ヒトとケモノのクレバス
ねめしす
序章
第一話:嵐の山で
――ループス。まったく、最悪だ。
激烈な雷雨の中を必死に走りながら、スターグは盛大に舌打ちした。
仲間たちが掲げた明かりが照らす山道は泥沼も同然で、しかし少しでも脚を鈍らせればたちまち命を落とすことになるだろう。
背後からは兎を追いたてる野犬の群れのような猛々しい足音。
実際、今の自分たちはヤツらにとって絶好の獲物に違いない。
仲間の誰かが悲鳴を上げた。ヤツらの刃に捕まったのだ。
だが救けることもできなければ、振り返る余裕もない。
背後へと遠ざかっていく悲鳴は巨大な獣に飲み込まれたように不意に途絶える。
――くそ、これじゃただの犬死にだ!
こんな地面じゃ
「おいラジット! 吊り橋ってのはまだか!」
先を行く仲間から返ってきた声もほとんど悲鳴に近い。
「もう少しだッ! すぐ近くまで来てる! その大岩を超えたところだ!」
指し示す方向を見れば、雨に霞む視界の向こう、黒々と佇む影が確かにある。
橋を渡ってしまえばそこはもう馴染みの土地だ。
連中を撒くことなど造作もない。
スターグは残り少ない気力を振り絞って大岩の脇を通り過ぎ、そして、
――――眼前に広がっていた光景に言葉をなくした。
「ループスッ! 悪い冗談はよせッ!」
不運を運ぶと伝えられている精霊を罵りながら、ラジットが地面に手をつき崖を見下ろす。
そこにはラジットがいうような吊り橋はなく、ただただ深い谷だけがぽっかりと口を開けていた。
目を凝らせば対岸の崖にだらりとぶら下がっている黒い影。
考えるまでもない。この嵐で橋が落ちたのだ。
「――ここまでのようだな」
背後から、声。
嘆息を噛み殺しながら振り返ると、銀ねず色の鎧をまとった一団が半円を描くようにこちらを取り囲んでいた。
胸甲に刻まれた剣と獅子の紋章が雷光で鈍く輝く。
悪名高きメルヴィアの王国騎士たち。
雨とは違う冷たいものがスターグの背中を滑り落ちた。
死地を前に、手斧を握る手がわずかに震える。
――こんなところで終わるのか。
騎士たちの後ろに、雨の底で倒れたまま動かなくなった仲間の姿が見えた。
カッと目を見開いた死相には、志半ばで命を落とすことへの深い絶望が刻まれている。
お前もすぐにこうなるのだと、光を失った瞳が無言のうちに告げていた。
――ここで死ぬのか、俺は。
寒々しい予感がスターグを包み込む。
その時、
「へッ、冗談じゃねえぜ! このラジットさまがこんなところでくたばってたまるかってんだ!」
強気な笑みを浮かべたラジットが獲物を構えて前に出る。
長い付き合いだ。虚勢だとすぐに気づいた。
もしかすると、己の失策が危機を招いたことに責任を感じていたのかもしれない。
だが、どのみちラジットを咎める時間は誰にも与えられなかった。
「いいか、オレはなぁ――」
鋭い風鳴りが雨音を遮り、ラジットの右腕が消失した。
「あ……?」
びしゃりと音をたてて泥の中に転がったのは手斧を握りしめたままの腕だ。
赤い断面から吐き出された大量の血が濁水と混じりあい、黒い渦を描く。
息を飲んだ。まるで剣筋が見えなかった。
「あ、あ、あああああああああああッ!!」
言葉にならない悲鳴をあげて腕を押さえるラジットの前に、いつの間にか一人の騎士が立っていた。
狼にも似た金の瞳が印象に残るその騎士は上方へと振り抜いていた剣を閃かせ、稲妻のような一太刀をラジットに浴びせる。
横から割り込む暇もない。
肩からわき腹にかけてを袈裟懸けに断たれ、ラジットは末期の息すら残せず崩れ落ちる。
「何をどうあがこうと無駄だ。お前たちは全員ここで死ぬ」
