(十)

千代田区・(都内某所)・千代田区



Ⅰ:千代田区:霞が関:深夜


 古巣を引き払って新庁舎へ引っ越すための、やむをえない大規模なシャットダウン。関わる電網庁職員の大勢がここ中央合同庁舎第二号館の十一階を賑わせていたが、熱気は収束へと向かっていた。作業そのものはあらかた終わり、午前〇時ちょうどに押すだろうリターンキーの押下を残してまだ二時間以上の余裕がある。皆が軽食を取りながら、ミスを見逃さないよう最終チェックに入っている。

 香坂は昼間のうちに担当の作業を終えていた。開発局の大部屋を見渡す余裕もある。上座では巨漢の局次長がにらみをきかせていた。ピザの出前に一番乗り気で、そのくせ小さなミスも見逃さないという構えは崩さない垂水昂市。大柄な亀のごとき風貌、口元は穏やかに微笑んでいるようで、しかし、つぶらな丸い瞳の奥は鋭く光っている。彼の前には作業完了を報告する行列が出来ていて、けれど誰もが何かを指摘されて、頭をかきつつ自分の席へ戻っていく。

 行列が尽きたタイミングで香坂の視線に気づいた垂水は、のっそりと立ち上がり、はるばる下座へとやって来た。

「シャットダウンだけでも一苦労だよなぁ」

「悪くないですよね? 〇時には間に合いそうだ」香坂は座ったまま答えた。

 垂水は若者の肩を叩き、労う。「目処がたったら復旧班はちゃんと寝てくれよ」

「そうです……ね」香坂は周囲を見渡し同僚たちの血色をおもんぱかった。「さすがに疲れがみえる。三日三晩徹夜とか、不可能でしょうし」

「お前さんもだよ。やることやりきったんなら、気をまわさず帰れ」

「僕ですか。僕はまだまだいけますって……何かあれば手伝う覚悟です」

 シャットダウンと再起動。それに伴うトラブルを未然に防ぐ手続きは膨大だ。データの換装。新たなハードウェアで再起動が止まりはしないか。再起動できたとしても、ちゃんと稼働するかどうかテスト。そして国民への告知。深夜〇時から明日の昼十二時までに全てを完遂する——そんなスケジュールをこなすべき人間に、しかし「交代」の二文字はないのである。誰もが担当を離れられない。だから自分で能率をあげ、なんとか睡眠を確保しなくてはならない。隙あらば眠るのが仕事のうち。

 手が遅い人間は、罰として目をこする。

「そうか……そうだよ。祗園狐は若いんだよな」垂水が頭を搔いて笑う。「なら、頼む。近畿(=近畿総合通信局)担当の連中な。よくやってくれてるが、IX回りがちょっと怪しいんでダブルチェックさせることにした。ボリュームはかなりある。あいつらも寝かせてやりたい」

「じゃあ加勢します。僕の古巣だし」

「そうだった、そうだった」

 香坂が手を貸したおかげで、一時間が過ぎた頃にはスタッフが一人、また一人と帰り支度を始められるまでになった。一方で自分は特に意味もなく席に残り、オフィスチェアに背中をあずけている。二号館は不夜城。日本一忙しい連中が寝る間を惜しんで働き続けている。それが慣れっこになっていて、帰るのがおっくうになることも時たまあった。零時ちょうどにシャットダウンが始まるなら、それを見届けてから帰ろう。終電車にはまだ早い。

 むしろ常代有華の事が気がかりだった。

(ちゃんと実家に帰ってくれたかな)

 香坂はノートPCを開いたまま、漫然と液晶画面を眺めている。地図の上を這い回る膨大な光点——都内に数千を配したセンサーが捉えている、都民の生活を。

 香坂は出来心で有華を探してみることにした。

 数回キーを弾くだけで、探知システムの地図上に現在位置が大きな円として描き出される。大雑把ではあるが「NICT周辺」といってよい。都心なら十メートル間隔で設置されているセンサーも、二三区外の国分寺ともなればワンブロックに数個程度。携帯電話の追尾やGNSS(※米国のGPS、欧州のGALILEO、日本の準天頂衛星といった「測位衛星」の総称)に精度は遠く及ばない。

