(十七)

中央道・渋谷区・中央道・(都内某所)




Ⅰ:中央道:東京方面(調布):未明



「こいつらは、全員グルだっ」

 緒方の言葉に弾かれ、有華は右へとハンドルを切った。

 膨大なライトを放つ大型車集団を前にいかせないためには、このエキシージを右車線に移動させ、左車線を走るアスカ号と二台並ぶ必要がある。

 バックミラーの中身はもはや直視できないほど明るい。タンクローリーが一台にトラックが三台。いずれもフォグランプを大量につけ、独特の面構えをしている。目が六個から八個もあるような異形の化け物たち。

「絶対、前にいかせない!」

 二車線しかない中央道、東京方面。

 右車線にエキシージ。

 左車線にアスカ号。

 やがて時速八十キロという制限速度表示が見えた。

 自動運転モードのアスカ号は制限速度を守る。だから減速。そうなると脱兎の如き有華のエキシージもスピードダウンを余儀なくされる。

 緒方は舌打ちした。これがレースなら俺たちの勝利は間違いなし。あんな大型車、まったく敵じゃない。けれど——

 今夜のゲームはルールが違う。

 緒方はあらためてライフル銃のグリップを握りしめ、HMDに叫んだ。

「タンクローリーへの発砲許可ください! 見えてますか係長っ」カメラを明るすぎるバックミラーへと向ける。「こいつら、絶対おかしいっ」

 飯島の返事は即答だった。〈無理だ馬鹿っ! お前、豚箱行きになりたいかっ〉

「くっ……」

 白バイは。パトカーは。高速隊の連中はまだか。

 これだけペースの遅い集団になったのだ。もう追いついてくれていいはずだ。

 次の瞬間、有華が両目を大きく見開く。

「ウソっ」

 トラックの一台が牙を剥き、路肩を走り始めたのである。

 二車線しかない中央道で、異形の三台が真横に並ぶ。

「抜きに来るぞ、有華っ」

「わかってる! ……これでどうだっ」

 有華がじわりとハンドルを左に切った。

 すると、エキシージの動きを察知したアスカ号が反応しまるで磁石が反発するように、やや左へと移動する。安全な距離を保つため、人工知能が「車線の中で横へ移動する」ことを選択したのだ。

 結果としてアスカ号の左側、路肩との距離は狭くなった。

 道幅一杯を二台で塞ぎきろうという狙いが、成功したように思える。

 けれど。

「ヤバイかも!」と有華。

「どうして?」

「もうじき路線バスの乗り場があるんだよ。だから……車線が増える。三車線みたいになる!」

 緒方は目を見開いた。

 路線バス・深大寺の看板を境に、路肩だったスペースが車幅にまで広がり、三車線目を形成。といっても出現した一車線はガードレールで本線とは切り離されていた。そちらを走った場合、一〇〇メートル足らず前進してから、再び本線に合流する。まるで高速道路にぽっかりと現れた、とても短い「抜け道」。

 そのプラスαとして生まれたルートを——路肩に膨らんでいたトラック一台が猛然と駆け上がっていく。

 アスカ号とエキシージを抜いてやる。そんな気迫がみなぎっていた。

「なんとかするっ」

 有華は瞬間的にブレーキペダルを踏み、真後ろに迫っていたタンクローリーを威嚇した。背後に迫っていたタンクローリーのドライバーは、小さなロケットのごとき英国車のブレーキランプが真っ赤に光った瞬間、恐怖のあまり減速に転じる。

 それを見届けて有華はシフトダウンを敢行——急加速を開始。

 アスカ号の前に飛び出す。

 そしてハンドルを左へ深く切った。

 左車線に陣取り、エキシージとアスカ号で縦に並ぶ。

(どうするつもりだ?)

 緒方は声に出さなかった。任せるほかはない、と思う。

 数秒もしないうちに左側のガードレールが途切れた。

 三つめの車線、路線バス用の出口からトラックが駆け出てくる。だがそれよりも一瞬速く、有華は、さらにハンドルを左へ切った。

 エキシージが横っ飛びする。 加速してくるトラックの鼻先へと躍り出る。

 そうしておいて有華は、すぱっとブレーキを踏んだ。お尻についた真っ赤なランプを光らせるべく。

(なるほど、そういうことか!)

