(十五)

江東区・八王子




Ⅰ:江東区:青海:未明


 垂水昂市は腕時計を気にしながら広大なショールームを早歩きしていた。

 ベガス社最大の展示場はお台場を象徴するエリア、それも巨大観覧車の傍にある。一〇〇台もの車種を展開するテーマパークのごときスペースが、今は客もスタッフもいない。薄暗く、ひっそりとしている。

 その膨大で微動だにしない最新車種の間隙を縫い、部下二名を引き連れた垂水は研究所のある建屋へと向かっていた。深夜一時半。電網庁仕様の赤いテクセッタ「アスカ号」が行方を眩ませてから一時間が過ぎている。

(間に合ってくれ)

 移動しながらもHMDを装着し、香坂とGEE、有華の動向には気を配っている。しかしそれ以上に今夜何が起き、これから何が起こるのか垂水は深く考察し続けた。見えざる「敵」に勝ちきるための戦術を欲していた。

 ベガス社製の自動運転車にはいわゆるテレマティクスが備わっている。つまりベガス本社研究所から車両のGNSS(測位衛星)信号を追尾可能、と説明されている。だからNICTから車が消えたという連絡を受けた〇時一〇分過ぎ、垂水は霞ヶ関から間髪入れずベガス社技監・四本木に連絡を取り、余力がありそうな網安官(=電網公安官)二名を選抜、このお台場・青海エリアへ移動を開始したのであった。

 案内された官制室は極秘扱いらしく、社員証と暗証番号で二重のセキュリティという念の入れようである。最後のドアを通されて垂水の部下二人は「おお」と声を漏らした。広くはないが三方の壁に大きなスクリーンが、フロアには電子機器や端末の類がところ狭しと並んでいる。だが深夜の緊急招集とあって人影はまばらだ。

 垂水は装着していたHMDを跳ね上げると、管制室の最後方にカエルのごとき顔をした中年男を見つけ、すぐさま会釈した。

「お待ちしてました」四本木が手を挙げ、甲高い声で応える。「ミッドタウン以来ですな」

「まことに申し訳ありません」垂水は歩み寄って恭しく頭を下げた。テクセッタ盗難の責任はNICT、その監督官庁たる総務省にあるという意味だ。

「いいえ……我々にも落ち度はある」四本木は首を横に振った。「むしろ我々に落ち度がなければ、こんなことにはならなかったかもしれない」

 垂水は頭をあげた。四本木の言わんとしていることは耳に入っている。

 修学旅行バスの件に遡ること数ヶ月前、ベガスの重役がハッキング被害に遭っていたという事実。重要機密が社外に漏れ、ハッカーグループに(おそらくアングラSNS、ストロングホールズなどを利用して)犯罪計画を立案するきっかけを与えたという事実。その落ち度を役員が隠蔽してきた事実。

 この会社は傷だらけであった。藁にもすがりたい思いだろう。ならば。

「敵がハッカーの場合に限り、我々は警察を超える力を持っています」垂水はきっぱりと言った。「ここにいる三名は電網庁の公安局所属。私も含め全員が電網公安官です」

「電網ゼロ種の方々、というわけですな。頼もしい」

「我々は行政に所属するハッカー。コンピューターを用いたソフトウェア開発の知識がある。サイバー犯罪、サイバー攻撃を防止するのが仕事なので、事が起こる前に行動する権限もある。そういう意味では刑事警察以上の活動が可能だ。できるかぎり情報は公開していただきたい」

「そうしたいのはやまやまですが……アスカ号、いまのところGNSS信号が来てません」四本木は言った。「GNSSだけじゃない。車両のあらゆるデータが拾えていない」

「どういうわけで?」

「二つ可能性があって……一つは、単に車が止まっている。電源オフなら信号は来ません。トレーラーか何かに乗せられて、移動中かもしれない」

「もう一つは」

 四本木は苦々しく言った。「……犯人がデータロガーを外した」

「データロガー?」

「こいつなんですが」四本木は黒い小箱を手に乗せた。「本社とクルマをつなぐ、通信機ですわ」

「お借りしていいですか」

 垂水は連れ立っていた部下の一人にデータロガーを手渡す。

 二人は空いた机を与えられて、持参したノートPCやハードウェア解析用の増設ボードなどを並べ始めた。

 一人はベガス社のスタッフと意見を交わし、仕様書、計測器やICEインサーキット・エミュレータ付のコンピュータ、ブレッドボードやMATLABといったRCPラピッドコントロール・プロトタイピング環境をまるごと用意できないか、といった相談を始める。

