(十六)

江東区・中央道・江東区・中央道




Ⅰ:江東区・青海:未明



 四本木篤之の罵声が轟いた。

「…………なんてザマだ。これじゃ、どうしようもないだろっ」

 壁の三方を取り囲む巨大スクリーン、その一つを見上げ、凝視するベガスの研究者たち。皆が突如復活したアスカ号からの反応——テレマティクスで得られた信号の波を追っている。

 その中に電網公安官——垂水昂市と部下三名の姿もあった。

(走り始めた……?)

 垂水は目を凝らした。スクリーン一杯にずらずらと描画される赤、青、黄色のグラフは、走行状況を克明に伝えている。赤はブレーキ踏力、青はスロットル開度、黄色は速度。赤が増すと黄色は減り、しばらくすると赤が減って青が増し、黄色が元へ戻る。その繰り返しが時間軸方向の波となって横へ横へと描き足されていく。速度はだいたい時速80キロ前後で推移していた。

(要するに、順調っていうことか)

 受信状態は良好。

 だが四本木を始め、スタッフは一様に落胆している。

「知りたいのはGNSS/IMU(注:測位衛星信号をジャイロなどの慣性系で補正する機能)なんだよ」四本木が吐き捨てる。「座標だ、座標。俺たちは車の現在位置が欲しいんだ!」

 垂水は即座に得心する。

 犯人グループの手によってデータロガーの挙動が変更されているのだ。ここに集うエンジニア全員を嘲笑うかのように。

 通信の中身が改竄されているのは別の事情からも明かであった。この管制室は先刻からアスカ号に向け、延々と制御信号を送り続けている。エンジンの動作にまつわる命令文。効き目があれば車を誘導し、停止させられるかもしれないという一縷の望み。だが反応は全くない。車は快調に走り続けている。そういう残念な結論だけが、延々と——スクリーンに描画されてしまう。

 犯人グループはあらゆる手を封じた。そう結論せざるを得ない。

「とりあえず」現場を切り盛りする主任クラスの男が呟いた。「送られてきた信号の記録だけは続けます」

「……畜生っ」四本木は頭をかきむしった。「舐められてるぞ」

 為す術無し。万事休す。頼みの綱は警察だけ。

 管制室がそんな空気に満たされていく。

 垂水昂市はふと深緑色のPC、その液晶画面——例の奇妙な暗号文に視線を落とした。



{

パスワードは三回まで受け付けます。三回目に失敗すると、中身が壊れる仕掛けです。正解は誰にも教えたことがありません。四本木篤之さんに読んでいただくことを想定しています。以下、パスワードのヒント……


自己責任です。

That bUiSiNeSShOTeL is awfully bad

because I was LoCkEDouT and that hotel's  fROnt forgot MOrniNgcaLL.

}


(こんな物と向き合ってる暇はないぞ。しかし……)

 朽舟というエンジニアがいったいどんな結論に至ったのか、四本木に何を伝えようとしたのかは興味深い。

 もしかしたらアスカ号を奪い返すヒントになるかもしれない。

(『自己責任です』とは、どういう意味だ)

 自動車事故を匂わすフレーズに感じられる。

 self-responsibility とでも訳すべきか。いや、むしろ後半の英文から取り組むべきだろうか。

(大文字部分と、小文字部分がある。待てよ……こいつは妙だ……)

 この英文は奇妙だ。そのおかしさがヒントになるはずだと垂水は考える。

 意味としては「あのビジネスホテルは酷い。何故なら私は部屋から閉め出されたし、ホテルのフロントはモーニングコールを忘れたのだ」とでも、訳せるが——

(そもそもビジネスホテルってのは、本物の英語じゃない……典型的な和製英語だ……もしかしたら)

 そのときだ。

(むっ)

 垂水は不意に集中を解かれた。

 HMDを介した一連のやりとりに心を奪われたのだ。


——係長……車のタイヤって撃ったことあります?

——お前、日本の警察が暴走車を強引に停められないことぐらい、知ってるんだろう——……ええ、まぁ。


 イヤフォンから流れ込む警視庁公安部二人の会話。緒方警部と飯島警視のやりとりを耳にした途端。

 垂水は慣れないオフィスチェアから転げ落ちそうになった。

(う、嘘だろっ)