剣に付いた血を払い飛ばした狼の騎士は、次に殺す相手を定めるようにスターグたちを一瞥する。
「ちっ…………くしょおおおおッ!」
「オイ待てっ!」
スターグの制止にも関わらず、仲間たちが駆け出した。
だが、無謀な突撃を待ち受けていたのは残酷な結末だ。
最初に走り出した仲間が振り下ろした手斧はあっさりと騎士の一人に阻まれ、次の瞬間、首が宙を舞う。
他の者が迎えた運命も似たりよったりだ。たちまち雨の中に血臭が混じり、悲鳴や苦痛の呻きが溢れる。
狼の瞳に冷たい嘲笑が宿った。その剣が、地面に転がった仲間めがけて振り上げられる。
「クソがッ!」
腹を決めて、混乱の渦中へと飛び込む。
伸ばした手斧が仲間の首筋へ喰らいつこうとする狼の剣を辛うじて受け止めた。
鋼の刃越しに視線が絡み合う。
「サンガ郷の戦士、スターグだ! これ以上好きにはやらせねえ!」
「――隊長、ユルグ」
足元の仲間を蹴り飛ばすと同時、豪、と左手から殺気。素早く構えた手斧に重い衝撃が走る。異様なほど強い力に押し込まれそうになるのを、刃を倒して受け流す。一瞬生まれた隙に右側面へ回り込もうとするが、次の一撃が来るほうが早い。今度も手斧で受けるがずるりと足が泥で滑り、慌てて後ろへ退がる。追い打ちの突きを避けられたのはほとんど偶然。わずかに間合いが離れ、ゆるりとこちらを向いた狼の目が獲物を取り逃がしたとばかりに細められる。
くそッ、わかっちゃいたが尋常じゃない。
剣の重さも鋭さもこれまで刃を交わしてきた中で間違いなく随一。
なにより、攻撃の隙がほとんど見出せない。
相手のペースについていくのがせいぜいだ。
せめて
未練がましく足場を確かめ、しっかりした感触に目を見開く。
泥じゃない。岩盤だ。
大きな岩でも埋まっているのか。
いや、どうでもいい。
ここなら――!
とんとんと足元を均すように
地面から伝わる力を余すことなく脚へと溜め込むイメージ。
サンガ郷に古くから伝わる戦いの業に、狼の瞳が警戒の色を帯びる。
とどめを刺さんと素早く距離を詰めてきた狼の疾風のような斬撃に軽く刃を合わせ、力の流れに逆らうことなくふわりと身体を躍らせる。剣の軌道を鼻先で見切り、着地しても深くは沈まず、つま先で跳ねるように一歩、二歩。体格差を生かして懐に潜りこむと金色の瞳が鋭さを増した。どうだ狼野郎。この間合いじゃ自由に剣は振るえまい。短く握り直した手斧をダガーのように鎧の継ぎ目へ突き込むが、危機を察した狼が身を捻ったため装甲の厚い箇所に弾かれる。
その時にはすでに逆側へと跳躍していた。目が合う。至近距離からにやりと笑みをくれてやる。ここだ。振り上げた手斧を狼の利き腕めがけて一気に頭上から斬り下ろす。
だが次の瞬間、強い衝撃に下っ腹を打ち抜かれた。
気を失いそうな痛みと共に崖際まで転がされる。
顔を上げれば、剣を手放した狼の拳が振り抜かれているのが見えた。
くそ、最悪だ。泥の上に来ちまった。
これじゃ
いや、使ってなお軽々と攻撃を凌がれたのだ。
たとえ万全の状態だってあの狼野郎には敵うかどうか。
腹を押さえながらそれでも立ち上がったところへ、
「諦めろ。残っているのはお前だけだ」
馬鹿な。
慌てて見回すと、辺りはとっくに静かになっていた。
空に走った稲光が、泥にまみれて血だまりに沈む仲間たちの姿をあらわにする。
立っている者は、誰もいない。
ふらつきかけたところへ、狼が続ける。
「ケダモノ風情が、これ以上手間をかけさせるな」
「…………なんだと」
ケダモノ。
ケダモノだと。
そりゃいったい誰のことだ。
俺か?
