(十一)

小金井市・国分寺市



Ⅰ:小金井市:貫井北町:深夜



 午前〇時。

 NICTの正面ゲートに配置された詰め所に、警備員は二人居た。ちょうど交代のタイミングであった。二人は二人とも民間警備会社の職員。さして責任感もなく、何かあった時の対応も事なかれ主義であったが、だからこそルーティンにのっとり、杓子定規に働いていた。

 駐車場から赤い車が一台、ゲートに近づいてきたときも、深夜だからこそ特に問いただすこともせず出してやろうと心がけた。


——相手はどうせ深夜業で疲れている研究者。早く返してやるのが心配りというものだ。


 この持ち場にはそういう不文律があった。

 警備員二人は流れるように動いた。まず一人が鉄扉の開閉ボタンを押下する。もう一人は詰め所の窓を開き、会釈して、バインダーに挟んだ用紙にサインを求めた。駐車場に入る時と出る時でサインは一対になるべきであった。

 ドライバーが降りてきてサインするのを待ち、それからボタンを押すのが段取りとしては正しい。それは二人が二人とも理解していた。けれどゲートを守る鉄扉がすこぶる重く、動きが遅いから、まずボタンを押す癖がついている。夜毎同じことを繰り返しているし、特別な対応はしないのが流儀。

 赤い車のドライバーはなかなか降りてこなかった。携帯電話で誰かと話しこんでいる。守衛二人はそれをじっと見つめ辛抱強く待った。あの電話を切ったら車を降りて詰め所に近づき、サインしてくれるのだろうと高をくくっていた。乗っているのは女に見える。しかし顔だちはよくわからない。サングラスのようなものをかけている上に、口元は携帯電話で隠れている。

 交代する立場の若い警備員が言った。あれが例の、納品されたオートパイロットのテクセッタ、アスカ号ですかねぇ。赤いし。でも乗ってるのは岩戸さんじゃないですねぇ。

 交代される側の年老いた警備員が答えた。別の車なんじゃないの? 通勤に使ってるマイカーでしょ。あ、でも、あのお姉ちゃんにゃ見覚えがないけれど。

 そう言いながら二人はバインダーに閉じられた帳票を手に取り、入退出する予定にある車のナンバーについてざっと目を走らせた。あと一分もあれば、今夜は通勤目的のマイカーがすべて退出してしまっているということに気づけた筈だ。

 しかし、二人にその時間は与えられなかった。ゲートが開ききったのを見計らい——ドライバーの女は携帯電話を切り、そして、赤いテクセッタを急発進させた。






Ⅱ:国分寺市:本多:深夜



 欧州車のレストアが稼業——だからこの家はどことなく何もかもがエンスーじみている。

 緒方隼人の常代家に対する印象は、何年経っても変わらない。イタリア製のエスプレッソマシンなんてものが台所に置かれているのがまず驚きで、しかも手際よく使いこなす母親がかなりの美人。足がとても長くて、ジーンズがとびきり似合うのにも仰天した記憶がある。きっと元レースクイーンなんだ。勝手にそう思い込んでいたので、双子に大笑いされたこともあった。

 そんな有華の母親に、緒方は黙っていてもアメリカンな薄めのコーヒーを、大ぶりなマグカップに淹れてもらえる。

「エスプレッソ……にも挑戦してるんです、最近」

「無理しちゃって」有華の母親がダイニングテーブルに肩肘をついた。「そんな左手で自炊なんてできないでしょ?」

「あ、寮暮らしなんで晩飯は出るんです」

「そっか。エスプレッソマシンを買ったわけじゃなくて、外で飲むってこと? あ、まさか啓太の真似?」

「……ええと」

「ごめん。そういう意味じゃなくて」母親は苦笑した。「真似してもいいし、しなくてもいいし」

 東大卒の警察官僚。それは生前の常代啓太が思い描いたキャリアパスそのものだった。緒方隼人はその道を——親友が志した道をまっすぐたどっている。意識していないといえば嘘になる。

