1章 約束の朝

第二話:少年の日々

 ――ここから落ちたら、きっと痛いんだろうなぁ。


 村のはずれの大樹の上。

 眼下に広がる地面の遠さに冷や汗をかきながら、マルクは太い枝の上を這うように進んでいく。

 枝の先で心細げに鳴いているのは、一匹の小さな子猫。

 フレッドの話によると、野良犬に追いかけられて樹に登ったまま降りられなくなったらしい。

 こんな所まで登る勇気があるのだから、きっと将来は勇敢な猫になるだろう。

 もっとも、助けに来る方の気持ちも少しは考えてくれると嬉しかったんだけど。

 ふぅ、と一息ついたところへ、地上から声援が聞こえてきた。


「マルク、もう少しだ! 落ち着いていけー!」

「危ないから降りてきてよ! マルクってば!」


 口元に手を当てて叫んでいる彫りの深い茶髪の男の子がフレッドで、心配そうに見上げている蜂蜜色の髪を二つに編んだ女の子がリーゼだ。

 あまり下を見ていると目まいがしそうだったので、視線を木の上に戻して再び進みはじめる。

 初夏の太陽はとっくに空の真ん中まで昇っていたが、草色のローブを着ているおかげで日差しの熱は気にならない。いつもは煩わしく感じるけれど、たまには役に立つものだ。

 子猫との距離をさらに半分詰めたところで、枝がみしみし不安な音をたてはじめた。

 これ以上進んだら折れるかもしれない。

 身動きを止めて、我ながらお世辞にも長いとは言えない腕を限界まで伸ばしてみるものの、やはり子猫には届かない。


「こっちへおいでー。怖くないよー」


 しかし当然通じるはずもなく、子猫は心細げに鳴くばかり。

 マルクはちょっと考え、ポケットから糖蜜菓子のかけらを取りだした。

 この前、お祝い事があった日にグラハムがくれたのだけど、一度に食べるのはもったいなくてこっそり取っておいたのだ。

 本当は自分で食べてしまいたかったが、背に腹は変えられない。


「ほら、お腹すいてるでしょ?」


 手のひらにお菓子を乗せて差し出すと、子猫は小さな鼻をヒクヒクさせ、ゆっくりと近づいてくる。

 よしよし、どうやら上手くいきそうだ。

 ほっと一息をついたマルクの目の前で、しかし予想外の事件が起きた。

 突然強い風が吹き、風にあおられた子猫が枝から足を踏み外したのだ。


「危ない!」


 マルクは全身をバネにして、子猫の身体を捕まえる。


 ――ふわりとした浮遊感。


 あ、と気づいたときには手遅れだった。

 危険を顧みず空中へ飛び出した結果、マルクもまた子猫と同じ運命を辿ることになった。


「うわぁーーーーーッ!?」

「マルクッ!?」


 風が身を切るような落下感の後、強い衝撃に全身を襲われる。


「…………?」


 思ったよりも痛くない。

 きつく閉じていたまぶたをおそるおそる開けてみる。


「だいじょうぶ、マルクっ? どこも痛くないっ!?」


 目の前には、リーゼとフレッドの心配そうな顔。

 どうやら二人が受け止めてくれたらしい。

 あちこち身体を動かしてみるが、特別痛むところはない。


「……うん、平気みたい」


 マルクの答えを聞いて、二人はふぅ、と安堵の息を吐く。

 その拍子に、とっさに抱きしめていた子猫がするりと腕の間から抜け出した。

 喉元過ぎればなんとやら。

 草むらをてこてこ歩くと、こちらを振り返ってどうかしたのかとばかりに鳴いてみせる。

 そりゃないんじゃない? キミのためにがんばったのにさ。

 思わず笑みをこぼすと、それを見咎めたリーゼがすごい剣幕で怒鳴りはじめた。


「マルクのバカっ! 危ないからやめてってあんなに言ったのに!

 私たちが受け止めていなかったら、きっと大ケガしてたわ!

