格の提示が必要となった。いわゆる「電網免許証」。五種から一種までランク分けがあり、香坂は二種を有する。

 国民の平均は四種もしくは三種。二種保持者は希だから驚かれたらしい。

 女子店員はコンピューターに手際よく入力しつつ「電話帳データの転送はどうなさいますか」と尋ねた。

 ところが当の香坂は展示品のテレビに気を取られている。バス事故で死亡した高校生たちの両親や兄妹が泣きじゃくる映像から目が離せない。とても優しい子でした。昨日電話で話したばかりなのに。そういったコメント一つ一つが、絶叫に近い嗚咽と混ざりあって耳に届く。沈痛な響きに心を奪われる。

 女性店員の沈黙に気づいて、香坂は慌てて姿勢を正した。

「あ、いいです。いや……やっぱりお願いしようかな」

 どこか優柔不断な答え方になった。だからだろう。

「あの……私ではなく、電網三種を保有してる社員が担当しますのでご安心ください。責任を持って作業させていただきます」

「は……? ああ、いやいや」誤解を招いたらしい。「そういう意味じゃなくて……」

「二種って凄いですね。持ってる人、初めて見ました。私なんか四種で、四種も一回滑ってますし、三種は二回受けて二回滑っちゃって、友達に高額納税者とか言われてて……ほら、受験料って馬鹿にならないじゃないですかぁ」

 香坂は返答に困り頭を搔く。たかが電話帳データの転送ぐらいで店員の技量を疑うわけがない。けれど東京では——妙な空気になる。誰も彼もが免許証をにらみ、何が許され、何が許されないか思案する日常を強いられている。

「勘違いです。疑ったりしてませんから。全っ然」

 香坂は必死に取り繕った。女性に卑屈な態度を取られることが大の苦手である。特に頭の良し悪しを引き合いに出されると、至極面倒に感じる。

「作業に三十分ほどお時間をいただきます」

 そう言って切なそうに微笑む女性店員に、香坂は精一杯の笑顔で応じた。

 口角をあげる。作り笑いは得意技だ。



 観光バスの件は一大事だが、自分としては新条例の浸透具合が気になるところ。しかもおあつらえむきの場所に来ている。香坂は量販店を出ると、暇つぶしがてら秋葉原の電器街へと繰り出した。

 やっぱりだ。街に変化がある。あちこちで「閉店」の二文字が踊っている。

 法に基づくネットリテラシーの序列化——電網免許制。モルモットに選ばれた東京都。新条例はあらゆるネット利用に電網免許証の所有を義務づける。パソコンや携帯電話に免許カードをかざし、認証プロセスを経て使う仕組みだ。つまり電網免許の存在意義は「パスワードの代用」にある。長ったらしい呪文を忘れたり、安易に生年月日を流用するといったリスクが減る。と同時に認証プロセスに対応する「公認機種」への買い換えが必要で、世間は賛否両論分かれている。実のところ補助金が支給されてユーザーの懐はさほど痛まない。国産メーカーや量販店は需要喚起を大歓迎。泣くのは海外メーカーと、中古業者だ。結果「売り尽くしセール」さえままならず「閉店」の二文字がアキバの街を彩った。新条例のせいで、電子機器の流通事情が一変したのだと思い知らされる。

 香坂は店舗を梯子しつつ、新しいスマートフォンに見合うケースを物色したが、衝動買いを避けたいと考えて手近なカフェに立ち寄った。品物の人気度や相場感はネットで調べておきたい。携帯電話が手元にないから、パソコンの出番だ。広々とした二階席に腰を据えてバッグから最新型のノートPCを取り出す。と——その時。

 どこかから号泣する女性の声が聞こえた。例の件を報道するテレビの音声らしい。

 出所はすぐにわかった。すぐ隣に座る中年サラリーマンが自分のノートパソコンを眺め、すすり泣いているからだ。耳にイヤフォンをしているけれど、よくよく見るとケーブルの先端、コネクタがパソコンの出力ジャックから外れている。感極まりすぎて引っ張ってしまったのだろうか、瞳をうるませ、のけぞるように天井を仰いでいる。

