▶③
札幌駅と大通公園駅とを繋ぐ地下歩行空間というものが札幌にはある。近年できたばかりなのだが、ずっと前からあった気がしてならない。ここはその利便性から賑わっている。
左右両サイドにはイベントスペースが設けられていることが多く、大道芸みたいなことや手品をする人からどこかの団体によるフリーマーケットみたいなこともよく催されている。
大通公園の四丁目まで移動し、地下への階段を下った俺たちはチカホ(地下歩行空間の略称。以後地下歩行空間のことを指す)と向かった。
大通り側から入るとすぐにカフェがある。俺は明空さんがアイスコーヒーを注文するのに
肌寒い外では考え付くものもつかない。というより先輩が少し寒そうだったので地下に入ることを俺が推奨した。
地下に入るとさすがに暖かい。飲み物が運ばれてくるまでにもう一度問いを書き出した。
一文字目はカッパドキアとAに一つ団子と四つ団子を使う
二文字目はスウカジュウとAに三番ホームの木を使う
Aはスウカナナジュウとボトム対立のこと
「Aが分かれば他も分かりそうな気がします。とりあえず、ここから考えてみませんか」
「スウカナナジュウとボトム対立のことって、どういうことだろう。……あーもう分んないよ。答え教えて、照」
「おしえられない。おしえちゃいけない、そういうことになっているから、そうとしかいえないから」
可愛らしい声で続ける。
「でも、ヒントなら、いまはいい。——すうかは、これ」
数価と少女は書いた。はて、普段目にしないし、聞き覚えのない単語だ。カタカナが漢字になって分かりやすくはなったけど、こういう時は仕方ない。
グーグル先生に頼ろう。
小学生が分かって高校生が知らないなど恥ずかしい限りだけど、ほんとにこの娘は小学生なんだろうか。あるいは天才過ぎてさっぱりついていけてないだけか。照にはきっと何かある。彼女はただの普通の少女じゃない。それこそ現実離れした戯言だけど嘘じゃない。
数価。
今はこっちに集中だ。しかし、すぐにヒットしない。逆の価数ならいくらでも引っかかるのだが価数が分からない。あちこちのサイトを転々としてみたがはっきりと示されているものを見つけられなかった。専門用語が陳列しているものを見つけた時にはさすがにうんざりした。
専門用語。
このような単語を使ってそうな分野はなんだ。
この単語には既視感があった。俺はどこかで見ている。
分野はどこだろうか、理系だろうか。だとすると、数学、物理学、天文学、化学。
違う。何か当てはまらない。もっと違うどこかで見たことあるはず。
地球科学、海洋学、気象学、地質学、医学、保険学、軍事学、倫理学。
思いつくものを羅列していく。
代数学、幾何学、解析学、集合論、情報科学、確率論、統計学、位相幾何学、超弦理論、抽象代数学、数理物理学。
文系かな。文系だとすると何に使われて——。
「何か分かった、恒くん?」
思わず天を見上げていた。文学の基本単位は文字だ。言語だ。星だ。ギリシャ文字だ。
「すいません、今日は解散で」
ポカンと置いてけぼりを食らっている先輩を置いて、立ち上がった。財布から一番大きな硬貨を出して早足で店を出る。
戸惑ってひたすらに困惑しているけど、今はそれどころじゃない。目的と手段があるのだ。あとは実行するだけ。さすがに知識がないから調べないといけない。確かな情報じゃないといけない。ミスりたくない。確固たる信頼性抜群の情報源と言えば図書館しかない。
最寄りの図書館は学校だ。あとは走るだけの俺は必死に駆けた。
▶
息を弾ませて学校に着いたとき、すぐに心配になったことが開いているかどうかだった。でも良く考えたら部活動をしている生徒もいるのだから土曜日でも問題ないのだと、生徒玄関を開けたときに思った。
図書館は二階にある。校長室のちょうど真逆側の端に
焦った。焦燥に駆られた左手で髪を掴んでくしゃっとして、そのままにする。時間がない。もう二日目の四時だ。午後四時ということは、あと二十六時間しかない。まだ二十六時間もあるとポジティブに考える余裕はなかった。考えることが多すぎて、休ませていない脳がしわを寄せている。
「お、シューズじゃん。どうした、珍しいな」
良かった、素直に良かったと思った。
「部活、開いてるか」
「おう。今日は皆暇らしくてな、全員休日出勤だ」
「ちょっと借りる」
すぐそばの階段を飛ぶ。降りるのではなく段を飛ばして、飛び降りる。三段ぐらい普通に降りてからならば、余裕の高さだ。踊場へ飛んで二度目で一階に着地する。目の前の音楽教室を過ぎて、準備室の隣の部屋に駆け込む。全員がきょとんとしている光景は前にも見たな。デジャブじゃなくて実際に。
「ギリシャ語は、」
息で詰まって続かない言葉だったが何とか伝わり、部員が指で指し示す。奥に広がる部屋の文字通り奥の棚から大層な分厚い辞書を取り出す。広辞苑みたいに重いので床で開く。