 すんでのところで踏みとどまる。

 ベガス社からは止められそうにない。警察が頼み。その警察に止められないとは——どういうことだ。

 垂水はあわてて携帯電話に指を這わせた。

 顔見知りの警察幹部に連絡をとるために。

「もしもし、電網庁の垂水です」

 相手は警視庁公安部のリーダー、海老群公安部長である。

〈よう。例の盗難車について、だろ? こっちも臨戦態勢だよ〉

「僕、ベガス本社の研究所にいるんです。さっきアスカ号が動き出しました。こちらで確認できています」

〈なるほど、テレマティクスか! さすが実験用車両だ〉

「一〇〇キロ以下で走ってますから、白バイにしろパトカーにしろ囲めない状況じゃない」

〈位置は? GNSSで追えるの?〉

「それが……肝心のGNSS信号だけが拾えていない。犯人側でカットしているようです。あと、ベガス社からの命令は一切受け付けない状態。リモートコントロールは望み薄だ」

〈…………敵が一枚上手ってことだな〉

「エビさんは交機出身ですよね。教えてください。ハッキングされた暴走車が一台、高速の料金所へ突っ込もうとしている。タイヤはランフラットでパンクはさせにくい。もしかしたら人質が乗っている。警察はどうやって安全に停めますか。言い換えれば……」垂水は鋭角に切り込んだ。「……車を使った政府施設への自爆テロを公安は想定してますよね? その対処方法を採るでしょう。違いますか」

 的確な表現を狙ったつもりであった。ところが。

〈違うな、垂水クン。その二つは決定的に違う〉

「どうしてです」

〈車を使ったテロへの対策では、その車を安全に停めるなんて想定はしない〉

 垂水は絶句した。「……」

〈仮に原子炉へ車が突っ込むとして、だ。バリケードを張れば車は停められるかもしれんが、乗員の安全は保証できない。狙撃する場合も同じだ。タイヤだけ、エンジンだけを狙うなどと悠長な事は考えない。ドライバーを撃ち殺すことだって計算に入れざるを得ない。蜂の巣にして破壊あるのみだ。しかし今回は事情が違う〉

「ですよ、ね」垂水は調子をあわせた。「テロ車両とは違う」

〈違うさ。何が違うって、原子炉の正面玄関と高速道路の料金所では難易度が天地ほど違う……一般車の交通量が仇になるからね〉

 流れ弾で関係ない車を巻き添えにできない。そういう意味に解釈しつつ、垂水はこう続けた。「……パンクさせられない車を停める方法って、ないんですか」

〈交機は、暴走車を止める米国製の小道具をたくさん導入している。ランフラットタイヤだとしても、最新型の可搬式バリケードがあって、そいつなら強引に止められるさ。しかし狙った車の前にも、後にも、関係ない車が走ってる場合は使いあぐねる。そうだろ? 可搬式といっても重さが三〇キロある。それを横へずらーっと並べるわけだが、狙った車の前に突然ポイッと投げ出したり、引っ込めたりできるようなチョロい代物じゃない。人間が道路にふらふら出て行って設置するわけだ。警察官の手でやることなんだぜ。安全に出来なきゃまったく意味が無い。お前さんなら引き受けるか? 引き受けたとしても、絶対やり遂げると胸を張れるか〉

「確かに……狙った車と、その前の車の距離が十分空いていなければ、やりきれないですね」

〈仮にだよ。仮に、前が空いていて、設置できたとしても……つまり狙った車を豪快に停められたとしても、だ。後に続いて走ってきた車はどうなる? そのまた後ろは? 玉突き事故が起こって、それが安全で望ましい結果だと胸を張っていえるか? メディアは黙っているか? 国民は?〉

「黙っていないでしょうね」

 二人はしばし無言になった。やがて、海老群が口を開く。

〈怖がるばっかりで何もしないつもりか、と言いたいところだろう。もちろん手は尽くそうと思う。思ってるさ。まずは見つかり次第、白バイやパトカーに張りつかせるつもりでいる。いいか? 大事なのは車を前後で挟み込むことだ。減速させて前を走る車との間隔を空け、後続の車両もパトカーで先導して、完全に止める。それができて初めて策が打てるようになる。これだって随分リスキーなんだぜ? 先行する白バイが減速した時、それに続くオートパイロット車が減速してくれるかどうかは、一か八か。命を張った行動なんだ〉

「……わかります」

〈とにかく、他の車両と切り離しができていない段階では何の手も打ちようがない。どんな構造をした料金所であれ、その手前側で、一台だけを、安全に停めるのはおそらく無理だ。議論は尽くした。結論は見えたんだ〉

「と同時に、日本の警察は破壊もできない」垂水は一縷の望みを口にした。「盗難車だからといって、街中で破壊するという選択は警察としてあり得ない。なぜなら、テロの疑いがあるからといって、犯行声明でも出ない限り、走行している様子からその車が料金所にぶつかろうとしているのか、普通に通過しようとしているのか見分けなんてつきっこないからだ。おまけに善良な日本国民が乗っていると知っていたら、なおさら狙撃なんて無理。違いますか?」

