(二)(三)(四)(五)

港区



(二)


港区:赤坂:夜



 常代有華つねしろゆかは飛ぶように歩く。走っているわけではないし、慌てているわけでもない。けれど足どりは普通の人間よりも速やかで、有華を知る誰もが彼女を俊敏な動物に例える。猫、あるいは豹。獲物を求める今は、さしずめ猟犬だ。

 獲物とは——女二人分の「軽食」である。

(確か、おにぎり屋があったよね)

 車の中で上司の帰りを待つ、などという仕事は性に合わない。監視カメラの画像をじっと眺めている、なんて役どころにも欠伸が出る。買い出しはむしろ望むところだ。高揚感で自然に腿が上がる。

(おにぎり、おにぎり)

 今日は場所が場所だけにますます回りが止まって見える。東京ミッドタウンなどという、都内でもとびきり落ち着いた格調高いショッピングモール。価格設定が変態的に高く、従って忙しそうな客が一人も見当たらない。ニューヨークで予約が取れない有名レストランの姉妹店だの、明治に創業した黒毛和牛処のプロデュースによる鉄板焼だのが並び、千円以下でランチを食べたい庶民をビル全体が拒んでいる。ラーメンが千八百円と聞いただけで有華としては願い下げである。それでも此処で買い出しせざるを得ないのは、霞ヶ関の官公庁が東京ミッドタウン、要するに「旧防衛庁跡地」を重要な会議やカンファレンスの開催地として推奨するからだ。

 有華はガラスの壁や奇抜なオブジェに彩られた真新しい地下街を真っ直ぐに突っ切り、比較的安価なショップが並ぶエリアを目指していた。

 ガレリアと呼ばれる区域と、プラザと呼ばれる区域。その二つをつなぐ通路沿い。

(あったぞ)

 コンビニのおにぎりとはひと味違う価格設定が目に飛び込む。まぁいいよ、領収書もらうんだし……と列に並んだ矢先、有華は視界の片隅にイレギュラーな挙動を示す物体を認識した。

 落ちる。

 落下する何か。

 母親に抱えられている五歳程の幼児、その手が滑り、重力に引かれた何か。

「おわっ」

 有華は動きも機敏ながら、動体視力は常人を遥かに超える。だから咄嗟に脚が出た。足の甲が見事に落下物を捉え、蹴り上げる。

 子供が「あっ」と声を出すより早く、それはぽんと跳ね上がって、有華の手に収まった。

「あら」有華が目を丸くする。

「あらら」同じく母親も目を丸くする。

 掌に収まっていたのは、まごうことなき米粒の塊。醤油で味付けられた鰹節、いわゆるおかかにまみれ、元はおにぎりだっただろうことが微かに理解できる。

「あっちゃあ」

 有華は笑った。「ごめん。蹴っちゃったぁ。手でキャッチすればよかったね」

 母親が申し訳なさそうに頭を下げる。でも、有華には自分が悪いという認識しかない。足なんて出すからアウト。こういう時は手。うん、手じゃなきゃ。バレーボールでもやってりゃあ、回転レシーブぐらいできたんだろうに。

「すごいですね、でも」母親は改めて言う。「フットサルでもやってるんですか」

 有華は笑った。「やってないっス。てか、手も結構速いはずなんだけどなぁ。へへ、次こそ絶対、手でとるから」

 元レーサー、などという身の上は話さなかった。一般の女性を相手に盛り上がる話題ではないとわきまえている。仮に相手が男性で、しかも十代の自分が華やかに活躍した筑波サーキット時代を偶然知っていたりしようものなら、なおさら昔話はしたくない。女の子のサーキット通いは珍しいから面白い話題には違いないだろう。けれど一から十まで楽しいエピソードばかりじゃない。

 もしもそうなら、カーレースの道を諦めていない。

 こんなところでおにぎりの買い出しなんか、してるはずがない。



 小振りなサーキットで子供向けのカートレースに興じる少年少女は珍しくない。けれど女の子は男兄弟についてくるケースがほとんどで、だから男兄弟もしくはその男友だち連中に勝てないと悟った途端、辞めてしまう。有華のように同世代から上級生までことごとく男子をなぎ倒し続けたケースはごく希で、キッズカートからジュニアカートまでトップで駆け抜け、見事ジュニアフォーミュラへ昇格、十六歳で大人に混じり本格的なサーキット参戦を果たした天才少女の存在は、こと筑波に限って言うなら十年に一度あるかないかの珍事であった。華々しい活躍が業界を大いに湧かし、自動車アイドルとして常代有華という名前は親爺共の記憶に深く刻み込まれた。その後、訳あって彼女のレース人生は十八歳で幕を閉じ、それからすでに五年がたつ。とはいえ人生の大半をガソリンとオイルにまみれ、百分の一秒単位で凌ぎを削ったたちだから、車を離れても身のこなしには並外れてキレがある。格闘技も球技もダンスも経験は皆無。けれど元来器用だからやってできないことはない。子供の落としたおにぎりだって、巧くキャッチする自信がある。食事に気を遣う癖があるから、太りすぎたことも痩せすぎたこともない。今も体重はプラスマイナス100グラムをキープ。筋肉の質、脂肪の量、すべてがバランスよく調和していると思う。

 けど。だけど、これだけは残念。

 やっぱケツ痛ぇ——じゃなくて、お尻が痛い。

 東京ミッドタウンの地下駐車場に舞い戻って車に乗り込むや否や、有華はバケットシートの座り心地に限界を感じた。身体がシャープだと尻に脂肪が足りない。だからシートがボロだと痛みに耐えられない。本革張りといえど新車の頃から二十年は経っている。業者に頼んでリフレッシュさせるか、安物でいいから交換したい。でもこのオンボロ英国車には、もっと急を要する機械的なトラブルがある。だから——

(我慢だ、有華)

 お尻の下に両手を差し込んで、もぞもぞしつつ、有華は運転席から後部座席に声をかけた。

「おにぎりとお茶。ゲットしました。コンビニのじゃないからね。ミッドタウン仕様の高級おにぎりだぞ」

 車は四人乗り。座席の前後は暗幕で仕切られている。

「猪川大臣の息子、殺されたんやな」幕の向こう側から聞こえてくる声は、低くくぐもっていた。「酷い話やで」

「え、バスの件? ……それマジっスか。事故じゃないってこと?」

「たぶん」

「ってことは、他の五十五人は巻き添え?」

 暗幕から頭を出してGEEギィがそっけなく言う。

「要人の息子だけを殺すより、五十六人まとめて殺したほうが効果的って判断やね」

 またそういう言い方を——。有華は頬を膨らませた。はっきりものを言う人間は嫌いじゃない。でも他人が聞いたら悪玉認定されそうな発言は控えるべきだ。特にGEEはコテコテの関西弁。東京では怖がられてしまう。

「効果的って言い方、ダメっすよ……ギィさん。だいたい、何にどう効果があるのか、アタシにゃよくわかんない」

 不謹慎だと思いつつ、有華は女ハッカーの真意を測ろうとした。裏社会に通じてきた経験、犯罪の嗅覚は頼るべきだと思うから。

「ウチらを困らせるのに効果的ってこと」GEEは笑う。

「うっそ。電網庁を困らせるために、高校生が五六人死んだって言いたいの?」

「わからんか? ほな国交大臣が今夜、このホテルに来るか来ないか賭けよ。ナンボ張る?」

「えー、賭けるとかやだ」

 GEEは暗幕を跳ね上げ、ノートパソコンを有華に差し出した。「ほれ。猪川忠直、ずいぶん遅刻みたいやで?」

 有華が液晶を覗き込む。監視カメラのリアルタイム動画。どうやら会合はまだ始まっていないらしい。

 GEEはやや大振りなサングラス型モニター——いわゆるHMDヘッドマウントディスプレイを装着し、それで同じ画像を眺めているから、有華と同じ液晶画面を覗き込む必要がない。だから暗幕の中へするりと頭を引っ込めた。

 そのスムーズな動きは短く刈り込んだヘアスタイルのおかげだろう、と有華は思う。女に見えないほどツンツンのベリーショート。メイクも薄くて一見イケメン。HMDがスポーティなデザインだから、イケメン度は余計にアップする。

「ギィさんは来ない方に賭けるってこと?」

「……来ない方に五千円。さぁ、ユカリンなんぼ張る? レイズ?」

「顔見せてください」

「なんで」

「声が笑ってるもん……賭けないっス。どうせ来ないんしょ? 来ないってことが、もうわかってるんしょ? メールをハッキングしたとか、電話を盗聴したとか……なんかそういうヤツで結果がわかってて、有華がチョロいから、お金をだまし取ろうとたくらんでやがる」

「それではあかんなぁ、ゆかりん」

「何」

「ギャンブルは女のたしなみやで」

「出た……女のたしなみって言えば、常代有華は何でもやると思ってる。やんないぞぉ。だって聞いたことないし」

「女性誌読まへんくせに。女はギャンブルで綺麗になるって特集、見たなぁ最近」

「嘘つけ。ぜったい嘘。ギィさんだって女性誌読まないじゃん」

「アホ読むっちゅうねん」

「何読んでますか」

「パチンコ必勝法………………あ、御免。チンコって入ってたわ」

「男性誌だね」

「オトコオンナのままでええんか?」

「オトコオンナに言われたくない」

「言うね」

「言いますよ」

「ギャンブルはアレや、高卒のたしなみ。これは間違いないやろ?」

「大学出の方が社会で役立たずだ……って聞いたことある」

「おー、負けん気すごいよなぁ」

「へへ、負けん気すごいっしょ」

 二人はいつもの如くじゃれ合いながら、しかし両の目で監視カメラの画像をしっかり見据えていた。二人の遥か頭上——ホテル「ザ・リッツカールトン東京」の四十五階、高級料亭の一室。その様子を。


