ウサギ物語

ケニョン

ウサギ物語 全編


       1


 ――この村を出てゆかれるのであれば、きっと、どれほど惨めなものにでも、私はなれる。それが例えひとり枯れゆく憐れな野花のように、さびしく、くるしく、無様で、不格好で愛想の欠片もない切ないものであったとしても、何よりこのときこの一瞬を抜けだせるのならば、私はきっと、幸せになれる。なれるのよ――。

 そういう嘆きの塊を、ウメは呟いていた。目の前で塞がってゆく切り傷が茫洋とした光に包まれているのをぼんやり眺めながら。心の中で。そっと。周りを囲う人々の誰一人の耳にも入らぬよう。

 彼女の手から溢れる光に蔽われると、まるで傷の縁に無数の蟲が潜んでいて、それがじわじわと這うように傷口は塞がれてゆく。その奇異なる光景を見ている者たちの目は爛々と輝いているが、いわゆる治癒力の元となっている、光の雇主みたいな立場のウメからすれば、それはとても生々しくて薄気味悪いのだった。だって人の傷が勝手に治っていくんだもの。気持ち悪くないはずがないじゃない。

 いつもウメは、村の人々に見守られながら、どうして自分にだけはこんな不可思議な力が宿ってしまったのかと不審がっていた。

 まだ二〇を越えたばかりの女性で、見た目は普通の人と何も変わらない。ただ、人よりも美しい。透き通る雪のように白い肌はきめがこまかく、線の細い頬には仄かなピンク色さえ浮かばない。澄み渡るほどの黒色に染まった髪も、陽に照らされると、おかしなことに銀糸のごとく控えめにきらめく。小柄な身なりをしており、ゆえにウメは、治療を受けるためお出ましになる都の者から、人形のようだ、とえらく感嘆した風に賛美を浴びせられることも週に一度ほどはある。

 そうした誉れに悪い気はしない。

 けれどもウメは、治癒の仕事が回ってくると、なるべく表にはださぬよう心内で毒づく。

 それはやっぱり、治癒の光をみなが欲するから。みなが光を欲し、代わりに村の人々は金を欲するから。ウメは金儲けの道具だった。少なくとも彼女はそのように感じ取っていたし、内々に語り合う村人の、とりわけ村長辺りの声を耳に入れると、それはやはり事実のように思えた。

 そもそもこの村にウメがやってきたのは一五年も過去のことになる。

 拾われた身だった。ウメを預かり育てたバアヤは、いまはもういない。流行りでもない病に侵されて死んでしまったのは一〇年も昔のことだ。

 りくれん村の西側で膨らんでいる山を登った先には凶念樹と呼ばれる大木が立っていて、大木の頭は大きな斧でかちわられたみたいな二股に裂けている。その右側は幸福を宿し、左側は不幸を呼びよせる。かと言って右側に生えている枝を折れば自分の手元に幸福がすり寄って来るのかと言うと、そうではない。

 幸福の宿る枝を折れば、幸福は逃げてしまう。つまり不吉が到来し、折った者の一世を不幸に呑みこんでしまう。左はいわずもがな。

 右も左も、どっちにしたって宿るのは不幸。だから、凶念樹。――りくれん村で古来より語られている言い伝えだ。

 当時、まだ幼子だったウメは、安楽死を遂げたばかりのような静けさに抱かれながら、凶念樹の足元で眠っていたのだそうだ。たまたま通りかかった村の者が連れ帰り、それをバアヤが育て上げた。治癒の力に気が付いたのは偶然で、村の北東で年に一度おこなわれるカヤ刈の折に、カヤ場を下っている斜面から転げ落ちてしまったバアヤの重度な怪我を、まだ物心も持たない幼女がパパッと治してしまったことが発端だと、ウメは聞かされていた。

 ウメという名はバアヤがつけた。村の者たちが、まるで妖術にでもかけられたみたいに、幼女のことをトロンとした目で見つめる中、バアヤだけは毅然としていた。

「不気味なほど白い子だねぇ。まるで兎だよ。それも雪国に棲む雪兎だ。名前ねぇ。ウメでいいんじゃないかい。兎に女で兎女だ。こんな拾われ娘に大層な名前なんていらないだろう」

 バアヤはそんなことを言った――はずだ。ウメがこの話を聞いたのは、バアヤが生きていた頃で、邪推する心が無いほどウメが幼かった頃でもあり、記憶としてはあやふやになっていた。

 それから何年かしてバアヤが死ぬと、人々は驚くほど態度を一変させたのだ。

 あの言葉は、物事をよく考えられるようになっていたウメがうっかり立ち聞きしてしまうにはあまりに残酷で、無慈悲で、それでいて優しくもあった。

「ウメは凶念樹から生まれた子供だ。その子供の力に侵されれば凶に呑まれ死んでしまうぞ。早く捨てなければ」

 これを耳にしたからこそ、彼らの戯言に操らればかりではない道をウメは進んでこられたのだった。森にイノシシが出没するから出入りはするなと忠告してくれるのよりも、昨晩の大雨で土砂崩れの危険があるから斜面下の家には近づくなと身を案じてくれるのよりも、ずっと親切で心優しい。

 しかし、その話にはおかしな点があって、というのも、バアヤが死ぬ頃にもなると、大概の村人はウメの力によって怪我を癒される経験を重ねていたはずなのだ。それにも拘らず息を絶やしたのはバアヤひとりで、他の者はピンピンしている。何が、凶に呑まれる、だ

 手のひらを返すように、バアヤは流行ってもいない流行り病で死んだことにされた。凶念樹の子を身分不相応に育てたことで祟られたのだと言う者もいた。そして、今後も祟りが起こらぬようその力は崇めていかなければならない――、という愚かしい戒めを発足したのが村長で、丁重に扱うということを口実に、りくれん村は治癒の光を浴びた者から金をせしめるようになった。

 なんでも、等価交換というものがこの世の原則なのだそうだ。つまりウメが生み出す治癒力の対価を頂戴することで、その力への敬いを指し示す。そういう仕組みがあるということを、バアヤとの死別の悲しみに打ちひしがれていたウメに、砥石で磨くみたいなしつこさで村長が言い聞かせた。

 それからウメは、例の親切な言葉にあやかることとして、なるたけ村長らの気を研いでしまわぬように振る舞ってきた。ようは、素直に等価交換の話を呑み込んだ。

 そのせいというわけではないのだろうが、二〇を越えたいま、ウメは人々の心情というものを容易く読み解けるようになっていた。中でもがめつい心には敏感で、声をかけられる瞬間の、その声色を鼓膜で感じると、相手が自分に求めているものを察することができる。

 このような特長なんて別に欲しくなかった。ウメはバアヤに居てほしかった。ただそれだけで、ウメは幸せだった。バアヤが死んで、村の人たちの態度がガラリと変じて、そこから得られたものは、あればあるほど不愉快な気持ちになれる特長と、それから、バアヤという存在のありがたみだった。

 バアヤはいま思えば、よくもまあ丹念に、我が子を育む親のようにウメのことを大切にしていた。

 まだ幼い内から、朝早く雑木林の傍らにある畑で鍬を握らされたし、ウメの住む村では農作物が豊富に採れるからそれなりに量のある飯をちょっとでも残そうとすれば酷く咎められたし、山の麓にある小川にまで何度も水を汲みに――村のすぐそばには水路が流れており、さらに小川から水を引いている溜め池まであるというのに――行かされた。川がある山の麓というのが、酷く木々の茂った陽当たりの鈍い場所で、行くにも帰るにも、幼い子供の足ではちょっとばかりの苦難では足りなかった。いつもいつもあちこちで転んでは泣きべそかいてバアヤの元へ駆けこみ、そこでも咎められるように、おでこに指弾きをされたものだ。

 バアヤは本当に鬼のようなおばあちゃんだった。

 けれども毎朝出てくる味噌汁は、具材として煮込まれた山菜に合わせ、味の濃さが絶妙に調整されて絶品だったし、葉とその蔓を編んで作ってもらった髪飾りは幼い目で見ても可愛かったし、いま見てもやっぱりそう思えるので、たまに程よく甘やかしてくれるバアヤは、きっとウメにとって大切な人だった。

 だから、バアヤが死んだときには大いに泣いたし、そこへずけずけと土足で家を荒らすみたいにして、

「これからは農作業なんてことはしなくていい。いいや、するな。代わりに傷をいっぱい治しておくれ」

 と、村人たちから捲し立てられたときには心がたくさん汚れた気がした。好きだったのに、農作業。

 そういう気持ちも全部ひっくるめて、ウメはそのときから、村の人たちのために治療する道具として管理されるようになった。


 欲望にもまれる中での生活に、美しさなんてなかった。日々都の人間に囲まれ、村長に監視されながら人のものではないおかしな光で不気味に怪我を治してゆくだけの毎日。楽しくなんてなかった。段々と沼の底に沈んゆくようで、ウメはいつの日か、自分が朝目覚めたら真っ暗な闇の中にいて、窒息して死んでしまうのではないかと怯えることもあった。

 しかし、虚脱感ばかりが募る一方で、日に日に厚みを増す光に向いた想いも芽生えていた。

 早く村を出たい。

 バアヤが死んで以来、村の人々はどうしてか態度を一変させてしまった。

 恐らくそれは、元よりこの村の人たちが持つ性質のようなものだったのだろう。

 りくれん村では農作物が豊富に採れる。村の東にある雑木林では、農作業に欠かせない堆肥が採れるし、道具や家の修繕にうってつけのコナラも生えている。湧き水だっていくつか散布しているから、だから他の村や、山を下って登ってまた下った先にある都とも大きな繋がりを持つ必要もなくて、りくれん村はそれまで排他的かつ孤独に山奥で存続してきた。

 有り余る農作物に向かう独占欲と、貧困が極まる周囲の村に対する優越感とが綯い交ぜとなって人々の心の内側に張りついた邪悪なそれを、ヒルみたいな何かがちゅうちゅうと吸ってきたのだ。

 そこにウメという比類なき金の鶴が舞い降りたことによって、邪悪なものの塊が破裂した。

 排他的な生き方を失くし、むしろ都の者を招き、治療し、大金を巻き上げるという交易は、破裂したものの中身が、人々の心を塗りつぶすようにすっぽり覆ってしまった結果なのだ。


「ご苦労じゃったな、ウメよ。今日はもう休んでおるがよい。残りの客は金も持たぬ貧民ゆえ。おぬしが前に出る必要などないのだからのう」

 都の人間らしき者たちの治療を終えると、ウメはよそ者の耳に入らぬような囁き声で、もやしよりもひ弱い白髪頭をした老人にそう促された。村長だ。ウメを金づるに仕立て上げたあの村長が、彼女の耳元でいま囁いた。

 この日の客は都の人間と、どこぞの村からやって来た、これまでも何度か見掛けたことのある貧しい格好をした少年だった。まだウメに届かぬほど幼い。

 ゾッとするのを何とか堪えていると、気が付けば村長は少年に近寄って、今度は彼の耳にささやいた。少年は一瞬抵抗するように拳を握ったが、その後すぐ、萎れた花のような表情があどけない顔に滲むと、そのままトボトボと行ってしまった。

 村長は人が悪い。治療をする気がないのなら最初から追い返してやればいいものを。あの少年は一刻ほども列に並んでいたはずだ。都の者がいるからと言って普段とは異なる対応を振る舞うのだから、本当に人が悪い。

 どうして彼が村長なのかとウメはずっと不思議に思っている。昔からああなのだろうか。ウメが幼かったころから? だけどだったら、どうして村の人たちはうんともすんとも言わず、のうのうと暮らしているのだろう。

 そのとき村長の元に、二人の村人が壊れた鍬を抱えてやって来た。どうやら修繕費を村長に求めているらしかった。鍬のような道具は村での共有品だから、ウメが稼いだ共有費用によって、平等に賄われているのだ。――コナラがあるくせに。嫌な気がウメの胸の内に差した。どうして昔みたいに自分たちで作らないのだろう。

 ああ、そうか。彼らもそうなのだ。遠目に見つめながら目を細め、ウメは小さく息を吐きだす。みな、自分のことばかりを考えて暮らしている。利害が一致しているから、この村は散らないし、死なない。

 農作物がたんと採れ、その収穫盛りが毎年絶え間なく訪れる。湧き水もあるし、綺麗な小川も流れているし、よそ者が来るにしては、この村への道のりはあまりに険しい。周到に構えられる都の人間か、あるいは近隣に点在する小さな村の人間か、その辺りの者しかこの村にはたどり着けない。先ほどの少年はその内のひとつに暮らしているのだろう。その内、というのはもちろん小さな村のことだ。

 だからりくれん村に居住すれば、一〇〇人強の人間ではとても消費しきれない量の資源が得られ、それを村で独り占めできる。幸せだ。幸福だ。みな、いつもニカニカ笑顔なのは、きっとそれだからなのだ。

 都の人間が開拓に押し寄せてこない訳合いは、西の山のてっぺんにそびえる凶念樹にあるらしかった。やっぱりあの大木は、よそ者の目には恐ろしく映るのだ。ずっと以前に村を乗っ取ろうとしてやって来た都の小さな開拓班が、山の斜面から転げ落ちて首の骨を一本残らずへし折った。祟りだの呪いだのと連中は騒ぎ立てていたが、その斜面というのが、手入れの行き届いていない藪の中にあるもので、木も乱雑にそびえているため、転げ落ちると上手い具合に木に引っ掛かって骨なんて簡単に折れてしまうことを知っている村の者たちからすれば、それは単なる「事故」であり、何の脅威でもなく、つまりやっぱりこの土地は、元来よりそこに住まう者にしか家を構えることが許されない僻地なのだ。かつてそれを語らったバアヤが、

「死体の後始末が面倒だったよ」

 と、ぶつくさ言いながらもどこか物憂げな様子だったのを、ウメはいまでもしかと覚えている。

 鍬の修繕の話がまとまる頃には、村長の顔にうっすらと険しいものが浮かんでいた。

「もっと丁重に扱わんかい」 

 その言葉の端っこだけがウメの耳に届いた。村人たちはへつらうようにへこへこ頭を動かしているが、その笑った顔は腐りかけの死体よりも醜く見えた。見えてしまって、ウメは素早く踵を返した。


       2


 山に囲まれた平地の上に村は広がっている。六つほどの区画があり、それぞれの中に一〇から一五ほどの家屋が並ぶわりかた大きな村だった。東側には手入れが行き届いている雑木林が生い茂り、そこから真北へ転じると、いまのような涼やかな季節になると白っぽい花穂を満帆に咲かせ風にそよがせるススキが一帯を埋め尽くす。それをカヤ場と言って、年に一度カヤ刈りをし、家の屋根に葺くための材料とするのが以前までの習わしだった。一方村の西に赴けば、そこには小山がそびえる。りくれん村から見ると、その頂上に望めるのはぐるりを囲う林ばかりなのだが、そこをくぐり抜けるとその内には、りくれん村の人たちさえ立ち寄ることを憚る凶念の樹が、毒草の一群と共にそびえているのである。

 元々、村の東にある雑木林はススキ原だった。しかしずっと昔に、りくれん村の人たちがクヌギやコナラを植え、一部分を残して雑木林に仕立て上げた。雑木林に植生する木々は、秋になれば大量に葉と落とす。それらはやがて自然の恵みによって堆肥となり、村全体でとり行われている農作業の糧となる。手入れのとき切り倒した木の幹はきのこ類の温床となり、それもまた人々の食を支えるので、雑木林はすっかり、りくれん村にとって須要なものとなっていた。悲しきかなコナラから道具を為し上げることは丸きりしなくなってしまったが、そうした生きるための手段は、いまなお自然と一体になって根付いているのだ。

 ウメが住む家は北から数えて三つ目の区画内にある。都の人間相手の商売――治療を終えると、ウメは北上し、一区画隣に佇む我が家へ、あたかも逃げ込むように戻ることが習慣になっていた。

 いつものように村の真ん中に寝転がっている途を歩いていると、右手に連なる畑で畑作に勤しんでいた老夫婦が、ツバの広い麦わら帽を脱いでぺこりとこうべを垂れる。

 焦ったように体を折る所作から伝う、敬いとも畏れとも取れるものが身に染み込むと、自分がガラス細工に豹変したような気がして泣きそうになった。けれど、何も反応を返してやらないこともまた、ウメにとっては切ないものだった。小さく会釈すると、ウメの長くて艶やかな黒髪がぱらりと崩れ、雪みたいな頬にいくつか触った。

 さらに足早になって歩いてゆくと、目の前から歩いてきた巨躯の男が毒虫を避けるみたいに道から退いた。都まで売買のため赴いていたのだろう。数日前に、みなで送りだした覚えがあった。近頃は都との交易も盛んになってきている。藤の大きな籠には、新しい鍬や鎌、物干しに使う竿など、この村ではどうしても調達の難しいものだったり、そちらの方が質がずっとよい都のものであったり、とにかく金銭を要する品々が一杯になって詰められていた。男はそれを地面にわざわざ置いて、祟りから身を逃がすように、足元の水路の溝に片足をつっ込むほど、道の端に寄ったのだった。

 やっぱり男も頭を下げた。目を合わせる間もなく。体がずいぶんとしゃちほこばっている。

 都までの長旅で疲れ切っている者ですらこのあり様だ。ウメはうんざりして、嘆息すると、今度は礼を返さず男の前を素通りした。ちらりと見えた籠の隅っこでは、焼き菓子のようなものが色紙に包まれ、小振りな身を息苦しそうに潜めていた。

 このまま家に帰るのも癪だ。まだ陽も暮れていない。オレンジ色にも染まっていない。見上げた頭ごとひっくり返ってしまいそうなくらい、千切れ雲の泳ぐ秋空が果てなく広がっている。緑がみずみずしい森の方まで。その奥まで続いていて、今日はよそうかと思っていた気が、はしゃぐ子供のようにウメの中に駆け込んできた。

 財源に恵まれているりくれん村にしては安価な草鞋で地面を蹴って、村を横断している小川に沿って、ウメは西の方へと飛びだした。その先には木々が広がっていて、つまり森林があって、落葉して積み重ねられた落ち葉の厚みが一帯を占めている。葉が程よく散って薄明るくなった森の斜面に侵入すると、木の側面に手を絡めながらバランスを取って、勢いあるままに下って行った。

 左手に流れる小川が木洩れ日とせせらぎを瞬かせている。カケスの鳴き声が梢の擦れる音に混ざる。鼻をつんと突く土臭さが何故だかとっても心地よい。

 足をせっせと動かすうちに、草鞋はすっかり汚れてしまった。けれど、斜面を下り切ってからも、ウメの足は止まらなかった。足元の木の葉を散らし、湿った土を蹴り上げて、まとった麻布の衣類にもわざとらしく茶色を塗っていく。そうしているとウメは、どうしてだか口元に奇妙な笑みが浮かび始めた。どうせ着ているものなんて都で仕入れたものだ。私が稼いだお金。普通の人にはあり得ない、おかしな力で稼いだお金。何の苦労もせず手に入れたお金。そんなお金で買った麻布の服や草鞋が汚れたって、どうせ誰も咎めやしない。だって私は、あの村ではお姫様なんだから。

 やがて川の合流地点に辿り着くと、まるで水に飛び込んだような夢心地がした。涼しい。水が満ちた世界に空気も一緒に充ちている感覚がある。呼吸をすると勝手に喉が潤されていくように清々しい。

 辺りは鬱蒼としていて、背高い木々が陽光をほとんど遮ってしまってはいるが、木洩れ日があれば視界は充分な緑色だった。見た目には穏やかでありながら水面下では力強く流れてゆく川の傍に膝をつくと湿った土がひやりとしている。川の水を手ですくおうとしたら、傍らに青い花のひらが僅かにうつむいていた。可憐だけれど、森の中でひとつポツリと咲く花は、誰かと喧嘩したばかりの子供みたいにどこか寂しげだった。ウメはそれに手を触れようとして――やっぱりよしておいた。だって、お花はお喋りできないから。私が一方的に話したって仕方がないでしょ。

 水面に視線を戻し、ひとすくいした清流をごくごくと音を鳴らして飲み干すと、清められた気が身体の内側いっぱいに充ちた。

 立ち上がり、西と東それぞれから流れ下りてくる小川の合流地点より少し下流に位置する岩場に足をかける。そのまま西の方へと渡っていき、振り返ると、川を挟んだ向こう側に青い花が一輪だけ、やっぱり寂しそうに咲いている。帰りもここを通ろうかとウメは思った。

 西の山に踏み入り、斜面を登っていくと、森のところどころに何かの蠢く気配を感じた。生きものだ。動物なのか昆虫なのかはわからない。けれど森にはたくさんの生き物が棲んでいる。音がする。声がする。葉擦れのざわめきが彼らの息遣いのように聞こえてくる。この森では、人間とは違ってひとつの住処にたくさんの生き物が暮らしている。

 今日は誰と出会えるだろう。少し期待しながら、ゆるゆると山道を登ってゆく。足元には落ち葉がつもっていて、ふかふかしている。その中にはテントウムシよりもやや赤い色をした木の実が時おり混じっていて、なるべく綺麗なものを集めては、麻素地の衣類の内にかけてある麻袋に入れた。人でも食べることができるが、この辺りのものは、近くに凶念樹にあるからという理由で村の人たちは木の実を持ち帰ろうとしない。ウメは実際に食べたことがあったけれど、仄かな苦みがあって、お世辞にも、おいしい! とは言えなかった。けど、動物たちはみんなこの木の実が大好きだ。お土産には持ってこいなのだ。

 ふと、今度はしかと、視界の左側でひしめきあっている木々の方で黒いものが動くのを見た。ひしめき合っていると言っても、西の山の木々はどうしてか互いに間隔を広く持っている。それこそ人が走り回ることもでき、陽光も川の合流地点に比べればずっと多く注いでいるのだ。

「周りに生えた幼木はみんな死んじまうんだよ」

 それはバアヤの言葉だ。

 ウメはにわかにも信じられなかったが、どうやら真実らしいことが最近になってわかってきた。たまにそうした幼木を見掛けることがあるのだ。みずみずしさの欠片もなく、なんだか血を失った人間みたいにぐったりしていた。この辺りの木は、本当に同種同士で殺し合っているのだ。

 だけど、それによって木同士の間隔が広がり、葉と葉の隙間にゆとりが生じて、陽光がたくさん地面にも注ぐようになるから、色々な野草や低木も生長できる。その低木に虫がくっついてもしゃもしゃ葉を食べ、その虫を小動物が食べ、その小動物を、たまに降り立つオオタカが食っていくのを見ると、得も言われぬ感嘆しか湧かないのだった。必死に生きようとしている森の動物たちが、村人たちが汗水流して作った農作物を食い散らかしてしまったときに芽生える感情にそっくりだった。村人たちは怒るが、ウメには仕方が無いようにも思えてしまうのだ。

 視界に映った黒い者の正体はリスだった。木の実を探しに洞からでてきたのだろう。すでに真っ赤なそれを抱えていて、いまはちょうど巣穴に持ち帰ろうとしているところなのだそうだ。

 ウメは語り掛けた。

私もふたつ持っているけど、これもいりますか。

 リスが欲したので、小さな両手に握らせてやると、みっつ目は持ち切れないと言うのでひとつは返してもらった。

 リスはお礼に山の状況を教えてくれた。何でも、山の中に男の子がひとり紛れ込んでいるらしく、しかもりくれん村の人たちとは違って土まみれの格好をしているらしい。

 ウメの中に閃くものがあった。

お礼を告げ、リスが森の深くに去っていくのを見ていると、ウメは自分のことがなおさら人間ではないように思えて仕方がない。動物と話せる人間なんて、この世界のどこを探してもきっと見つかりやしない。手から光をだせて、それで怪我を治せる人間なんて、この世に存在しない。するはずがない。なら私は何者なのだろう。いつまで経っても答えの見つからない謎だった。

 凶念樹はここからさらに一時分も山を登ったところにある。もっともそれはウメを基準としたもので、野山に不慣れな都の者だと、さらに一刻はかかってしまうかもしれない。

 歩きやすい足場を上手に選びながら、どこを向いても似たような木ばかりが植生している山を滑らかな足取りで突き進んでゆく。途中でイノシシやアナグマも立ち寄る沢があって、それを左手から迂回するように順路をなぞり、また茂みの中を歩いてゆく。

 じわりと汗ばみだして、ウメはへその辺りをくしくしと掻いた。すっきりして、頭をもたげると、ようやく陽当たりが爽快な頂上付近の、木々がほぼ植生していない空間に踊り出る。

 そこは平地になっていて、足元には多種多彩な野草が生え渡っている。ウメにとっては名前の知らないものばかりだった。ただ、それらの大半が毒草であることはウメも知っている。少し見上げると、二股に大きく裂けた大木の頭の部分が、ひしめき合う木々の壁の、その少し上の辺りにかろうじて見て取れた。山のてっぺんだ。あの二股の大木が、つまり凶念樹だ。

 左右に幸福と凶念をそれぞれ宿すと伝えられているおかしな樹――。

 その足元でウメは拾われた。誰かが捨てたのか、幼子だったウメがそこまでひとりでやって来たのかはわからない。多分前者だろう。異口同音にみんなそう言っているし、ウメもその通りだろうと思っていた。ともかく、当時は他村との結びつきも極めて緩かったりくれん村に、ウメはそのまま保護され、無事生き長らえることができた。

 野草が、長いもので膝丈まで伸びている原っぱを縦断し、いま立つ場所と同じように平地となっている頂上を目指した。

 鳥が鳴いている。かあかあ、かあかあ。カラスのようだ。凶念樹の周辺一帯には、誤って毒草を食べた動物の死体が転がっていることがある。もっとも、大概の動物はここら一帯が毒草地帯であることを学んでいるため、誤食してしまうものの多くは、生まれて間もない、ようやく独り立ちをした幼体ばかりだ。カラスはそれを啄みにくるので、ウメは少し苦手だった。

ちょっとした斜面を登り切り、屋敷林のように大樹を囲っている林を抜けると、これで何度目になるとも知れないその全容が青空の下に現れた。

 そしてウメはハッとした。

 凶念樹の左右に別れた腕の先には、血の色が思いだされるほど鮮烈な赤を纏う実が吊るされていて、他に葉のようなものはない。凶念樹を取り巻く色彩は、実の葉の緑、実の赤、そして樹の灰色の三つだ。晴天が曇天のように感じられるほど、その巨躯が醸しだす空気は冷たく虚しい。足元の地面に落ち葉は無く、一体ここのどこに生命が生きていられる環境があるのかと疑る世界の中で、少年がただひとり、凶念樹の足元で身を屈めていたのだ。

 背中を向けてはいるが、少年が野草を摘んでいることはウメにもわかった。そこら中にあるものをひとふさずつ全部、といった具合にむしり取って、それを腕に抱えている。

 ウメは足早になって少年の元に寄った。

「やめなさい」

 ピシリ、と言うと、掴んでいた木の枝が突然折れてしまったような驚きを露わにして、少年は振り返った。少年は一〇歳ほどの幼さだった。腕もほっそりとしている。だから、腕に抱えられていた野草をすべて手で叩き落とすことなど造作もなかった。

 すると少年が一瞬、痛い、というよりかは、哀しむような表情をした。

「この辺りの野草はほとんどが毒草なの。あなた、山の麓の村の子でしょう。ご両親から聞かされなかったの」

 少年はすると、食ってかかるように様子を一変させた。

「何するんだよ! せっかく集めたのに」

 少年の腕に赤い斑点がいくつも浮かび上がっている。痒いだろうに。痛いだろうに。それなのに少年は、ウメをひと睨みすると、斑点まみれで青ざめた腕に、再び毒草の束を抱き込もうとした。

「やめなさいと言っているでしょう」

 強く鋭く言い放つと、少年の体がびくりと震えて止まった。

「それは毒草なの。見たところ、私でも知ってるほど危険なものが混ざってる。そんなものどうするつもり」

「母さんに食べさせるんだ。母さん、病気だから」

 耳を疑った。

「実の母を、殺すつもり?」

「そんなわけないだろ! りくれん村の村長さんが、ここの野草ならもしかしたら病気を治せるかもって。……あれ、もしかしてお姉ちゃん、あの村のお姫様?」

 ウメはまた衝撃を受けて、今度は絶句した。

 ――お姫様。

 ――村長。

 天秤にかけるまでもなく、村長の言葉だという言い分に、意識は傾いた。

「村長がそんなことを言うはずがないでしょう。この辺りには病気の助けになる薬草なんて生えてないの。もっと山を下らないと」

 少年は虚を突かれたように怯んだ。

「じゃ、じゃあ、村長さんが嘘吐いたって言うのかよ」

 ――そうだ。その通りだ。ウメには確信があった。村長は嘘を吐いたのだ。

 近頃の村長は様子がおかしい。ならば、そのような下劣な手段に及んでもおかしくはない。村長はいま、金というものに目が眩んでいる。金が楽々懐に貯まるようになって以来、都でしか手に入らないものが村にもたくさん取り入れられるようになり、「生きる」という一方向に固執したものばかりでなく、人生を装飾することにも手を出せるようになった。そうすると人の欲というものは膨らむらしい。従来の排他的様態を口実に、少年のような、いわゆる金にならない芽を摘もうとする傾向に寄っていた。だからウメは、金を払えそうにない貧しい者たちに治療の光をかざしたことなんて一度もない。みんな村長が追い返してしまうから。金になるか否かはその者の姿形を見れば一目瞭然なので、村長はすかさずどちらなのかを見定め、振るいにかけるのだ。少年もまた払い落されたひとりだった。けれども彼は、あきらめることなく連日しつこく村に通い詰めていた。村長はそこに煩わしさを覚えていた。だから、毒草が一面に生え広がるこの山へ来るよう促したのだ。少年が治してもらいたいと願う、病気の母を殺すために。金にならぬ者の芽を摘むために――。

 そう思い付きはしても、少年に頷くことをよしておいた。真偽が判然としない内に適当な返事をして、彼に嫌な思いこみをさせたくなかった。

「村長の勘違いでしょう。あの人がこの辺りのことを知らないはずがないもの。もう、歳だから。それで勘違いしてしまったのよ」

 少年は浮かない顔をしていた。ウメの話を信じる信じないという迷いが芽生えているのではなく、ならば俺はどうしたらいいの、と訴えかけるように眉根を寄せている。

「そうだ」少年の顔がパッと開いた。「なら、お姉ちゃんが治してよ。俺、そのためにあの村に行ったんだ」

「それはダメよ」

「どうしてさ」

「私は怪我を治すことはできても、病気は治せないの。もしできるんだったら、バアヤのことだって助けることができた」

 少年の無垢な瞳に絶望の光が灯ることは容易かった。

 その顔を見て、ウメは理不尽だと思った。

 どうしてみんな勝手に期待なんてするのかしら。

 ウメはなにも、好きで不思議な力を身に宿したわけではない。しかし、その噂を嗅ぎつけてやって来る者たちは、みな一様に過剰な思いを寄せる。怪我も治せる。怪我は治せる、のではなく、怪我も治せる、と。だから、病気も治せる。噂なんて人伝にゆけばいくらでも形を変えるものだけれど、それによってウメは、身に覚えのない期待を寄せられる。その挙句、いざ真実が明かされると、彼らは裏切られたような絶望感をウメに突きつける。ときに怒る者もいる。嘘の光に惑わされ、導かれ、着いた先が奈落の待ち受ける谷だったことを知るや否や、夢から覚めたような顔をしてウメを責めたてるのだ。

 少年はそのときの彼らの様子を実によく体現してくれている。口を開け放ち、見開かれた瞳の真ん中で壊れたように黒目が震えている。

少年に罪はない。悪いのは、噂を流した者だ。噂の形を変えた者だ。けど、ウメはついと視線を泳がせた。泳がせてへその下あたりを擦って、それでやっとこさ平静を取り戻す。

 少年の顔に視線を戻すと、余程ウメの存在に希望を見出していたのだろう、幼さの残る目元に涙が溜まろうとしていた。

「母の症状は」

 気狂いしてしまいそうな姿を見兼ね、ウメはたずねた。泣かれるのも嫌だったし、これ以上責められるのも、居た堪れなくて苦しかった。つまり、そういうつもりでたずねた。しかし、もしも母の病気の症状がウメの記憶の範疇に含まれるものであれば、まだ可能性が残されているのも確かだった。

「しょうじょう?」

 動揺も相俟ってか、何と答えてよいのかわからない様子でいたため、ウメは顔色や肌の様子、熱の有無などを順に問答していった。

 すると、少年の母を侵す病が、ひょっとしたら〝オウライ病〟という嘔吐が止まらなくなるものかもしれないことが見えて来た。微熱が起き、顔がほんのり黄赤色に染まる病で、死に至ることこそなくとも一週間は吐き気に悶えることになる。

 あくまで想像だったが、少年の母が病気を発症する直前に食べた山菜の種類を聞いてみると、少年にとっての光がしたたかに差し込んだ。――それならば効果のある薬草が近くに生えている。ウメは場所も知っていた。

 そうわかると、安堵したのか、少年はしきりに自分の腕をひっかき始めた。先ほど抱えていた毒草にかぶれているのだ。ウメは、少年が何としてでも掻こうとするのを力づくで抑え、そのまま山を下って行った。


      3


 道中で何度も、少年は酷なほどの痒みに悲鳴めいたものを上げていた。しかし、少年の腕を素手で拘束するウメに容赦はなく、どれだけ喚かれようとも無慈悲に足を運んだ。

 小さい頃のウメも、バアヤに同じことをされた。少年を蝕むものとは種類こそ違えど、ウメも山に入ってはあちこちに自生している野草に触っていたため、腕全体をかぶれさせたことがあったのだ。当時は、どうして掻かせてくれないのか、と凄まじい憎悪がバアヤに向くほどの痒みに見舞われて大変な思いをした。しかし、少年の腕を見ればその理由がよくわかる。たった三、四度爪を立てただけのはずなのに、掻いた部分がミミズ状に紫色に腫れあがり、まるで木の蔓を巻きつけたみたいになっている。掻き続けるとどうなるのかは定かでない。もしかしたら腕が使い物にならなくなるのかもしれない。皮膚がただれて、痒みや痛みに苛まれる日々が続いてしまうのではないかとウメは思った。

 山に生える毒草は恐ろしい。毒キノコもだ。最悪、命を落とす。凶念樹が立つ山にはとりわけそういうものが多く自生しているため、人が入り込むときには知識が不可欠で、バアヤは頻繁にその手の知識をウメに押し詰めようとした。

 山を下り切ると、最初に通過した川の分岐点を北上した地点に踊り出た。分岐点よりも流れが緩やかで、泳ぐ魚の姿も視認できる。そこに腕を無理矢理突っ込ませると、余程不思議な感触がしたのか、喜ぶような泣きだすような震え声が、少年の口から漏れた。

「どう。少しは収まったかしら」

「う、うん」

 ウメを見る少年の目がぽつぽつ怯えていた。なんだかしおらしく感じ、ウメは少し強引過ぎただろうかと思うのだが、

「こら」

 少年が水の中に浸っている腕をまた掻こうとしたので背中を引っ叩いた。

「いたっ! お、お姉ちゃん、母ちゃんよりおっかねえ」

「あなたが言うことを聞かないからでしょう。私のバアヤなんてもっと恐かったんだから。傷に利く、なんて言われて、塩水まで塗られたのよ」

「そ、それ、痛いの?」

「痛いなんてもんじゃないのよ。もう、叫び過ぎて喉まで枯れたんだから。もしまた掻こうとしたら塗るからね。ただ痛いだけであんまり良くならないんだから」

 少年の顔がみるみる強張っていき、ようやく腕を冷やすことに集中し始めた。

「あなたのお母さん、いつからその病気になったの」ほどなくしてウメが口を開いた。

「えっと、今日でもう四日目」

「それで、全然よくならないの」

「うん。おでこ冷やしても熱すら下がらなくて。イロドリ草も、蛇の肝を食べても、全然だめで……」

 イロドリ草は主に皮膚に変色が見られる病に効能を得られることからそう呼ばれているが、ウメは首を振った。

「それじゃあよくならないかも。あなたのお母さんが食べたのは多分、フタゴグサだから。フタゴグサは数は少ないんだけど、その分効き目のある薬草も種類が限られてるのよ」

 そのとき少年がふと、ならばどうして母ちゃんだけが毒草を食べてしまったのかと訊ねてきたので、フタゴグサの特徴を説明してやると、何だかやるせない様子で俯いてしまった。

 フタゴグサは、ごく普通に食べることのできるナガブナという山菜にそっくりなのだ。だからフタゴと呼ばれ、そのうえ湯に通すと唯一の判別点である薄白い斑点が消えてしまうため、誤食してしまう者も少なくない。それに、フタゴグサは自生する数が少なく、特定の条件下でしか育たない。これまで少年の村で他に発症者がいなかったのはそこに由縁がありそうだ。

 ならばどうして今になってフタゴグサの被害が出たのかと、今度はウメの方から問うてみると、少年はよくわからないと言って、顔に影を落とした。

「キミの村って、山の南側?」

「そう。ちゃがら村。お姉ちゃんが住んでる村よりずっと小さいけど、でも良い村だよ。みんな家族みたいなんだ。母ちゃんのことも看病してくれてるし」

「ふうん」

 素っ気なく返しながら、ウメはまたヘソの下の辺りを擦っていた。

「りくれん村まで毎日通えるものなの」

「ちょっと大変だけど、でも、母ちゃんのことが心配だったから。……お姉ちゃん、本当に病気は治せないの?」

「そうね」ウメが目を水中に向けると、底の方でサワガニがよたよたと歩いているのが見えた。「その腕みたいな症状も、私には治せないのよ。それで、どうかしら。そろそろ痒みも収まってきた?」

「うーん。触らなければ平気そう」

 見ると、先ほどより僅かにだが紫色の度合いが弱まり、腫れ具合も木の蔓みたいだった太さから野草のものぐらいの細さになっていた。

 ウメは少年に促し、そのまま南西の方を向いた。方角は川沿いを歩けば粗方把握できる。ただ、薬草の生える位置ばかりは大雑把にしか見通せないので、どうしたものかとウメはいくらか悩んだけれど、少年はこの山に何度か出入りをしているようだし、きっと大丈夫だろう。ウメは立ち止まり、先ゆく少年が、あれ、と振り返るのを待ってから言った。

「ここから真っ直ぐ一刻ほど歩いたところに低木ばかりが育ってる場所があるの。そこに葉がギザギザで花がオレンジ色をした野草があるから、その花の部分を煎じてお母さんに呑ませてあげて」

「え。お姉ちゃん、来てくれないの?」

「私はもう村に戻らなきゃ。村を抜けだしてることがばれると色々面倒なの」

「で、でも」少年が不安げに言う。

「薬草なら一目見ればわかるはずだから、間違える心配ならいらないわ」

「それは、そうだけど」

 少年はぐずる幼子のようにしぶとい。褐色の肌と短髪な頭が、ウメにやんちゃそうな性を連想させていたが、その印象もすっかり失せていた。

 少年が不安がるのも無理はなかった。いくら場所や見た目を知識としては知っていても、見たこともない薬草を扱うのには多少なりとも覚悟がいる。薬草だと信じて摘んだものが、実はよく似ているだけの毒草だった、などということも十分起こりうるのだ。それに、薬草はその取扱いを誤ると反って毒に化けることがある。少年はそれらの事実を知っているのだろう。あるいは、母が野草で病気になった記憶が、野草に対する警戒心を強めているか。

「大丈夫よ。この辺りにその薬草と似た形のものはないはずだから。もし心配だったら根元から引っこ抜いてみて。もしも根が綺麗な三俣に分かれていたら、間違いないわ。それでも心配なら、また村にいらっしゃい。私が仕込んであげる。フタゴグサの毒で死ぬことはないはずだから、ある程度遅れてもあなたのお母さんなら問題ないもの」

 すると、少年が何かを言いたそうにしてウメを見据えたかと思えば、唇を内に巻いてうつむいてしまった。悔しそうな、怒っているような顔をしている。

「あら……ごめんなさい。あなたにとって、問題ないなんてこと、ないわよね。なら、今すぐにでも薬草を届けてあげなさい。ここからどれぐらいかかるの」

 今から急げば、日暮れまでには村に着けると少年は言った。

 森の屋根に空いた穴から覗ける空の欠片は、オレンジ色に染まり始める気配をちらつかせている。もうじきコウモリが舞い始める時刻だ。あと一刻と経たずに夜の闇は里山全体を覆い尽くしてしまうだろう。

「行きなさい。日が暮れれば帰れなくなる。そうなれば今日中に村に帰ることはとても難しくなってしまうわ」

 少年は黙ったまま頷いて、小走りに南西の方角へと駆けて行った。

 その後ろ姿がひしめき合う木々の裏側に消えた頃になって、ウメは得体の知れない暗雲が胸中にたちこめるのを感じた。

 何だか嫌な気持ち。あんなことを平然と言ってしまえたことに、ウメは内心驚いていた。ひょっとしたら村の毒気に当てられてしまっているのかもしれない。問題があるかないかなんてことは、当事者でなければ易々断言などできるはずもないのに。

 と、そのとき、ふとひとつ、少年に伝え忘れていたことがあることを思いだした。

 南西の森には陽が当たりにくく、湿気も多いことから、キノコが自生しやすくなっている。その中には毒キノコも混在しており、食べると死に至る強力なものまでどこ吹く風で生えているのだ。

 だが――少年も山の麓に住まう人間だ。容易に手を出すこともないだろう。まして母親が毒に侵されているとなれば、なおのこと持ち帰ったり食べたりするという気は起きないに決まっている。

 くるりと踵を返して、ウメは北にある川の合流地点に爪先を向けた。


       4


 りくれん村の地を踏む頃にもなれば、青い空の半分ほどを夕日色が蔽っていた。村の人たちは依然畑作やコナラ林の手入れに精を出しており、相変わらず自分だけが楽をしている――いや、させられている現実に、ウメはちょっとした曇りを感じないわけでもなかった。

 だがウメは、落ち着かない想いを脇に除け、村長の家に赴いた。村長の家はウメと同じ三区画目内に所在を持つ。その上、ウメの家と隣り合っているため、互いが互いを監視しやすい。だからウメが乗り込むと、村長はいつものようにその件について咎めてきた。

「また勝手に村を抜けだしおったな。まったく。ことがあってからでは手遅れなのだぞ」

 ひとりの村娘として心配しているのではない。大事な商売道具としての娘を憂いているのだ。使い物にならなくなってしまえば、不思議な力なんて死んで腐った蛇の肝と同様なんの意味も成さない。折れた鍬は単なるゴミだ。

「最近ではまた西の山で白い影などというものを目撃したと抜かした者もおる。得体の知れない山には登るなと言っておるだろ」

 ウメは時々、昔自分のことを拾った者がどうしてあのような毒草だらけの頂上に登ったのだろうと疑問に思うことがある。その謎の答えが、白い影というものにあるらしく、どうやらウメを拾い上げた者は、白い影に誘われて足を進めると、知らぬ間に凶念樹がある平地に踊り出て、そこに幼子が捨て置かれていたと語ったらしいのだ。

 そのような信憑性のない話は信じることの方が難しく、村長自身も「白い影」などと口にしても、結局は単なる口実に過ぎないと考えているようだ。ウメだって同じだ。だから村長が口を咎めるのなんか差ほど気にも止めないで、ちょうど聞き流すように、つん、と顔を背けていた。

「お前がいない間に怪我人がでた。すぐに治療してくれ。隣の診療所におる」

 村長の言葉を無視し、少年に虚言を吐き捨てたことについて言及するという選択肢もあった。けれどもウメは、キッと鋭く眼光を光らせるにとどめると、すぐさま、コナラの丸太が組み合わされて立っている茅葺の小屋に足を運んだ。

 診療所と言っても、そこは無人だ。怪我をした者たちが、そのとき不在だったウメを待つためだけに設けられた、比較的真新しい小屋だった。

 その中にいたひとりの老婦の怪我は大したものではなかった。膝小僧に軽く血を滲ませているだけで、少年の腕のかぶれの方がよっぽど重みがあった。

籐椅子に腰かけ、都で購入したらしき陶器で茶をすすっていた老婦は、ウメを見るとたちまち表情を明るめた。おばさんと呼んでいる、バアヤとも仲が深かったらしい人物で、ウメも村の中ではそこそこ慕っていた。

「ウメちゃん、いつもありがとうねえ。ちょっと転んだだけなんだけど、村長のジジイがうるさくってねえ、ふふふ」

 ジジイ、なんて言ってはいるが、本気の悪態というわけではないのだ。長年の付き合いだからこそ飛びだす意地悪のようなものらしい。

「いえ、私でお役に立てるなら」

 板張りの床に膝をついておばさんの擦り傷に手をかざそうとしたとき、微かに酸っぱい汗の臭いが鼻を刺した。くっと息を細め、手のひらに意識を向ける。と、そこからぼんやりとした淡い光が丸く浮かびあがる。

 いつ見ても不思議だ。自分の力のはずが、まるでこの瞬間だけは誰とも知れない者の肉体を間借りしているような心地さえする。だけどこれは、紛れもなく私の身体なんだ。

「いつ見ても温まるのよねえ、これ。本当にどうなってるのかしら。ねえ、ウメちゃん」

 力を使っていると、人の言葉が微妙にだが、上手に聞き取れなくなる。だからウメはそれには答えず、おばさんもそれを察した風に口を噤んだ。

「はい、終わりました」

「あらあ、やっぱり早いわ。この歳にもなるとこんな傷でも治るのに三日ぐらいかかるのに。ウメちゃんに頼めば三〇秒もかからないんだから。今夜わたしの家にいらっしゃいよ。久しぶりに料理御馳走してあげるわ。今日はいいお芋が採れたから、ふかそうと思ってるの」