 車を破壊するという選択肢は削ってほしい。一人の公僕の命を、善良な女の命を救ってほしい。彼女を失うことは電網庁にとっても巨大な損失になる。それは日本にとっての損失だと言い換えてもいい。垂水はそういう願いを込めた。しかし。

〈ああ、無理だね。表の手段では〉

 耳に届いたのは血の気が引く台詞だった。公安警察——警察の、裏の顔。その重鎮と会話を交わしている。そう改めて思い知らされた。

「まさか……嘘でしょう。岩戸ですよ。岩戸紗英が乗っているかもしれないんだ」

〈僕だって岩戸君を敬愛してる。その岩戸君が何を望むか……善良な国民を巻き込みたいと思うかどうか。彼女の立場に立って、熟慮したい〉

「ご冗談はやめてください」

〈馬鹿野郎、ふざけて言える話か! 一字一句、冗談抜きだっ〉

 真剣な恫喝を受けて、垂水は唇を噛む。

「…………」

〈……これ以上は無駄だね。切るよ〉

「待ってください。僕らは中央道の、永福料金所を危険視しています。行動していただくなら永福を優先してください」

〈その話は耳に入っているよ〉

 そこまでで、電話が切れた。

 垂水は自らに言い聞かせる。相手は冷徹な悪魔じゃない。その証拠に、海老群の声は震えていたじゃないか。救いはある。あると信じろ——。

 そして、ぐっと歯を食いしばった。

(何か。何か手はないのか)


 その直後だ。

 有華のロータス・エキシージが追走を開始したのは——


「何っ」

 岩戸紗英の反応があったという。高速道路を走る、アスカ号らしき赤い車から。しかし。しかしこのままでは。

 このままでは奈落の底へ向かって突進するようなものだ。

(始まってしまったか!)

 マイク越しに垂水は、初台にいる香坂一希へ檄を飛ばした。

 携帯電話。電子メール。SMS。考え得るすべての方法で、岩戸紗英本人に連絡を取れと、あらかじめ指示を出してある。

〈反応ありません……電話も、メールも、ショートメッセージも〉

 香坂の気落ちした言葉が返ってくる。

「続けろ。気絶しているかもしれない。たたき起こすんだ」

 会話に若手警察官・緒方の声が割り込む。

〈すぐに追いつくと思うぞ。すげぇ飛ばしてる!〉

 隙間に女ハッカー・GEEの声が滑り込む。

〈垂水はん。何かええ方法、考えなあかんで〉

 垂水昂市の目はベガス本社研究所の管制室、その広い空間の中を彷徨った。

 アスカ号にもっとも近いのは、どうやら常代有華のロータス。

 自分たちにラストチャンスがある。そう読んだ。

 だから。

「あと何分あるんだっ」マイクに叫ぶ。「永福料金所まで何分あるっ、時間を教えてくれっ」






Ⅱ:中央道:東京方面:未明



 緒方は強烈な加速Gに頭部をひっぱられながら、空手で鍛えた首の筋力を頼りに、踏ん張りながらHMDに向かってがなりたてた。

「高井戸まで15分って、看板が見えましたっ。永福はその先だ!」

 大声を出さずにはいられない。猛スピードで疾走する車というだけでなく、エキシージはミッドシップ・カー。座席を隔てたすぐ背後でエンジンが吼えているのだ。

 有華はドライビングに集中している。アクセルペダルをべた踏みし、あっという間に二百キロまで速度を上げた。が、そのペースでは走り続けることは叶わない。前を遮る車が現れるたびに減速、調子をあわせ、隙を見て抜く。その繰り返し。

 まだ赤いセダンの後ろ姿は見えていない。

 二車線ある片方、二人の目前でシャコタン(車のサスペンションを改造し、車高を低くした車)のいかめしいベンツが、高級ミニバンを追い回している。

 もう片方、左側は運送業者のトラックが塞ぐ。

 有華はヘッドライトを明滅させながら、クラクションを高らかに、そして延々と鳴らし続けた。道を空けてもらうまで音を絶やさないつもりだろう。すぐにシャコタンが気づいて、減速しつつ逃げるように車線を空けた。それでいい、と緒方は思う。ああいう改造車が本物と争えば、事故を起こすと相場が決まっている。シャコタンのドライバーには少なくとも、バックミラーに映った風変わりで小さな車の、ロケットかと見紛う尋常でない速さを想像できた。それがとても喜ばしい。