 もう一人は管制室の前方へ陣取り、アスカ号から信号が来るとすれば何処の端末のどのオペレーターが反応するのか確認し、その傍に張りつこうとしている。

 部下の動きを眺めつつ、垂水が言った。

「データロガーが外されても、自動運転は可能なんでしょうか」

「可能ですね……データが逐一、こっちに来ないだけで」

「仮にデータロガーが外されていなかったとして、ここから緊急停止の信号を送ったり、とかはできませんか」

「それに近いことは可能な筈です……外されていなければ。しかし」

 四本木は眉をハの字にして肩を落とした。「相手がテレマティクスの専門知識を持っていたら、まっさきにデータロガーは外すでしょう。しかもこいつは汎用品だから扱いも難しくない」

「こういうものは自社製の特注品じゃないんですか」

「今回の車両はベースが米国仕様なんです。ネバダでの実験走行は現地のスタッフとも協力する必要があって、カナダ製の汎用品を使うメリットがあった。開発用の車両ってのはセキュリティ第一じゃない。使い勝手優先ですからね。まさかこんな事になるとは」

 垂水は敵のプロファイリングを始めようと考え、質問を変えた。「犯人はアスカ号の構造について、どこまで知っていると思いますか」

「……八千夜さんにお話ししたとおりです。会社の重役陣がハッキング被害にあっている。ということは、弊社のサーバーは全部丸裸と考えておくべき……だとしたら」四本木は机に置かれ閉じたままのノートパソコンを指差した。「僕のパソコンも、部下のパソコンも一切合切ダメかもしれない」

 垂水は溜息をついた。

「車の運転マニュアルも……」

 四本木は首を横に振った。「マニュアルは大して問題じゃない……むしろCANでやりとりしてる信号の仕様を理解されると痛い」

 CANコントローラー・エリア・ネットワークは車載コンピューター間を駆け巡る信号プロトコルの一種。1983年にドイツのBosch社で開発が開始され、1994年には欧州発の正式な国際規格となった。

「CANのプロトコル自体は統一規格だ。けれど信号の中身は各社で異なる。そこが社外秘、だから本来クルマのソフトウェアを操るのは難しい。どのIDの信号がどのハードウェアを動かすか、信号のアサイン(割り当て)自体がセキュリティとイコール。でもそいつが……」

 四本木は眉をひそめる。「……信号アサインを記述した仕様書が、きっと流出した」

「理解したハッカーは、中身をいじりたくなるでしょうね。心得のある人間なら、手を出してみたくなるはずだ」

 四本木は首を縦に振った。「盗んで乗り回すだけならまだいい。改造されたらアウトです。暴走車両になっちまう」

「ですが、犯人があらかじめ仕様書を手に入れ、机上で理解を深めたとして……盗んだクルマに手を加え、改造して走らせるにはそれなりの時間が必要だ」垂水は腕時計をチラ見した。「車両を盗んで一時間や二時間でどうにかなるとは思えない。今夜はもう動きはないかもしれませんね」

 四本木は肩を落として言った。「ところがね、テクセッタは危ないんですよ。構造が筒抜けだから。こればっかりはどうしようもない」

「構造?」

「ええ。自動運転で動かせるクルマというのは、そもそも九割方までバイワイヤ化(※部品同士が金属ケーブル・油圧・空気圧といったアナログな仕組みだけで結節せず、間にコンピュータ制御を介在させること)されてます。シフト、アクセル、ブレーキ、ハンドル……あらゆる操作系がコンピューターからの指示で動かせる。実はね、市販車のテクセッタはバイワイヤ化率が物凄く高い車で、だから自動運転の開発ベース車両になったんです。つまり言い換えると、市販のテクセッタを買えば誰でもバイワイヤ構造そのものを研究できる。自動運転の機能は積んでいませんよ。けれど、ハードウェアとしてはほぼ同じだ」

 頭の中身は違う。でも手足は同じ仕掛け。垂水はそう理解した。

「つまり……犯人グループはまず、ベガス社のサーバーを襲って得られた自動運転の仕様書やファームウェアを研究した。次に市販のテクセッタを手に入れて、改造したプログラムを流し込む実験を行う……そういうことですか」

「実際、連中がわれわれから奪った自動運転用ファームウェアを市販のテクセッタのECUに読み込ませても、そこそこ動く可能性はあるんです。もちろん市販車には自動運転に不可欠なセンサーやカメラの数が足りないし、だから自動運転化しても安全性は皆無。ですがGNSSの信号を拾って、地図に沿って走ることぐらいはできる」