「ありがとうございます。けど、今日はすることがあって。もしかしたらいけないかもしれないので遠慮しておきます」

「あら、そうなの。残念ねえ。ならまた今度、良いのが採れたら声かけるわね」

「は、はい。ありがとうございます」

 小さくお辞儀をして、ウメは足早に退散した。うっかり引き結んでいた口元が、なかなか緩んでくれなかった。

 おばさんは悪い人ではない。ただ、ちょっとえげつない。お礼に、と言っていつもお返しをくれようとはするのだが、ウメは貰った試しがなかった。上っ面だけだ。だからウメは、何々をあげる、と言うおばさんの顔に浮かび上がる喜色が、ヒキガエルの見てくれよりもわりあい苦手だった。

 村長の元へ身を翻すと、おばさんが言うところのジジイは薪をくべ、暖をとっていた。晩秋も過ぎたいま、夜には気温が下がりやすくなる。とは言ってもまだまだ火を熾すには早い時間帯のはずだ。

 ウメがずかずかと家に上がりこむことについては文句を垂れず、むしろその剣幕に対して、村長は訝しげに唸った。

「どうした、そんな顔して」

「村長」ウメが泰然として一言言い放つと、村長の不機嫌な表情にぴりりとしたものが一本横刺しに加えられた。もう一本刺し込んでやるつもりで、ウメは続けた。「今日、ひとり少年がこの村に来ましたね」

「少年? 何を言いだすかと思えば」

「来ましたね」

「……ああ。それがどうした」村長の声に真剣さが灯る。

「少年に嘘を吐きましたね」

「嘘だと? 一体何のはなし」

「――吐きましたね。凶念樹の近辺にある野草が、薬草だと。病を治せるものだと。そう言って、そそのかしたのですね」

 片眉を動かすと、村長は重たそうにして腰をもちあげた。

「さあな。そもそもそのような少年が来たかどうかも覚えとらんと言うのに」

「覚えて、いないですって?」

「そうだとも。ワシももう歳なのだ。物忘れも日を負うごとに酷くなっているし、畑作やカヤ刈りすらも満足にはできん。すっかり老いてしまったわ」

「数日前、山に入っていきましたよね」喉を絞るように言った。

「はて、そうだったかのう。仮にそうだったとしても、だ。山を歩くぐらいのことはワシにだってできるんじゃないかのう」

 拳を握った。ひょうひょうと動く、しわくちゃな顔にぽっかり空いている口を、ウメは石で塞いでしまいたかった。

ウメの顔を流し目に見て、村長は平然と喉を鳴らした。

「おう、そうだそうだ。明日な、また都の者が来るそうだ。今日治療した者がおったろう。それの、連れだそうだ。へっへっ。しっかり頼んだぞ」

 醜悪なツラで、ジジイが笑った。



 その日の晩、ウメはなかなか寝付けずにいた。板張りの床に敷布団を敷き、ソバ殻の枕に頭を置いている。右側にはまだ焦げ臭さが仄かに香る囲炉裏が床に穴を穿ち、左に頭を傾けると、四角い枠の中に三本の杭が立っている小窓があり、その中では月の浮かぶ夜空が切り取られている。美しい白い光が、茫々と山の上で瞬いていた。

 あの少年は無事帰ることができただろうか。あれから案外すぐに、陽は暮れてしまった。ひょっとしたら少年がちゃがら村に着くよりも早くに、夜は世界を覆い尽くしてしまったかもしれない。

 ウメはへその下の辺りを、布団の中で擦った。

今晩の食事として食べたのが、あろうことかおばさんの届けてくれたフカシイモだった。いつもならば決して謝礼の品など手渡すことなんてしないのに、おばさんはニコやかにそれを籠に入れて持ち寄ってきた。本当に食べきれず困っていたのだとおばさんは言った。

実際には甘いはずなのに。全然、美味しくなかった。それは別に、おばさんが無味なものをわざわざ選んだからとかではなく、確かに甘味を感じられるはずが、どうしてかウメの頭はそれを甘いとは思わなかった。最初は、常とは異なるおばさんの一面を目の当たりにしたからなのだと思っていた。けれども、食事を終えてからも心が囃されている感覚は拭えなくて、やっぱりそれのせいではないのだとウメは気が付いた。

遠くで鳥が鳴いている。夜の鳥だからか、ちょっぴり不気味な声に聞こえる。

 こんなことなら少年に着いて行ってやるべきだったろうか――そんな後悔の念がじわじわと、土から染みだす湧き水みたいに滲みでてきた。

 それからしばらく経って、コウモリが軒の下に止まる気配が感じられるようになっても、眠気は一切起こらなかった。ちりちりと鳴く鈴虫の音が、どうしてかウメの心を焦らしている。まるで、ほどよい温度の温泉に無理矢理、一刻以上も浸されているような気持ちがした。

 布団を跳ね除ける。背筋がスッと冷え込む感覚も意に介さず、村の中を誰も歩き回っていないことを耳と目で確認してから、そっと家から滑り出るように飛びだした。

 閑散としている。月光だけが暗がりを照らす村の小さなひと区画だ。ひっそりとし、どの家にも囲炉裏の灯りは灯されていない。

 足音を殺しながら、ウメは村の中を南に進んだ。その先にはせせらぎも控えめな小川が横切っていて、それにぶつかったところを右に折れると、川岸に沿って西の山を目指す。

 村を出てすぐのところには斜面が下っていて、そこを下りると昼間も立ち寄った川の合流地点に辿り着ける――はずなのだが、いざ眼下に広がる森林を目の当たりにすると、ウメは足をすくめてしまった。こんなの、普通の人間じゃ歩くことだってできない。

 ただただ暗い。暗闇だ。暗澹とした世界がどこまでも山の上を這って、覆っている。もしも少年がまだなお山の中をさまよっているとしたならば、夜の間に村へ帰ることはまず望めないだろう。朝日が昇れば太陽の位置から方角を掴み帰路を探りだすこともできるだろうが、この森林には夜行性の毒蛇もいる。もしそれに噛まれでもすれば、そもそも朝日を拝むことすら難しいかもしれない。

 ああ、どうして今になってそのことに気が付いたのだろう。ウメはますます焦燥感に駆られた。それだけ、村長が彼に口告げた一件が気掛かりだったということでもあるのだが、それにしてもあまりの迂闊さに、歯噛みせずにはいられない。

 急いで斜面を下り、昼間よりもやや危なげな足取りで森林の茂みをかき分けてゆく。

 視界は悪い。が、何十、何百と通い続けている森なだけあって、ある程度の安全路というものは見通すことができた。しかしそれでも木から垂れているツルには幾度となく顔を叩かれ、恐らくどこか切れていることが実感できるような痛みがじんわり広がる。

 ウメの身体を突き動かしているのは薄気味悪い責任感だった。自分が住む村の村長がしでかした。その尻拭いとして、せめて少年は無事に返してやりたい――、という想いだけの話ではないのだ。もちろん、少年を送り届けたい気持ちはある。しかしそれ以上に、自分が長年見知っている者の所作が、悲劇を生んでしまうのではないかという予感が、強く不穏な空気をウメの中に立ち込めさせていた。

 やがて、森を巡る川の音が鮮明に聞き取れるようになってきた。ここから先は、手伝ってもらおう。

 雨漏りする程度の月明かりが注がれている川の傍に身を屈め、辺りを丁寧に見回した。夜行性の動物は目が光っているから、それを何とか捉えようとしていた。そうしながら時々声を投げかけていると、やがて、カサリ、と傍の茂みが揺れ動いた。

「こんばんは」

 ノウサギだった。珍しい。ノウサギは夜行性だから、昼間には滅多にお目にかかれないのだ。ウメが緊張気味にそう語り掛けると、ノウサギはぴょんと跳ねてウメの横に立ち止まった。

この辺りで人間の男の子を見掛けませんでしたか?

 ノウサギは月明かりに照らされ、この時期昼間見ると薄い褐色をしているはずの毛並は、ぼんやりと白色に見えた。気のせいかしら。

ノウサギはひくひくと鼻を動かしている。真ん丸に光る目が何だか深い霧のように濁っていて、ひょっとしたら見えていないのかも、とウメは不安のようなものを感じた。やがて見つめるその顔がちょっぴり不細工に思え始めたとき、痺れを切らしてウメの方から声をかけようとしたのだが――

「あっ!」何も言わずに、ノウサギは立ち退いてしまった。一体どうしたのだろうと思い、消えていった白い影の名残を束の間見据えた。

 その後、他の動物が来る気配がなかったのでウメは仕方なく移動することに決めた。爪先が向くのは、昼間少年に促した、薬草が生えている地帯がある方向だ。きっとそちらの方にゆけば何か手掛かりが得られる。そんな淡い希望を抱えたまま、二〇ほど連なった軒ぐらいの道のりを下り、そこからさらに続く、下に向かう傾斜が、体ではっきり感じられるようになった頃、ウメは右に折れて川を渡った。

その奥の森林は、ほとんど目視できるものがない。月明かりが木漏れ日のように差し込んではいるが、そんなものは気休めだ。身震いをもよおすほどの暗闇が身を寄せあうその中に分け入りながら、ウメは、自分が帰れるのは翌朝になるだろうということを覚悟の上で、また次の協力者がやって来るのを待ち望んだ。

 それからしばらくして、少年は見つかった。少年は凶念樹が立つ山の丁度南の方にある木に寄りかかる形で身を小さくし、小岩のように眠っていた。

 それを教えてくれたキツネに、偶然拾うことのできた赤い木の実を数個、お礼として与えてから、ウメは少年をゆすり起こした。すっかりクタクタだった。何せ、もう朝日が昇ろうとしている。森の中がうっすらと明るみを帯びようとしているのだ。村を飛びだしてから一夜を明かすほどの時間が経っている上に、何度も斜面を上り下りしたから、ウメの細足はいくらか腑抜けるようになっていた。

 少年の懐で薬草が窮屈そうにしている。オレンジ色の花をした、ウメがおしえたものと同じ形をした薬草。それを大事そうに両腕に抱えたまま、少年はいくら呼んでも起きそうになかった。

 やむを得ず、ウメは少年を背負った。が、まだ子供とは言っても疲労困憊しているウメにとって、その荷はいっぱいに鉛が詰め込まれた籠のように重く、とてもじゃないが山を下るなんてことはできそうになかった。

 少年をまた木に寄りかからせ、それを支えるように、また支えられるようにして、ウメも身を小さく縮め木に身を委ねた。この辺りはいくぶん茂みが少なく、木の葉も充分に積もっているので、座り心地はさほど悪くなかった。ふかふかしている。それだから眠気はあっという間にやって来て、本当はこんな森の中で眠るつもりなんてなかったのに、意識は意志とは関係なしに遠退いて行った。

 声がして目を開くと、心配そうに顔を覗き込んでいた少年が、右手に毒キノコのツキヨタケを昆虫でも捕まえた風に把持していたので慌てて叩き落とした。ほとんど全力だった。爽快な音が鳴り響き、眠気もすっかり吹っ飛んだ。

毒草や毒キノコの類に対する警戒心はバアヤに手厚く仕込まれていた。そのため、叩き落すというのはほとんど反射的な動きだったし、ツキヨタケは暗いところで光る性質を持つ――だから実は、少年を発見する少し前にツキヨタケを見掛け、意識の片隅に注意書きのような形で収容しておいたので、寝起きでもすぐさま反応できた。

 少年は驚いた風に目を見開き、自分の手の甲とウメの顔とを行き来したが、足元に転がる大きな葉に厚みを持たせたような見てくれをしたツキヨタケとウメの顔を見比べて、それから、ああ、と唸った。

「これ、毒キノコなの」

「ツキヨタケと言うの。夜になると月のように光るからそう呼ばれているの」動悸がする。だから言葉もやや切れ切れになった。

 辺りには眠る前よりも濃い光が寄り合うようになっていた。それでもまだまだ昼間のような明るさにはおおよそ届かないものの、歩くには十分明瞭な視界になっていた。

 少年はツキヨタケを村に持ち帰ろうとしていたらしい。初めて見るキノコだから、村のじいさんばあさんに見てもらいたかったのだそうだ。

 ウメが訊ねると、少年はちゃがら村までの方角を指さした。その口元はすっかり綻んでいる。目もとろんとしている。ひとりで夜の森にいるのは、きっと心細かったのだろう。今にも眠り落ちてしまいそうな彼のことを見兼ね、村までは付き添うことを伝えると、少年はまたひとつ破顔した。

少し歩いたところで、ウメの機嫌を窺うように少年が口を開いた。

「お姉ちゃん、なんで来てくれたの?」

「思ったより夜が来るのが早かったから」

 端的に答えると、少年が深く訊いてくることはなかった。ふうん、という感じで声を漏らすと、彼は何気なく言った。

「俺、お姉ちゃんのこと嫌いだったけど、ちょっと好きになったよ」

「そう。それは良かった。……なんで嫌いだったの?」

「恐かったし、母ちゃんのこと問題ないとかなんとか言うし、俺のこと独りぼっちにしたから」

 言葉を並べる少年の声に感情の起伏が微弱にも含まれていた。悲しみや怒りが感じられ、ウメはあまり良い気はしなかった。だってまだ、ちょっとは嫌われているのだから。ただ、その中に「病気を治せないから」というものが混じっていなくて、それがちょっぴり心を軽くした。

 村へゆくには、凶念樹が立つ山から真北に進めばよいのだった。ある程度ゆくと、少年が、あ、と声を発し、それが指差した先には、鬱蒼とする茂みの中で懸命に芽を伸ばそうとしている切り株の点々としている一帯が待ち受けていた。

 りくれん村では秋になるとカヤ刈やコナラ林の手入れを行う。ちゃがら村でも同様に、近場の木々の中でとりわけ生長し過ぎたものを切り倒し、そこから木材を工面するらしかった。樹木を切り倒し、森の環境を整え、代わりに木材を頂戴し、いくつかの年月を越えると新たな樹木が植生するので、また同じように森の乱れを整える――。大きな流れを伴うその伝統が長年の間繰り返し守られていることを証明できるのは私だけなのよ、とでも言いたげに、切り株から萌え出ている新芽はめい一杯、葉に埋め尽くされて拝むことさえ難しい空を目指している。

 よくよく見れば、樹木はコナラだった。要するに、ちゃがら村が大切にして来た林は、りくれん村のそれと同じく、コナラ林なのだ。

りくれん村の怠けっぷりが思いだされ、息が詰まるのを感じたとき、不意に声がした。大人の声だ。何人かいて、その中に聞き馴染みの深いものがあったらしく、少年は「父ちゃんだ!」と快活に声を上げた。「ここだよ! 父ちゃん!」

 ユウタと呼ばれた少年の無邪気な声に応対する大人の声がいくつもあったことにウメは驚いた。

 もう、明け方だ。このような時間まで彼らは少年のことを捜していたのだろうか。

 やがて少年の背がウメから遠ざかったとき、ひしめく木々の裏から現れた人物が、彼の小さな体を受け止めた。そして一旦少年――ユウタを押しやり、ゴツン、とずいぶん大きく固そうな拳骨を頭頂部に振り落すと、再び彼の短躯を抱きしめた。

 ウメはそのまま立ち戻ってしまおうかと思った。その場にいるのが、何となく苦しかった。だけどユウタの父と思しき人影とは別のヒト形がウメの存在に気づいて、少年が言葉を添えたのだろう、安心したような声で手招いた。

「あんた、ありがとうな。坊主連れてきてくれて。まだ若えのに大したもんだ」

「父ちゃん、この人りくれん村のお姫様なんだよ。母ちゃんを治す薬草もおしえてもらったんだ」

 ユウタが言った途端、ウメを取り巻いていた村人たちが一斉にどよめいた。

「りくれん村だって?」

その言葉には棘や毒の類が含まれており、ウメは、え、と思わずたじろいだ。村人たちは顔を見合わせて、どうするだのなんだのと言葉を交えていたが、やがてユウタの不安に染まりつつある顔に目がゆくと、ユウタの父がおもむろに口を開いた。

「あんた、本当にあのお姫様なのか」

「えっと」ユウタが何度も口にしていたからずっと気になってはいたのだが、そのような形で噂は流れているのだろうか。「はい、一応」お姫様だなんて、一番嫌な呼び名だ。

「そうか」ユウタの父は悩ましげに視線を落としたが、息子の顔を再三見ると、他の者たちに目顔で何かを訴え、もう一度ウメの方に、訝しい色が抜けきらない目を向けた。「俺のカミさん――この坊主の母親を、本当に助けてくれんのか」

 彼らとの間に生じる隔たりのようなものを堪えながら、ウメはおずおずと頷いた。

「そうか」またも村人たちを一瞥して、彼らがいかめしく首肯するのを確認すると、自分も気負った風に、ユウタの父はウメを見て言った。「一緒に来てくれるか。こっちに村がある」

 薬の作り方を弁じたらすぐさま立ち去ってしまおうと思っていたので、戸惑いがひょっこり顔を現しそうになったが、この場に漂っている物々しい空気が絡みついたみたいに、首が勝手に動いてしまい、彼らに前後を挟まれながら、ウメはちゃがら村へと赴くことになった。


      5


 村は小さかった。規模で言えば、りくれん村の半分にも満たない。されど軒並みの奥には人里と同程度の大きさもある畑作の霞んだ茶色が息を吹き、さらに見通してみると、その奥には小川が流れているようだった。小川から引いた水は、ちゃがら村に一本糸を通すみたいに流れ込んでいて、その内の一部には水舟という三段式になった桶が据え置かれている。一段目で手を清め、二段目で野菜を水に晒し、三段目で土の付着した作物や皿を洗う。りくれん村にも同じ仕組みがあるので、ウメには感慨深いものがあった。どこの村でもこうした知恵は取り入れられているのだ。

いま出てきた森林沿いの斜面には、ソバ畑が広がっていた。何でも、この村での収益源の多くは、そこから採れるソバ殻とコナラの木なのだそうだ。ウメを連行する間も緊張が抜けきらない様子だったので、詳しく見聞することはできなかったが、手作りで道具を作り、それを都に売りに行っているのだという。

その話を聞いて、ウメは後ろ指を差されるような想いになった。かつて労働によって汗水流していた記憶が小娘となって現れ、現在の自分やりくれん村を蔑み、と同時に悲しんでいる。

「ここだ。ここで、カミさんが苦しんでるんだ。どうにか助けてやってくれねえか」ユウタの父は、先ほどよりもやや下手に回った態度で言った。

やせ細った格好をしたユウタの父たちに案内されたのは、コナラの木で造ったらしい小屋だった。ただ、りくれん村のそれよりもずっと土臭い。外観はささくれだらけだし、床の磨きは甘いし、屋根だってところどころの茅が剥げて穴が空いている。これでは雨粒を完全にしのぎきれないだろうに。

他の村人たちを労いの言葉と共に帰してから、ユウタの父が戸を開けた。

古ぼけた小屋の中で頬のこけたひとりの女性が、苦しそうに呻いていた。

「母ちゃん、いま薬草煎じてやるからな」

小屋に入るとすぐ、床に直置きされていた陶器に薬草を入れ、ユウタがそれを手に取って外に出ていこうとした。片手にはすすけた麻布も握っている。

「ちょっと待て。そんな布で拭いちゃあ、ますます身体に障る。ほれ、これ使え」

 父親が手渡したのは真新しさの残る麻布だった。網目もはっきりしていて、仕入れたばかりだというのがよくわかる。新葉のようなそれを握りしめ、ユウタは外に飛びだしていった。

 母親は数人の村人に囲われていた。みな、憂い気に彼女を見つめてばかりいたのだが、ウメの存在に気が付いた途端、ギョッとした風に目を丸くした。

「誰だい、そのべっぴんさん」初めにそう問うた男の瞳が、ウメの整った色白な顔に凝らされた。その男だけではない。他の村人の視線も、物珍しそうにウメの肌の上を這う。

 ところが。

「りくれん村のお姫様だそうだ」

 ユウタの父が言うと、彼らの目の色が瞬時に転じ、ウメを排除するような眼光に変わった。

「りくれん村だって? 何だってあんな村のもんを」

「この娘さん、別に悪い人じゃねえみてえだから。坊主のこともこの人が連れてきてくれたんだ。それにカミさんのこと診てくれるってんでな。だからちょっとばかし勘弁してくれ」

 すると、僅か数人しかいない彼らの間を明らかな動揺が縫い舞ったので、ウメはますます居心地が悪くなった。何もウメは、自らユウタの母を診ると申し出たのではない。目に見えぬ圧倒的な圧力に支配され、連れて来られたにも関わらず、それを生みだした張本人である彼らの、診るのでなければ村を去れ、と言わんばかりの横暴な態度に腹の底が疼いた。

 口を尖らせ、むすっとした顔で目を伏せていると、心問うたように、ユウタの父が言った。

「悪いな、お姫様。りくれん村とはちょっとばかしいざこざがあって、それでみんな気が立ってるんだ」

随分と控えめな様子だったので、ウメは内心驚いた。

「いざこざ?」驚きながら、勝手に口が動いたのでまた驚愕した。

 けれど、みな不快そうな面で目を背けるばかりで、答えてくれる気なんて粉ほども感じられない。つい言及したい欲に駆られた。が、ユウタの父が寝床で息を荒げている女性に憂い気な眼差しを向けたので、ウメは飛びだしかけた言葉を呑み込んだ。

「彼女の容態は……」いざ声をだしてみると、気の縮まりようがひしひしと感じられる小さな声量にしかならず、ウメはまた委縮した。

「ずっと唸ってんだ。一刻に一度は吐いちまうし、だから夜もあんまり寝らんねえみたいで」

 見たところ、彼女を蝕んでいるのはフタゴグサの毒で間違いないようだった。肌は黄赤色をし、触れてみた額には熱いほどの熱が灯され、吐き気は収まっているようだが、呼気がとかく荒く、頬もこけている。

 本来、命を脅かすほどの毒ではないはずが、このままでは衰弱死してしまうのではないか、とウメは冷たい感触を背筋に覚えた。

「どうだ」ユウタの父が掠れ声で言った。「カミさん、助かるのか」

「かなり弱っているみたいですけど、薬を飲ませてあげれば症状はたちまち収まるはずなので」医者ではないので自信はなかったが、ウメは顔をもたげて彼の目を見た。「きっと助かります」

「そうか」ドッと疲労が噴き出したみたいにユウタの父が腰から床に落ちた。それに応じるように、他の人々の口からも深い嘆息が次いで溢れ、場の空気が瞬く間に和むと、ウメは反って焦燥に見舞われた。責任が容赦ない重さを纏って頭上から降り注いでいるみたいな心境で言った。

「ゆ、湯を、用意してください。薬を作るには湯が必要なので」

「よし」ひとり、男性が立ちあがった。「湯だな。すぐに沸かしてくる」

 大慌てで小屋を飛びだしていった。囲炉裏がある家は、この村では一軒ほどしかないのだと言う。それをみな共同で使用しているらしく、その事実にウメが驚き口を半開いていると、ユウタの父が先ほどよりも気の緩んだ調子で言った。

「りくれん村にはやっぱり囲炉裏がみんなの家にあるのかい」

「は、はい。でないと、食事もままなりませんし。冬だって」

 ふとウメは、彼らの服が目についた。ウメのものも土で多少薄汚れてはいるものの、布素地自体はまだ新しく、洗えば何度でも着られそうなほど丈夫だ。けれども彼らが纏っているのは木の枝にでも引っ掛かれば容易く穴が空いてしまいそうなぐらい薄くて、頼りない。色はあせているし、裾の部分なんて枯葉みたいにくたびれていて、上から縫い付けられた布っぱしが彼らの貧相さを体現しているようで、ウメは言葉を紡げなかった。

「まあ、大変は大変だけどな」ユウタの父はどこか嬉しげだった。「けど、ひとつの囲炉裏をみんなで囲うってのもなかなか悪くねえぞ。お蔭でみんな家族みたいに絆が深いし、それに冬になれば、囲炉裏とまではいかなくても床に穴空けて熾火ぐらい熾せる場所は設けるんだ。だから死にはしねえしな」

「へえ」

 すうっと、ウメは目を丸くした。ちょっぴり羨ましかった。見れば見るほど、聞けば聞くほど、彼らの生活が苦難の連続であることなんてすぐ想像できるのだけれど、そのはずが、みな決して絶望しているのではなく、互いを支え合って生きている様子が、父の表情により語られて、それがウメの胸元をちくりと刺した。私もこんな風に笑いたい。笑いたい。

 と、そこでユウタの父が意外そうに言った。

「お姫様もそんな顔するんだな」

 いま、どんな顔していたのかしら。そんな疑問がハッと頭を過って、どうしてかウメは、近くにいた人へ助けを求めるみたいに首を回した。目と目があった母親ぐらいの歳の女性が、くすりと笑った。

「あら本当。まだまだあどけないのね。いまいくつ?」

「え、えっと、多分、二四ぐらい……」拾われた身なので数字は判然としないのだが、その事実を公然と打ち明けるのも厭わしく思い、ウメは言い切った。「二四です」

「そうなの。何だか印象が全然違うわ。お姫様はお姫様なんだけど、こんなに無垢な子だったのね」

「ああ、まったくだ」ユウタの父が言った。「りくれん村のお姫様なんて言ったら、もっと高慢でいけ好かない、大してべっぴんでもない年増だと思ってたら、本当にお姫様みてえな見てくれなんだから。肌なんて雪みてえだ」

 ウメが圧倒されるのなんて気にも止めず二人は捲し立てる。

「そうだ」と、ユウタの父が閃いたみたいに手のひらを打った。「ちょっと診てもらいたい人がもうひとりいるんだけど、いいか」

「怪我、ですか?」

「まあ、そうだな。ちょっくら腰をやらかしちまったみたいで」

 ユウタの父が言った瞬間、他の村人たちが動揺を声にした。

「おい、あんた、まさか」先ほどの女性が不安げに言った。「やめといた方がいいんじゃないかい。あの人は、だって……。それにお姫様だってこんな娘なんだよ。どうせ治癒だのなんだのって話も嘘っぱちなんだろ」

「けど、このままじゃ婆ちゃんが可哀想だろ。治癒の方は、ほら。あの噂、本当なんだろ?」と、話しを投げかけられたので、ウメは気圧されながらも悠然と頷いた。

 あまりに平然とした態度を示したためか、また彼らの目が怪訝そうに光った。

「もしそうなら、どうしてユウタの母ちゃんは治してやらないんだ」

 それもそうだ、という顔を、女性の一言により、村人全員が一斉に浮かびあげたので、ウメは慌てて言開いた。

「ごめんなさい、私、怪我しか治せないんです」

 するとなおのこと、みんなの眉が寄せ合わされたのを見て、ウメは乗り出していた身をつい引き下げた。

「まあ、ものは試しって言うだろ。別の小屋で寝てるからさ、ちょっと着いて来てくれよ」

 村人たちが納得しない中でユウタの父は立ち上がった。すっかり気おくれしたまま、ウメは彼の少し後ろに張り付いて小屋を出た。

 それからすぐに、ウメは深く息を吐きだした。締められた戸の向こう側から、あの子本当に大丈夫なの、なんていう密やかなやり取りが聞こえてきそうで気詰まりした。異質な者を目の当たりにしたときに人々が発する無意識というのは、相手に悪意がなくとも負担になるものだ。

「大丈夫か、お姫様」ユウタの父が振り返り言った。

「すみません、少し疲れてしまって」

「はは、まあこんな時間だしなあ。さっきはちゃんと言えなかったが、坊主のこと、本当にありがとうな。助かったよ」

 思いのほか、その言葉がスッと胸の中に滑り込んで来たので、ウメはハッとした。

 そこへユウタの無遠慮な声が響いた。

「おーい、お姉ちゃん! このあとはどうすればいいの」

 まだ多少離れているというのに彼の高い声はしっかりとウメにも聞き取れた。ユウタが腕に抱える陶器や洗われた薬草が鮮明に見えるようになってから、父が言った。

「おい、ずいぶんかかったな。遊んでたのか」

「違うやい。毒が入っちゃわないように念入りに洗ったんだよ。で、お姉ちゃん、この後はどうすればいいの。早くおしえてよ」

「えっと」急かしてくるユウタに、ウメはひとつ手本を見せながら話した。「こうやって、花びらを一枚ずつ千切ってね」

 オレンジ色の花弁を一枚ずつ千切ってゆくウメの手元を、少年は至極真剣な眼差しで見つめている。

「そしたら、こうして三つに裂いていくのよ。で、裂いたものを湯に入れて、少し置いたものをお母さんに花ごと飲ませてあげて。お湯はそろそろ届くはずだから」

「わかった!」

「あ、ちょっと待って!」すぐそこの戸口に頭から突っ込んでしまいそうな勢いのユウタを、ウメは咄嗟に呼び止めた。「裂いた花びらは他の人の器には入れないようにね。お母さんの器にだけ入れてあげるのよ」

 また元気に叫んで、少年は小屋に飛び込んだ。

「あいつ、ひとりでも大丈夫かな」

「大丈夫ですよ。他の村の方もいますし」

「それもそうか」

 村の中程に位置するという小屋に向かいだして間もなく、ユウタの父の方からまた話を振ってきた。

「あいつ、ここ数日ずっとりくれん村に通っていただろ。お姫様知ってるか」

 斜め後ろを歩きながら、はい、と返した。「何度か見かけました」

「母ちゃんが苦しでるからって言ってなあ。俺や村の大人たちが叱りつけてもあいつ、気が付いたら村を飛びだしてるんだよ。そしたら昨日、ついに坊主が戻って来なくて村中が大騒ぎさ」

「それで明け方まで捜していたんですか?」

「ああ」ユウタの父は困った風に笑った。「数少ない子供だからってことでもあったんだろうけど、村のみんな、懸命に山ん中を走り回ってくれたんだ。きっと坊主のやつ、山のどこかで怪我をして動けねえんだ、ってみんな思ってたから。お姫様が連れて来てくれて本当に助かったよ」

 するとそのとき、何かを思い出した風にパッと表情が変わって、安堵したように話していた声の調子を低めると、ユウタの父がウメに問いかけた。

「そういやお姫様は、何でこんな時間に、あんなところにいたんだ。りくれん村からはたいぶ一時でも足りないぐらい距離があるだろう。ユウタのやつ、もしかしてお姫様の家に押しかけてたのか」

 りくれん村の村長がユウタを陥れようとした部分は伏せ、ウメは事情を話した。ウメが病気を治せないと知ったユウタが、山の中で薬草を探すと言いだしたので、簡単に場所を教えた。しかしその夜、どうしても彼の身の安否が気になり、ウメが村をこっそり抜け出し、山の中を捜し回ったところ、木にもたれて眠るユウタを発見した――。

「そうか、そりゃあ本当に」ユウタの父は感極まった様子だった。「本当に、ありがとうな。もしあいつの身に何かあったら、おれあ母ちゃんに合わせる顔がなかったよ。本当にありがとう」

「い、いえ、そんな」堪えがたい高揚感が押し寄せて、ウメは狼狽えた。「私は別に」

「謙遜しなくたっていいさ。今度絶対にお礼するよ。まあ、お姫様にとっちゃ大した礼なんてできないかもしれねえけど。母ちゃんの命だって救ってくれて、お姫様には感謝してもし切れねえよ」

「そんな。お礼だなんて。私は本当に、その言葉だけで充分です。本当に――」

 こういうものを、お礼というのだなとウメはしみじみ感じた。久しいものだった。人にありがとうと言われ、心から喜色に染まることができたのは。

 ウメの方こそ礼を申したかったけれど、ユウタの父が妙なものを見る目になっていたので、喉の奥へと何とか詰め直した。

「あそこだ」遠くの方にそびえる山の峰を越えて、朝日が半分ほども望めるようになった頃、ユウタの父が顎で指した「あそこに、婆ちゃんが寝てるんだ。かれこれ二月はまともに動けてなくてな。お姫様の力でなんとかできねえかな」

壁板に穴なんてものはなく、屋根もしっかり茅葺きされ、埃っぽさこそ漂えど根っこの方はしっかりしていそうな風貌の小屋は、ちゃがら村の中でもとりわけ大きな格好をしている。

「怪我なら治せるはずなので」言いながら、ウメは少し不安になった。腰痛は怪我でありながら内面的なものだ。それを果たして、あの力がいつものように治癒してくれるのだろうか。「大丈夫だと思います」

「そんなら良かった」

 朝早くだから、眠る者を起こさぬよう気を遣っているのだろう、ユウタの父はそっと戸を開こうとして、そして、あ、と声を漏らした。

 どうしました、とウメが訊ねる間もなく、ユウタの父は戸を開き切り、先ほど湯を沸かしに行くと言って飛びだした男がおっかなびっくりしているところに、小さく頭を下げた。

「村にひとつしかない囲炉裏、ここにあるんだった。すっかり忘れてたよ」

 男の目の前には熾火があって、その上に吊るされた鍋の中でくつくつと湯が煮えようとしている。それが熱しきられ、つまり熱湯が出来上がって、男が慎重に外へと運びだそうとする際に、一言添えた。

「さっき婆ちゃん、火を熾すときに目覚ましちまったんだ。静かに頼むな」

 ユウタの父は恐る恐ると言った具合に頷いたあと、男を送りだしてから目顔でウメに言った。

――ちょっくら見てやってくれ。

失礼します、と内心で呟き、土間に草鞋を脱ぎ置いて、床に膝を着いて、死んだように眠る老婆の横に座した。老婆は囲炉裏からそう遠くないところで眠っていた。火の熱が微かに届いていたのだろう、うつ伏せになって眠る、真っ白な頭をした老婆を覆う布団が仄かに温まっている。それをそっとめくりあげると、麻で編まれた衣服にくるまれたやせ細った体が見えて、次いで腰が露わとなるまで引っ張ると、シワだらけで、ほとんど骨と皮しかなさそうな肢体が晒された。

しかし、やせ細った身体そのものが怪我なのではないかと勘ぐってしまうまでに外傷は見当たらず、心臓がきゅうっと収縮するような感覚がせり上がってきた。これで治せないなんてことになれば申し訳が立たない。安請け合いなんて、その場の調子でするものではなかっただろうか。

 身を固くしながらも腰の辺りに手をかざして、そこに意識を傾けた。すると、鼓動が三つほど鳴ったあと、ぼんやりとした光が手の周りを覆った。ウメは小さく嘆息した。よかった。治せるみたい。

 隣でユウタの父が、おお、と嬉しいぐらい素のままに感嘆していた。

「こりゃあ凄い。まるで妖術だ」

 いつもならば治療中に割り込む声の多くは遮られてしまうのに、このときだけは気遣ったみたいに鼓膜は反応して、ウメの中でわいわいと巻き起こっていた嬉々とした感情の塊が、一気に萎むと梅干しのようになった。初めて言われたのが不思議なほど、それはしっくりくる言葉だった。

 妖術。妖怪や化け物が扱う術。

私はやっぱり人間ではないのだろうか。だとすれば、やっぱり私は化け物なのだろうか。

 そのとき、無邪気な子供が何気なく口にするみたいに、頭の中でモノノ怪という言葉が囁かれ、ウメは何が何だかよく分からなくなってしまった。時おり迫る、自分が自分でなくなるような感覚。モノを思考する脳みそが底なし沼にはまったように粘ついて働きが鈍くなる、あの感覚。やめよう。考えるのは終わりだ。

 やがて光が収まると、どことなく寝苦しそうにしていた老婆の顔に安らぎが舞い戻った。

「終わった、みてえだな。何だか夢でも見てたみたいな時間だったなあ」

 光が消えて、小屋の中には外から紛れ込む朝の陽ざしがくっきり映るようになった。

 するとそのとき、老婆が一瞬だけ身じろぎ、そして目覚めた。

「あ、婆ちゃん、起きたか。どうだ、腰の具合は」

「んあ」

 ぼけているのか寝ぼけているのか判断の難い声だった。しゃがれている。横たえたまま細く瞼が開かれ、首がゆらり動くと、僅かに黄ばんだ目玉と目があって、ウメは思わず会釈した。

「誰だい」老婆がひび割れた声で言った。

「りくれん村のお姫様だよ」

 直後、老婆の目がカッ見開かれた。

「りくれん村? どうしてあんな村の人間がここにいる」

「ああ、そうか、婆ちゃんは元々りくれん村に住んでたんだっけ」

 ウメはつい、男の顔を見た。元々りくれん村に住んでいた? このお婆ちゃんが? ということは、こっちの村に移住してきたということ? なぜ? それにこの村の人たちはりくれん村を毛嫌いしている様子だった。このお婆ちゃんは、どうして受け入れられているのかしら。

 色々な疑念が飛び交ったが、老婆のしゃがれ声がそれ以上の言及を許さなかった。

「私が言ってるのはそんなことじゃない。大体連中だって不愉快だろう。ほら、さっさと出ておゆき。ここはあんな腐れ人間どもの類が来るような村じゃないんだ。穢すんじゃないよ」

「婆ちゃん、そんなこと言うなって。この人はなあ」

「いいから、さっさと出ておゆき」

 男は肩をすくめ、小屋から出るよう黙視でウメに指示した。

 小屋を出る直前、ウメはちらりと老婆の方を見た。老婆はすっかり瞑目していた。安らかだった顔には、また寝苦しそうな様相が貼りついていた。

 小屋をでてすぐに男は頭を下げた。

「悪いな、お姫様。婆ちゃんは三〇年くらい前にこの村にりくれん村から来たんだけどよ、そのとき嫌なことがあったらしくてな。そのことになるとすぐ機嫌を悪くしちまうんだ。けど、水舟とかソバ殻とかの知識は実は婆ちゃんがみんなに教えてくれてな、すごく助かるってんで、そのままこの村に住まわせることになったんだよ、確か。俺もまだ当時はガキだったけど、そのときのことは今でもよおく思いだせんだ」

 ウメの中で、このとき彼に対する疑惑が生じた。あの老婆は、そんなことで私を追い返したんじゃない。りくれん村の人間だからという理由が根本にあるのではない。けれど彼が真相を明かす気がないならば、問いただしたところで、それは川に石を投げ込む行為と相違ない。表面だけ荒れて、根っこのところは至って穏やかだ。

だからウメは話を合わせることにした。実際こちらの種にも、興味の穴は深くあけられていた。

「三〇年くらい前、ですか」

 随分と昔の話だ。三〇年となるとウメもまだ拾われていない。生まれてすらいない――と思う。

「何でも、りくれん村のやり方が気に入らなかったんだと。ならどうしてこんな辺ぴな村に越してきたんだって聞いたら、今度はこの山から離れたくないからとか言ってな。ほら、凶念を招く木ってのがあるだろう。あれの祟りが恐ろしくって、下手に離れられないんだとさ。凶念樹の祟りなんてあるはずがないのにさ」

 カラっと笑う男に、ウメは「そうですね」と端的に返した。



 もくもくと湯気立つ湯呑が計五つ。そこにウメとユウタの父の分が足され、七つの煙突ができあがった。その内のひとつを両手で握り、背を丸めたまますするユウタの母の顔色は、まだ黄赤色をしている。茶色い肌をした村人たちとはまた一味違った、こう、どことなく薄汚れた感じではなく、それこそウメが扱う「妖術」みたいな色のように思え、ウメは深く直視することができなかった。

「あなたが、お姫様ねえ」

 ユウタの母が、ふとした風に口を開いた。ウメが小屋に戻ってから五分ほどが経った頃だった。薬を呑み、気分が落ち着いてきたのかもしれない。

「本当にきれいだこと。なあに、そのお肌。まるで雪みたい」

「あ、母ちゃん、それ俺が言ったわ」と、父ちゃん。

「うるさいねえ、あんたは。いいのよ、私も言ったんだから。それにしても本当に、何だかお人形さんみたい。あら、でも顔に傷があるわ」

 言われて、そう言えばユウタを探すときに何度も顔に植物のツルをぶつけてしまったことを思いだした。頬に触れると、確かにちょっとした出っ張りのようなものが線状に浮かんでいる。

「何で男共はだあれも気が付かないかねえ。私の命の恩人だよ。早く手当てしてやんなきゃ」

 先ほど軽く言葉を交えた女性は、すでに小屋から身を引いていた。朝食でも作りに行っているらしいことは、ここへ戻って来たとき、他の村人がおしえてくれた。

そうか、もう朝食の時間なんだ。りくれん村で私はどうなっているのかしら。と、ウメは何の違和感もなくこれまで過ごしていたことに驚いた。村長が騒いでいるかもしれない。今朝から治療の約束があるのだとしたら、きっと血眼になって山中を駆けずり回るに違いない。

そう思うとちょっと面白がる自分と、ちょっと嫌な気になる自分とが心の中で喧嘩を始めた。

「いやあ、気になってはいたんだが、お姫様、怪我治せるんだろ。それで顔のをわざと残してるってことは、何か意味があるのかと思って触れなかったんだ」

「あら、そうなの。そんならごめんなさい。私、気が付かなくって」

「いえ、そんな。というか私、自分の怪我だけはどうしてか治せなくって」

「なに!」

少年の父が声を高めたので、母が顔をしかめた。

「あんたはもう、うるさいねえ、本当に。ここには怪我人と病人がいるんだよ。で、ほら、治せないって。ならユウタ、ちょっと冷や水汲んできてちょうだい」

 ユウタが小屋から飛びだすより先に、ウメは咄嗟に口を開いた。

「構わないですよ。こんなの放っておいてもすぐ治りますし」

「何言ってんの、女の子が。まだ男だって見付けちゃいないんだろう、お姫様なんて言うぐらいだし。そんなら、顔ぐらい大事にしなきゃ。それともあんたんとこの村じゃ、そう言う風に躾けられてるのかい」

「は、はい」

「なにい?」

「あ、えっと、やっぱり違うかも」

 バアヤは大抵の場合は怪我の手当てなんてしてくれなかった。ただそれは、いま思えば、膝小僧とか手のひらとか、そうした部位に限ってのことだったような気もするのだ。顔に擦り傷を負ったときには、塩水で洗ってくれたり、薬草をすりつぶしたものを塗りつけたりしてくれた。

 あれはひょっとしたら、そういうことだったのかもしれない。もしもバアヤが生きていたら、こんな私でも誰かと結ばれることを望んだのかしら。

「何だかはっきりしないけど、とりあえず冷やすぐらいのことはさせてくれよ。病気を治すための薬草を探してくれただけじゃなくて、ユウタまで連れて帰ってきてくれたんだろ。本当はこんなんじゃ私の気は済まないんだけどね」

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

「そうそう、甘えてりゃあいいんだよ。どうせ何かが減るわけでもないんだから」

 ウメはそっと顔をほころばせていた。安心する。どうしてだろう。こんな辺鄙な村で、初めて見る人ばかりに囲われて、それも年配の男性ばかりなのに、まるで嫌な気がしない。

「ありがとうございます」

 丁重に言うと、少年の母は、ふん、と満足げに鼻を鳴らして、再び顔をしかめ、苦し気な顔色で眠りについた。


       6


 りくれん村に着いたのは、太陽が頭上を通り過ぎるか過ぎないかという瀬戸際だった。

顔の傷を水で冷やし、その後発覚した足首の切り傷を、同じものを負っていたユウタと一緒になって水で洗い流したあと、今朝方採れたばかりのイモで拵えられた朝食をごちそうになって、それから、わりかしすぐに村を発ったはずなのだが、それでも到着は昼間を跨いでしまった。

 りくれん村の人たちは果たしてウメが消えていたことに気が付いているのだろうか。きっと気が付いているのだろう。だって、村長がいるのだから。

 嵐の日に木々がざわつくような想いを抱えながら三区画目にある家の前まで忍び足を運ぶと、村長がわざわざ表に出て腕を組んでいた。ずっとウメが帰るのを待っていたのだろうか。

「こら、どこへ行っておった」ウメの姿を見るや否や、立っていた目くじらがますます強調される。「今日は都の者が来ると昨日話しただろうに。……ん。なんだその顔の傷は。やはり性懲りもなく山に入っておったのか。こら、聞いとるのか」

 ウメはそれを無視して家に上がろうとした。眠かった。そういえば昨晩からずっとまともには眠っていないのだ。昼間には西の山をてっぺんまで登り、その日の晩には少年を探すため森の中を流れ歩き、その足で村まで戻って来た。体力はとうに限界を超えている。

「まあいい。もう一時もすれば客人が来る。それまでにしっかり準備せい」

「……バアヤは、厳しかったけど、やさしかったですよ」

「ん、何か言ったか」

「いえ、何でも。あと一時ですね。ちなみに相手方はどのような人で」

「まだ年端もいかない子供のようだ。だが、大事な客だ。丁重に扱え」

 子供、か。いくつだろうか。ウメの力による足首の治療を拒んだあの少年、ユウタぐらいの年頃だろうか。同じ子供なのに、今日りくれん村へ参られる子供に村長は、えらいご機嫌の様子だった。昨日追い返した少年の母には毒草を食わせるよう仕向けたくせに。

この差はやはり、金だ。金を恵んでくれるか否か。その違いだけだ。だが、思わず鼻を摘まんでしまうほどの悪臭がする肥溜めのように醜い理由の裏側を、ウメは何となく想像出来てしまった。金がある環境に一度浸ると、そこからはなかなか抜け出せない。豊かで快適で、幸せなのだ。金があると、ちゃがら村のような貧困を拭い去って、綺麗な茅葺の屋根の下、磨かれた板張りの床の上で、厚みのある布団を被って眠ることができる。その生活を知れば、もう元には戻れない。