「あのう」香坂は話しかけることにした。「音が漏れてます……よ」

 すると中年サラリーマンは香坂の方を一瞥し、微かに鼻水を光らせながら、赤く腫れた目をさらに大きく見開いた。慌てた様子で、ばたりとノートパソコンを閉じる。

「ず、ずびばぜん」すみません、と言いたいらしい。

「いや」香坂は言った。「別に、パソコンでテレビを観るなってんじゃないんです。音が……」

 ところが中年男の動きは止まらない。とても分厚いパソコンをそそくさとバッグにしまい込む。終始小声で謝りながら。そして涙をすすりながら「ええっ、えっ、ず、ずびばぜん」

「いや、ちょっと」責めたいわけではなかった。「そうじゃなくて。あの、パソコンがね」

 男はぶわっ、と涙を噴射した。「バゾゴンがずびばぜん」

「は? ……いや、じゃなくて」

 逃げるように立ち上がる号泣男。

 ほどなくして香坂は会話が噛み合わない理由に思い当たった。

(そういうことか)

 中年男のパソコンは、かなり古い機種。一方で隣りの自分がテーブルに置いたパソコンは最新機種。どうやら男は公認機種への買い換えが済んでおらず、人前でのネットサーフィンが憚られるらしい。

(条例違反……です、か)

 もしかしたら、誰かに注意された経験があるのかもしれない。都庁や区役所の職員、あるいは自分のような電網庁の役人だろうか。

 やましい気分があるのなら放っておいて問題ない、と香坂は思う。年が明ければ行政処分が待っているけれど、今はまだ猶予期間。

(年末のボーナスは投入してください、ね)

 憐れみの目で男の背中を見送ると、香坂はあらためて胸下にさげたカードホルダを掌に取り上げた。ノートPCのセンサーに電網二種の免許証を押し当て、「香坂一希」としてログイン。OSが自動的に無線アクセスポイントを探し始めた。やがて——接続。液晶画面に「ようこそASKQAアスカへ」の文字列が表れる。

(スピード結構出てるぞ……さすが秋葉原)

 条例の施行に先立ち、国内のインターネット接続事業者(ISP)はすべて電網庁へ統合され、無線LANのアクセスポイントは「ASKQAアスカ」に一元化された。公認ハードウェアは免許証を認証後、自動でASKQAだけを探し、接続する。自動接続しか許されないので、リテラシーが低い国民であっても、まがいものの無料スポットに騙されてマシンを乗っ取られるという危険がない。

 香坂はWebをチェックしつつ、真向かいに座る親子をそれとなく観察した。

「ちぇ、東京めんどくせぇ」

 野球帽をかぶった少年がふてくされている。自前の免許証——おそらく最低ランクの五種——にノートPCが反応せず、腹が立つらしい。

「あんたが好き勝手にゲームできないよう、できた仕組みなのよ」

 隣の母親が自分の電網免許証——四種以上——をPCに押し当て、認証を済ませてやった。「三十分だけよっ」

 小学生は五種止まり。五種はネット機器を一人で扱えない決まりだ。四種持ちの承認および監督が必須。

 少年は口を尖らせつつ、キーボードを叩き始めた。

「三十分!? えー短いって……バッテリー二時間は大丈夫だよ?」

「家に帰ってからにしなさい」

「じゃ帰ろ。すぐ帰ろ」

「ダメよ。折角東京まで来たのに」

「えー帰りたいぃいい」

 夏休みに入った千葉あたりの小学生が、ゲームほしさに親をせかしてアキバへやってきた——という風情。

 この四月から関東六県で電網免許試験の受験が可能になった。都民でなくともアキバに関心があって、早々に免許を取得して公認PCまで購入したのだとしたら、さっきの中年男性に比べて感度の高い親子といえる。