「できるんですか」

「できますね。滅法危ないけれどラジコンカーにはなる。犯人はあらかじめ同型車を改造して熱心に研究した」

「そうしておいてNICTを襲い、センサーをたくさん搭載した実験車を入手。そこへ自慢の改造プログラムを流し込むだけならば、一瞬で終わる……三十分……もしかしたら、数分もかからない。データロガーを外せば、ベガス社の言うことも聞かなくなる」

 四本木がううむ、と低く呻いた「アスカ号を奪った連中は……修学旅行バスの一件にも絡んでる。そう思われますか」

「断定はできません、しかし」垂水は頷いた。「甲斐原の一派である可能性は高い。ウチはそうにらんでいます」

「朽舟はね……バスのアレは防げた筈だと言うんです」

 朽舟滋。例の——自殺を図ったエンジニアの名だ。

 四本木は机に向き直ると、斜め前方に置かれたデスクトップPCのキーボードを打ち、メールの履歴を開いた。

「朽舟は先日の観光バス事故以来、病欠という形で姿を消しました。でも、実は引きこもっていろいろ調べていたらしいんです。あの車体は自動運転車ではありませんでしたが最新式で、バイワイヤ化率が七割以上。ステアリング・バイ・ワイヤだけが未実装でした」

 ステアリングとは操舵の事だ。「つまりバスの運転手は、いくらプログラムを改造されたとしても、最低限ハンドルだけは自分の意思で操作できた」

「それであの規模の被害になった。アスカ号はもっと確実なラジコン爆弾にできる」

「どうやったら防げると? 防ぐ手立てはない?」

 四本木は苦々しく言った。「僕と朽舟は昔から、CANの信号はいずれハッキングされるに決まっていて、だから処理を暗号化すべきだ、セキュリティを強化すべきだという技術議論をやってました。しかし暗号処理の負担が増すと、百個からあるECUが全て値上がりします。原価がはね上がる。クルマ作りってのはコストとの闘いでね……企業としては難しい。当面無理。その当面って、いつまでですか……と、よく朽舟に問い詰められた」

「何時頃から、そういう話題を?」

「〇年代の前半ですかね。四六時中口論しましたよ。メールでも議論したなぁ……あなたは四本木しほんぎじゃなくて、資本主義野郎だって……朽舟には罵られっぱなしで」

 四本木の顔はこわばっている。責任を感じている、という顔。

「四本木で、資本主義ね。上手くできたダジャレだ」垂水はムードをほぐそうと、苦笑してみせた。しかし。

「笑えないです、ちっとも」四本木は頑なだ。「僕だってエンジニアだ。あいつの主張を通してやりたい……でも、経営側として求められる役割りの方が重い。社員の家族を路頭に迷わせるわけにはいかんのです」

「つまり……自動運転オートパイロットが普及に至らなくても」垂水は言った。「……車体のバイワイヤ化が進んで、尚且つECU間の通信仕様が古く、セキュリティの甘い今こそ……アングラ自動運転車をいくらでも造り得る。そういうことですね」

 十年後はいざ知らず、現行の日本車は宝の山。中東あたりでラジコン爆弾テロに使うベース車両、その筆頭がベガス製——垂水はそういう皮肉を込めた。

「セキュリティがお粗末だというのは認めます。しかし、でも」四本木は語気を荒げた。「我々が甘かったとは言いたくない……修学旅行のバスを暴走させるなんて、想像できますか。気ちがい沙汰だ! 意味が……わからない」

「連中の動機は、おそらく幾つかの利害が重なったものと考えられます」

「幾つかの利害?」

 垂水は牙城ストロングホールズという固有名詞を出さず、説明を試みた。

「最近のネット犯罪は、匿名の実行犯が計画を立案し、それに匿名の黒幕が興味を持って資金を提供、顔も声も知らない同士で計画を実行に移す。そんなケースが増えています。黒幕が複数いることも珍しくない。なので動機から犯行グループを割り出すのが難しい」

「恐ろしい……時代ですね」

「クルマを改造して爆弾にできる。これは実行犯のスキルです。そこに誰がスポンサーとして資金を投じるか。たとえば日本の自動運転技術に難癖をつけたい奴。あるいはベガス社の信用に傷をつけたい奴。そういった連中がネットを介し、各々提供する資金の総和がハッカーの収入源になる。でも」