「岩戸さんと今日、話をしたんです」緒方は話題を切り替えた。「有華と喧嘩しちゃったらしくて。あいつ、帰省してなかったじゃないですか、ここしばらく」

「それが喧嘩の原因?」

「有華は岩戸さんが何も知らないと思ってたんです」

「エリーゼの事? アプリリアの事も?」

「というか、啓太の存在そのものについて、有華は岩戸さんに喋ってない」

「そりゃあ甘いわね。全部お見通しなのに」

「あいつ、隠し事するのが癖になってるんですよ。世の中が怖いって感覚が、抜けてない」

 母親は呟いた。「しょうがないかなぁ」

「俺も、仕方が無いと思ってます」

 啓太の事故死以来、ネットにあることないこと書きまくられた十八歳の娘が、何をどう感じ、今日までどう生き延びてきたか。他人がおいそれと責めたてられるものでもない。

 緒方は静かにコーヒーを一口すすった。防音工事された壁を隔てた向こう側から、ごくわずかに、排気音エグゾースト・ノートがきこえてくる。大黒柱の父親が、ガレージでロータスのエンジンを噴かし、調子を見ているのだろう。

 テーブルには有華の分のカプチーノも置かれていた。

「有華ぁ。冷めるわよ」母親は階段の方を向いて、二階にいる娘を呼ぶべく声をはった。

「……どういう気分なんスかね、有華は」と緒方。

「どうって?」

「岩戸さんが全部知ってたとわかって」

「かわらないんじゃない? 岩戸女史の事を話すとき、あの子は何時だって楽しそうにしてるもの。スーパーウーマンだって思ってる」

「やっぱそうですか」どうにかせねばと緒方は思う。岩戸はむしろ、自分を神格化してほしくないのだから。

「私はね、軽く心配してんだけど。軽くね」

 有華の母親は腰まで伸びたストレートヘアをまとめた輪ゴムを一旦はずし、髪をまとめ直した。

「心配?」

「…………岩戸さんには下心があるかもしれない。そう考えることもある」

「下心、ですか」

「あの子が警察官僚の姪っ子だっていう事情が、ぜんぜん無関係だとは思えなくて。どうなの? そのあたり……隼人的には」

「……意外です」

「意外?」

「おばさんは、そういう人じゃなさそうなんで……なんというか……もっと」

「もっとさっぱりしてる? もっと格好いい?」

「そんな感じです」

「はは。女って生き物はね…………性格とかじゃなくて、肉体そのものが疑心暗鬼にできてんのよ」





 有華は蛍光灯を点けなかった。窓から射し込む月明かりだけでも、どこに何が置かれているのか手にとるようにわかる。二階の十畳ほどある子供部屋。ここで双子は十八歳まで同じ空気を吸った。

 ただし真ん中にアコーディオン式の間仕切りがある。姉弟を隔てるささやかな壁。

(開けてみる、か)

 有華は間仕切りに手をかけて横へスライドさせた。開けばお互いの「壁」を眺めることになる。

 あの事故がきっかけで「有華の壁」からは車やバイクのポスターがすべて消えていた。

 一方「啓太の壁」には、今でも歴代世界チャンピオンが大排気量のバイクを傾ける大きなポスターが数枚貼られている。その、2003年と2004年の狭間で——真っ黒なアプリリアを駆る啓太の勇姿、B3版の小さなフォトフレームが強い存在感を放っていた。カメラ少年・緒方隼人が賞をとった傑作写真は、月明かりだけでも充分に魅力的だ。

(不思議……)

 あっちの壁を穏やかに眺められる日が来るなんて、夢にも思わなかった。思えなかった。どうやら自分は少し——少しだけ、変わったらしい。

 真下がガレージだから、足裏に排気音エグゾースト・ノートを感じる。父ちゃんだ。エンジンルームに手を突っ込んでスロットルをいじっている。点検に余念がない。すぐに全開走行してもいいように、という気遣い。

(もー、そんなに飛ばしゃしないって……)

 有華は、あの頃とまるで変わらない父親に思いを馳せて笑った。そして少し涙ぐんだ。

 カーテンを押しのけ窓を大きく開けてみる。目を凝らせばNICTやその隣の大学の方に生い茂った樹木が見える。今夜の視界はクリアだ。

(ロータス・エキシージか……じゃじゃ馬っぽいなぁ)

 乗ってみようという気になった、刹那。


——爆音。

 

 有華は目を見張った。耳を澄ます。音の方向を探る。

 自宅のガレージから聞こえた音ではない。爆音は家のすぐ間近で鳴ったが、どこか遠くへ去って行く。

(げげ。何時だと思ってんのさ)

 誰かが車のエンジンを強く噴かした。それも、こんな夜中に。こんな場所で。

 そして次の瞬間、有華は眉をひそめた。

(あれ? 今のエンジン音……どこかで……しかもちょっと……あれれ)