「じゃ、ママだけ買い物行ってきて。ここにいるから」

「ええ!? ……うーん」

「僕いないほうが楽しいって。どうせ池袋行くんでしょ。韓流スターの、パだかピだかのショップに行きたいって」

 母親が少年の頭を小突いた。「お父さんと同じ言い方すんじゃないのっ」

「なんだっけ名前。プだっけ? ペ? ポ? パ……ピ……」プの時に少年はひときわ輝いた笑顔を見せる。

「その笑い方、お父さんそっくりでマジ腹立つわ」

 そんなやりとりの後、あろうことか母親はハンドバッグを抱え、一人でカフェを出て行った。残された少年は嬉々としてゲームに興じている。

 子供が一人でゲームに興じることに問題はない。問題があるのは、それが「ネットに接続可能な機器」であり、「認証したのが大人」であるということだ。子供の利用を想定したポータブルゲーム機などは五種免許での利用に対応しているが、一般のPCは対応しないものがほとんど。成人女性で認証したPCという比較的自由度の高いネット環境を、そのまま小学生に与え好き勝手させる。この状態ではワンクリックで——母親名義で——買い物もできるし、成人向けのサイトへの進入も可能となってしまう。

(こっちも条例違反、だよなぁ)

 香坂は少しばかり躊躇して、しかし後を追いかけるべく荷物をまとめ立ち上がった。注意すべきは少年ではなく母親の方だ。自分が配属された電網庁はインターネット接続法——いわゆるネット新法——の監督官庁。都条例はその試験運用であり、電網庁職員は都庁職員の手本を勤めなければならない。つまりこの状況を看過できない。

(正式な配属は明日だけど……注意ぐらいはすべきだよね)



 カフェを出ると、母親が二軒先の店に入るのが見えた。書店だろうか。香坂も後を追い、小走りで飛び込む。

 あそこだ——一番奥の棚。

 旅行ガイド本が並ぶあたりを物色する母親を見つけ、香坂は息を整えて近づいた。

「……あのう」声をなるべく絞る。「さっきカフェで、お子さんとのやりとりを拝見したんですが」

 母親は声に反応して振り返ったが、こちらを指差し、何故か素っ頓狂な声をあげた。

「ああ!? あれっ!? あはははっ」

 爆笑された。初対面で。

 香坂は困惑する。自分は若輩者だ。けれど赤の他人に指を差されて笑われる筋合いはない。

 腹を立てながら言った。「真面目に聞いてください……あなたの息子さんが」

 あなたの息子さんが四種の認証を必要とするPCで遊んでいるというのに、放置はいけませんよ。条例違反だ。そもそも母親っていうのは物わかりがよくちゃいけないんだ。ゲームは家に帰るまで我慢させるべきです。息子に鬱陶しく思われ、反抗期はババァだの何だのと罵詈雑言を浴びせられて、それでもおせっかいで口うるさいのが母親という生き物です。息子という生き物はそれを疎ましく思うけれど、実は小言が耳に残っている。口はばったいから礼こそ口にしないけれど、本音では感謝していたりするもんです。だからこそ健全な親子だといえるんだ。友達同士のように振る舞うのは、大人になってからで遅くはないんですよ——。

 憤るあまり、そこまでまくしたてる勢いがあった。ところが。

 考えていることの半分も口にできない。

「あなた、ほらっ」母親は聞く耳を持たないほど興奮している。

 よくよく見ると、彼女が指を差しているのは自分ではなく壁に貼られたポスターだ。「これ。これの人!?」

 香坂は壁をにらんで——絶句した。

 和服に身を包む男の写真が、旅行ガイド本のポスターにあしらわれている。笑顔で京都へ誘っている。

(うわっ……まずっ)