「……でも?」

「バイワイヤ化のお話を伺って、もっと巨額な利益を狙っていそうな予感が湧いてきました。四本木さんたちにとっては、最悪のシナリオがある」

 二人は互いに目を合わせず、しばし黙った。

 やがて。

「おっしゃってくださいよ」四本木が切り出す。「今更何を言われたって、動じませんや」

「ベガス社を国際訴訟の場に引きずり出す計画があるかもしれない」垂水は机の上で両手を組み、額を乗せた。「テクセッタの市販品を改造、コントロールできるとしたら、世界中の同型車を暴走させることが可能になる。そうなれば……ベガスはテクセッタの出荷台数に比例して、巨大なリスクを背負った状態になる。一台三百万円として、総出荷台数が……」

「同型の物がだいたい二、三十万台は出てる筈です。バックオーダーもかなりある」

「つまり売上額ベースで約一兆。売った台数分だけオーナーがいて、その全員が酷い車を買わされた、買い取れと損害賠償を求めてきたらどうしますか。集団訴訟は手酷い。懲罰的な金額を裁判所が認めたら、売上額じゃ済まない。数兆……数十兆円」

「馬鹿な」四本木は吐き捨てた。「ハッキングされて事故に至ったのなら、うちの会社に賠償責任なんてあるはずがない」

「おっしゃるとおりです。しかし、事故後の車両にハッキングの痕跡は見つかっていない」

 垂水は鞄をオフィスチェアの上に置いて、紙束を取り出した。国交省が公開した、修学旅行バス事案の調査報告書である。「バスの残骸。ぐしゃぐしゃのスクラップを徹底的に調べましたよね? 何か出てきましたか?」

「いや……」四本木は首を横に振った。「出てきませんでした。むしろ」

「むしろ?」

 四本木はそこで言葉を呑んだ。「いえ。続けて下さい」

 妙な態度だった。

 しかし敢えて垂水は追求しないことに決め、話を続ける。

「……証拠が見つからない以上、車の事故はメーカーか運転手か整備士の責任になる。犯人は用意周到だ。改造の痕跡をほとんど残さないために創意工夫を凝らす。例えばソフトウェアを流し込むためにパソコンを車につなぎ、エンジンをかけてすぐにパソコンは外す。あるいは外部から通信手段を用いてプログラムを送信すると同時に、車体にはオリジナルのプログラムを格納したROMを残しておく……そういうカムフラージュを徹底的に研究し、実際に事件を起こして実験する」

「実験?」

「バスを壊して警察とメーカーに回収させ、自分達の隠蔽技術を確かめる。どこまでバレるかを観察している」

 甲斐原豪は「カナリア」——もしも甲斐原が捕まれば「当局もなかなかやる」と評価できる。それが犯人グループの意図。垂水はそういう意味を含めた。

「それだけじゃあない。バスの件でベガス社は被害者の親族と和解しましたよね?」

「ええ、和解金を支払った。責任の所在を曖昧にしたままで、ね」

「そういった交渉の経緯も犯人は観察している。その顛末に応じて第二、第三の矢を放ってくる。世間を巻き込んだ……ハッカーによる犯罪研究ですよ。高校生たちはその犠牲になった」

 四本木篤之は渋々言った。

「教えてください…………今から、何が起こるのか」

 垂水昂市は口を固く結び、しばし考えてからこう続けた。

「今夜はこのまま、何も起こらないという楽観的な見方もできなくはない。犯人はもしかしたら、テクセッタの自動運転アルゴリズムを研究して、独自のラジコン爆弾車を量産して売りたいだけなのかもしれない。その場合は盗んだアスカ号を大切にしてくれるでしょう」

「……」

「あるいは、マニアックで希少なクルマとしてアングラサイトで競売にかけ、どこかの石油王に売り飛ばすかもしれない。あるいはベガス社のライバル……ドイツかどこかの自動車メーカーに売り飛ばす手もある。いずれにせよ今夜は何も起きない。これが楽観的な見方です」

「悲観的な方も教えて下さいな」

「最悪の場合……今夜のうちに、修学旅行バスの悪夢が再現される」

「何ですって」四本木は垂水の方を向いて刮目した。「同じ事を? いったい何のために」

「同じじゃありません。今度はベガス社のドル箱、世界的に販売好調なハイブリッド車だ……目的の一つは集団訴訟の可能性を示すため。テクセッタは世界中を走っている。俺たちはいつでも暴走させられる。運転手が乗っていようが、いまいが、プログラムで自在に操れる。一度や二度では済まないぞ……集団訴訟になれば被害は数兆に及ぶ……そんな可能性を示すために」