巻末にある文字一覧を探し当てて、読み流していく。
アルファヴィタガマゼルタエプシロンジタイタシタヨタカパラムザミニクシオミクロンピロシグマタフイプシロンフィシプヒオメガ。古代読み、現代読み、日本語慣用と並んでいる。読み方はどれでもいい。俺は数値の段に目を
一二三四五七八九一〇二〇三〇四〇五〇六〇七〇八〇一〇〇二〇〇三〇〇四〇〇五〇〇六〇〇七〇〇八〇〇。
スウウカジュウ、スウカナナジュウは数価一〇と数価七〇。視線を横へと平行移動することによって該当する文字はイオタとオミクロン。
「ボトム対立……ボトム……ボトム……」
これも関連しているはずだ。ここまで来て他から持ってきているとは考えづらい。ボトムってなんだ? ……なんだ、なんだ。対立、対立するもの。
「対立するもの!」
「?」
「何か、何かない?」
何事かとこちらを見ていた皆さん方は困惑に苦笑いと愛想笑いを混ぜたものを張り付けていた。相変わらず不愛想な連中だ。
「…………冷戦?」
それじゃないけど、そういうこと。なにか、もっと。首で頷きながら否定して手を振ってさらに要求する。
「探偵と怪盗」
「なるほど、明智と二十面相みたいな」
メガネ娘に坊主が相槌を打つ。部長さんの後に他が続く。
「エス極とエヌ極」
「んと、磁石か」
前髪の長い少年に坊主が補足する。ここは通訳が必要なのか。
「そしたら……プラスとかマイナスも含まれる?」
「——理系? 電池、なんか違うな。そもそもボトムは底って意味で、逆はトップかな。上と下、上下、アップ、ダウン……」
「アップ、ダウン、ボトムってクォークみたい」
クォーク? なんだそれは。スプーンの片割れか? 違う違う。落ち着け、たしか粒子だかなんだかだっけ? 理系の知識は浅学で
ここの部員はみんな同じような話し方で、顔を見ないと誰が話しているか分からなくなる。今のは声が女性だと判別できたからメガネがしゃべってるんだろう。こんなんでこの部活ホントに活動できているのだろうか。
結局、皮相浅薄な俺は仕方なく博識卓識に聞く。
「その、どういうこと?」
「・・・」
沈黙してしまった。そんなに俺の事嫌いなんだろうか。気を利かせた副部長が俯いた彼女の代わりに代弁する。
「クォークってアップ、ダウン、チャーム、ストレンジ、トップ、ボトムっていう、その、種類みたいなものがあるんだ。だからそれみたいだって、意味かと」
よく分かるな、発想が違う。理系ってそういうの好きなのかな、いつも何考えてるんだか。ここにいる人間だから特殊だとも言えなくないけど。少なくとも文系の俺にはない知識。
「……ボトムと反ボトムでウプシロン中間子を表すはず……」
この話し方は部長さん。部長の話し方には慣れて分かるようになってしまった。で、ウプシロン中間子ってなんだ?
いや、ウプシロンって……。
「電子、陽電子の衝突実験で生成されるものをウプシロン中間子って言うんだよ。記号だとアルファベットのワイの右上を曲げた感じのやつ。そもそもこれはギリシャ文字のウプシロンとの区別化を図るために——」
ボトム対立はウプシロンだ。ここまでの二つがそうだったから違いない。もしも違うなら完全にお手上げだ。
整理しよう、一旦整理しよう。
部員が座る縦長の机にある一枚の紙を勝手に拝借して暗号文をスマホで撮った写真から書き写す。
一文字目はカッパドキアとAに一つ団子と四つ団子を使う
二文字目はスウカジュウとAに三番ホームの木を使う
Aはスウカナナジュウとボトム対立のこと
これに分かったことを当てはめる。
一文字目はカッパドキアとAを計算する
二文字目はイオタとAに三番ホームの木を使う
Aはオミクロンとウプシロンのこと
「暗号……?」
「何ですか、これは」
坊主とメガネが興味を持ち出した。前髪も覗き込んできている。書き連ねて思ったんだが、カッパドキアってギリシャ文字のカッパか? だとしたら、ドキアは惑わせるだけの目隠しだったってことだ。
ドキアに二重線を引いて削除して、残るは三番ホームの木を使う。これも惑わしだとすると、三番木で、算盤木になる。そろばんだ。いいぞ、冴えてる。残りは計算だ。
「計算ってなんだ? 足し算とか引き算とか、割り算掛け算とかのことか」
足し算。すべてを繋げて読めば……!
分かった。
解けた。
くそ、思わせぶりな惑わしばかりで嫌になる。
時間、時間は…一七時四〇分過ぎ。やばい、二〇分もない。
俺は取ってつけた格好で部長さんの目の前に立って頭を下げる。
「お騒がせしました、ありがとうございました」
「……またいつでも、遊びに来てね」
落ち着いてすべてを許してくれる彼女のきちんとした声を、久々に聴いた気がした。
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