 長い座卓を囲む、十人掛けほどの和室が見える;そこそこ席は埋まっているけれど、三つ四つが空席;高級な店というムードはあまり伝わってこない、と有華は感じていた;政治家っぽい人間が座れば、違って見えるのかもしれない;

 襖を開けて一人入ってきた;

〈遅れて申し訳ありません。国土交通審議官の中辻なかつじです〉

 国交省の役人は空いた席に腰掛け、開口一番こう告げた;

〈猪川大臣は……こられません。理由はお察しの通りです〉

 それを受けて、女性が名刺を差し出した;

〈電網庁管理局、局次長の岩戸紗英いわとさえです〉

〈ああ、貴方が岩戸さんですか。お噂は……〉

〈大臣のご様子は?〉

〈……私もお会いできていないんです……実は、国交省が事故原因を究明する調査委員会を立ち上げる関係で、お立場が微妙になってます〉

〈微妙? ……被害者の家族だからってことですか〉

〈大臣が辞任する可能性を頭に入れておけ、と官房長には耳打ちされました〉

〈え……嘘でしょう……なんてこと〉

 岩戸が狼狽している;


 有華は首をひねった。「わかんない……なんで猪川大臣が辞任するの?」

 GEEが暗幕の中から答える。「国交省が事故原因を究明する委員会をたちあげるってことは、要するに運転手だけが悪いんか、それとも製造メーカーや観光バス会社にも責任はあるのか……国交省が結論を出すわけやろ。その最高責任者である大臣が被害者の家族やと、公正な結論が担保できない……」

「えー、辞めなくてよくない? 子供が死んで自分も辞職なんて、踏んだり蹴ったりっしょ」

「辞めるかどうかは政治家本人の、潔癖具合で決まるっつーこと」

「辞めるかな」

「辞めるかどうか賭ける?」

「い・や・です……また笑ってるし。暗幕が揺れてるもん」

「揺れてるのバレた? デカいおっぱいがぁ」

「貴様のおっぱいは、そんな位置でいいのか」


〈まさかこんなタイミングで、こんな事故が起こるなんて〉

〈会見はさすがに無理だ……延期せざるを得ませんね〉

 監視カメラ画像の中では、スーツの男たちが重苦しい調子で発言を重ねている;

〈現状だと、日程の再調整も難しそうですな〉

 誰も彼もが溜息をつく;そんな中で;

〈せっかくお集まりいただいたんです……名刺交換、済ませませんか。ね?〉

 岩戸紗英だけが務めて前向きだ;そう見える;でも身内にすれば、落胆の色合いが表情にはっきりとみてとれた;

 たとえ監視カメラの画像越しであっても;


 有華は運転席で口を尖らせる。「……明日の会見は中止かぁ。会場をキャンセルしなきゃいけませんね。キャンセル料も高そー」

「延期、って言うてるけどな」

「バスの事故が陰謀なら……これが狙いだ、って言いたいの? ギィさんは」そう告げて、暗幕の中から返事が戻るのを待つ。

 GEEは沈黙している。

 やがてPCのスピーカーから凜とした女の声が漏れた。

〈……主賓抜きですけど……折角だから段取り通り、やってみませんか〉

 岩戸の声だ。


 画面の中で、一人がノートパソコンを操作し始めた;部屋の中央にプロジェクターが据えられていて、そこから壁に記録映像が投影されている;太った男が解説をするために立ち上がって、壁に歩み寄って一礼する;

〈えー、ベガスで開発部門の責任者をやっております、四本木しほんぎです〉

 監視カメラ越しであっても、画像の中身はクリアに見て取れた;

 砂漠を奇妙な車が疾走している様子;

 屋根の上に大仰な機械が取り付けられていた;そして;運転席に人影がない;

〈これは、ネバダ州で撮った初期の映像です。車両も初代ですね。自動運転の許可を出してくれる州法があるんで〉

 中年男の割りに四本木の声は甲高い;

 まもなく映像が切り替わった;

 やはり運転手の乗っていない車が、こんどは山岳地帯を走っている;

 同じ車種、しかし屋根の上にあった機械がスマートなデザインに進化している;

〈これで四代目になります。まだネバダ州。走行距離は十万キロを突破しました……あ〉

 十万キロ突破の垂れ幕を掲げる笑顔の男達が映っている;

 アロハ姿でサングラスをした、一際陽気な男がガッツポーズ;

〈これ、私〉

 そう言って、四本木はニッと笑う;

 同じポーズをとってみせる;

 目が離れていて口が大きく、カエルのような顔だち;

〈十万……キロ、ですか。そいつは素晴らしい〉

 警察官僚らしき男が座ったまま称賛する;

 カエル男は咳払いして胸を張った;

〈もちろん無事故でね。日本製自動運転オートパイロット車としては最長記録ですわ〉

〈世界的にみても、凄いんでしょう……ベガス社の技術は〉

 岩戸紗英の、深くてしっとりした声が響く;生真面目な称賛; 

 ところが;カエル男は笑顔のまま肩を落としてみせた;

〈いいえ……実は、あんまり価値がない〉

〈価値がない?〉

〈はい。こんな砂漠じゃなくって、人がたくさんいる街中での走破実績が必要になりますから〉

 率直で、端的な表現を好む——典型的な職人だと有華は思った;

 映像が切り替わる;

〈……あ、こいつは同じ四代目ですが、塗り直して、日本に持ち込みました〉

 都会のビルを縫って走る無人車;

〈これ弊社の敷地です。日本では高速道路のみ公道試験の実績があります。あと、電網免許証対応車両に改造済み……例の電網庁仕様ですね。改造後はまだ千キロも走ってませんけど〉

〈どうして赤?〉

 カエル男はニタニタと笑った;

〈よくぞ聞いてくれました。岩戸さん、あなたです。岩戸女史をイメージしたんですよ! 女性エリート官僚に乗ってもらいたい。ナンバーも取得済みですから、運転席に座ってもらえば、通勤の足に使っていただけますからねぇ〉 


「赤ぁ!?」有華は露骨に嫌悪した。

「赤い車、嫌いやもんなぁゆかりんは」GEEが笑う。

「っていうか……エロ親爺がうちの女帝に取りいりたくて、貢ぎ物してるみたいじゃないですか? ……なんかウザっ」

「ははぁ。さては焦ってるやろ。岩戸紗英専属運転手の座が危ういから」

「まさか。自動運転なんて、実用化はまだまだ先っしょ?」

「でも十万キロ走ってるんやで。無事故って優秀やろ」

「大丈夫なんですか? クルコン(※クルーズコントロール=高速道路巡航用の自動スロットル機構)すら使ったことないけど私」

「ベガスの自動運転は優秀やで。良い線いってるだけに、合同記者会見はインパクトがあったはず」

「トップニュースになった?」

「警察庁、国交省と……ベガス。揃い踏みで『日本政府、電網免許証を用いた自動運転車の完全実用化にむけ、一般道でのテストを年内に開始』。高速道路以外、ってのはポイント高いんやで。海外にも報道されたやろな」

「へぇ。勿体ない」

「この会見を潰す目的なら、バス事故はチョー効果的。ベストな選択。せやろ?」

「もう。ベストとか言っちゃダメ。敵を褒めるの、悪い癖だよ」

「…………」

「ギィさん?」

「待てよ。欠席は猪川大臣と、秘書と……あと一人、来てない奴がおるな……ベガスの社員……朽舟滋くちふねしげるって、誰やそれ」監視カメラの様子に何かひっかかるらしい。

「事故の影響ですか」有華はあえて返答を促した。「来てないの誰? エラい人?」

「……どう思う?」

「どう、って……私に聞きます? んー、そうですねぇ」

「あ、ごめんごめん」

 暗幕をぱらりとめくって、女ハッカーがはにかむ。「こっちの話。どう思う……髷(まげ)」

 GEEは目元をHMDで被っている。有華に話しかけるのではなく、その視線は仮想空間の小さな住人を見つめているのだ。

 だから有華もパソコンの液晶画面を覗き込むことにした。GEEが会話に興じる「プログラム」の姿が、そこに見えているはずだ。


 まげと呼ばれるそれは「忍者」の姿をしていた;

 といっても三頭身程度の愛らしいキャラクターだから、凄みは感じさせない;

 いわゆるアバター、実体は検索や論理演算を代行してくれる人工知能;かなり高度な会話型インターフェースを備える;

 GEEと話合う様子は、傍目に「相棒と電話している」としか感じられない;

〈どう思う? 髷〉

 GEEは音声のみで入力;他方、髷はコミュニケーションの際、合成された音声で返答しつつ、しかし文字列の描画も伴う;

 その文字列は忍者キャラクターの頭上に、マンガのふきだしの如く描画される;

〈ご覧あれ〉

 言うや否や三頭身の忍者はふわりと飛び上がり、くるりと宙返りを決めて着地した;

 その足袋を履いた足下が、有華たちの乗る車のダッシュボードにぴたりと合う;

 髷の姿は現実世界とうまく同化した;いわゆるAR——拡張現実;GEEが頭を傾ければ、髷も傾く;装着しているHMDが、動画カメラやジャイロなど、センサー類を内蔵しているから可能な芸当だ;HMDの情報から描画の基準を算出、リアルタイムに補正しつつ、髷は仮想空間を動き回る;

 忍者アバターは着地のタイミングで画面を切り替え、主に対して一つの文書を提示した;