「……どこかに衝突させるということですか」

「イエス。その結果をもって、連中はベガスに接触してきます。脅迫……まぁ、五百億ぐらいせびってくるでしょうか。安いもんだろうと」

「……われわれが突っぱねたら、どうなります」

「そのときは本当に世界中でトラブルを頻発させ、一般のテクセッタユーザーを巻き込んだ巨額の賠償金を争うはめになる。どっちが賢いか選択しろということでしょう。脅迫行為はブラックハットの真骨頂……悪意あるハッカーたちの典型的なやり口だ。おそらく観光バスもテクセッタも、連中にとってはサンプルケース。ところがバスの顛末は意外に少額で、しかも早期に決着した。計算違いだった。次こそは、とテクセッタに勝負をかけている」

「勝負もクソも」四本木は足元に視線を落とし、頭を搔いた。「こんなトラブルが立て続けに二度起きたら、うちの会社立ち直れませんよ」

「我々も焦っています。岩戸紗英の安否が不明だ……もしかしたら」

 垂水はそこで一旦言葉を呑んだ。犯行の目的に「電網庁の転覆」が含まれるかもしれない——そう言いかけたのだ。

 岩戸紗英。生え抜きの総務官僚、電網庁の魔女。彼女が自ら実験車両を用いて事故を起こす——これは最悪のシナリオだ。巻き込んで被害者を出す事態にでもなれば総務大臣の失脚どころでは済まない。ネット新法の存立を支えるべき電網庁はおろか、日本の性急な自動運転技術への政策に世論が反発、懐疑的になる。発展の道は閉ざされ、他国に著しい遅れをとる。

 そんなネガティヴな説明を付け加えようとして、止めた。これ以上並べ立てることにさしたる意義を感じられない。


——悪い癖だよ、垂水クン


 岩戸の声が聞こえてくる。

「そうですね……悪い癖だ」小さく、呟く。

 助けたい。岩戸を。そしてベガス社を。

 二人は壁のスクリーンに表示されたデジタル時計をにらみ、しばし無言になる。

 四本木は深く溜息をつき、次いでこう切り出した。「お話ししたいことがあります。というか、あなたがハッカーだというなら、ぜひ相談にのってほしい」

 机に置いた自前のノートPCを開く。液晶画面にはメールアプリが表示されていた。その一通を開く。送信元はShigeru Kuchifune。朽舟からのメールらしい。


差出人:Shigeru Kuchifune

件名:四本木篤之さんに読んでいただくことを想定しています


自己責任です。

That bUiSiNeSShOTeL is awfully bad

because I was LoCkEDouT and that hotel's  fROnt forgot MOrniNgcaLL.


「なんですか、これは」

 垂水が険しい顔で言った。「英文……というか、暗号文?」

「朽舟が自殺未遂を図った頃、僕宛に送ってきたメールです。当時このメールを見た記憶はあるんですが、ちんぷんかんぷんで放っておくしかなかった。ところが……」

 四本木はメールの画面をそのままにして、机の引き出しを開けた。

 深緑色のノートPCを取りだして電源を投じる。「……今日になって、こいつを手に入れたんです」

 BIOS画面が表示された後、起動プロセスは唐突に止まった。

 パスワードを求めるダイアログボックスが示され、合わせてこんなメッセージが表示されている。


{

パスワードは三回まで受け付けます。三回目に失敗すると、中身が壊れる仕掛けです。正解は誰にも教えたことがありません。四本木篤之さんに読んでいただくことを想定しています。以下、パスワードのヒント……


自己責任です。

That bUiSiNeSShOTeL is awfully bad

because I was LoCkEDouT and that hotel's  fROnt forgot MOrniNgcaLL.

}


 後半はまったく同じ文面だ。

「このノートPCは?」垂水は問うた。

「四本木が自殺を図った時、ホテルの枕もとにあったそうです。アイツは役員の命令で隠蔽に手を貸したことを悔やんでいた。バスの一件は自分の責任だとまで思っていた。だから懺悔として、報復として、ハッカー連中のやり口を徹底的に分析した。対策を練って、遺書には、やるべきことはやったと書いた。どうやらその成果を僕にだけ……こっそり伝えようとしている」

「なるほど。ベガス社全体がハッキングの被害にあったわけですからね。貴方に伝える手段には、工夫を凝らす必要がある」垂水は液晶画面をじっと見つめた。「データが壊れる仕掛け、というのは本当でしょう。こういったセキュリティの仕掛けは珍しくない」

