一日目(土曜日)
誕生
ひとかたまりの風が僕の髪を優しくなででいく。
目を閉じたままでも、そこが気持ちのいい場所であることを感じさせてくれた。
かすかに香る花の匂い。まぶたを照らす陽の暖かさ。
ゆっくりと目を開けると、そこは一面の花畑だった。
「うわぁ……」
思わず息を飲む。
一周するのに三十分はかかりそうな広い平原。そこには青い花が一面に咲いていた。
――まるで青い絨毯だ。
花畑の向こうに見える森は、ぐるりと周囲を囲んでいた。
きゅるるるる……。
足元で変な鳴き声がしたかと思うと、何かがぶつかって来た。
見ると、それは白いコロコロとした小動物。耳がとても長い。僕を見上げて、人懐こい視線を送っている。
「可愛いな……」
なんという動物だろうと僕はしゃがみ込む。その時、すごく重要なことに気が付いた。
動物の手前にちょこんと見ているの肌色の物体は――えっ、自分の大事な……アレ!?
「えっ、えっ、ええええーーーっ!」
あまりの心地よさに気付かなかったが、僕は下着も何も身に付けていなかった。
つまりは素っ裸。
「な、なんでぇぇぇぇぇーーーっ!?」
パニックになりかけた僕の意識を引き戻したのは、ブロロロロと近づいて来る何かの音。
見ると、それは一台のスクーターだった。ハンドルを握る若い女性が、ミニスカートをひらひらとさせている。
「ヤバいっ!」
とっさに目の前の小動物を抱き上げ、股間に押し当てる。と同時に女性の声が花畑に響き渡った。
「はぁーい、そこの新人さーん!」
スクーターの上から女性がこちらに手を振っている。
――えっ、新人さん……って?
それは僕のこと? 辺りを見回しても他には誰もいない。
――まさかこの動物のことじゃ?
股間に押し当てた小動物を見ると、顔を赤らめながらこちらを見つめている。
なんだか見覚えのある瞳。口元の小さな黒い斑点も懐かしい感じがした。
キュッっと近くでスクーターの止まる音。見ると、女性が大きな荷物を荷台から降ろしているところだった。
「少年! あなたよ、素っ裸で立ってるそこの少年」
茶色のショートヘアが風に揺れている。くりくりとした瞳は確実に僕を捉えていた。
――ちょ、ちょっとこっちに来ないでよっ。裸って知ってるんだったらさ!
そんな願いも空しく、女性との距離はどんどん縮まり、
「恥ずかしがらなくてもいいのよ少年。裸の男なんて見慣れてるんだから」
――そんなこと言われたって……。
若い女性を前に裸で堂々と立っていられる男なんて、この世にいるのだろうか。
僕は、股間に小動物を押し当てたままその場にしゃがみこむ。隠れるところが何もない花畑が恨めしい。僕の顔は、きっと真っ赤に染まっているだろう。
「ほら、これが着替えだから」
女性は重そうに肩にかけていた荷物を、ドサリと地面に置いた。
「相変わらず無駄に重いわね。えっと、君に合うのはどれかな……?」
袋の中に首を突っ込んで中を覗き込む女性。ちょこんと突き出したお尻とミニスカートが揺れている。
「よし、これに決めたっ!」
そう言って女性が取り出したものは、枕くらいの巾着袋だった。袋に大きく『特別セット』と書かれている。
「これは君の着替え。下着から服、そして靴まで全部揃ってるわ。きっと気に入るわよ~」
ニヤニヤしながら女性は袋をこちらに投げた。音を立てて袋は草の上を転がる。
なんか嫌な予感がしたが、下着が手に入るなら背に腹は代えられない。僕はしゃがんだまま、地面に落ちた袋に手を伸ばす。
「私、ミューっていうの。市役所の歓送迎課の職員。よろしくね」
市役所の職員だかなんだか知らないが、早くこの場を立ち去ってほしい。
そのパッチリとした瞳で見つめられていたら、着替えることもできやしない。
「えっと、それと、大事なものを渡さなくっちゃ……」
そう言いながら、ミューという女性は自分のウエストポーチを覗き込む。
「はい、これ」
彼女はペンと一緒にそれを取り出し、僕に差し出した。
「君の身分証よ。絶対なくしちゃダメだからね。名前は自分で書いてね」
み、身分証って……、名前は自分で書くのかよ。
僕は着替えの入った巾着袋を地面に置くと、近づいて来るミューさんに手を延ばして身分証とペンを受け取る。そして名前を書こうとして――重大なことに気が付いた。
あれっ? 自分の名前って……、何だったっけ?