 額に、じっとりと汗がにじんだ。

「まさかね……違うよね」あえて声に出してみる。「えーと、気のせいだ気のせい」





 階段をどたどたと駆け下りてくる有華の剣幕に驚いて、緒方はコーヒーを吹きそうになった。「何、どした?」

 有華はダイニングにぴたり、と立ち止まって言った。手にスマートフォンを握りしめている。

「岩戸さんに電話したんだけど。通じない」

「だから?」

「……」有華は黒く大きな瞳を二、三度しばたかせた。「電池切れとか、かな」

「電源切ってる可能性だってあるだろ」

 緒方と有華は数秒ほどにらみあった。やがて。

 有華はまた猛然と再スタートを切り、廊下を駆けていった。

「コーヒーいらないの?」と有華の母。

「何だよ、おい」緒方もテーブルに腰かけたまま声をかける。

 すると足音が止まった。引き返してくるように思える。

 ところが有華はダイニングを通り過ぎて和室へと向かい、二度ほど仏壇のりんを打って、何かを手に取り、また廊下を走っていった。続いてドアが開かれる音。父親との会話が聞こえてくる。

 仕方なく緒方も腰をあげ、ごちそうさまでしたと有華の母に会釈し、ビジネスバッグを手にガレージへと向かった。

「お前……何慌ててんの」

 車庫に足を踏み入れてすぐ、緒方は目を丸くした。有華が不調のエクセルから新車のエキシージに荷物を載せ換えようと奮闘しているからだ。

(え……それ無理だろ)

 まがりなりにもエクセルは4人乗り乗用車で、トランクもそれなり。一方のエキシージは超がつくスポーツカー。トランクにいたってはゴルフバッグすら入らない。それでも有華はエクセルの後部席に積んであったGEEのサイバーなあれやこれやを手にとり、あくせくと押し込む。

 有華はふと手を止め、緒方を一瞥して言った。「送ったげる。けど、ちょっと寄り道するかも」

「サンキュ……って俺はぜんぜん急がないけど、何」

「嫌な予感がするんだけど」

「何」

「NICTにね……ちょっと寄るだけ」

「だから何なんだよ。忘れ物?」

 有華はエクセルからとびきり長く黒いスーツケースを取りだし、顔を曇らせた。「あー、これ何なんだろ。乗りっこないな」

「助手席で俺が抱いててやるよ」

 そう言って緒方はエキシージの中をのぞきこみ、薄ら笑いを浮かべた。「げげ。狭っ……エリーゼってこんなに狭かったっけ」

「あんたさ、拳銃とか持ってる?」背後で有華が唐突に言った。

「ノー。非番ですからぁ、もちろん手ぶらぁ」包帯で巻かれた左手をあげてみせる。

「だよね……」有華の険しい目つきに、緒方は異変を悟った。

「なんだよ。お前、ちゃんと説明しろよ」

 有華はエクセルのトランクをチェックし、残りの荷物を諦めてエキシージの運転席に回った。

「……勘違いかもしれないから、後で言うわ。乗って」

 待て、と低い声がした。ツナギを着た熟練のエンジニア。有華の父が真新しい靴を手にしている。

「これ、履いてけ」

「あ……」少し間があって。

 それから——娘は頷いた。「……うん」

 レーシングシューズ、だった。

 有華が履き替える間、緒方は長いスーツケースを少しだけ開き、中身を確かめた。

「ちょ……おい、これ」

「何?」

「……まさかのまさかだぞ」

 黒く光る太い銃身。大振りなスコープ。明らかに。

「あー。中身それだったかぁ」有華はかかとを打ってシューズを馴染ませると、両足をひっこめ、ドアをばたりと閉じた。「アレだよ、GEEさんがクビになった例の電動ガン。威力はメチャ弱いけど、スコープだけは超ハイテク仕様」

 緒方は右手にとって愕然とした。とてつもない重量感だ。

「お前」表情が曇る。「これって実銃なんじゃないのか? 玩具に見えないぞ。結構重い」

「ジツジュウ? だったらどうなの?」

「他人の名義だったら、俺だって撃てない。手に取っただけで銃刀法不法所持が成立する」

「そっかぁ。だから開けるなって、GEEさん言ってたのか」

「いやいやいや。開けるとか閉めるとかそういう問題じゃ……」

「っていうかさ、あんた撃てるよね? それ」

「……は?」

「持ってこう。ないよりマシ」

「何するつもりなんだよ」

「いいからソレ出して、ケース置いてけ。ドア閉める。急ぐよ」

 有華がイグニッションキーをひねると、一発でエンジンが吼えた。

 緒方が慌ててケースを捨て置き、ライフルを抱えて助手席のドアを閉じる。

 運転席の窓際に父親が自動車整備工メカニックとして歩み寄った。息をあわせるように娘はパワーウインドウを下げる。

 発進前の儀式——レクチャーの時間だ。

「こいつの名前はロータス・エキシージ・カップ二六〇。二六〇馬力って意味だ。エリーゼとの違いは」メカニックの軍手をはめた掌が屋根をぽんと叩く。「ハードトップに、ロールケージ。つまり剛性がかなり高い。エンジンもトルクが太い。でもトレッド、ホイールベースはエリーゼと同じ」