「垂水さん。あなたを信じてお頼みします。僕は正直、パスワードが何か見当がつかない。怖くて、まだ一回も試せていない」

 そのときだ。

 管制室にいた誰かが大声をあげた。

「アスカ号、反応ありました!」

 四本木が、垂水が。皆が一斉に壁をにらみつける。

 スクリーンに映し出された、グラフィカルな表示を追いかける。しばしの沈黙。

 いの一番に声を荒げ、静寂を破ったのは四本木であった。

「ハァ!? …………なんてザマだ。これじゃ、どうしようもないだろっ」







Ⅱ:八王子:石川町:未明



 緒方隼人は手にしていたライフル銃を支えようとして、包帯で巻かれた左手首に激痛を感じた。

「痛っ」

 エキシージのエンジンは切られていない。しかし生粋のロードゴーイング・カーにしてはアイドリング音が静か。なので声が有華の耳に届く。

「え……大丈夫?」

 あわてて平静を装ってみるも——痛がっているのは明々白々。

「聞かれちゃったか」苦笑いが精一杯だ。

 緒方はHMDを使って銃のマニュアルを眺め、プラスティックの弾を試し撃ちしようとしている。三頭身の忍者と対話しつつ、弾の装填方法や連射の切り替えスイッチ、そしてGEEの開発した弾道計算に基づく自動発射プログラムの扱いを学ぶことができる。この仕組みはありがたい。

「左手って結構大事だと思うけど」

 有華はGEEの助手として日常的にこの電動ガンを撃っているらしい。聞かなくても相当な射手であるだろうと緒方には想像できる。

「でもこうやって、乗せちゃえば」

 緒方は助手席の窓を開けていた。その縁にライフルの銃身を置く。「右手だけでどうにかなりそう。当たるかどうかは別だけど」

「どこを撃つの」

「想定としてはタンクローリーの運転席。窓ガラス。真後ろはキツいけど」緒方はスコープを覗き込まず、HMDを眺めたまま銃口を後方へと向けた。有華へ背中を向けている。「まぁ、斜め後ろぐらいなら狙えないことはない。刑事ドラマなら、ハコ乗りして撃つんだろうけど」

「落ちないでね、頼むから」有華は真顔で言った。

 緒方は苦笑する。有華が一度全開走行に転じれば、助手席の人間に自由意思など生まれる筈がない。猛烈な加速度で頭を、身体を、前後左右に持って行かれる。ハコ乗りなどしようものなら車の外へ投げ出されるのがオチだ。

 エキシージの現在位置は中央道・国立府中ICを入って二百メートルほど走った場所、高速道路へ進入する寸前の路肩である。右後方から時速一〇〇キロ前後の車が追い抜いて行く。テクセッタらしき赤い車を見張り、ここぞというタイミングで併走を開始しようと、有華はバックミラーを注視している。緒方はその隙を活かし、電動式のエアコッキング・ライフルに慣れようとしていた。

 長い銃身を助手席の窓からにょっきりと突き出し、視界の中にあるものを仮のターゲットに見立て、髷の射撃アシスト手順を数回試してみる。標的にできるものは街灯の明かり、ガードレール、路肩の端を示す丸く黄色い視線誘導標デリネーターといったものである。

「テストモードで頼む」緒方はマイクを伝って人工知能に声をかけた。

 弾を撃ち出さない、という意味だ。

〈承知〉

 射撃の感覚としては斬新だ。まず銃身の上に固定されたスコープを窮屈な姿勢でのぞきこむ必要がない。この銃のスコープはカメラとなっていて、画像がHMDに送信されている。体勢に影響されないので、的が狙いやすい。ついでにいうとHMD越しにスコープを見た時、上に忍者アバターがへばりついて、キュートなお尻を見せつけている。なかなかに愛らしい。凝った作りだ。

 緒方はHMDをにらみ、十字に切られた画像の中央に目標物を定めた。右手親指でグリップの脇をなぞりターゲット決定を知らせてやる。これがマーカーの付与。

 すると髷の髷先がぴくりと動き、ピピッと音がして、HMDの液晶上に←が表示される。ターゲットに当てたいなら、もう少し上を狙わなければいけないということだ。と同時に赤い円環が表示され、その中にマーカーを収めるよう銃身の修正が促される。緒方は右手でグリップを小さく持ち上げ、あるいは左右に動かしてみた。なかなかピタリとはいかないが、何度か通過させているうちに髷が小さくジャンプ、そしてFIREという赤い文字列が示される。

