4-2
身体は物凄く疲れているはずなのに、なかなか寝付かなかった。
理由は分かっていた。なんとか生きて帰って来れたが、生きている実感が持てないのだ。ベッドに入ると、考えないようにしていたこともついつい考えてしまう。
――なぜ、俺は生きていられるんだ? エテナの治癒魔術のおかげ? 本当に?
胸を刺し貫かれた感触は紛れもなく本物だったように思う。本物かどうかを判断する経験や基準がどこにもない、少なくとも具体的な記憶としてはなかったため、偽物だったとしても気付けないのかもしれないが、それでも偽物には思えなかった。理屈ではないのだ。
確かに自分の胸は青い光の槍に刺し貫かれていた。そして、刺し貫かれたにもかかわらず、平然と生きているのだ。
自分のことなのに、不思議で仕方ない。しかし、不思議なことが実は当たり前なのであり、当たり前のことを不思議と感じているだけなのか。
頭が思考のループにはまっていくのを感じ――――音がした。キィーっと部屋の扉が開く音だ。鍵をかけて寝たはずなのに、何者かが開いたのだ。
足音がする。一歩、また一歩と近づいてくるのが分かる。
息を呑む。
寝たふりを続けるべきなのか、起き上がって何者か確かめるべきなのか。
迷いながらも、取りあえず寝たふりのまま薄目をあけて――常夜灯に照らされ、見た顔があった。黒い髪に黒い瞳――ライラだ。生きていたのだ。
一緒のベッドで寝ていたエテナを足で蹴って下へ落とす。そして、自分も後を追うようにして転がってエテナの上へと落ちる。
頭をあげれば、振り下ろされた刀がベッドへと突き刺さるのが――いや、途中で止まった。
ライラが後ろから羽交い絞めにされているのだ。
「させないよ」
フルアルがライラの動きを封じて告げた。駆けつけてくれたわけではない。念のために、と最初からこの部屋で一緒に寝ていたのだ。
「また、あんたか」
落胆したような弱々しい声音だった。これで前と同じくひいてくれるのか、と期待した時、扉の方から青い光、二本の青い槍がフルアル目がけて飛んできた。
しかし、フルアルは意に介することなく、黒いローブで受け止める。
「僕のローブも姫が作ってくれた改良品なのさ」
「そうなんですね。けれど油断しすぎなのでは?」
メリーが一段と光り輝く青い槍を生み出し、細く収束していくのが見える。明らかに今までの槍とは異なる。槍というよりも針に近い。光の針だ。
「刺し貫きます」
声が早いか、まばゆい一条の光がフルアルのローブを貫いてしまう。同時にライラが身体をひねって無理やり抜け出し、フルアルの首を斬りつける。
一瞬のことだった。
しかし、おかしなことが起こった。フルアルの首はたやすく切り落とされ、なのに、血が出なかった。
「油断してるのは、君たちだよ」
フルアルは窓際に
「どういう、ことだ?」
ライラの足元には土があった。フルアルだったはずのものが土くれになっていた。
「僕は僕を土で作ることができるのさ」
窓際に立つフルアルが杖を突くと、土くれが人の形を成してフルアルとなった。
「でしたら、全て土へ還すのみでしてよ」
光の針がメリーの両手から、三本ずつ両手の指の間から放たれる。もちろんメリーだけではなく、ライラも――ライラはこちらへ斬りかかってきていた。
「逃げるんだ」
ライラの刀を遮る形で、新たなフルアルがベッドの上に現れた。銀色パジャマ姿のエテナは目をあけてはいるものの寝ぼけまなこで、手を取り引っ張ってやる。
「こっちに」
窓際のフルアルが呼んだ。土くれのフルアルを盾にして光の針を防いだようだ。その証拠に首を落とされた時の再現みたいに土くれへと戻っていくのが横目に見て取れた。
窓を開け放ち、外へと促される。
「飛び降りるよ」
選択肢はなかった。物を問いたげな翡翠の視線に頷き、エテナを抱きしめ、二階から中央通りへと飛び降りた。
「土くれよ、我らを受け止めたまえ」
地中から土が集まってきた。そして、着地する瞬間、集まった土がスポンジみたいにくぼみ、衝撃を和らげてくれた。
これで逃げられるかと思ったのも束の間、とんでもない窮地に陥っていると理解した。
周囲を取り囲まれていた。十人近くの何者かが武器を手にして、こちらをじっと見つめてきている。目を疑いたくなることだったが、宿のお姉さんや守衛の女性が混ざっている。
――どういうことなんだ?