「じゃあエリーゼより重いね」

「ところが車重は、今の状態で八九〇キロ。エリーゼなみに軽い。あっちゃこっちゃがカーボンパーツに交換されてる」

「ひえぇ。高そう」

「ブレーキもいいからパワーをちゃんと受けとめてくれる。有華はスポーツエリーゼに乗ってたんだ……すぐに慣れるさ」

「こいつって……ターボ?」

 ドライバーの質問に答えず「ほい」と声。

 有華は差し出された革グローブを受け取り、素直に指を通した。こちらもサイズはぴったりだ。馴染ませるために握ったり、開いたり。

 その間もメカニックは喋り続ける。「こいつはターボじゃない。スーパーチャージャー」

 オイルにまみれた軍手が窓から運転席に入り、コンソールパネルの回転速度計タコメーターを指し示す。

「ターボと違って、どこからでも効く……八〇〇〇(回転)までストレスなく回る。二六〇馬力は伊達じゃないぞ。スピードメーターは三〇〇(キロ/時)まで切ってあるが二〇〇を超えたら伸びは緩い。そこまでが勝負どころになる」

「エリーゼとの違いは、よーするにパワーってこと?」

「いや、コーナリングスピードも違う。こいつの限界はクソ高い。トラクション・コントロールのボタンがあるが、オフで走っても滅多なことで滑ってはくれん。ファントゥドライブとは言えない、サーキットでタイムを詰めるための怪物君だ」

「ドリフトを試すのが、怖くなるレベルってことか」

「峠限定なら相手がポルシェGT3でも泣いて避けてくれるだろう」

「マジ……ま、でも」有華が真顔になる。

「全開走行するつもりは……ない、か」父親も表情を堅くする。

 怖い。スポーツドライビングには抵抗がある。親子の顔は同じ緊張感を醸していた。

「サーキットへ行くわけじゃ、ないんだろう」苦々しく父親が言う。

 娘は笑って応えた。「アタシ的に攻めるのは無理だよ。だってエクセルなんてヘンテコな……しかもクラッチが傷んだ車に乗ってたからさぁ。ヘンな癖がついてるかも。エンストさせちゃうかも」

「その心配はいらん……のんびり走るのにももってこいの車だ。扱い易いのがヨタ(※トヨタ製エンジン)のいいところ」

「こいつもヨタか……うん」

 有華がアクセルを踏むと野太いサウンドがガレージに響いた。踏力に応じた素直な、リニアな吹け上がり——そして。

 背中から、シート越しに排気音エグゾースト・ノートが襲いかかる。後部座席に相当する場所にエンジンがあるからだ。

 最後に有華は距離計を一瞥して言った。「慣らしは済んでるみたいだね」

「勿論!」父親は音に負けないよう声を張った。「一つ言っとく。ここから先は公道だ。サーキットじゃない。そうそうアクセルは開けられない。開けたくない。それにお前は人身事故もやった。怖いだろう。怖いはずだ。だから余計に踏めない」

「うん」娘は顔をこわばらせ、ハンドルを握りしめて小さくうなずいた。「踏めないと思う」

 消え入りそうな声だった。助手席にいる緒方にまで、親子の悲しみが伝わってくる。

「だけどな。父ちゃんいつも言ってるだろ。攻めろとは言わん。でも行くべき時は行け。止まるべき時は止まれ。運転はメリハリだ。ヘンに躊躇するほうがよっぽど危ない」

「行けるかな」有華の顔は苦笑している。声は震えていた。

「父ちゃんが保証する。お前の感覚は啓よりも鋭い。行くべき時はお前の感覚が判断するだろう。それを、絶対に疑うな。信じろ」

「……うん」

「最後は感性が頼みになる。こいつはそれだけの懐を持ったクルマだ。お前が信じてやれば、きっちり応えてくれる」父の声も涙ぐんでいるように聞こえた。「サスもお前の好みにしておいた。跳ねっ返りだぞ」