 エキシージの背後で、断末魔の悲鳴のごときブレーキ音が聞こえた。泡を食ったであろうトラック運転手の狼狽ぶりが手にとるようにわかる。

 即座に有華はシフトを落とし、スロットルをがばっと開けた。合流路を猛加速するためだ。爆発的な、今日イチの全力加速。

 緒方は激しくシートに押し付けられる。

 小さな英国車は充分なスピードを得て右へ飛び出すと、のろのろと走る国産テクセッタの前を横切った。

 さらに右へ飛ぶ。追い越し車線へと車体を戻す。それから減速へと転じた。

 右にエキシージ。

 左にアスカ号。

 ふたたび二台の併走に落ち着く。

 たった数秒の間にこれだけの事が起きた。有華たちを抜く気満満だったタンクローリーは、一旦減速に転じてしまったため、エキシージがほんの数秒開けた穴を突くことができなかった。

 つまり、あいかわらず大型車軍団は後塵を拝している。

「凄い」緒方はガッツポーズした。「凄いぞ!」

 そうこうするうちに左端の路肩が急激に狭まった。

 もはや、大型車三台が横並びで走ることは不可能だ。

 緒方はほくそ笑む。

 二車線しかない中央道は、俺たちの味方だ。

 しかし——このまま料金所まで耐えきることが果たして可能だろうか。

 煌々と明るい怪物たちは異様な殺気を放っている。なりふり構わず勝負してくるかもしれない。

 そのときだ。

〈おい、聞いてるか、緒方ァ!〉

 GEEの声だ。〈電動ガン、構えてみぃ!〉

「えっ……」咄嗟に緒方はライフルの銃把をまさぐる。

 全身がシートに押し付けられ埋まっているような状態から、腹筋に力を込めて姿勢を正した。

「タンクローリーは撃っちゃダメって、うちの上司が言うんですっ」

〈阿呆、テクセッタのタイヤを撃て! 一個だけでええ!〉

「それって、パンクさせろってことですか? ランフラットタイヤって聞いてますけど……走り続けるんでしょ?」

 中年男の声が割り込んだ。電網庁開発局局次長、網安官のリーダー。

〈有華君、緒方君、よく聞いてくれ〉垂水昂市の声だ。〈……タイヤの空気圧を監視する、TPMSという仕掛けがある。それが動き出すと、自動的に停止動作に入るらしい……ほんの少し亀裂が入るだけでも〉

「TP、M……何?」

〈T、P、M、S。タイヤ・プレッシャー・モニタリング・システム。アメリカでは二〇〇七年に義務化されていて、日本ではまだ普及していない。傷ついたランフラットタイヤのまま走り続けているドライバーに対し、速くガソリンスタンドへ向かえという意味で警告灯を点灯させる仕掛けだ。しかし、アスカ号のはちょっと違う。TPMSがタイヤの空気圧異常を検出すると、警告灯ではなく、強制的にブレーキが作動するらしい……それがたった今、わかった〉

「はぁ。それって一体、どういう……」

 GEEが吼えた。〈なんでもええ! とにかくタイヤに弾、当ててみろ。だいたいタイヤっつーのは、横っ腹が弱いもんやろ?〉

「そうなんですか?」

〈常識や! お前は今、真横におる……絶好のアングルやぞっ〉

「わ……わかりましたっ」

 助手席の窓を下ろし、上半身を左にねじる。

 テクセッタとは三メートルほどしか離れていない。百メートル単位で命中精度を設計するライフルなら当たって当然の距離。しかしこいつはサバイバルゲームなどで使われる玩具だ。信頼性もなければ威力も期待できない。

 それでも何もしないよりはマシだ。「やってみますっ」

 緒方はドアの縁に銃身を乗せ、先端をテクセッタの右側前輪へと向けた。

 左手を少し添えてみたが、手首がずきりと痛む。やはり右手、右肩、ドアの縁の三点で支えて撃つしかない。

(うっ……難しいぞ)

 高速道路の路面には数十メートルおきに小さな凹凸があった。それを拾うたびに車体がわずかに跳ね、モロにドアを揺する。銃身が小刻みに跳ねる。狙撃に適した状況とは言いがたい。しかし、このまま撃ってみるしかない。照準を覗き込む。