 そうしたら、どうするつもりだったの!」


 リーゼの落とした雷に子猫が慌てて逃げ出した。

 鼻先にぐいっと指を突きつけられ、マルクは大いにたじろぐ。

 木から落ちた時よりもよっぽどおっかないなどとは、間違っても口にはできそうにない。


「ご、ごめんよリーゼ。ボク、もっと上手くやれると思ったんだ……。

 ほら、途中までは上手くいきそうだったでしょ?」

「上手くやれると思った、ですって?

 なによその言いわけ! ケガをした後でも、あなた同じこと言えたの!?」

「そ、それは……」

「まぁまぁ。落ち着けってリーゼ。無事だったんだから良いじゃないか」


 フレッドが出してくれた助け舟を、しかしリーゼは切って捨てる。


「フレッドもよ! あなた年上なんだから止めなきゃダメじゃない!

 それなのに囃したてたりして!」

「うぅっ……!? 

 で、でも、しかたないだろ。子猫を放っておくわけにもいかなかったし」

「しかたないですって!?

 大人のひとを呼んでこようって、私何度も言ったじゃない!

 どうせ危ないことがしたかっただけでしょ! 二人ともバカなんだから!」


 リーゼの叱責に、二人はそろって項垂れた。

 こうなるともうどっちが年上だか分からない。

 いや、そもそも怒った彼女にかなう相手なんて村中探したって見つかるはずがないのだ。

 マルクたちが肩を落とすのを見て、リーゼは眉間の険をわずかに緩める。


「反省してる? もうあんなことしない?」

「はい」

「してます」

「じゃあ、二人とも、もう危ないことをしないって天の御方に誓ってください」


 聞いていて自然と背筋が伸びるような、大人びた声。

 こう見えてもリーゼは修道女見習いなのだ。

 マルクたちは逆らうことなく胸に手を当て目を閉じる。


「天の御方に誓います。もう危ないことをしません」

「二度と、ね」

「二度としないと誓います」

「フレッドもよ」

「おれも誓います」

「天の御方は私たちをいつでも見守っておいでです」


 リーゼは少女なりの重々しさで告げると、普段の穏やかな表情を取り戻した。

 どうやらお許しが出たらしいぞ。

 マルクたちは視線を交わし合い、ほっと息を吐く。


「ほら、フード外れてるよ」


 あ、と声を上げたマルクの頭に、リーゼの手がローブのフードを被せなおした。


「ありがと、リーゼ」


 マルクはフードがズレてないのを確かめてから、顔を覆う木彫りの仮面の位置を整える。

 その様子を見ていたフレッドが呆れたような声を出した。


「……あいっかわらず面倒くさそうだなぁそれ。

 なんだか幽霊みたいだし。今さら着けてる意味なんて本当にあんのか?」

「うちのお父さんの決めたことだから」


 リーゼが澄まして答えるのにマルクも頷く。

 リーゼの父であるグラハムはこのフィエナの村で牧師をしており、マルクの育ての親でもあった。

 この仮面はまだマルクが小さかった頃にグラハムが拵えたもので、教会の外ではローブと一緒にいつも着けてるように言われているのだ。

 村の人たちを怯えさせないためだとグラハムは言っていたが、マルクの正体については既にほとんどの村人が知るところであり、この上本当に意味があるのかはよく分からない。

 もっとも、だからといってグラハムの言いつけを破るつもりはマルクにはない。いつもは飄々としているが、怒るとめちゃくちゃ怖いのだ、グラハムは。


 その時、教会の鐘が高らかに鳴り響いた。お昼の合図だ。

 それを聞いてマルクは、グラハムから頼まれていた用事を思い出す。


「あ、そうだ。薬草摘みに行くんだった」


 薬草を探すのはマルクの仕事だ。

 マルクは人より鼻が利いたから、草花がもっとも強く香る昼頃であれば、みんなが驚くほど多くの薬草を見つけられるのだ。

 様々な薬草を調合して薬を作るのはグラハムにしかできないため、怪我や病気をした人はみんな教会にやってくる。

 ちょうどこれから夏風邪が流行りはじめる時期なので、多めに薬草を集めておく必要があった。

 マルクの言葉に二人はそれぞれ頷いた。