 間違いない。自分だ。

 子供の頃から大学時代まで実家の手伝いで呉服モデルを続けてきた過去が、ここへきて邪魔になるとは思いもよらなかった。

「え、ええと」即答できない。したくない。だから、どもる。

「でしょ!? この人でしょ?」母親は追求の手を緩めない。

「あう……うあ」ダメだ。認めるべきじゃない。

 自分は公僕として彼女を注意するつもりなのだ。しかし呉服モデルだった事実を認めて、それから注意しようものなら、京都に対する心象を悪くするかもしれない。迷惑をかけそうだ。そいつは本意じゃない。困った。ああ、困ったぞ。

(顔を晒すとは、こういうことか……!) 

 香坂の思考回路は見事に動作不良へと陥った。プログラミングでいえば競合コンフリクト、そして膠着デッドロック

 頭を冷やせ――そう思って背を向ける。

 店内をうろうろすれば、いい考えに至るかもしれない。もちろん母親を取り逃がすかもしれないけれど、混乱したまま責任を果たせるとも思えない。

(くそっ)

 腑が煮えくりかえった。立ち去る理由などまるでないのに、逃げてしまった自分にも合点がいかない。だけど。

 土壇場で行動「しない」のが香坂一希だ。「石橋を叩いて」も「渡らない」。「急いては事をし損じる」と思う。

(畜生っ)

 香坂は少しずつ歩くスピードを落とした。書棚を縫って学術書のエリアへ飛び込む。

 コンピューター関連書籍の棚は精神安定剤がわりになると思うから。

 ところが。

 そこでは女子高生が一人、手にした参考書を開き、携帯のカメラで写真を撮っていた。

 いわゆる「デジタル万引き」。その現行犯を目撃してしまった。

(おいおい、こっちも条例違反じゃないか)

 ながらく法的にお咎めなしだった書店におけるマナー違反も、今は規制の対象である。女子高生は青年の乱入に青ざめた。直後、逆恨みするように強く睨み付けてくる。まるで更衣室を覗き見られたかのように。

「君……」香坂も頑張る。今度こそ注意しようと思う。けれど。

 またもや絶句した。

 彼女が手にしているのは電網三種の受験参考書。三種はネットの商行為に必須とされる資格で、就職には有利。高校生が志すのも当然である。つまり彼女は四種持ちだ。なのに、よりによって三種の参考書をデジタル万引きするとは! 発覚すれば四種から五種に格下げされる。条例が定める資格ほしさに、条例違反を犯すなんて間抜けな発想。本末転倒。愚の骨頂。

 はっきり言って頭が悪い。

 そうだ。頭が悪いよ——そこまで考えて、言葉に窮した。

 女子高生の瞳に「あの色」が見えるのだ。二十余年の人生で、幾度となく感じてきた「拒絶の色」。


——頭の悪い人間の気持ちなんて、香坂君にはわからないよ


 そんな殺し文句を発する間際の瞳。

 暗くどんよりと濁ったまたたき。

 だから香坂は躊躇した。「君……え……ええと」

 しどろもどろの青年を女子高生は眼力で牽制し、平積み本の上に参考書を無造作に放った。くるりと背を向け、無言で立ち去る。

 香坂は肩を落とした。こうも次々と違反者を追いかけていては、こっちの身体がもたない——などと、心の中で言い訳を唱えながら。ふぅ、と溜息を一つ。それから参考書を拾いあげて、棚の正しい位置へと戻した。



 その後、香坂は携帯電話を受け取るべく電器店に向かって歩いた。歩きながら空振りのまま書店を出てきた自分を深く省みた。資格という二文字の魔力は恐ろしい。良い方へも悪い方へも作用する。資格を持てば他人に認められ、資格を取りたいから努力もする。それは良い作用。逆に資格を持たない人間を愚弄したり、資格を取りたいが為に不正を働くヤツも現れる。それは悪い作用——そんな風に、免許制のメリットとデメリットを考察して歩く。