ラジットや、仲間たちのことか?
サンガ郷で暮らすみんなのことを言ってるのか?
「ケダモノ、っつったかよ。いま……っ」
狼野郎の傲慢さに、冷え切っていたはずの身体が熱を帯びる。
許さねえ。こうなりゃ意地だ。
たとえここで命を落とすことになろうが、このいけすかねえ狼野郎の首を叩き落してやる。
「よ……、せ、ス、ター……グ……」
「ラジットッ!?」
振り返ると、致命傷にも関わらず奇跡的に意識を残していたラジットが血の泡を吹きながら必死で息を絞っていた。
「よく、聞、け……。谷……の、底、に…………川、が……。この、雨……、だ…………、運、が、良け、りゃ……」
「逃げろってのか!? 馬鹿いえ! 俺はお前らの仇を取る!」
「馬、……鹿、やろ……、言う、こ……と、き……け……。だ、か……ら、お、まえ……は……、お、れが……い、な……きゃ…………」
そこで、ラジットから、長年の友人の目から、光が失われた。
……ああクソ、よくよく考えてみりゃあお前が絡むと毎回ろくなことにならねえんだよ。
ガキのころ初めて会うなり崖登りで勝負して二人して降りられなくなったときのこと。
戦士団の入団試験の前日に験担ぎで秘蔵の酒を盗みに郷長の家に忍び込んだときのこと。
それに、今回だ。
くそ、ループスめ。
とんだ迷惑な野郎に引き合わせてくれやがって。
「ああああああああああッ! くそッ! クソ、クソ、クソがあああああああッ!」
天に向かって声が枯れるほど叫び、狼を睨んでまた叫ぶ。
「いいかよく聞け狼野郎! 絶対にお前を殺してやる! お前の仲間! お前の家族! お前が大切にしてる奴全員、俺が、この手で、殺してやるッ! 俺の名を、俺の顔をッ! サンガ郷のスターグをよく覚えておけッッ!」
その一言で目の色を変えた狼が剣を振りかぶるがすでに遅い。
最後にもう一度、息絶えたラジットの姿をスターグはまぶたの裏に焼きつけ、
「うおおおおおおおおおああああああああああ――――ッッッ……………………」
谷の底へと、身を投げた。
◆ ◆ ◆
長く尾を引いていた叫びが聞こえなくなってからも、ユルグは崖の底を見下ろしていた。
この手で命を奪うつもりだった相手の憎しみに満ちた声が、棘のように胸に刺さっていた。
窮鼠に噛まれたぐらいで動じる必要はないと、頭ではわかっていながらも。
背後で足音。
「団長。怪我をした者の手当てが終わりました。いつでも出立できます」
「……ああ。わかった」
一礼して下がろうとする若い騎士へ、ユルグは崖下に目を向けながら尋ねる。
「ゼニス。谷底の川がどこへ向かうかわかるか」
この雨だ。羊皮紙に描かれた地図など広げては一度で駄目になってしまうだろうが、副長を務める彼女は湖面のように青い瞳を瞬かせ、淀みなく答える。
「おそらくはロンバルト伯爵領でしょう。この辺りを流れる川はほとんどがオリアス河へ合流しますから。途中、いくつか村があったはずです」
どうやら出立前に頭に叩き込んできたらしい。
用意周到な部下の言葉にユルグは首肯する。
「逃した一匹が気になる。この高さから落ちて命があるとも思えないが、念のためだ。村を見て回るぞ」
万一、人里へ侵入されるようなことがあれば惨事になりかねない。
ユルグの下した判断に、ゼニスもまた首を縦に振った。
「了解しました。この辺りには騎士団の駐留地もありませんから、我々が訪れれば村の者たちも安心するでしょう」
一礼して立ち去ったゼニスに続き、ユルグもまた崖に背を向けて歩き出す。
雷鳴とどろく空の下、ユルグは一度だけ振り返ると、谷底にわだかまる深い闇に向けて路端の石を踏みにじるように吐き捨てた。
「――――ケダモノ風情が」
◆ヒトとケモノのクレバス
Crevasse by conflict, road of the bottom.
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