疑問が頭を埋め尽くそうとするが、そんなことにはかまっていられなかった。見上げれば、上からライラが刀を振りかざして迫ってきていたのだ。その背後では、メリーが光の針と槍を左右に出現させている。
ナイフが投げられ、弓が放たれ――あらゆる方向から殺意が差し迫ってくる。
「土よ、壁を成せ」
フルアルが杖を突いて命令すると、襲いくる者たちを阻む土の壁ができた。しかし、全てを防ぎきることはできない。
光の針がフルアルの左腕を刺し貫いた。ライラの刀が壁を突き破った。
もうダメかと思った。けれど、フルアルはもう一度だけ両手で杖を強く突いた。
土の壁が崩れていく。
当然、崩れてしまえば、また攻撃されてしまうはずなのだが、そんなそぶりを誰も見せなかった。
「動け、ない?」
ライラがフルアルに斬りかかる姿勢で動きを止めていた。
「僕の人形が君たちの動きを封じ込めたんだよ」
襲撃者たちの身体には丁度フルアルがエテナに渡したくらいの大きさの人形が何体もまとわりついていた。特に関節部分へとしがみつき、身動きが取れないようにしているようだ。
フルアルがこちらに目配せして、襲撃者たちの間、カラドリ駅へと続く南の通りを杖で指し示す。逃げろという意味なのだろう。エテナも状況を少しは理解しているのか、手を引くと何も言わずについてきた。
フルアルも後を追ってきたが、しばらくすると急に立ち止まった。
「どうしたんですか?」
まだ襲撃者たちとの距離は表情が分かるほどに近い。
「長くは持たないし、何度だって使えるわけでもない。だから――」
フルアルは杖を静かに突いた。
「爆散させる」
襲撃者たちが爆発した。いや、正確には襲撃者たちにしがみついた人形なのだろうが、結果はあまり変わらない。彼らの四肢が千切れて弾け飛んだ。
「どう、して?」
あまりの光景に疑問が零れた。いや、殺さねば殺されてしまう状況だと理解はしていた。しかし、納得できなかった。受け入れたくなかった。ただ拒絶したかった。
「魔に携わる者を生かしたまま無力化するのは、とても難しいことなんだよ」
吐き気がこみ上げてきて、けれども、我慢した。我慢したのだが、えずくのを抑えられずにその場でうずくまった。
何かが少し違えば、きっと自分たちがあのようになっていた。爆殺と斬殺の違いしかなかったはずだ。自分たち――エテナやフルアルがバラバラにされるのを想像してしまった。
「まぁ、僕の力が足りていないと言えば、それまでなん――」
不自然に途切れた言葉に振り向くと、フルアルのお腹から手が突き出ていた。どこか見覚えのある手で、しかし、甲のところに青い石が光っている。
フルアルが杖を突く。彼の背後にいる何者かを周囲の地面がせりあがって呑み込んだ。土の柱ができあがった。
「大丈夫ですか?」
お腹から突き出ていた手は消え、代わりに穴があいていた。出血は思ったほどにはない。
「あぁ、止血したし、このくらいなら……逃げよう」
どうやって止血したのかと思ったが、フルアルが魔術師であることを考えれば尋ねるまでもなかった。
中央通りを南へと向か――しかし、立ちふさがる人影があった。
「こんばんは、皆さん。月が綺麗な夜ですね」
水色のワンピース姿でお辞儀をした女性。
「ドロシーさん?」
初めて会った時と同じ姿で、けれども帽子はしておらず、レース生地の白手袋も右手だけ。左手は血に少し濡れて、手の甲には青い石。
「えぇ、レターさん、随分とお急ぎのようですが、こんな夜中にいかがなさいましたか?」
月光を受けた微笑みは柔らかで、声音もいつもと変わらない優しいものだ。
「どうして?」
「どうしてでしょうね」
一歩こちらへ歩み寄ってくる。何かの間違いであってほしい。けれど、ドロシーの左手には危険を知らせる血がついている。
「ここは止める。逃げるんだ」
フルアルが杖をかまえる。不安げな翡翠の瞳がこちらを向いていた。エテナの手を握りしめ、通りを北へと向かうことにする。肉片となった襲撃者たちが待ち受けているはずだが、気にしてはいられない。
「刻みに従いし