〈何やこれ……三年前ってか〉

 それは企業がテレビ局に宛てたFAXの写しである;世間に対する釈明文;その中身をGEEはじっと眺めている;

〈ふうん……開発本部に品質向上委員会を設置し、グループ一丸となってリコール撲滅に邁進……?〉

 やがて髷が二度目の宙返りを決め、別の文書を提示した;

〈……ハハァ、なるほど。朽舟滋……あんたが来れなくなった理由はこれか〉

 それからも、髷の宙返りが延々と続く;


「どんぴしゃ、や」とGEE。

「何?」

「ベガス社は三年前にトラックの不具合が発覚して、大規模なリコール騒ぎを起こしてる」GEEは嬉々として言った。「……しかも今日の事故の原因調査にベガスの技術陣は駆り出されて……だから一人、開発二課の課長が欠席。それが朽舟滋。ビンゴやで」

「ちょっと待った。今日事故を起こしたバスのメーカーって……まさか」

「ベガスの系列会社。ってことは、どうせ親会社の技術をたっぷり流用してる」

 有華は運転席のシートに深く背中をあずけ、天を仰いだ。「事故に関係してたの、猪川大臣だけじゃないんだ……」

 未明に起きた悲劇が引き金となり、国産オートパイロット車の開発をリードするベガス社の前途に暗雲が垂れこめている。実用化の旗振り役を担っていた、とある道路族議員の命運を道連れにして。つまり今夜、この料亭に集う面々の狙い「全て」が潰された。

「な、絶対ヤバイやろ?」

 合同記者会見を延期に追い込むだけでなく、日本の自動車産業にブレーキをかけるため、すべてが仕組まれた——GEEの「ヤバイやろ」には、そんな皮肉がこめられている。

 本当だとしたら我らが女帝殿、岩戸紗英はさぞかし傷ついていることだろう。有華はあらためて液晶画面を覗き込んだ。


 ベガス社によるプレゼンテーションは終了していた;四本木からバトンを受けた大柄な男の、聞き覚えのある声が響く;

〈えー、電網免許証ですが、東京では今月から提示が必要になりました。5種は主に小学生以下。4種以上を所持する保護者の同伴が前提。4種は公認サイトへのアクセスのみ可。だいたい中学生レベル。3種はビジネス活動が可、2種は海外の合法サイトにアクセス可。1種はオールマイティ、電網庁職員相当です〉

 声の主は、垂水昂市たるみこういち;岩戸の右腕たる軍師だ;肩書きは電網庁開発局・局次長;

〈全部で五種類ですよね〉

 中辻という、国土交通審議官が垂水の相手を勤めている;来られなくなった大臣の替わりに、プレゼンを受ける立ち位置を買って出たらしい;

〈来月から、もう一つ上のゼロ種を運用します〉

 垂水は自らのポケットからカードホルダを取り出して見せた;

〈電網1種は、電網庁職員でなくても保持できる資格です。しかし0種は電網庁の職員、それもごく一部の選ばれた職員だけが所持します。司法警察権を有する治安維持要員。正式名称は、電網公安官〉

〈電網……公安官〉

〈この0種をオートパイロット実験資格と連動させるのが、我々の提案です。つまりオートパイロット車は、ゼロ種を認証してから走る……国交省からの要請を元に、電網庁が、テストドライバーを提供する〉

〈なるほど〉

 中辻というおっさんは話に相づちこそ打つけれど、全部知ってるんだ——と有華は感じた;岩戸のプレゼンテーションを受けとめるべきは、あくまで猪川大臣だったのだ;

 垂水は説明を続ける;

〈直感的には、自動車の運転免許証が、オートパイロット実験ドライバーの認証について担うべきだと思います。ここ最近、運転免許証はICチップも搭載した。技術的には可能。しかし……〉

 岩戸が口を挟む;

〈……オートパイロット車両は、運転技術を持たない人間が使う車になる。運転免許での認証はナンセンス。でしょ?〉

 そう言ってベガス社の面々に目配せ;すると四本木が、わざとらしく声を荒げた;

〈おっしゃる通り! オートパイロットの規制がどうあるべきか、まだ議論は熟していませんが……セキュリティ上、搭乗者の認証プロセスは大前提になる。運転免許証以外の何かで、鍵をあけなきゃならない〉

〈……国民全員が持つカードで、電子的に認証し個人が特定できて、尚且つ細かくランク分けが設定できるカード……といえば、今は電網免許証をおいて他にはない〉

〈最初から電網免許証を使ったオートパイロットの走行テストを重ねられるのは、開発側にとってメリットが大きい。実用化を急ぐなら尚更です、ハイ〉

 四本木はいかにも「打ち会わせ通りに言えたでしょ」と満面の笑みを浮かべている; 


 総務省電網庁は、無人車両技術の実用化に向けて重い役割りを負っていた。というより、新たなサービスの旗振り役を積極的に担うことで、新造組織の存在意義を訴えるという皮算用があった。国民に免許制を強いて、負担を増やすばかりでは反感を買う一方なのだから。

 電網庁の実務トップたる女帝——岩戸紗英の、オートパイロットに賭ける思い。それを承知の上で有華は皮肉を口にした。

「健康保険証とか、マイナンバーカードでもいいじゃん」

 国民皆免許として誕生した電網免許証は確かに優位。しかしIC化されたカードなら、似たような解錠機能は持たせることができそうに思う。

「大事なカードは家に置いとくやつもいる。けど、今どき朝から晩までネットを使わへんヤツはおらんから、電網免許証はみんな持ち歩くようになる。その差やろ」とGEE。

「なるほど。だからウチが……じゃなくて、電網庁が関われるんだ」

「あら?」

 女ハッカーが暗幕から顔を出した。「ゆかりんってまだNICT(※総務省傘下の研究機関)のヒト? てっきり電網庁で雇ってもらえたんやとばっかり……」

「あきらめて、ま、すっ」

 有華は口をとがらせ、車のハンドルを握りしめた。「……電網一種なんか、私のアタマで受かるわけないし」







(三)


港区:赤坂:夜



 警察用語でいうところの”視察”——いわゆる張り込みという作業に不慣れで、上手くできていると思えない。だから緒方隼人おがたはやとは柱の陰から半身を出して、すぐに引っ込めた。

 背後で上司が囁く。

「一番居眠りできそうにない、状況のはずだってよ」

「何の話ですか?」緒方は振り返った。「バスの件?」

「決まってるだろ。運転手が居眠り運転してたかどうか、って話題だ」

 わが上司は耳に突っ込んだイヤフォンでラジオを聞いているらしい。今日はザ・リッツカールトン東京のロビーに陣取り、官僚や政治家が集まる会合を見張っているのだが、こういう時に暇つぶしの手段を用意しているあたり、新米の自分とベテランはひと味違う。

 緒方は反論を試みた。「運転ミスって可能性もあるでしょう?」

「雪道で滑って溝にはまるってのはあるだろうが、わざわざ料金所に突っ込む奴ぁいねぇだろ? いちおうプロなんだぞ。可能性があるとしたら、故障か居眠り運転。だが、居眠りは難しい」

「どうしてですか」

「考えろよ若造」

「わかんないですって。俺、車で高速道路を走った経験がほとんどない」

「料金所ってのは、近づくと、路面にデコボコが付けられてるもんなのさ……居眠りしてるドライバーを叩き起こすための仕掛け。料金所の前までちゃんと走ってきた癖に、直前になって寝落ちってのは考えにくい。ということは?」

「ううむ……ということは」

 調子をあわせながら、しかし緒方は察知した。わが上司、飯島充いいじまみつるがゴルフ雑誌を手にしていることを。その雑誌で自分の頭を叩こうと準備している事を。

「警視。その手には、乗りませんよ」

 緒方はさっ、と上司に背を向け、柱の陰から半身を出した。監視すべき対象——ホテルの広大なロビーの奥深く、高級割烹の店先に視線を向ける。するとスーツ姿の一団がわらわらと現れた。

「へへ。学んだじゃねぇか緒方」

 上司の飯島は張り込みの最中、わざと気が散るような話題を持ちかけてきては、肝心なタイミングを逃しそうになると容赦なく頭をはたいてくる。緒方はその気配を読みきったのだ。

「どうやら早く終わったみたいですね。やっぱり猪川大臣が来ないから、明日の記者発表はお流れってことでしょ……あれ?」

 会合の参加者たちはほとんどがエレベーターホールへ向かっている。しかし一部は傍のラウンジに消えていった。壮年の男が二人、女が一人、その後に長髪男が追従する。合計で四名。

「あの女が岩戸だ。岩戸紗英」上司が言う。「男は警察関係者ばかりだから、無視していい。女をよくろ」



 岩戸紗英は会計を部下に任せ、馴染みの警察幹部二人と連れ立ち、同じフロアにあるラウンジ、その窓際席に陣取った。

 この建物——ミッドタウン・タワーは基本的にオフィスビルであり、ホテルはその四十五階から五十三階だけを占めている。料亭は四十五階に位置していたが、ロビーも四十五階であり、帝国ホテルなどと違って、待ち合わせに使うべきラウンジがそもそも超高層に位置している。コーヒー一杯が千五百円という価格はやや贅沢に過ぎるものの、価格に見合うだけの眺望を備えているのは間違いないと岩戸は思う。大きなガラス窓の外には赤い明滅で縁取られた新宿のビル街が遠く望めており、電網庁が入る予定の新庁舎、その背格好までが確認できた。