 しかし、その前にいた高級ミニバンには、車重が2トン近くあるベンツだろうが八九〇キログラムしかないロータスだろうが、同じヤンキー車にしか見えないようだった。煽られようが何しようが、時速一〇〇キロ前後を守り、追い越し車線を開ける気がない。頑固な奴だ。しかも左を走る運送業者とスピードが一緒。

 一見して有華たちには進路がない。しかし、そこはロータス。ベンツに比べて車幅は十センチ程小さいのだ。

 有華はクラクションを諦めた。

 と同時にハンドルを左へと切る。

(二台の隙間を突く気だな)

 チャンスはある、と緒方は了解していた。ゆるやかなカーブの遠心力でトラックはコーナーの外へ膨らみ気味となり、一方のミニバンは意地でレーン中央をキープしている。本物のレースと違って、トラックとミニバンはお互いを寄せてくるはずがない。

 つまり、おそらくタイミング次第で隙間は車一台分広がる。そういう計算。

 そして自分たちのクルマは小振りなロケット弾。

「ここで行くっ」と有華。エキシージが加速する。

 高速道路は緩やかな右カーブに入った。ミニバンとトラックの間が広がる。

 二台の間隙に、割って入る。

 刹那、三台が並ぶ。 

 トラックとミニバンの間を瞬時にぶち抜く。

 レーシングドライバーは相手の癖、状況を見抜いた上で——もちろん言語化することなく——判断を下し、直感的に、車幅の分だけ間隙を縫う。しかも追い抜きオーバーテイクするチャンスは少ない。緒方はそういった習性を、高校生活を通じ理解している。だから余計な口出しはしない。

 ただしこのクルマのドアミラーには(かつての有華の愛馬エリーゼと仕様が同じなら)折りたたみの機構がない。

 接触したら、たぶんポキリと折れる。

 それを少々心配しつつ身構えて——

 ぶち抜いた後はただ一言、大きな声で「ナイス!」とだけ告げた。

「パトライトが欲っしい!」有華が笑う。抜いた相手が何者であれ、頭の悪い暴走ドライバーだと思われるのは心外なのだろう。

 緒方はもう一度声を張った。「あのあたりは広いから、抜くにはいいポイントだった!」

 俺にも覚悟はある。そういう意思を込めた。

 有華は小さく頷く。後は前方に集中。

 緒方はあらためて安堵する。彼女はこの道を身体で知っているはずだ。十代の頃も、今も、中央道は庭同然。

 国分寺生まれは伊達じゃない。

(そうだよ。俺たちには、アドバンテージがある!)

 それから三十秒もかからなかった。

 有華が時速百七十キロを超え、前を行く車を五台ほどパスした時——遂に。

「いた。あれでしょ!」有華が叫ぶ。

 いた。NICTから逃走した自動運転オートパイロット車、赤いテクセッタが。

「アスカ号だ!」緒方はマイクにがなる。「追いつきましたっ」

 アスカ号は左車線をキープしている。時速は百キロ程度。

 有華は減速し、右側を併走する。助手席から緒方は目を凝らし、アスカ号の右側面——運転席の中身をにらみつけた。

(いない。誰もいない!)

 無人で、ただハンドルだけが揺らいでいる。

 間違いない。オートパイロット状態だ。

 緒方は助手席の窓を開け、成金時計を車にかざした。反応を待つ。HMD越しに見えるCGの画像、ライフル銃の上に乗っかる三頭身の相棒。その反応を。

 一秒、二秒、三秒。十秒、二十秒は待った。しかしアバターは宙返りを決めない。

〈電網免許証反応……岩戸紗英に同ず……41%……57%……〉

 心許なげに、確率を報告するだけだ。信号の反応が極めて微弱らしい。

「岩戸さん、乗ってるのっ!?」有華が急かす。

「いや、見た感じだけでいうと……乗ってなさそう……後部座席に寝転がってるのかも……酔っ払って寝ちゃった、とか……?」

 その時。

「もうっ」と有華。

 前方に邪魔な車が現れた。そのせいで、アクセルを緩めるしかなかったのだ。

 そのせいで減速した。つまりロータス・エキシージが、ベガス・テクセッタに若干の遅れをとった。その弾みで——

〈……70%……68%〉髷の反応が変わる。あいかわらず微弱だ。しかし明かに数値は大きくなった。

 自分たちのエキシージが、アスカ号の側方からやや後ろ側へ寄った、位置がズレた弾みで信号が強くなった。ということは。

「トランクの……中か?」

 クルマの最後尾に岩戸紗英がいる。閉じ込められている。それがイメージできた。

〈聞いてくれ、緒方。こいつはタイプXの反応だ〉

 香坂の声だ。成金時計を介し、遠く離れた電網庁にまで測定結果が届いている。その信号を分析した上での発言らしい。

「タイプXって何だよっ」

〈開発コード。普通の電網免許証じゃない。こいつはネックレス型の反応だっ〉

 緒方は納得した。

「そう……か。カード型の電網免許証は犯人に奪われたんだ。けれど、首のネックレスが反応するという事情まで、連中には見抜けなかった」それから運転席に告げる。「間違いないぞ。岩戸さん見つけたっ」