〈……俺は何も聞いてないからな?〉

 飯島係長の声だった。

 非番の警察官がエアコッキング・ライフルで走行中の自動車を撃つ。あくまで救助行為の一貫として。

 迫り来るタンクローリーを撃って威嚇するのとは、訳が違う。

「…………押忍。ありがとうございます、係長っ」

 HMD越しに照準をにらむ。スコープの上に四つん這いでまたがる忍者アバターの勇姿、その小さな尻が見えた。

〈緒方殿、如何なされる〉

「まずは、自力で撃ってみるさ」

 あいかわらずバンプを拾うたびにエキシージは跳ね上がる。

 時速八十キロで走る車の窓には激しく風が舞い込む。

 うまく狙えない。しかし。

 緒方は強引にトリガーを引いた。イメージは「三点バースト」——フルオート状態で、立て続けに三発だけ放つ。

 電動ガンの機構が高速に作動し、0.28ミリグラムしかないBB弾を連射した。

 ごく小さな、空気の弾ける音の連鎖。反動はすこぶる軽い。

〈どや!?〉とGEE。

「どうなのっ!?」と有華。

 緒方には答えようがなかった。

 アスカ号にはまったく変化がみられない。平然と走り続けている。

 小石が当たった程度にしか感じていないのだろうか。

 あるいはタイヤではなくアルミホイールに当たり、跳弾しただけかもしれない。

 手応えはまったく、ない。

「……わかりません! ホイールに当てたのかな……当たってても、威力が小さすぎるってことなのか……これじゃさっぱり」

 またバンプを拾う。車がわずかに跳ねる。

 そのたびに照準は大きくはずれた。

「有華っ、もっと跳ね方を抑えてくれないか」

「無理言うな! こんな走り方するための足回りじゃないしっ」

 緒方は更に三発放った。しかし何も起こらない。

「ち……」

〈緒方、引き金から指、離せ〉

 GEEの声がした。例のアルゴリズムを試せということだ。

 スコープの上に投影された仮想空間の忍者が、ヒラリと宙返りを決める。

 画像解析が開始された合図。

〈緒方殿。助太刀申す〉

 髷の三頭身が少しずつ橙色を帯びていく。

〈ええか、銃身を単なるカメラやと思え。銃の先っちょでタイヤを、動画で撮影する感じや〉

 髷がさらに姿勢を低く構えた。

 HMD上に、カメラ画像を解析した結果とおぼしき数値がズラズラと並ぶ。

 赤い枠が見えた。細かい作業はGEEが遠隔操作で肩代わりしているらしい。

 緒方は右手と右肩を使い、ひたすら銃身の調整に努めた。

 枠の中にタイヤを。

 タイヤを収める。

 ひどくブレた動画像だ。回転するタイヤは、おおむねボヤけて見える。

〈ええか髷……バンプで跳ねるタイミング、わかるなぁ〉

〈緒方殿のHMD候、慣性センサーにて上下動を補足できる哉、間隔を予測する也〉

〈そのタイミング外して、道路が平らな間に三発撃てっ〉GEEの檄が飛ぶ。

〈御意〉

 緒方は顔をしかめた。射撃訓練のような状況じゃない。自分も相手も動いている。車は跳ねる。

 たとえトリガーを引かなくていいとしても、赤い枠の範囲にタイヤを収めるだけだとしても。

 簡単ではない。細かくブレる。輪郭がボケる。

 そのブレを人工知能が吸収できるか、どうか。

 高速道路の路面状況を推し量りながら——やがて。

 髷が全身を赤く光らせた。刹那、弾丸が解き放たれる。もちろん緒方の人差し指はトリガーにかかっていない。

 パパパン! と軽い音が空気を裂いた。

〈どや?〉

 緒方にはわかっていた。当たっている。しかし。

「当たってると思いますっ。でもダメだ」

〈泣き言いうなや。当たってない、っちゅう可能性もあるやろ〉

「威力が弱いんだ……こいつ、やっぱ玩具ですよ」

 香坂の声が割りこんでくる。〈……どうします〉

 重苦しい響き。策が尽きたという感情が、気配が伝わってくる。

 それをGEEは突っぱねた。

〈阿呆、狙い方が甘い……まだまだ甘い、言うてるんやっ〉

 緒方にはそう思えなかった。きっと当たっている。しかしタイヤにダメージを与えるほどではない。あるいはホイールの金属部分に跳ね返されている。

 悔しかった。

「俺のせいですかっ」

〈ええか。枠の中にちゃんと収めるんや、緒方。諦めたら終わりやぞ。お前、スポ根野郎ちゃうんか? わかってるやろ、粘りの大切さが〉

「……弾の限り撃ち続けることはできます。まだ三百発はある……でも手応えが軽いんだ……玩具ですよ……」

〈いや、ちょい待て。ちょっと……待った……ぐ〉

 