 電器店に着くと、携帯電話の受け取りカウンターへ向かう。途中、こちらをちらちらと見る女子店員たちと目が合った。一人は自分の応対を勤めた娘で、すぐに動きだし、商品の支度を始めている。

 どうやら噂されていたらしい。

(二種持ちがよっぽど珍しかったんだろうな……)

 電網庁はウェブサイトを公認と非公認に区分けしており、三種以下には公認ドメインへのアクセスを義務づけている。いわば国内限定免許。二種にはその制限が課されず、たとえば海外のギャンブル系サイトにもアクセスできる。車の運転免許で例えるなら公道とサーキットほどの違い。

 もちろん二種試験は難関だ。と——そこまで考えて。

(……自意識過剰だよ)

 香坂は自らを戒めた。グーグルやツイッター、フェイスブックといった海外の有力サービス事業者は、ほとんどが電網庁の公認を得るべく「~.askqa.jp」のドメインネームを取得し終えている。もはや公認サイトだけで日常生活は事足りる筈だし、そうあるべきだと電網庁は業界各社に働きかけ、手を尽くしてきた。なのに自分が二種持ちだからと鼻を高くしていたら、公認サイトでは不足だとアピールするようなものだ。

 加えて敗北感もある。実のところ香坂は「電網一種」を取得済み、明日には免許証が交付される身だ。一種は電網庁職員の資格。相応の義務が課され、たとえば街中で条例違反を看過してはならない。なのに、なのに自分は朝から何人も見過ごした。初登庁の前日という言い訳は可能だ。でも——正直、呆れている。二種を持ってるからといって、今は堂々とできる気分じゃない。

 香坂は女子店員から真新しい携帯電話を受け取ると、カードホルダをこれ見よがしにせず、あえて掌に深く握りこみ、あてがった。

 ぴぴっ、と音。

 認証プロセスが完了、液晶画面にメッセージが表示される。「ようこそASKQAへ」の文字列。自動接続が完了した証だ。

「電話帳データ、確認していただけますか」店員が微笑む。

「ああ、はい」そう答えつつ、香坂は掌に着信音を感じた。 

 電子メールが——1件。


  差出人:UNKNOWN 

  件名:(無題)  

       組織に尽くせるか? 


(アンノウン?)

 差出人に見覚えがない。なのに文面はタイムリーだ。

(組織に尽くせるか……組織って、電網庁のことか?)

 今の自分が「組織に尽くせる」だろうか。香坂は顔をしかめた。

(誰がよこしたんだ、これ。スパムメール? ……とも思えないし)

 カウンターの向こう側で件の女子店員が沈黙している。

「あ、えーと」香坂は慌てて言った。「電話帳データでしたね、電話帳……っと」

「はい……」

 客の剣幕が怪しくて固唾を飲む女子店員。彼女の瞳に「あの色」は浮かんでいなかった。書店で遭遇した女子高生の、射すような視線に現れていた、あの色——「拒絶の色」。


——頭の悪い人間の気持ちなんて、香坂君にはわからないよ


 香坂は女子店員に向かい、強引に口角を持ち上げて言った。

「電話帳データ、大丈夫っぽいです。ありがとう」

 ひきつった笑顔は呉服モデルで身についた癖だ。相手の印象を良くしたい時の常套手段であり得意技。日常を護るための、好感度という隠れ蓑。

「あ」女子店員が唐突に言う。「誰かに似てるって言われませんか、お客様」

 まさか。香坂は青ざめた。ただの学生バイト、地方のしがない呉服モデル風情が、東京で有名だとは思えない。思わない。思いたくない。

「に……似てませんよ」

 こいつはきっと祟りだ。朝っぱらから困り顔の女性をつかまえて、般若面に似ているなどと思ってしまった、アレのせいだ。バチが。きっとバチが当たった。すいません。ごめんなさい。よくわからないけど、ごめんなさい。





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