第9話 浴場の誓い
アイリーシャは天蓋のついた豪勢なベッドの上で目を覚ました。酷く懐かしい感情を抱く。このような寝床で寝るのは自分の実家であるガロアの城内。つまり二年ぶりということになるのであろうか。
父ラスカリスに手紙を託され、鄭国と共に旅をしている間は毛布に包まり、布と棒切れで造った簡素な家で雨風を凌ぐ日々が多かった。
町や村に立ち寄り、一晩の宿を借りることはあっても、このように柔軟性に富む羽毛布団に包まれた事など一度たりとてなかった。
それに比べればここは天国と呼べる。
目を覚ましたアイリーシャのすぐ隣には固い腹筋と弾力性のある胸筋が並んで転がっていた。
即ち、羅刹王母が寝息を立てていたのだ。
「うひゃっああ!!」
驚き、シーツをまといつつのけぞるアイリーシャ。
「む・・ん?おや、朝か。早いのう」
羅刹王母の言う通り、窓からは柔らかい朝日が差し込みつつある。
「さっそく湯浴みをするぞ。ついてまいれ」
「湯浴み?湯浴みって・・・」
「湯に浸かるだけじゃ。何も取って食おうなどというわけではないぞ。女同士何も異存はあるまい?」
半分連行されるような気分で連れて行かれた浴場は大変豪勢なものである。
正方形に綺麗に切り取られた石を敷き詰められ、竜の形を模した奇妙な石像の口から湯船に向けて大量のお湯がとめどなく溢れている。
「よい風呂であろう?」
「え、まぁそうですね」
このような立派な浴室に浸かるなど。そう、ガロアの王都を出立して以来だ。
旅の途中でまともな風呂を使うことはなかった。
川で水浴びしたり、宿屋の室内でタオルで体を拭くような事はあっても、このような大量の湯を文字通り湯水の如く使いまわす事など考えられなかった。
「どれ髪を洗ってやろう」
羅刹王母はそう言うと緑がかったべとつく液をアイリーシャの金色の髪に少量かける。それを髪の毛に馴染ませるように指でこすると、大量の泡が立ち始める。
「これは海藻の灰と動物の脂肪を混ぜて造った石鹸でな。体の汚れを落とすのにとても良いと聞くぞ」
そして程よく泡立てたところで桶でお湯を汲み、アイリーシャの髪についた泡を流した。
「さっぱりしたであろう?」
「・・・はい」
「では、次は妾の髪を洗ってもらおうか」
アイリーシャは羅刹王母が自分にしてくれたように彼女の髪を洗う。
黒く、麗しく、艶のある髪だ。この海藻で造られた石鹸のお蔭だろうか。
自分はといえば旅の途中砂漠の砂嵐に揉まれたせいもあるのだろう。
羅刹の半分の年月も生きていないのにも関わらず、既に毛先に痛みの兆候が見受けられる。
「そうだ。ただ単に髪を洗っているもつまらんであろう。妾が御伽噺の一つでもしてやろう」
「おとぎ話?」
羅刹王母の黒い髪を白く泡立てながらアイリーシャは聞き返した。
「その昔さる国に。遠い西の国に独りの武勇に優れた王がいたそうだ。ある日、いつものように王は戦に大勝すると湯に浸かり始めた。風呂には自分の妻が一緒に入ったそうだ。そこで王は言ったそうだ。『遠征先で美しい姫君を見つけた。新しい妻として迎え入れたい』とな。女房は王の髪を泡立てると、水で洗い流さずに目の方に落とした。そして傍らにあった王のとてもよく切れる剣を手に取ると、王の首でその切れ味を試したそうだ。ところで娘」
「はい」
「そこにカミソリがあるであろう?」
「確かにありますが・・・?」
アイリーシャは若干疑問に思った。カミソリは男性が髭を剃るのに使うものではないのだろうか?
「妾は少々毛深い体質でな。体の毛を剃ってくれ。具体的には脇と、後は股の前辺りをな」
確かに見れば脇と、足の付け根に放置した庭の如き茂みがある。
「そのままでは肌を傷つける恐れがあるのでな。よく泡を立てて剃ってくれ」
命ぜられるままに腕の付け根。そして股ぐらの毛を剃り落とす。
剃毛が終わると、桶でお湯を汲み、泡を洗い流した。
「できました」
「なぁ娘。お前妾の命を奪おうとは思わなんだか?」
「えっ?」
「さっきの昔話を聞いておらんかったのか?妾の目は泡で塞がっておったろうに。お前はその気になれば妾の首を切り落とす事も簡単にできたはず。それにだ」
羅刹王母は立ち上がると自分のへその下あたりを叩く。
「ここに何があるか知っておるか?ここには女が赤子を孕み、育てる内臓が収まっておる。言うなればもう一つの心臓とも呼べる器官だ。そこに剃刀を突き入れることもできたであろう」
「なんでそんなことをわたくしがするんですか?」
「妾は兵を率いて戦場に出る権利を持っておると言ったであろう。そのような惨い殺され方をした亡骸を見たことは一度や二度ではないからな。それゆえ」
羅刹王母は軽く腕を曲げてみせた。盛り上がった筋肉が力こぶを形作る。
「そうそう負けぬように鍛錬は欠かせぬのだよ。負けた方は勝った方に何をされても文句は言えぬのでな。ところで娘。逢璃紗とか言ったな?」
「はい。そうですが?」
確かに。自分の名前はアイリーシャである。だから彼女は返答をした。
「とりあえず妾の毛剃り係にでもならんか?自分でやるのは何かと面倒でな。かと言ってこれを他人にやらせるとなるとそれなりに信用のおける者でなければならん。乳房や子宮を切り取られて殺されるのは惨め極まりない。鄭国や八戒ならそんな心配はなかろうが連中と同じ風呂に入るのは別の問題があるからな。如何いたす?」
「わかりました。羅刹王母様と一緒にお風呂に入ります」
アイリーシャは即決した。
「そうかそうか。それと、逢璃紗。お前に一つ命令しておくことがある」
「なんでしょうか?」
「妾は今よりお前を実の娘として扱う。お前も妾を実の母として捉えるようにせよ」
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