「乗ってるんだね。中にいるんだね!」

 有華が叫ぶ。「……絶対、絶対助けるっ」


 





Ⅲ:江東区:青海:未明



 垂水昂市は、岩戸を救うチャンスを広げるべく、できることがあるかと四本木に問うた。

「うちの車が、テクセッタを追いかけているんです。何かできることは」

 四本木が号令をかけ、社を代表する研究陣が集う頂上会議が始まった。立ったままで議論がヒートアップする。しかし。


——CANの信号を支配されているとしたら、物理的な手段(バリケードなど)で停めるしかない。

——犯人が加えた改造の中身がわからない以上、手の施しようがない。


 それが結論なのかと垂水は落胆した。もちろん集っている全員が真摯で、賢明。それだけに同じ結論、凡庸な結論に行き着く。

 特に「停める」となればブレーキ回りに議論が集中するが、その筋のエキスパートはここにいないのだ。

 朽舟。だれもがその名を口にする。

 やがて誰かが言った。


——そういえば朽舟さん、最近ブレーキ回りのアルゴリズムを修正してますよね


「なんだって」四本木が目を丸くする。「最近!?」

「バスの一件があって、それからツールパッケージの幾つかにリリース(モジュール単位でのソフトウェアの更新)があった。いつの間にかバージョン上がってたんで、何かやったんだろうということはわかってたんですが」

「どうやって朽舟がリリースしたんだ」四本木が言った。「出社してなかっただろう、ここんとこ」

「古いモジュールの修正でしたからね。誰かがメールで受け取ったんじゃないですか。命じられるままに組み込んだんでしょう」エンジニアの一人が平然という。「朽舟滋のオーダーなら、この部屋の住人の誰だって鵜呑みにしますよ」

 四本木たちはデスクトップの液晶モニター前に集い、最近のアップデート履歴を示す日付のリストを注視した。テクセッタの納品にむけ、アップデートはここ一週間、頻繁に行われた。行われすぎていて、だから朽舟が行ったであろう小さな、ごく小さなモジュール単位のバージョンアップが、メジャーアップデートの隙間に紛れ込んでいる。

 履歴には二箇所、朽舟の署名が示されていた。

「二回」四本木が親指の爪を噛む。「あいつ、何をいじった……しかも二回……」

 指摘したエンジニアが肩をすくめる。「コメント文(プログラムの中に残すメモ)でも読みますか? 何か書き残してるでしょう。ベガスじゃ一番几帳面な人ですからね、朽舟氏は」

 四本木が垂水に目配せする。

 垂水は頷いた。やはりこの、深緑色のノートPCと対峙すべきなのだ。事態を好転させる鍵かもしれない。

 あの意味深な暗号文に向き合う他はない。

 大規模なハッキング被害にあったベガス。社員が信用できない状況。そんな中で朽舟は四本木を、四本木だけを信じた。だから四本木にしか解けない状態で、重要な情報を残そうとした。


{

パスワードは三回まで受け付けます。三回目に失敗すると、中身が壊れる仕掛けです。正解は誰にも教えたことがありません。四本木篤之さんに読んでいただくことを想定しています。以下、パスワードのヒント……


自己責任です。

That bUiSiNeSShOTeL is awfully bad

because I was LoCkEDouT and that hotel's  fROnt forgot MOrniNgcaLL.

}


 垂水は四本木を呼び寄せ、メールの文面を指差しながら言った。

「この英文の、大文字と小文字がごっちゃに綴られた部分がおかしい」

「ですよね。私もそこまではわかります。わかるんですが、だからどうしろというところが、わからなくて……この部分をつなげて入力しろとか、そういうこと?」

「違うでしょうね。よく見てください。四箇所あるんですが、まずこのビジネスホテル(bUiSiNeSShOTeL)ってのは英語じゃない。いわゆる和製英語、日本人が作った造語だ。同じくフロント(fROnt) もモーニングコール(MOrniNgcaLL)も、正式な英語としては存在しないんです……けれど」