いつまでもペンを握りしめている僕を見て、ミューさんはニヤリと笑う。
「君は名無し君だね」
くっくっく、と不敵な笑みを浮かべる彼女。ウエストポーチから小さな冊子を取り出し、ぱらぱらとページをめくって僕に見せる。
「はい、ここ読んで」
「……ミモリ市条例第七十五条三項?」
「そうそう、その部分」
「えっと、『市の職員が訪問してから五分以内に名前を思い出せない新レディウ人には、その職員が名前をつけても構わない』……だってぇ?」
えっ、これってどういうこと?
今、僕が自分の名前を思い出せなければ、この人に勝手に名前をつけられてしまうってこと!?
ミューさんを見ると、いつの間にかストップウォッチを手にしている。カウントはすでに始まっていた。
「あと三分よ」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。今から五分でしょ?」
「ざんねーん。ほらここに『訪問してから』って書いてあるでしょ。スクーターを降りたときからすでにカウントしてるのよ」
くっくっくっと笑い直すミューさん。
なんて人だ。最初からこれを狙っていやがった。
「ひどいですよ。そんなんじゃ思い出せないじゃないですかっ!」
「ほらほら、時間はどんどん過ぎていくわよ~。がんばってね~」
ヤバイよ、この人。マジで名前をつける気だ。
でも、いくら考えても思い出せない……。
「苦労してるね~。その子にでも聞いてみたら。なにか知ってそうな顔をしてるわよ。ちなみにあと二分」
そう言いながらミューさんは僕の股間を見る。
股間に押し当てた小動物は、何か言いたそうな目で僕を見つめていた。
――なんだ、お前は僕の名前を知っているのか?
この小動物と最初に目を合わせた時、なんだか懐かしい感じがした。もしかすると、本当に名前を思い出せるかもしれない。
僕は小動物を持ち上げて目を合わせる。すると、小動物もこちらを見つめ返してきた。
――おおっ、何か思い出しそうな予感がする!
胸の奥で発生したもやもやとしたものが懐かしさに変わり、その種はどんどんと大きくなって――僕の中で何かが閃いた。
――そうか、僕は!
するとミューさんが、ヒューと口笛を吹く。
「少年、大胆だね~。割といい体してるじゃない。あと十秒だけど」
げっ、そう言えばこの小動物で股間を隠してたんじゃないかっ!?
僕は慌てて小動物を股間に押し当てた。カーッと顔が熱くなる。
「じゃじゃーん、タイムリミットよ。それじゃあ、私が君の名前を決めるよ。いいね、君の名前は、ゲ……」
「ホクト! ホクトだよ、僕の名前は!」
僕が叫ぶと、ミューさんはチッと舌打ちをする。
「なんだ、思い出しちゃったのね」
間一髪。本当に危なかった。
それにしても『ゲ』で始まる名前って、どんな名前を付けようとしていたんだよ、この人は?
安堵のため息をつきながら、僕は小動物の顔を見る。
「そしてこいつはシリカ」
ついでに僕は、この小動物の名前も思い出していた。
「きゅるるるる~!」
小動物が嬉しそうに鳴く。どうやら名前はシリカで合っていたようだ。
「へえ~、そのトリティの名前も思い出したんだね」
「えっ、『トリティ』って?」
「その小動物のことよ」
「違うよ、こいつはシリカっていうんだよ」
せっかく名前を思い出したっていうのに、ミューさんは聞いていなかったのか?
するとミューさんは突然笑い始めた。
「あはははは。トリティっていうのは名前じゃなくて、この耳の長い小動物のことを指すの」
それってどういうこと?
この小動物はトリティで、名前はシリカ?
ということは……、シリカという名前のトリティ……ってこと?
「そして私たちはレディウ人。レディウ星に住んでるからレディウ人よ。まあ、君みたいな新人は自分のことを忘れちゃってるから仕方がないんだけど。名前を思い出せただけでも少年は幸せよ」
レ、レディウ……人?
それにレディウ星って何だ? わけがわからない。
ぽかんとする僕をよそに、ミューさんは帰り支度を始めている。
「えっ、もう帰っちゃうの?」
自分が裸であるのを忘れて、僕はミューさんを引き留めようとした。だって『レディウ人』とか『トリティ』とか、よくわからなくて気になったから。
「ゴメンね、ホクト君。私、市役所の仕事で忙しいの。続きは学園で聞いてくれる?」
そう言いながらミューさんはスクーターのエンジンをかける。
「学園って?」
「その巾着袋の中に地図とか説明とかいろいろ入ってるから、自分で探してみて」
なんていい加減な……。
絶対市役所まで押しかけて、勤務態度について上司に文句を言ってやる。
「それじゃ、またね~」
スクーターを発進させようとするミューさんに僕は声を張り上げた。
「最後に、最後に一つだけ」
「なに? 手短にね」
「なんで僕は、裸でここに立っていたんだ?」
「それはね」
ミューさんは当たり前と言わんばかりにその答えを口にした。
「君がここで生まれたからよ、レディウ人としてね」
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