Ⅱ:渋谷区:初台:未明


 GEEが頭を俯け、床に嘔吐した。

 嘔吐しつつ、だがその腕は机の上にまっすぐ伸び、手はキーボードの上に置かれている。

 それを見た香坂が慌てて立ち上がった。「だ、大丈夫ですかっ」

「げふっ……いひひ」女ハッカーは——何故か笑っていた。「ウチ、テンションあがると吐く癖があってなぁ、放っといてんか……げふっ」

 香坂はHMDのマイクを手で握り込む。

「緒方は左手首を痛めてるんです……ライフルなんて、まともに構えられるはずがない。理解してますか」

「ハァ? そんなん知ってるわ、ボケ……上等や。へへ」

 GEEは吐瀉物を意に介さず、マイクに語りかけた。「髷っ、聞こえるかァ。解像度上げて、フレームレート下げるぞ……」

〈御意〉

 そのやりとりが何を意味するのか、香坂には判らない。しかし。

 何かが始まろうとしている。

「何が玩具じゃ……舐めんなよ、くそったれ!」GEEが吼えた。

 香坂は目を見張る。

 女ハッカーの指が、ノートパソコンのキーボードを猛烈に叩き始めたのだ。数式のごとき文字列がずらずらと液晶画面を覆っていく。

 間違いない。これは。

 これは——プログラミングだ。

「何を……するつもりなんですか、GEEさん!」



Ⅲ:中央道:東京方面(調布):未明

 

 左の手首がずきずきと痛む。クルマが跳ねると同時に銃身がバウンドするのを、上から抑えつけたからだ。それを緒方は黙っていた。

 右腕と身体のこなしでどうにかできるだろうか。いや、どうにかする。しなければならない。諦めるつもりなど、さらさらない。撃って撃って、撃ちまくる覚悟だ。

 しかし威力が小さいという弱点、あるいは銃身が跳ねるという事情は、致命傷にも感じられる。

「待てって……何を待つんですか!?」

 GEEには待てと言われた。——何か秘策でもあるというのだろうか。

〈…………〉

「ギーさん!?」

〈……げふ……ええからチョイ待ちや!〉

 HMD越しに「高井戸まで10分」という電光掲示の看板が見えた。

 緒方はマイクに「永福までの所要時間を確認したい」と発声する。それを受けて髷が軽やかに翻り、今のペースでは6分ほどで到達する也と答えた。

「高井戸まで10分だろ? 永福料金所って高井戸より向こうだぞ」緒方は首をひねる。

「この先、60キロ制限になるんだよ」有華が鋭く指摘した。「だから電光掲示は時間を多めに出してる。今のペースだと、髷の字が言うとおり料金所まで6分しかない……でも自動運転がベストコンディションだったら、間違いなくこの先ペースダウンする。だから10分後っ」

 なるほど、そういうことか。

 緒方は納得しつつバックミラーを視た。大型車軍団はあいかわらず車間距離を詰め、前に出る機を伺っている。路肩の広さがないのが救いだが、いずれ牙をむく可能性が高い。

 猶予はなさそうだ。

「三分だけ待ちます、ギィさん。それから全弾撃ち尽くす。いいですか?」

〈……黙っとれ……待て、言うてるやろ……げふ……〉

「だけど!」

〈ええか…………あのな……銃身はタイヤに向けとけ……よぉく狙って……但し撃つなよ……撃ったら承知せぇへんぞ……〉

 緒方はふたたび狙撃の構えに入った。人差し指はトリガーにかけない。HMDの中で四つん這い忍者の尻を視る。すると再び赤い枠が示された。

「こうですかっ」

〈そうや……ええぞ……っておい、落ち着かせろ!〉

 やはり車は不定期に振動する。そのたびにタイヤのシルエットが赤枠を外れそうになる。

 ドアの縁に銃身を置かず、左手で前グリップを握り、浮かせてやればいいのだが——肝心の左手はままならない。

 悔しかった。どうして。なんでこんな時に俺は怪我をしているんだ。

 有華が叫ぶ。「車線が……路肩が広くなってきたっ」

(まずいぞ)

 緒方は判断を迫られた。大型車が三台並んで襲ってくるなら、エキシージはさっきみたいに、派手に動いてブロックすべき。しかしタイヤを狙撃するのなら暴れてもらっては困る。

 ゴムの表面に傷がつけられたら。ほんの少し、それで——それだけでゲームセットになるのなら。

「ギィさん、撃たせてください! 時間がないっ」

〈あかん! 無駄ダマ撃つな! タイヤをなるべく画面のまん中に、綺麗に収めるんや。ひたすら狙い続けろっ〉

「だけどっ」

〈げふッ……玩具や言うたな、おのれ……画像処理の力、思い知らせたるわボケ!〉

 そのときだ。

 髷の全身が青白く発光を始めた。

〈フレームレート再調整開始……シャッタースピード再調整開始……〉

 大きな髷の先端から草鞋わらじを履いた足先までを、最初はうっすらと、そして少しずつ明るく——高温のほむらのごとき青が包み込む。

 何かが始まったのだ。期待すべき何かが。

 だから緒方はHMDの中、タイヤを収めることに集中した。

「詰めてきてるよ、後ろっ」有華が気配を感じ取っている。

「気にするな! なるべく静かに、まっすぐ、走ってくれっ」

「ちょっと脅かしてみる。だから待ってて!」

 有華は少しだけスロットルを開け、車体にして半分ほどアスカ号の前へ出た。

 それからぽん、とブレーキを踏む。赤いブレーキランプを光らせるために。

 後続車を尻込みさせるために。

 ところが。

 タンクローリーは動じなかった。その手は、もう食わないとばかりに。そして——いよいよ。

(うわっ!)