 垂水の丸くつぶらな瞳が横一文字に絞られた。「LoCkEDouT……ロックト、アウト。これだけが英語として正しい。つまり四箇所あるうちの一つは間違ってない。どう思われますか? locked out ……ホテルの部屋を出た時、オートロックがかかっちゃったってことでしょう。ポケットに手を入れてみると、部屋の中に鍵を忘れたことに気づく……『自己責任です』とありますが、まぁ確かに責任は自分にある」

 四本木が目を見開いた。「自己責任……インロックだ」

「インロック?」

「自動車の場合、車の中に鍵を置いたまま、外から鍵がかかった状況になってしまうことがある。運転手が悪いんですけど、そういうのを俗にインロックって言うんです。あ、もちろん本物の英語じゃインロックとは言わない。たぶん……ロックト、アウトじゃないですか?」

「なるほど……INLOCKか」

「プログラミングの制約として、僕らはモジュールに英語名を付ける必要があるんです。でも、あんまりおかしな名前をつけないよう気を遣う。しかもインロックって、実は日本車特有の現象なんですね。だから和製英語。けれどプログラマは考える……inlock.h なんてネーミング、おいおい、やめとこうかって話になる。そうだ。そういえば」四本木は目を見開いた。「……僕と朽舟は昔、インロック対策で海外営業とやりあった経験があります」

「それだな、それだ」垂水が掌で机を叩いた。「和製英語のINLOCK……その六文字をパスワードに使えってことでしょう。あ、けれど」

「…………」四本木が苦笑いする。

 垂水もそれにつられて、笑う。

 たったのアルファベット六文字。しかし大文字か小文字かは不明。

 組み合わせを考えた場合、2の六乗=64通りが存在する。

「たった三回のトライで成功しろ、と……つまり朽舟は、我々が大文字か小文字かで困る状況を想定している。ということは、まだ何かヒントがあるはずだ」

 垂水は文面を睨み直した。「……四本木篤之さんに読んでいただくことを想定しています。このくだりが」

「……どうします」

「ちょっとメールを拝見していいですか、四本木さんのパソコンをお借りして」

「ええ。どうせ丸裸も同然なんだ。好きにしてください」

 垂水は四本木の椅子に座り直すと、メールアプリの検索窓を開いた。「朽舟からはたくさんメールが来ますよね? その中に、こういった書きだしの文面があるか、どうか」

「あったはずだ……幾つかあったと記憶してます」

「不特定多数に読まれることを想定しながら、しかし、四本木篤之が読み解かねばならないメール……」

 十二通、同様のフレーズを含むメールがヒットした。いずれも件名に『四本木篤之さんに読んでいただくことを想定しています』という一文が含まれている。

『四本木篤之さんに読んでいただくことを想定しています』

『Re : 四本木篤之さんに読んでいただくことを想定しています』

『Re:四本木篤之さんに読んでいただくことを想定しています』

……

 そして——メール本文の書き出しはこうだ。

「『四本木さん@資本主義者様へ』……? こりゃあ、なんですか」垂水は腕組みする。

「メールの中身ですか? ……ああ、さっきお話ししていたやつですよ。車載信号のセキュリティ対策にまつわる議論だ」

 四本木はヒットした十二通を丹念に拾い読みした。「朽舟は自動運転の開発より前に、信号のセキュリティ強化に手をつけるべきだと主張してました。でも私は、コストアップを理由に拒み続けた。使い慣れたプロトコルのままで開発を続ける方針をとった。だからあいつには、四本木しほんぎじゃなくて資本主義者だって罵られてました。私宛に直訴のメールを繰り返した朽舟は、都度、研究所内の全員に転送していたんです」

「だから不特定多数にバラまかれた。しかし件名は、四本木篤之さんに読んでいただくことを想定しています……か。なるほど」

「ここにいる連中のほとんどが僕と朽舟のやりとりを知っていました……あの野郎のせいで、若手にまで『資本主義さぁん』なんて、からかわれたりして……まったくもぉ」

「資本主義者……キャピタリズム……キャピタリスト……」

 そこまで垂水が口にした途端、四本木が弾かれるように立った。

 二人は目を見合わせ、同時に叫んだ。

「キャピタル・レター(capital letter)……大文字だ!」






Ⅳ:中央道:東京方面:未明



 右車線を走るエキシージ。

 左車線を走るアスカ号。

 しばし二台は時速百キロ前後で中央道を併走していた。ところが緒方は舌打ちする。まずい——

 前を走っていたタンクローリーに追いついてしまったのだ。しかもヘッドライトの照り返しがギラギラしている。

 問題の「無塗装タイプ」だと主張している。

 アスカ号はタンクローリーの背後に迫った後、十キロほど減速。それに合わせて併走しているエキシージも速度を落とす。

 右車線にエキシージ。

 左車線にタンクローリー、それに続くアスカ号。

 一台と二台が併走する形になった。

「タンクローリーを右に出させんなっ」緒方が叫ぶ。

 有華はすぐに理解してスロットルをわずかに開けた。速度を上げてタンクローリーに並ぶ。こうしておけばタンクローリーは車線変更できない。テクセッタの右斜め前に——危険な位置に出られることがない。

