【ひー3】 他の何者でもない照隠しがすべて
▶①
えぞつゆ。この四文字だけを見るならば蕎麦でも付けていただきたい所だが、そんなにおいしいものじゃない。
蝦夷梅雨と呼ばれるこの現象の由来はそもそも北海道には梅雨という現象がないことから始まる。本州では梅雨と呼ばれる長期に渡って雨が降る時期があるのは誰もが知っている周知の事実であるが、北海道には基本的にそのようなことはない。梅雨は梅雨前線によって引き起こされる現象を指すが、北海道にこの前線が来たところで雲が立ち込めるだけで雨が降る条件にまでは至らないからである。
そんな北海道にもライラックが奇麗に咲き誇る時期に梅雨のような現象が起こることがある。これを蝦夷梅雨と我ら道民は呼ぶ。
学名は紫丁香花・モクセイ科ハシドイ属の落葉樹で、確かフランス語辺りの由来でリラの花と呼ばれ、この蝦夷梅雨が降る時期に丁度咲くことからこの寒い時期をリラ冷えとも言う。
今日はといえば、リラ冷えではあるが快晴で雲一つない。清々しくて何もなさ過ぎて不安になりそうな空だ。紫色の花が房となって人々の心を癒している頃、俺はその木の下のベンチに座っていた。
この時期札幌ではライラックまつりが毎年開催されている。基本屋台がワインばかりだし、花に特別興味のあるわけでもない俺には退屈な時期だ。この祭りのすぐ後によさこいがあるのでそちらの方が気になる。楽しみだなぁ。
「ごめんね~、ま、待った?」
軽く頭を下げて挨拶をする。この公園で待ち合わせをしていたのは先日紹介された
余計な雑学が挟まったけど、俺が待ち合わせしていたのはデートとかそういう類ではなく、いやそうであったらどんなに良い事かと思うが残念ながらこれもまた依頼である。最重要任務だ。
明空さんは
今回の依頼はそんなとある昼休みに舞い込んできたもの。いつも通り梅月、雨月とも呼ばれる五月の初日から数えて二十五日目のこと。
一日目を飛ばして実質二日目
「今日は色内先輩休みですか?」
「ん~、そうなんじゃないかな。今日は連絡来てないみたいだからちょっと心配だね。まあ、よくあることだし」
「そうなんですか」
「なんか調べ事とか言って勝手に休むことは多いよ。どうせ校長とか教員の我儘のせいなんだろうけどさ。でも、確かに連絡ないのは初めてかも」
今日は色内先輩が欠席のため部活がない。俺が見る限り一番仲の良さそうな彼女ならば何か知っているのでは? と思ってここに来た次第だが、どうやら外れみたいだ。
やはりあの時に何かあったとしか思えない。舞さんの手練のいる目の前で、白昼堂々と
土曜に起きた悲劇から俺は寝てない。これは自慢でも俺の努力の見せびらかせでもない。同情なんて絶対して欲しくない。世の中で嫌われれる人間ベスト三位に入るであろう、寝ていないとか仕事で疲れてるだとか言って自分忙しいアピールをする人のように、ただ共感を求めて他人に迷惑をかけるつもりでは一切ない。とにかく時間がなくて惜しいだけなのだ。
二日前、みんながどこまで行ったんだ? とか呑気なことを言ってる危機感のない中で一人、俺は
走り出して駆けずり回ったが、それはただの不審者他ならず、すぐに同行者に捕縛された。結局それ以来先輩とは音信不通だ。警察にはもちろん届けたがこちらも通信不能。
「あ、そういえば恒君は探偵の助手なんだよね。だったらさ、これ分かるかな」
そう言って出されたのは一枚の小さな紙。大きさは文庫本よりちょっと小さいB六ぐらいだ。
一文字目はカッパドキアとAに一つ団子と四つ団子を使う
二文字目はスウカジュウとAに三番ホームの木を使う
Aはスウカナナジュウとボトム対立のこと
そして空白の一文を挟んで一行
三日後の十六時が
なんだこれは。なぞなぞなのか。問題、頓智、クイズ……暗号?