「行ってらっしゃいマルク。お昼ごはんを準備しておくわ」

「おれも家の手伝いに戻るよ。またな、マルク」

「うん。二人とも、また後でね」


 マルクは二人と別れると、薬草が群生している近くの川へ向かうことにした。


 ◆ ◆ ◆


 実のところマルクは、夏場の茂みとはあまり相性が良くなかったりする。

 強い日差しを浴びて好き放題に育った草むらに入ると、マルクの小柄な身体はすっぽり埋まってしまうのだ。

 ローブのおかげで鋭い葉に傷つけられる心配はないものの、前が見づらいのだけはどうしようもない。

 せめてあと少し、リーゼと同じくらいには背が伸びてくれたらいいのに。

 毎日密かに礼拝堂でお祈りしてはいるのだけれど、天の御方がマルクの願いを聞き届けてくれる様子は今のところない。

 きっと他の人のもっと大切な願いを叶えるので忙しいのだろう。


 匂いを頼りに薬草を集め、持ってきたかごが一杯になった頃、


「…………?」


 不意に、唸り声のようなものが聞こえた。


 なんだろうか。

 猪が下りてくる季節ではないし、そもそも猪の鳴き声とは違った気がする。

 変な言い方だけど、なんというか、もっと馴染みのあるような……。


 マルクは少し考えてから、声の主を探してみることにした。

 もしも危険な動物だったら、グラハムに知らせる必要があるからだ。


 声が聞こえた方へ足を進めていくと、不意に草藪が切れ、透明なせせらぎが目の前に広がった。

 木漏れ日を浴びて淡やかにきらめく川は、歩いて渡るにはちょっとためらうぐらいの広さと深さがあって、ここからでは見えないが上流に行けば村の人が掛けた木橋がある。

 この川の水は南の山脈から流れてきているのだと、前にグラハムと釣りをしに来たときに聞いたことがあった。

 そういえばそろそろ釣りにはいい季節だ。近いうちにグラハムに声をかけてみようか。

 マルクは唸り声の正体を探して川辺を見渡し、


「えッ?」


 誰かが浅瀬に倒れていた。


「だっ、だいじょうぶッ!?」


 薬草のかごを放り出し、急いでその人物の元へ駆け寄る。

 うつ伏せに倒れていたのは、ボロボロの革鎧を着た男だった。

 最後の力を振り絞ってのことか、肩から上だけが辛うじて川の外へ這い出ていた。

 左脚の関節はおかしな方向に曲がっていて、それ以外にも、身体中がどこかへぶつけたみたいに傷だらけだった。


 まさか死んでいるのだろうか。


 男の顔を確かめたマルクは彼の容貌に息を呑むが、口元に手を当てるとわずかに息があったのでほっとする。


 いずれにしてもこのまま放っておけない。


 マルクは自分の腕を脇の下に通して、男を引っぱり上げようとする。

 しかし、男の身体は予想よりもずっと重たく、マルクの腕力ではどうやっても動かすことができない。


「そうか。鎧の革が水を吸って……」


 このままでは運ぶのは無理だ。

 なんとか鎧を外せないかと調べてみると止め紐のようなものが数箇所見つかったが、どうやら頭から被って着る造りになっているようで簡単には取り外せそうにない。

 迷った末、マルクは薬草を採取するときに使っているナイフで止め紐を全部切ってしまうことにした。

 後で男が怒るかもしれないが、その時はその時。今は乾いたところへ連れて行くのが先だ。

 幸い、止め紐は簡単に切ることができた。

 ばらばらになった革鎧はこのまま置いていくことにして、マルクは身軽になった男をどうにか担ぎ上げる。その拍子に、


「……にも」

「え?」

「見つか……とこ……へ、」


 一瞬だけ意識を取り戻した男がうわ言のように呟き、再び沈黙する。


 誰にも見つからないところ。

 そう言ったのだろうか。

 まるで何かに追われてるみたいだけど、もしかしたら本当にそうかもしれない。


 マルクは少し考え、森の中にある倉庫へ男を運ぶことにした。

 今の季節、あそこは誰も使わない。

 少しの間なら、匿うことができそうだった。

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