ドロシーの声が聞こえてきた。おそらく何かの呪文だろうが、フルアルに任せると決めたのだから振り返りはしない。
今は逃げることが先決だと地面に転がる白い腕を飛び越――目の前に転がっていた足が黒い煙を纏ってうごめく。いや、足だけではない。散らばっていた襲撃者たちの肉片が闇へと沈み、あちらこちらに集まっていく。
異様な光景に思わず闇を避けるように移動して、それでも闇から目を離さずにいると、闇の塊は人の形を成し――やがて人となった。
「嘘、だろ?」
「それはあたしのセリフでもあるけどね。まさか、やられるなんて思わなかったよ」
すぐ傍で立ち上がった闇から姿を現したのはライラだった。
そして、問答無用で斬りかかってくる。
「まだ殺さないでください、ライラ」
ドロシーの静かな力強い声に反応して、首元すれすれで刀は止められた。
「姉さん、どうしてなのかな?」
「わたくしも姿を見せてしまいましたし、折角なので、もう少しお二人とお話がしたいんです」
「でしたら、捕まえておきますね」
メリーによって腕をひねられ、後ろ手に組み伏せられる。向けられた刀に意識がいっていて、背後にメリーがいたことなんて気付けなかった。
続々と蘇ってくる襲撃者たちによって再び囲まれていた。
エテナもなすすべなく、つかまってしまう。
「暴れるようなら、痛い目に遭うからな」
ライラとメリーに両脇を固められた状態で、そんな忠告を賜る。改めて言われなくとも逃げ出せるはずがない状況だと分かっていた。
「フルアルさん、降参しては頂けないのでしょうか?」
「降参なんて選択肢が本当に残されているのかい?」
フルアルの後ろ姿を見て、衝撃を受けた。右腕がなくなっていた。この短時間に何があったのか、ドロシーは何をしたのか。
「そうですね、あなたのお仲間さんのことやカラドリにやってくるまでの経緯など、知り得ることの全てを洗いざらい喋って頂ければ、少しは考慮致します」
「残念ながら、それはできないかな」
「でしょうね。即答なさるなんて、さすがはアトラスの猟犬です」
アトラスというのはドーリスの隣国だったはずだ。猟犬というのはどういう意味なのだろう。
「僕の行動について言えば、それはあまり関係ないんだけどね」
「そうですか。それではなぜこの国へ来たのでしょう? まさか忘れ形見の指す意味をご存じなかったわけではないでしょう?」
微笑みは相変わらず穏やかだ。
「カラドリを守る魔術か魔導具だと思っていた。でも、少し予想していたのとは違ったようだ。君と、いや君の左腕かな?
「うーん、どうでしょうね」
意識して見てみると、ドロシーの左腕には遠目に見ても分かるほどに暗い闇が渦巻いていた。手の甲にある青い石を瞳とするならば、指を牙、腕を胴体とした一つ目の黒き龍にすら見えてきてしまう。
「次は左手を頂きますか」
「ちょっと待ってくれないかな? 君のことをもっと知りたいんだ」
前に進もうとしたドロシーを止めるようにフルアルは告げた。けれど、ドロシーは足を止めない。胸元に右手を当て、左手=龍の手は顔の少し前でかまえている。
「時間稼ぎでしょうか? 白雪・エフィーク・フィエントがやってくるまでの」
「その口ぶりだと、雪姫は無事なんだね」
フルアルは杖を突いた。ドロシーの周りで土がせりあがる。彼女は抵抗するそぶりも見せずに立ち止まって自分の顔へと左手を押し当て――姿が消えた。闇が彼女を呑み込み消えた。
そして、次の瞬間、フルアルの足元から、足元近くの影からドロシーは現れた。
もう一度、杖が突かれる。
影から出てきた女へと人形がしがみつく。ライラたちの動きを止めた小さな人形だ。
「二度、いや、三度も同じ手は通じないよ」
動けなくなったドロシーを目の前にしてフルアルが告げた。
「それはどうでしょう」
しかし、人形は急速に黒ずんでいき、闇へと落ちて消え去る。
「あなたの魔術の弱点、それは事前に土をまいておかねばならないことですよね? おそらくですが、操ろうとする土へとあなたのヰオンをなじませる必要があるのでしょう。時間経過によって魔術を行使可能な範囲は広がり、土をまいた地点から遠ざかるほどに操作性は失われるといったところでしょうか?」