 あの摩天楼が自分の新しい城。岩戸にとって、それは絶景のはずだ。

 でも今夜は眺めに興じる気分に浸れない。国交省とのジョイントは惨憺たる有様。長い時間をかけ準備してきた計画が、ご破算になったばかりである。酒もカフェインも味などわかりそうにない。

「コーヒー三つ、でいい?」禿げ上がった色白の男が言った。

「岩戸君は、やけ酒なんじゃないの。ビールでもワインでもどうぞ」色黒で痩身の男が皮肉を挟む。

「遠慮します。いちいち飲んだくれてたら、肝臓が持たない」岩戸は憮然とした。

 この三人はお互い『コーヒーに砂糖を入れるかどうか』がわかる程度に、二号館(※中央合同庁舎第二号館……総務省と警察庁が入る霞ヶ関のビル)で頻繁に顔を合わせる間柄だ。お互い所属組織が異なるため、会話のほとんどを喫茶スペースで交わす。

 その点、このラウンジはうってつけだ。テーブルには蝋燭。やけに高い天井からのダウンライトも仄暗い。夜景の見通しが優先、という演出——書類を並べて話合うには最悪の場所だが、書類にできない会話の類には適している。

 警察幹部の一人が従業員を呼ぶべく手をあげた。名を小笠原おがさわらという。肩書きは警察庁警備局局長。

「じゃあコーヒー三つね」

 頼んだコーヒーに先ほどの長髪男、砂堀恭治の分はない。二つ隣りのテーブルに座らされている。部下の話をしたいと言い出した癖に、当の部下を同席させない——同席させたくない理由があるのだと岩戸は了解しつつ、もらったばかりの名刺をしげしげと眺めた。

砂堀恭治さほりきょうじ。わざわざ有名人を雇うなら、名刺には本名じゃなくて通り名を入れさせたらいいのに。メリットは活かさないと……」皮肉を込めて言う。

 ハンドルネーム『ヘテロジニ』——セキュリティ業界では名の知れた専門家。

「警察職員として働いてもらう以上、通り名は返上してもらわないと……示しがつかないよ」

 そう言う小笠原はいわゆるカタブツだ。後退気味の頭髪に銀縁眼鏡で、色白——上品なムードは順調に出世を果たしつつある『二号館の住人』に共通の外見といえるだろう。岩戸からみれば十歳以上も歳上。なのに接しやすく、「同じ大学を出た先輩の一人」という感覚にさせてくれる。

 もう一人の警察幹部が言った。「僕は岩戸女史に賛成。名刺なんて、わかりやすい方がいいと思うぜ? オガは真面目すぎるから」

 色黒の痩身男で、名を海老群えびむらという。禿げてはいないが短く刈り込んだ白髪、日焼け肌と相まってパンチのあるルックス。ワイルドさが身上で二号館には不釣り合いなタイプ。だからというわけでもないが彼の所属はお隣のビル、警視庁。公安部長の肩書きを持つ。

「ダメダメ。ダメでしょ」小笠原警備局長が首を横にふる。「エビはそういうとこ、甘いよ」

「あいかわらずの石頭」海老群公安部長が肩をすくめる。「問題は中身だって」

 岩戸は半身を捻り、瞳を凝らした。

 薄暗いラウンジの中で、二つ三つ離れたテーブルに砂堀の顔を見つけ出す。

「そういえば長髪の警察官ってみたことないなぁ……事務方だったらOKなんですか?」

 砂堀が気づいて、会釈してくる。岩戸は小さく手を振った。

「おいおい、髪の話題はなしで」小笠原が冗談めかして言う。

「ははぁ、どうりで長髪野郎には厳しいわけだ。納得した」海老群が大仰に頷く。

 岩戸は苦笑した。警視庁は組織として警察庁の傘下。黒い方は白い方からみて部下になる。しかし二人は同期で、二人が二人とも東大出。一見すると飲み仲間同士の砕けた会話に思えてしまう。

「ところで」白い方が身を乗り出し、声量をぐっと落とした。「例の計画、なんだけども」

 計画といえば、ただ一つ——電網庁と警察で、サイバー公安部隊を共同設立する計画を指す。

「合同記者会見が良いステップになる……っておっしゃってましたよね。国交省を味方につければ、かなり弾みになるって」岩戸は表情を曇らせた。「まさか。その話までポシャるんじゃ……」

 白黒双方が顔を見合わせ、苦笑い。

 岩戸はソファにのけぞった。「ええっ!? それじゃ私……ダブルパンチです。再起不能になっちゃう」

「すまんね」小笠原は禿げあがった頭頂部を岩戸に見せるように頭を垂れた。「猪川大臣の件とは関係ないんだ。やっぱり根強くて……反対派が。まとめきれなかった」

「……」岩戸は天井から視線を落とし、うらめしそうに男達をにらみつける。

 海老群が顔をしかめた。「説得されてくれないんだなぁ。どうしようもなく、古い組織でね」

 海老群は本来笑顔を絶やさない男で、白い歯が日焼け肌に映えてハリウッドスターのごとく爽やかだ。しかし口を閉じた彼は精悍そのものである。「サイバー空間の治安維持……腕力は警察が、最新技術は電網庁が提供する。一つ屋根の下に集って。そのアイデアは正しいと僕は信じてる。でも反対派ってのは警察の独立を重んじる奴等でね」

 小笠原が頭をあげ、ずれた眼鏡を直した。「結局、警察としての雇用をテストしろ、という流れになった」

「テスト? 警察にも、サイバーセキュリティ系の人材は大勢いるでしょうに……今更何をテストするおつもり?」

「初なんだよね。民間で経験を積んだ活きの良いエンジニアを……つまり現役バリバリのハッカーを、警察として召し抱えるのは」海老群は顎を撫でる。「砂堀君がその第一号ってわけ」

 岩戸は不満そうに言った。「電網庁を信用できないくせに、有名人を雇い入れるのはアリだなんて、ふざけた話だわ」

「同感だよ。言っとくけど、採用を決めたのは僕じゃない」

「でも、エビさんの部下?」

 警視庁公安部が砂堀を指揮下に置くのであれば、仕事はテロ対策が中心になる筈。岩戸の発言にはそういう含みがある。

「うん。公安部公安総務課に、十二係を新設した。肩書きはサイバー開発専任技師」

「開発専任……技師。十二係の体制は?」

「百名……といいたいところだけど、まだ砂堀君主体で採用活動をはじめたばかりでね。彼を含めて三名しかいない。後で挨拶させるよ」

「階級は?」

「なし」

「給与は? 階級でいうと、どのあたりの扱い?」

「警視監、相当」

「警視監……」岩戸は唸った。「彼って私と同世代ぐらいでしょ? 破格の待遇じゃないですか。つまり、そうしないと望むべき人材が集まらないってことだ」

「おっしゃるとおり。いわゆるヘッドハンティング。条件を良くせざるを得ないよ。実は砂堀君の場合、二年越しだからね。ずっとラブコールしていたらしいから……だろ? 警備局長殿」

 砂堀の採用はあくまで警察庁が決めたこと。海老群はそんなニュアンスを込めて、雲の上の連中を(つまり、隣りの小笠原を)揶揄する。一方の小笠原は口をへの字に結び、肩をすくめた。「俺のせいでもないよ」とでも言いたげ。其の実、小笠原は警備局長に就任して間もない。前任者からの引き継ぎ案件——何か因縁の深い人事、ということだろうか。

「誰が能力を見極めるんですか? ……破格の待遇に見合うか、どうか」岩戸はあえて語気を強めた。「私たちの電網庁は日本のISP(※インターネット接続事業者)を束ねて発足した。だから膨大なエンジニアを抱えている。電網ゼロ種を与えるかどうかも慎重にやっています。人事評価の枠組みが肝だとわかっている。でも警察にはああいう、ハッカー的な人材を……コンピューター・ギークを評価する仕組みが、比較論がない」

「イエス。だから十二係には然るべき人材をリーダーに据えた。君の良く知る男をネ。それが僕らにできる精一杯さ」

「……まさか」岩戸は唖然とした。「紫暮阿武しぐれあんのが十二係の長に?」

「警視庁内部で、サイバー捜査の進展にあわせ、リアルタイムなソフトウェア開発を行う。そんな厄介な発想がまともに機能するかどうか、責任をとれるのは紫暮しかいない」

 紫暮阿武。かつて警視庁から英国へと留学、全盛期のNHTCU(=英国国際ハイテク犯罪対策室)に身を置いたサイバー犯罪捜査のスペシャリスト。身元を偽った「潜入(囮)捜査」において最高度のスキルを持つ。

 岩戸は意気消沈して、再びソファに頭を預けた。

「日本に一人しかいないサイバー捜査のプロ。その部下に、セキュリティ業界随一の有名エンジニアをあてがう……これで警察は安泰ってことかぁ。電網庁の出る幕なんて、どこにもないわけですね」