 けれど、二十三時を過ぎてNICT周辺にいてくれるということは——実家に帰った確率が高い、と感じられる。

「じゃ、香坂。明日、新庁舎に七時集合で」先輩の一人が声をかけてくる。

「もっと早く行けますよ。僕は初台宿舎なんで」香坂は意気込んで答えた。

「大丈夫だって。五十人がかりでやるんだから、二時間もあればいけるだろ。七時からやりゃあ九時には軌道にのると思う。昼一まで余裕はたっぷりある。七時でも早すぎるぐらいだよ」

「……ですか、ね」

 その先輩が翻ったはずみで、肩にかけていたスーツの上着、そのポケットからネクタイがするりと落ちた。

「おっと。落としましたよ」

 香坂が拾って手渡すと先輩は照れくさそうに受け取り、さんきゅ、と軽く会釈して開発局の大部屋を後にする。そのときだ。

 香坂は何気に、自分のポケットというポケット全てに手を差し入れ、中身をくまなく探りたい衝動にかられた。全身に配置した御守り。それを落としていないかが、ふと気になったのだ。シャツのポケットに『交通安全』、パンツのポケット前後左右に『家内安全』『病気平癒』『縁結び』『技芸上達』。

 五つある筈だった。

 ところが。

「……げ」

 ない。ないのだ。一つだけ足りない。

 『交通安全』が——ない。



Ⅱ:(都内某所)


 高速道路のサービスエリアは薄暗い。駐車場には点々と街灯が据えられている。だがすべてを照らすほどではない。出入りする車が例外なく灯火を絶やさない前提があるからだ。駐車場の隅で数名の男がたむろしていたところで、誰も気にかけたりしない。すれ違ったところで記憶に残ることも希。顔も年齢も、夜が隠してくれる。

 加えてサービスエリアという環境そのものが隠れ蓑だ。頭の先から足の先まで黒ずくめの男が、ヘルメットを脱がず延々とスマートフォンをにらんでいたとしても、不審者と解釈されることはない。運転の疲れを癒すのに何時間かかろうが個人の勝手。ヘルメットをかぶったままトイレを利用しても全く咎められない。

 pack8back8パケットバケットは計算づくでここを拠点に置いた。車を駐車場に停め、車中から全員に指示を出し、全員から報告を受け取るための。

(そろそろ時間だな)

 スポーツカーのドアを開いて、ブラックハットがアスファルトに降り立つ。

 こんな夜更けでも利用客は結構多い。なかなか人気のサービスエリアだ。集合場所はレストランの入った建屋の中ではなく、その壁に固定されたモニターの前とした。もちろんヘルメットを脱がないまま立つ。脱がずに立っていることが目印であった。

 モニターには交通情報が地図と供に示され、画面の端にニュース速報の文字列が横っ飛びしている。たまたま〈電網庁のシャットダウンに伴い、電網免許証関連サービスが明日昼まで停止〉と報じられているタイミングで、通りがかったカップルが立ち止まった。

 男の方がスマートフォンを一瞥して、それから尋ねる。「結局、十二時まわるとどうなんの? 電網庁がお休みってだけ?」

「わかんない……ふぁ」女は興味なさそうに大あくびした。

「オービス(※スピード違反取締装置)も休んでくんねぇかな」

「それないっしょー」

 二人が笑いながら立ち去ると、それを待っていたかのように別の人物が近づいて来た。眼鏡と鼻がくっついたパーティグッズを着け、パーカーをかぶっているから顔は皆目わからない。

「こんばんわ」声は男のそれだ。「黒いヘルメットで黒いライダースーツ。あんたが、あのパケットバケットさん」

 pack8back8は軽く手をあげて会釈した。

「時間通りですね、メガネバナさん」

 二人は連れだって歩き出した。向かう先は大型車専用駐車場。サービスエリアの広大な駐車場にあって、レストランの入る建屋から最も遠く、暗いゾーンだ。

(これだな……)

 それでも一目見てわかる。形はタンクローリーのそれ。街灯が暗い中でも、ボディが銀色であることはかろうじて窺い知れた。

 眼鏡鼻の指示を待たず、pack8back8は慣れた手つきで助手席によじ登る。

 運転席には眼鏡鼻が滑り込んで、しかしエンジンはかけずに言った。「どうなんです? ……例の赤い、テクセッタ」

「すべて予定通り、十二時に行動開始」pack8back8は事務的に返答する。

「荷物は?」

「合流済み」

「俺たちへの指示は? 変わってない?」

「変更ありません」

 くぐもった声で答える。ヘルメットの中、顔には満面の笑みを浮かべて。




Ⅲ:千代田区:霞ヶ関:深夜


 二十三時五十五分を過ぎた頃。中央合同庁舎第二号館、十一階。

 電網庁開発局開発室と命名された、エンジニア百名足らずが出入りする大部屋にて、居残り組のほとんどが和気藹々と会話しつつ「その時」を優雅に待っていた。日本のIP通信インフラを担う電網庁が初めて体験する大規模なシステム停止。準備万端、あとは午前〇時を待つのみ。