フルアルの左手首を黒き龍の手が握った。闇の中へと溶けていくかのごとくフルアルのひじから先が消えた。
杖が小さな音を立てて転がる。両手を失ってしまっては持てるはずもない。
「君の闇はヰオンを呑み込むのか。僕のヰオンに細工して魔術を使った瞬間に呑み込んだということか。でも、どうやってそん――」
「そんな驚いた顔をしないでください。フルアルさん、あなたはこの街全体がわたくしのテリトリーだと心得ていたはずです。だって気付いていたのでしょう? でなければ、魔術を使えるように砂をまかないですよね。既にまいたはずなのですから」
話の意味が分からない。フルアルは何を気付いていたというのだろうか。いや、それよりもどうにかして助けに入らねば、フルアルが消されてしまう。
「ドロシーさん、どうしてこんなことを?」
「とぼけているわけでもなさそうなんですよね。レターさんは本当に困った方です」
軽やかな足取りでフルアルの横を通り抜け、こちらへと向かってくる。
「ドーリス様の力を分け与えられし娘ネレイデス、それがわたくしたちなんです。そして、わたくしたち――特に強い力を授かったわたくしには娘として、この街カラドリ、この国ドーリスを守り続ける使命があるんです。ですから、わたくしはドーリスに害をなそうとする者を見逃しはしません。わたくしの力が及ぶ限り、他国の属国になることなどは決して許しません。また、たとえ彫像の姿であっても、ドーリス様を傷付けた方にはそれ相応の報いを受けて頂きます」
「あぁ、最初からだったのか」
ライラがドロシーのことを姉さんと呼んだ時点で気付けたはずのことだった。
「えぇ、知らないと思っていましたか?」
ドロシーから鞄を奪った黒装束の女がライラであるならば、当然ながら、ライラがぶつかってきたのは偶然ではないのだ。ドロシーが手を差し伸べてきたことも含めて予定通りに起こった出来事なのだ。
「わざわざ、どうして?」
「ドーリス様を壊した理由も知りたかったですし、あなた方が一体どういう方々なのかも見定めたかったんですよ」
そういえば、この街に来た理由などを出会ってすぐに訊かれた気がする。全ては女神の彫像を破壊したからだったのだ。
「事故なんです。彫像は壊したくて壊したわけではありません。その、実は俺にも記憶がなくて定かなことは分からないんですが、エテナの話では空から落ちてきた時にぶつかって壊してしまったんです。ごめんなさい」
謝った。今更なのかもしれないが、謝ることにした。
「もっと早く――アトラスの猟犬と馴れ合う前でしたら、今のあなたの言葉を信じて、対応を変えたのかもしれませんね」
「アトラスの猟犬というのは?」
「分からないのでしたら、それでもいいんです。記憶をなくされているというならば、今から無理やりのぞかせて頂くだけですから」
龍の手が顔を真正面からつかんできた。
意識が暗闇へと呑まれていく。
「
何もない闇が広がっていて、けれども、やがて色が断片的に出現してくる。
夕暮れ、ブランコ、水たまり、誰かの手、笑い声。蛍光灯、車の走る音、椅子、黒板、雨音。燃え盛る炎、愛用の鞄、カラスの鳴き声、川のせせらぎ、お味噌汁、噴水。酒のにおい、キーホルダー、屋根、アイスクリーム、太陽。花束、階段、紅茶、ノート。ヴァイオリン、チョコレート、白いチョコレート、白い景色、雪。コップに注がれた水、花瓶、帽子、誰かの湯呑み、誰かの声。セミの鳴き声、空き缶、スイカ、麦茶、花火、入道雲、海。読みかけの本、リモコン、携帯電話、アラーム音。ゴミ箱、捨てた、光。日陰、草、日向、猫。月、光、闇。夜、ナイフ、斬る、刺す、血。青空、五百円玉、ベンチ、ため息。ナイフ、刺す。ニュース、カーテン、そよぐ、揺れる。ナイフ、お腹、刺す、血、血、血。ラップ、皿、かける、皿、レンジ。稲妻、水、かける、爆発。鉄、ナイフ、血、皿、血、血――――。
血に濡れたナイフを握っていた。血に濡れた両手だった。雨音が聴こえていた。
――あなたへの改変を記憶しますか?