 小笠原が申し訳なさそうに禿げ頭を撫でた。

「合同組織の件は、ご破算と決まったわけじゃない。オートパイロットもね。急くなということだよ。急いては事をし損じる」

「ダブルパンチ、なんだもん……へこむなぁ。どうしてこうなっちゃったんだろ」

 岩戸は努めて口角を上げた。今朝のバス事案が、自分の狙い全てを潰しにかかっている——そんな被害妄想に襲われて、だからこそ、無理にでも笑顔を心がけたいと思う。

 そして、こう付け加えた。

「紫暮阿武と……ヘテロジニ君の、お手並み拝見といきましょうか」負け惜しみだ。

 負けるのが嫌い。負けて悔しがる顔を見られ、相手がほくそえむのはもっと嫌い。

 岩戸はそういう女であった。



 ラウンジの奥深くに座る四人の姿は遥かに遠く、顔の仔細は判別しづらい。女の顔は闇に溶け込んでいる。

 緒方は目を凝らした。「テレビの国会中継でちょいちょい見る顔、の筈ですよね? ……岩戸紗英」

「政治家の娘で東大卒、総務省の生え抜き。電網庁創設の立役者でエリート中のエリートだ」

「うちの公安部長にしろ、警備局長にしろエリートでしょ」

「馬鹿、よく見ろ。見た目がまるで違う」

 緒方は上司の物言いを理解できず、もう一度柱の陰から身を乗り出した。目を凝らして、蝋燭の灯に浮かぶ女一人と男たちの密談を、じいっと睨みつけ——それから首をひねる。

「そうですか? みんな曲者のオーラ出てますよ。丁々発止ってとこじゃないですか」

「どこが丁々発止だ。鼻の下が伸びきってるだろう。手玉に取られてるっていうんだよ」

 飯島警視はニタリと笑って、たっぷりと髭をたくわえた自分の鼻の下をわざわざ伸ばしてみせた。ゴツくて毛深い皮肉屋というだけなら強面。でもどこか愛嬌があって、見識も深い。緒方は飯島を「話せる上司」だと感じていた。

「美人ってことですか、岩戸紗英が……」上司のトーンにあわせて、部下も苦笑しつつ肩をすくめる。「この距離じゃわかりませんよ」

「美人ってだけじゃ籠絡はできん。奴は、魔女だな」

「魔女?」

「覚えておけ。岩戸が造った電網庁という組織は曰くつきだ。インターネットの根っこであるISP(※インターネット・サービス・プロバイダ)業者をまとめ、国有化する。それだけならまだいいが、警察のサイバー関連部署を取り込もうとしてるのはいただけない……例のネット新法、意義を言ってみろ」

「意義ですか。要は免許制でしょう。自動車の乗り方と同じで、ネットの使い方を厳密に定義して、違反すれば取り締まる」

「本当の狙いは何だと思う」

「……サイバー犯罪の撲滅と、サイバーテロの防止。それ以外に?」

「お前も東大出てるんだろ? 俺の質問ぐらい完璧に返せ」

「無理ですって。教えてくださいよ」

「……想像力が足りネェな。電網免許試験はレベルが異常に高い。たいていの人間は4種止まり、頑張って3種だ。2種でなければ海外にアクセスできない。つまり」

「つまり?」

「海外から見れば、日本人はネット活動を禁止されたのと同じに見える。マスコミにネッ禁法と称される所以だ」

「……ネット鎖国ってことですね。でも、お隣の大陸と同じじゃない。免許さえ取れば自由に活動できる。要は試験に合格するかどうかでしょう?」

「だが……免許の取締を目的として、ネットの監視が強まる。通信の秘密なんてこれっぽっちも守られないぜ。ほぼ間違いなく憲法違反」

「ファシズムだって騒がれてるのは、知ってますよ」

「しかも岩戸は、鎖国の女帝として君臨するつもりって噂だ。五年後をイメージしてるから、あえて初代電網庁長官の座を蹴った、って説まである」

「そりゃ……凄い」

「警察は二手に分かれた。岩戸支持派と、反対派。お前どっちにつく?」

「係長のご意見はどうなんです」

「決まってるだろう。アレを見ろ。魔女に魅了されるわが警察幹部の顔を……情けなくて見ちゃおれん」

「美人ならしょうがないです。もうちょっと近くで見たいなぁ」

「馬鹿。危機感が足りネェぞ、組織の一員として」

「俺、配属初日ですよ? 危機感なんて……わかりました。係長の顔を立てて、反岩戸派を表明します」

「馬鹿。処世術を振り回す奴ァ、組織の癌細胞だ」

「む。どう返事すりゃあいいんスか」

「……ついてこい」



 二人はザ・リッツカールトン東京のエレベーターで地下へと降り、東京ミッドタウンの広大な地下駐車場にたどりついた。ポルシェやベンツといった高級車の並びを前に飯島が足どりを緩める。それにあわせて緒方も歩くペースを落とす。

(黒塗りの車が目立つなぁ)

 官用車が十数台。要人警護が役どころのSPらしき姿も、その傍にちらほらとうかがえる。

 ところが。

「お前、アレが見えるか」飯島が指差した先には、およそ官用車らしからぬ、とびきり目立つ薄緑色の車があった。

「あの歯磨き粉みたいな色した奴ですか? 外車でしょう、ね」

 飯島は顎髭を撫でつつ平然と言う。「お前、職質(=職務質問)かけてこい」

「何でです?」

「ありゃあ、魔女の車だ。専属の運転手がいるらしいから、仲良くなってこい。後部座席に何か隠してないか、見せてくれと頼んでみろ」

「……令状も何もなしで、ですか」

「運転手以外に誰か乗っていないか、確認するだけでもいい」

「係長」緒方は首をひねる。「まだ配属されたてで、よくわかっていないんですけど……公安部って反政府勢力を監視するのが本業ですよね」

「そうだ。ようこそ、公安総務課へ」

「十一係って誰をマークするんですか? ヤクザ? 新興宗教? 他国の工作員?」

「ハッカーだよ。それも、政府関係者にちょっかいを出すハッカー」

「……ハッカー」

「総務省の才媛、魔女と名高い岩戸紗英……彼女に手を貸す凄腕のブラックハット(悪意のあるハッカーの俗称)がいるというネタがあるんだ。無論、監視してりゃ魔女自身の化けの皮を剥がすチャンスも生まれる」

「それが車に乗っているかもしれない、というんですね。やってみます……でも期待しないでください」

「二年目の坊主にか? 聞いてるんだぜ東大君。空手、黒帯だそうじゃないか。キャリア組で体術がAランクなんて前代未聞の評価だよ」

「チビですけどね」黒帯の割りには破壊力が足りないという意味で、緒方は自前の常套句を告げた。「……根性には自信あります」

「空手って伝統か。フルコンか」

 飯島は専門的に尋ねた。拳を当てず寸止めを規則とするのがいわゆる”伝統派”空手で、そうでないものを”フルコンタクト”と呼び区別する。

「フルコン、です」それは雄々しいという意味だ。

 飯島は満足げに笑った。「職質だけだぞ。殺すなよ警部」

「押忍」

 極めて短い返答の流儀は空手道に即したもの。格闘技好きの上司ならば気に入ってくれるだろう、と思う。

 緒方は上手くやるため腐心すべき立場にあった。東大出身で警察庁採用——いわゆる警察キャリアの自分と、現場叩き上げの上司・飯島。二人の関係は近い将来、逆転する。四十半ばの「警視」はベテランだが、自分は大学を出てわずか二年で「警部」。お互いの階級差は一つしかない。お互いがそれを深く了解している。その上で飯島は、けっこうな頻度で馬鹿呼ばわりしてくる。教えられることはすべて教えてやる、という意気込み。そこに骨っぽさを感じられる。迫力があって、いい上司だと思う。

 緒方は歩き出した。公安マンとしての初仕事に緊張感がみなぎる。堅さをとるために、務めて足どりを遅くしようと思った。

 なるべく——なるべく悠々と歩く。

〈運転席側に回れ〉

 イヤフォン越しに聞こえてくる飯島の声。

「了……解」

 緒方は衿に仕込んだマイクに聞こえる程度の声で返答した。ところが。

「え?」

 歩みを進めるうちに気が動転し始めた。歩くスピードがひとりでに速くなる。

「え……え!?」

 顔見知りだ。知り合いが運転席に座っている。そう思える。

「お……オマエっ」

 緒方の足どりに呼応して、薄緑色の車の窓ガラスがゆっくりと降りた。

 若い女がひょっこり顔を出す。

「あ……あんたっ」

 お互いが、お互いの顔を指差して叫んだ。

「何してんの! こんなとこでっ」







(四)


港区:赤坂:夜



 津田沼和夫つだぬまかずおは不機嫌だった。ホテルのロビーで一時間以上も上司の戻りを待つなんて、前の会社でも、その前の会社でも経験がない。わざわざ辞めてフリーのプログラマになって、馬鹿馬鹿しい雑務から開放されたと思ったのに、募集条件につられてしまい、再再就職して、結局——また家に帰れないでいる。

 帰れないと困るのに。ゲームができないのに。

 スマートフォンで職場へ持ち出せるような軽いヤツには興味がない。大画面とハンドル、パドル式のシフトレバー、アクセルにブレーキ。専用コントローラーが必要なカーレースが津田沼の大好物だ。今夜は大事な夜。ネットでは配布されたばかりのサービスパック(※ゲームソフトの更新プログラム)にまつわる議論が既にアツい。こんなタイミングで残業なんて最悪。世界トップ100のゲーマーとして名を連ねるには、こういった出遅れが致命傷だ。なのにあの長髪上司ときたら「何時に帰れるかは流れ次第」などとほざいた。ほざきやがった。帰らせてくれ、とは言い出せない。「帰ってeスポーツに没頭します」などと言えば説教されるのがオチ。最初の会社はそれが理由で辞めた。次の会社はそれを我慢して、感情がたかぶって別のトラブルを招いた。反省はしていない。悪いのは理解しようとしない側。価値観というものは人それぞれなんだ。そうだよ。それぞれなんだ。

 津田沼は膝の上でノートPCをいじりつつ、同僚の横顔をちらちらと観察した。自分と同じく急な残業、理不尽な居残りを命じられて機嫌を損ねている筈だ。スマホいじりに没頭している眼鏡ッ子の仲本繭なかもとまゆ。瞳が大きく、口と顎は小さい。萌えキャラのごとき名前に見合う精緻なルックス。繭を眺めていれば津田沼の気分は少し晴れた。