「カッパドキアとAに二つ団子と五つ団子を使う、スウカジュウとAに三番ホームの木を使う。Aはスウカナナジュウとボトム対立のこと……さっぱりだな」
とりあえず読んでみたけど、読み取れるのはカッパドキアと団子と三番ホーム、ボトム対立ぐらいか。数字は散りばめられてるけど、まったく見当もつかない。
カッパドキアってトルコの帽子被った岩の家だよな。妖精の煙突なんて二つ名がついてたりするけど何が関係しているんだろうか。何を示すんだかさっぱりだ。
また暗号か。
色内先輩に出会ったのもまた、暗号がきっかけだった。
▶▶▶
俺が気がついた時にはテレビ塔の縁石に座り込んで空を眺めていた。よく晴れていて、雲も滞りなく走行していたのを覚えている。逆に言えばそれまでの経緯とか一切覚えていなかった。抜けて落ちたかのようにぼーっとしてすっきりしていた。
そして俺は色内先輩に出会った。突然話しかけられたので僅かに体が震えたのは覚えている。もちろん暗号の内容は覚えている。
「ルグランはジュピターを正し、沓形のペットが正体。他の何者でもない照隠しがすべて」
見上げた空は白だった。縁石になぜいたのか思い出せないけど、ただ無心だった俺が見た光景は白だったことは覚えている。
「沓形くん、沓形恒くんだよね。助けにきたよ、だから私を助けて」
縁石は小さな階段で、一番最下層に小さくなっていた俺は上であり、後ろからする声の主を探そうと首だけブリッジした。首を後ろに反らして見えたのが白だった。
「パンツばっか見てないで返事してよ、恒くん」
一人だった。独りきりだった。心細くて、苦しくて。何かを失ったような被害者面で、ただまっすぐな公園を見て、そこで世界一我儘な俺は突然泣き出したのだ。
それが先輩との初めての出会い。あの学校に連行された後、俺はこの暗号を知っていたはずなのにわからないと答えて、それからなんとなく一緒に考えているふりを続けている。今思えば、日付が変わらなくなったのもこの頃からのような気がする。こっちの世界に来たのはこの時だったのかと今更のように思った。
▶▶▶
「あの、これは何ですか」
「これ妹にもらったの。お姉ちゃんの友達に頭良い人いたら考えて貰って、って昨日渡されたんだ」
「じゃあ、期限は……明日の午後六時か」
知りたいことはいつも暗号化されてしまう。おそらく今回もそうだろう。暗号は苦手だし、嫌いだけど仕方がない、頼れる先輩は今いない。そしてこれは必ず先輩へと続く坂道となる。時間がないなか手に入れた確証のない核心的物証に俺は湧き上がっていた。だからなんでもいいからヒントじゃなくてもいいから何かヒントがほしい。
「妹さん他に何か言ってませんでしたか。なんでも良いんですけど、ヒントみたいな」
そもそもなんでこんな誰も解けないような難問というか暗号にしたんだ。
「そういえば確か、『解く解かないはどっちでもいいけど、辿り着かないときっと悲しくなる』って言ってたような……。ごめんね。うちの妹ちょっと変わっててさ」
「誰が?」
「え…? いもうと?」
「悲しくなるっていう人」
「えっと、色内に親しい人……だったかな?」
こうして謎解きの三日間は幕を開けた。今日を含めてすでに二日消費してわずかに残るは数時間だけなんだが。
というわけで三日目最終日
「
「構わないですよ。ごはんの時ぐらいゆっくりして下さい。俺もゆっくりなんで人の事とやかく言えませんし」
目線を下げて少女の目線に合わせる。麦わら帽子を被り小さなフリフリのスカートに身を包んだ少女はしっかりと俺の目を見た。
「よろしく」
俺は一言そう告げて頭を撫でた。なかなか可愛い娘じゃないか。小学三年生らしいが少し身長は低めのようだ。百六十無い俺が言えた
「えっと、まずどこから行こうか。恒君何か分かった?」
「全然です。一つ団子と四つ団子がそろばんのことを指しているって事ぐらいですかね」
一晩で得られた確実な情報はこれだけ。今は分かった風な思わせぶりなことは言いたくないから確実なところだけ。
「そろばん?」
「そろばんって丸いのが沢山付いているじゃないですか。まるで棒に刺さった団子のような形で。数はおそらく上側と下側に付いている各々の数珠の数ではないかと。そう考えれば自然とそろばんが出てきたんです。問題はそろばんを使うってことですけど、計算しろってことですかね」
明空さんはスマホでそろばんの画像を検索してなるほど、と一人納得していた。照ちゃんはどこから取り出したのか飴を咥えている。俺の最後の頼みの綱。早すぎるが選択肢の少なさと時間のないのだから仕方ない。そんな彼女に俺はちょっと聞いてみた。
「これは照ちゃんが作ったもの? それとも他のだれかが作ったものなのか、分かる?」
「てらがつくった」
まじかよ。いよいよ分からなくなってきたぞ。この少女はいったい何を思ってこんなものを、どんな目的で作ったんだ。そもそも小学三年生がこんなに語彙豊富だとは思えないんだが。
でもこれの製作者が目の前にいるのだ。明瞭明白。答えを聞いてしまえばいい。
「これ、なにか急用なんだよね。何を伝えたいのか教えてくれる? 何か悩んでいるなら、俺が聞いてあげる。嫌だったらお姉さんにでも——」
「これを解いても解かなくてもどっちでもいいけど、辿り着けなかったときはきっと悲しむ」
答えを教えてはくれないようだ。
「誰が悲しむんだい」
「ん」
人差し指一本が突き刺す先は紛れもない俺。これが意味するのは、辿り着けなければ悲しむのは俺だということ。いったいどこにたどり着かなければいけないというのだろうか。俺は何に悲しむというのか。
そんなの決まっている。早く謎解きしなきゃ。
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