「なるほど、これでいいのか。手がブレてても発射できるってわけだ……当たりそうな気がしてきた」

 スコープを覗き込まなくともHMDを見て撃てるのは革新的な射撃方法だ。顔を正面に向けたままで、併走する車を撃つ芸当も可能に思えてくる。

〈お前、そんな玩具で何をどないするつもりやねん〉

 イヤフォン越しに女ハッカーの関西弁が響いた。

「修学旅行バスを仕組んだ連中と同一犯なら、タンクローリーがきっかけを与える筈です。テクセッタの車載カメラに映った途端、何かが起こる。斜め前に出させたらアウトだ。となれば、まずテクセッタを見つけて追いかけ、追走してくるタンクローリーがいたら、こいつで威嚇するしかない」

〈まぁ、フロントガラスにヒビぐらい入るやろけどな〉

 すると、HMD上でグループ通話に参加しているアイコンの一つが点灯した。飯島係長だ。

〈緒方、一言いっておくぞ。そっちに向かった白バイの誘導を無視してタンクローリーが暴走した場合、その場合についてのみ威嚇射撃は認められる可能性がある〉

「そうか。いきなり俺が何の罪もないタンクローリーを撃ったら」

〈お前はただのキチガイ。一〇〇パーセント犯罪者だ〉

「ですよねぇ」

 緒方は早る心を抑えねばと思った。今のところはっきり言えるのは「女が運転するテクセッタがNICTの駐車場を飛び出した」ということだけで、それすら岩戸紗英が運転していないと言い切れるだけの確証はない。タンクローリーはいわずもがなである。

〈アタシが犯人やったら、タンクローリーできっかけを与えるとか、そんな面倒くさいことせぇへんけどなぁ〉

 GEEが悪玉ハッカーらしく意見する。

「タンクローリーを停めてもダメってことですか」

〈事故を装うという狙いは潰せるんちゃう? でもアスカ号を強引に停める方法、しっかり考えた方がええんちゃうか? 垂水はん。タイヤをパンクさせるとか〉

 緒方はあらためてライフルを構え、走り去るトラックのタイヤが狙えるかどうか試みた。「係長……車のタイヤって撃ったことあります?」

 飯島のアイコンが点灯した。

〈お前、日本の警察が暴走車を強引に停められないことぐらい、知ってるんだろう〉

「……ええ、まぁ」

 銃社会アメリカでは、自衛のための発砲が常識化している。警察官も威嚇で簡単に引き金をひく。暴走車のタイヤを撃つことも日常的だ。しかし日本では真逆。撃った弾がタイヤではなくドライバーに当たったらどうするのか。流れ弾が民間人に当たりでもしたらどうするのだ、などとクレームになる。そういう文化の違いがあって、日本では暴走車にパトカーが体当たりして停めるといった強引なやり方も好まれない。だから暴走族による暴走行為に手を焼く。

 ベガス本社研究所に陣取った局次長・垂水昂市のアイコンが点灯した。

〈テクセッタはランフラットタイヤを装着しているらしい。パンクしても軽く五〇キロぐらいは走ってしまうそうだ〉

〈あっそぉ。今時な車やねぇ〉

 仮に緒方がタイヤに弾を当てられたとしても、停まらないということか。まして手にしているのは威力の低い電動ガンだ。

 タイヤを狙わなくていい——そう思うと少しホッとする自分がいた。そもそも左手がままならないし、巧く当てられる自信がない。

「それでも交機(交通機動隊)なら、暴走車を停めてくれませんか?」

〈白バイとパトカーで車を囲んで、減速させて停めるって訓練はやってる。しかし相手が人間だから減速もしてくれるわけだろう……自動運転オートパイロット車がそれで停まってくれるかどうかはわからん。下手をすれば〉

 そこで飯島係長は言葉を切った。


——下手をすれば警察官が死ぬだけ。それでは本末転倒になる。アスカ号を見捨てるという選択も、警察としてはあり得る。


 そう言いたげに感じられた。

 緒方は難しい局面になると覚悟する。もしも岩戸紗英がテクセッタに縛り付けられでもしていたら、放っておけるはずはない。かといって警官が、あるいは無関係な車が犠牲になっていいわけでもない。