 がしゃり。シャッターが再び開き始めた。

 車に背を向ける有華の父。そのツナギ姿を緒方はまるで自分の父親のように懐かしく感じていた。

 たくましくて、凜としていて、あの頃と同じ表情。同じルーティーン。同じ注意事項。

 そして——逃げない姿勢。

 有華はしっかり前を見据え、真新しいグローブを着けた手で、こぶりなステアリングをしっかりと握った。

 それから小声で呟いた。

「……さんきゅ、父ちゃん」





 いつもどおり見送りはしない。表情がこわばるのを見られたくはないから。涙がこぼれるのを見せたくないから。

 有華の母は左手に琥珀色のグラス、右手にショートスケールのギターを提げて二階へ上がり子供部屋に入った。琥珀を一口だけあおって有華の勉強机に置く。

 窓を開けた。風が心地よい夜だった。

 有華のベッドに腰掛けて、唯一の嫁入り道具であり、今もよき相棒を抱え込む。

 あの事件が起きてからというもの、弾くのは決まって同じ曲。子供を失った母親の歌。啓太と私の歌。夫と娘には——聴かせられない曲だ。


ここにいてもいいかな あなたと話がしたくて

予定があるなら遠慮するけど 別にない? じゃあ 私と同じね


  

 自動シャッターが開き始める音が聞こえてくる。少しずつ野太い排気音が混ざり込む。それに負けじと、弦を弾いた。



あなたが変身ヒーローで 私が怪獣役で

 リビングで寝てしまう正義の味方を 二階まで運んだのは 悪役の方


 

 双子を産んだこと。二人が二人とも夫とレースにのめり込んだこと。一人が死んで、一人が傷ついて、それが原因で家族がバラバラになったこと。夫と二人で酒を断ち、これまで頑張ってこれたのは少なからずギターのおかげだった。けれど今日は。

 今日は飲んでもいいわよね、啓。有華が帰ってきたんだよ。お父さんと仲直りしてくれたの。だから自分にご褒美。いいでしょ?



最近 公園が苦手なのよ

  あなたが遊んだ砂場に 知らない子供たちがいて

私は傷ついてしまうの 

傷つく自分も嫌になる 嫌なの わかるかしら



 有華の母はぼろぼろと涙を流しながら、少しも唇を震わせることなく、やさしい歌声を保っていた。



また来てもいいかな あなたと話したくなるの

予定があるなら遠慮するけれど 別にない? じゃあ 私と同じね

予定があるなら遠慮するけれど 寂しいの? だったら 慰めてあげる



 唄い終えてから気づく。大きな子供部屋を二つに仕切る間仕切りが、いつの間にか開かれていたことに。有華の仕業だろう——ロードレースのポスターがまともに目に飛び込んでくる。そして啓太の写真。黒く精悍なバイクのフォルム、トレードマークの赤いヘルメット。ライディングフォームは躍動的で、バイザーに隠れた表情まで手にとるようにわかる。

 ここにいて耳をすませば声まで聞こえてくる。

 語りかければ答えも返ってくる。

「ねぇ、聞こえる? あれ」

 有華と緒方を乗せたエキシージの排気音が遠ざかって行く。シフトアップのリズムが小気味よい。


——またちっちぇえクルマに乗るんだね、アネキ


「そうみたい」


——らしいけどさぁ、アネキが乗るとバイクにしか見えねーんだよなぁ


「そうだよね、なんか」母は微笑んだ。「バイクみたいだよね、あの子が乗ると」

 ギターをベッドに置いて立ち上がり、押し入れの戸を開く。

 双子が二人とも二輪で競技に挑戦していた頃のアルバムを取り出して、勉強机にとって返し、また一口琥珀を煽った。

 写真はすべて二枚ずつある。水色のメットが有華で、赤いメットは啓太。その違いがなくともシルエットだけでどちらがどちらか手にとるようにわかる。さすがに中学生の少女はライディングフォームに余裕がない。手足の長さが不足している。一方の啓太は暴れるバイクを長い腕、脚のストロークで吸収する柔軟性を持っていた。中学生にして、すでに大人顔負けの洗練された走りをみせていた。

 絶対転ばない啓太。よく転ぶ有華。でもあの娘には一発の速さがあった。身体能力の差を感覚で埋める凄味を持っていた。

 啓太の声が聞こえる。


——センスはさ、アネキの方が上だと思うよ


「そうかしら。双子だよ? 感性は一緒なんじゃない?」


——わかるんだよ俺には。だって双子だから









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