 金があれば寄り添ってくる幸せは、他にも多々ある。先日都から戻った男性が背負っていた籠の中に、焼き菓子があった。あれだって多額の金が無ければ到底買うことなんて叶わない。つまり金が無ければ、あの甘美な舌触りは死ぬまで――いや、死んでも堪能することはできない。ウメはあの味を知っている。あの味を知らないことは、多分不幸なのだということも思ってしまっている。今日少年の村に足を踏み入れてみて、その気持ちはいや増した。

ああ、嫌だ。私の中にもりくれん村が棲んでいる。それは小人のように小さいけれど、でも、どれだけ拒絶しても、耳を塞ぐ手の隙間を通過し鼓膜を撫でる村長の悪態のように、着実に心へと染み込んでくるのだ。

だけど、もうひとつわかったことがある。囲炉裏はたくさんあると、人をバラバラにしてしまう。ウメには、それが哀しいことだと理解するだけの理性が残っている。まだまだ。たくさん。人との繋がりにヒビが入ることが、ウメは恐ろしいと思える。

 もしもウメが無理に金を受け取ることを拒んだとしたならば、りくれんの村人たちはなんと言うのだろう。やはり不服だろうか。先日フカシイモをご馳走してくれたおばさんは、どんな顔をするのだろう。ハチに刺されたみたいに頬を膨らませて怒るのだろうか。

気になったが、ウメにそんなことを言いだす勇気はとてもなかった。お金がないと、きっとみんな、私のことが嫌いになる。

 それからすぐに、ウメは仮眠に入ったのだけれど、どれほど時間が経ったのかわからない頃になって叩き起こしに来た村長は、酷く怒っていた。顔を真っ赤にして、西の山で採れる果実みたいな顔をしていた。そのまま死んでしまいそうな勢いだったので、ウメはさすがに焦り、急いで四区画目に向かった。

 気怠さの中、治療を施した相手は、少年よりも幼いとわかる女の子で、だけどノウサギみたいな顔をしていた。つまりちょびっと不細工だった。最後にはしっかりお礼を言われ、意外に思ったウメは目を軽く見開いたのだが、その脇で、村長とお客様とが金のやり取りをする声が聞こえて辟易とした。

 この日、ほかの仕事はなかった。家に戻るとすぐさま深い眠りについて、目を覚ますと何故か目の前に人影があった。

 すっかり夜になっている。月明かりが屋内をぼんやり照らしていたので、すぐにわかった。そして薄暗い視界の中に一つ、判然としない人の顔が浮かんでいた。それを目の当たりにしたとき、これが夢であろうとなかろうと、構わずウメは叫び散らした。

「ちょ、ちょっと。そんな叫ぶなよ。村長が目を覚ましちまう」

 浮かんでいた顔が、妙に人間みたいなことを言ったため、ウメは冷静になれた。よく見ると顔から下もちゃんとある。腕を床について、赤ん坊がはいはいするみたいな恰好でウメの顔を覗き込んでいた。

 どうして人が家の中にいるのだろう。と、そう思い戸の方を見てみると、いつもは立てかけてあるはずのつっかえ棒は、事も無げに壁に寄りかかっていた。けれども戸はしっかり閉ざされている。そうだ。今日は昼間っから眠ってしまったから、つっかえさせておくのを忘れてしまったのだ。

「悪いんだが、怪我を治してくれねえか。金はねえんだけんども、代わりにほれ、髪飾りをやるからよ。都のもんだ。お姫様にはぴったりだろう」

 寝起き早々、ウメは顔を歪めた。

 声を聞き、暗闇に慣れた目でその顔を見て、いつも村で畑作をしている男なのだということに気が付いた。どうやら昼間、カヤ場の様子を見ていたところ、斜面から誤って転倒し、腕に深い切り傷を負ってしまったらしい。暗がりの中ではあるものの、巻きつけてある麻布がはっきりと黒く染まっている。

ふと、ふしゅう、という音がして、何だろうと思ったら、男の呼吸音だった。それに伴い、男の汗臭さが鼻を突く。ウメは思わず身を後ろに引きながら立ちあがった。

「いま治しますから、ちょっと、待ってて」

 寝起きで頭がぼうっとしている上に、ウメにとって不快な事柄が次々に舞い込んできたため、ひとまず心を鎮めたかった。

「あ、ああ、早くしてくれよ。俺もう、痛くてかなわねえんだ」

 男の呼吸音がますます荒々しさを増した。痛いからというのではなく、興奮しているような響きを孕んでいた。

 それが余計にウメの胸中を荒らし回った。男に背を向けて深呼吸し、それから元の方に向き直ろうとしたとき、背後から熱くて生臭いモノがしがみついてきた。

「だ、駄目だ。俺ももう我慢ならねえよ。ああ、あんた、風呂入ってねえんだな」

 首筋の辺りに、微かに触れるものがあった。全身を蟲が這うように鳥肌が立って、さあっと血の気が引く気配と寒気の襲ってくるのとが同時に巻き起こった。

「や、や」

 腕が身体に巻き付いてくる。温もりが皮膚の上で躍るほど、ウメの体は冷えていった。四肢がピクリとも動かない。それを良いことに男の手のひらがウメの肉体の正面を捉え、やがて胸の辺りをまさぐるものが下の方にくだり――

「なんだ、これ」

 男の怪訝な声に、ウメはようやく我を取り戻した。男の腕は、服を下から捲りあげて、へその辺りに触れていたのだ。確かめるように何度も摘まんで、それをしつこく繰り返すとようやく、男は何かを確信した様子で手の力を緩めた。

 ウメは思い切り身をよじった。ちくりと痛みがして、もしかしたら男はまだそれを掴んでいたのかもしれないと思った。しかし、それでも呆気なく男の腕は解けた。そのまま転げるように、壁へ身を寄せてからそちらを見ると、男は狐に化かされたような表情でまじまじとウメのへその辺りを見つめていた。

 ウメは閃いた。咄嗟に、思ってもないことを並べる。

「も、もし、誰かに話したら、その細首、へし折って食ってやるわよ。か、身体は、そうね。中身くり抜いて、川で洗って、カカシにしてやる」

 自分でも滑稽だと感じるほど、貧弱な声色だった。――が、いまの男にはそれですらも生々しい現実のもののように聞こえてしまったのだろう。

「ひっ」

 短く悲鳴を上げると、肉付きは決して悪くない身を反転させ、そのまま戸を横に開き、夜の村に消えて行った。

 床の上に、男が持ってきたという髪飾りが足跡のように転がっている。開きっぱなしの戸から忍び寄る月明かりが茫洋と照らし、それが白っぽい花の形状をしていることがわかると、途端にあのうそ寒い感覚を思いだし、ウメは自らの身を抱きかかえた。膝を着き、額を床に押し付けるようにする。と、涼やかな夜風が舞い込んできて、身が怯えるように震えた。慌てて立ちあがって、覚束ない足取りのまま駆け寄って、戸を閉める。つっかえ棒を念入りに深くはめこんでから、しばらく部屋の隅でジッとしていた。

 まるで底のない海に沈んでいるような気がした。体が言うことを利かず、周りにあるのは暗闇ばかりなのだ。その中で無慈悲に輝く月があって、けれどもそれは決して手に届くことはない。独りぼっちだ。

 どうしてだろう。一瞬、頭がおかしくなってしまったのではないか、とウメは思った。村では今まで、自分はあまりに自然に生活していたから、そうしたことに意識が回らなかった。いや、実際には回っていたのだ。だからああして、戸にはつっかえ棒をする習慣が勝手に身に着いた。つっかえ棒の習慣はバアヤに教えてもらったものではない。バアヤの死後、ウメが自ら始めたものだった。無意識に、ずっと以前からウメは、村の者たちに対して強く警戒心を抱いていたのだろうか。これまではつっかえ棒があったから、ひょっとしたら運よく助かっていたのかもしれない。

 そこまで考えたときだった。床に転がったままの髪飾りの横に、月明かりに晒されていない暗がりがあって、その中に男が腕に巻いていた手拭が落ちていることに気が付いた。

 四つん這いのままそれに近付いてみると、手拭の赤黒い色をしている部分は確かに血生臭かった。

 自ら腕を切ったのでない限り、男は本当に、ここへは治療を受けに来たのだ。今日はたまたまつっかえ棒が取れていたため家に上がりこむことができたが、もしそれが叶わなければ、翌日、陽のある内に改めて足を運ぶ気だったのかもしれない。

ということはつまり、先ほどの行動は――事故? ウメから漂う何かに魅せられた男が、いくつかの偶然が重なり合って、その弾みに欲望の枷が外れて、そうしてあのような生臭い行動に繰り出た――。

 ウメの服に、男の血が付着していた。これは、獣の血だ。――私じゃないわ。人間という名の獣がこの村には棲息していて、普段は理性という鎖に縛られているけれど、ある種の切掛けがあると、鎖から解き放たれて、人間は獣になる。その獣の血が、いまウメにはついている。

 何故だかそのとき、ウメは凄惨なほど悲しくなった。理性という名の鎖から解放された獣を、ウメは追い払った。そんな私は、一体何者なのかしら。

獣が逃げる程の相手となると、それはどれだけの者なのかしら。もしもこの家が月のよく見える深い海の中だとして、そこで毎夜のように眠っている私は、さしずめ海に住まうという名高きサメなのかもしれない。でも、サメには毛が生えていない。けれど私には、毛がある。

 ウメはへその下の辺りをさすった。

 ほら、こんなに立派な白い毛が、生えている。生えている。誰も知らない。バアヤだってきっと知らない。私だけの秘密――。

 ウメは抱えた膝に顔をうずめた。へその下で、さっき男にむしり取られたところが、まるで泣くみたいにずくずくと疼いている。


       7


 バアヤが昔くれた髪飾りは、草でつくられていた。二つに分かれたような形をしたそれは、例えるならば身を丸くしている兎だった。見栄えの要となる葉は耳を、髪に差し込むための茎の編み込みは、さながら丸まった兎の身なりを体現している。草でつくられたものだから、髪につけたまま何度か森に遊びに出るとすぐダメにしてしまう。だからバアヤから作り方を教えてもらって、それをウメは繰り返し練習して自分でつくれるようになった。

りくれん村の東に広がるコナラ林で同じような大きさの葉を何枚か拾い集めてから、まだ陽が昇らない内に、ウメは西の山を目指した。

 朝日が昇っていないと言っても、すでに空は青白み始めている。昼間に比べればずっと薄暗いが、方向を確かめながら歩くことは容易かった。人が誰も見当たらない村を渡り歩いて、ウメはそこを出た。

静寂を突くみたいにして虫が鳴いている。多分、鈴虫だ。初冬に入るとたくさん湧くから、生前のバアヤはいつもうるさそうにしていた。

 斜面を下り、見慣れた川のところまで来ると、茂みの中にあの一輪の青い花が凛と咲いていた。つい先日見たときにはうら寂しそうに思えたが、いまは何故か格好良く感じた。私もいつかこうやって堂々と生きてみたいわ。

 ごうっ、という音は川の合流地点から溢れている。暗がりの中でもそこに無数の泡が湧いて、湧きすぎて、すっかり白くなっていることも見て取れる。ウメは川下の方に腰を下ろして、そこの水でへその下を洗った。あまり冷やし過ぎるとお腹が痛くなってしまうからほどほどにして、けれども男の生暖かい感触を忘れられるぐらい身体を清めた。すると、今度は寒くなってしまった。もう晩秋を過ぎた。夜明け前の最も気温が下がる頃に、熱していない水に身を晒すのはさすがに無謀だったかもしれない。けど、それでも洗わずにはいられなかった。風邪を引くことぐらいどうってことない。いまはただ、色々なことを忘れられればそれでいい。

 手頃な小岩を見つけ、その上に腰を下ろしたとき、昼間から夜中にかけて熟睡していたはずの体に、骨を抜かれたような倦怠感が降り注いだ。カケスがガーッと鳴いている。カケスは小鳥で、可愛らしい見た目のわりに鳴き声は獣じみている。同じ獣なのに、カケスは元気だ。ウメの中にあった覚悟が、少しだけ萎もうとしている。だが、洗っても落ちなかった男の血が付着している服を見て、そんな弱気は一切消えた。

 立ちあがって、家から持ちだした竹製の筒に水を溜めた。それから川を渡り、これも同じく持ちだした麻袋に、斜面を登りながら、木の実や食べられそうなキノコを詰め込んでゆく。

朝と昼の分は確保できただろうという頃になると、森の中には陽が差し込むようになり、活気も豊かになっていた。動物たちとも何度かすれ違った。リスやキツネやタヌキ、それから蛇も見掛けた。ヘビ以外の動物たちにどこか山菜などがよく摂れる場所はないかとたずねたところ「この森全部」という答えが来て、やっぱり動物はたくましいなとウメは思った。

腰を落ち着かせることができる場所も欲しかった。しかし、あれば理想的だと思える横穴のような場所となると、それは大型動物の巣穴である可能性が非常に高いため、やがて拠点としたのは川の畔だった。けれど、長居はできない。一時的な凌ぎには丁度いいが、寝床としてはいまいちだ。湿気が多いから地衣類も多いし、毒虫が葉の裏に潜んでいることも珍しくない。

ウメが探しているのは自分がこれから棲むための家代わりとなる場所だった。もう、りくれん村には戻らない。昨夜の一件で、それを心に決めた。自分を拾ってくれ、育ててくれた村だったから、できるだけ裏切るような真似はしたくなかったが、心身共に限界だった。そもそもここ最近は、その欲がウメの中で膨れ上がっていたから、ようはそれを実行したに過ぎない。過ぎないのだ。

気温が上がり始めたらしく、川の畔で休んでから今度は南の方に歩いてゆくと、段々と汗ばみ始めた。そうすると蒸れてくるから不快だった。頻りに服をばたつかせ、森の中に漂う涼やかな空気を取り入れる。

そうしながら道なき道を進んでいると、お腹が鳴った。空腹感は全然ないのだけれど、身体は正直だ。この辺りの立ち木は、まるで互いを敬遠しているように余裕ある間隔を置いて並んでいる。葉の隙間から光が零れて、時おりぱらつく黄色い葉が肌に触れるとひやりとした。適当に落ち葉を集め、ふかふかな居敷をもうけ、一本の木にもたれるように座ってから山菜の詰まった麻袋を開くと、中で小虫が蠢いているのが見えて、ひゃ、と声が漏れた。

――これ、食べられるかしら。

 これまで山菜は、すべて湯に通すなり水で洗うなりしていたから、摘みたてのものを胃に収めるには勇気がいった。以前森に入ったとき、ついつい動物を真似てつまみ食いしたらそれはもうお腹の周りがえらいことになったのだった。確か三日三晩は激痛に悶えて水もろくに飲めなかった。あれはきっと毒草を誤食してしまったからなのだろうが、けれどもそれっきり、生で山菜を食べることはなくなった。

虫のついていたものは全部どけて、葉の裏側まで隈なく観察して、匂いを嗅いでみて、ちょこっとかじってみて、すると苦くて恐くなって慌てて袋に収め直した。せめて川に立ち寄ったときに洗っておけばよかった。それですっかり安全というわけではないけれど、気休めぐらいにはなっただろう。

 木にもたれながら、ウメは天を仰いだ。無数の葉が空を覆い尽くし、その間隙をやっとこさ通り抜けた木漏れ日が、音もなく舞い降りる。光芒が見えて、少し感動した。ずっと小さい頃に初めて見た森の景色にとてもそっくりだった。バアヤに連れられて、今日みたいに山菜を集めながら山を彷徨ったのだ。あのときはずっと上ばかりを眺めていて、何度も木の根に足を引っかけては転んで膝を擦りむいて、その都度バアヤに塩水で傷口を洗われたものだ。痛いと泣いている幼子を抑えつける力に容赦はなかった。思いだしてウメは、くすり、と笑った。

 ちくり、と足首の辺りが痛んだ。昨日負った怪我の跡が残るそこを見下ろすと、小さな黒い虫が乗っかっていた。片手のひらで包み込めるほど小柄な体で、ウメの雪みたいに白い肌にかぶりついている。

 しまった。毒虫だろうか。それを優しく摘み、頭が取れてしまわないよう注意しながら引っぺがすと、噛まれた箇所に猛烈な痒みが突如として走った。

 腕を頻りに掻こうとしていたユウタの魂が憑いたように、いまウメは、そのときの彼の心情が嫌というほど理解できた。小さい頃にも何かにかぶれたはずだが、幼い頃はよくこんな痒みに堪えられたものだ。あるいは、バアヤが無理矢理そうさせたのか。でもいまは、ひとりだ。

 痒みのあるところを思い切り引っ叩き、痛みの間に一瞬生じた隙を突くように立ち上がって、ウメは腕を一生懸命つねりながら川を目指して走った。泣きそうになるのはつねっているからではない。痒いのに掻けない。ただそれだけなのに、一週間食事を抜かれるほどの苦しみが脳天から下半身にかけて絶え間なく貫いている。

 思いだした。さっきの虫はカイタイムシというのだ。毒虫だ。噛まれると大人でも堪えがたい痒みが傷口を中心に周囲へ広がり、掻痒すると痒みが激痛に変わるという厄介な毒虫だ。

そのときウメはドキリとした。先ほど患部を思い切りたたいてしまったが、あれが激痛に切り替わる切っ掛けにならないとも限らない。が、今のところはまだ痒みが続いている。確か効き目のある薬草がこの辺りに自生しているはずだから、それをさっさと見つけてしまおう。まずは冷やしてから。

立ち止まって掻きたい欲望を堪え、ウメはなんとか川岸に辿り着いた。草鞋を履いたまま水の中に足を二本とも突っ込む。まるでそこが源流部であるような冷たさが、その瞬間、爪先から足の付け根にかけて浸透した。晩冬も中盤に差し掛かると、村の溜め池には氷が張られるようになるが、その氷塊を丸々運び入れたように凍てついて感じる。それだけ足が熱を持っているということなのだろう。触れてみると、水の中でもしっかりとした体温が指を伝った。

 しばらくジッとしていると、冷たさに呑みこまれるようにして痒みの勢いが衰えだした。けれど、それでも充分に残るもどかしさを耐え忍び、水と空気とを行き来させながら足の容態を見て、堪え切れる一線が過ぎ去るのを待った。

そうしていると、こんなところで何をしているのだろうという思考の波にもまれ始めた。

あの男のせいだ。それに考え至るとすぐ、昨晩のことがふつふつと思いだされて総毛だった。

へその下に、白い毛がある。それを見て、男は逃げだしたのだ。獣の癖に、たった一匹の女から。

彼は何を思ったのだろう。

化け物? 妖怪? それとも素直に――動物人間?

ウメは幼い頃から不思議な力が使えるので、奇異な眼差しで見られることにはそれなりに慣れていた。そして、奇異な目で見る者がいる中にも、ある程度は普通に接する者がいたから、それがちょっとした救いだった。昨晩の男は、都ものの髪飾りを提示し、すぐさま交渉に臨んできたが、思えばあれは、ウメのことをよく知る者のひとりとして捉え、不思議な力に信頼を置いていたからこそ、生じた行動だったのだろう。だから余計にウメは、襲われたことが衝撃的だった。

道具は道具でも、そのような目で見られていることにずっと気が付かなかったウメが悪いのかもしれない。だけどそれは、ある程度、「慣れ」があったからこその油断でもあった。つまり、いくら金儲けの調度として扱われていても、自分は村人のひとりなのだという確信があった。

それを裏切られたことと、やはり自分は人ではない存在として見なされているのだという事実が発覚したことと、それら二つが折重なり合い、ウメの心は大雨に見舞われた川のように荒れ狂っている。それを声にして表すことこそしないが、内心穏やかではない。村を飛びだした後は、周りの人々がそれと認めるように、ウメは森の中で生きようと思っていた。人じゃない生き物は、みんな自然の中に暮らしている。

けれどもその気持ちは、決してにわか仕込みによるものではない。

ずっと以前から、ウメは、自分は人ではない何かなのだと密かに自己嫌悪していた。そして、村の者たちから利用される日々が続いた。その双方が揃っていたのだから、村を飛びだしたなら、きっと私は自然の中で暮らしてゆくことになるのだろうという想像は、必然的に頭を巡っていた。

そのはずが、いざ現実に象られると――このありさまだ。まともに山菜も呑み下せず、毒虫に刺されてちょっとした掻痒感にすら無様に悶えている。私は自然にすら受け入れてもらえないのかしら。いいえ、でも、まだ半日だって過ぎていないじゃない。――そんなことを思ってみても、痒いものは痒い。当然のように、痒みは脳髄にまで響き渡る。

結局のところ、人でもなければ動物でもない私が生きられる場所なんて――

そのとき不意に、熱いものが込み上げてきて、顔を冷水で何度も冷やした。いけない。悲観的になってはいけないの。けれども、冷やすほど、目元の熱は強まるようだった。水に濡れているからぼやけているのではない視界を手の甲で拭ったとき、景色の端っこで何かがカサリと動いた。

ハッとして頭をもたげると、川を挟んだ向こう側に、ユウタが呆気に取られた様子で立っていた。

「お姉ちゃん」

 川の流れる音にもまれながらも、声ははっきりそう呼んだ。ユウタは慌てた風に地面を蹴りだして、衣服をびしゃびしゃに濡らしながら川の中を横切り、ウメの元に寄ってきた。

「あなた、どうしてそこにいたの?」ウメは川に足を押し浸したまま彼を凝視した。

 ユウタがいま来た方角にはりくれん村がある。ちゃがら村とは川を挟んだ正反対の位置関係にあったはずだ。

「母ちゃんがしっかりお礼を渡してきなさいって。いま丁度向かうところだったんだ。そしたらお姉ちゃんが川に足突っ込んでるのが見えて」

 ならば都合が良かった。今頃りくれん村では、少なくともウメの行方を探る声が上がっているはずだから。ユウタがその渦中に飛び込んだところで混乱を招くだけだ。

「お姉ちゃん、どうして泣いているの? まさか俺みたいに毒草にやられたの? 痒いの?」

 ウメは咄嗟に目元を拭って、困ったように笑って見せた。

「え、ええ。毒草じゃなくて、毒虫に噛まれちゃって」

「虫? それって、平気なの?」

「この近くに薬草があるはずだから、それさえ見付けられれば……」

 別にユウタにゆかせるつもりなんて毛頭もなかったから、言い終えて少し悔いた。

「じゃあ、俺が探してくるよ」

「いいわよ。あなた、どんな薬草なのか知らないでしょう」

「でも、足冷やしてないとやばいんでしょ。俺、それが辛いってこと、知ってるもん」

 麻布の服を絞りながら抗うユウタの目が、ぴたりと、ウメの衣類のとある点に止まった。

「あれ、それって」寸刻ときを止められていたユウタの目線がぐいっと持ち上げられウメの顔を見た。「血? お姉ちゃん、怪我してるの?」

「ああ、ううん、違うの。これは、その、実は洗い物が追い付かなくってね。前に汚しちゃったものを引っ張りだしてきたのよ」

「ふうん」ユウタは珍しそうな様子でウメを見つめた。その小柄な体躯にまとう麻布はすっかり使い古されていて、ほつれや小さな穴が幾つも見受けられる。血の付着した服なんて比べ物にならないぐらいボロっちい。「お姫様なのに大変なんだ」

 邪気の無い言葉だった。ウメは視線を逸らすだけで、何も答えなかった。

「薬草ってどの辺にあるの? 俺、母ちゃんに渡されてたおにぎり、途中でお腹減ったから食べちゃって、だからその代わりに探してくるよ」

「食べちゃったの?」

「うん。ごめんなさい……」

 強い自責の念が、その声には含まれていた。

ちゃがら村では稲作をしている様子はなかった。りくれん村でも、地の利が悪く稲作は行っていない。その代え役として、畑作が、縦に長い村全体に亘るほどの規模でとり行われている。凶作の年もあるが、それでも村人たちが食に困ることはこれまでもほとんどなかった。まして近頃は、ウメの力による収益が並外れたものに推移する傾向が見られる。貧困に陥ることは当分ないだろう。それだけ恵まれたりくれん村にとってでさえも、米は思い切り高価だ。あのがめつい村長ですら、月に一度食べられればうるさい口も閉ざしてしまう。

 となると、ちゃがら村でお目にかかること自体、相当に珍しいはずだ。聞けば、米俵ひとつでおおよそ一年分のイモと同じだけの価値があるという。細々と過ごすのでやっとのちゃがら村に、それだけの品を購入できる蓄えがあるとは思えなかった。ウメに渡すこととなっていたそのおにぎりは、ユウタにとって稀に見る馳走だったに違いない。もしもウメが彼の立場だったなら同じく平らげてしまっていたことだろう。

「気にしないで。私はお姫様だからおにぎりなんて簡単に食べられるのよ」

「本当に?」

「ええ、本当よ。今朝だっておにぎり二つも食べちゃったんだから」

「へえ」ユウタの目がちょっと丸くなった。「いいなあ」

「けど、お母さんにばれたらきっと怒られるでしょう」

「うん、絶対。おにぎりなんて俺んとこじゃ普段、全然食べらんないから」

「そうよね。私だって怒るわ」

 実は少し羨ましかった。私のおにぎり。けどそれは、楽ちんに手に入れることのできたおにぎりでもあった。力がある限り、ウメはやろうと思えば何でも懐に収めることができる。

「ご、ごめんなさい……」少年が目を伏せて謝った。

「美味しかった?」

「うん! めっちゃくっちゃ。蛇よりも美味かった」

 薄暗い表情が一変して、ニコニコ笑顔になった。毎日のようにりくれん村で見てきたニカニカ笑顔じゃないのがウメには微笑ましかった。

「そう。なら代わりに、薬草探してきてくれるかしら」

 ウメが言うと、ユウタはまた少し申し訳なさげにしゅんと身を縮めた。水が足りず元気をなくした花みたいだ。

「任せてよ。俺、なんだって採ってくるよ」自分を叩き起こすみたいに、彼は言った。

「ふふ」

 ウメは微笑んで、望む薬草の特徴を伝えた。ただ、その薬草は非常に見分けるのが難しいので、ひょっとしたら見つけられないかもしれない。だからウメは、似たような薬草すべてを摘んでくるよう言伝し、自分の麻袋を少年に託した。

 中身を空かすため川岸にひっくり返すと、ウメが集めた山菜やキノコが乱雑に放りだされ、ユウタが嬉しげに声を高めた。ユウタという名の花を咲かす水とは、どうやら好奇心のようだった。

「わあ、これお姉ちゃんが集めたの? 食べられるの?」

「ちゃんと湯に通せばね。生は、ちょっと怪しいけど。ぜんぶ毒はないと思う」

 ユウタの目が輝いている。恐らく彼は、この近辺にはあまり足を踏み入れないのかもしれない。領土としては誰のものでもないが、ちゃがら村からは程よく距離がある。りくれん村から歩いた方がずっと近い。いま目の前に並んでいる山菜やキノコ類の中には、この辺りでしか採れないものもいくつか混じっているから、彼にはそれが馳走のように見えるのかもしれない。

「間違ってもつまみ食いはしないでね。虫が喰ってるものも、ひょっとしたら中にはあるかもしれないから」

 ユウタが薬草を探しに向かったあと、ウメはバアヤから教えてもらった髪飾りを作ってしまうべきかと悩んだ。麻袋の中にしまっていたのだが、今はもう収めておける器が無いので、放っておくとすぐに破れて使い物にならなくなってしまう。コナラの葉を集めることは、もはや立場上易々とはできないので、いまできる内に拵えてしまいたかった。

 ただひとつ困ったことがあった。葉を湯で煮なければ、髪飾りは上手にはつくることができないのだ。柔軟性が欲しい。葉を曲げてそこに茎を通してゆくので、固いままの葉を使うと変に破れて材料が甲斐なくなってしまう。

小さい頃、まだ作る手順を知らなかったウメは、バアヤの手の動きを真似てみると必ずうまく行かなくて、最後にはいつも、泣きそうになっているところに完成した髪飾りが横からひょいと顔をだすのだった。バアヤが作ってくれる髪飾りは、何故だかとても丈夫だった。あの頑健さは今でも真似できない。とは言え、材料が葉なので割り合いすぐボロボロになってしまうのは仕方のないことだったが、だからウメは一層大事に扱う癖が自然と身に着いた。

 ともかく湯がほしい。でなければコナラの葉を持ちだした意味がない。試しに川の水に浸してみたが、何の効き目もなかった。傍をドジョウが優雅に泳いでいく。なんて無防備なのかしら。そのまま手でひょいと捕まえてしまえそうだったが、何となしに手を伸ばすと、俊敏に身を翻し、水と一体になって川下の方へゆらゆら泳いで行ってしまった。

 手を川から抜くと、コナラの葉に付着した水がちらちらと瞬いていた。

ああ、この時間をどう埋めてゆこうか――そう思ったとき、そういえば私はこれまで何をして過ごしていたんだっけ、とウメは考えていた。思えば、これまでだって別して腰をもちあげ取り組むようなことなんて何もなかった。農作業に参加できなくなってからは、指示された通りに治療をして、時間が空けば山に出入りして動物たちと戯れていた。それだけだ。けど、こんな風に山の中にいて、それで、することがない、なんて思ったのは初めてのことだった。

心が慌てているのかもしれない。バアヤが昔、言っていたのだ。雨が降り、冬の季節とあって、ろくに行ずることもない退屈な日だった。

「退屈だなんて言うもんじゃないよ。そりゃあ落ち着きのない都の人間が口にする言葉だからねえ。私ら里のもんは、自然の中に生きてる。ゆったり構えて、することがなけりゃあすることがないまま自然に身を委ねてりゃあいいんだよ」

 その言葉は幼いウメには酷というものだった。ウメは野山で駆けずり回ることをいわゆる生きがいにしていたから、日がな一日ろくに動けないと心がもやもやしてイマイチ堪え性に欠けていた。

 けど、バアヤの言葉は、いまのウメに酷く痛感させるものを孕んでいた。

 いまのウメには落ち着きがない。心が急いている。どのように急いているのかと言うと、生き場所を求めて急いている。それを実感として得るには、バアヤからの指摘は充分過ぎる火種だった。

「生き場所、か」

 どうしたものだろう。ウメは口を半開きにして、頭を少し後ろに傾けて、焦点を正面の奥側に望める木々の集まりに据えた。そのままボーっとして、すると、そういえば痒みが消えていることに気が付き、しかし思いだしてしまうと、それはまた夏風邪をこじらせたみたいに湧き立ってきた。

 ノウサギが、そのとき、ピョン、とやって来た。川の向こう側だ。ちょびっと不細工な顔に二つあるくりくりした目を――その色が深い霧のようなものであることに気が付き、ひょっとしたら昨晩出会ったノウサギかもしれないと思ったことも相俟って――ウメがジッと見つめていると、相手方も火のお守りを任された幼児のように、頑として顔を微動だにせず見つめ返してきたので、ウメは少し照れ臭くなった。相手は動物なのに。

「あの、こんにちは」

 声をかけても、ノウサギは昨晩同様ピクリともしない。実際には、鼻はひくひく動いていた。川のせせらぎに声がかき消されてしまったのだろうか。目と耳と髭は真っ直ぐウメの顔を見据えて剥がれない。ひょっとして彼、――もしくは彼女――は、ウメという名が兎女と書けることを知っているのかもしれない、とウメは考えてみた。

 もう一度声をかけようとすると、瞬間、ノウサギの身体背筋が、ぴん、とまるで弦を弾いたみたいに張って、その直後ウメに背を向けると、軽快に跳ねてどこかに行ってしまった。

「お姉ちゃん、お待たせ」

 ユウタが戻って来たのだった。手に持つ麻袋がパンパンに膨れている。一体どれだけの量を詰め込んできたのだろう。

 ウメは半身をひねって少し上にあるユウタの顔を見上げた。

「ありがとう。けどね、私思ったんだけど、お湯がないから薬作れないのよね。ちょっと、借りてもいいかしら」

 ウメにはひとつ、汚い思惑のようなものもあって、しかしそれは藁にすがるような想いでもあって、だから微かに震えてしまう声を無理に抑圧する気配は、もしかしたら、まだあどけなさの残る少年にさえ悟られてしまったかもしれないと思った。


       8


 サンサン照りの太陽が地上を天高くから温めている。ちゃがら村の人たちはみな、手拭を頭から顎下にかけて巻きつけ、初冬の割には中々強い日射を避けながら畑作に勤しんでいたが、ウメの姿を目撃した途端、森の中でクマと遭遇した風に動きをピタリと止めて、それから物珍しいものを目にしたようにざわめき始めた。

 彼らは昨日、ウメと顔を合わせていない側の者たちだった。ユウタの父が表に出てくると、彼は慌てた様子でウメに詰めよって囁きかけた。

「お姫様、どうしんたんだ。あんまりみんなの目に止まるのは、ちょっと、よくねえんだけど」

 ユウタの父はウメの身を案じているのだった。ウメは――りくれん村は、どうやらちゃがら村との間に何か大きな隔たりを抱えているらしい。そのことと関係しているのだろう。

 彼の態度を見て、心に決めていたはずが、ウメ強く躊躇いを覚えてしまった。山の斜面を一気に駆けおりようとする直前の心境に似ていた。踏ん切りがつけきれず、時が経つほどいきり立った部分が沈んで代わりに臆する心が顔をだす。

「お姉ちゃん、お湯を借りたいんだって」父を仰いでユウタが言った。「お婆ちゃんの家行っても平気かな」

 そうだった。ウメはハッとした。そういえば彼には、そのように話を通していたのだった。思いだすと、しばらく落ち着いていた足の痒みがぶり返してきた。

「お湯だあ? そんぐらい構わねえけど、お湯ぐらいお姫様の村で用意できんじゃねえのか」

「たしかにー」父の言葉にユウタが首肯した。「お姉ちゃんの村に行った方が早かったんじゃん」

 ウメは顎を引き、唸った。困った。どうしよう。もう、打ち明けてしまおうか。けど、この村の、りくれん村への刺々しい態度を見る限り、とてもじゃないが認めてもらえるとは思えなかった。

 ――ちゃがら村に住まわせてもらいたいだなんて。

ただでさえ厚かましいお願いだ。まして、りくれん村でお姫様などと称されている小奇麗な小娘が切りだせば、間違いなく反感を買ってしまう。

 引け腰になるウメの気なんて知りもしないで、次第に、遠巻きに見守っていた村人たちも集まってきた。いまウメたちは村の真ん中辺りにいた。元々それほど広い村ではないし、よそ者、とりわけウメのような色白の若い娘が、このような僻地にあるとなれば、否が応でも目立ってしまう。

「な、何だかよくわかんねえけど」ユウタの父が慌ただしく口を開いた。「お湯ぐらい、貸してやる。ほら、坊主、案内してやれ」

 やけにわざとらしい大声で言いながら、ウメとユウタが通れるよう、十人足らずの村人が成している囲いを、ごめんよ、と言葉を添えながら分けていき、彼は道をつくった。村人の何人かが質問めいた声を飛ばしてきたが、それに対しても、ウメが頻りに足をもぞつかせていることに気が付いたユウタの父が、「お姫様、虫に刺されてんだよ」と機転の利いた声であしらい、ウメは何とか村人たちの包囲を抜け出ることができた。

 がやがやとどよめきが聞こえる。父がユウタに先ゆくよう促したので、少年はウメの手を引いて小走りに駆けだした。

「父ちゃん、何だか様子がおかしかったね」

少年がてててっと足を動かしながら言ったが、ウメは「え、ええ」と濁りのある返事しかできなかった。

「ところでこれって――」

どこへ向かっているの。

言葉にしかけて、ウメはハッとした。

 この村に、囲炉裏が置かれている小屋は一ヶ所しかない。先日訪れた、老婆が眠っていたあの小屋だ。老婆の邪悪なものを見るまなこがまざまざと思いだされ、ウメは息を呑んだ。

「え?」切られた言葉の先が聞きとれなかった、と勘違いした風に、ユウタが言った。「お姉ちゃん、なんて言ったの?」

「あ、あの」呂律を僅かに乱しつつ言った。「あのお婆ちゃん、元気になった?」

「ああ、お婆ちゃん。うん。お姉ちゃんのお蔭ですっかり良くなったみたい。今日からは赤ん坊の世話をすることになったんだ」

「赤ん坊? そうなの」

 数ヶ月ほど以前から、年の積み重なりが老婆の身を潰すかのように、彼女は汗水流す類の労働が困難となっていたのだそうだ。その兆しが見えだした矢先、腰に大きな怪我を負ってしまった。それをウメが治療したはずだが、だからと言って体力的な不安は拭えず、話し合いの結果、老婆は両親が昼間労働に出ている子供のお守りをすることになった。

 村の中央付近に佇む小屋の辺りに、村人の姿はまるで見えなかった。畑は村の西と南を少し進んだところに位置する。そのため、昼間最も人の気配が薄まるのは村の中央部分なのだそうだ。それだけの人々が、毎日で払っているのだ。それでやっとこそ食を紡いでいるんだと語るユタは、その細身を踏ん反りがえらせ、どこか誇らし気だった。

 ますます己の行動が安易だったと、ウメは先日も訪れた小屋を前にして後悔した。

 穴のひとつもない板壁と茅葺の屋根に包まれた小屋の中から、そのとき子供のはしゃぐような声が聞こえた。幼いものばかりではない。ユウタほどの年齢と思しき子供の声も混じっている。

ユウタは特に迷うこともなく戸を右に引き開いた。

 すると、それまで戸越しに聞こえていたざわめきがより強まった。かと思えば、瞬時に動揺の気配が満ちて、奇妙な沈黙が生じる。赤ん坊がいた。それを胡坐の上に抱いているのは、昨日、ウメが腰を治してやった老婆だった。それを取り巻くように子供が四人もいて、内ひとりは背中に赤ん坊を背負っている。あう、と赤ん坊が唸るように声を漏らした。

「あんたら、ちょっとばかし待ってなさい」老婆は膝の上の赤ん坊を子供のひとりに預けながらそう言って、ウメを見上げた。「あんたは確か、りくれん村の娘か」

「は、はい。こ、こんにちは……。あ、あの、あれからお加減はいかがですか」

 言葉のつっかえが取れない。喉にこぶでも出来てしまったように違和感が疼いている。

「ふん、余計なお世話だよ。見りゃあわかんだろう」

老婆は座布団の上で平然と胡坐をかいているので、つまりそれが返事ということだ。

「何しに来た。りくれん村の人間がこの村に」

 老婆の目が思いのほか刺々しくなくて、ウメは意外に感じた。てっきり、顔を合わせた途端、突き返されてしまうのではないかという予感が働いていたから。少なくとも先日見たときの老婆は、それだけの毒々しさを眼光の先に塗っていた。

「婆ちゃん、このお姉ちゃん、虫に噛まれちゃったんだ。だから薬作るのにお湯使いたいんだよ」

 ユウタが割って入ると、その言葉を聞いた老婆の目がギラリと光った。「虫ぃ?」その視線が、いまも落ち着かないでいるウメの足元に移された。

「ふうん、そうかい。あんたその噛み跡は、カイタイ虫かい。これまたずいぶん厄介なもんに刺されたもんだねえ」

 草鞋を脱いてもいないウメの足の甲にちらりと視線を落とした老婆は、その中で最も背高い、ユウタと同じぐらいの年齢の男の子に水を汲んでくるよう指示した。

「薬草はあるのかい」

「は、はい。これで、す」

 取りだしながら、もしもこれが間違っているものだとしたらどうしましょう、とウメは不安になった。もしそうなら、この老婆にこっぴどく叱られてしまいそうな、そんな予感がした。老婆はそういう剣幕をしていた。そういう剣幕を浮かべながら、老婆は部屋の真ん中にある囲炉裏に向けて、傍に置かれていた石を打ち始めた。

「ひ、火打石?」

 普通、火を熾すときには木の板に棒を真っ直ぐ立てたような形の道具を使うものだが、この村では石を道具として活かしているのだろうか。

「婆ちゃんは火熾しの達人なんだ。石でなんて他じゃ誰もつけらんないよ」老婆の手元を明るめられた眼差しで見つめながらユウタが言った。

「ふん。道具なんぞに頼ってばかりじゃ、いざ山で遭難したときに死んじまうわさ」

 よく見ると部屋の端の方に火熾し用の道具も据え付けられていた。なるほど。先日湯を沸かしてくれたあの男性はあれを用いたわけだ。この老婆だけが、石なんてものを手足のように弾かせるのだ。ほら、もう火種が点火された。

「ユウタ、あんたはその薬草を手でちぎって、水が来たらすぐ浸してやんな。あんたはこっちにこい。座りな。消毒しないとダメだからね」

 ユウタに指示したあと、老婆はウメのことを自分の方へと手招いた。そして、部屋の隅に一旦ゆくと、ガサゴソ麻袋の中身を漁って小さな麻袋を取り出した。そこへ、先ほど水を汲みに行った男の子が戻って来た。水がたぷんと波打っている金属製の器を、火を熾した囲炉裏の上に吊るされている金具に引っ掛ける。ユウタが薬草を投下する。

 すると老婆は、一様にやせ細った子供たちに見守られながら、麻袋の中から取り出した白い粉に、手ですくった水を少々垂らして、それらをしわくちゃな手の上で練り合わせる。

 ウメの中に過去の記憶が浮き上がって、胸の辺りがスッと冷えた。

「あ、あの、それってもしかして」

「見りゃわかんだろ。塩の塗り薬をつくってるのさ」

 やっぱり――ウメはユウタを見た。老婆の手の中でこれでもかと言わんばかりに擦られる塩水を丹念に眺めるその目に恐怖の色を滲ませ、少年はウメを見返した。ウメはまた老婆の方を向いた。

「それ、塗るんですか。傷口に?」

「当たり前だろう。消毒だよ。りくれん村にも同じものがあったろう」

 すりすり。すりすり。

 この老婆はりくれん村出身だ。彼女が暮らしていた頃から、塩水の塗り薬は存在していたのだ。

 ウメはギュッと手を握った。恐かった。過去の傷とも言える。だってこれ、痛いんだもの。

「まったく、ずいぶん弱虫なお姫様だねえ。いいね、暴れるんじゃないよ」

 まるでその気配を察したように老婆が、濃厚な塩水となったそれを、不意に足の傷に塗りつけてきた。

「きゃあ!」

 鋭く熱を持った痛みに、一瞬槍で刺された自分を想像した。

「黙りな! こんぐらいも我慢できないのかい。塗り終えたら、外の水で洗ってきな」

 薄っすらと涙目になっているウメに怒声を浴びせると、老婆は淡々と塩水を塗り続けた。シワだらけの指が傷口の上を這うたびに全身が震える程の苦痛に苛まれた。その様子を子供たちは恐ろしげな顔で見守っていて、だからウメは余計に泣くことが許されなかった。

「ほら、さっさとおゆき」

 老婆いわく「消毒」が終わると、罠から救われた兎のように、ウメは颯爽と小屋を飛び出した。

 それからすぐ、涙目になりながら水舟の水で塩を優しく洗い流し、また小屋に戻ると、そこには陶器の器に注がれた茶が用意されていた。

「お飲み」

「ありがとうございます」湯気立つ熱々の茶をすすると、とても苦かった。ウメは噎せた。

「あんたのは薬草入りだからね。ちょっと苦いかもしれんね。で、痒みは収まったかい」

 言われてみて、そういえば、とウメは思った。「はい! ありがとうございます」つい口元が綻んでいた。

「ふん」

 老婆は目を瞑っているのかいないのか、それがわからないほど目を細めて茶をすすり飲んだ。

 ウメも少しずつ茶を飲んでゆく。と、やがて器の底の方に、確かに薬草の切り刻まれたものがしっかり沈んでいた。それにぼんやり視線を落としていると、老婆が勝手にウメから器を奪い取り、また茶を注いでくれた。

「あの、お茶……いいんですか? 高価なものですよね」

「なんだ、知らないのかい。この村には茶畑があるんだ。一杯や二杯消えたところで何も変わらんよ。むしろ火熾しに使っている薪の方が貴重だね」

 ウメは申し訳なくなり、委縮した。

 それにしても茶畑があるとは思いもしなかった。茶と言えば都でしか手に入らないものだとばかりウメは思いこんでいたから、本当に驚きだった。村の北の方には凶念樹のある山がそびえ、南にはまた別の山脈が奥へと伸びている。南の方にも畑があるという話だったので、ひょっとしたら茶畑なのかもしれない。

 ただ、ならばどうして村はこんなにも貧しい様相をしているのだろう。茶が高価なものであることに変わりはないのだから、都に売りにゆけばそれなりの収益は得られるだろうに。

 子供たちが黙々と茶をすする音が静かに響く中、その疑念を汲み取ったように老婆は言った。

「茶なんてね、売れやしないんだよ。都の方じゃすでに他の村から仕入れた茶が出回っているからね。こんな僻地で採れた茶に大した価値は付かないのさ。そんな話しより、あんた」

 老婆は言いかけて、しかし淀んだ。

「子供たちや、ちょっくら外に出といておくれ。これから大事な話があるからね」

 ウメの鼓動が高鳴った。

 子供たちが次々に小屋を出てゆく。最後まで不思議そうに二人を見ていたユウタも、老婆に再び促され、お尻を槍で突かれたみたいに慌てて外へ飛びだした。やがて二人きりになったとき、老婆は獲物を捉えた猛禽類のような目のまま、緊張して身を縮めているウメの双眸を睨み付けた。

「あんた、どうしてこの村に来たんだい。お湯を借りたいなんて言っていたけどねぇ、そんなもの自分の村のものを使えば済む話じゃないかい。カイタイ虫なんてあっちの方でしか湧かないもんだしねえ。わざわざ一刻を二度ほども渡ってまで、何しにこんな僻地まで来たんだい」