 ところが一人、御守りを紛失したことで心中穏やかでない男がいた。京都出身、母の影響で験担ぎが癖になった香坂一希である。お洒落を意識するあまり財布を太らせることを毛嫌いして、だから御守り五種を全身のポケットに分散配置しているのが災いした。

(やっちまったか……)

 影響は小さいだろう、と自分で自分を慰める。五つ持たされているうち、紛失したのが『交通安全』なら、車もバイクも所有しない電車通勤の身にインパクトは小さい。

 やがて大部屋の職員が一人、また一人と立ち上がり始めた。秒読みをやろう、という誰かの提案に合わせて、声を出し始めたのだ。

「三分前ぇ! 秒読みは三十秒前からやりまぁす」

 歓声と拍手が巻き起こる。一方の香坂だけは身体をかがめ、フロアを這い回り、無くした御守りを探し回っていた。そのときだ。香坂の胸ポケットで携帯電話がバイブレーションした。しゃがみこんだままガラス面に指を這わせ、通話相手を確かめる。

 相手はGEEだった。

「……香坂です」

〈キツネっ! うちのクイーン、どこにおるかわからんかっ〉

「岩戸さん? ……が、どうかしたんですか」

〈九時ぐらいまでゴールデン街に居たみたいやねん……うち、合流する予定やったんや。けど遅うなったし、連絡とろう思うて、電話してんねんけど〉

「酒盛りですか。いいなぁ気楽で」

 香坂は軽く返答した。ところが。

〈……全然電話つながらへんし……ちょっと心配でな。お前、電網免許で追尾できるやろ。探してくれ、大至急や〉

 声色がおかしい。あのGEEに焦りが感じられる。八千夜大義は裏街道をひた走る超のつくブラックハット。それが国家権力の担い手・電網庁と手を握った。今の彼女が本気になれば携帯電話網まで操り、メートル単位で人間の居場所を割り出せる筈。そのハッカー女が、大雑把にしか居場所を特定できない電網免許証のセンサーを頼るということは——一体どういう状況か。

 香坂はあわてて机に舞い戻り、キーを叩いた。他の職員はモニターにシャットダウンのプロセスを大映しにしている。一方香坂だけは免許証探知システムを表示していた。東京都民の行動を示す赤や青の明滅が地図の上を這い回っている。けれど。

「一分前ぇ!」

 シャットダウンされたら探知システムも停止する。

 秒読みが止まない中、香坂は必要最小限のコマンドを入力し、岩戸のアカウントへ十五秒でたどり着いた。

「ええと……確かに、九時頃までは新宿にいましたね……それから国分寺に移動した形跡があります。現在の反応はNICT近傍。違うな……」

〈違うって?〉

「NICTの中だ。クライム・ラボのドアを開けて……閉じた?」

〈何時にっ〉

「……二十三時三十五分。それが直近の反応です」

〈おかしいぞ。いくら仕事の虫や言うたかて、そんな時間からクライム・ラボに何しに行くっちゅうねん〉

「GEEさん、今日って……」二人は唐突に沈黙した。

 クライム・ラボには、今日搬入されたばかりのブツがある。ベガス社が持ち込んだ——真っ赤な自動運転オートパイロット車が。

 電話回線を挟んで息を呑む二人を、職員の喧噪が呑み込んでいく。

「五秒前! 四……三……二……一……ゼロぉ!」

 午前〇時。

 あらゆるPCモニターが、一斉に白い文字列の濁流に呑まれた。と同時に、香坂の視界から探知システムの地図がぷつりと消えた。

 岩戸の足どりが闇の彼方に消える。

 ブラックアウトした液晶画面には、青二才の狼狽した貌が映り込んでいた。

「ぎ……ギーさん……今どこにいます?」

〈……赤坂。バイクや〉

「僕、拾ってもらえませんか。大至急、初台の新庁舎に移動したい。とてつもなく嫌ぁな……嫌な予感がします」香坂はそう言いながら、ズボンの左後ろポケットへ手を突っ込んでいた。

 五つ目の御守り、『交通安全』。その所在を——無意識のうちに求めていた。







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