響く声。景色が消える。赤も青も、白も黒も。
身体を引きちぎられるような、ねじり切られるような、けれども痛くはない。そんな感触がおかしくて、笑ってしまいそうで、悲しくて、泣いてしまいそうだ。
上へ引っ張られて、下へ突き落されて、意識が急速に鮮明さを取り戻していくのが分かった。
「なるほど、そういうことですか。全く同一なんて、おかしいとは思っていましたが、通りで。あなたは――でしたら、レターさんは今ここで消し去ってもいい――――」
目の前のドロシーが言葉を切り、後ろを振り返った。なぜだか自分の目から涙が零れている。ドロシーに何をされたのか、考えようとするが、頭が痛い。割れるように痛い。今は思い出さなくたっていい、どうでもいいと思ってしまった。思ってしまえるような光景があった。
「まだ抵抗なさるんですね?」
フルアルの様子がおかしい。茶色い髪の奥で瞳が金色に光っている。ドロシーによって奪われたはずの両腕が再生している。ただし、倍以上の太さで再生していて、もはや腕というよりは鈍器だった。
「あぁ、レター君には守ると約束したし、何よりも、あまり待ち続けるのは得意じゃないのさ」
「分かりました。先にお相手して差し上げます。そろそろ次のお客様が到着する頃合いのようですし、フルアルさんとはお別れせねばなりませんね――早急に」
こちらへと駆けてくるフルアルに対し、龍の手を自らの顔へと当て、姿を消すドロシー。
フルアルの背後に現れ、右肩へと龍の手で噛みつく。
「ふっ、予想通りさ」
右腕が黒く朽ちていくのを気にした風もなく、フルアルは振り向きざまに左手で殴りつける。
しかし、その左手すら龍の手につかまってしまう。
右腕だけでなく、左腕まで再び失って――しかし、右腕も左腕も崩れ落ちて消えていくのだが、ドロシーへと殴りかかる軌道は失わない。
「奪われるより先に潰すよ」
失われると同時に新たな腕が生まれてきているのだ。
「潰されるわけにはいきませんね」
ドロシーが左手を顔へと押し当てて再び姿を――しかし、左腕の関節にフルアルの人形がしがみついていた。みるみるうちに黒ずんでいくものの、それでも一瞬の遅れが生じた。
「片腕だけでは間に合いませんか」
胸元に当てた右手――甲の部分が青い光を放つ。レース生地の白手袋が破れ、闇が渦巻いて広がっていく。ドロシーの全身を覆って、そして闇は消える。
再び現れたのは上空だった。闇のドレスを纏ったドロシーがフルアルの上から落ちてくる。
「衣装を変え、窓から飛び降りてきたんだね。受け止めてあげよう」
フルアルが両手をドロシーへと伸ばす。その両手を真っ向から左右の龍が噛み砕く。
「土より成る我が腕、数限りなく生まれよ」
幾つもの腕がフルアルから伸びてきた。ドロシーの腕をつかみ、肩をつかみ、足をつかみ、首をつかむ。ローブの至る所から白い土が零れ落ち、途中から腕となっているのだ。
「数に限りはなくとも、量には限りがあるはずです」
ドロシーの両腕の龍が暴れ回る。いや、両腕だけではない。顔が豹変していた。青い瞳を
「それでも、君を一度くらいなら抱きしめられるさ」
黒き龍へと伸びる腕は次々と朽ち落ちていくが、ドロシーとフルアルの距離は着実にせばまり――――やがて宣言通りに空から舞い降りた黒き龍をフルアルは抱きしめた。数十本に及ぶ腕が暗黒をまき散らすドロシーの身体へと絡まっていっては、闇に焼かれて消えていく。
「屈辱ですね」
「その割りには随分とにこやかな笑顔だと思うけど?」
「フルアルさんの見た目が面白いからかもしれません」
「あははっ、今の君ほどではないと思うよ」
交わされる言葉は、繰り広げられる光景には似つかわしくないものだった。
ドロシーの表情はレターには見えなかった。代わりに、フルアルの顔――――顔らしきものは見えた。
黄金に輝く瞳が割れていた。瞳だけではない。顔の至る所がそがれ、頬骨がむき出しになっている。
「さぁ、一緒に――」
ドロシーの耳元で囁かれたのはどんな言葉なのか。
レターはじっと見ていることしかできなかった。ライラたちも食い入るように見入っているだけだった。
割れた瞳がちらりとこちらを向き、裂けた口が何か言葉を発したような気がした。
次の瞬間、フルアルたちの足元がせりあがった。空に撃ち出す勢いだ。
無数に増えた腕の中へと二人の姿が消え、空へと腕の塊が昇っていく。いや、白が黒を覆って黒が白を染める様子は、既に何かよく分からない球体だ。しかも、いつの間にか、街の至る所から闇の龍が地中を突き破って現れ、球体へと身体を伸ばし、噛みついている。
幻想的と呼ぶべきか、猟奇的と呼ぶべきか、闇に喰われる満月のようだ。
異形の満月は、そして、爆ぜた。
打ちあがった花火のごとく、けれども目が焼かれてしまいそうなほどに
何が起こったのか理解するよりも早く、爆風によって飛ばされていた。
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