 これはもう駄目だ。ウメは覚悟を固めた。座した膝の上で拳を握り、真面目な面持ちのまま開口した。

「私を、この村に住まわせていただけないでしょうか」

 老婆は目を丸く見開いた。どうやらウメの真意の細部までは読みとれていないらしかった。

 老婆はすると、段々落ち着きを取り戻すように瞼を戻し、どこか棘の感じる口調で言った。

「りくれん村の人間が、私らの村にどうしてそんなことを頼む。頼めると思っているんだい」

 その言い回しが気になった。まるでりくれん村を憎んでいるような静かな荒々しさを孕んでいた。元々老婆はりくれん村に住んでいたものの、そこでの暮らしに嫌気が刺し、ちゃがら村に移住してきたという話であったが、それとはまた異なる憎悪を感じた。

「あの、それってどういう意味ですか」

 老婆はまた目を見開いた。驚愕しているというよりかは、たったいま燃えていた怒気や憎悪の情念に油が注がれたような色をしている。

「あんた……いや」だが、それもすぐに消沈してしまう。年の功というやつだろうか。すぐに状況を呑み込み、そして気持ちを落ち着かせることに長けているのだ。「あんた、確かおかしな力が使えるんだったね。どうだい、最近のりくれん村は。聞いた話じゃ、都の人間を散々治療させられているらしいじゃないか」

 態度の変わり様を怪訝に思い、自分の身の上話をすることに躊躇いを抱いたが、どっしりと身構える老婆の佇まいに底知れない広さのようなものを感じ、驚くほど呆気なく、りくれん村を離れたいという想いを晒すことができた。

 すると老婆は、表情をひとつも変えずに、ウメの言葉を首から尾まで聞き入れ、最後には小さく頷くと、その半ばでピタリと動きを止めた。

「りくれん村がいま、この村に何をしようとしているのか。それをあんたは知らないんだね」

「え?」

「まあ、知らない方がいいことなんて、この世にはたくさんあるんだ。気にすることはないさね」

 軽く流されてしまう予感がして、ウメは堪らず開口した。

「教えてくれませんか。りくれん村の人たちがいま、何かしようとしているのですか」

「りくれん村全体が賛同しているとは思えんがね。けどやっぱり、あんたは知らない方がいい。それが身のためにもなる」

 なんとしでも聞きだしたかった。ちゃがら村の人々が「お姫様」を見る目と、きっと関係している。りくれん村はこの村の人たちに、一体なにをしようとしているの? 何をしたというの? けれども、老婆が急にまといだした飄々とした態度と、動揺が微塵も感じられない姿に、まるで川を相手取っているような心地がして、ウメは思わず口を噤んでしまった。

「この村に住みたいんだったね。じゃあまず、村の連中を集めるとしようかね」

 のそりと立ち上がる老婆にウメは驚いた。

「む、村の人たちみんなですか? 村長さんだけとかじゃなくて」

 口を動かしながら、おかしなことを言っているとウメは自分でも思った。

「当たり前だ。よそもんを娘とは言えひとり迎え入れるかどうか決めなきゃならないんだ。村人全員の賛同を得るのが筋ってもんだろう。それに私が村長だ。これからこの村で暮らすんなら、あんたに限っては村長であるこの私の意向に逆らうことは御法度だよ」

 ウメは口を半開きにして、戸を開いた老婆が「急ぎな」と怒鳴るそのときまで、蛇に睨まれたカエルのように動けずにいた。



 元はよそに住んでいた者が、越した先の村で村長の座についているなどと、誰が思うだろうか。30年以上前に移住してきたとは言っても、よそ者であったことに変わりはない。しかしそれなのにも関わらず、老婆の発言には、村人を大人しく従わせる威圧感と貫録と、それから自信がみなぎっていた。それもみんな、嫌々というのではなく、何だか祭りのために召集をかけられたみたいに、楽観的かつわくわくした賑わいを乗せどんどんと集まってきたものだから、ウメは老婆の傍らで気持ちを呑み込まれ立ちすくんでいた。

 すると、ユウタの母とその息子が駆けよってきた。

「昨日は本当にありがとうねえ。お蔭ですっかり良くなったよお。どうだった。今日、坊主がおにぎり持って行っただろう」

母親の足元でユウタがぎくりと体を強張らせている。

「おにぎりなんてお姫様にはちょっと飽きっぽいものだったかもしれんけどねぇ。この村じゃたいそうなご馳走なのよ。だからあれで勘弁して頂戴ね」

「い、いえ。とっても美味しかったですよ。ありがとうございます」

 何とか笑顔で誤魔化すと、人の良さそうなユウタの母親は、ユウタにも礼を言わせてから、村人たちが成している輪の中に戻っていった。

「みんな集まったかい」

「多分集まったよ、婆ちゃん。けど婆ちゃん、腰の方は大丈夫なのかよ」

 男性のひとりが言うと、村長であるらしい老婆は右手を掲げ、問題ないという形で答えた。

「えー、みんな、働いてもらってる途中に集まってもらって悪いね」

「そら別に構わねえけど、なんだよ、話って。というか、そのべっぴんさんってまさか」

 また別の男性が言った。ウメが覚えていないだけという可能性もあったが、面識はないはずだった。しかし、彼にはウメという人間について心当たりがあるらしく、おっかなびっくりした風に目を開いている。

「そうだ。先日私とユウタの母親を治してくれた、りくれん村のお姫様だ」村人たちの半数以上が激しくどよめくのを、両手を掲げることで制し、老婆は続けた。「何だかもてはやされているこのお姫様のことで、みんなに話がある。さっそくさせてもらうよ」

 老婆の平手打ちが、麻布に覆われているだけのウメの背中をバンッ、と捉えた。ウメは身体をビクッと跳ねさせ、おっとっと、と一歩前に踏みでた。村人は子供を含め、全部で三〇名ほどいる。それらが眼前を整然と並び塞いでいるので、若干前屈みになったまま見上げた光景は、小柄なウメにとってなかなか圧巻だった。

「この娘が、ちゃがら村に住みたいんだそうだ」

 瞬間、火山が爆発するみたいなざわめきが彼らの群れを駆け巡り、それはウメ自身にも伝染した。ギョッとして振り仰いだ老婆だけが、唯一泰然と言葉を紡ぐ。

「静かにしておくれ。大事なことだから、みんなで決めたい。ちなみに私は、この娘を迎え入れることに賛成する側としようかね」

 え、と老婆を凝らし見た。――どうして? ただただその疑念が渦を巻いてウメの心に巻きつく。

「それってつまり、ちゃがら村に移り住むってことかい」ユウタの母だった

 老婆は何も答えない。押し黙り、目を瞑り、僅かに顔を俯けている。

ハッとして、ウメが動いた。

「そ、そうです。私を、この村に」固唾が喉を下っていったので、ウメは緊張を振りほどくこともせず、強引に喉を絞った。「住まわせていただきたいんです」

 ウメにとっての空気が凍りつく中で、村の人々は互いに顔を見合わせていた。

「おいおい、いくらあんたが婆ちゃんやユウタの母ちゃん助けたからって、さすがにそいつは無遠慮ってもんじゃねえのか。大体どうしてりくれん村のもんがこんな村に住もうだなんて思ったんだ」

 その中で、さっそく反論の意を示す声が上がった。いやむしろ、賛同する声がはっきりと上がっている様子はまるで見られない。波紋もない。だからウメはたじろいだ。ここまで、受け入れてもらえないものなのだとは――想定はしていたのだ。だが、いざ現実を目の当たりにすると、水面に投げ込まれた餌へと一斉に荒々しく集る魚の群れから置いてけぼりにされた一匹となったような疎外感に見舞われた。

 ふと思い、ユウタやその母、父の方を見ると、彼らもまた悩ましげにウメのことを見つめるばかりで、決して両手を広げて受け止めようという気は見られない。それは何も、昨日今日知り合ったばかりだからさすがにちょっと――、というだけのことでもないのだろう。

隣の裕福な村で暮らすお姫様。何でもかんでも治してしまうことができる、摩訶不思議なお姫様。そもそもウメと彼らとでは、住む世界が異なる。それが最大の塀壁となって、双方が綯い合わされるのを許すまいとしているのだ。

「まあ、まず理由を聞かなきゃあ考える余地も生まれないだろう。どれ、娘や。なにかみなに申したいことはあるのかえ」

 ウメは息を詰めた。何か、違うような気がした。りくれん村での本来の姿を明かしたとして、そこから何が得られるだろう。それは同情かもしれないし、普段なんの苦労もせずに生きてこられたウメに対する妬みかもしれない。少なからず彼らの間には、お姫様と称されるウメへの湿っぽい感情が潜んでいるはずだから。

「何か、言いたいことはないのかい。まあ、言いたくないのであればそれでも構わないが、そうなるとあんたをこの村に置いておくわけにはいかないねえ」

 つ、とウメは息を漏らした。

「お姉ちゃん、りくれん村で嫌なことがあったんでしょう」そのとき、ユウタが一声を上げたので、その場にいたみながギョッとした風に彼を見た。「俺わかるよ。あの村、なんだか嫌いだもの。だって村長さんは俺に嘘吐いたんだ。お姉ちゃん、何かされたの?」

「そうなのかい、あんた」と、少年の母が応じた。「言ってごらんよ。ここの人らは何もあんたを責めてるんじゃないんだ。この前の一件で、あんたが悪い人じゃないってことは、みんなわかってくれたからさ。ただ、お姫様がどうしてこんな村に越してきたいのか、その理由が知りたいんだよ」

 ウメはハッとした。そして、堪えていたものが、山の内に蓄えられていた地下水が湧き水となってせり上がるみたいに、ゆっくり上り詰めてきて、それが口から溢れていた。

「あの村が、嫌になりました」その一言だけで、彼らの中に変化が生じる気配を感じた。「その子が言っていたみたいに、私にとって嫌なことがあったんです。それは別に昨日今日のことではなくて、バアヤが死んで以来、それがずっと続いてきました」

「そのバアヤがお亡くなりになったのはいつなんだい」と、ユウタの母。

「一五年ほど前です」

ざわっ、とどよめきが広がった。それを掻い潜ってユウタの母はまた言った。

「その嫌なことっていうのは、具体的にどんなことなのか言えるかい」

 ウメは打ち明けることにした。語らないまま彼らに受け入れてもらうことなどできるはずがない――それをひしひしと痛感していたし、何より、少年の母の目が綺麗で澄んでいたから。疑心も憐憫もない、老婆のそれとはまた異なる懐のやさしさを感じたから、ウメは告白する決心が固まった。

 ウメの話をひとまとめにすると、それは「金儲けに使われていた」というように表現することができた。お姫様というのは表面的なもので、その実、お姫様は「お姫様」という名を課せられた人形のような存在だった。

 それを聞いた途端、豪雨のあと、川の水が氾濫するように人々の感情があふれ出した。

「そりゃあひでえ話だ」「りくれん村っつうのは想像通りの村だな」「あんたよくこれまで頑張ってきたよ。大変だったろう」「そんな村出て当然だ。とっととここに越してきちまえ」「あんな村、焼けて消えちまえばいいんだ」

 その大半は四〇も過ぎた男だったが、ウメの心情を察した様子で次々に言葉を投げかける彼らの姿を見て、ウメの中できつく縺れていた糸の塊がひとつ緩んだ。そして、何故だかとても悲しくなった。

「静かにせい」老婆の一声が響いた。「私もこの娘もりくれん村の出だ。まあ、私はともかく、いくら嫌な思い出が詰まっているからと言っても、生まれ育った村を一方的に罵られるのはいい気分じゃないだろう」

 ウメは俯いた。「ごめんなさい」何故かその言葉が勝手に口から飛びだした。

 ウメの心情を察したらしい村人たちは、みなしゅんと落ち着くようになり、それを一瞥した老婆が彼らを一本に括ろうとするように声を発した。

「ではみんな、この娘と共に生活してゆくということに賛成の者は」 

 そのとき一瞬、僅かに躊躇う空気が、すくった水が手のひらから零れるように、彼らの隙間から顔を出した。が、徐々に徐々に上がる手の数が増えてゆき、その中にユウタの母や父の姿もあって、ウメと目が合うと、母の方がやわらかな笑みを見せてくれた。

「俺は納得いかねえぞ」男がひとり、これを待っていたとばかりに一歩踏み出した。「りくれん村が俺たちに何をしようとしているのか、それをわかってて言ってんだろうな、婆さん、それにみんなも」

 いくつもの上げられている手が怯む中で、老婆だけが泰然自若に振る舞う。

「もちろんだとも。だが、その一件とこの娘との間には何の関係もありゃあしないだろう」

「そんな理屈じゃあ、俺は納得できねえんだよ。みんなだって本心じゃそうだろ。あいつらはこの村の近くに毒草を――」

「黙らんか!」

 山全体に響き渡るほどの一声が、老婆のどこから放たれたのか、ともかくその口から大砲の如く飛びだした。

「人間の醜悪な性を、安易に晒すなといつも言っておるだろうに」

「す、すまねえ」

 静寂が、そのとき僅かに生じた。カケスが鳴いている。カケスは相変わらずやかましい鳴き方をしていた。

 ウメはいまのやり取りの中で、見てはいけないものを見てしまったような後悔を抱いた。藪を突いたら蛇ではなく人の生首が転げ出て来たようなおぞましさが湧き立った。

 村の人たちの顔に影が落ちていた。それを呑み込めずにできないでいるのは、顔色を窺う限り子供たちだけのようだった。

「け、けどよ、婆さん。俺はそれでもやっぱり、納得できねえんだ。あんな汚ねえ真似するような連中と暮らしてたんだぜ。それに大体なんで一五年もそんな扱い受けて平気だったんだ。これまでどうして、逃げ出そうとしなかったんだよ」

「それは……」ウメははっきり申し上げた。「私に、勇気が足らなかったんだと思います。あの村は、私が生まれ育った村で、嫌な想いを募らせた場でもあると同時に、バアヤとの思い出が多く彩られた、素敵な村でもありました。その場所から出て行く勇気が、私にはありませんでした」

「だ、だったら、どうしていきなりその勇気ってやつを持てたんだ。本当はあんた、りくれん村からの差し金じゃあないのか」

 ウメは男の顔を真っ直ぐ見返した。

「昨晩、村人のひとりに寝込みを襲われました」

「え?」男は酷く動揺している。「そりゃあ、婚いってことか」

「幸いそこまでは至りませんでしたが、でも」

 そのときの光景がまざまざと脳裏によみがえったため、ウメはそれ以上言葉を続けることができなくなった。ユウタが母に、「ヨバイってなに」と訊ね、ぽかっと頭を叩かれている。ウメが俯いていると、老婆の声が間を取り持つように差し込まれた。

「だそうだ。この娘も、決して生半可の想いでここへ来たわけではないことを、理解してやろうじゃないか」

 村人たちの顔から、段々と暗雲が引いていくようだった。ただ、それが収まる頃になってもまだ晴れ間は覗かない。霧の深まる一帯の奥でひとり佇む人影を窺い見るように、控えめな面持ちをしていた。

「それじゃあこの娘が村に住むことを、みんな許してくれるかい」

 そこで反論する者は誰一人としていなかった。反対に、気持ちよく頷く者も見当たらない。

 老婆は少し沈黙してから、おもむろに口を動かした。

「あんた、名前は」

「ウメです。兎に女と書いて、ウメと読みます」

「兎女か。いい名前じゃないか。肌の白いあんたにはピッタリの名前だよ。もっともこの辺りに雪兎はいないけどねえ。では、ウメ、あんたはあそこの小屋に住みな」

 老婆が指差したのは、おおよそ人が住んでいそうなものではなく、掘っ立て小屋よりもずっとしょぼくれた、まるで物置小屋のような建物だった。

「おい、婆さん。あんなところに人なんて住めねえだろう」

「なんだいあんた。さっきはあんだけ移住することに反発しておいて、今度は擁護するってのかい。まさかこの娘に情でも抱いたか」

「おい……」

「カッカッ。冗談だよ」

 血の気の遠ざかる感覚が撫でるように胸を過ぎ去った。老婆の冗談に茶目っ気なんてなく、昨晩の出来事が記憶に新しいウメにとっては当然のこと、男にとっても辛いものだったようで、彼はすっかりバツの悪い顔をしていた。

 老婆はウメを見て言った。

「けどねえ、そんなことぐらいでいちいち気を落としてちゃあこの先ちゃがら村じゃあ生きてゆけないよ。りくれん村ではある意味じゃ天国だったろうけどね。ここじゃお姫様だかなんだか知らないが、細々やってもらうしかないんだ」

 老婆はその後、ウメに掘っ立て小屋ならぬ物置小屋での生活を命じ、これからは畑作の手伝いをすることを前提に、囲炉裏の使用権を与えた。食事については、「酷のようだが」と前置きし、ウメに自分で山菜類を採るよう言った。この村には余裕がない。人をひとり養うことも、はっきりと苦しいのだと老婆は言った。

 ウメは感謝した。それでもなお、自分が村に住まうことを許してくれた彼らに。

 ひとまず今日のところは物置小屋の整理を済ませ、畑作のことは明日以降から臨むという形で話はついにまとまった。村人たちがみな、ここへ集ったときとは違った表情で散り散りに去ってゆくのを見届けたあと、老婆が言った。

「あとで私の家に来な。今晩ぐらい、馳走でもてなしてやる。風呂も入るといい。寝床も、私の家のものを使うといい。それでいくらか、昨晩の傷心を癒やしとくれ」

 老婆の気遣いが傷に沁み入るようで、ウメの目元はほんのり熱っぽくなった。


       9


 物置小屋の中は埃っぽかった。物置小屋と言っても、ここしばらくは人の出入りさえまともになかったらしく、めぼしい道具も置かれていない。折れた鍬と割れた陶器が、壁に取り付けられた一枚板の棚の上で寂しそうに横たえているばかりだった。

 ウメは手始めに埃を小屋の外へと追い払った。植物の蔓を綯えてつくり上げた厚めの糸で、掻き集めた木の枝を一本にくくると出来上がった簡易な箒の先には、まだ葉がたくさん残っていて、それが上手い具合に多くの埃を絡めとってくれた。箒を作るだけで一刻ほども時間を費やしてしまったが、その活躍によって、日没より先に物置小屋の整理は粗方済んだ。物が元々少なかったことも幸いした。最後に、集めてきた木の葉を小屋の真ん中にどばっと広げ、それを寝床に見立てると、久しく感じ得なかった感嘆に涙腺が緩んだ。

 それは悲しみでもあって、喜びでもあって、寂しさでもあった。

 けれども――どうしてしまったんだろう。こんなことで泣くだなんて、どこか具合が悪いのかしら。ウメはそれを幾度となく腕で拭うと、体が随分土まみれになっていることに気が付いた。村の中に二つある水舟の内、ひとつを借りることにした。

 ウメの今後の家となる元物置小屋は、村の最西端に位置している。二つある水舟はどちらとも最東部に設置されているため、自然に村の中を縦断することになった。

 その最中で、視線はいくらか集まった。けれども、遠慮をしているのか、それとも彼らの心の裏に隠れている警戒心が拭えないでいるのか、はたまた単に扱いに困っているだけなのか、声をかけてくる者はひとつもなかった。

 木の葉いち枚分ぐらいの心寂しさを胸の暗い部分にそっと沈めてから手を突っ込んだ水舟は、驚くほど冷やりとしていた。水舟に引かれている水は川のもので、その川は水舟のすぐ奥に見えるから、この水舟は川の水とほとんど相違ない。三段ある桶の内、一段目の水は朝露のように清らかだ。それに晒して手足や顔の土を落とすと、続いて身体の中にも清流を注ぎこんだ。生き返るみたいに、勝手に息が吹き返った。

 りくれん村にも水舟はあった。しかし、これほど冷たくとも綺麗ではなかった。木の葉や虫の死骸が桶の中で滞っていることは稀ではなく、けれどもそれは、コナラ林の中を抜けた川の水が、すぐ水舟に注ぎこまれていたから仕方のないことだった。対してこの村の水舟には、ひとつの池を通過したものが流れ込んできているようだった。その池には魚が棲んでいて、また池の出口の道が細くなっているので、緩やかになっている流れの中に漂う不純物を、魚たちが食べてくれているのだった。そして、水舟で汚れた水は、今度は別の池に流れ込んでいき、そこでもまた魚たちが水を清く澄んだものとしてくれる。自然の恵みが散らばっている。

 ウメはまた切ない気持ちになった。これからウメは、このちゃがら村に住む。見慣れていない軒並みと畑作があって、北にはりくれん村と同じようなコナラ林が広がっているけれど、南の方にゆけばそこには茶畑がにぎわっている。りくれん村とは似て非なる生活。多分、豊かになる。なってくれる。そうよね。大丈夫よね。――ウメは何度も自分に問いかけた。

「ウメ、小屋の整理は終わったのかい」

 目元を塗れた指で軽く払ってから、ウメは振り返った。村長だった。赤ん坊を背中と正面にひとりずつ背負っている。

「はい。とりあえず、寝れる準備までは済ませました」

「そうかい。麻布は、次のかきいれどきが過ぎたら買ってやる。それまでは我慢しとくれ」

「もちろんです。この村に住まわせていただけるだけでも、私にとっては充分です。本当にありがとうございます」

「ふん、そうかい。ならいいけどね」村長はくるりと踵を返し、首だけウメの方に回した。「貧相な暮らしにすがりつくほど、本当にあんたは逃げたかったのかねえ」

まるで村長が問いかけてきているように思い、ウメはつい、え、と聞き返していた。

「年寄りの独り言だよ。ただね、長年住んでいた村を飛びだすっていうのは簡単なことじゃない。あんたは昨晩の一件がその火種になったようだが、火なんてものは燃えるものがなくなれば消えちまうもんだ。慣れない内は、多分に苦しむだろうよ」

「村長さんも、そうだったのですか」

 村長がハッとした風に振り返ると、赤ん坊の据わっていない首がぐらりと揺れた。だが、すぐにそれは落ち着いた。

「どうだかね。もう三〇年近くも前のことだ。それよりウメ、私のことは村長じゃなく、みんなと同じように呼びな。よそ者がねえ、本当は村長だなんて座につくべきもんじゃないのさ。けど――」そのとき僅かに、老婆の言葉が途切れた。「村のみんながどうしてもというから、私は仕方なくここに腰を下ろしたんだ。私には婆さんがお似合いだよ」

「それでは」

ウメは少し考えてから、バアヤ、という言葉を思い付いたが、やっぱりやめておいた。そんな名で呼べば、それこそ老婆が言うように、ウメは必ず苦しむことになる。長年住み慣れた村の記憶は、思いのほか心の奥深くに根を張り巡らせているのだ。

「これからお世話になります、お婆ちゃん」結局、先日もそうしていた呼び方に収まった。

「ふん」

 老婆はそれから、ウメに着いてくるよう言った。ウメが連れてゆかれたのは村長の家だった。

 板張りの床に、葉を四枚だけ重ねたような厚みの座布団を敷いてもらい、村で採れた茶葉でいれた茶を出され、歓待に甘えさせてもらうこととしたウメの正面に、村長は自分の腰をいたわるようにゆっくり構えた。

 村長はそれからしばらくの間は黙って茶をすすっていた。ウメは彼女の様子を窺いながら同じように陶器に何度か口をつけたが、中身がなくなってからも、村長は閉口したまま、眠っているのではないかと不安になるほど目を細めて動かない。時々赤ん坊のことをあやすために瞼を持ち上げていたが、それだけだ。

「茶、いるかい」

 ウメが持つ器の中が空っぽになったことに気が付き、村長が陶で形どられた急須を手に持ちながら言った。まずは自分の分を注いで、それからウメの方にも急須を傾けてくれた。

「いくらあんたのためとは言え」いれながら、村長の口が動いた。「連中には悪いことをしたかもしれんねえ。今日飛び込むようにやって来たりくれん村の娘なんて、事情があるとは言え、この村に住まわせることになっちまった」

 まるで選択したことを今さら悔やむような物言いに、ウメは自分が棘の上に正座させられているような居た堪れなさを感じた。

「おっと。別にあんたを責めているわけじゃないんだ。私が責めているのは、私自身さね」

 ウメは頭をもたげた。

「この村の人たちは、それほどまでにりくれん村の人たちを嫌っているのですか」

「全員がそうというわけではない。ただね、あの村はここと似たような環境にあるはずなのに、どうしてか自然に恵まれている。そのくせ他村との繋がりをまるで取り持とうとはせず、排他的に独自の文化を築き上げてきた。そこが一番、この村の連中にとっては毒というかね。それにさ」

 近頃は、ひとりの「お姫様」の出現と共に、都の人間を出入りさせるようになった。元より暖かかった懐に、彼らはさらなる炭を取り入れたのだ。ますます他村との寒暖差は広がるようになった。

「それがまた、妬みの種になってるんだ。そりゃそうだ。たった山ひとつ分離れているだけの村が、どうしてそこまで恵まれているのか。自分たちにはどうして恵みがおりてこないのか、そこにみんな納得がいかないんだ」

 しかし、それは逆恨みにも似た感情だ。見方によっては利己的なものだ。それでもこの村の人たちはみんな人間で、心を胸の内に抱えており、だから、意図せぬまま芽生えてしまう感情だってきっとある。

「自分勝手な想いだとは思うがね、それでもどうしても感じちまうことはあるのさ。手のひらから零れる程度には有る恵みの中に暮らしていて、すぐ傍に貧しい想いをしている者がいるのに、一切その雫を分け与えようとはしない。分けて与えてくれない。環境が一つ違うだけでこんなにも差が生じる。そこに嫉妬しちまうのさ。

まあ私は、それが正解だとは思うがね。でなきゃ、苦労なく恵みを手にしたこの村の連中はきっと怠惰な者になっちまう。そうはなってほしくない。ここじゃあみんな家族みたいなもんだ。家族に不幸にはなってほしくないだろう」

 ふと、ウメはりくれん村の人たちのことを思いだした。ウメの力で収益が膨れるようになってからの彼らは、畑作や山の手入れなどに対する姿勢は変わらずとも、手作りで賄えるような、例えば畑作道具や衣類については、すべて金によって拵えるようになった。自分たちの手を煩わせようという態度が、めっきりなくなった。そういうことを怠惰だというのであれば、ウメは老婆と同様、この村の人たちに不用意な恵みを授けるべきではないと思った。

「けど、連中はそう簡単に納得できないみたいでね。自分たちに手を差し伸べてくれない上の立場の人間に、多少なりとも憎しみめいたものを抱いてるんだよ」

「それで私も、妬まれているというのですか。けど私は」

「ああ、わかってるさ。お前は多分、りくれん村の人間とは違った感性を持っているんだろう。だから村を飛び出したんだ。村のやり方にうんざりして。けどねえ、あの男も言ってただろう。ほら、唯一お前に噛みついてきたあの男だ。あいつが言うように、人の感情は理屈ばかりで働くもんじゃない。頭では理解していても、あのりくれん村に住んでいた、というだけで無意識に動く感情もあるんだよ。恵まれた環境で生きてきた人間が、貧しい村の生活に馴染めるはずがない、とね」

 だからと言って、村人がみんなウメのことを厭わしく思っているのではないと彼女は言った。しかしそれでも、すっかり受け入れてもらうには、多少の時間がかかるかもしれないとも言った。

「ただね」老婆の表情にそのとき一筋の影が落ちた。「連中がお前に警戒しているのは、何もそれだけが理由じゃないんだよ。さっきあの男がつい口を滑らせていたね」

あいつらはこの村の近くに毒草を――

 ウメはハッとした。そして、心の真ん中に冷え冷えとした風が吹き込むような寒気を体表に覚えた。

 それは、先日ちゃがら村を訪れたとき――いや、ユウタの父たちと森の中で遭遇したときから感じていた、りくれん村に向けられた毒々しいまでの態度に結びつく、得体の知れない言葉だ。

「聞きたいかい」

 村長の細い目がウメの怯える瞳をジッと見据えている。

「はい」頭が熱くなるほどの緊張に声が震える。「私は知りたいです。ちゃんと。あの村の人たちが、あなた方に何をしたのか」

「そうかい」悲しげに、老婆は小さく頷き、続けた。「これはひと月ほど前のことだね。りくれん村の人間、ありゃあ多分村長か。そいつが、ここから少し離れた山の斜面の辺りをうろうろしてたんだよ」

 村長はその手に小袋を持っていたのだという。ところが、ちゃがら村の者が声をかけると、村長はそのまま黙って立ち去ってしまった。ところが、それから二週ほどが経つと、緑色が鮮やかな山菜がその辺り一帯に芽生えたのだそうだ。ちゃがら村の人たちはそのとき、りくれん村がついに自分たちに手を差し伸べてくれたのではないかと歓喜したという。

「一枚一枚は薄っぺらかったがね。あれは確かにナガブナだった。あんたも知ってるだろう。量はともかく、食べられるもんが増えたことにみんなもろ手をあげて喜んだのさ。それなのに、それからすぐ、ひとりの女が毒に当てられた。ユウタの母親だよ。ナガブナに紛れてフタゴグサが混じっていたのさ」

 フタゴグサには毒がある。死に至るようなことはないが、数日間は嘔吐や熱に苛まれるので、まともに見動きが取れなくなる毒草だ。

「ユウタの母親はその日、食事の当番でね。作りながら味見をしてたんだよ、この小屋で。そのすぐ脇では私が眠ってたんだが、ふと目を覚ますと、彼女は丁度味見を終えたところだった」

 そのとき老婆が、彼女の傍にある器に盛られていた葉の中に、白い斑点が浮かぶものを捉えた。フタゴグサだ。老婆は咄嗟に呼び止めたが、彼女はすでにそれを食したあとだった。

 不幸中の幸いだったのが、その日はたまたま、いまウメたちがいる小屋に村人みんなを集め、食事をしようという話になっていたことだった。

「もしもいつもみたいに別々のところで飯なんて食ってたら知らせが追い付かなくて、ちゃがら村の全員が毒に侵されていたとも知れん。フタゴグサは湯に通すと白い斑点が消えて見分けがつかなくなるからね。大人はまだいいが、中には赤ん坊やユウタのような子供もいる。いくらフタゴグサの毒が死ぬようなもんじゃないって言ったって、そりゃ大人で考えたときの話だ。あいつらが口にしてたら――そう思うとゾッとするよ」

 村長の判断で、子供らにその事情を話すことはよそうという決断に至ったらしい。ユウタは、母が苦しむ姿に居ても立っても居られずりくれん村の「お姫様」にすがろうとしたのだ。

「あんたんとこの村長が毒草の種を撒いたってみんな言うんだよ」

 ウメは全身から血液が根こそぎ吸い取られたように青ざめていた。恐らく、村長の仕業なのだろうと思っていた。だって村長は、少年に毒草を持ち帰らせようとさえしていたから。理由はわからないけど、多分、村長がナガブナとフタゴグサの種を撒いたんだ。

「その様子じゃ、やはりやつの仕業かい」

 首を縦にも横にも振ることができない。どちらだとも、言い切ることができないのだ。

「何が目的かはわからないが。まあ、そういうわけだ。そんなことがあったから、村の連中はなおのこと、りくれん村への憎しみを強めちまったんだ」

「どうして」ウメは呟くように訴えかけていた。「どうして私のことを、お婆ちゃんは受け入れようとしてくれたの。どうしてそんなことがあって、私をこの村に、住まわせようだなんて」

 いくらウメが直接関わっていないとは言っても、りくれん村の村長の極まった悪事を目の当たりにしていながら、その村の娘を自分の村へ招き入れるなどという真似がどうしてできるのだろう。

「そりゃあ、あんたが『お姫様』だからだよ。昨日あんたが来たときに、私は酷いことを言っちまったと思ったが、その通りだった」村長は遠い過去をさぐるように中空を見つめた。「三〇年前私がりくれん村を飛び出したのは、あの村に嫌な気を感じたからだ。あの村は多分、ちょっとしたことで崩れる。なんていうか、歪んだものが人と人との間に見えて、そう直感したんだ。それに排他的な生き方がなかなか馴染まなくてね。けど、そんな村で、いまお姫様なんてはやし立てられている人間が連中と同じ風な性をしているとは思えなかった。だからあんたを村に招いたのさ」

 村長が口を閉ざしたときウメは、胸の内で疑念が揺れ動くのを感じて、思わず首を傾けた。そんな理由で私を招き入れたなんて、なんだかおかしいわ。だって、あまりに曖昧なんだもの。私の性がもしも彼らの方に寄っていたとしたら――お婆ちゃんはどうするつもりだったの?

 ちょっとわざとらしく視線をぶつけていると、老婆の首が少しだけ下に垂れた。

「さすがに誤魔化されんか」

 わざとわかりやすい嘘を吐いているような気がした。ウメはやや口を尖らせて言った。

「誤魔化さないでください。私だってこのままじゃ、受け入れてもらえたことを素直に喜べません」

「ふん。何を言う。自分がよいと感じたことならば素直に受け入れ喜べ。そうすれば相手の心だって自然と満たされてゆく」

「だって、もしもこの村の人たちが無理して私の移住を認めているんだとしたら――」

そんなの、喜べない。

「ふん」老婆は鼻から大きく息を吹いた。鼻先についた羽虫を飛ばすような軽快な勢いだった。「安心せい。連中は少なくとも、無理はしとらん。ただ、いまはまだお前の扱いに困っているだけだ。じきに慣れるだろう」

「そう、ですか」

「そうだとも」

「それで、お婆ちゃんが私を受け入れてくれた理由は何なんですか」

 村長の動きがピタリと止まった。

「お前、実はなかなか粘っこいやつだのう。それもそうか。だから村なんぞ飛びだしたんだ」村長はカッカッ、と笑ってから、久しく茶をすすった。「聞くか聞くまいか、迷っておったんだ。だから、なかなか言葉にはできんかった」

 ウメは首をかしいだ。村長が茶を飲むよう促したので口に含むと、いくらかぬるくなっており美味しいとは思えなくなっていた。

「聞くが、ウメや」

村長の細まっていた目が、次の瞬間グイッと開かれて、ウメはつい固唾を呑んだ。

「あんた本当は、どこの村の娘だい?」

 ウメはその瞬間、時が止まったように固まった。招かれた恵み豊かな花畑が、気が付くと、鮮烈な色彩で獲物を誘う毒花の畑にすり替わっていたような衝撃だった。

「育ちはりくれん村だろう。けど、生まれは違うはずだ。私はあんたを知っている」

 それがあんたを受け入れた理由さ、と村長は言い切った。そして、黙り呆けたままでいるウメに向け言葉をまた紡いだ。

「まあ、あんたは私を知らないだろうけどね。でも、見間違いじゃないはずなんだよ、その麗しいまでの顔立ちはさ。忘れたくても、年を重ねているからこそ忘れられない事実もあるんだよ」

 どういう経緯があってその問いに辿り着いたのかは定かでない。しかし、ウメが抱える秘密の核心を突くものであることは明白だった。

ウメは拾われ子だ。本当の両親の顔を知らない。凶念樹の足元に倒れているところをりくれん村の人に拾われ、そしてバアヤに育てられた。

 あまりに突拍子なことでウメが言葉を詰まらせていると、痺れを切らした村長がそのまま続けた。

「あんたは多分、この村で生まれたはずだ」

「な……」

「あったんだよ。確か私がこの村に移住して一〇年ばかりが過ぎた頃にね、ひとりの娘が山ん中で行方知れずになったんだ。凶念の樹が立つ山がちゃがら村の北にあるだろう。あそこだよ。あそこに迷い込んで、ひとり娘が帰らなくなってしまった」

 ウメの鼓動が水面を尾で叩く魚みたいに跳ねた。

「妙だったのは、その娘はすっかり大人で、道に迷うような人間じゃなかったことだ。怪我をして動けなくなっているんじゃないかという声も上がったと思うんだが……当時は――と言っても、いまも大して変わらんが――、凶念の樹に対する恐れってのが、村全体に強く蔓延っていたんだよ。それが弊害となって、その娘は結局発見されないまま、記憶の闇に葬り去られちまった」

 娘の家族はその後、都に移住した。自分の娘を見捨てた村で暮らすことに堪えられなくなったんだ――と、老婆が言った。

「その方と私が、そっくりだというのですか」

 ウメが恐る恐る訪ねる声は微かに震えていた。

「そっくりなんてものじゃない。その髪、肌、顔立ち、まるであの娘そのものを描いたような風貌だよ。村の連中は、さすがに忘れちまってるみたいだがねえ」

 もう二〇年も昔の話だ。中には子供だった者もいる――老婆はそう加えて、茶をすすった。「ほれ、あんたも飲みな」

 村長が茶を注ぎ直した。言われるがまま、ウメは湯気立つそれをすすった。熱々の茶の中に強い苦みが含まれており、口の中が洗い流されるようだった。それが熱と共に体中を巡って、心のざわめきが少し拭われた。

「私は、拾われたそうです。私自身、当時はまだ幼かったので、しかとは記憶していないのですが、りくれん村の人に拾われたのだそうです。……凶念樹の足元で」

「そうかい」村長はそう言うと、また茶をすすった。「何年前だい」

「二〇年ほど前だと思います」

「そうかい、そうかい」今度は繰り返して、まるで何かを丹念にこねるように口をもごもご動かすと、それから茶をすすり、束の間たってから言った。「よく、帰って来たねえ」

 本心からそう告げているわけではなさそうだった。当然と言えば当然だ。二〇年前、ウメは赤子だった。その娘は、娘と呼ばれるだけの風貌に育っていたのだから、同一人物であるはずがない。とは言え、まったくの無関係だとも思えず、だからウメは狼狽えてばかりで何も答えられなかった。

「あんたのあの不思議な力は、どうしたもんかね。私の腰痛まですっかり治しちまって」

「それは、私にもさっぱり」

「まあ、そんな理由なんていうのはわからなくても困りやしないがね。問題なのはあんたの方だ」

 ウメは眉根を潜めた。

「あの力は果たして、あんたの身体に悪意ある歯牙を剥いていないのかと思ってね」

 人知を超えた力だ、治癒のそれというのは。怪我ならばすべてを治してみせてしまう。それがもたらす副作用について、しかしウメは心辺りがなくて唸った。

「おかしなことがないのなら、いいんだがね」

 そのとき、ウメは思わずへその下の毛のことを打ち明けそうになった。だが、これだけは絶対に明かしてはいけないと本能が吼える。これはウメが、人ではないことを証明する確固たる証だ。それを目にしたとき、その者はウメのことを、果たして人として受け入れてくれるのだろうか。いや、無理だろう。無理に決まっている。だからウメは隠した。震えそうな身体も抑圧して、答えた。

「そうですね。今のところは何も感じないです」

 ふん、と短く言うと、老婆は腰をもちあげた。

「この辺りで山菜が採れる場所を教えてやるから着いてきな」

 ウメは下腹部を抑えながら立ちあがった。何だかそこに抱えているものが毒虫のような気がしておぞましい気持ちになった。隙を見て毒針を刺し込み、ウメを死に追いやるのだ。いつ刺されるとも知れない毒虫と、いまウメは共に生きている。


       10


 結局のところ、私は何者なのだろう。その晩ウメは、村の中央付近に構えられた老婆の家の床板に寝そべりながら、眠る素振りも示すことなくただただ暗闇の奥に張り付く天井の影を見つめていた。

 老婆の家には木の棒が三つ埋め込まれただけの小窓がある。しかし、生憎ウメが元いた家とは違い、月の姿は見えない。茫洋と淡白く照らされている夜空の一部が切り取られている。

 ウメは凶念樹の足元で拾われた。そして、それとほぼ同時期に、ちゃがら村からひとりの娘が行方をくらませた。老婆いわく、ウメとその娘はよく似ている。瓜二つ。生き写しのようだ、と。

 だが、同一人物ではない、はず。何故だかウメは、そこに確信が持てなかった。どうしてかと問われれば、それは治癒能力とへその下の白い毛があるから。これらはどちらとも人の常識を大きく外れている。常識に当てはまった感覚のままでは、とてもその真相に辿り着けるとは思えないのだった。

 解けないからと言って、何か問題があるわけではないのだが。

ウメはただ、りくれん村のことを忘れ、人として生きてゆければそれでいい。多少治癒の力を求められることはもちろんあるのだろうけど、対等に扱ってもらえさえすれば、それだけでウメは満足だった。

 どうにも寝付けないので、薄い布団をめくって小屋を出ようとした。

「山に行くのかい」眠っていると思っていた老婆が、小屋が広いせいで妙に離れた位置に敷かれている敷布団の上で仰向けになったまま言った。「夜の山は危険だ。あんまり遠くに行くんじゃないよ」

 何だかバアヤを見ているみたいだ。ウメは暗がりの中、そっと口元を緩ませた。

「はい、ありがとうございます」

 小屋を出てすぐ左に折れ、数歩と歩んで小屋の端まで来ると、また左に折れた。つまり、村の北方へと進んだ。北には凶念樹の立つ山がある。これまで散々そこには入り浸っていたが、ちゃがら村の近傍にはほぼ足を運んだことがなかったので、単純に興味が向いた。初めての道のりだ。それに、何よりいまは記憶にありそうで無い森の中に身を置いておきたかった。目には見えない。けど、ひとつ想像を働かせてみればすぐ目の前に懐かしさが込み上げてくる――そうした微妙な距離にありたかった。

 けれども夜の山はさっぱり視界が開けない。村にいる内は月明かりがなんとか視界を照らしてくれるものの、ひとたび木々の中に分けいってしまえばそこはまったくの異界だった。

 一瞬悩んだが、ウメはそれでも山に足を踏み入れた。そこはコナラ林で、コナラの木はこの時期大量の葉を落とすため、木の傘が薄くなって、秋に比べると月の光はずっと忍び込みやすい。その中でもとりわけ光の多い道をより抜き、やがて上向きの斜面が途切れたところで足を止めた。

 元々、斜面が途切れたら足を休めようと思っていた。そうすれば斜面を下るだけで、大体村の近くに戻ることができる。大きくは方向を見失わずに済むと考え、斜面の終点を逃さぬよう意識を傾けていたのだが、いざそこまで登ると、目の前で、光るものが、点々とその奥の方まで続いていて、だからウメは足を止めたのだった。

 なんだろう、これ。

そう思い近づくと、それはツキヨタケだった。暗がりの中で光る不思議なキノコだ。けれどウメは、昼間この辺りにツキヨタケが生えていたかしら、と疑問に思った。その一方で、現在位置の把握をあやまっているのかもという疑念が浮かび上がった。何せここは不慣れな地で、いまは夜の帳が四方八方を覆っている。頭の中で思い描いているだけの地図なんて当てにならない。

ひとまずウメは、ツキヨタケの連なる方へとゆくことにした。白い影の噂話のこともあってまるきり怯えがないと言えば嘘になるが、それでも、目の前でせっかく連なっている幻想的な道標に手を引かれずにはいられなかった。

 ひょっとしたら凶念樹に招かれているのかもしれないとも感じた。だって、明らかに上へ上へとその道は続いているから。木にもぶつからない。まるでその先にある何かと一本糸によって紡がれているような感じがした。

 やがて急勾配な斜面にぶつかり、見上げた先を立ち塞ぐ木々の隙間から覗ける景色に、月明かりが降りる空間の存在を捉えた。凶念樹の周りにある、木の無い空間だ。何度も出入りしている場所だから、ウメはすぐ様確信できた。

そのときウメは、ようやく身震いするほどゾッとした。凶念樹が私を呼んでいる。そんな風に考えていた。

だが、それをウメは心のどこかで望んでもいたのだ。もしも向こうから呼んでくれるのならば、ウメはウメの正体を知ることができるかもしれない。ウメは自分が何者なのか、ずっと以前から気にしていた。人でないことは、もう認めよう。けれども、ならば言葉にしたとき、ウメは「なに」だと言えるのか。それが知れているのといないのとでは、雲泥の差があった。

人ではなくなる覚悟を、ウメは固めたかった。

そうして急勾配な斜面を登ろうと足を進めようとしたとき、ピョン、とひとつの影が視界の端っこから飛びだしてきて、ウメはびくりと震えた。

「あなた」

 それはノウサギだった。だけど、だたのノウサギではない。夜だからかしら。いえ、きっと違う。深い霧のような色をした双眸がジッと目してくるのを見て、ウメはすぐに思い至った。そのノウサギが全身真っ白なのは、夜のせいではない。木の葉の隙間を縫って注ぐ月光が白く眩いからではない。

このノウサギは、それ自体が紛うことなく真っ白い体を成しているのだ。この辺りにはただの一匹も生息するはずのない雪兎のように、ピンと張った耳から丸まった尻尾の毛先にかけて、雪化粧をまとったように白い。ウメはなんだか、人の目に映る自分がどのようなものなのかを、いままさに体感しているような心地になった。私も他人の目にはこんな風に白く見えるんだわ。だってみんな、私のお肌を「雪みたい」なんて言うんだもの。

 それにしても――以前出会ったときから疑問に思っていたが、どうしてこの子は白いのかしら。

 この辺りに住まうノウサギは、みんなこの時期褐色か灰色をしている。それこそ本物の雪兎でもない限り、これほど白くはならないはずだ。

 何かを訴えかけるように、暗がりの中にふたつ、光る白濁の眼を浮かべて、それはウメにジッと凝らし続けている。ウメはへその下の毛を擦った。ひょっとしてこれは、ウサギの毛なのかもしれないと思った。私は雪兎で、だから肌がこんなに白いのだと思った。そんなものは、結局なにもかも妄想に過ぎないのだけれど。

 ノウサギはすると、ピョンと飛んで、ウメがいま来た道の方に入りこんだ。振り返り、光る眼でまたウメの方をジッと見つめる。

 ――ついて来て。

女性の声で、そう言われているようだった。

 凶念樹の方を見、ウサギの方を見、それからまた彼女――あるいは彼――の小さく丸い背中を、ウメが視線の先に捉えたそのとき、不意に凶念樹が立つ側の茂みから人の声がした。

「この辺りにいるかもしれん。おい! ウメ! 早く出て来んか」

 聞き覚えのある声。村長だった。ウメの鼓動が加速してゆく。斜面から転げ落ちる球がそうであるように、ウメの鼓動は見る見るうちに音鳴りを性急としてゆく。

 捜しに来てくれたの? ――そんな期待が一抹に過ったが、朝霧よりも儚い幻想だった。声を発せずにいると、村長の毒々しい独り言ちる音が、ウメの元にも届いた。

「あやつめ、どこへ行きおった。これでは翌日以降の約束もすべて切らねばならんではないか。明日も都の者が参られる予定だというのに」

 ノウサギがピョン、と飛んだ。ウメはそれを視界の隅っこでまた見て、すると駆けだした白い体を無我夢中で追った。真っ暗な景色の中で白い毛並が茫洋と浮かぶ。夜そのもののような暗闇の中でウメを導くために、あのウサギは白い姿で現れたのかもしれない。

 体が道を下る速度が早まってゆく。鼓動と同じく、忙しくなく足が動く。しかし一方で、思考は土にはまる岩石のように固まっていた。ウメが自らそうさせていた。りくれん村に、もはやウメにとっての希望はない。それがわかれば、あとは何も考える必要なんてない。村長を振り返る必要なんてどこにもない。

 やがて、暗闇に慣れ始めたのだとばかり思っていた鮮明となりつつある視界が、実は夜明けを知らせているのだということに気が付いたのは、ウサギの姿がいつからか見当たらなくなっていることを自覚したときだった。

山に入ってからこんなに時間が経っていたんだ――。

森の中が青白み始めている。カケスのあのやかましい鳴き声がする。囃されるようだった。しかしウメは立ち止まって、それまでに走り抜けてきた山道を振り仰いだ。

 ツキヨタケの姿も、ウサギの姿も、村長のしゃがれ声も見当たらない、ひっそりと静まり返った森が絶え間なく続いている。また正面に向き直ると、そこで斜面は途切れ、少しだけ平地が続いていた。そのまた向こうに斜面が下り始める様子が窺える。木が短足になっていた。そこをさらに先へゆけば、帰るべき村があることをウメは悟った。

 早く戻ろう。きっとお婆ちゃんが心配している。そう思い、ウメは息を切らしながら、あちこちで痛む四肢を引きずるように山を降りた。



「この、バカ娘が。来た初日から騒ぎを起こすつもりだったのかい」

 村長の静かなる怒声が、ウメの体中を点々とする切り傷に響いた。

 山の中にいる間には気が付かなかったが、木々からぶら下がる蔓や低木の枝にどうやら四肢をたくさん打ち付けていたようで、老婆の家に戻ると、その点をまずは口うるさく指摘された。続いて手当てを受けながら、ウメは老婆にその怒声を浴びせられたのだった。

「ごめんなさい。私もまさかこんなに時間が経っているだなんて思わなくて」

 往復で一時を五度ほども越える道のりだった。それをウメは、ほとんど疲労も感じないまま往来しきったのだ。

「なんだいそれは。まるでキツネに摘ままれたような物言いじゃないか。そんなことじゃ私は誤魔化されないよ。ほら、さっさと足出しな。嫁入り前の娘が一体いくつ傷をつけりゃあ気が済むんだ」

 狐、か――ウメは記憶の中身を顧みた。ひょっとしたらあのノウサギは狐が化けたものだったのだろうか。だとすれば、白かった理由はやっぱり暗い道の中でもウメを導くため?