「八王子には危険をちゃんと知らせてやってくださいね」緒方はあえて口にした。

〈当たり前だ。とにかく、お前らは慌てるな。テクセッタを見つけても暴れちゃならんぞ……〉

 少し間があいて、飯島がこう続けた。

〈よし。そっちに高速隊(=警視庁高速道路交通機動隊)が2台で向かう。まず白バイが1台、後からパトカーが1台。やってくれるだろう。八王子からは……5分とかからん〉

「2台ぽっちですか」

〈手薄なのは仕方がない。テクセッタもタンクローリーも、湾岸線で見つかったと報告があるんだ。しかも千葉方面〉

「Nシステムですね。でもガセなんでしょう」

〈おそらく。だからといって駒を投入しないわけにもいかん。八王子からは下り方面にも何台か出してしまったと言ってる。静岡にもテクセッタの情報が点在しているらしい〉

「……都内だけじゃないんですね。なんて念の入れようだ」

 今夜、何かをやる。連中にはそんな「気」がみなぎっている。緒方にはそう感じられた。負けてなるものか。とにかく追いかけよう。ネヴァー・ギブアップの精神で。

 じっとり、のろのろと、耐えるだけの時間が過ぎていく。緊張しっぱなしで、しかも窓から流れ込む空気が生ぬるくて不快。緒方はエアコンのスイッチを入れようとして、あきらめた。エアコンで車の出足が悪くなるのも気がひけるし、窓を閉じる気にもなれない。ライフルの銃身はすこぶる長く、的には当たりそうな予感がする反面、窓を開閉してそのたびにポジションを決め直すのは面倒きわまりない。だいたい四点式のハーネスなるもので身体を止められている上に、包帯で左手を首から吊っているのだ。要するに「がんじがらめ」なのである。何をするにもおっくうになる。

 それから何台通過しただろう。

 ミラーの中を注視していた有華が、遂に声をあげた。「あれ、タンクローリーじゃない?!」

 白バイより先に来てもらっては困る。だから緒方は期待を込め、こう返事した。

「違うよね……ね?」

 側道に停車しているエキシージの右側を、銀色の大型車が一台追い抜いた。

 刹那、緒方が右手首にはめた成金時計のアラームが鳴る。間髪入れずHMD上に電網免許証の画像が表示される。

 そして髷の声が分析結果を読み上げた。

{ 電網免許証反応アリ ; 佐々木洋一; 確率71% ; }

「確率って何だよ、確率って!」

 香坂の声が響いた。〈80%を超えたら確実なんだけど、一〇〇キロ近くですれ違うわけだから、信頼性は下がるよ〉

 走り去る大型車の背中をにらむ。確かにタンクローリー、しかも銀色に反射するタイプだ。

「まぁ、ありきたりのクルマだから」そう言って緒方はドライバーの横顔を見る。

 有華の表情は頑なだ。岩戸を救う使命感に燃えている。

「白バイがまだなんだよ……赤い車、来ませんようにぃ」緒方は目前に置いた位牌に手を合わせ、大袈裟に祈った。「頼むぜ啓太。墓参りでエロ本進呈するからさ」

 他方、有華の黒々とした大きな瞳、二本の強い視線はバックミラーに突き刺さったままだ。

 やがて。

「来たよ。来たっ」その唇が兆しを告げた。

 有華の左足が深く踏み込まれ、クラッチを切る。左手はシフトレバーをローギアへ。右足はすでにアクセルペダルを煽っている。

「ええっ……おいおい、待て待て」

 早る有華を抑えようと思ったが、当の緒方にも衝撃が走った。

 エキシージのすぐ脇を走り去る車、そのシルエット。間違いない——通過したのは赤いテクセッタだ。

(マジか!)

 追い打ちをかけるが如く、成金時計が反応。

 髷MAXの電子音声が、ありのままを告げた。

{電網免許証反応アリ; 岩戸紗英; 確率55%;}

 緒方は困惑した。

(ご、ごじゅうご? って……)

 確率は低い。

 かなり低い。

 でも。

「行かせて、隼人っ」有華が叫ぶ。

 緒方は返答に躊躇した。白バイが。パトカーが。到着していない。そう口に出しかける。しかし言葉を呑んだ。運転席にいる幼なじみ、その大きな漆黒の瞳が微かに潤んでいる。

 わかった、俺たちでやろう。やってやろう。そう心に決めて。

「……行こう。行くぞ!」

 刹那、有華の両足が動く。クラッチが噛む。

「行け!」

 緒方の絶叫。そしてホイルスピン。強烈な加速G。

 全身をシートに強く押し付けられる。

 間に合わなければ意味がない。行く時は行け——有華の親爺さんの教えが脳内で木霊する。

 だから苦しい体勢のまま、緒方は肺から呼気をふり絞った。

 かぶら矢を、射た。「行け行け、行けぇ!」

 エキシージは猛烈なスタートを切った。

 緒方は助手席で七転八倒しつつ、ライフルをかろうじて抱きかかえ、窓を開けたままHMDに向かって叫ぶ。

「こちら緒方。岩戸紗英の電網免許証反応アリ! 赤のテクセッタ……その直前を銀色のタンクローリー。追っかけます!」






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る