 タンクローリーは距離をゼロにまで詰めた。エキシージの尻に鼻先を——当てる。

 がつん、と衝撃。

 二人は身体を揺さぶられた。弾みで左手をドアに打ちつけた緒方は、手首に奔った鋭い痛みに悶絶する。

(痛……てててててっ!)

 そして銃身の先は、大きく目標を逸れてしまった。

 弾みで、忍者アバターの青白い発光が止まる。

〈シャッタースピード最適化失敗〉

 髷の所作に切れて、GEEが叫ぶ。

〈何してんねんゴルァ!〉野放図なシャウトが耳に痛い。

「畜生っ……タンクローリーが、当ててきやがったっ」

〈それがどないした根性だせ阿呆! 男やったら枠に収めてみぃ!〉

 がっ、がっ、がつん。

 タンクローリーのプッシュはどんどん激しさを増す。

 これでは狙いどころではない。

「壊れ……ちゃうっ」

 有華が悲鳴をあげる。

 緒方は唇を噛んだ。万事休す。もちろん諦めてはいない。でも策が。策が尽きかけている。

 そのときだ。


——前の車、左へ寄せて止まりなさい。


 ようやく「吉報」と呼ぶべき響きが耳に届いた。


——前のタンクローリー、トラック、止まりなさい!


 深夜の高速道路に木霊する拡声器の声。その間隙を縫い、鋭く高いサイレンが鳴る。

 間違いない。あれは。あれは警察車両のサイレン。

 緒方は小さくガッツポーズを取った。

(やっと来た。来てくれた!)



Ⅳ:


 岩戸紗英は幻影の中にいた。

 とうとう車が走り出して、自分が死に向かっていると自覚した途端、記憶が勝手にフラッシュバックし始めたのだ。

 何もかも幻——そう認識できるものの、全身を恐怖が包み込んでしまい、どうして自分はこうなってしまったのか、いつ・どこで・何を間違えたのか、そういった後悔が脳内にとぐろを巻く。

 過去の出来事すべてがスープとなって混濁し、目の前にぶちまけられていく。

(どうして公務員になったんだろう)

 憎き腹違いの兄、その面影がよぎった。復讐心が東大へ、そして官僚への道を歩ませた。いずれ政治家になってやろう。打って出よう。うまくすれば、父の地盤を継いで新潟から出馬する兄と国会で再会できる。そこが決戦の地。復讐の舞台。勝ち誇る兄に、地位も名誉も得たであろう男の人生に、あらんかぎりの恥辱を与える。それを、その日が来ることだけを生き甲斐にしよう。私と弟、そして母の受けた仕打ちに対して、仕返しするには国政の場こそうってつけだ。

 学業とアルバイトの両立には苦しめられた。高校は夜間だった。東大を目指すと口外して笑われたこと、罵られたこと、気味悪がられたことは何度あったか知れない。岩戸ってなんでそんなに怖い顔してるの。紗英ちゃんって不気味。そういって避けられた。避けられるように仕向け、自分の時間を作り、殻に閉じこもって、そうまでしてお金と学業に血眼になった。修羅の道というものがあるのなら私はそれを探して歩く。十八歳の春は生活に追われて受験そのものができなかった。十九歳の春に挑戦できたが、突破は叶わなかった。諦めるべきかとも考えた。生活との両立は困難を極めた。しかし歯を食いしばる。くじけそうになった時はいつも、兄がしたように、ボールペンで自分の膝を突いた。服を着たまま風呂場に入り、兄がしたようにバケツで水をすくい、頭から浴びた。忘れたのか。生まれ育った土地を追われたあの日を。兄にいじめ抜かれ、母と弟と三人でぼろ雑巾のように扱われたあの日を忘れたのか。紗英。あなたは復讐するの。

 あなたは復讐するために生まれたの。

 そして、あの日が訪れた。復讐心をたぎらせたあの男——憎き兄が、復讐を遂げるべき相手が。

 辛酸をなめることなく、勝手に病死してしまった日が。







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