 赤い木の実をすりつぶしたものを線状に塗ったような跡が、ウメの体の至る所に刻まれていた。血は出ていないが、触れると少し疼く。老婆がそれを遠慮なく突くので、ウメは我に返らざるを得なかった。

「ごめんなさい」

「さっきからそればっかりじゃないか。てっきり私は、あんたが森の中に気持ちの整理をつけるために行ったんだとばかり思ってたけどね。逆効果だったかい」

 元々は、そのつもりだったのかもしれない。ウメ自身も、自分のことでありながら行動の理由を上手に汲みきれていないが、居てもたってもいられなくて森に飛び込んだのだから、きっとそうなのだろう。心が安寧を求めていたのだ。

 結局そこで目の当たりにしたのは、頭のどこかでうっすらと生じていた期待を打ち砕く現実だったのだけれど。まさか村長が真夜中の森を流れ歩いているとは思いもよらなかった。しかしそれも、よくよく思えば幸いだったのではないか、とウメは感じていた。これでもう、りくれん村に対する未練はなくなったのだから。

「本当は畑作を手伝ってもらうつもりだったけどね。寝てないんじゃ足手まといだ。今日は休みとして、明日からはしっかり働いてもらうよ」

「え、でも。それじゃあ村の人たちに申し訳が」

「何言ってんだ」

村長の剣幕に、ウメは圧倒された。

「そんなことを言うぐらいなら、始めっから夜通し散策なんてするんじゃないよ、まったく。あんたは赤ん坊のお守りでもしてな」

 ウメは委縮して、その言葉に甘んずるしかなかった。

 質素な朝食をとり、眠り、昼を充分過ぎた頃になってやって来たのは子供たちだった。赤ん坊を含め、計六人いる村の子供らの中にはユウタの姿も混じっている。ユウタは気さくに言葉を交えてくれるが、他の子らはそうもいかず、顔を合わせてからしばらくは、表情が常に強張っていた。

 しかしそれも、茶のいれ方やみんなの家族の話、ウメがこれまで見てきた都ものの品々など、互いの生活歴が絡められた談笑を経てゆくごとに緩んでいった。

「このお姉ちゃん、怒るとすぐ叩くんだ」

「それはあなたが毒草なんて持ってくるからでしょう」

「だからって叩くことないじゃんかー」

 ユウタとの会話が軽快に弾む頃にもなると、だから自然と笑いも起きた。ただ、ひとりだけ馴染み切れずにいる子供もいた。

「ねえ、お姉ちゃん」女の子だった。ユウタよりもやや幼く、短めな黒い髪を右側で一本にまとめている。「今度わたしにも山菜のことおしえて」チハルという名前を、ユウタが紹介してくれた。

 はにかみながらチハルは言う。緊張しているのだろう。ウメとなかなか視線を合わせようとしない。

「もちろん。私もバアヤに散々おしえ込まれてね。だからきっと、みんなが知らないことたくさん知ってるわよ」

「そうだよ。このお姉ちゃん、色んなこと知ってるんだよ」

 ユウタが自慢げに語る。そこへ。

「あんたらの笑い声が外に響いてみんな畑作に集中できないんだと。ほら、さっさとおゆき」

 老婆が帰ってきて、ウメや子供たちが温和に過ごしている様子を見止めるや否や、彼女らに外へ遊びに行くよう促した。

二人の赤ん坊を老婆に託し、ウメは子供たちに案内され、まだ足を踏み入れていない南の山に赴くこととなった。ちゃがら村を出るとそこにはすぐ斜面があって、同時に森林が広がっている。造りとしてはりくれん村の西側にそっくりだが、木々のひしめき具合はこちらの方がずっと濃い。凶念樹が立つ山のそれは、人が悠々歩くことのできる隙間を有していたのに対し、ここは木と木の間隔が狭く、低木や野草も自由放漫に茂っているので、多少注意の意識を研ぎ澄まさなくては木の根に足元をすくわれうっかり転げ落ちてしまいそうな危うさが付きまとう。

 しかし、何がなんだか判然としない足場の中から獣道をすかさず発見し、ウメのことを先導する子供たちの足取りは、さすがに慣れていた。ひょいひょいと斜面を下ってしまう。時々、待って、と声をかけてやらねばあっという間に置いてゆかれそうで、ウメは冷や冷やしながら三つの背を追った。

 斜面の途中で獣道が左に折れた。彼らの列も自ずと方向を変える。そちらに何があるのだろうとウメは思ったが、すぐに気が付いた。川だ。りくれん村とその西の山との間に流れる川が、ちゃがら村の南方にまで流れ込んでいるのだ。想像してみるとなんだか不思議な心地がして、ウメの呆然とした眼差しが、正面にある、木漏れ日がまたたく木々の奥へ奥へと自然に向かった。

これまでまったく踏み入れたことのない土地に、これまでウメも使っていた川の水が流れ込んでいる。川なんて一本繋がりでどこまでも流れてゆくのだから当然と言えば当然だが、どうしてだか感慨深かった。そういう括りで見ると、案外どこででも人はつながっているのかもしれない。

「あ、お姉ちゃん」先を進んでいたユウタが叫んだ。「あれなんて言うの!」

ユウタが指差した先に見えたのは、黄色い花びらがオレンジ色の花糸を囲っている、りくれん村ではウサギグルマと呼ばれていた山草だった。

「あれはウサギグルマでしょ。おばあちゃんが教えてくれたじゃん」

 そう鋭く指摘したのはチハルだった。言い放たれた側のユウタは、そうだっけ、とすっかり恍けていた。

「へえ、こっちでもこれ、ウサギグルマって言うの」

 ウメが問うと、チハルはぎくりと体を強張らせて、おどおどと返した。

「うん。おばあちゃんが教えてくれたの。花びらがウサギの耳にそっくりで、それがぐるって回ってるから、ウサギグルマって言うんだよって」

 ひょっとしたらユウタが覚えていないだけで、ちゃがら村の子供たちはそれほど山菜に疎いわけではないのかもしれない。

「ほら、早く行こうよ」ユウタがひとり先をゆき、みんなに呼びかけた。

 ウメは歩きながら、自分の名前の由来をチハルに話した。兎と女でウメと読むんだよ、と。するとチハルはパッと表情を明るめ、ウメへと身を乗り出して、しかしそれを途端に恥ずかしく感じたのか、赤面すると「そうなんだ」とだけ言い、すぐに列の背中を追ってしまった。

 道中、ウメは穴を見つけた。何者かが掘り返したような小さな穴で、周りには黒っぽい土が盛り上がっている以外なにもない。

「あれ、お姉ちゃん」チハルがただひとり、ウメが立ち止まっていることに気が付き戻って来た。「何してるの」

「ちょっと待っててね」ウメは言いながら、穴に手を突っ込み底にあったやわらかい土をそっと掘りだした。すると、何かに抉られ白い中身が晒されるようになった薄茶色く細長い物体が顔をだす。「見てこれ」

 それはヤマイモだった。山の中を歩いていると、時おり穴の掘られた跡と遭遇することがある。その穴に、これまた稀に、ヤマイモの食べ損じが残されているのだ。

「イノシシが掘ったのね。前に見たことがあるのよ。イノシシがせっせと穴を掘ってるの。そしたらヤマイモ咥えてどこかに行っちゃった」

「へえ」少女の目が輝いている。「こういう穴ってみんなイノシシが掘ってるの?」

 彼女もこれまで何度か穴を目撃したことがあるようだった。しかし、それが何なのかわからないまま過ごしてきたのだろう。ウメもその目で見るまでは、バアヤにいくら聞いても、穴の正体は霧に紛れたようにぼやけていた。

「多分ね。他の季節になると植物の根っこが散らかってることもあるんだけど、あれもイノシシの仕業なのよ」

「あ、見たことある!」

 チハルが声を高めたところで、二人がいないことに気が付いた少年らが呼びに戻って来た。

「行きましょう」

 ウメが言うと、チハルは先ほどよりも大きく頷いた。

 やがて見えてきたのは、ウメが想像していた通り川だった。ただ、りくれん村の近くを流れるものに比べると川幅が広い。流れが緩やかで、その中を泳ぐ魚の尾もさほど忙しそうには見えない。

 川のわきには小さな沼地がある。そのすぐ傍に、ウメは動物のものと思しき足跡を発見した。ヌタ場だ。近くの木の幹には何かが擦りつけたらしい泥のあとが薄くのびているのが何よりの証拠だ。

「あれってイノシシが体を洗ってるんでしょ」と、チハルが訊ねてきた。

「そうよ。お婆ちゃんにおしえてもらったの?」

「うん。けど、土がまだ湿っぽいときはあんまり近づいたらダメだって」

 ヌタ場はりくれん村の方だとあまり見かけない。ただ、それと同じことをウメは、小さい頃バアヤと出かけた先で注意されたことがある。

 土が湿っぽいということはイノシシが体を洗って間もないということだから、それはつまり、近くにまだイノシシがいることをおしえている。思いがけず遭遇する危険が高いのだ。イノシシはときに人を襲うから、下手に刺激しないよう、湿っぽい土が木の幹に付着していたら静かにその場を離れなくてはならない。

 ウメたちの前にある木に付着した土は、まだ湿っぽかった。それもかなり、べちゃっとしている。

 少年らはいつの間にか川に沿って下流の方へと進んでいた。ウメはどうしようかと悩んだ。彼らの背はどこか軽快だ。その足の甲に杭を打ち込むような真似をしたいとは思えず、かと言ってそのまま野放しにしておくのも危険だ。

 と、ウメが動きだすよりも早く、声量に気遣いが感じられる叫びをチハルが放っていた。「そっちは危ないよー」

 だが、傍に流れている川がせせらぎを洩らしているせいか、少年らはうんともすんとも言わず、どんどん川岸をくだってゆく。

「とりあえず行こう。大丈夫。いざとなったらお姉ちゃんが何とかしてあげるから」

 チハルは先行く少年三人とウメを交互に見て、不安げに頷いた。

 そこからはウメが、チハルの小さな手を引くことになった。ウメは動物と話すことができる。だからイノシシぐらいならば然程恐いとは思わなかった。危険なのは虫だ。毒虫だ。先日刺したカイタイ虫のようなものと、ウメは言葉を交わすことができない。こちらとしては敵意がないことを伝えたいのに、いざ遭遇すると彼らは危険を察知して間髪入れずに刺してくる。話し合いのできない相手ほど不安な存在はいない。

 それから予兆もなく、イノシシが、ひょいと何くわぬ顔で現れたので、さすものウメも驚いて悲鳴のような声をあげ、すぐさま走りだした。

 イノシシは先ゆく少年らの斜め右手方向の茂みの中から姿を見せた。途端、少年らは文字通りビクッと震えて蛇に睨まれたカエルのようにその場に固まった。

「そのまま動かないで」

 川沿いの石だらけの道をせっせと突き進みながら、ウメは抑えた声で言った。興奮させてはいけない。興奮させなければきっと大丈夫――そんなことを思いつつも、心臓は怒ったみたいにバクバク鳴っている。

 このまま普通に言葉を交わしてしまってもいいんだろうか。振り返ってみると、人前で動物と話したことなんてただの一度もない。バアヤの前でさえ、そうすることをウメは自ら拒んできた。他人に動物の声はどう聞こえるのだろう。多分、聞こえはしないのだとウメは思った。ウメ自身、彼らの言葉を直に聞いたことはない。目と目を合わせると、何故だか彼らの考えていることが直感的に読み取れるのだ。それはつまり、動物との会話そのものが、下手をするとウメの一方通行な妄想である危険性も孕んでいるわけだが、実際に動物たちから聞こえた声の中身がすべて事実だったことをその身をもって体感している立場からすれば、やはりウメは動物と話すことができるのだった。

 少年らを自らの背の後ろに隠してから、ウメはさっと腰を屈め、先ほどから後ろ足で土を蹴り上げたり、鼻をぶるぶる鳴らしたり振ったりしているイノシシの目をジッと見据えた。

「こんにちは」

 イノシシは怒っている。いや、興奮している。少年らがおどおどしているのを見て、それに対してイノシシは恐怖している。

 ウメは少年らに目顔でその場を離れるよう伝えた。そしてイノシシの方に向き直り、先ほどから手に握っていたヤマイモを差し出した。

「これ、食べますか」

 囁くように問いかける。イノシシはすると、鼻のぶるぶるを静まらせて、差し伸べられているヤマイモに一歩二歩と近付いた。そのときウメは、すんすん鼻を鳴らすイノシシがハッとする気配を確かに感じた。

「どうぞ」半分抉られているそれを地面に置き、ウメは一歩二歩と下がった。「よかったら食べてください」

 イノシシはヤマイモにかじりついて、持ち上げて、そのまま茂みの向こうへと消えて行った。

 その名残におっとりとした眼差しを向けていたウメの後方から、少年らの雑踏が控えめに近づいて来る。

「すっげえ、お姉ちゃん。イノシシ追い返しちゃった」たいそう感心した様子でユウタが言った。それを追随するように二人の男の子がうんうん頷いて、そのさらに後方でチハルが遠慮気味に顔を覗かせていた。

「お姉ちゃん、怪我してない?」チハルが言った。

「平気。どこも怪我してないよ」

 ウメが立ちあがり両手を広げながら言うと、チハルはホッとした風に息を吐きだした。

 するとそのとき、一匹の黒い蝶がどこからかひらひらと飛んできた。まるで躍るみたいに不規則に上下左右を行き来しながら、それはやがて、川の傍らに自生している、のっぽりと間延びしたような形の葉を持つ山菜に止まった。

「オコウチョウだ!」チハルが我先にと走りだした。

「オコウチョウ?」と、首を傾いだのはユウタだった。どうやらここでも彼らの間には隔たりが生じているらしい。ひょっとしたら知識を食べる悪い虫がいるのかもしれない。

「メノリンソウを食べる蝶よ」傍らに立って、ウメは説いた。「確か毒を持ってるってバアヤが言ってたけど」

 黒を基調とした光沢ある翅が毒々しい美を醸しだすオコウチョウは、メノリンソウを幼虫の頃から摂取する。しかしメノリンソウには毒が含まれているので、それを摂取して成長してゆくオコウチョウにも毒が蓄えられる。それがオコウチョウを守る役割を果たしているとウメは聞いたことがあるが、結局食べられてしまう個体は死んでしまうのだから意味はないのではないか、と以前までは思っていた。しかし、それによって毒の危険性を周囲に発信し、オコウチョウという種全体が、他種に捕食されることを阻止しているのだそうだ。だから食べられた個体の死がもつ意味は充分なものだし、それで他の仲間が守られるのであれば至極考えられた世界のようにも思える。

ウメはこの手の話をバアヤからいくつも聞かされているが、生きることについて、種という括りで考えず日々を生きているのは多分人間だけなのだろうと思うことが幾度となくあった。ウメにとって、人は自分勝手な生き物だ。りくれん村で暮らした者ならば、誰しもがそう思うに違いない。あの村長だって、その例外ではない。

「ふうん。何かよくわかんないけど、あんなチョウこの辺りにいたんだ」

 ユウタがどこか退屈そうに言ったので、ウメはつい聞き返していた。

「虫とか山菜の名前とか、あまり興味ない?」

「うーん、別にそういうわけじゃないよ」

「その割にチハルちゃんが知ってることあまり知らないじゃない?」

「ふ、ふん。知らないことの多い方が毎回ドキドキして楽しいからいいんだい」

 ちょっと意地悪っぽく言ってやると、ユウタはふてくされた様子で、オコウチョウが止まるメノリンソウの方に行ってしまった。オコウチョウを驚かせないようチハルが遠巻きにジッと観察しているというのに、ユウタはその見えない壁を平然とぶち破るみたいに距離を詰めていった。

「あ!」

そしてオコウチョウが宙をひらひらと舞い始め、そのまま森の奥へ奥へと木々を掻い潜り飛んで行ってしまった。

「もう! せっかくオコウチョウ見れたのにい!」顔色を変え、チハルが言う。

「あんなチョウ、また森ん中歩いてればいくらでも見れるよ」

「オコウチョウはあんまり人前に出てこないの」

 と、チハルがユウタに対し拳を握って食いかかるように言ったとき、彼女の足下がつるっと見事に滑った。「きゃ!」少女が立っていたそこは、沼地ほどではないが湿り気が多分に含まれる泥状になっていた。それに彼女は足をすくわれたのだ。

 チハルはそのまま後方に倒れ、川岸で悪びれもなく散らばり並んでいた小岩に肘をぶつけてしまった。鈍い音がして、見ている方にも痛みが伝わるほどチハルの表情が深く鋭く歪んだ。

「だ、大丈夫か!」ユウタがすかさず手を伸ばそうとした。それに応じるように起き上ろうとして、しかし苦悶に声を漏らすと、チハルはそのままぬかるみの上に背中から落ちて、また呻いた。

 ウメは自分でも驚くほど俊敏な足取りで彼女の元へ寄り、不安げな表情を浮かべているユウタを視線だけで押しやると、そのままチハルの肘に手をかざした。

 見守る少年らの間に漂う空気が、凍り付いた池を覆う氷から、風に波立つ池のみなものようなものに変わったのは、ウメの手先が茫洋とした光に薄く包まれたときだった。

 癖になっていたようだ。毎日のように怪我人が村へやって来て、そのたびウメはからくり人形のように黙々と力を振るい続けた。無心でいたつもりが、いつしかウメは、怪我人という存在を火種として捉えるような性になっていたらしい。

 チハルの肘から滲んでいた血が収まるのはすぐだった。少年らがそうしているのを真似るように、苦痛に怯えていた少女までもが、いまはただ、光にくるまれた患部へ呆然と視線を注いでいる。狐に化かされているような顔で、ぼけっとその一点だけを見続けている。淡い光をおどおどと見つめている――。

青く腫れ上がろうとしていたのが、そうなる前に落ち着いて、片やチハルの顔色も、血色のよい肌色に戻った肘と同じく、すっかり元通りになった。――瞳は、もっと以前の時間まで遡っていた。初めてウメと言葉を交えたときの、あの色が滲んでいる。

「はい、これでもう大丈夫」

 ウメは事も無げに言ったつもりだった。つまり自然に、無意識に言ったのだった。特別なことなんて何もなかった。ところが彼女は、微かに声を震わせながら、呟くように、ありがとう、と言って、それで終わりだった。

「もうどこも痛くない?」

 チハルは頷いて、黙って立ちあがると、ユウタの後ろに隠れてしまった。

「うわっ、どうしたんだ」

 突如背後に回り込まれ、ユウタは戸惑っている。チハルはそして、ユウタにすら背中を向け、そのままちゃがら村の方へと駆けて行ってしまった。

「なんだ、あいつ」

 ユウタの呟き声が、ウメの耳の奥で小虫の羽音みたいに、それからしばらく響いた。


       11


 村に戻るとすぐ、老婆がウメたちのことを出迎えた。そして開口一番にこう言った。

「あんたあの子に何したかね」

 ウメは手短に、彼女が怪我をしたので治癒の力で治してやったことをそのまま伝えた。

「ああ、そうかい。そしたらあんたはなんも悪くない。が、一応謝ってやんな。あの子、たいそう驚いてたよ。多分、急に妙な力で痛みが引いたもんだから、逃げだしたくなったんだろう」

 老婆に聞いたところ、チハルは村の真ん中辺りにある家で生活しているらしい。恐らくそこに帰っているだろうと老婆が言ったので、ウメは山から戻ってきた足でそのまま少女の元を目指した

 チハルは家の隅で膝を抱えて丸くなっていた。目が合うと、意外なことに彼女の方から謝ってきたのでウメは目を丸くした。

 老婆が言っていた通り、驚いてしまったんだそうだ。傷元が疼くような感じがして、それがウメの手先から伝っていると思うと奇妙な心地が否めず、居たたまれなくなったとチハルは打ち明けてくれた。

「ごめんね、驚かせてしまって」

 ウメはそれだけ言って、すぐに踵を返し戸に手をかけた。ちょっぴり期待していたが、ウメが戸を閉め終えるまで、結局チハルは呼び止めようとはしてくれなかった。

これが普通の者の反応なのだろうか。あるいは、子供には堪えがたい感触がそこにはあるのかもしれない。

 何だかやるせなくなって、ウメは老婆の家でひとり閉じこもっていた。すると今度は、しゃがれ声の老婆が、

「あんたの家はここじゃないだろ」

 と、がなり込んで来た。老婆はいま、肉体労働ができない。だから村全体を見て回りながら時々おかしいな調子のものを見付けたら声をかけるといった動き方をしているみたいだった。

「子供らの面倒を見ないんだったらあとは言われた通りゆっくり休むか、それか畑に出て働きな」

 ウメは重い腰をもちあげて村の最西端にある物置小屋へと帰って行った。頭では働かなくてはならないことを理解できても、体が鈍りのように重く、まるで他所の人の体にあやまって紛れ込んでしまったような動かしにくさを感じる。

小屋には昨日ウメが自分でしつらえた木の葉の寝床だけが音もなく横たえていて、安息となるはずの場が僅かに乱れていた。隙間風が忍び込み、いまなおカサカサと、葉の温もりを冷まそうとしている。それを正し、ウメは体の右側面を下に、木の葉の寝床に横たわった。ひんやり寒い。ふかふかだけど、肌に直接当たる部分はささくれのようにチクチクして落ち着かなかった。

 へその下の辺りを擦っていると、少しだけ心は鎮まった。ウメの身体は白毛に支配されているようだった。気が乱れたときにはいつもそこに触れ、そうして感情の波を抑えている。それができるということは、ウメは人外な部分に相当、身を委ねているのかもしれない。

 やがて夜の帳が降りた。ウメは目を覚ました。いつしか眠っていたらしい。

 身を起こすとゾクッとする寒気に見舞われて、まだそんなに冷え込む時期でもないのにどうしたのだろうと思っていると、体の節々が痛いので熱があるのだと気が付いた。

 薄暗い。ウメのいる小屋にも小窓はあるが、そこから見えるのは、森林のものと思しき木々の陰影ばかりだ。恥ずかしく隠れてしまったように、月明かりなんて欠片ほども見当たらない。戸口を開けて村の外を見ると、遠くの方で一軒だけ灯りが灯されていた。老婆の家で囲炉裏に火を熾しているのだろうと初めは思ったが、よく見ると何だかモヤモヤっとしたものが、夕暮れの足跡色の空に浮かんでゆく光景が目に飛び込んできた。

 お風呂かしら。昨晩は老婆の家のものを貸してもらったけれど、今日はどうしましょう。ウメはぼうっと熱っぽい頭で少々ものを考え、また小屋に閉じこもった。

 やっぱり隙間風がしつこい。ヒュウヒュウ、ヒュウヒュウ。板でもあれば修繕できるが、それすら見当たらないので一時凌ぎもままならない。

 横たわり、丸くなり、出来る限り身を温めるような格好でいると、ウメはまた自然と眠りに落ちていた。

 次に目を覚ましたとき、何故だかそこは暖かくて、いやむしろ熱くて、そしてゆらゆら揺れるものがたくさんあった。

 驚いて、ウメは跳ねるように身を起こした。

「起きた! お姉ちゃん起きたよ!」

 少年の叫び声だった。囲炉裏に熾された火によって照らされた部屋に、村人が何人も集まっている。ひょっとしたら全員。それだけの圧迫感と息苦しさが迫っている。ゆらゆらと揺れていたものは、壁に映る彼らの影だった。

「具合はどうだい」状況が見えず、キョロキョロと首を動かしていると。しゃがれた声で老婆が言った。「あんたは本当に阿呆だねぇ。私がさっきあんたを追い出したのはねぇ、別に発熱させたかったからじゃないんだよ。しょうもないことでウジウジしてるから頭を冷やさせたかったのさ。まったく」

「え、あの」

 ウメにはさっぱりだった。どうして自分が村長の――老婆の家にいるのか。どうして村の人たちがこの場に集まっているのか、どうしてみんなざわついて和やかな空気になっているのか。夢でも見ているように何もわからなかった。

「お姉ちゃん、さっきはごめんなさい」

 女の子の声が、すぐ近くで聞こえた。ウメが見ると、板張りの床に正座をしているチハルが身の置き所のなさそうな表情で俯いていた。そのときようやく、ウメは自分が麻布の敷布団の上に寝ていたことに気が付いた。

「気分悪くない? 喉痛くない? 寒くない?」

「え、ええ。大丈夫よ。ありがとう」捲し立てるように言われたので、ウメの声は戸惑った。

「その子がね、あんたが苦しそうに寝てるってんで私んとこに駆けつけたんだよ。今晩は冷えそうだったからね。丁度村人みんな集めようかと思ってたとこだったから、あんたをついでに運んでもらったのさ」

 老婆が言うと、集まった村人の内の何人かが声を上げた。

「お姫様すっげえ軽かったぞ」「りくれん村じゃろくなもん食べてなかったのか」「って、ここもあんまし変わんねえだろうよ」「みんなにあんま心配かけんじゃねえぞ」

 そうか――ウメはそのとき、ようやく状況を呑みこんだ。

「ありがとう」

 ウメは改めて、チハルに礼を言った。すると彼女は俯いて、少し照れ臭そうに、へへと笑った。

「おいおい、ウメちゃん。その子だけかい。村の人みんな心配してたんだかんな」

 そんな声が飛んできたので、ウメは慌てて立ちあがり自分を囲う人たちに頭を下げようとしたが、急にピンと背を伸ばしたせいか、それとも村の人の数に圧倒されたのか、ふらっと気が薄らぐ感覚に見舞われ、ウメはその場でひっくり返りそうになった。

「危ない!」背中の二点を強い衝撃が、ぎりぎりのところでウメの細身を支えた。「お姉ちゃん、大丈夫?」

ユウタだった。よく見ると、チハルの周りには他の子供たちの姿も窺えた。

「あんたはもうこの村の人間なんだ。子供にちょいとキツい態度取られたからって気を落としてんじゃないよ。いいね。つぎ同じことでくよくよしてたらこの村を追い出すよ」

「ひゃあ、婆ちゃんキツイね、そりゃあ」と、村の人が言った。

「きつくなんかあるもんか。大体ねえ、チハル。あんたもあんただよ。ウメが不思議な力を使うことは知っていたはずだろう。あのときウメを住まわせることに反対しなかったんだから、そりゃウメのことを受け入れたってことだ。それが何だ。一度奇妙な体験をしたくらいでめそめそして。私なんてねぇ、寝起き様に腰を治されてそりゃあもう大変だったさ」

「おいおい、チハルはまだ子供だろう」

 村の者たちが、老婆の横暴な態度へさすがに反感の意を示したが、彼女は毅然として言い切った。

「チハルはこの村じゃ唯一の女の子だろう。ちょっとやそっとのことで動じるようじゃ将来が心配だ。甘えさせるんじゃないよ」そしてチハルを鋭い眼光で捉えた。「いいね、チハル。あんたはもっとしっかりした意志を持ちな。相手が元々よそ者のお姫様だったからって遠慮はいらないよ」

 何だかバアヤを見ているみたいだ、とウメは思った。言葉にしていることは一見厳しそうだが、何だかんだ言って優しさが多分に紛れ込んでいる。と言っても、それを感じるにはチハルはまだ幼いようだ。しゅんと俯いて、ただ小さな声で謝った。

「あん、なんだって。聞こえないよ」

「ごめんなさい」

「ふん。そうやって最初から大きな声で言いな」

 老婆は強く言い切ってから、さあ晩餐だ、とみなに声をかけた。老婆が住まうこの小屋は広々として大きいが、村人全員が集うとなると、さすがに窮屈感は取り払えない。しかし囲炉裏がひとつしかないこの村では、火がなければとても一夜を明かせない時期になると、こうやってみんなが一つ屋根の下で過ごすのだ。

 晩餐には、ちゃがら村で採れた芋と、山で採ってきた山菜が振る舞われた。ひとりひとつの芋と数枚の葉だけを受け取って、それをみんな無我夢中になって咀嚼した。

 初冬から仲冬にかけては村人が揃って食事をすることも多いそうだが、寒さも厳しさを露わとし始める晩冬に差し掛かると、村の人々はそれぞれの家の床板に穴を穿ち、そこで火を熾すようになる。季節ごとに出し入れをしているので多少の手間を要するが、小屋の狭さが囲炉裏の居座りを良しとしないので致し方ない。時期に依った対応しなければ、生活環境が狭苦しくなり、夏にもなればそれは単なる不要物にしかならないのだ。その点、冬には火を熾せるし、狭苦しいスペースが人と人との距離を縮めるので、小屋の中には自然と熱が籠るようになる。ただ、初春にもなると簡易的な囲炉裏だけではとても凌ぎ切れない寒波が押し寄せるため、それに向けては、藁を編み込んだ防寒用の衣類をすでに仕込み始めているという。その内側に動物の皮を張りつけ、凍えるような日々を耐え忍び、緑が萌えだす晩春を待つのだ。

 りくれん村でも外出のときにはそうしたものを着込まなくてはならなかった。最初の内は獣の臭さが鼻を突くが、一週間もすれば馴染む。もっとも、近頃のりくれん村では都で売り買いされている羽織ものが出回るようになったので、ウメの場合にはもっと長い日を重ねなくては、獣の臭いと仲睦まじくなることは難しいかもしれない。

「あんたは明日コナラの木を切るんだよ。次の年に向けての準備も怠れないからね。それから薪割も頼むよ」

 もうじき多くの薪が費やされる季節が山全体を覆い包むようになる。無事に冬を乗り越えるためにも、手抜かりは許されない。

 コナラの伐採――ウメは懐かしく感じた。コナラ林での作業はウメも小さい頃にこなしていた。バアヤに見守られ、怒鳴られながらその作業を繰り返し、段々と咎められることが減ってゆく日々はいまでも記憶に厚く刻まれている。バアヤが死んでからは専ら治療に注力させられていたので、久方ぶりにコナラを切ると思うと、不思議な浮遊感が心に生じた。いけない。気を引き締め働かなくては。私はこの村に、まだ何も貢献できていない。

 晩餐を終えると、ウメは真っ先に眠るよう促された。村の者たちはみんな、自分らの寝床が待つ建物に戻っていったが、村の中でも特に冷え込みの激しい物置小屋に、発熱している者を帰すわけにもいかないということで、この日もウメは村長の家で囲炉裏の温もりにあやかることとなった。

 囲炉裏の脇で横になっていると、二つの意味での熱によりだんだんと眠気がいやましてくる。頭がぼうっとする。体がポカポカする。ぼやけ始める視界の中に、何故かいまだにチハルの姿を捉え、――帰らなくていいの、お母さん心配しない――ウメは喉を絞って投げかけた。

 すると、囲炉裏の反対側にいた老婆が眉を潜め、茶をすすってから言った。

「あんたその調子じゃあ明日も動けないかもしれないねぇ」

 ウメは何のことかよくわからなかった。けれども傍で不安げに顔を覗き込んでくるチハルが「大丈夫?」と声をかけてきたのに向けて言葉を返そうとすると、喉に詰め物をしたような感覚を覚え、思ったような音をだせなかったので、ウメは自分の喉が潰れているんだとわかった。

 そう言えば、痛い。唾を呑みこんでみてそれが強く感じられた。老婆に茶を飲むよう促されて身を起こし、熱をよく感じたかったので囲炉裏の方にのそりと体の正面を向けると、それから少しして、へその下の辺りにチリチリとした、痛みにも似た刺激が巻き起こった。

 ウメはハッとして、衣類をずり下げた。幸い村長には気が付かれなかったらしい。しかし、横を見ると、熾火の赤を映すチハルの瞳が、玉のように真ん丸と見開かれていた。

 ごくりと唾を呑み込むと、喉が痛んだ。だが、それ以上の衝撃がウメを襲っている。

 ――見られた? いやでも、この薄暗い部屋の中、熾火による灯りだけで「それ」であると見抜くことはきっと難しい。ウメは恐る恐るチハルを流し見た。

 やっぱり目を見開いている。火の色が眼球に映って、まるで凶念樹が立つ山に転がる赤い木の実みたいに円を描いている。

 へその下を擦りたい衝動に見舞われたが、本能がそれをよしとしなかった。聞きたい。だが、老婆がいる手前、それは不可能だ。心の怯えが鎖となって、ウメ自身を縛り上げている。

「ほら、飲みな……あん、どうした二人とも」

 茶を差し出そうとする老婆の動きが、怪訝な表情と共に止まった。

「い、いえ。ありがとうございます」

 ウメが茶を受け取ると、老婆はすぐさまいつもの年寄りらしい穏和な顔つきに戻った。

「この村には女の子がチハルしかいないからね。その子も同性との付き合い方に不慣れなんだろう。だけど、あんたらは年が近いんだからもうっちっと上手く付き合っていけなきゃ」

 先ほどから二人に当てられていた、舐めるような視線が、動揺を隠しきれないでいるチハルの上でピタリと止まった。

「どうしたんだい、本当に」

「う、ううん。何でもないの、お婆ちゃん。それよりお姉ちゃん、ちゃんと布団かけないと熱酷くなっちゃうよ」

 背中に布団を羽織らせるチハルから、ウメはほとんど無意識に、彼女の体表を這っているであろう震えの有無を探りだそうとした。だが、わからなかった。

「ありがとう……」

 見ると、チハルの表情は依然強張っている。ああ、何を想っているのだろう。どう感じたのだろう。ウメはそればかりが気になって、老婆に入れてもらった茶を飲むときにもすするのを忘れて舌に灼熱を感じた。

「あつっ」

「ああ、もう、何やってんだい。チハル、悪いんだが、水舟から冷や水を取ってきてくれるかい」

「う、うん」

 チハルが小屋を飛びだしたあと、老婆が真っ直ぐな瞳でウメを見据えた。火の赤がその奥で揺らめき、研ぎ損ねた刃のように鈍く光っている

「へその下の毛のことなら、わたしゃあとっくに気付いてたよ」

「え!」という叫びも、すっかり掠れていた。

「悪気はなかったんだ。昨晩あんたが寝ているときに布団をかけよとしたら、服の下からちょろっと覗いているのが、見えてね。まあ、幸い、他には誰も、いなかったが」

 言葉を探すような丁寧な物言いが彼女の心情を指し示しているようで、ウメは何も言えなくなった。

「わたしは気にしちゃいないさ。なんてったって、あんたはおかしな力を使う娘だからねぇ。毛がひと房あろうが、いまさら驚きはしないよ。ただ」その目に翳が落ちた。「他の連中の目には、どういう風に映るかわからない。あんたもそこを気にしてこれまでわたしにさえ黙っていたんだろう。けどそれを、チハルは見ちまったわけか」

 こくり、とウメは頷いた。熾火から伝う熱に寒気が入り混じったように寒気が深まる。

「大丈夫だろう。あの子ももう、察してるさ」

 しかし、そう言われても、ウメの内心は乱れていた。この熾火、何だかおかしいわ。本当に寒い気が紛れているみたい。だってさっきから震えが止まらないの。

「その布団さ」村長が指差したので、ウメは、え、とついそれに視線を移した。「多分、あの子なりの意志表示だったのさ。わざわざ掛けていっただろう。もしあんたを恐れていたんなら、そんなことしないさ。それにあの子は今日、ここで寝泊まりしたいって、自分から両親に言ったんだよ。あんな内気な子が。少なくともチハルは、あんたに寄り添おうとしているんだよ。それを理解してやんな」

 ハッとしたとき、小屋の戸口が開いて熱を脅かす秋風が吹き込んできた。

「これ」ぶるると身を震わすウメに、チハルは陶器に入った水を差しだした。

「ありがとう」

「うん」

 ミハルはそのままウメの横に並んで囲炉裏で燃える薪に手をかざした。

「外、寒かった?」

 舌を冷やした後、ウメが掠れ声で訊ねると、悪戯したことがバレるのを恐れる子供みたいに、チハルはぶんぶんと首を横に振った。ちょっと挙動不審だ。

「ねえ、お姉ちゃん」

 そんな少女が自ら言葉を差し向けてきた。

「お姉ちゃんの熱が下がったら茶畑に連れてってあげるね」

 その声はどこか無理をしているように、ウメの耳には聞こえた。

 そのとき、村長が小さく咳払いした。

「ええ、よろしくね」

 答えると、チハルは燃える薪の方をジッと見つめだし、なかなかウメの顔を仰ごうとはしなくなった。


 二日後、ウメの熱は下がった。

 チハルに導かれ村の南側にある茶畑を訪れたのは、老婆の指示によりコナラの木を一〇本ほども切り倒したあとだった。鉈でコナラの胴の下から一メートルほどのところを三角型に切り抜き、最後に反対側から斧を振ってやると簡単に倒れてくれる――が、鉈を握るどころか、ウメは長らく労働そのものから身を引いていた上に、病み上がりであることも相俟って、男ならば容易くこなせる一〇本という割当てをこなした後にはすっかり疲労困憊で、足腰を立たせるのも一苦労だった。

 ウメが切り倒した分は来年用いるためのものなので、それらはすべて、村の東にある保管場所へと運ばれた。本来はそれも手伝うべき仕事の範疇に含まれていたし、薪割だって任されていたはずなのだが、ウメの労働力は想定の埒外であったらしく、罠にかかった子ウサギを憐れんだように、老婆が自ら彼女を解放したのだ。

 不甲斐なかった。ちゃがら村での生活を差し許してくれた彼らに、まだ何も恩を返せていない。むしろ恩を着てばかりで、ウメの心はその重みに負け、すっかり縮こまっている。

 次こそは必ず役に立つことを志して、ウメはやって来た。おおよそ小屋四つ分の面積になるだろうか。畑と言うにはやや小ぢんまりした平地に、緑が瑞々しい茶畑が畝に沿って整然と並んでいる。まだ整枝を終えていない茶畑は、髪を伸ばしっぱなしにした男の子のような身振りをしているが、聞くところによると数日後にはそれもしっかり整えてやるのだそうだ。整枝は子供たちの役目で、以前は老婆が付き添っていたらしいのだが、今回からは彼らだけでこなすことになっている。それを聞くとウメは心配したくなる心が芽生えないこともないのだが、間違いなく自分より彼女らの方が頼りになるのだろうと思うと、ちょっぴり情けない気持ちになった。何せ、ウメは茶畑を初めて見る。先ほどからうきうきする気分が拭えなくて、ウメは自分で自分が落ち着けていないことをしみじみと感じていた。手伝えるような心境ではない。

「あれって何?」ウメは逸る心を抑えながら短く尋ねた。

 茶が植えられている畝と畝との間が、たくさんの葉で満たされていた。人が歩める道に、わざと枯れた葉を敷き詰めているのだ。

「茶草って言うんだよ。ああしてあげると、良いお茶ができるんだって」

チハルが答えた。ユウタはすでに二人が立つ場所とは反対の側へと行ってしまい、何かをガサゴソと漁っている。

「へえ」チハルの言葉に、ウメはつい声を高めた。「肥料みたいなものかな」

 りくれん村ではコナラ林で採れる土を畑に与えていた。そうすると作物にとって良い環境が整い、より良質な作物が出来上がるのだ。

「ほら見て、ユウタがいるところ」

 ユウタがいる方にチハルが指を真っ直ぐ向けた。ここは平地で、茶畑の周りに木々は立ち並んでいない。代わりにカヤ場が広がっている。その一部に、茶色っぽいような灰色っぽいような、こんもりとしたものがずらりと並べられているのだ。

「あ! ああやって刈ったカヤを乾燥させてるんだわ」

 ウメが感嘆に声を漏らした。

「そうなの?」

「そうすると茶畑にとって、きっといいものになるのよ」

「へえ」

茶畑のことを知るほどウメの目が輝くのと同じように、チハルの目も夜の星みたいに一瞬またたいた。

この一帯は陽当たりがよい。うっかり仰向けになってしまいそうな心地良さが、清流のように辺りを泳いでいる。茶畑の奥の方には別の山の峰が延々連なり、冬のはじめだから少々禿げ始めた山肌が若干寒そうだ。ひょっとしたら向こうから見るとこちらの山もあのように透けっぽく見えるのかもしれない。

「チハルちゃん、畑作とか好き?」

「うん。みんなが一生懸命作ったものが美味しく実るから。だから好き」

「そうなの。私も同じよ。一年を通して丹念に育んできたものが大きくなって、それを糧にまた頑張れるの。だから、好き。……好きよ」

 チハルは、ううん、と唸った。不安を感じさせるような、細々とした音をしていた。ウメの顔を見上げ、少女は小鳥のように小さな眉根を寄せ合った。

「お姉ちゃん?」

「ごめんね。なんだか私、変な気持ちになっちゃって」

「それって、嫌な気持ち?」

「ううん」嫌ではない、と思った。「違うの」

 ウメはバアヤが生きていた当時の自分を思いだしていた。あの頃のウメは。毎日何かしらの作業を手伝い、そのたびに嬉しいことと怒られることを両手いっぱいに抱きかかえて帰路についた。バアヤは口を開けば必ずウメのことを咎めた。しかし、黙っているときには温かかった。バアヤが作ってくれる味噌汁。ああ、久しぶりに食べたい。

 けど、もうそれはあり得ない。バアヤがいないからではない。そうではなくて。ウメはもう、あの頃いた場所に戻ることはできない。

ウメはもう、りくれん村の住民であることをやめたのだ。

突っ立ったまま、ウメは目の前の景色を呆然と眺めた。穏やかな気持ちになれる。緑と灰色があちこちに広がる人の見えない世界だった。脇に立つチハルが、憂いた様子でウメを見上げている。けれど、それもすぐ落ち着いて、彼女も一緒になって景色に眼差しを這わせるようになったとき、不意にウメの中をひとつの衝動が掻き乱した。

つ、とウメの頬を涙が伝う。

「チハルちゃん」と声をかけてようやく、彼女はそれに気が付いた。ギョッとした様子で声を荒げる。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん! 大丈夫? どうしたの?」

 慌ててそれを拭い取ると、ウメのぼやけた視界の中でチハルの顔が揺れていた。早く泣き止まないと、私は大丈夫よ、心配かけてごめんね、と言ってあげなければ――と、そう思う一方で、ならばどうして私の方から声をかけて涙を見せたりなんかしたの、どうしてわざわざ彼女に心配をかけるような真似をしたの、と不思議がるもう一人の自分がいることに気付いた。

 けれども、その葛藤を撃ち破ったのは、そのどちらでもない。先ほど生まれた衝動だった。言葉になりたがって、ウメの喉を疼かせる。ああ、そうか、だから私はチハルちゃんに声をかけたんだわ、とウメはこのときやっと、自分の気持ちを知った。

 今にも崩れてしまいそうなチハルの顔は、悲しみでいっぱいになっている。チハルという名の器はそれほど大きいのか、見ている方が苦しくなる歪みを湛え、ウメを見上げていた。

 そこへ、ウメはまったく異質な水滴を落とした。

「チハルちゃん」

「な、なに」彼女の顔に波紋のような動揺が広がる。

驚くほど滑らかに、言葉が結ばれた。「二日前の夜に、私の白い毛を見たでしょう」ウメの声は淡々としていた。

 その瞬間、チハルの小柄な身が震えるのがわかった。悲しみを押し退け、器の底から別の感情が湧出すると、たちまち少女の表情は不安と恐怖と怯えで充たされる。

おずおずと見上げてくる少女から、言い訳めいたことを言わんとする気配が鮮明に伝わって来たので、ウメはそれをやんわりと制した。

「違うの。責めているんじゃなくて、私はただ、知りたいの。チハルちゃんが、本当にそれを見たのかどうか」

こんな聞き方をしているのだから、ウメはもう、彼女がそれを見てしまったことを確信しているのだ。だけれど、チハルの口から聞きたかった。それだけで、心に被さる紫色の雲が取っ払われるような気がした。

 しばらく、チハルは視線をあちこちに巡らせて、時おり、自分のことをジッと見降ろすウメの顔を仰いでは慌てて顔を伏せた。けれど、わざわざ促すようなこともせずウメが黙って見守っていると、やがて観念したように口を開いた。

「お姉ちゃんのお腹に、毛、みたいなのが」一瞬躊躇ってから、続けた。「あった」

「そう」

「お姉ちゃんは!」一瞬、チハルが勢いづいたみたいに言った。「人じゃ、ないの」そして、ウメがハッと目を瞠ったせいか、口にしたことを悔やむように悲しそうな顔をした。

「私は」ウメは通りところを見ながら言った。「そうかも。ううん、きっとそうなんだと思う。人じゃないんだと思う」残る涙を拭った。

 今度はチハルが目をパッと目を見開いた。「じゃ、じゃあ」不意に思い付いた言葉を言い放つみたいな仕草だった。

「お姉ちゃんは、誰なの」

「え?」

 多分彼女は、何者なの、と問いたかったのだろうとウメは思った。

「私は、私よ。ウメって名前をバアヤがつけてくれたから、私はウメよ」

 言うと、チハルは、しまった、という風に身を固くした。その様子を見て、ほんの何秒かしてから、何か言おうと戸惑っているチハルに、ウメは続けた。

「私のこと、どう思った?」

 チハルはまだ幼い。少年が一〇歳だとすれば、七つほどだろうか。だから、この質問の意図なんてきっと汲みとれやしない――そう考えて、ウメは言ったのだった。だから、衝撃を受けたように反応した彼女の悲しみに壊れてしまいそうな表情を見ると、胸が棘で刺されたように痛かった。

「お姉ちゃんのことなんて全然恐くないからね! 私はお姉ちゃんのこと、大好きだよ!」

 精一杯に叫ぶチハルの姿が、反ってウメの心を軽くし、そして湿らせた。

 私は子供にいったい、何を期待していたのだろう。慰め? 同情? 友達になってほしかったの? ――ウメは、自分がただの我が儘だったことに気が付いた。そうだ。そうに決まっている。おかしな力を手足のように振るい、へその下に人のものではない白い毛を蓄えている女を、子供たちが普通の眼差しで見られるはずがないのだ。子供は正直だ。そこから滲む恐怖や怯え、戸惑いは、彼らの心そのものを示唆するように純粋なものとしてひょっこり顔を出す。

 ほら、だからいまのチハルの目は、とても怯えている――。

 そんな彼女に対して、ウメは身を屈め、穏やかに微笑むと、そっと抱き寄せた。

「お姉ちゃん?」

 最初こそ戸惑っていたチハルだったが、すぐウメの腕の中で大人しくなった。まるで大樹の葉に小鳥が巣くうように、池のみなもに水鳥が落ち着くように、大人しくなった。

 チハルは困惑していたのだろう。怯えているとは言っても、この心優しき少女にはきっと、ウメと普通に接したいという想いがあった。だから二日前のあの日、チハルはウメに寄り添おうと必死に振舞った。しかしその一方で、おかしな力と白い毛の事実を知ってしまい、ウメは人ではないのかもしれない、という思いが芽生えだし、それがチハルの目を盲目とさせたのだ。ウメとどう触れ合うべきか。チハルはそれを見失ってしまった。

けれどもチハルは、それでもなお、ごく普通に接することに努めようとしている。やさしさだ。それが彼女なりのやさしさだ。

 小柄な人の子を抱き寄せながら、ウメは心に感じていた。

 それは熱だった。冷たい方の熱だった。本当は温かいはずなのに、心が凍傷を起こしている。チハルが必死になればなるほど、ウメは深く暗く寒い場所へと身を押しやられるような悲しみに見舞われた。チハルが悪いのではない。悪者なんてどこにもいない。強いて言うならば、人の心がそれだ。どうして人は、私のおかしな部分を知ると、こんなにも遠くへ行ってしまおうとするのだろう。本人の意志なんて構いもせず、チハルのような子供まで連れ去ろうとする人の心とは、いったいどのような存在なのだろう。

 そして、それを知りながら、彼らの選択――己に課せられた運命を受け入れられないウメという娘は、どれほど不器用で身勝手な生き物なのだろう。

 ウメは謝っていた。心の中で泣いていた。

 ――ごめんね、チハルちゃん。そういう気遣いが、私にはもう毒なのよ。堪えられないの。だから、ごめんね。

 やがて腕が勝手に解けると、ウメは少女の目を見ながら言った。

「ありがとうね」

「……ヤダ」

 チハルの眼が、そのとき怒った。ウメは呆気に取られ動けなくなった。

「お姉ちゃん、嘘ついてる。お母さんとお父さんと同じ顔してる。嘘つきの顔だ!」

 ――嘘つきの顔? それはつまり、どんな顔?