「あのラウンジさ、生ビール千四百円だって。飲んでもいいのかなぁ」暇つぶしに、話しかけてみる。「やってられないよね」

「いいんじゃない」かなり雑な返事だ。

「領収書切っといたら、清算してもらえると思う? 警察ってさ、どれぐらい経費認めてくれるんだろか」

「知らない」

「あの料亭でさ、あいつら何食ってるんだろ」

「………………さぁ」

 繭がスマホより自分を優先することはまずないと津田沼は理解している。理解した上で、しつこく話し続ける。

「中にいる連中はさ、まぁ偉い人たちなんだろうけどさ、僕らだって同じ公僕だし、同じぐらいの金額ぐらいまで経費で飲み食いしてもいいと思うんだよねぇ。つっても試す勇気は無いけどぉ。きっとさぁ、千四百円の生ビール飲んだってぇ、居酒屋で飲む五百円のと同じ味だと思うし。ってか絶対そうだし」

「………」

「今夜の会合ってさぁ、何時ぐらいまでかかると思う?」

「……………二十一時」

「じゃああと二時間以上かかるってこと? うげー……困りますね」

「…………………………………」

 返事は潰える。というか無視。いつものことだ。繭はいわゆるツンキャラ。それがまたいいと津田沼は思う。馴れ合いを嫌い、プライベートを閉ざす。優秀なフリーランスはそうでなくちゃ。その上かわいいなら文句のつけようがない。ところで君は何をしているか周囲に悟られないよう画面を顔に近づけているけど、実は眼鏡に映り込んでて、遊んでいるゲームの中身はパズル系だとわかるよ。わかるんだよ。しかもこのラウンジは暗いから、スマホの明るさが際立つんだぜ。その分、余計に、わかっちゃうんだ! そこまで考えて津田沼はニヤニヤする。 

 その時だ。

(おっ)

 割烹料亭の店先からそれらしき一団が現れた。ほとんど顔も名前もわからないが、公務員らしきお堅いムードを醸すスーツの軍団にあって、一人だけ民間ムード満点のお洒落スーツを着た長髪男が混ざっている。明らかに自分の上司。自分たちを延々と待たせ、繭によれば二十一時まで姿を現さないだろう上司様だ。

(なぁんだ、もう終わったのかよ……じゃあ帰れるってか?)

 津田沼は一瞬笑顔になったが、そんな自分をすぐに後悔した。上司が親爺二人と女に連れられ、ラウンジに向かって歩き出してしまったのだ。

(えええ)

 金髪美人の、明かに外国人と思われるホテルウーマンに導かれ、四人は高級感漂う薄暗い闇へと消えていく。暗い上に観葉植物やオブジェに遮られて、様子はよくわからない。

 津田沼は繭に尋ねた。

「出てきたよね? 砂堀さほり氏。終わったのかな。終わってないのかな? それとも終わったからってラウンジで一杯やるつもり? まさかね。理不尽だよね? ね?」

 ツンキャラ娘は返答しない。相変わらずスマホに夢中。

 津田沼は再びソファに背をもたせかけ、憮然としつつPCのキーボードを打った。

(何時までかかるかぐらい、教えろっての!)

 本来なら砂堀恭治さほりきょうじは尊敬すべき上司だ。一回りは歳上で、セキュリティアプライアンス業界では評論家として名を馳せている。しかし初対面から印象は悪かった。採用面接でハッカーとは何かなどと自説を披露、それとなく同意を求めてきた。その不遜な訳知り顔が腹立たしい。だいたい面接で主張を押し付けるなんてパワハラだろう。パワハラって意味知ってます? そう尋ねたくなる相手だ。

 外見を意識しすぎなことも津田沼にとってはマイナス評価である。お洒落な野郎はハッカーの風上にも置けない。一度、砂堀の持ち物をネットで調べたことがあった。靴、スーツ、ネクタイ、頭の先からつま先まででトータル五十万円はくだらない。おまけに手入れの行き届いた長髪——最低だ。どう考えても最低野郎。おまけに今夜は俺を足止めしている。最低の上司。上だけど下。

 そんな風に津田沼がふてくされ始め、さらに二十分ほど経った頃。

(あれ?)

 隣の繭が突然立ち上がった。津田沼を置いて、さっさと歩いていく。

(何だ何だ)

 繭の背中を目で追うと、ラウンジの出口あたりで長髪男が誰かと立ち話しつつ、「こちらへ来い」と手招きしているのが見えた。あの輪に加わらなければいけないらしい。慌てて津田沼も立ち上がる。しかしノートPCの電源がすぐに落ちない。焦る。てきぱき行動できない奴と思われるのは癪だが、自前のPCだからぞんざいに扱いたくない。

 やや遅れて合流した津田沼は、人の輪の外に漫然と立った。

「……あ、彼が津田沼君といいます」

 砂堀に紹介されて、仕方なく適当に頭を下げる。顔をあげるとスーツ姿の女性が目に飛び込んできた。

「がんばってね……期待の新人さん」

 紹介された相手は年齢不詳の美魔女であった。ラウンジを仕切る従業員たちもたいがい美人揃いだけれど、さらに上を行く。

「こちら、岩戸さん。知ってるでしょ?」

 砂堀は当然のように言ってのけた。けれど津田沼には見覚えがない。焦る。こういう場面で「知っているでしょ」などと紹介されて知らないとは答えられない。むしろ恥をかくのだ。

(こういうのがパワハラっていうんだよ)

 心の中で砂堀を詰りつつ、仕方なく津田沼は笑顔を作った。どうとでもとれる笑顔を。

「あんまり有名人扱いしないでくださいね。たかが役人、みなさんと同じ公僕です」

 美魔女が軽く会釈する。津田沼は好印象を持った。岩戸には二人ほど連れ立つ年配の男性がいて、その連中にも紹介されるだろうと津田沼は覚悟したが、わが上司にはその気がなさそうだった。

「以上が公安総務課十二係のメンバーです。あ、違う。これで全員じゃなかった」砂堀が苦笑する。「……岩戸さんは、うちの係長をご存知なんですよね?」

 警視庁公安部に新設された、公安総務課十二係。そのリーダーの顔を津田沼はまだ拝んだことがない。別の部署と兼務で忙しく、砂堀はその留守をあずかる「係長補佐」だという。将来的には砂堀が昇進、チームリーダーに収まる筋書きだと聞かされている。

「あの紫暮阿武しぐれあんのが……あなたたちの上司らしいわね」岩戸が苦笑した。

「はい。彼が岩戸さんに挨拶しておけ、と言うんで……できれば好かれておくように、と」

 砂堀はメディアで鍛えたであろう、爽やかな笑顔を振りまいている。

「正直なのね。計算高くない感じ。だから好感度は高い……さすがだ」

「いいえ、岩戸さんには敵わない。聞いてますよ、会った瞬間心を持って行かれるって」

「そんな事言ったの? アイツ」

「言われたというか、電子メールですけど……unknownってアドレスで。名前が阿武あんのだからunkownってことですか? 彼について僕が知ってることは、ダジャレのセンスだけ」

「もしかして、まだ会ったことがないとか」

 砂堀は頷いた。「ずいぶんと長らく出張中のようで。いずれ会えるんでしょうけど……仕事はほとんど丸投げされてます」

「ふぅん。ハッカー集団なら放任は歓迎じゃない?」

 突然、仲本繭が口を開いた。「ルーズなんで、むしろ管理してほしいなと思います……じゃないと、机が散らかり放題になる」

「そうなの?」と岩戸。

 繭が津田沼に向き直り、にっこりと笑った。「だよね?」

 あのポーカーフェイス美少女が、とろけるような笑顔を見せたことに津田沼は唖然とした。岩戸に媚びているのか、あるいは砂堀にか、その両方か——いずれにせよ、自分と二人きりでは全く見せたことのない表情だ。

「……ですね。ほら、俺なんて明らかに自己管理できなさそうでしょ?」

 津田沼はお得意のデブキャラ自虐ネタを披露しつつ、繭に調子を合わせる。

「ふふ。確かに警察にはいないタイプかも。オーラが違うなぁ」

 岩戸は連れの中年男二人に皮肉を投げたのだろう。津田沼はおっさんたちが生粋の警察官僚、それもかなりのお偉方だと見当をつけた。たぶん自分の上司の上司のそのまた遥かに上の上ぐらい。

 おっさんたちは苦笑しつつ、じゃあ、と会釈してその場から立ち去った。砂堀が頭を下げるので津田沼も頭を下げる。驚いたことに繭も深々と頭をさげていて、しかも腰を折る時間は津田沼のそれよりも遥かに長かった。普段の雑な態度からは、あり得ない事だ。

 砂堀は頭を上げると、岩戸に向かってこう切り出した。

「……あのお偉方、片っ端から東大でしょ? あいつはボート部だとか何とか教授のゼミだとか。僕らなんて外様もいいところ……逆立ちしてもあんなオーラ、出ません」

 長髪男の謙遜に津田沼は辟易とした。慶応出身だってかなりの高学歴だ。それを敢えて口にしないところが、あざとい。

「あら。じゃあ私も彼らと同じオーラ?」

「岩戸さん……は別かな。東大っぽくないっていうか。ちなみに、仲良くなっておけって指示があった場合、部下としてはどこまですべきですかねぇ。一杯ぐらい、おつきあい願うべきか否か。豪華なホテルだし、立派なバーカウンターもある」

