4-3
周囲に立ち込める白い煙は何によるものか。意識が途絶えてしまっていたようだが、どのくらい時間が経っているのか。
自らの状況を思い出して、エテナの姿を探す。エテナだけではなく、ライラやメリーも幸いなのか見当たらない。
歩き始めてすぐに気付いたが、足元はなぜか砂に覆われているし、壁すら見当たらない。
――もしかして、天国? いや、地獄? なぁんて、そんなはずはない、よな?
視界はなかなか回復せず、不安が次第に募っていく。
爆発して、どうなったのだろうか。フルアルとドロシーはどうなったのだろうか。
砂を踏みしめる音。何者かが近付いてくる気配がした。
「レター? それともエテナ? ううん、レターだね。ようやく見つけたよぉ」
巨大砂ウサギに乗って、ゴーグルにローブ姿の何者かが現れた。
「シロ、なのか?」
「うん? そだよ? 何があったのかな?」
「ドロシーさんたちに襲われて、フルアルさんが爆発した」
「えっと、詳しく説明してくれない?」
カラドリに到着してからのこと――ライラたちが現れ、ドロシーが龍になって――何があったのかをかいつまんで説明した。
「――そう……そっか。うん、まずはエテナを探そう」
後ろに乗れと手で合図してくる。
「あっ、あぁ――どうしてそんな冷静なんだ? フルアルさんがどうなったかも分からないし、だいたいシロはどこに行ってたんだ? そもそもどうして俺たちを巻き込んだり――」
「ちょっと待って。一気に質問しないでもらえるかな? シロは本物の、っていうのは少しだけ違うのかな。元からあったカラドリへ行ってきたの」
わきあがって訊かずにはいられなかった疑問を遮り、そう答えると、シロはウサギから降りてゴーグルを取った。黒い瞳にはどこか威圧感のある輝きがあった。
「元からあった?」
「うん。レターたちの向かったカラドリはたぶん新しく作られたカラドリ。どんな術理や術式なのかは分からないけど、魔術によって作ったものだと思う。今この場所が砂丘に戻ってることからすれば、伝承にある砂粒から成した竜宮城っていうのだったのかもね」
よく理解できない説明をしながら、足元の砂を右手ですくいとって風へと散らす。
「どういうことだ? 俺たちの向かったカラドリがカラドリじゃなかったのか? それにシロは気付いていたのか?」
「月の出てくる方角は東のはずだからね。カラドリの東にある砂丘から月を背景にしてカラドリが見えるのはおかしいでしょ? 確証が特にあったわけじゃないんだけどね」
言われてみれば、その通りだった。中央通りをカラドリ駅から宿へと向かう時に、月が左手前方に見えたことを思い出した。全く気にしていなかったが、月に向かって歩いていたということは、北上しているつもりで実際には南へ向かっていたということになる。
「まさか俺たちを
気付いていながら魔術で新しく作られたカラドリへ向かわせたなら、
「囮――もしカラドリがカラドリじゃないなら、シロを邪魔しにくる可能性が高いと思っての行動だったんだけど…………うん、結果的にはレターたちが囮になっちゃったんだね。ごめん」
シロは頭を下げた。あまりに軽く頭を下げた。
「ごめんで済んだら――フルアルさんがどうなったか分かってるのか?」
あんな爆発だったんだから生きているはずない。フルアルなら、と思ったところで、爆発する直前の姿を思い出すと、とてもじゃないが生きているとは思えない。言葉を濁してごまかすのは限界だった。
「今は――今は、あまり考えさせないでくれないかな? 先にすることがあるの。もし無事だったなら、フローは戻ってくるはずだし、そうじゃなかったら――――ううん、とにかく――」
「どうしてだよ? どうしてこうなったんだよっ! そうだ、アトラスの猟犬ってなんなんだ?」
一瞬だけ目を丸くしたシロはすぐに険しい表情をした。
「フローが話した……はずないよね。なら、ドロシーかな。シロとフローはアトラスから派遣されてきたんだよ。カラドリに眠っているとされる力を手に入れるためにね」
「それはつまり、ドロシーさんたちから力を奪うって、そういう話か?」
「穏便な形で譲ってもらえるなら、あるいはもっと力を貸してもらえる確約があったなら、ここまで強硬な手段は取らないはずだった。でも、ドーリスが歩み寄ってくれるのをいつまでも待っていられないと判断された。アトラスの未来のためには、カラドリの力を必要とする日がもうすぐそこまで来ているっていう考えが強くなってね。戦争をしかけて占領する案もあったくらいなんだけど、それじゃあ双方に被害が大きく出ちゃうからね。まずはシロたちみたいな