 チハルの目元に涙が溜まる。湧き水みたいだ。静かにじわじわと溢れ、それはやがて器から零れた。

「私は、嘘つき」問いかけるように、静かに言った。

「嘘つきだよ! お母さんもお父さんも、みんな私のこと誤魔化すときはいっつもそういう顔するんだから。どうして言ってくれないの! お婆ちゃんみたいに、本当のこと言ってよ!」

 本当のこと。つまりそれは、私にとっての何なのだろう。ウメは悩んだ。

 そのとき、二人の異変に気が付いたのだろう、ユウタが慌てた様子で駆け寄ってきて、双方の顔を何度も見直した。

「二人ともどうしたの。喧嘩?」

 ユウタは素直だった。ただの喧嘩とは全く異なる黒々しい空気が漂っていてなお、茶畑のような瑞々しさで語り掛けてくる。

「あのね」チハルがユウタに呼びかけた。「お姉ちゃんが嘘つくの」

 いきなりそんなことを言われて、ユウタは意表を突かれたような顔で戸惑った。「お姉ちゃんが、うそ? なんて?」

「ありがとうって言うの。全然そんなこと思ってもないくせに」

 子供というのはこんなにも疑り深い生き物だったろうか。ウメは不思議に感じた。小さい頃の私はどうだったのだろう。いつもバアヤに突っかかっていた気はするけど、相手の嘘を見据えようとする真似なんて果たしてしただろうか。

「ちょっと落ち着きなって。ありがとうって言ってもらえたのにどうして怒るのさ」

「空っぽのありがとうは人を傷つけるって、お婆ちゃんが言ってたもん!」

「えっと」

 ユウタは場をまるで理解できていない様子で、ただウメを見上げた

 ウメの中であらゆる感情が渦に巻き込まれ、ごちゃまぜになった。悲しみがあることはわかる。けれど、残りの感情の正体をウメは掴めなかった。苦しい。胸の辺りが窮屈になって、しかしやり場のない感情はみるみる膨れ上がってゆく。

「私は……なら、どうしたらいいの」ウメが呟くと、ユウタと、それからチハルの顔にギョッとしたような表情が刻まれた。「私はただ、あなたたちに素のままに接してほしいだけなの。何があったから仲良くしてほしいとかじゃなくて、そうじゃなくてね。ただ、自然な姿でお話してほしいのよ」

 荒ぶる感情の嵐の中でなおも息づく妙に客観的な部分が、のちのち後悔するんだろう、とウメの代わりに考えていた。このような泣き言、子供にするんじゃ大人げない。彼らだってきっと困っている。

「おねえ、ちゃん」それはユウタの声だった。

「お姉ちゃん!」続いてチハルが叫んだ。「私だってお姉ちゃんと、普通にお話したいよ! だけど私、この前はお姉ちゃんに酷い態度取っちゃったから、どうすれば許してもらえるのかなって、ずっと考えてたの。お婆ちゃんが、お姉ちゃんはとても辛い経験をして来たから、寄り添ってあげなって、そう言ってたけど、私はただお姉ちゃんと仲良しになりたかっただけなの。だから、だから――」

 と、その小さな口から段々とあふれだすものがあった。泣き声だ。耳を塞ぎたくなるほどのけたたましい泣き声が、チハルの口から滔々とあふれ返って、そのすさまじさにウメは我に返った。

 しかし、そのときウメが先に起こした行動は、チハルを慰めるでも弁解するでもなく、己の衣服を捲り上げることだった。

「ねえ、あなたはこれを見て、どう思う」

 ユウタに白い毛の存在をはっきり突きつけると、ポカンと口が開きっぱなしになる時間がしっかり五秒ほどもあって、それから徐々に徐々に、波紋が広がるみたいに声が顔をだし始めた。

「え、これ、本物なの?」

 ウメは声がだせなくて、無理に出そうとすると嗚咽になってしまいそうだったから、感情を必死に押し込めながら頷いた。

「なんかお姉ちゃんって色々すごいんだねえ。さ、触ってみてもいい?」

 そのとき、ピタリとチハルの泣き声が止まった。

 ウメは一瞬、時が失われたように静止した。しかし、目の前で好奇心をひた隠しにしないユウタを目にすると、首肯を示すことへの迷いは失せ、ウメは再び動き始めた。

「どうぞ」

「……へえ」草を捲るみたいな仕草で触れて、ユウタは言った。「だからお姉ちゃんあのときイノシシ追い返せたんだ! もしかして動物とお話できんの?」

「少しだけ。キツネとかリスとか、あとノウサギとか。そういうのとはみんなお話しできるの」

「へえ」

 何だか気がおかしくなったみたいに、ウメの中で蠢く感情はぐにょぐにょと形を変えていた。大きくも小さくもなれず、もがいている。だが、ユウタと言葉を交わす内に、ぐにょぐにょと蠢いている者の動きが穏やかになっていく。子守唄を聞かされている子供みたいに従順だ。

 ふと、ウメはもうひとつの視線に気が付いた。チハルが真っ赤に目を腫らしてウメのことを見上げていた。

「チハルちゃんも、触ってみる?」

「え」

 チハルは驚いている。当然だ。ウメだって自分で口にしていながら、内心驚きを隠せないのだから。声が上擦っている。

 どうしてこれほど大胆な行動に、私は出ているのだろう。それもずいぶんと突発的だ。これまで決して他人には見せることのなかったものなのに。あのバアヤにさえも、隠し通そうとしたほどだった。それがどうして――

「いいの?」チハルの声は震えていた。「本当に、触っても」

 僅かな間が生じた。

「ええ」

 毒虫にでも触れるような慎重と怯えと好奇心とが入り混じった、涙に潤んだ瞳で、チハルはそっと指先を差し出してきた。

「ふわふわしてる。それに温かくて、本物みたい」

「ふふ、本物だって言ってるでしょ」

「あ」

 ウメは何気なくやんわり答えた気でいた。しかしチハルには、その声が責めるようなものに聞こえてしまったのかもしれない。悲しむような顔をしたのだ。

「どうかな」ウメが問うと、チハルはハッと頭をもたげた。

「ううん」ぶんぶんと大袈裟に首を振っている。「恐くないよ、本当だよ」

 チハルは素直だった。あんまり気持ちを主張されると、それを反対の意味に捉えてしまうひねくれた部分がウメにはあった。けれどもチハルは、またさっきと同じように、まるで控える様子もなく訴えかけた。誤魔化そうなんて気は、この子にはないのだ。ただ純粋に、仲良くなることを懇願するような眼差しで、拳を握りながら真っ直ぐウメの目を見つめている。

 喉の奥が詰まった感じがして、ウメは僅かに身を引いた。けれども一瞬の内に緊張は解れた。

「ありがとう」

 言うと、今度こそチハルの口元が綻んで、同時にウメの中で蠢いていたものが霧散した。そして自分の中で弾けた衝動が何だったのかを悟った。

 ウメはただ、自分のことを嘘つきと呼んだチハルに対抗したいだけだった。ウメは嘘を吐かれることが一番嫌いだった。りくれん村では、みんな余所余所しい態度でへこへこと頭を下げてくる。全然本心じゃないところからでてくる言葉で、挨拶をしてくる。都の人たちを治療すると返ってくる言葉の中には、上っ面なだけの礼も多く見掛けた。それがウメは嫌いだった。だからウメは、挨拶と礼を伝えるときだけは、いつも心の底から叫ぶように口を動かした。

 そのはずが、チハルには否定された。それはつまり、ウメが彼らと同じ言動を無意識下で形に移していたという意味だ。それがウメには堪えられなかった。彼らを認め、過去の自分を否定するような言動は、例えそれが一度きりのものであったとしても許すわけにはゆかない。

 過去との決別。人でもない、動物でもないウメが、人として人の中で生きてゆくためには、まずそれを為さなければならない。そしていつかは――、自分のすべてを受け入れてもらえるような居場所を見つけたい。ウメの願いを辿ってゆくと、やがてはそこに行き着く。

 チハルが破顔して、ウメがくすくすと笑って。それを見ていたユウタが、わけがわからないと言わんばかりに二人を交互に見ている。

 穏やか、とは言い切れない心地にウメは包まれていた。ただ、気はずいぶんと楽になっていた。あの夜、あの男はウメに毛があることを知るや否や、化け物と遭遇したみたいにして転げ出ていってしまったけれど、子供たちは逃げようともしないで向き合おうとしてくれている。ユウタに至っては本当に邪気が無い。無邪気だ。ウメが望んでいるものと形は異なるけれど、それでもいま自分を認めてくれる者がいる状況に、まったく幸福を感じないなんてことはなかった。だから――

「このこと、誰にも言わないでいてもらえる」

 このひとときを崩したくない。そんな想いが湖岸に寄せる波のように迫ってきた。

 ユウタは最初、不思議そうに首を傾いでいたが、すぐに気持ちを察してくれたようだった。チハルは少し寂しそうだった。だけどウメは、そうしてくれた二人に、また微笑みかけた。

 村の人たちへ秘密を打ち明けるには、きっとまだまだ時間が足りないのだと思う。それは彼らにとっての時間ではなく、ウメにとってのものだった。

勇気が持てないのだ。


       12


 ちゃがら村に戻ると空気がおかしかった。

 南側の斜面を上りきってすぐに見えた村人の顔が、ウメの姿を捉えた途端、煩わしさが大半を占める表情にすり替わったのだ。九割が煩わしさを、残る一割は、頭の周りを飛び回る小虫を疎んじるような表情だった。

 ウメは不穏なものを感じ取った。チハルも、ユウタすらもその気配に気が付いた様子でウメを仰ぐ。平静を装った言葉を返してから、狭苦しい気がいがめないまま、ウメは村の中を歩んでゆく。

 すると、すれ違う村人の視線もまた実に毒々しいものだった。棘のように痛い。肌がひりひりするような感覚に、ウメは見舞われた。

 少しすると、ユウタの両親がやって来た。

「坊主、こっちに来い」

 父親が、ユウタの身を半ば強引に引き寄せた。母親が酷く困惑した目でウメを見つめている。

「何だよ、父ちゃん!」ユウタが足掻いて父親の腕から逃れた。

「いいからこっちに来い」

「父ちゃんも母ちゃんもいますっごい嫌な目してるよ。お姉ちゃんが二人に何かしたの」

「いいから来い。それからあんた、今すぐ婆さんのところに行きな。急いでな」

 父親の眼差しにはウメを責めたてる情と、僅かに身を案じるような情が感じられた。傍に立つ母親が、そこで前に踏みだした。

「あんたにはあのとき世話になったよ。ありゃあ、本当に助かった。けど……ごめんねえ。私らはやっぱり、これまで通りに暮らしたくて、それでね」

「おい、母ちゃん」ユウタの父が、言葉をなかなか断てず、口走ろうとしている母を制した。

「ともかくあんたは、すぐ婆さんのところに行ってくれ。チハルは、すぐお母さんのところへ戻るんだぞ」

「ヤダ」

 チハルは鋭く言い放った。真正面からそれを受けたユウタの父が目を丸くし、そして顔に影を落とした。

「行くぞ、坊主」表情を改め、ユウタの父が言った。

「俺だって嫌だよ! 離してよ!」

 必死に抵抗するユウタの身を引きずるように、彼の父親は去っていった。その去り際、母親が首だけで振り返って頭を下げたのだが、その表情がなおのことウメに居た堪れなさをもたらした。同情はしている。けれども、赦すことは、赦されない――激しい葛藤の念をウメは感じた。

 チハルが不安げにウメのことを見上げ、呼びかけた。しかしウメは、ろくに言葉も返してやれず、眉を強く寄せ合い、唇を内に巻き込んだ。

 老婆の元へとすぐさま向かった。その道中で、チハルのことをウメは追い返した。チハルはもちろん抗ったが、ウメの顔を見ると、やがて悲しそうに俯き、歩き去った。

何となく、ウメはこの不穏な空気の元凶に察しがついていた。ならばチハルやユウタに、これから老婆と交えるであろうやり取りを聞かれたくない。心臓がぎゅうぎゅうと握られている圧迫感に堪えながら、ウメはその板戸を横に引いた。

いつものように、老婆が茶をすすっている。赤ん坊の姿はなかった。誰かに預けているのだろう。彼女の正面には、囲炉裏を挟んで何も置かれていない。ウメはそこを一度見て、それから立ち尽くしたまま老婆を見た。

「さっきね」老婆の声は細くしゃがれている。「りくれん村の村長が来たよ」

 ドクン、と体が跳ねるほど、ウメの心臓が高鳴った。

「私を連れ戻しに来たのですか」

 老婆は頷いた。「どこかであんたの姿を見たのかもしれない。わたしゃああんたのことなんか知らないと話したんだが、あのジイさん、確信を得ているみたいに言ったんだよ。ウメが見つからなければ、この辺りの森がどうなるかわからない、とね。この前話しただろう。フタゴグサのことさ。あれはやっぱり、りくれん村の村長の仕業だったんだ。どこで手に入れたのかはわからないが、あんたが帰ってこなきゃ、その種を、この辺り一帯に撒くって」

「そんな……」

「もちろん、それだけで森を荒らせるわきゃあないがね。フタゴソウが植生できる場所は限られてる。けど、そんなことはあのジイさんだって承知のはずだ。それであんな強く言い切ったってことは、他にも毒草の種を握っているのかもしれない」

 そう語る老婆の声は落ち着いていた。だが、目はそうではない。囲炉裏の真ん中に吊るされた鍋の中をジッと見つめたまま動かない。何か、思い詰めたような色が窺えた。

「そんなことをすれば、この辺りの動物にだって被害が」

「それだけじゃないさ。私らの畑作に、万が一でもそんなもんを撒かれた日にゃあ、私らは飢え死にすることになる」

 体温のサッと低まってゆく感覚を覚え、ウメは肩を縮めた。「どうしてそこまでして」

 ウメの独り言ちる言葉に、答えることを躊躇するような間を置いてから、老婆は言った。

「あんたが金になるからだろう。あんたがいれば、暮らしは裕福になる。間違いなくね。その生活が惜しいんだよ、少なくともあのジイさんは」

 目の前から光が消えるような錯覚にウメは見舞われた。沼に沈んでいる。気が付かない内に沈んでいき、視界までもが覆い尽くされてしまった。そうさせているのは、真下から伸びてくる人の手だった。その手から、ウメは逃れることができない。

「この村を出るかどうかは、あんたの好きに」言いかけていた言葉が、不意に途切れた。「いや、これじゃあ、私は卑怯者になっちまうね。――ウメや」

 ウメはハッとして顔を上げた。首が重く、体中の自由が利かないみたいだ。沼が現実となって現れたみたいに、呼吸も苦しい。

「はっきり言うよ。私はあんたに、こんな不自由な選択を迫りたくない。だから、言うよ」

「いえ」ウメは震える声で返した。「もう、結構です。ありがとうございました」

 老婆の頭が僅かに前へと傾いた。

「そうか。悪いね、ウメ。……私はあんたを助けられんかった。同じ、りくれん村出身の者として、何とかしてやりたかった」

 もう一度頭を深々と下げてから、顔を見られないようサッと身を翻し、そのまま小屋を飛びだすと、ウメは北の山に走った。

 走りながらウメは、出来る限りを尽くして楽しいことを想像した。りくれん村に戻ってからウメを待ち受けているであろう、楽しいことだ。

例えば――なんだろう。いきなりつまずいてしまった。本当にウメは転んで、山の斜面に倒れていた。

例えば、例えば、と繰り返し考えることは、それでもやめなかった。

すると、菓子のことが思い付いた。立ちあがり、再びウメは、膝や手に付着した土も払い落さず、草木の茂る山の斜面を不格好に走りだした。

りくれん村に戻れば、都の菓子にあやかれる。菓子は上手い。甘くて、ふわふわしていたり、とろんとしていたり、サクサクしていたり。特にウメは、ネリキリと呼ばれる甘菓子が好きだった。最後に食べたのはいつだっけ。もう一〇年以上昔だ。村に帰れば、食べられるのかな。ちょっぴりだけ期待しておこうか。

それに――、そうだ。菓子だけではない。りくれん村は作物も豊富だから、毎日色々な味を楽しめる。ちゃがら村では、僅か数日の生活でさえイモと山菜だけの日々が続いた。けど、りくれん村ではそんなことはきっとない。毎日多彩な食材に包まれていて、満腹になれるんだろう。

それに、だ。人が住む小屋には穴なんてものがない。床板も磨かれ、布団も厚みがあって温かくて、囲炉裏も独り占めできるから、これからの寒い季節を想えば、ちゃがら村よりもずっと快適に暮らせる。

 食べてゆったりすることばかりだ。

 山の斜面を上りながら、ふと、ウメは思った。何だか、畑作への期待がまるで湧かない。コナラの木を切り倒すために体力を絞り切ることも、茶畑のみずみずしさを目の当たりにして感嘆することも、りくれん村では経験できない。りくれん村ではお姫様となるウメに、そのような気持ちは不要だから。ウメはただ、日々遠い地からはるばるやって来る都の者に、治癒の力を注いでいればいい。それだけの存在――、そう、ウメは操り人形だ。りくれん村の人々が思ったように動くだけの人形だ。

 だけどそれだけでは退屈だから、ウメはたまに、チハルや少年に会いに行こうと思った。お婆ちゃんにも会って、たまにはっきりと物を言われたい。バアヤみたいに叱ってほしい。

――彼女たちは私のこと、快く迎えてくれるのかな。さっきみたいに、受け入れてくれるのかな。

木から垂れさがるツルが肌の白い顔を打った。その痛みに、ウメは我を取り戻した。

りくれん村まではもう少しかかる。夕焼け色が空の端っこに見え始めているので、到着は日没後かもしれない。だけど、ここから先はもっとゆっくり進もう――そう思った矢先、目の前でひしめく木々の裏側から、見知った老人の顔がぬっと出現して、ウメは足に杭を打たれたように立ち止まった。

「おお」老人は一瞬目を瞠り、そして笑った。「ようやく会えたか、ウメよ」

「村長……」

 ニカニカ笑顔を見ていると、ここ数日間の暮らしが嘘みたいに消失していくようで、それにともない、ウメはだんだん気の遠ざかるのを感じた。


       13


 目を開くと、ウメは薄暗い場所で、麻布の布団に抱かれ仰向けになっていた。体温が溜めこまれて温かい。最初はそこがどこだかわからなかったが、身を起こして辺りを見回す内に、暗闇の中でも辛うじて見える景色に覚えがあって、そこが自分の家なのだと察した。どうしてか小窓の外側に板のようなものが張りつけられている。そこから忍び込む光が、外で陽の昇っているのをおしえてくれるけれど、視界はやはり暗くて判然としないので、手探りで引っ張り出した火熾し具を用いて囲炉裏に火を灯した。

 それからウメは、しばらく考え込んだ。

 いつの間に帰ってきたのだろう。どうして窓が塞がれているの? 山に入り込んでからの記憶があやふやになっていて、現状が読めない。

 そのとき、壁に寄せてある身丈の低い棚の上に置かれている、なんだか見覚えのあるものが、ウメの視界に飛び込んだ。歩み寄ると、それは花の形を模した都ものの髪飾りだった。髪をはさみ込む部分を熾火の灯に照らしてみると、妙にきめ細やかな紋様が掘られている。

 ゾッとして、ウメは自分の身を抱え込んだ。これは、そうだ。あの夜、ウメを襲った男が持ち寄った、「治療代」だ。すると、手の平に握っている衣類の感触が微妙に違っていて、ウメは自分が着込んでいるものを見下げた。

 真新しい。おかしい。血が黒く固まった跡が消えている。ウメはあの夜、襲われた際に付着した血を、結局消しきれなかった。それをそのまま、ちゃがら村で老婆にどやされながらも着続けた。そのはずが、血の跡が見る形もなく消え去っている。

 誰かが着替えさせたんだ。

――誰が?

 想像した途端、鳥肌がウメの全身を這った。ゾゾゾッ、という寒気が巻き起こる。

 ウメは戸口の方へと駆けだしていた。一刻も早くこの家から逃げ出したかった。また襲われるかもしれない。そんな予感が影のように付きまとう。

 だが、手をかけた戸は、どういうわけか開かなかった。別につっかえ棒をしているわけではない。それなのに、力を込めても左へずれ込む手応えが得られない。いや――僅かにずれてはいるのだ。けれど、強靭な力で抑え込まれたみたいに、ほんの隙間さえ生じないところでピタッと食い止められている。

 さらなる悪寒が走って、ウメは我知らず内に一歩二歩と下がっていた。歯の根が合わなくなり、しかしそれは寒さによるものではないので、自らの腕でいくら体を抱え込んでも収まりようがなかった。

「開けて……開けてよ! 誰か、開けてよ! お願い!」

 堪えきれない恐怖に駆られ、ウメは握った拳で戸口を幾度となく叩いた。板が割れそうなほど振動して、雷鳴のような音が絶え間なく続く。ささくれが手に突き刺さってもやめずに腕を振るい続けていると、やがて反対側から人の声がして、ウメはピタリと動きを止めた。

「やかましいぞ、ウメ」

 呆気なく、戸が開いた。だがその直前、ウメは何やらガチャガチャと音がするのを間違いなく聞いた。見ると、戸の縁に細長い金属が埋め込まれている。それが、熾火の灯りをちらちらと反射していた。

なんだろう? その答えを知る間もなく、開いた戸の先に立っていた村長が口を開いた。

「貴様はもう少し静かにできんのか」

「村長!」ウメは何かを訴えかけようとしたが、言葉にできなかった。それは、衣類を着替えさせた者の正体だったり、戸が閉じられていた理由だったり、ウメを襲ったあの男の状態だったり、戸にはめられている金属のことだったり、とにかく多くの疑問が一本に綯えられた結果だった。

「どうした、妙な顔をして。数日振りに拝める村がそんなに珍しいか」

 寒々としている村長の頭を越えた奥の方には、記憶に厚く練り込まれているりくれん村の景色がずっと広がっている。どこからか雑踏が聞こえてくるので、村人たちは畑作などの作業に打ち込んでいるのかもしれない。

「ふん、勝手に村から逃げ出しておいて」村長のしわだらけの顔はしかめられている。「だが、これからはそうはいかんからな」

「え」村長の声に含まれたものを感じて、ウメの気が委縮した。

「お前の家に鍵をつけさせてもらった。これでもう、村から逃げることはできん」

 ウメが視線を落とした先で、細長い金属が戸にはめこまれている。ハッとして、思い切り床を蹴りだした。が、それよりも早く、村長が身を引き、戸を閉めた。

「痛い!」

 顔から戸板に衝突し、呻いた。鼻がズキズキして、触れると血が流れ出ているのがわかった。

 金属板のところからガチャガチャと音がして、ウメは血の付着した手で慌てて戸を左に引っ張ったが、遅かった。

「無駄だ。もう貴様は、逃げられん。これから治療客はお前の家へと連れてくる。貴様はただ、治療の力を流しておけばそれでいい」

「ふざけ、ないで」鈍い音が鳴るほど強引に絞ると、ウメの喉からは濁った声が発せられた。「私は普通に生きてゆきたいの! バアヤが生きていた頃のように、普通の人として、生きてゆきたいのよ! それをどうして邪魔するの!」

「人だと?」

姿を見なくともウメは悟れた。酷い憐れみと憤怒の情念が入り混じっていた。

「何を言う。摩訶不思議な力を操り、人外なる体毛を生やしている。どこからやって来たとも知れないおぬしは、あろうことか、あの凶念樹の根本に倒れておった赤子が成長して出来上がった形だ。それを、人として生きたいだと? 馬鹿を言うな。こうして同じ村の中に置いてやっているだけありがたく思え。養われているだけ、ありがたく思え」

「何よ、それ」

 とうとうウメは、膝から崩れ落ちた。素足が土間に擦れる。手の先が戸板のささくれに引っ掛かり、爪先に嫌な痛みがじんわり広がる中で、ウメはただただ絶望した。

 やがて、戸の向こう側から人の気配が消えた。飯は一日に二度運ぶと告げられたらしく、その名残が、ウメの耳の内を狂った羽音のように残響していた。

 どれほどその場で縮こまっていたのだろう。小窓の外側には板が張りつけてあって、以前のように外の様子を眺めることはできなくなっている。だが、板と窓枠の隙間から差し込む微かな光の薄らぎが、夜の帳が降りるのを告げてくれた。

 暗い部屋で、誰かが運び、勝手に戸の内に入れられた水を使って湯を沸かす。そうしてから熾火に淡々と視線を落としていると、ちゃがら村で老婆がいれてくれた茶の味が思いだされた。あの苦みは、こういうときにこそ飲みくだすべきものだったのだと、ウメは思い知った。そういえば、あの人は決まって、心が乱れているときに茶を飲むよう勧めてくれた。

 ますます嫌な気が重みを増して、揺らめく赤い灯りの中、ウメは先ほどから鬱陶しく感じていたものを追い払うことにした。鼻から出ていた血を湯に晒した布で拭い取る。爪の間に刺さっていた板の棘を、湯に通した板の棘で抉りだす。バアヤの知恵だ。下手に指で取ろうとすると余計に深入りしてしまう恐れがあるので、同じ棘で棘を除いてやる。ちょっと痛いけれど、不思議とこのときは何も感じなかった。

 不快感が多少慰められると、次第に腹が空き始めた。何も食べたくないのに、腹の虫は鳴る。明朝に鳴くカケスのやかましいそれよりもずっと貧弱で細い音のはずが、ウメは何故だか心底苛立った。欲求が向く先と理性の向く先とがすれ違いを起こすと、人は頭がおかしくなるのかもしれない。時おり、ウメは床を殴りつけた。手首が痛んでも気にせず殴り通していっても、何も報われない。

するとそのとき、戸の外に人が立ち止まる気配を感じた。ウメは耳の調子だけをそちらに傾けた。声はしない。金具ががちゃがちゃ弄られて、勝手に弄られて、勝手に人の家の戸を開けると、男は人の家の戸を潜り抜けて「晩餐だ」その言葉と共に、板に乗せてある食事を差し入れた。

男の声に聞き覚えがあって、ウメはハッと頭をもたげた。宙に浮かぶ、痩せこけた人の顔――視界が不明瞭な薄闇の中で、しかしウメは、その者が誰なのかを見極められた。途端に震えが湧き上がって、逃げ出すために身を捻ると、右手が囲炉裏の中の熾火に触れて、ウメは悲鳴を上げた。

「あつっ!」

 男がびくりと震えた。右手を抑えて悶えるウメに、男は声をかけてきた。

「お、おい、大丈夫か。いますぐ水持って来てやるから、待ってろ」

「う、うるさい! あなたなんか、来ないでよ!」

 それは、あの夜ウメに襲いかかった男だった。右手に感じる灼熱よりも煮えたものが、ウメの腹の底でぐつぐつと泡を噴き始める。しかし、それに反して、身体は逃げることばかりを望んでいる。外へ駆けて行った男が器を抱え戻ってくる頃になると、ウメは部屋の隅へ身を押し詰めるように縮こまっていた。

「水、置いとくぞ。……あのときは、すまなかった。もう二度とあんな真似しねえ」

 言うだけ言って、男はまさしく逃げるように戸を閉めると、やけにうるさく金具を鳴らして施錠した。余程慌てていたのか、人の転ぶ様子が、男の声に変わって外から聞こえてきた。

 ウメは歯噛んだ。

「ふざけないでよ……何なの、いったい……」

 味噌汁の良い匂いが漂ってくる。お腹が鳴る。男の声が頭の中で木霊する。右手の火傷がずくずくと疼く。

 しばらくしてから、ウメは飯だけを食った。味噌汁と山菜と芋と白米と何かのキノコが盛り付けられていて、美味しかった。そう感じられたことがまた腹立たしかった。一方で、水には手を触れなかった。火傷をそのままにしておいたので、小さな水ぶくれが出来ている。細長くて最初はミミズみたいだと思ったけれど、先っちょの方はぷっくら膨れているのでどちらかと言えばキノコだった。

 人の心とは皮肉なもので、食事をして少し経つと、先ほどまでの嵐は嘘のように消えていた。秋風にそっとなぶられるススキ原のような穏やかさが、いまはウメの心を満たしている。

 すると今度は、右手の痛みが気になり始めた。火傷もそうだが、先ほどまで床を殴りつけていたこともあって、右手が全体的に脈打っている。

ウメは泣いた。痛みに対して。いまの自分に対して。へその下に触れるとやっぱり白い毛はあって、撫でると心はさらに落ち着いた。落ち着いたので、ウメはそのまま眠ることにした。

目を覚ましたのは、朝食が運ばれてきたからだ。遠慮もなしにガチャガチャと金具を弄る音に叩き起こされた。目を開くと、朝だとは思えぬほど、家の中は、初め暗かった。小窓と板の隙間から漏れるか細い光しか頼れるものがない。そこで戸口が開かれると、突風のような光が一気に家の中を照らして、ウメは目を細めた。

「朝食後、すぐ客を呼ぶ。一時後だ。それまでに準備せい。必要なものがあれば戸を叩け。外に人が立っておる」

 村長はそう告げると、また戸を閉めた。部屋が薄い闇に包まれる。

え、というウメの声はすっかり掠れていた。

外に人が立っている? ひょっとして、これからずっと? 私は本当に、人に監視されて生きてゆくの?

 ウメは戸を叩いた。

「なんだい」年配の女性の声だった。

「外の光が浴びたいんです」

「ダメだよ。そんなこと許したら、私がジジイに叱られちまう」

「お願いします。朝なのに太陽が見られないなんて、何だか嫌なんです」

 声の主はしばらく黙った。

「いや、やっぱりダメだよ、ウメちゃん」

 ウメちゃん――、その言い方に、ひとつの予感が閃いた。それにさっきこの人は、ジジイ、と言った。きっとそれは、村長のことだ。だったら――

「おばさん? もしかして、おばさんなの?」

 怪我を治した礼に、と言って、――食べきれずに困っていた――芋を届けてくれたことはまだ記憶に新しい。ウメはすがる思いで戸を叩いた。

「ねえ、お願い。ここから出して。どうしておばさんまでこんなことするの」

 彼女は上っ面な言葉ばかりを並べるような人だけれど、それでも他の村人と比べればずっと自然に接してくれる。おばさんのことが少し苦手ではあるものの、その点だけは感謝していた。それに、バアヤと仲が深かった彼女ならば、きっと助けになってくれる。

「あんたには悪いんだが」そんな淡い希望も虚しく、おばさんはバツが悪そうに言った。「潔くそこに収まっといてくれよ。これもみんな、この村のためなんだ」

「なんで。おばさんも、そんなにお金が大切なの」

 おばさんは黙った。

「ねえ、何とか言ってよ。あんなに良くしてくれてたのに。私にとってはおばさんだけが唯一頼れる人だったんだよ」

「うるさいよ!」おばさんは怒鳴った。「それならどうして村から逃げようとしたんだい。あんたがねえ、そんなことするから……。本当に頼っていたんなら、どうして私の元へ駆けこまなかったんだい」

 言葉に詰まって、ウメはスッと戸口から離れた。

 すると、戸の向こう側から村長の声が聞こえてきた。

「何をごちゃごちゃ話しとる。余計な言葉なんぞ交えるな。わかったな」

 ウメとおばさんどちらに対する言葉なのかは判然としなかったが、どの道二人のやり取りはそこで途絶えた。

 ウメは仕方なく、火を熾してから朝食をとることにした。箸を握ると昨晩負った火傷が思ったよりも痛んだので、ウメはおばさんに水をねだった。声をかけても返事がなかったため不安が胸を過ったが、村長の言葉にしっかり従順となって役目を果たしてくれた。つまり終始黙りっぱなしだった。

「ありがとうございます」水を受け取り、ウメはそう返した。けれどもおばさんは何も答えてくれない。

 水で一杯になっている陶器の中に右手を突っ込む。ひんやりとして気持ちがいい。これで火傷が治るわけではないけれど、いくらか痛みは緩和されるだろう。そういえば火傷に効く薬草があるはずだけど、それを頼んだところで村の人たちは見付けられるのかしら。

 些細なことを考えながら食事を進めていたら、不意におばさんの方から声をかけてきて、ウメは驚いた。

「ごめんよ、ウメちゃん。本当は私だってこんな真似したくないんだよ」村長に悟られることを恐れているのだろう、意識を集中せねば拾い損ねてしまうほど小さな声だった。「あのジジイがさ、都の人間と協約みたいなもんを結んじまったんだよ」

「どういうこと」

 ウメは箸を置き、戸の方へと跳ぶように寄った。

「あんたの治癒の力を自由に使わせる代わりに、都の方から多くの支給品を頂戴できるよう、ジジイの方から話しを持ちかけたんだよ。この鍵だってそうさ。あんたのことを閉じ込められるようジジイが手配したんだ。……ちょっと待っとくれ」

 人が来たようで、おばさんは閉口すると、誰かと話し始めた。途切れ途切れではあったが、会話のきれっぱしは聞き取ることができ、どうやら交代時間についてのやり取りらしいことはわかった。

 その間、ウメの思考は堂々巡りしていた。

 都との協約。村長はそれを通すことによって、りくれん村にさらなる潤いをもたらそうとしている。その代償として、ウメが――いや、ウメの力が払われるのだ。

 けど、だからってどうして村の人はそれに従うのだろう。いくら村長の意向だからと言っても、それまで共に生活してきた村人を監禁するようなやり方に、村のみんなが賛同するとは、ウメにはとても思えなかった。いくら対等でない扱いをいま受けているからと言っても、ウメだって子供の頃は村のみんなとそれなりに楽しく過ごしていたのに。

 おばさんの声が戻って来たので、ウメはすかさず問いただした。

「あのジジイがとんでもないことを言いだしたんだよ。もしも自分に逆らえば、都の者の力でこの村を追放するなんて言いだしてさ。だからみんな、生活が危ぶまれるような真似じゃなくて、自分たちが安全にいられるよう、あんたのことを」

 おばさんの声が途切れた。言い詰まった様子だった。

 村長がそんなことを? ――という疑問が芽生えて、そのときウメはようやく、村長のやり口が過剰なのだということに気が付いた。これまでもウメに対する態度は、まさしく金づるに向けるそれだった。しかし、監禁などという手段を講じるほどではなかった。

「村長って、そんなことを言う人だった?」

 するとおばさんは、躊躇うように語りだした。

 実はウメの知らないところで、村長は都の者と取引のようなことを長いこと交わしていた。しかもそれは、ここ最近の話に留まらず、あろうことか数年も以前から、そうしたやり取りをおばさんは見掛けてきたと言った。

「こんなこと、本当に話していいのかわからないんだけどね、あのジジイ、都の人間に頼まれて毒草の種まで撒いたんだよ」

 りくれん村から山一つ分を隔てた先にあるちゃがら村で育まれている茶畑を、都の人間は欲しているのだとおばさんは言った。茶は高価なものだ。都ではすでに多くの茶が出回っており、村の茶畑では大して儲けが出ないとちゃがら村の老婆は話したが、高価なことに変わりはないのだろう。しかし、無理にそれを手に入れようとすれば、必然的にいざこざは生じる。そこに煩わしさを覚えた都の人間が、毒草の種を撒いてくれないかという話をりくれん村に持ちかけた。

「毒で村の人間全員を弱らせて、そこにつけこもうって魂胆だったみたいなんだよ。薬草だかなんだかを交渉材料に茶畑を手に入れようとしたんだ。けど、どうやら失敗したみたいでね。都の人間がそれを知らせに来て、そのときにウメちゃんが隣の村にいるってことをジジイに言伝したみたいなんだ」

 だから村長は、確信をもってちゃがら村へ押しかけてきたのだ。

「そんなわけだから、あのジジイは何もいきなりおかしくなったわけじゃないんだよ。元からなんだ」

 元々思考のたかが外れたような村長を前に、ウメは逃亡を図った。村長にとってウメは大事な金づるだ。きっと都の人間との取引の際にも、多分にウメをタネとして持ち寄ったに違いない。絶え間なくやって来る都の客のことをウメは思いだした。そのタネが突然行方を眩ませて、村長は焦ったのかもしれない。これまでウメは、はっきりと村を逃げ出すような意志を示すことはなかった。けれども、村長に対して反発することは幾度となくあった。そこから辿っていき、ついにタネの鬱憤が爆発してしまったのだ、と村長は予感したのだろう。それで金輪際、ツルが逃げ出すことのないよう策を弄し、講じた。

「ごめんね、ウメちゃん」おばさんが悲しげに言った。「私も、みんなと同じで恐いんだ。この村を追い出されたら間違いなくの垂れ死んでしまう。それであんなジジイの言うことなんて」

「しょうがないわ、おばさん。悲しくないなんて言ったら嘘になるけど、でも、やっぱり、しょうがないと思うの、私」

 それでも、胸の苦しさは消えない。どれだけ仕方がないと思ってみても、そこだけ独立して意思を持ったみたいに、ウメの胸はきゅうきゅうと締め付けられた。

 だって――、そうだ。村長に従えば、この村の懐はそれだけ潤う。いわゆる幸せを掴める。それをわざわざ捨ててまでウメを助ける道理なんて、この村の至る所を探したってありはしないのだ。

「本当にごめんね、ウメちゃん。けど私、出来る限りのことは協力するから。だから、何でも言ってね」

 何でも、とは言うが、逃亡に手を貸す気はないのだろう。おばさんはそういう人だ。口だけは達者だ。きっと欠片ほども思っていないに違いない。それに、もしもそんなことをすれば、謀反が露呈したとき、村長にどんな目に遭わされるかわからない。下手な協力は不幸を招き入れるだけだ。

「安心して。私はここで大人しくしているわ」

 一言添えただけで、おばさんの酷く安心したような声が返って来た。

 朝食の残りを食べながら、ウメはあることを心に決めた。

――もう一度この村を出てやる。絶対に逃げ出してやる。ウメはそれだけを固く決意し、フカシイモを丸かじりした。


       14

 

「怪我は治しません」

客が来たとき、ウメは開口一番にそう告げた。

 ウメを前にした高貴そうな男性はもちろん、傍らで穏やかに微笑んでいた村長までもが唖然と口を開いた。

村長は何故か普段持ち歩かない杖を手にしていた。ここ数日、山の中を移動してきたつけが回って、今朝がた急に腰を痛めたのだそうだ。その治療を求められたが、ウメは拒んだ。その後、たわいないやり取りを繰り返すうちに客が来てしまったという具合だった。

「先ほどの反抗と言い、何をぬかしておる、ウメ」人の家の板張りの床に平然と杖を突きながら、村長は足腰を微かに震わしながら言った。

「ただし、どうしても急を要する方だけは治療します」村長を無視してウメは言った。

 木の杖を突きながらウメに勢いよく迫ると、村長は怒りも隠しきれない様子で囁き声を並べた。

「ふざけるな。貴様はただ怪我の治療だけしておればいいんだ。簡単なことだろう。さあ、早くやれ」

 ウメはそれすらも無視して、自分の右手をスッと正面に伸ばした。手のひらのミミズみたいな火傷の跡に加え、手首が痛々しく紫色に腫れている。

「私は私の怪我を治すことができません。そのような状況で他者の怪我を治すことははっきり申し上げて不本意です。従って、私は余程の急を要す方でない限り、力を振るうことは致しません」

 村長が唸った。客が困った様子でそんなジジイに視線を向けている。

「あの、村長さん」客がついに口を開いた。「これはどういうことでしょう」

「ちょ、ちょっと待っておってください。すぐに治療させますので。こら、ウメ。怪我を治すことが人助けになることはわかっているだろう。それを自ら拒むというのか」

「ならば」ウメは村長に斜視を突きつけた。「私の好きなようにやらせていただけますか。そうすれば、治療なんていくらでもして差し上げます」

 顔が震えるほど強く歯噛みながら、村長はしばらくウメを睨み付けていた。やがてこわばりが解けて、深い嘆息と共に、致し方なしと言った風に村長は許可を下した。

「では」

ウメは手早く、目前の男性が包帯を巻いている右ひじに手を添えた。茫洋とした光が浮かび上がって、戸口の方からしか陽の差し込まない、微かに薄暗い部屋の中がほのかに黄色を帯びる。一生懸命に首を伸ばして覗こうとしている子供の姿が窺える客列から、大人たちの感嘆する声が上がった。

「はい、これでもう大丈夫です」

「ああ、本当に治ってる……。ありがとう。これは礼だ」

 と、男が差しだそうとした紙袋を、火傷の跡が生々しい右手の平を突きだすことで、ウメは押し返した。

「それは受け取りません」

「な」村長の驚く声が、客の目を丸くするのと同時に発せられた。「何を言っているのだ、ウメ!」

「私の好きに治療するということは、こういうことです。この力は、なにも私に悪影響を及ぼすものではありません。自分でも驚くほど呆気なく、人の怪我なんて治せてしまうのです。そんな楽をしているのにお礼を受け取るなんてこと、私にはできません」

「ふざけるでない! ならば何のための治療だと言うのだ!」

 ウメはくるりと首を回し、自分を見下ろす村長に微笑み返した。

「あら、人助けなのでしょう。先ほど村長が自分でおっしゃっていたではありませんか」

 ぐぬぬ、と、村長の喉から果実を絞るようなおかしな音が漏れたので、ウメの微笑みが緊張に引き崩された。

「ええい! やめだやめだ! 今日の治療は取りやめる!」

 瞬間、客列からどよめきが走った。彼らの中には、着物を纏う可憐な女性の姿や、きらびやかな飾り物を頭に着けている子供の姿まで見受けられる。彼らはみんな、都の人間だ。村長と取引を交わしている都からやって来た者たちだ。当然、不服を示す声が湧き上がった。

「村長、それはどういうことですか。話が違いますな」

 その一言だけで冷静を取り戻したらしい。「す、すみませぬ。ただ、いくら協約を結んだからと言っても無償で治癒を提供するというのは、こちらとしても」

 言い淀む村長に、都の人たちは互いの顔を見合わせると、やがて踵を返した。しかし、最後までその場に残っていた者が二人いた。チハルほどの年齢と思しき男の子と、その母御らしき――と言っても、ウメと然程変わらぬ肌艶をしている――女性だった。先ほどの治療のときに望めなかったのだろう、男の子は顔を歪め、ヒカリが見たい、とぐずり、母御を困らせている。

 村長をチラリと見る。何だか疲れ切った様子で部屋の壁に寄りかかろうとしていた。ウメはすかさず立ちあがって、男の子の傍に駆け寄った。

「怪我、見せてくれる」

「え」戸惑ったが、男の子はすぐに着物を捲り上げて、色白肌の膝小僧を見せた。「家のお庭で転んじゃったの」

 やんちゃ盛りなのだろう。ただ、ユウタとは随分印象が違って、ウメは都の匂いを感じた気がした。

 かさぶたさえ出来ていない赤っぽい傷口を、ウメはささっと治してしまった。母御が、まあ、と声を漏らして、男の子が晩春に咲く黄色い花のようにぱあっと表情を明るめる。

「ありがとう!」

 するとウメのように肌の艶やかな母御が、癖みたいな手早い動きで着物の裾から紙袋を取り出したので、ウメはそれも制止した。

 母御は戸惑ったような顔をしていたが、やがて男の子と揃って頭を下げると、すでに行ってしまった都の者たちの後を小走りに追った。

「こら! 貴様いま、何をしておった! まさかあの子供の怪我を治したのではあるまいな」

「治しました」

 それだけ言って、ウメは家の中に戻ると、大きく音を鳴らして戸を閉めた。内から鍵は閉められない。てっきり村長が怒鳴り込んでくると思ったが、むしろ荒っぽく鍵を閉めると、一言残して気配ごと消えてしまった。

「今日の飯は抜きだ! よく反省しろ!」

 まったく。何を反省しろと言うのか。

 ようやくひとりになれてホッとする反面、凄然とした想いが込み上げて来た。結局、彼らの怪我を治すことはできなかった。

 怪我人を追い返すなんて真似は、ウメにとっても喜べることではないのだ。ウメが少し手をかざしてやれば、その人は身も心もスッと楽にして帰路につける。痛いことは辛いことだから、それを取り除いてやれることは、ウメにとって、本当は喜ばしいことだ。だけどその一方で、金品を巻き上げるような行為が許せない。ウメは金儲けの道具であることを激しく拒絶している。金品を受け取ることさえしなければ、いくらでも怪我をすっかりきっちり消してやるつもりでいる。だから、村長が見ていない間に男の子の怪我も治してしまった。

 ふと、男の子の声高いそれが、頭に響いた。

 ――ありがとう!