 砂堀はまわりくどい言い方をして、岩戸を飲みに誘う。

「ふぅん……なんかヤダ」

「え?」

「誘いたいならストレートにね。じゃないと、せっかくの好感度が下がるわよ?」

 津田沼ははっとした。手練手管に長けていそうな伊達男の物言いを、美魔女の強かさが上回っていると感じられる。

 案の定、砂堀は苦笑いしていた。「まいった。まいりました」

「あはは。今夜は遠慮します。車を待たせているの」

「……申し訳ない」砂堀は唐突に、謝意を露わにした。「我々の立ち位置って、岩戸さんにとっては迷惑でしょう。違いますか?」

 どういう意味か津田沼には解せなかった。

「だからぁ……好感度上げようとするの、悪い癖よ。電網庁も出来る限り応援させてもらう。紫暮阿武とは、知らない仲じゃないし」

 美魔女は踵を返し、大理石の床でヒールを鳴らした。砂堀がその背中に声をかける。

「……我々が警察をクビになったら、電網庁で拾ってください」

 岩戸は軽く振り返り、小さく手を振った。

「考えておくね」

 圧倒的だ。津田沼はそう思った。よくわからないが、どうやら砂堀はあしらわれた。もっといい男じゃなきゃ相手は務まらない。お呼びじゃないんだ。

「じゃ、我々だけで一杯やる?」

 砂堀が言う。津田沼の方を向いて。

 魂胆はわかっていた。どうせ本命は繭。俺に早く帰りたい事情があると承知の上で、断られる前提でこいつは尋ねている。美魔女にフられた鬱憤晴らしで、部下の小娘を連れ回したいだけ。津田沼はそんな風に訝しんだ。

「あ……ちょっと用事有るんで」

 眼鏡女子の態度がうってかわって硬くなった。津田沼はほくそえむ。にしても、さっきまでのとろける笑顔は何だったのだろう。

「津田沼君もダメなんだっけ」砂堀は敢えて問うてくる。

「すいません」

「なんだよ……モテねぇなー、俺」

 砂堀は長髪をかきあげた。その仕草が津田沼は気に入らない。「モテねぇな」という台詞すら、気にくわないのだ。






(五)


港区:赤坂:夜



 お互いが機先を制すべく大声を出した——が。

 声はぴったりと揃った。

「何してんの! こんなとこでっ」

 どんな格好で、どんな場所でも、幼馴染みの顔を見間違えるわけがない。

 緒方隼人は狼狽した。「まさか……有華が岩戸紗英の運転手!? お前の職場って研究所じゃなかったのかよ! 国分寺だろっ」

「こっちの台詞だ! ……いっちょまえの警察官みたく、職務質問するつもりじゃないだろね、この私に。幼なじみの、かわいいかわいいユカリンにぃ」

「しょうがないだろ、仕事なんだからっ」

 自分が知る限り、常代有華の職場は東京の外れ、国分寺駅からほど近い総務省傘下の研究機関NICT(=独立行政法人・情報通信研究機構)。彼女の実家から徒歩圏内。霞ヶ関でもなければ、ましてや超高級ホテルの地下駐車場であるはずがない。

 有華はとぼけている。応戦の構えだ。ならばと緒方は車の中を、やや強引に覗き込む。

「後ろ、何乗せてるんだよ」

「何でもいいじゃん」

 近づく顔を押し返そうと、有華は平手を窓の外へ突き出した。それをひょい、とかわして緒方は言う。

「おかしいだろ。車ん中に暗幕なんて張るか普通。其の中身……」

「ぱんつ」

「おい」

「何? 乙女のクローゼットを覗くつもり? さすがぁ、二年目にして警官らしく不祥事かねキミ。出世が早いのぅ」

「もうちょっとマシなウソつけよ……ん? それ動いてないか?」

 車の後部座席を被う暗幕が、微かに揺れた。そう見えた。緒方は窓の中へ頭を突っ込み、暗幕の中身を覗き込もうと手を伸ばす。 

 すかさず有華の右の平手が自分の顔面を捉えた。押し出される。

「やめろ空手馬鹿。エッチスケベ変態っ」

「ぐぬ……」

 そのときだ。暗幕の中から声がした。「パンツちゃうで。パンティやで」

 緒方は仰天した。「げ!? 喋ったぞ! しかも関西弁」

 暗幕は喋り続ける。「あ、くっさいから暗幕かけてますぅ。めくると死ぬでぇ」

 今度は有華が仰天した。「げげ!? 私の下着が匂うみたいな言い方、しないでくださいっ」

 喋る暗幕は自ら揺れ始めた。程度の低い、お化け屋敷が如く。「ぷぅうううーん」

 緒方は手を伸ばし、暗幕をめくりあげようとする。

「誰だっ、誰だそいつ!」

 その手を必死で有華が払いのける。

「見るな、見るな!」

 二人のボクシングファイトになった。やがて緒方が有華の腕を掴む。

「お前……わかってんのか」

「……何」

 緒方は衿に仕込んだマイクを握りこみ、その上で言った。

「岩戸紗英は要注意人物。魔女って噂だ。公安が………警察が見張ってる」

 緒方が言い直したのを有華は聞き漏らさなかった。

「ふーん。あんた公安に配属されたんだぁ」

 失敗したと思いつつ、掴んでいた有華の腕を開放する。「魔女の運転手なんてやってたらお前、巻き込まれるんだぞ」

「そうぉ? 公安のイヌより、魔女の運転手の方がかわいいじゃん」

「監視対象だって言ってんの! 警察の敵になっていいのか」

「だから?」

「……」想定外の反応に緒方は絶句する。

「だから?」

「…………何、とぼけてるんだよっ」

 緒方は憤慨した。常代有華と警察は特別な関係にある。警察の敵になるなんて、あってはいけない事。それは共通認識の筈だ。ところが当の有華は意に介していない。それが腹立たしい。

 じっと有華の目を見る。心配しているんだぞ、という意味を込めて。なのに当人は——あろうことか苦笑して、こう告げた。

「ねぇ……あんた、エリート警察官なんでしょ? 後ろに誰かいることぐらい、気づけって話」

 迂闊だった。緒方は頬を紅潮させて、振り返る。

 背後で女性が立ちすくみ、目を丸くしていた。グレーのスーツにショートヘア、メイクも淡い。総じて地味めにおさえているのは、整った目鼻立ちのせいで派手にみえるのを避ける工夫だろうか。おかげで美しさと賢しさが完璧に同居している。

 警察幹部すら手玉にとるという、噂の女。

「ごめん。立ち聞きするつもりじゃなかったんだけど」

 常代有華の待ち人が——自分にとっての監視対象が、そこに居た。

「ああっ、あ、あのぅ」

 緒方は何か反応しようとするものの、上手く言葉を紡げない。そんな若造を前にして、岩戸紗英はにっこりと微笑んだ。

「魔女でーす。よろしくね、公安の、イヌ? というか……子犬君」

 余裕綽々で握手さえ求めてきた。



 やがて。 

 薄緑色の奇妙な外車が走り去る。

 緒方はばつが悪そうに駐車場をとぼとぼと歩き始めた。柱の影で飯島が笑っている。だからマイクを通すのに不適当なほどの大音量で訴えた。

 不機嫌だということを、アピールしたくなったのだ。

「後部座席には誰かが乗ってました。明らかに怪しいです、けどぉ」

〈…………けど、何だ〉

「教えてください、これ何のドッキリですか? 俺が十一係に配属された理由って、まさかアイツが岩戸の専属運転手だからですか」

〈だったらどうする。幼なじみを監視するなんてできっこねぇ、転属させてくれ、か?〉

「……いいえ」

〈不服ですって顔、してるじゃねぇか〉

「係長……有華が何者かご存じですよね」

〈お前ほどじゃないだろうけどな。俺が知ってるのは、岩戸が総務省傘下の独法(=独立行政法人)の下っ端職員を一人私物化してる事と、その小娘が高柳警視総監の姪っ子だって事だけだ〉

 緒方は無線連絡が不要な距離まで近づくと、上司をにらみつけた。

「警視総監に通じるパイプ役として、有華を手元に置いている……そういう意味ですか」

「……どうだ。岩戸紗英が本物の魔女に見えてきただろう、緒方警部」

 飯島警視はニタリと笑う。「幼なじみのナイト役、買って出たいとは思わねぇのか?」



 東京ミッドタウンの駐車場をロータス・エクセルが滑り出た。二つ目の信号で混雑する六本木交差点に背を向け、北西方面へと鼻先を振る。

 常代有華は動揺を隠すべく黙々とアクセルを踏んだ。よりによって隼人に仕事の邪魔をされるなんて——。車も絶不調、マニュアルシフトがかっちり決まらないのにもイライラする。腕のいい運転手として主人にかしずくのは、最低限の義務だというのに。

「うー。辛いなぁ。辛いっ」助手席の岩戸が大きくのけぞり、背伸びして言う。

「すいません。乗り心地、悪いですか?」

「え?」

「クラッチのつながる位置が高くて……」

 暗幕の中から手が現れ、高く上がった。

「はーい。いつもほどスムーズじゃないって気がしてましたぁ」GEEは自分もバイク乗りで、だから運転にはうるさい。

「バレてましたか」

「調整で済む?」

「クラッチディスクが限界、かも。パーツ探しはやってるんスけど」

「二十年落ちの英国車で程度のいいジャンクなんて、日本でみつからんやろ? せやからいうて、イギリスで見つけても雨ばっかりやし錆び錆びやろな」

「実はこいつのミッション、ヨタ製なんです。だから……探せばなんとか」ヨタ、とはトヨタの略。GEEが相手なら通じる。

「日本原産か……ロータスって素敵やね」

 親指をぐっと上げたGEEの右手が、するりと暗幕の中へひっこんだ。乗っているのは全員女だが、三人中二人までがオトコオンナを自覚するメカヲタ。助手席のオーナーだけが蚊帳の外という構図。だが岩戸も負けじと携帯電話を手に取り、車の不調に心を砕いた。