 修学旅行バスの件に遡ること一年前。リコールされた追突事故ばかり起こすトラック。タンクローリーが起点になったとベガス社は発表した。自動ブレーキシステムを構成するレーダーとカメラの視線、その斜め前に『銀色の光沢を持つ車』がいる状況。それが誤動作の引き金。

「これでいいっ!?」

「そう! この位置キープしてくれっ」

 緒方は窓から頭を少し出して、強風に飛ばされないようHMDを押さえながら、タンクローリーの運転席を見上げた。しかしこちらの車高がとびきり低く、運転手の顔はよく見えない。

(こいつ……)

 見極められそうにない。このタンクローリーが犯罪グループの一員なのか、そうでないのか。

 いずれにせよ、この銀ピカを右に出させてはいけない。

 ほどなくしてタンクローリーの前方に、とびきり遅い鉄パイプを乗せたトラックが現れる。時速70キロが限界のようだ。80から90キロ程度で巡行していた三台は、この貨物トラックに阻まれてさらに減速する。

 右車線にエキシージ。

 左車線にトラック、タンクローリー、テクセッタ。

 遂に四台が併走する形になった。しかも時速七十キロで。

(まずいな……)

 この超低速トロイカ体制を何時までも続けられるはずがない。左車線の行列はまだいい。有華と緒方のエキシージは速い車のための右車線——いわゆる追い越し車線を走っているのだ。パトカーでもない限り、時速七十キロでここを走り続けるのは迷惑千万。

 危機はすぐにやってきた。背後から——とびきり速い獣が迫ってきたのだ。自分たちが抜いてきたベンツやミニバンを蹴散らしたに違いない、そして、自分たちの英国車と遜色ない威圧感を放つ、ゲルマン民族の誇りが。

「ぐ……ポルシェ君が来たぞ」有華が苦笑いする。

 世界有数の老舗スポーツカー、それも家が建つほどの価格を誇るハイエンドマシン。こいつがのろのろ走りを許してくれる筈がない。有華はやむを得ずアクセルペダルを踏んだ。左車線に三台が併走しているから、自分が減速してやり過ごすという手が打てない。前に出るしかない。それはわかる。わかるけれど——

 緒方は叫んだ。「前に出たらダメだっ」

「んなこと言ったってっ」

 銀ピカが左車線をキープしている間はいい。けれど、その進路をとびきり遅いトラックが阻んでいるのだ。タンクローリーの運転手は我慢できなくなり右へ出ようとするだろう。追い越しをかけるだろう。それをエキシージで遮りたい。抑え込みたいのだ。

 なのに、ポルシェに突っつかれてエキシージは右車線をズルズルと前へ進んでいる。

 有華は車線を譲るべくハンドルを左へ切った。遅すぎるトラックのさらに前へと滑り込む。

 空けてやった右車線をポルシェが猛ダッシュして行く。

 左車線には遅い四台が並んだ。エキシージが先頭。

 そして、事が起きた。

「やられたっ」バックミラーをにらんでいた緒方が叫ぶ。

 タンクローリーが——右へと車線変更したのだ。

 つまり銀ピカ野郎が、アスカ号の斜め右前に出た。

「どうしようっ」有華が叫ぶ。

「くそっ」緒方が制した。「速度、速度キープしてっ」

 まだチャンスはあるはずだ。永福料金所は遥か先なのだから。緒方はそう言い聞かせる。

 まず、鉄パイプを載せた遅いトラックが群れを離れていった。調布インターチェンジを降りるのだ。速いポルシェはとっくに前方へと飛び去ってしまった。つまり集団は三台連れに戻った。

 右にタンクローリー。

 左にエキシージと、アスカ号。

 銀ピカはちょっとずつ加速して、自分たちを追い越そうとしている。有華と緒方はそれを無視した。バックミラーの中身が気になる。

 真後ろの赤い車——ドライバーのいない、ハンドルだけがふらふらと動くアスカ号。その挙動だけを意識した。ところが。

(何も起こらない!?)