 ウメの口元が緩んだ。まさか、都の子供にあんな笑顔を向けられるとは思っても見なかったのだ。都に対して、ウメはもっと冷たい印象を抱いていた。だって、村長とおかしな取引をするような人たちが暮らす世界だ。もっと高慢な性格で、山奥の村に住む人間など見下しているのだとばかり思っていた。

 やがて見張り役の人がやって来たので、ウメはコナラ林から葉を持ってくるように頼んだ。以前に拾っておいたものはちゃがら村で生活していた頃に失くしてしまったのだ。最初こそ怪しんで受け付けてもらえなかったものの、バアヤが作ってくれた髪飾りを編みたいと言うと、男の声が、村の道をゆく誰かにそれを託した。

 戸が開き、コナラの葉が一〇枚くらい重ねられて土間に置かれた。

 ウメは礼を言って、沸かしておいた湯に葉を沈ませた。それを箸で摘まみとって、陽の無い暗がりの中、熾火の灯りを頼りに髪飾りを編んだ。

四つも作ってしまった。けど、葉は二枚残っている。どうして四つなのだろうと思ったが、多分ちゃがら村の老婆とユウタとチハルに渡したいのだ。ウメはそれらを予備の麻布に仕舞い込んで、うっかり踏みつぶさぬよう部屋の隅に寝かせた。

 村長が言い渡した通り、夜になっても晩餐は運ばれてこなかった。夕方頃に、今日の客はみんな追い返したそうだ、という言葉を告げたきり、誰も話しかけてこない。試しにお腹が空いたとすがりついても、しぶとく返事はなかった。

その見張りはウメのことをよく思っていないようで、時々わざとらしく戸を叩く。それがあまりに鬱陶しかった。眠ろうとした矢先にまた叩かれるので、眠れない。いい加減限界が来て、ウメは囲炉裏に吊るしてあった、いまはもう冷めている鍋を丸々戸に投げ飛ばした。すると、けたたましい音と水の弾ける音の後、ようやく戸を叩く者は静まった。

 けれども今度は、なかなか寝付けなくなってしまった。しばらく経っても心臓が高鳴って眠気を追い払ってしまうのだ。土間に転がっている鍋が視界をチラつくせいだと思い、片づけても、何も変わらない、変わらない。

気が付くと外の夜はすっかり深まっていた。ふと、外に見張りの者はいないのだろうか――そう思い、試しに声をかけてみた。声は返ってこなかった。すると、あまりに調子よくお腹が鳴ったので、ウメは思わず笑ってしまった。見張り役なんかよりよっぽど頼もしい。けれどもその活気も段々萎んで、ついに枯れてしまった。

 翌朝にはちゃんと朝食が運ばれてきた。担当はおばさんではない。おばさんが相手なら少しは気も楽になるのにとぼやきつつも、腹立たしいほど美味しい食事を済ませた。

客が来たので、ウメはまた昨日と同じ方法で彼らを追い返し、村長の顔を真っ赤にしてやった。これがせめてもの抵抗だ。ウメには他に、成す術がない。これで本当に正しいのか分からないという気持ちが消せないまま、また夜が来た。

けれども、案外早く転機は訪れた。

いや、それは転機と呼ぶには、あまりに暗く、非情だった。

外から二人以上の人間の話し合う声が、微かに届いたので、ウメはそっと戸口に耳を張りつけていたのだ。小声でやり取りしているつもりなのだろうが、興奮しているせいか、ウメにもかろうじて拾える声量を伴っている。

「本当に村長がそんなことを?」

「ああ、間違いねぇよ。ウメちゃんのこと、殺すって」

 心臓が凍てついたように、ウメの呼吸が止まった。

――殺す? コロス? いま、そう言ったの?

「本当は都に売っちまおうとか言ってたんだけど、それじゃあ連中に利益を持ってかれるだのなんだの言って。ほら、この二日、ウメちゃんまったく村長に従う気がないだろ。それで」

「けど、殺すって……。そんな真似、いくら何でも俺にはできねえよ」

 すると、一方の声がひと際小さくなって、断片的な単語しか聞き取ることができなかった。だが、充分だった。

 ケモノ。人じゃない。力。化け物。モノノケ――。

 すると、再び話す声が高まってきた。

「凶念樹で拾われたから、あながち嘘じゃないんじゃないかって、村のやつらみんなそう言ってるんだと。それに二区画に住むやつが、ウメちゃんのへそに毛が生えてるのを見たって。だから村長、急にウメちゃんのこと閉じ込めるなんて言いだしたんだ」

「そりゃそうだ。俺は最初からおかしいと思ってたんだ。あんな不気味な力が使えるなんて。いつ化けるかわからねえな。ああ、恐ろしい」

「でも、もったいねえなあ。ウメちゃん、べっぴんさんなのに」

「何言ってんだお前。食われっちまうぞ」

 ぺたん、とウメはその場にへたりこんだ。右手の平の火傷が土間に擦れて痛む。しかしそれよりもずっと激しいものが、ウメの頭上から降り注いでいる。まるで火を浴びせられているようにそれは熱いのだが、なんだかよくわからなかった。

 どうしよう。ああ、どうしよう。このままでは本当に殺されてしまう。だけど――。

「だけど」

 それもいいかもしれない。

そうすれば、こんな地獄みたいな日々から抜け出せる。もう私の生きる意味はない。これ以上は、ただ苦しいだけ。

 這うように寄って、ウメは昨日の内に編み込んでいた髪飾りが四つ収まる麻袋に手を伸ばした。それを服の内に吊るし、抱いて、他には何をする気力も失せていたので、ウメはそれからすぐに、心地よい夢の世界に身を浮かせた。



「ウメや。ウメや」

 声がした。私を呼びかける、懐かしい声だ。……バアヤ?

「ウメや、いいかい。この虫はね、とっても恐ろしい人みたいな習性を持つんだよ」

 目を閉ざしたまま、ウメはその声を聞いていた。けれど、どうしてだか瞼の裏側でとある景色が浮かび上がってくる。そこには幼き頃のウメと、死んだはずのバアヤがいた。森だ。川だ。森の中を亘る川岸に、二人は並んでいる。

「オコウアゲハっていうのはね、黒く艶やかな翅で宙を舞う、一見するとついつい魅了されちまう蝶だ」バアヤは身を屈めたまま自分を仰いでいる小さな少女に語り掛けていた。「けどね、その幼体は恐ろしいんだ。意地汚いというか、ずる賢いというかね」

――意地悪なの?

 幼きウメはそう問うてから、すぐ眼下に植生しているメノリンソウを見下げた。茎の上を黒く小さい、豆粒のような虫が這っている。白い点がギザギザの背の頂点で均等に並んでいる様はイモムシ同然の愛らしさと気持ち悪さを纏っている。

「そうさ、意地悪なんだ」

 ―――どうして?

「このオコウアゲハの幼体はね、自分が成長すると、メノリンソウの茎を根元から切り落としてしまうんだよ。二度とメノリンソウが育たないように、毒の牙でね」

 首を傾ぐ少女にバアヤは淡々とした口調で、しかし目元には険しさを灯らせながら続けた。

「そんで、他の生き物がメノリンソウを食べられないようにするんだ」

 小さい頃のウメはまた首を傾いだ。――どうしてそんなことをするの? そんなことしたら、みんな食べるものがなくなっちゃうよ。

「その通りだ」バアヤは頷いた。「他のもんに恵みを与えないために、こいつらはメノリンソウを殺しちまうんだ」


 ハッとして、瞼を持ち上げると、ウメは暗闇の中を佇んでいた。

 そして、知った。

 ――だから彼らは、いま私のことを殺そうとしているんだ。彼らはみんな、オコウアゲハの幼体なんだ。黒くて、ギザギザで、白い斑点を湛えていて、うねうねと気持ち悪く、ちょっとずつ茎の上を這う、あの幼体なんだ。都の人たちに恵みを与えたくないから、私を売るのではなくて、殺そうとしているんだ。

 ――ずっと、一緒に暮らしてきたのに。

――メノリンソウになって、私は一緒に生きてきたのに。


  * * *

 

 ぷつり、と頭の中で何かが切れたとき、ウメの正面では家の戸口が開かれていた。滔々と溢れかえる陽光。ずらずらとやって来る人々の列の上に、霞雲のかかった空があまねく広がっている。ウメのことを誘うみたいに、その中で小鳥が羽ばたいていた。泳いで泳いで、遠くへと飛んで行ってしまう。

「今日こそはしっかり責務を果たしてもらうからな」

 村長の声はどこか淡々としていた。昨日やそれ以前のような勢いがなく、何だか芯が抜けているみたいに覇気が感じられない。ウメを殺そうとしているから、そうなっているのかもしれない。あきらめているのだ。ウメを説得することを。だからこそ、殺すという手段に及ぼうとしている。

 けれど、そんなことは意識の片隅に追いやられてしまった。一日に二度だけ拝むことを許されている外気に触れた瞬間、ウメの中でわだかまっていた感情が破裂した――正確には、それを抑圧していた糸が断たれて、ウメの心身を駆り立てた。

 早くゆけ、飛びだしてしまえ、と。

「う、ウメ! どこへゆく!」

 村長の悲痛の叫びを、ウメは背中で聞いていた。列によって半分ほど覆われていた出口を強引に駆け抜け、ほんのりとした温もりが肌の上を躍りだす。血流がめぐっている。黒く長い、それでいて銀糸のような髪が宙をなびいて、時おり横から吹く風が、それを横暴に乱すと、ウメは頬がくすぐったかった。

ウメが走ってゆく先には森があった。方向が定かではないので、その奥に何が続いているのかはわからない。けれど、ウメは懸命に足を動かした。どうせこの村にいたら殺されてしまう。ならば私は、とにかくどこかへ消えてしまいたい。遠いところへ行って、どうせならそこで朽ち果てたい。あんな村で死ぬだなんて、まっぴらごめんだ。

 無我夢中で村を突っ切り、森の中に飛び込んで、やがて見覚えのある斜面に行き着いたところで、ウメはやわらかい何かにぶつかって転倒した。


       15


 呻き声がウメの口から漏れるのと同時に、すぐ傍で男の子の声が聞こえた。

「チハル、お姉ちゃん、二人とも大丈夫?」

 ユウタだった。身を起こしながら、ウメはどうしてこの子たちがこんな――りくれん村からごく近い――場所にいるのだろうと思った。

だが、目の前で少女が突っ伏したまま動かないでいるのを目の当たりにして、たわんでいた木の枝が元に戻るみたいに、ウメの身がガバッと跳ね起きた。

「チハルちゃん!」

 揺すると、チハルはすぐに頭をもたげた。横で一本に縛ってある髪に枯葉や細い枝がいくつか付いている。自分よりも小さな体を支えてあげながら、ウメはそれを取り払った。

「大丈夫? 痛いところない?」

「ううん」手のひらや足を見下げ、「大丈夫みたい」と、チハルはウメの目を見て言った。

「そう」滝に身を晒したように、疲労感がドッと押し寄せた。ウメは後ろに手をつき、いたっ、と呻いた。

「お姉ちゃん、怪我してるの?」

 ウメが右手を抑えるのを見て、まずチハルが不安げに訊ねた。すると、ユウタが斜面の下の方を指さして、二人をその先まで先導した。

 川を目にしたとき、そこがいつも通っている川の合流地点だということをウメは察した。家を飛びだしたま真っ直ぐ森を突き進んできたため、どうやら自然とそこに行き着いたようだ。そうすると、結局見知った土地からは逃げられないのかも、という気が浮上してきて、ウメはつい顔を伏せた。

「どうしたの? 痛いなら早く水で冷やそう」ユウタが急かした。

「え、ええ。ありがとう」

 右手を水に晒すと、キンとした冷たさが心地よさをまさっていたので、ウメの顔に苦悶が刻まれた。

「それ、火傷……」

 チハルが心配そうに言った。すると、ユウタが火傷に効く薬草を探してくると行って飛びだしそうになったところを、ウメが慌てて呼び止めた。

「もう平気よ。それにこれはもう、多分治りきらないから」水膨れはすでに割れていた。たるんだ皮の下に、黄ばんだ皮膚が薄くのぞいている。「それよりもあなたたち、どうしてこんなところにいるの」

 すぐに帰さなくてはいけない。万が一にでも村長に目撃されれば何をされるかわからない。いまの村長はそういう危ういものに呑まれてしまっている。

 チハルと顔を見合わせ、それからユウタが寂しげな顔で言った。

「だって、お姉ちゃんいつの間にかいなくなってたから。お別れの挨拶もしてないのに」

「それでわざわざ?」

 こくり、と頷く二人の健気な姿を見て、ウメはあまりに愛おしく、涙していた。

「ありがとう、ありがとう」そればかりが口から溢れ出た。

 チハルが慌ててしがみつき、泣いているのを慰めようとする。それがなおのこと涙腺を紐解いて、ウメまたたくさん泣いた。

「一旦お別れだけど、また会えるんだよね」

 チハルが泣きだしそうなのを我慢して言った。

 それを、ウメは抱きしめてやりたかった。だけど――

「きっと、会おうね」

 そう言うことでしか、応じてあげられなかった。

ウメにはもはやどうすることもできない。いまこの二人に出会い、冷静さを取り戻してハッとしたのだった。もしもウメが本当に逃げ出してしまえば、村長の目はきっとまた、ちゃがら村へと向く。仮に見つからなくとも、ウメへの見せしめとして毒草の種を撒き散らすかもしれない。だったら、ウメに残された選択肢は、大人しく村長の言うことを聞くか、殺されるまで抗うか、自害するか――そのいずれかが、奈落の穴として、ウメの眼下でぽっかり口を開いている。

 チハルとユウタが目を大きく見開き、壊れてしまいそうな悲しみを、あどけない顔に湛えていた。

 込み上げる感情を必死に堪えて、水から手を引き抜くと、ウメは懐から麻袋を取り出した。昨晩の内に括りつけておいてよかった。その中からひとつだけ髪飾りを摘み上げてから、麻袋ごと二人に託した。

「私からの贈り物。髪飾りなの」髪を左に寄せて、ウメはコナラの葉でできた髪飾りをチハルに付けてやる。「うん、やっぱり可愛い。この麻袋にお婆ちゃんの分も入ってるから、ちゃんと届けてくれる」

「髪飾り?」

 ユウタが呆気からんとしているのを見て、ウメはハッとした。

「あなたとお婆ちゃんには似合わないかもしれないわね、ふふ。でも、大事にしてね。作り方は、多分おしえられないから」

 すかさずチハルが食いかかった。

「お姉ちゃん、また会えるんでしょ」チハルは鋭い。人の表情をよく見ている。

「うん。会えるよ」

 そのとき、嘘つき、と叫びそうな形相を示したチハルの意識をかっさらうように、遠くの方から人の声が聞こえてきた。誰かを捜す声――りくれん村の人だ。だけど、ウメのいる場所から、人影はまだ見えない。ひしめきあう木々に、何とか救われている。

 ユウタとチハルに向け、ウメは咄嗟に言葉を飛ばした。

「行きなさい。見つかったら怒られてしまうわ」

 チハルがびくりと体を震わせたが、何とか抵抗するように、彼女は瞳に力を込め、睨み返した。

「お姉ちゃんは」

「私は村に戻らないと。だから二人とも、早く行って」

「チハル、行こう」ユウタが言った。

「本当にまた会えるの」

「ええ、会えるわよ。またきっと」

 チハルがぐっと何かを呑み下すみたいに、顎を引いた。

「また会いに来るからね。元気でね」

 村人の声が近づいて来る。どくん、と全身が脈打つのを堪えながら、ウメは二人に進むべき道を示して、背を押した。

「元気でね」

 だんだんと二つの影が小さくなってゆく。緑のきらめきが舞い降りる森の中、何度か立ち止まり、振り返り、それを繰り返しながら、やがて深緑の奥へと走り去った。

「あ、いた!」背後に伸びる斜面の上から声がした。「おーい、ウメちゃん!」

 村長ではないようで、ウメは少し安堵し、息を漏らした。スッと振り返り、駆けおりてくる者がおばさんであることを知ると、さらに気が楽になった。

「ウメちゃん、あんた」一瞬、おばさんが躊躇った。「りくれん村を出て行きなよ」

「え?」突然の申し出にウメは困惑した。

「このままじゃウメちゃん、殺されちゃうかもしれないんだよ。あのジジイがさ、とんでもないこと言いだして」

「それは……聞きました」

 おばさんは目を丸くした。「そうか、だからあんた、村を飛び出して」そして、ますます頑固となった眼差しをウメに向けた。

「ならなおのこと、もう行っちまいな。連中、家を焼くだなんて言いだしてるんだ。もしそんなことになったら逃げ場なんて無い。終わりだよ」

 家を焼く。それはつまり、バアヤと暮らしたあの家がなくなるということだ。にわかに現実として捉えられず、ウメはよろめいた。

「大丈夫かい」背を支えられる。「ともかく、あんたは逃げな。そのあとのことは村人みんなでどうにかするから、だから」

「おばさん」ひとつだけ、どうしても知っておきたいことがあった。「おばさんは、私のことをどんな風に思ってそんなことを言ってくれているの。他の村の人は多分、私のことを恐がってる。私はもう、みんなにとって人じゃないから。それなのにどうしておばさんは優しくしてくれるの」

「なにを馬鹿な。もしかして毛の『噂』のことを言ってるのかい。そんなもの本当にあるはずが」

 ウメが衣服を捲り上げ、白い毛を見せ示すと、おばさんの目は点になった。黒目が震えている。白い毛を見たまま、ずいぶん長いこと固まっていた。が、

「そ、そんなもの関係ないよ! ウメちゃんはウメちゃんじゃないか。今こうして話してみて、はっきりしたよ。おかしな力だとか、そんな毛なんて関係ない。あんたはあの村で育ったひとりの娘さ」

 驚くほどはっきりと、おばさんが嘘つきだということをウメは悟った。もしもこの場で村長が現れたなら、きっと彼女はウメのことを即座に差しだすのだろう。そういう、怯えた顔をしている。

 けれどもその気遣いは、何故かウメの心の内に滑り込むと温かくなった。偽物の温もりのはずが、目元が熱くなるのを感じて、ウメはつい声を震わせた。

「ありがとう、おばさん」涙を拭い、続ける。「でもそれじゃあ、おばさんに迷惑がかかるかもしれない」

「そんな、こと」

「そんなことあるでしょう。もしもおばさんが逃がしたってバレたらどうするの」

「そしたら、あんたに脅されたとか何とか言えば」

おばさんが言葉に詰まった。

ほらね、やっぱり。おばさんが大事なのは、何よりも自分なのよ――そう思うと、今まで感じていたはずの温もりが冷たい熱に変わり、ウメはますます目元が熱くなった気がした。と、同時に、心臓の周りだけ吹雪いているみたいに寒々としはじめる。

「それでもいいけど、でも、結局おばさんが逃がしてしまったってことには変わりないでしょ」

「じゃ、じゃあ、どうするのさ」おばさんは目に見えて怯懦の情を滲ませた。

「いいことを思い付いたの。家を焼くのがいつなのか、わかる?」

「少なくとも、今日ではないと思うけど。明日も客との約束があるとか、あのジジイ言ってたから。焼くとするなら、多分、約束を終えてから」

「ありがとう」

 おばさんの脇を通り過ぎながら言って、ウメは淡々と斜面を登って行った。りくれん村がある方へと、歩いた。

「う、ウメちゃん! あんた本当に、大丈夫なのかい」

 首だけ振り返り、眼下に見えるおばさんの怯えた顔に向けて、ウメはただただ微笑んだ。


       16


 その夜、ウメは家の中を焼いた。

 薪を燃やし、そこに新しい薪を近づけて燃やし、燃えている薪を戸口へと転がした。放っておくとすぐに消えてしまいそうだったので、戸板に火が燃え移るのを待ってから、転がした。乾燥した葉も撒いた。ともかくしっかり燃えるよう、あらゆる工夫を散りばめた。

 すると、戸の前で例に習って見張りをしていたらしい村人の慌てる声が、ぱちぱちと木の弾ける音を聞いていたウメの耳にも届いた。薪から煙が起こり、焦げ臭さが立ち込め、それらは室内を占めると共に、戸板の隙間からも徐々に漏れてゆく。見張り役は、その黒煙と臭気を頼りに屋内の異変を察知したようだった。

 見張り役が鍵を開けようと試みたらしく、しかし金属製のそれは灼熱をまとっており、熱いものに触れてしまったときの悲鳴が短く届いて、ウメは一瞬表情を歪めた。だが、それすらかき消すような打撃音が戸を通じて響きだし、ウメは身構えた。いつの間にか人の声が増えている。

 やがて鍬の先が戸板に穴を穿った。ウメは戸のすぐ脇のところに身を伏せていたので、開いた穴から吹き抜ける一陣の風と、それによっていやました火炎には辛うじて焼かれずに済んだ。――しかし、やがては表皮に激しく熱が伝うようになり、次第に呼気も荒れるようになった。

 すでに火の手は小屋の床板の半分を覆っている。このまま閉じ込められれば、ウメはまたたく間に黒煙に揉まれ死んでしまうだろう。けれども外にいる者たちもそれを恐れているらしく、必死にウメの名を叫びながら鍬で戸を殴りつけていた。

 ごめんなさい。

ウメは心の中で謝り、鍵が破壊され、戸が一気に解き放たれたその瞬間、脱兎のごとく勢いで家を飛びだした。

誰かの柔らかな腹部に衝突して、けれども目もくれず足を動かし、わっ、と驚く声も置き去りにして、ウメは夜の森へと逃げ込んだ。

これで少なくとも、ウメの逃走に村の誰かが手を貸したとは、あの村長でさえ思うまい。ウメは自らの力と知恵で脱走を図ったのだ。

木の影から家の方を見ると、その上空が赤く染まっていて、ウメはゾッとした。茅葺の屋根が燃えているんだ。隣には村長の家がある。もしも火が移って、そのまま燃え広がって、森にまで熱波が及んだらどうしよう――という、そんな不安すら押し込めるモヤが、そのときウメの胸中を、燃える薪から溢れる黒煙が家屋の天井部を埋め尽くすように満たした。

あの家は、ウメがバアヤに育てられた家だ。かれこれ二〇年近くは暮らしてきた。床板や屋根のカヤをウメ自身が取り替えることもあった、大切に育んできた家でもある。バアヤが死んで、村の者たちの態度が一変すると、ウメはそこが唯一の安息の場であるとして、森に出かける以外の時をそこで過ごした。それがいま、燃えている。ウメが自ら燃やした。実際に薪で火をつけるまで、ウメの中にはどうしてか罪悪感が芽生えなかった。戸がぱちぱちと音を鳴らし始めてようやく、己のしでかしたことの重大さと愚かさが、身の内に沁み渡った。

その場に泣き崩れた。吐きたいほど悲しく、ウメの全身はしゃくりあがった。

それからほどなくして、村全体から、葉が擦れるようなどよめきが感じられるようになり、ウメの頭の中に僅かな空白が生じた。

いけない。ここを離れなきゃ。

 視界が水滴に滲んだままの状態で斜面を下る。だが、足がふらついた。さらに、真っ暗な視界、木の根が張られた足場が待ち受けていて、ウメは一瞬で全身を持ってゆかれた。ごろごろ転がって、どっちが上でどっちが下なのかもわからないほど体を打ち付け、ようやくそれが止まったとき、どこを見ても斜面となっている地帯にいた。植生している木の一本に、ウメは横たえた姿勢で背中を預けていた。地面に触れている左半身がチクチクとしたので身を起こそうとしたら、右わき腹が悲鳴をあげて、また倒れた。

 どこが痛いのだか、すっかりわからなくなってしまった。とにかく全身が泣いている。骨は、多分折れていない気がするけれど、しばらくは動けないかもしれない。そう思った。

 ところが、目の前をかさかさと蠢くものがあって、ウメは反射的に身を起こしていた――

「痛ッ!」

 涙を流す気さえ削がれるほどの激痛が全身を迸り、悶えた。足を投げ出したまま上半身を凹凸の激しい木の胴に預けると、生足を何かが這う感触に鳥肌が立った。

 毒虫の恐れがあるのでしっかりとは触れたくなかったが、手で払っただけでは、きっとまた登ってくる。だからウメはそれを摘まみあげて、なんだ昆虫類か、と安心すると、なるべく遠くの方に放り投げた。

 また別の虫にたかられるのも不愉快だった。木にすがりながら、必死になって身を立たせると、右足首からやや上がった部分と右わき腹、左の二の腕付近に鈍痛が走り、頬も鋭い痛みに呻いていた。

草履が脱げていないのが幸いだった。木を支えにしながら、斜面の下方で流れているはずの川をウメはゆっくりと目指した。

 普段はまるで意識しなかったけれど、仲冬の森の地面は落ち葉に埋め尽くされているので、踏み出した足が滑って何度も転げそうになった。足を取られかけては激痛に苛まれ、それでも進まずにはいられないので必死に体を引きずり、ようやく川のせせらぎが聞こえるようになると、喉が激しい渇きをもよおした。

 棒のようになった足で川岸に寄って、湿った土に膝をつき、何よりもまず水を口に含んだ。含んで含んで、もう一度含んだ辺りになって胃がもたれるのを感じたので、それからは体のあちこちに刻まれていた傷を水で洗った。足を直接川に浸し、お尻を地面に落ち着かせ、すくった水を痛んだ四肢にしつこく浴びせる。冷たくって気持ちいい。

 やがて痛みが引いて、ウメは真っ暗な空を見上げた。そこに空なんて本当はないのだけれど、木の葉の軍勢のその先へ想像を巡らせてみると、ウメは何だか自分が夜空に包まれているような気がするのだ。

 すると、物寂しくなった。どうして私はこんなところにいるのかしら。村を飛び出したはいいけれど、これからどうしたらいいのかな――ウメは声にして呟いた。ふと背後を振り仰いだが、何となく遠くの方からざわめきが聞こえて来るように感じた。火は消せたのだろうか。怪我をしてしまった人はいないだろうか。家は多分、燃え尽きてしまったよね。ともかくこれでもう、帰れる場所は、文字通りどこにもなくなってしまったんだ。

 そう思うと、また涙があふれてきた。小川が通うみたいに頬が濡れてゆく。顎は滝だ。水滴がどんどん下に落ちていって、麻布の服を灰色に染める。ウメには拭うつもりなんてまったくなくて、だから流れ落ちた分だけそこが湿っぽくなった。

 本当は、死ぬつもりでいた。昨晩までは。けれど、そんな気持ちはすっかり失せてしまっていた。ウメには心残りがあって、それが邪悪な願いを鍵付きの小屋に閉じ込めてくれている、といった具合だった。

 涙が枯れるほど泣いた後は、懐の麻袋から髪飾りを取り出して、それを髪につけた。左側だ。相手から見ると右側だ。幼い頃バアヤにつけてもらった方に、すっかり定着してしまっていた。

あの子たち――ユウタや、お婆ちゃんは、この髪飾りをつけてくれているだろうか。ウメは思った。チハルはきっと似合うから、あのままつけてくれる。あの子は優しいし、ね。けれどもお婆ちゃんはそういう年頃ではないし、ユウタに至っては男の子だ。それでも、構わないは構わないのだけど、大事にしてくれてると、やっぱり嬉しいな。

そういえば――チハルが、また会いに来てくれると言っていた。けど、彼女はどこへやって来るのだろう。やっぱり、りくれん村だろうか。けれどもそこにもう、ウメはいないのだ。

また涙が零れそうになった。目頭が熱くなって、鼻がツンとする。だけど、本当に枯れてしまったみたいだ。涙は一滴も流れてこなかった。

涙は人が気持ちを整えるための塩水なんだから、泣きたいならたんとお泣き、我慢するんじゃないよ、とバアヤが話していたのを思いだしたとき、ウメの胸中で妙に清々しい感情が湧いた。と言っても、それは半分ほどもたまると落ち着いて、残る半分には、うっかり気を抜こうものならば、体内の水を絞ってでも涙を滴らせようとする悲哀な感情が湛えられた。

前半分が感じられるうちに立ちあがって、ウメは川を渡った。怪我の痛みは、体を動かすと目を覚ましたみたいに喚きだすので、なるべく慎重に、川からポッコリ顔を出している岩の上を伝って行った。すでに足首から下はびしょ濡れだが、だからと言って川の中を直接横断すると水流に押し崩される恐れがあった。

西の山、凶念樹が立つ山。その頂上へと続く斜面を前に、ウメは一度立ち止まった。

濃い。ただひたすらに濃い陰影が、迷い人を食おうとする物の怪のように待ち構えている。ところどころに差し込む月明かりが、あたかも獲物を誘うように神秘的だ。

だけど、ウメは怯むことなく森に立ち向かった。だって私は、モノノ怪だ。少なくともまともな人間が見れば、私はモノノ怪なんだ。今さら夜の森を恐れるなんてあり得ない。私はモノノ怪なんだ。


       17


 やがて、視界が開けた。凶念樹が立つ頂上の周囲にある、木が一切植生していない輪状の一帯に踊り出たのだ。背丈の短い草ばかりが生え並び、所々に色のある花が白っぽく可憐に咲いているのを見て、頭上に真ん丸な月が浮かんでいることにウメは気が付いた。ハッと息を呑んだ。月が爛々と茂みを照らしているのだ。幻想的に白んだ世界が突如として視界いっぱいに溢れ返ったようで、ウメは眼前の光景にまばたきすることさえ忘れた。

 これが凶念樹の立つ森の世界。木が一切生えていないから、だから月明かりを遮るものがなにもない。すぐ後ろには木々が壁のようにひしめいており、そこへ戻れば暗闇が視界を支配してしまうのに、一歩境界を越えると途端に光が満ちて、けれどもそれは闇と同化する不可思議な光で、ひとたび吹けば溶けて消えてしまう幻のような儚さに包まれている。

 頂上まで登ったらどんな景色が広がっているのだろう。気の抜けてしまったような呆けた表情を顔に貼りつけて、ウメは何かに手招かれるように歩きだした。

 凶念樹の姿が、そして拝めると、酷く寂しい想いが込み上げて来た。

左右に別たれた太い木の腕。老齢であることを語るように深く刻まれた、幹の上を這う溝が、一本一本明確に黒い線となって巨木を着飾る。――着飾る、などとは言うが、実際の見てくれはさながらただの長老で、何だか素っ気ない――。おおよそ灰色な風貌を見、記憶の奥底を枝の先で突かれ抉られる如く、ウメは凶念樹というものの正体を顧みた。

 てっぺんをちょうど大きな斧で勝ち割られたように分かれた木の腕。葉のひとつもない素っ裸の腕。左には幸福を、右には不幸を宿す大木。人々に畏れられる由縁はそこにある。右は元より、左でさえ、枝を一本でも折ろうものならたちまちその者は不幸に見舞われるという。左右のどちらに触れようとも結局は凶念に呑まれてしまう。

だから凶念樹。

誰がそのような事実を明かしたのかは判然としない。ウメはただ、バアヤにそう教え込まれた。かく言うバアヤも、そんなものは迷信だの眉唾だのと吐き捨てた。凶念樹の周囲にはおかしなほど木が植生しない。この山の中の木同士も、確かに互いを警戒し合っているみたいに妙な距離間を置いて育っているのだが、それをさらに凶悪なものと化したように、凶念樹の周囲十数メートルには木という木はない。平地だ。頂上から一段下がったところにある輪状の地帯と同じく、まっさらな平地だ。その中に一本の巨木だけが寂しげに佇んでいる。ただ、それの取り巻きだとでも言うように、背の低い毒草がびっしりと生えている。その毒草を食べた者が命を落としたことから転じて、凶念樹などという噂話が広まったのではないか――バアヤはそう話した。

 葉のひとつもない素っ裸の腕なのに、どうしてか真っ赤な木の実が吊り下がっている。左右のどちらにも。噂についてはまったく信じていなかったが、辺りに毒草しか自生できない様を見て、いずれにしても食べるのは危険だろう、とウメはそれに手を触れたことがなかった。何より動物たちがそれを避けている。だから、ウメはそこに信頼と距離を置くようにしている。

 ふと、視界のどこか判然としない場所に、何かの影がちらついたように感じ、ウメはびくりと立ち止まった。この場所は良い。人が寄りつかないから、きっと過ごしやすい。ここを寝床にしよう――そう思った矢先のことだったので、期待を丸々削がれたような気になって、全身から力が抜けた。

 そういえば数日前に村長が、白い影がどうとかって言ってたっけ。と、思いだして、普段は全く意識していなかったのに、ウメは急に背筋に寒気を感じるようになった。

 だけれど、そんなこと、あるはずがない。白い影というのはきっと、みんな幽霊だと思っているのだろう。でも、どうせ見間違いに決まっている。

 そのとき、すぐ近くの茂みが音を立てて、ウメはまた驚いた。

――過って毒草を食べてしまう動物の幼体は少なからずいる。だとすれば、白い影というのはそれによって命を落とした彼らの、やっぱり幽霊なのかしら。

「ううん。そんなはずないわ」

 気を紛らわすつもりで、そう声にした。

何より、早く座りたいという強かな望みがあった。時が癒すには、ウメが負っている精神的な負荷はあまりに甚大だ。それに、表面が荒れているので形も歪で、だからそう容易くは、綺麗になどなりはしない。あれからすでに一刻を三度跨ぐほどの時間が流れたように感じられるが、枯れるほど泣いて大雑把に整えられただけの心は、今はまだ仮初めの気楽さに包まれているに過ぎないのだ。寝て覚めたら、きっとまた泣いてしまう。ウメは自分の身体の内に、そういう得体の知れない重さあるモヤが滞っていることを知っていた。気怠さが、腹の底で泥が溜まっているように抜けない。

 だから正直言って、幽霊なんてどうでもいい。驚いてはしまったものの、もしも本当にいるならば、いっそ憑き殺してちょうだい。どうせ、何も残されてはいない。ふっ、とチハルたちの顔が脳裏を横切ったが、それすら気の先にも引っ掛からなかった。むしろ摘まんで放りだした。そうするほどに心は身軽になった。

 ぴょん、と視界の端から正面にかけて、そのとき白い影が飛んできて、今度こそウメは心の底から体を震わせた。しかしそれは、よく見ればノウサギで、ウメはつい力無い笑みを浮かべていた。なんだか臆病な心を見透かされた気分だった。気にしていないなんて言っても、深い部分ではやっぱり恐いらしい。

「あれ」深い霧の色をした瞳を見て、気が付いた。「あなたもしかして、この前見かけた」

 ちゃがら村に逃げ込み、居住の許しを得た晩に、山の中で導いてくれたノウサギにそっくりだった。それ以前にも一度遭遇しているからか、目の前のウサギが、それらと同一個体だという確信が持てた。

ひょっとして白い影の正体はこの子なのかも。ウメはそう思い、くすりと笑った。

「あのときはありがとうございます」身を屈め、お礼を伝えて、色素が抜け落ちたようなくりりとした目を見つめた。けれども、それからは声が聞こえなかった。ウメが首を傾げると、ノウサギはそのまま森の方に跳ねて行ってしまった。導くのではなく、興味がないので帰る、という調子の後ろ姿で、ウメは物寂しく感じた。

 やがて凶念樹に背を預けて、ウメは腰を下ろした。毒草すら生えていなくて、禿げた地面は夜の黒に染められた土ばかり。凶念樹は人にばかりでなく、動物や森にすら嫌われているのかもしれないと思った。

私と一緒だ。みんなから嫌われ、遠ざけられてきた。ひとりぽつりと、この山のてっぺんで生きてきた。

どうしてこれまで、この寂しさに気が付けなかったのか、ウメは不思議に思った。同じ境遇だ。私も、この木も。それなのに、居場所を失くしてようやく、凶念樹の気持ちを知ったようにウメは感じた。いや――、心のどこかでは気が付いていたのだ。だからウメは、この山の方へとしつこいまでに足を運んできた。けれども、そのときのウメには心を委ねられる居場所がまだあった。バアヤと暮らしたあの家が、何とかウメの心を繋ぎ止めていた。母のように守ってくれていた。

 それが消えたいま、だからウメは凶念樹と一つになれた気がした。ウメはここで拾われた。ひょっとしたら、凶念樹から生まれたという村人の妄言もあながち間違いではないのかもしれない。凶念樹は私の母で、だから凶念樹は女性で、あんまりに寂しくて私を産み落とした。だから私もおかしな力が使えて、そのせいで人の暮らしに馴染めなくて――あれ、でも、だったらお腹の毛は何者なんだろう。凶念樹は木だ。毛なんて生えていない。ならば私のへその下で立派に生えている白い毛は、どこから、何のためにやって来たのだろう――。

なんてことを考えていると、温かいものに抱かれているみたいに気持ちよくなって、ウメはやがて深い眠りに落ちた。


 コツン、と頭の上に、固いものが落ちてきた拍子にウメは目覚めた。緑色の草が視界の右半分を覆い、もう半分を白んだ空が占めている。夜明けだ。全身が寒さを覆ったのはその直後のことで、ウメは軋む体を起こして身に腕を巻いた。

 寒い。恐ろしいほど寒い。まるで体温がどこかへ旅立ってしまったような寒気には堪えきれず、暖を取れるものはないかと辺りを見渡したが、そこにあるのは、色だけは鮮やかな毒草ばかりで、ウメはそのときようやく、自分が村を飛び出したことを思いだした。

 皮膚がめくれそうなほど服の上から身を擦っていると、傍らに赤い木の実が落ちていた。夜に見るのとは比べ物にならないほど赤い、鮮烈な色彩を纏うそれは、言うなれば毒々しく、しかし見ようによってはリンゴのようだった。けれどもウメが以前に食べたそれは、もう少し色が薄かった。こんなにも真っ赤ではない。何だか血で色を塗ったみたいな赤なのだ。

 ぐうっ、とお腹の虫が鳴った。寒いのに元気だ。だけど、一個だけ実が落ちているのもおかしい気がして、なかなか手に取れなかった。だってこれまでも、木の実が落ちている場面には出くわしたことがなかったから。

だけど――そのときウメの中に欲望の光が差して、娘の心はたちまちその光に自分勝手な色を塗り始めた。――ひょっとしたら、餓えている姿を見兼ねた凶念樹が恵んでくれたのかもしれない。うん、きっとそうだ――、と。

ウメは足を投げ出した態勢のまま、身を左に捻って手を伸ばした。

 ガアッ、と叫ぶ声と同時に、真黒な何かが突風のように舞い降りたので、ウメは、ひいっ、と悲鳴を漏らして後ずさった。

 カラスだった。そうか、この実はカラスが啄んで落としたものなのだ。よく目を凝らしてみると、実の見える範囲の端っこに紫色の点が穿たれている。外見が真っ赤で、中身の色が紫だなんて、やっぱりこれは毒の実なのだろう。ヘタも自然ではない風に抉られている。

 カラスはもう一度ダミ声で鳴いて、ウメを威嚇すると、嘴で咥えるには少々小太りなそれを啄んだ。

それからほんの数十秒が過ぎて――カラスは泡をふいて死んだ。木の実は一〇分の一ほども喰われていない。それでもカラスは、全身を痙攣させ、羽を開いて地に倒れ、泡をふいて死んだ。動かなくなった。

一部始終を目の当たりにしたウメは、しばらくその場を動けず、まばたきすらできず、呼吸もままならなくて、我に返ってからしばらくは肩で息をした。

恐る恐る、斜め上方から吊るされている真っ赤な木の実を仰いだ。合計でいくつほどだろう。葉の一枚もないくせに、きっと三〇は実っている。

これが凶念樹。人々にも草木にも畏れられる大木の正体だ。周りに毒草が生えているのはそのためだ。凶念樹の毒にも耐えうる者でなければ、生きてはゆけないのだ。

ウメは死したカラスを森の中にそっと寝かせてやった。埋葬してやりたかったが、土を掘れるような道具もなければ状態でもない。それに、下手なことをして森の決まり事を破りたくなかった。この辺りでは、こうした出来事がきっと茶飯事なのだ。他の動物が、毒の餌食となった動物を食す。ウメも時々動物の死体が転がっているのを見掛けたことがあって、けれどその翌日にもなれば、見る影もないほど山は静かだった。

 なおのこと、凶念樹の傍で暮らしてゆこうとウメは思った。この木の実――猛毒を、凶念樹は望んでいたのだろうか。多分、違う。ウメだってそうだった。ウメは望んでもいないのに、妙な力に恵まれ、人々にたかられ、やがて排除の対象とされた。凶念樹も同じだ。理不尽な力を授かって、それが原因で周囲から疎まれ、孤独に生きてきた。

 そういえばバアヤに聞かされた話の中にはこんなものもあった。バアヤはただ物知りなのではなく、色々と考えながら生きているから、だから物知りなのだ、ということをウメが悟った話だった。

 生きものというのは、みんな環境に適した生態をその身に宿している――そういう語り口から、バアヤは入った。例えばオコウアゲハなんかは生きるための餌として毒草を摂取して、その毒を体内に蓄積することで外敵による捕食を免れている。

普通、毒なんて食べられやしない。ウメが真似したとすれば、あのカラスみたいに死んでしまう。だけどオコウアゲハがそれを為せるのは、そういう方向に、種として成長したからだ。そして、環境がそれを認めたから、オコウアゲハはいまも黒い翅で優雅に森の中を舞うことができる。種として生き長らえている。以前まで生きていたオコウアゲハの生態は、もしかしたらいまのそれとは異なるものだったのかもしれない。ウメにそれを知る術はないが、いまを生きるオコウアゲハという種は、少なくとも毒を制することで環境に認められるようになったのだろう。

 だけどウメは思うのだった。その成長がもしも偶発的に生じるものだとしたら? たまたま生じた成長が、たまたまそのときの環境に適しているだけなのだとしたら? だからオコウアゲハが生きていられるのだとしたら?