「あ……もしもし四本木さん? 例の私の車、92年式のロータス・エクセルなんですケド……くらっち……なんだっけ」

「クラッチディスク」

「クラッチディスク。そう。探していただけます? ……はい。連絡待ってますね。ああ、今日はありがとうございました。四本木さんが居てくれると助かります……本気で言ってますよ……はい? 赤? ええ。赤、気に入ってます。うふふ」岩戸は喋りながら舌を出した。「……はい。ご連絡待ってます」

 そして電話を切る。

「誰です?」と有華。

「ベガス社の偉いひと。四本に木で、四本木さん。クラシックカーマニアらしいの」

「さっきのカエルみたいなおっさんかいな。車に轢かれたヒキガエルは見たことあるけど、車に乗れて修理までするカエルは貴重やね」

 GEEの悪態には悪意がない。ほぼ無意識の産物だ。

「失礼ね。クラッチディスク見つけてくれたら、格上げしないとダメよ」岩戸が片目を瞑る。「何ガエルにしよっか」

 有華は耳をそばだてながらシフトチェンジを意識した。車を預かる責任を感じる手前、クラッチの不具合を笑って誤魔化せない。

「修理の心配させてすいません。いろいろ手は尽くしてるんですけど」

「ね、乗り心地に文句はありませんのよ? 気分がねぇ、上がらないの」

 岩戸は深く頭を垂れた。

「大変でしたね」と有華。「記者会見が流れただけでも、がっくりなのに……」

「最ぃ悪やな」とGEE。「まさか……警察にまで袖にされるとは」


——電網庁との合同サイバー部隊設立、あの話ね、まとめきれなかったよ……申し訳ない。


 有華は監視カメラの画像で一部始終を眺めていた。だから岩戸の心中を察して余り有る。「警察との合同組織って、どうしても必要なんですか?」

「ネット新法を全国展開する前に、私たちは罰則を執行する公安部隊を組織しなきゃいけないのよね……でも逮捕とか取締って力仕事でしょ?」岩戸が笑う。「オタクの寄せ集めには荷が重い」

「じゃあ、警察と分業すればいいんじゃ……」

「それはムリ」GEEが言った。「ネットワーク管理ってのは、一にも二にもセキュリティや。同じ屋根の下におらん同士で情報共有は不可。相手が警察やとしてもな」

「そういうもんなんだ……」

「だから双方が人材を提供して一箇所に集結……いいアイデアだったのよ? あの二人、いつの間にかトーンダウンしちゃってて」岩戸は馴染みの警察幹部たちをあげつらった。「がっかりしちゃう」

 全国の都道府県警察は、刑事課・生活安全課が主体となりサイバー犯罪対策を推し進めてきた。しかし其の実「攻撃力としてのハッカー・武器としてのソフトウェア」を保持したことがない。電網庁はそれを提供し得るはずだ。お互いメリットはある。なのに、あっさりと袖にされた。代わりに警察は民間のエキスパートを雇用するという。

「それがあの、長髪野郎かいな」GEEが笑う。「有名人やで、砂堀恭治」

「やっぱ知ってたか」岩戸が顔をしかめる。「ウチじゃだめで、有名人ならアリってさ……腹が立つよねぇ」


——十二係には然るべき人材をリーダーに据えた。君の良く知る男をネ。シグレだよ。紫暮阿武しぐれあんの


「紫暮って、誰です?」有華が尋ねる。

「警察がイギリス留学させた男なの。ハッカー狩りで名を馳せた凄腕。サイバー犯罪捜査のスペシャリストよ……コードネーム・UNKNOWN」

「ふぅん。すごいんだ」

 GEEが付け加えた。「誰にもみつからんから、UNKNOWN。潜入捜査の達人。日本の警察は囮捜査ヘタクソやから、あいつは異端中の異端……まして電網庁が敵う相手やない」

「あーあ、って感じでしょ?」岩戸はがっくりと頭を垂れた。「どーしよ。内部で柔道とか剣道の経験者を探すしかないのかなぁ」

「……かける言葉がありません」有華としては、そう答えるほかはない。

 岩戸は上着のポケット入れから砂堀恭治の名刺を取りだし、窓へ近づけ、街灯の燈にかざした。「こいつ、どんな奴?」

 暗幕の裏でGEEが笑っている。「ブラックハットの天敵。ウチらに言わせたら真面目チャンの嫌われ者。警察に就職したってか? 笑えるわ。どんだけ金積まれたんやろな」

「公安総務課十二係……UNKNOWNと砂堀。どういうチームになるんだろ」

「ところで」GEEが話題を切り替えた。「猪川大臣の息子、葬式の日程が出たで。明後日や」

 岩戸が間髪いれず答える。「電網庁で供花、それと私の名前で弔電を。文面は今夜考える。メールで送るわ」

「……了解」有華が答える。「明日の朝で間に合います」

「それにしても、ダブルパンチとは恐れ入るなぁ」

 電網庁の魔女は助手席でのけぞった。国交省との足並みが崩れた上に、警察との蜜月まで破綻寸前——

「ついでに公安。監視ついちゃいましたね」

「さっきの子犬君? じゃあトリプルパンチね……泣きたいよぅ」

 有華はそれ以上続けなかった。自分とは幼なじみの男だと話したところで、事態が好転するはずもない。だから車中は静かになった。

 こういう時、岩戸は突っ込んでこない。

「……岩戸はぁん」暗幕の裏から大仰な関西弁が聞こえた。

「何ぃ」

「……ゆかりんの所属。ええかげん電網庁に移したってや。職員全員が電網一種持ってる必要なんて、ないんやろ?」 

 岩戸は黙っている。有華も口をつぐむ。

 GEEは暗幕をめくりあげて言った。「……総務でも人事でも、何でもええやん。嘱託の出入業者なんて腐るほどおるし、公務員試験なんか、どうでもええんとちゃうん? せやないと……いらん疑いがかかるで?」

 本来、常代有華は岩戸紗英の運転手を勤めるべき立場にない。勤め先のNICTはいわゆる外郭団体。総務省から莫大な研究予算を委託されてはいるが、だからこそ官僚の鞄持ちをしてはならない。「収賄」に等しいのだ。しかも有華は、とある警察関係者の姪。岩戸に何か意図があると邪推されても不思議はない。二人が二人とも、その問題を重々承知している。

 有華はつとめてポーカーフェイスを装い、上司の色良い返事を待った。ハンドルを握る手はしっとり汗ばんでいた。

「……NICTに机がちゃんとあるんだから。強引には無理よ」岩戸は杓子定規に言う。

 有華はブレーキを踏み、車が停車したタイミングで慎重に切り出した。

「ここ一年、ほぼ毎日霞ヶ関に通ってますけど、所長に怒られたことなんて一度もありません……頼んだら、簡単に辞めさせてくれると思う」電網庁で雇い入れてほしい。そういうニュアンスを込めた。

「ほらぁ」GEEがけしかける。しかし。

「……その件、また今度にしない?」

 岩戸はあっさりと話題を打ち切った。信号は赤——沈黙が、続く。

 暗幕の向こうで声がした。「……ところで、ベガスのオートパイロット車、どこで受け入れるんや? やっぱり国分寺?」

「ああ、あれ? もちろんNICTね。っていうか、笑っちゃった。赤色だって」

「岩戸紗英専用ってことやろ。カエルのおっさん、ヒール感覚で踏んづけてほしいんとちゃうか。MやでM。ドM」

「ヒキガエルのヒキって、そういう意味?」

 エスカレートする二人に有華が割り込む。

「私、お払い箱ですか?」

 岩戸もGEEも押し黙った。

「だって……オートパイロット車で通勤するなら、専属ドライバーいらなくないスか?」

「マジで心配しとったか」暗幕の中から手が伸びて、有華の頭をくしゃくしゃと撫でる。

 GEEの手はあたたかい。けれど、欲しいのは岩戸の答えだ。

 信号が青に変わる。車が再スタートを切る。有華がシフトアップを終えて巡航速度に落ち着いた頃、岩戸がゆっくり切り出した。

「ねぇ、ゆかりん」

「……はい」

「潮時かもしれないわよ?」

「……どういう意味ですか」

「公安に監視される魔女と、行動を供にする。これ以上続けたら……あなたのご実家に、迷惑がかかるかもしれない」

「……運転手辞めろ、って話ですか」

「ううん。岩戸紗英としてはお願いしたい。ゆかりんの……選択次第ってこと」

「続けさせてください」有華は即答した。

「……じゃあ明日、例のイケメン君が着任でしょ? 受け入れヨロシクね」

「……はい」

 GEEは暗幕から頭を出して言った。

「新人はイケメンなんか!? ぐひひ、楽しみぃ」

 有華は笑顔を作ろうと心がけた。自分を気遣うGEEの視線、ぬくもりは背中に感じられる。けれど岩戸がどこを向いて、何を考えているかはまるでわからない。

 電網庁長官を支える四天王クラスの女性官僚。大物政治家の娘でありながら学業優秀、実力で今のポジションに登りつめたエリート。憧れの相手だ。けれど慕う気持ちが強ければ強いほど、相手の事がわからなくなる。

 ロータス・エクセルの室内はさほど広くなかった。なのに助手席は、はるか遠くに感じられた。







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