 どうやら左車線をキープして走行するようプログラミングされているらしい。

 そして、銀ピカの位置に影響された様子は見られない。

「おかしな動きには、見えないけど!?」有華が言う。

 緒方は眉間に皺を寄せ、首を縦に振った。

 タンクローリーが更に加速する。時速九十キロは出ているだろうか。こちらは七十から八十の間。

 やがて銀ピカの背中は見えなくなった。

 深夜の中央道。前後一〇〇メートルに他の車はいない。

 のろのろと左車線を走る二台だけが、ぽつんと残される。

「ラッキー……ってこと?」有華は安堵して笑みを浮かべる。「ねぇ、このまま私が前で減速したら、停まってくれないかなコイツ」

「どう思います?」緒方はHMDのカメラをバックミラーの中身に向けた。

 まるで報道カメラマンのようにエキシージの画像を遠方へ送り届ける。

〈試してみる価値あると思う……けど〉GEEの声が返ってきた。〈ハンドル切って、回避されるかもしれへんで?〉

「やってみる……よ?」

 有華は巧みにエンジン回転数をあわせながらシフトダウンを繰り返す。ブレーキを唐突に踏んだりせず、少しずつ、少しずつ減速した。

 ところが、六十キロを切ったあたりで。

「あっ」

 赤い車はウインカーを出すと、右への車線変更を始めた。エキシージを邪魔だと判断、追い抜きにかかったのだ。

「……」二人は黙って様子を見守った。

 右からエキシージを追い越したアスカ号は、再びウインカーを出し、左車線へと戻る。そして何事もなかったかのように加速し始めた。といっても穏やかなもので、百キロ程度に達すると、そのペースを維持している。

 左車線にアスカ号、次いでエキシージという位置関係に収まった。

「そうなるか」有華はマイクに言った。「ダメだった。やっぱ回避されちゃう」

 緒方がこう付け加えた。「左車線を、百キロぐらいでキープするようプログラムされてるみたいです」

〈でも減速してる様子はあるんやろ?〉

「うん……自動運転っていうぐらいだし、料金所が見えたら勝手に停まるかも」

 だったら——だったら何も心配ない。


 そうなのか?


 緒方はアスカ号の背中を眺めていた。

 有華も、ただ前を見ていた。

 新庁舎にいるハッカーたちが。あるいはこのコミュニケーションを伝え聞く、すべての関係者が。

 アスカ号の後部、岩戸紗英を積んだトランクを——それを凝視する緒方の、HMDに仕込まれたカメラ画像を見据えていた。

 皆が同時に、油断した。そのタイミングで。

(痛っ……!)

 緒方はおもわず掌を目の前にかざした。

 左手首を上げた弾みで、包帯の中身がずきりと痛む。反射的な動きだった。そうせざるを得なかった。

 まぶしかったのだ。助手席のドアに付いたバックミラー、その中に映る光が。

 膨大な、そして圧倒的な明るさ。あふれんばかりの光芒が否応なしに瞳の中へ飛び込んできたのである。

(何だ!?)

 緒方は必死に瞳を凝らし、ミラーの中身を見据えた。真夜中の高速道路が昼間のように煌々としている。それほどの光量をもたらす者が、背後に迫っている。

 その正体を見極めねばと思った。

(車……大型車だ……)

 一台ではない。三台、四台の大型車が一団となっている。それらの焚くライトの光量が尋常ではない。フォグランプを点灯し、莫大な光束を放っている。そして。

 その中に——銀色の光沢を放つ、新たなタンクローリーの姿が。

「そうか……そういうことか!」

 緒方は叫んだ。「有華っ! 後ろの連中を絶対前に出させるな!」

「どういうこと!?」

「……さっきのは、たまたま偶然居合わせたタンクローリーなんだ。でも、こっちは違う。こいつらは本命だ!」

「だから何で!?」

「明るさだよ! 鏡みたいなボディを持ったタンクローリー、そのせいで追突事故を起こしたトラック……アレは昼間しか起こらない事故だった。カメラの特性。カメラは夜、感度が悪くなる。映りが悪い状態だと、そもそも自動ブレーキはオフになる。あのバスもそうだった。夜間走行では運転手がブレーキを操るしかない代物だった。なのにバスは夜中の二時に料金所へ突っ込んだ。なぜだか自動ブレーキが勝手にオンになって、人間から操作を奪った。そして誤動作を起こした。いや、起こさせたんだ。そのからくりが今、わかったよ」

 緒方はHMDを介し、声が届くすべての人間に発報はっぽうした。

「そんな事をさせるには、バスに仕込まれたセンサーが……カメラが、コンピューターが、まるで昼間だと勘違いするほどの十分な光が必要ってことだ! ……こいつらは」

 言葉に、力を込める。「……こいつらは、全員グルだっ」











  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る