ウメは人で、――ひょっとしたら本当はそうではないのかもしれないけれど、少なくともいまはまだ人の姿をしており――そこにおかしな力と毛がちょろっと加えられている。成長だ。けど、環境がそれを許さなかった。りくれん村は、ウメを排除しようとした。つまりウメの身に起きた成長は、生き残るに相応しくない成長だった。

 だとすれば私は、このまま無様に朽ち果ててゆくしかないのだ――。

ウメは、もしも凶念樹が傍にいなかったとすれば、そのように考え、受け入れたのだろう。己の運命を。

だけど。

 その樹は、明らかに誤った方向へと成長した。だから孤独にそびえて、小鳥の一匹にも恵まれず、むしろ殺してそこに佇んでいる。環境が彼女を許しているだなんて、ウメにはとても思えない。見えない。だけどその樹は、恐らく数百年という時を生きてここまで立派に育った。見上げなければならぬほどの身丈を天に伸ばし、胴が左右に別たれても、葉を根こそぎ失っても、真っ赤な木の実だけをぶら提げ、息をしている。

 ああ、そうか。この樹は――みなから忌み嫌われているこの樹は――、抗っているのだ。いらぬ成長を果たし、それが受け入れられぬことを受け入れず、環境がどうであろうと、環境を丸め込むほどに抗って生きている。

だったら、私もそうしてやる。ウメは樹に触れて、きっと独りにはせず、独りにはならぬと心に誓った。



太陽が凶念樹の頭上を通り過ぎようとしたときになって、人の声が近づいてきたので、ウメは苦い顔で咀嚼していた山菜を握ったまま森の中に隠れた。山菜は山の麓まで下って採取した。動いたので体も温まり、ついでに川で水も飲めたので、うっかり竹筒を持ちだし忘れていたことに気が付いた以外は、よき復路だった。

鼓動をばくばく言わせながら木の影に身を潜めていると、やがて村の人と思わしき二人の男と、ウメのよく見知った顔――おばさんが、心配した風にウメの名を呼んでいた。

「ウメちゃん、どこにいるんだい。出て来とくれよ」

 誰がゆくものか。ここで出てゆけばまた閉じ込められてしまう。殺されてしまう。おばさんが嘘ばかりを吐いているように見えて、ウメはその場から逃げ出したくなった。

 だけれども、その次の言葉を聞くと、ありとあらゆる刺激を感知できなくなったような感覚に包まれ、ウメは固まった。

「ジジイが死んだんだ。昨晩の火事に巻き込まれて死んじまったんだよ。これでもうウメちゃんのことを貶めるやつなんか誰一人いないんだよ。おーい、ウメちゃん!」

 おばさんの言葉はそれから何度か繰り返されたが、ウメの出てくる様子がないと見るやすぐに別の場所へと去っていった。

「……違うわ」ずいぶん長いこと、ウメはそこに縮こまっていた。先ほどまでは東に浮かんでいた陽が、いつしか空のてっぺんを通り過ぎている。

「私のせいじゃない、私のせいじゃない、私のせいじゃない」

 そうだ。村長は杖を突いていた。腰を痛めていた。それで逃げ遅れたんだ。村長の家は、燃えたあの家のすぐ傍にあった。燃え移らないか心配だった。結局燃え移って、村長は逃げ遅れて死んだ。腰を痛めていたから。でもそれは、悪だくみを企てた村長が、ウメを探すため、山の中を歩きまわったことがそもそもの原因だ。だから、私は悪くない。みんな、悪いことを為そうとした村長が悪い。悪いのよ。火を熾したのは私だけど、私だけど――

「私のせいじゃ、ないのよ。そんなの、自業自得よ」声が掠れた。

 顔をあげると、薄青空の下で音もなく佇む凶念樹が居た。真っ赤な木の実が吊るされている。

 とてもとても美味しそうだった。赤。鮮烈な血の色。泡をふいて死んだカラスの姿が脳裏を過る。どんな味なのかしら。甘いのかしら。苦いのかしら。しょっぱいのかしら。辛いのかしら。それともやっぱり甘いの?

 しばらく眺めてから、ウメは腰をあげた。


       18


 恐くて、恐ろしくて、ウメは結局泡をふかなかった。つまり、木の実を食べなかった。

 少し前までは、あれだけ死んでも構わないと思っていたはずが、いざ木の実を握ると、ゆっくり舌を伸ばすと、触れた先から痺れてゆくと、そこに死を鮮明に感じられて、ウメは恐怖してしまった。死ぬのが恐くなった。

 村長を殺したという実感を得たのはその翌日のことだったが、それでもウメは生きることを選んだ。毒で痺れた舌を川まで洗いに行って、それからどう生きてゆくかを考えた。

 風よけの無い山の上での生活は壮絶を極める。何よりも寒い。太陽が燦々と照る日の昼間ならば十分な暖を取れるが、それ以外のときすべてが地獄だ。夜が更けて、風がそよとでも吹けばたちまち体温が奪われる。寝起きには身震いが止まらず、そのまま死を予感した。晩冬になればどうなってしまうのだろう。それこそ寝てる間に死んでしまうに違いない。

 寒さだけではなかった。食料も足らない。山菜だけでは腹は満たされず、川魚を捕ろうとしてもそもそも焼くための道具がない。キノコも同じだった。小さくかじってみて、一時的ではあったものの激しい胃痛と吐き気に見舞われた。ウメが生で食せるものなんて、山の中にはほとんど見当たらなかった。

 お腹が空いても食べられるものがない。一度はりくれん村へ戻ろうかという案も閃いた。だって、村長がいないのなら、私はまた人として生きてゆくことができるかもしれないから。だけれどそう思うたび、火に焼けて死んだという村長のしわがれた叫びが脳内に響いている気がして、頭に毒虫でも棲んでいるのではないかと疑るほど強烈な頭痛がウメを襲った。

凶念樹の傍らに、気が付くと小さなくぼみができていた。液体ばかりの吐瀉物が溜まって、土に水分が吸われたことで生じた窪みだった。山菜だけでは物足りず、植生している木の葉を口にしたのがまずかった。一日に三度は吐いたと思う。木の葉だったものらしき細かな固形物が汚いので、土に埋めていると、やはりそうなのだ、とはっきりした。

何が化け物だ。何がモノノ怪だ。モノノ怪ならば、こんなことで苦しまない。人でも食えば生きてゆける。私にはそれができない。私にはもう、生きてゆくための手段がわからない。人の村でも、森の中でも、私が生きられる場所なんて結局どこにもない。

ならばどうして生まれてきてしまったのだろう。ウメは凶念樹に触れながら考えたけれど、樹はだんまりとしまま物静かにそびえていた。

 三度目の夜を明かしたとき、ウメは新しい発見をした。

 草ばかりを食べて三日も経つと、人は皮膚が青ざめるようになるのだ。

 白くきめの細かい、人形のようだと誉められてきたウメの四肢は、すっかりやせ細っていた。血管が浮き出ている。空腹も感じない。昨日はあまりにお腹が空いてドングリすら食べたというのに。

 このまま死んでしまいたいとウメは思った。死なんてすっかり恐くなくなっていた。

 凶念樹から木の実をもぎとり、平然とかじった。舌先から痺れが始まる。口内全体が痛みを訴えだす。それに反して安らかな心地が胸いっぱいに広がる中、ウメは意識が遠ざかるのを感じ、そのとき視界の端にぴょんと跳んでくる白兎の姿を確かに捉えた。昼間でも、その兎は真っ白だ。

 ――こんにちは。

声にしたと思ったが、唇は一ミリも動いていなかった。

 兎は相変わらず色の無いくりりとした目をしている。深い霧のような色をした瞳に見守られながら、ウメは濃厚な暗闇の中に沈んでいった。

 

   * * *


森の中を駆けている。夜だ。背景が黒く、上方に貼りついている葉と葉の隙間からは時々月の姿が覗けるので、それは間違いない。

だけれど、何かがおかしい。明らかな異常をウメは察知していた。それなのに、おかしいと感じるだけで、正体は掴めない。おかしいと思いつつも、体は何者かの手により操られているように、次々地面を蹴りだしてゆくのだ。目の前に妙に大きな野草や木々が立ちふさがり、ときに上から吊るされた蔓が顔をはたくけれど、そのほとんどは衝突せずにやり過ごせた。やけに小回りが利くので、楽ちんだった。

すると、次第に違和感の姿が浮き彫りになってきた。

暗闇の中なのに、道が見える。それも、はっきりと。だから葉や木にぶつからず、すいすいと、乱雑に茂る森を駆け巡ることができた。

斜面に突き当たっても同じことが言えた。その上、何だかいつもより体が軽い気がする。募る疲労が薄く感じられた。

この体はどこへ向かっているのだろう。随分な時間が経ってもひしめく木々の嵐を抜けられないので、不安がじんわりと広がりだした。だけど、鼻がよく利くから、行き先は何となく想像がついた。凶念樹だ。凶念樹の方へと、ウメは走っていた。

けど、どうして? それは多分、体だけが知っている。甘いに匂いに誘われて、この空腹を満たすために、ウメは体を押し進めている。この先にある実を食べたい――。本能とも呼べる想いが込み上げて、いつしかウメはただただがむしゃらに、小さな突風となって森を駆け抜けていた。

ぴょん、と身が宙を舞ったので、ウメは我に返ると共に悲鳴をあげた――はずだった。

しかし、何事もなかったように夜のしじまは息づいている。その静寂を裂かぬほどの慎ましさで、ウメの体は着地後も走り通した。すでに見えてきた、他の木とは比べ物にならないほど大きく寂しい樹を目指して。

そのとき、月が一片も残らず姿を現したことにより明るさの極まった世界の中で、ウメはようやくいまの自分の姿を捉えた。前足だけだったが、間違いない。

これは、兎だ。ウメはいま、兎になっているのだ。白い前足を必死に動かして、止まることを知らない川のように、毒草に埋め尽くされた平地を走る。

だけど、だったらこの不思議な一体感は何なのだろう。まるでこれが自分の本物の肉体であるような、違和感の乏しさが、血流のように全身を巡る。

すると今度は、ウメは、自分の身体の目的を知った。いや、感じた。そして、思いだしたのだ。

どうして私は生きているの。私は確かに、毒の実を食べて死んだはずなのに、どうして――

と、そのとき、ウメの体が跳ねた。

駄目よ――そう念じたが、ウメの体は、鮮烈な赤を纏う木の実の一部をそのまま見事にかじり、しかし勢い余って、その先にある凶念樹の右腕に鼻から衝突すると、無様な格好で宙を一回転し、背中から地面に叩きつけられた。


       19


 ウメによく似た女性が立っていた。暗闇の中で、白い肢体をボロボロな服の下から晒している。髪も唇も瞳も、ウメによく似た女性のそれらは白かった。だからなのか、暗闇にいても輪郭が鮮明に浮き上がっている。

 やがて、女性のすらりと細い足が動きだした。走っている。息を荒げながら、彼女は泣いていた。

 暗闇を抜けるとそこは、月明かりが眩しい平地だった。周囲を森に囲まれている。先ほどまで女性は、森の中にいたのだ。平地の真ん中には巨木が屹立し、左右に別れた腕の先に真っ赤な身を吊るしている。

 女性の足がゆらりと、再び歩きだした。すると、途端に景色が暗転した。真っ暗な世界に包まれてなお、それでも女性の四肢は白く朧に光っている。

女性は酷く悲しそうに俯いた。涙が一粒ずつぽたぽたと落ちて、彼女の足元に触れると、白い波紋が音もなく広がった。

 ――その様子を、ウメは見守っていた。自分がどこにいるのかさえ判然としない。意識だけの世界だ。夢の世界だと、ウメは悟った。だけど、おかしい。さっきまで私は、ウサギになって走っていたはずなのに。凶念樹の実を食べて、そのまま地面に落下したはずなのに。そこから先の記憶が一切の欠片も残さず消えている。

わけが分からない状況の中で、ウメは彼女の悲しみだけをどうしてか自分のことのように知れた。

彼女もウメと同じように、村の人たちから迫害を受けている。この人がお婆ちゃんの話しに出てきた、二〇年ほど前に失踪した女性に違いない。

四肢のみならず髪の毛までもが白い。純白という名の明らかな異常を、彼女は一片も隠せず身に纏っている。そのうえ細身なので、なおのこと常人離れした風貌として見て取ることができた。

だから彼女は逃げてきたのだ。ウメと同じように。願ってなどいなかったそれに見舞われて、村の者に追い詰められた彼女は、凶念樹がある山を目指して駆けたのだ。

 己の体なんてどこにもない世界で、ウメの胸は確かにぎゅうぎゅうと締め付けられた。苦しい。泣きたいのに泣けない。そのまま頭がおかしくなってしまいそうなほどの目眩に襲われたとき、ふっ――と、体を取り巻く空気が変じた気配に、やがてウメは我を取り戻した。



 目が見える。地面だ。月夜に照らされている淡白い草だらけの地面に、ウメはうつ伏せるように倒れていた。

 息を吸える。手も動く。やせ細り血管の浮き出た手だ。それに、目も、口も、足も、首も、どこもかしこも異常などない風に動いてくれるので、ウメは反って困惑した。

 でもここは、紛れもない、現実だ。

 一旦起き上ろうとして、視線を周囲に這わせたときだった。

 視界の右側にはっきりとした白い影が見えた。人の形をしている。どうやら身を屈めて何かに腕を伸ばしている様子だった。その手の先には蠢く小さな何かがいて、さらに少し離れたところに、小さくもくっきりと抉られた跡が窺える丸っこいものが地面に転がっている。

 バッと身を翻すように反転させて、ウメはその場を不格好に退いた。痛みがある。治りきっていない傷が呻いているのだ。

 不格好な態勢のまま首だけを回し、そして白い影たちの正体を見た。

 ウメによく似た女性が、地面にうずくまって痙攣しているノウサギに手を伸ばしていた。まだ幼体らしき小さなノウサギの口元からは微かに泡のようなものが吹いて見えた。先日死んだカラスが、口から漏らしていたそれと同じもののようだった。びくん、びくん、と一定周期に体を震わせている傍らに、小さくかじられた跡が生々しい木の実が転がっている。凶念樹の木の実だ。

「なに、これ」

 マボロシ、というやつだろうか。――毒のある木の実を食べてしまったノウサギを、女性が何とか助けようと足掻いている。

何がどうなっているのかわからず、ウメはただただ呆然とした。

 やがて、倒れて痙攣を繰り返すウサギを、女性がその細腕に包んだ。すっかり痩せさらばえた白い体を震わせている。泣いている。野生動物であるはずのノウサギに、彼女は悲哀の情念を強く抱いている。

 すると、おもむろに顔があげられた。頭上にある凶念樹へと、涙がとめどなく流れる瞳で、すがるように見据えている。

 彼女の口元が小さく動くのが見えた。ほっそりとした片腕を伸ばして、一番低い所にある枝を、彼女は握った。

枝は凶念樹の左腕に生えている。幸福が宿る枝だ。

「だ、だめ……駄目よ」ウメは声を震わせながら言った。けれども彼女の方から反応なんてひとつもなかった。

彼女は悲哀に充ちた顔で、ボキッ、と骨を畳むみたいに枝を手折った。

 同時に頭の内で何かが弾けるような音を聞き、ウメは体をびくりと震わせる。おかしな衝撃だった。まるで自分の体が一本の糸で操られていて、その糸が断ち切られたような感覚が迸った。

 膝から崩れ落ちて、ウメは――そうだったのね、と呟いた

 マボロシは消えた。塵ほどの欠片も残さずに、すべての白い影は、消失した。彼女が枝をへし折ったと同時に、音もなく霧散した。

 見上げると、彼女が枝を折った部分はすでに新たな芽が育ち、折られた跡なんて影も形もない。立派に育っている。

 すると、横から、ぴょん、とあのノウサギがやって来た。全身が真っ白な、この辺りでは見掛けることのない雪兎のようなノウサギ――それを目の当たりにした途端、ウメの中で堪えがたい怒りが込み上げて、全身の苦痛など忘れてしまったように四肢が動いた。

 ノウサギの細首を、ウメは両手で握った。もうひとつ力を強めれば、首の骨が、それこそ木の枝のようにボキッと折れてしまいそうなほど、残虐に握りしめた。

「あなたが、あなたが」

目がひん剥かれる。整った歯が剥きだしになる。喉が震える。胃が張り裂けそうなほど熱い。

 しかし、ウメの中に燃え盛る火のような熱が込み上げる一方で、ノウサギはされるがまま、ジッと地面に落ち着き、白い目で娘のことを見つめ、動こうとしない。動けないのではなく、動こうとしないように見えて、ウメの感情が水でもかけられたみたいにスッと色を変えた。

 強引に自らの手を引き剥がして、ノウサギを解放した。それでも彼女は逃げ去ろうとしなかった。まるでウメの心情を見抜き、好きにして頂戴、と言わんばかりに、一切の抵抗を示さない。

「ねえ、どうしてなの」地面に膝をつき、額までも擦りつけて、握った拳をそこに押し付けながら、ウメは泣いた。「どうして、私のことを助けたのよ」

 やはり、人間ではなかった。ウメは彼女に救われたのだ。二〇年前、凶念樹の実を口にしてしまい、死にかけていたところを、偶然逃げ込んできた彼女が、何を思ったのか手を差し伸べた相手がウメだった。そこで見捨ててくれればよかったものを、彼女は恐らく、凶念樹に泣きすがったのだ。

 この子を助けてください、と。

 きっと、ただの同情と共感だ。その二つが彼女を突き動かしたのだ。

ウメにも覚えがあった。つい先日、自分に似た境遇にあることから、ウメは凶念樹と共にありたいと願った。それによく似た情が、村から飛びだしたばかりだった彼女の心にも生じたのだ。彼女はきっと死ぬ想いだったのだろう。そのとき、死にかけた一匹のノウサギと出くわして、心向くままに救った。

「あのまま見捨ててくれればよかったのよ! そうすれば私は、こんな思いなんてしなくて済んだのに。あなたのせいよ! あなたが私を助けたから、私は」

 とにかく叫びたかった。喉を裂くことで報われるのならば、いくらでも叫び、嘆いてやる。

 いっときの情に身を任せた行動なんて、ただの自己満足ではないのか。彼女は自分が満たされたいがため、罠にかけられていた小動物を救おうと動いたのではないのか。それがウメでなかったとしても、彼女は助けたに決まっている。相手がたまたまウメだっただけで、彼女からすれば誰でもよかったのだ。

 その事実がふつふつ、と信憑性を孕むような気がして、ウメの激情はなおも駆り立てられた。

「あなたの身勝手のせいで、私がどれだけ苦しい想いをしたのかわかってるの!」

 そのとき微かに、ノウサギの身がぶるりと震える気配を感じて、ウメはハッと頭をもたげた。

 けれどもやはりノウサギは、深い霧のような色を湛えた双眸でウメの目を見つめる。白い毛並。ところどころに枯葉のきれっぱしが引っ掛かっていて、貧相な身なりとさえ感じる。ぴくりとも動かない耳は、真っ直ぐウメに向いたままだ。

「何なのよ、いったい」

 本当はウメもわかっていた。ウメだって、もしも死にかけた動物に遭遇したら、出来る限りの手を尽くしている。だから、ウメは彼女のことを責めきれない。

 片や彼女の感情任せな行動によって、堪えがたい経験を重ねることとなったのも事実で、ウメの中に芽生えた二つの感情は、大きくも小さくもなれないまま、血肉が朽ちるまで延々と続きそうな勢力で渦を巻いていた。

「ふう、やっと着いたのか」

 そのとき、木々がひしめく森の方向から人の声がして、ウメは首を回した。老婆だった。ウメがお婆ちゃんと呼んで慕う、チハルたちが暮らすちゃがら村の村長だ。

 どうしてあの人が、ここに?

 ひくひくと動く髭が視界にチラついて、まさか、とウメは思った。まさか、この兎が。

「む」老婆の声が険しくなった。「ウメ! ウメなのか! こんなところで何をしている」

 老婆がよたよたと危なげな足取りで迫ってきた。だけど転倒することもなく、動けずにいるウメの元へ寄ると、肩で息をしながらググッと背を丸めて彼女を覗き込んだ。

「おい、大丈夫か、ウメ」

「お婆ちゃん」擦り傷から血が染み出すように、じわじわと痛みが湧き上がる。胸の辺りだった。「どうして、ここに」

「私は、な」足元で微動だにしないノウサギを見下げた。「この兎に連れてこられたんだよ」

 え、とウメは固まった。

「何だか急に跳んできてね。着いて来いと言ってるみたいで気になったんだ。年寄りを山に誘うなんて何を考えているんだ、とは思ったがね。それで何とか登ってきたら、あんたがいたのさ」

 ノウサギを見ると、彼女はまだウメのことを見つめている。どこを見ているのだかわからない、遠い瞳をしているようにも見える。

「あんた、いったい何をした。昨日の昼頃だったか。りくれん村の人間がこっちの村にまで押しかけてきて、あんたはどこだって、血眼になって探してたよ。村長が死んだとか何とかで。あんたを見たら村に戻るよう伝えてくれなんて頼まれたもんだから、怒鳴って追い返しちまったけどねえ」

「あの子たちは」

「村だよ。あんたのことを話したらきっと心配して山中を駆けずり回るだろうと思ってね。特にチハルやユウタは。だから子供らには何も話してないよ。安心しな」

「そう」山中を駆けずり回られることを懸念していたのではなかった。山中を駆けずり回られて、うっかり遭遇でもしようものなら決意を揺るがされてしまう。それが恐ろしかった。

「ともかく、あんた、村まで来な。りくれん村には……まだ戻れないんだろう」

 老婆はそう手を差しだしてくれたが、ウメは首を横に振った。

「嫌です」声は震えなかった。「私は、どこにも行きません。ここで、死にます」

「あんた」目を瞠ったかと思えば、「どうした。何があったんだい。そんな、やせ細っちまって」何もかも見通してしまいそうな年寄りの目をスッと細めた。

 それからウメは、ひとつずつ順に語った。すべてを吐きだして楽になりたいという想いが強いせいか、言葉に淀みはなかった。

 家を焼いて村を逃げ出したこと。それに巻き込まれ村長が死んだこと。森の中で暮らそうとしたが、自分には無理だと悟ったこと。猛毒の実を食おうとしたこと。

ウメが元は、兎だったこと、そしてウメが娘に救われたらしいことを最後に告げると、それまでは黙って話を聞いていた老婆の目がカッと見開かれた。けれども、またすぐに細まって、落ち着いた口調で言った。

「そうかい。だからあんた、へそにそんなもんつけてんだね。となるとウメって名は、何だか的を射すぎて恐いよ」

 ウメは俯いて閉口を押し通した。

「実はね、あんたが凶念樹の傍で拾われたって聞いて、私はあんたが、二〇年前に消えた娘の生まれ変わりなんじゃないかとは薄々感じてたんだ。けど。そりゃあ馬鹿げた話だ。最初はあんたも、どうせ都生まれで、親の勝手な理由でここに捨てられたんじゃないかと思ったよ。でも、あんたは似すぎてる。あの娘に。顔立ちだけじゃない。細やかな白い肌も、すらりとした細身も、切れっぽい目元も。まあ、あの娘は、髪と目が白く、そこがちと、他とは一風変わっていたがね。だからなおのこと、あんたはその生まれ変わりなんじゃないかと思ったんだよ」

「あの人は」マボロシで見た女性のことを、ウメは思い浮かべながら口を動かした。「昔、村の人から疎んじられていたのですか。私のように」

 確証はなかったが、どうやら図星らしかった。老婆が今度こそ目を見開き動揺を示した。「あんた、どうしてそれを」

「見たんです。さっき。何がどういうことなのか、私にはさっぱりわかりませんでしたが、幻として、この目ではっきりと見たんです。あの人は、病気か何かですか」

「いや」唸るように老婆は言った。「それはわからない。だからあの娘は、村人たちから忌み嫌われていたのさ。だから村を飛びだしたんだ」

「ちゃがら村の人たちが、彼女を追い詰めたのですよね」

ウメにはそれがにわかにも信じられなかった。あの村の人々は、初めこそ壁を打ち立てていたものの。それも日を跨ぐごとに崩れていき、やがてはウメのことを受け入れてくれた。りくれん村に住んでいたという事情に惑わされず、やがてはウメというひとりに人間を見るようになった。それに、彼らはひとつの囲炉裏を囲うことで、互いのことを家族のように思って暮らしている。いくら二〇年以上も前のこととは言え、決して表面的には人を見定めず、身内を大切に想っている彼らが、果たして彼女が逃げ出すほどの扱いをするだろうか。

「あの村だってね、人間くさい部分はあるのさ」老婆は続けた。「今じゃ多少は温かい村になったけどね。私が住み移ったときにはちょっとした歪というか、ヒビというか、ともかく綺麗な場所じゃなかったんだ。けど、私はそれが嫌でね。せっかくりくれん村から逃げたってのに、生臭い環境に身を置きたくなかったんだよ」

 色白な彼女が迫害を受けていることを、老婆はずっと気にしていた。しかしよそ者だった老婆には当時どうすることもできず、やがて娘が行方を眩ます事態に至った。

「ちゃがら村の連中は、大して探しもしなかったよ。そんな様子にますます腹が立ってね。だからどうにか、村の方針を変えてやれないかと思って。やっとこさここまで来たって具合だ。そんなだから、娘の顔を覚えているのは私ぐらいなもんでね。あんたの顔見ても、大人共は誰も反応しなかったろ」

 二〇年前のこととは言え、悲しいことだよ、と老婆は最後に加えた。

「で、あんたはその娘の、本当に生まれ変わりってわけか」

「それは、わかりません」ウメには自信がなかった。「だけど、彼女と、それから凶念樹に、私は命を救われたようです」

 ウメは唇を噛んで、そして続けた。

「私は、どうしたらいいんでしょうか」

「なんだいあんた、ここで死ぬんじゃないのかい」

 見開いた目で見上げると、老婆は至って冷静な表情をしていた。

「そう、でした」地面に手足を着いたまま、ウメの体がふらりと揺れた。頭がぼうっとする。意識が消えかかっている。

「私はね」老婆が凶念樹を見上げた。「この樹は、あんたに選択を迫っているんだと思ったよ。だから真実を見せたんだ、とね」

「選択?」

「生きるか死ぬか――、その選択さ。あんたはいま、きっと限界なんだろう。だからこの先のことをはっきり決意させてやるために、あんたに真実を見せて、選択する権利を与えたんじゃないかと、思うんだけどねえ」

 自分にも言い聞かせるように老婆は言った。

 選択する、権利。

――権利?

そのときウメは、我が身が他者から与えられたものなのだとようやくわかって、妙な感情を抱いた。それは 、人から間借りした鍬に亀裂が走っており、思い切り振り下ろした弾みで折れたその先端が、自分の大切な人の頭部に突き刺さり死んでしまったときのような、沸し切れない怒りだった。

「どうして私が、そんなことをこの樹に与えられなくてはならないの。私は、私として生きてきたのに! 権利なんてものを与えられる意味がわからない!」

「そりゃあ、あんたがこの樹から生まれたからだろう。話を聞く限りじゃ、そういうことなんだろ」

「そんなの関係ないでしょ! 私は私なのよ! 誰のものでもないの!」

「ふん」老婆は鼻をわざとらしく吹いた。「あんたはそもそも、人として生きてゆきたかったのかい」

 老婆の声が静寂に充ちた世界で淡々と紡がれる。

「あんたはこれまでたいそう苦労を強いられてきた。だけどそれは、あんたの意志じゃない。あんたは何者かによって人の身にされ、それで身勝手な扱いを浴びせられた。何もかも、この樹のせいじゃないか。この樹があんたに何かおかしなことをしたから、あんたは散々苦労してきたんだよ。そのことに、気が付いたんだ」

 なに――が、気が付いたとは、老婆は言わなかった。けど、ウメは即座に視線を移すことができた。いまも平坦な表情でその場に腰を据えているノウサギに。つまり、二〇年前にウメを助けた、その娘に。

「苦しむあんたを見かねたんだろう。だからいまこの場で改めてあんたに選択を与えてんのさ。あのときあんたには選ぶことのできなかった、生きるか死ぬかっていう選択をさ」

「生きるか、死ぬか」そんなもの、もう決まっていた。あまりに深い絶望を、ウメは知ってしまった。ウメがおもむろに言い放とうとしたとき、老婆の声が意識のど真ん中を通り過ぎた。

「あんたはさっき、死ぬとかなんとか抜かしていたね。それはよく考えて導き出した答えなのかい」

「そう、です。この数日間、ずっと悩んできました。そして知りました。私は人間でも動物でも無い。モノノ怪でさえない。こんな身でありながら人の世で暮らしてゆくことは、とても辛いんです。それに私は」――人を殺めてしまった。意図的でないにしても、その事実はウメの心に重くのしかかっている。

「そうじゃないよ」老婆はしかと言った。「残される人間のことを考えたのかと聞いてるんだ。あんたの私情なんてどうでもいいんだよ」

「……え」

「あの子らのことさ。髪飾り、作ってやったんだろ、私の分まで」

よく見れば、老婆が着る服の襟もとに兎を模した葉と蔓のまとまりが取りついていた。

「私はもうそんな年じゃないけどね。けどあの子らはそりゃあもうたいそう喜んでたよ。チハルなんて風呂のときまで着けようとして手放そうとしないし、ユウタに至っては男のくせにあんなものつけて村中走り回ってんだから大変だよ、まったく。けどね、あんたがいなくなればもっと大変だ。そのことちゃんと考えて、決断したのかい。そんなら私は止めやしないけどね。あの世でもどこへでも行っちまえばいいさ」

 チハルとユウタの顔がそのとき脳裏を過った。それが人でないものだと知ってなお、寄り添おうとしてくれた唯一大切に想える彼女たちの顔が、瞼の裏に張り付いて離れない。ギュッと目を閉ざして、どれだけ力を込めても、消えてくれない。

「あの二人は、いまも私を待ってくれていますか」

「さあ。私には何のことかわからないよ。ただ、チハルの方は約束したとかなんとか、やたらうるさいけどね」

 老婆の爪先がくるりと向きを変えた。

「私はもう村に戻るよ。こんな夜中にまで年寄りを連れ出すんじゃないよ、この兎め」悪態を吐きながら、老婆はちょん、とノウサギの額を突いた。ノウサギは髭をぴくぴくと動かすばかりで、やはりウメの方を見守っている。「ふん、ぶさいくな面だね、まったく」

「そうだ」と、少し進んだとき、小さく継がれていた歩みが止まり、老婆は顧みた。「あんた、死ぬなら夜が明けて以後にしてくれよ。あんたがまだ死んでないとわかっていないと、おちおち眠れやしないからさ」

 老婆はそして、どこか怪しげな足取りのまま、暗闇の森へと入っていった。

 老婆がいなくなってから、ウメは白い毛並のそれに触れてみた。髭だけが虫みたいに揺れるのを見てから、自分に生えているそれにも手を添えた。

 まったく同じ感触、艶やかさ、手触りだった。

 全身から力が抜けて、地面の上に倒れ、そういえばどうして私は死ななかったのだろう、とウメは不思議に思った。口の中の痺れる感覚もない。凶念樹の実を食べたのは、実は夢の中だったのかしら。

 そのとき、横になった視界の中で、白くて小さな生き物がどさっと地面に倒れたのを見て、ウメはハッとした。もはや髭さえ動かない。深い霧のような瞳にそっくりな色をしたものが、彼女の口端からじりじりと漏れている。

涙が込み上げてきた。老婆は選択なんてもっともらしいことを言ったが、そんなもの本当は単なる戯言で、残された道なんて他になかったのかもしれない。

 ぽっかりと胸の真ん中に穴が空いた気がして、ウメは溢れるものを拭うこともせず、星々が皮肉にきらめく素敵な夜空を仰いだ。


       20


 何かが終わることは、それは同時に、あらゆるものが手遅れになることと同義だ。

 それを知るまでに、あまりに多くの犠牲を払ってしまった。

 この時期になると時々思いだしてしまう。

まだあの村に生きていた頃のことを――。

自分がまだ、人々に虐げられていた時代を――。

 どうして私は生まれてきたのだろう。と、幾度となく思い、これまで生きてきた。そこでの葛藤を越えるまでに負った罪の重さは計り知れない。だから私はいまなお生きている。死ぬ間際の昆虫のようにしぶとく、無様にもがいて生きている。

 いけない――と、思い、彼女は重い腰を上げた。墓標を前に一礼し、傍で灰色を湛える大木を見上げ――それから、森の中を蛇行する道を慣れた足取りで戻ってゆく。ずいぶんと考えふけってしまった。もうじき陽が暮れてしまう。晩御飯までに戻らないと、子供たちがまた心配するので足を急かした。

 村に着く途中でいくつか山菜を摘んだ。フタゴグサの植生跡はすっかり失せて、そこにはナガブナのみずみずしい葉がびっしりと敷き詰められている。麻袋を半分ほど埋めて、それから斜面を下った。

「あ、お姉ちゃん!」

 少女が駆けよってくるのに合わせて、農作業を切り上げたばかりの様子の村人たちがちらほらと首を回す。おかえり、だの、様子はどうだった、だのという言葉に適当な返事をしつつ、駆けてきた少女の二回りも小さな体を、身を屈めて受け止めた。

「おかえりなさい!」元気に言う少女に、

「ただいま」物静かに微笑んで返した。

 家に入るとすでに囲炉裏で湯が湧き立っていた。先日、――晩春も明けた頃――男の子を連れてやって来た都の女性が、治療の御礼に、と、どうしても、と言って、囲炉裏の材料を、あろうことか村人分運び入れたのだ。そこで、空間に余裕のある小屋すべての囲炉裏を設え、その内のひとつで彼女は寝食を過ごすようになったのだ。

すぐ晩餐の準備に取り掛かった。と言っても、今日は入山日だったので、手の込んだものは作れない。時々にしか集まって食事を共にできないのだから、申し訳ない気持ちが芽生えないでもないのだけれど、子供たちは、ともかく一緒に居られればそれで構わないんだ、と口を揃えたので肩の荷が降りた。

食材を程よい大きさに切り分け、煮沸している湯の中へ放り入れたものをみんなで談話を交えながら食したあとは、何人かを順に風呂へとゆかせた。最後に残った少女と少年だけが片付けの手伝いをし、他は入浴の準備を進めるといった調子で役割分担しているのだった。

「それ洗い終わったらあなたも入ってきちゃいなさい。初冬って言っても夜遅すぎると冷えちゃうからね」

 陶器が重ねて置かれたカゴを持って水舟の方へゆこうとする少女に言った。少年が運んできた陶器を乾拭きしながら、はーい、という返事を背中で受け止める。

「なあ、姉ちゃん」少年が恐る恐るといった具合に言ったので、彼女はすぐに彼の言いたいことを察した。

「また?」

「うっ」少年がバツの悪そうにする。「お願いします」

「まあ、いいけど。でも、いい加減作り方覚えてよね」

「だって難しいだもん」

 あまり責める風に扱いたくもなかったので、やり取りも手頃なところで終え、少年に湯と葉を用意するよう促した。

「みんながいるときに言えばいいのに。そしたらみんなのも一緒に作ってあげられるのよ」

「ごめん、なさい。けど、俺一番年上なのにできないとか、恥ずかしいじゃん」

「だったら練習しなさい。今度できるようになるまでおしえてあげるから」

「本当に?」満更でもない様子だった。「やった!」

「そんなに嬉しいの?」

「うん! 姉ちゃん最近、チハルに構ってばかりだからみんな言ってるよ。えっと、ヒイキだ、って」

 彼女は唸った。何気なく日々を過ごしている内に無意識が顔を出してしまっていたのだ。チハルと少年は恩人だから、とりわけその気が強く出ているのかもしれないと思った。

「俺も結構うらやましがられてるけどねー」

 どこか自慢げに少年が言ったとき、少女が戻ってきた。荒立っていた水面が急に落ち着いてしまったような顔をしていたので、束の間不安を覚えた。

「お姉ちゃん、お客さん」少女が言った。

「お客さん?」

こんな僻地にやって来る客となれば心当たりの幅はぐんと狭まるが、しかし夜も更けようとしている時刻となると話は変わってくる。

残る雑務を二人に託して、客人がいるという村の北側へ赴いた。

そこで所在なげに立っていた人物を見て、彼女は、あ、と声を漏らした。

「こんばんは」客人が微かにダミの混じった声で言った。「元気そうで何よりね、ウメちゃん」


   * * *


茶を出すと、昔ながらの知り合い相手でも、おばさんは礼を言って頭を下げた。社交辞令というやつだ。おばさんの疲れ切った顔を見ながら、ウメから口火を切った。

「こんな時間にどうされたんですか」

 おばさんは深く息を吐きだす。

「本当は昼頃に着く予定だったのよ」おばさんは苦笑いだ。「けど、途中で道に迷っちゃって。結局来た道戻って川を頼りに下って来たのよ」

「まあ」おばさんの言うそれは、この村の東側に流れている川のことだろう。「ちょっと遠回りになっちゃったんですね。よかったらお風呂入っていかれますか」こうしたことは珍しくなかったが、苦にはならない。水はどんどん流れてくる。時おり降り注ぐ雨が山に吸われ、恵みとなってあちこちから湧いている。惜しむものと言えば湯を沸かすための薪ぐらいだ。木は生長に時間がかかるから、大切に扱ってあげないとすぐに枯渇してしまう。

「いいのよ、別に」ただ、とおばさんは申し訳なさげに眉を寄せた。「今晩、寝床だけ拝借してもいいかしら」

「ええ、構いませんよ。夜の山は危険ですし。この小屋を使ってください」ちらりと、小屋の端っこの方でじゃれあっている子供たちに視線を送り、唯一その動きに気が付いたチハルとユウタに、ごめんね、と目顔で言った。二人とも微かに憂いの滲んだ顔をしたけれども頷いてくれた。

「ありがとう、助かるわ」茶をすすって、おばさんは続けた。「そうだわ、それでね」

ここに来た訳合いは、りくれん村の隣にあるコナラ林の手入れの協力をウメたちに仰ぐためだとおばさんは言った。

「コナラ林の手入れですか」ウメは考えてから答えた。「村の人たちに相談してみますね。私だけの判断じゃ決められませんし」

 と、言うと、おばさんが若干顔をしかめたのでウメは焦った。

「ダメかしら。ウメちゃんなら、と思ってここへ来たのだけれど」

「ああ」なるほど、と思った。ひょっとしたら彼女は、わざと夜の時間帯を選んだのかもしれない。夜ならば村の中を出歩く者はほとんどいない。気付かれることなくウメの家を訪れることも可能だ。「だから村長ではなく私のところへ」

「そうなのよ。ウメちゃんなら昔からの知り合いだし、大丈夫かなって」

「別に村長に直接申し出ても問題ないと思いますけど」

 りくれん村との交流関係は、ここ二年でそれなりに深まった。以前までは、おばさんいわく「ジジイ」の存在が双方の間に大きな亀裂を生みだしていたが、あの一件による村人たちの不信感も次第に薄れつつあり、いまでは時々、互いの村へと一肩入れに赴き、そのお返しとして、何か謝礼を頂戴するというやり取り程度は為されるようになった。けれど、ウメがいま暮らすちゃがら村は相変わらず貧相な生活が送られており、日々の食事ですら山菜に頼らないと食が苦しくなってしまうほどだ。そのため、依頼主の大半がはりくれん村の人間で、頂戴する品々が、相手方でしか採れない農作物という場合も多いため、ちゃがら村の人々が抱く期待度は意外に高い。

「けどやっぱり、ちょっと不安なのよね。昔のこともあるし」

「そう、ですか。だけど、やっぱり独断では決められません。今日は寝て、また明日、改めて村長の方を訊ねてみてください。場所はわかりますか?」

 半ば捲し立てるように言うと、おばさんはようやく観念した。

「何だか強くなったわね、ウメちゃん」

 ウメはぴくりと反応した。「ええ、おかげさまで。おばさんの方は相変わらずみたいで安心しました」

 おばさんはそれから、やっぱり湯船を借りたいと言って、小屋の裏手にある木の風呂桶へと向かった。

 客人がいなくなり、すかさずチハルとユウタが傍に寄ってくる。

「姉ちゃん大丈夫?」ユウタが初めに言って。

「顔色悪いよ」チハルが身を近づけた。

「ええ、平気よ。あの人は別に、悪気があるんじゃないから」

 そう――おばさんは何も、悪気があって、昔と今とのウメを比べたのではない。過去のことなんて、忘れているだけだ。自分たちがウメに対して何を繰り返してきたのか、それをすっかり失念し、元通り、仲を取り持とうとしているだけの、無邪気な村人なのだ。

 けれども調子が崩れたので、ウメは湯船に浸かろうとしていたおばさんに、「やっぱりあちらの小屋を使ってください」と伝えた。いまは無人で、誰も住んでいない。元は高齢の者が暮らしていたが、数カ月前に他界してしまったので、空き家になっていた。

「掃除はしてるので普通に使えると思います」

 あからさまに嫌悪する表情を貼りつけていたので、ウメがそう付け加えてやると、おばさんは便利な人形みたいに笑顔を取り戻した。

「本当にしっかり者になったのねえ。この二年でこんなに見違えてしまって。もしバアヤが生きてたらびっくりしたろうね」

 バアヤが死んだのは一二年も昔のことだ。風呂を湧かすために熾した火の灯りだけが頼りとなる薄暗い屋外をもくもくと上ってゆく湯気の奥で、おばさんのニタニタとした邪気の無い笑みが浮かんでいる。

 小屋に戻ると、チハルとユウタが寝床を整えてくれていた。他の子供たちはすでに自分らの親元へ帰っていたので、二人もすぐ家に戻るよう伝えたのだけれど、チハルの方はこの小屋に泊まると言って聞かなかった。なんと、すでに両親には伝えてあると言って、自分の分の布団まで敷いてしまう。

 ちょっぴり強引に振舞う少女を見ると、時の経過を目の当たりにしているような気がして嬉しさを寂しさが一緒くたになった。

 この子たちと暮らすようになって、もう、二年が経ったのか。日が経つのは早い。本当に。驚くほど呆気なく、清流よりも滑らかに流れていってしまうのだ。

 あの日――ウメが自害を試みた日に、老婆は死んでしまった。高齢でありながら短時間の内に山を上り下りしたせいだった。無理が祟ったのだ。

 結果的に、ウメに深く関わった人が二人も命を落とした。いや――バアヤを含めれば三人だ。村の人たちは気にするなと言ったが、その事実をウメは深く悔やんだ。気が付くのがあまりに遅すぎた。ウメのような者が人並みの暮らしを得るためには、それ相応の犠牲が必要だった。

 かつてウメは、等価交換という話について聞かされた。

 果たして私には、彼女らの命を引き換えにするだけの価値があったのだろうか。もしもあの人が死ななければ、この子たちが悲しみの涙を流すことはなかった。

 だが、考えても答えは見えず、やがてウメは、子供たちにせめてもの恩を返そうと、この村に住まうことを決めた。チハルやユウタと共にあることを、ウメ自身も望んでいたので、まったく苦なんて感じなかった。むしろ、幸福だった。

けれど、時々思いだしてしまうのだ――

「お姉ちゃん」チハルが布団の中で身を寄せてきた。「眠れないからさわってもいい」

 ウメは暗闇の中、目を閉ざして静かに答えた。「いいよ」

 チハルの腕が伸びて、衣服を捲り上げる。へその下にのうのうと生えている白い毛を握る。くすぐったくて、どこか気持ちが悪い。やがてチハルの気持ちよさそうな寝息が聞こえるようになると、そこでようやくウメも心地よくなって、眠りにつける。

 そう――私は、人じゃない。動物でも、化け物でも、モノノ怪でもない。ならば何者なのだろう。その答えは、きっと死んでもわからないのだと思う。

 だたひとつ言えることは、ウメはいま、人の世界で暮らしているということ。

支払われた代償は大きいけれど、ウメはいま、死んでしまいたいと思えるほどの幸せに包まれている。

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ウサギ物語 ケニョン @kenta

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