結果的には弱みを握るどころか本格的な殺し合いになってしまったのだろう。巻き込まれた側としては随分と迷惑な――いや、女神像破壊を含めてこれまでの経過を考えると、迷惑ではあっても全てをシロのせいにはできないだろう。
「だけど、もっと別の手段があったんじゃないのか? ここまで、こんなことにしなくても」
殺し合いするほどの意味がカラドリの力にあるとは思えなかった。彫像のことだって、正直なところでは、命を狙われるほどのことではないと思う。いや、信仰の対象である女神を壊すことがどれほど恐ろしいことなのかは重々承知しているつもりで、人によっては極刑に値するものなのかもしれないし、修復できるのならそれでいいというものでもないのだろう。それでも、殺し合う以外の道もあったのではないかと思ったのだ。
「レター、一度だけ言っておくね。魔に携わる者の世界は甘くないの。一つの魔術があるかどうか、一人の魔術師がいるかどうかで、国の存亡を左右してしまうことだってある。魔術っていうのはそれくらいに大きな力を秘めたものなの。魔術を得るか失うかっていうのは国家水準で最重要視されているんだよ。もちろん魔導具も含めてね」
「理解できないな、全く」
どれほど魔術や魔導具といった力がすごいのかは少しなら分かる。けれど、殺し合ってまで手に入れるものだという感覚は分からないし、分かりたくない。
「そもそもどうして俺たちにお前は目を付けたんだ?」
「それは……うん、いくつか理由はあるんだけど、一番はあなたたちが明らかにドロシーから特別扱いを受けていたからかな。女神の像を破壊したのに、捕まえるどころか援助するなんておかしいでしょ? その理由が突き止めたかったの」
シロの言う通りだと思う。なぜ壊したのか、どういう人物なのか。そんな内容ならば、捕まえて確かめることもできたはずだ。わざわざ援助するなんて、泳がせて様子を見る意図があったにしても普通ではない。いや、それよりも気にすべきことが別にある。
「どうして俺たちが破壊したって知ってるんだ? いつから俺たちを見ていたんだ?」
「あなたたちはカラドリの上空に突然現れたの。しかも、直前に女神の広場を中心として明らかなヰオンの異常集積が起こっていた。少しヰオンに敏感だったら、カラドリのどこにいたって異変を感じ取れるくらいにね。魔に携わる者なら、注目しない方がおかしいかな」
つまり上空に現れた瞬間から見ていたということだろう。どうやら女神像を破壊したというのは本当のことだったらしい。今更だが、ぐっと胸が詰まってしまう。
「落ちてくる時、どんな感じだったんだ? どうして俺とエテナは無傷だったんだ?」
「それは――詳しいことはエテナに尋ねるのがいいと思う。落ちてくる時に魔術を使ったのは間違いないけど、シロが見たのは、あなたの背中から翼みたいな金色のヰオンが溢れだして、あなたたちを守るように包み込んだことだけ」
エテナに尋ねて納得のいく答えが返ってきていたなら、こんなことを尋ねはしなかったのだが、ある意味で「たぶん魔法で無事になった」というエテナの言葉は、本当のことみたいだ。本当のことだと分かったところで、どうなるものでもないが。
「はぁ、どうなってんだよ、全く……ちくしょう」
足元の砂を蹴りつけた。どうしようもなく面倒な状況だと感じていた。国家間の争いも女神像の破壊も、なぜそんなことになったんだという気持ちがこみあげてきてしまう。
「魔術の世界に少しも縁のなかったレターと、魔術の世界にずっと関わってきたシロとじゃ、見えるものが違いすぎるんだと思う。だからね、レターが戸惑ったり苛立ったりするのも別に理解できないわけじゃないし、仕方のないことだと思う。でもね、取りあえずエテナを探し出そうよ。あなたがシロのことをどうかしたいっていうなら、あとでちゃんと聴くだけは聴く。約束する。だから――」
そこで口を閉じたシロはウサギへ勢いよく飛び乗り、手を差し伸べてきた。
「エテナを探しに行こう。優先することを間違わないで」
いつも笑っていそうな彼女が真剣な表情をしていた。
「あぁ、そうだな。すまない、少し言い過ぎたかもしれない。お前もきっとつらいんだよな」
伸ばされた手を受け取り、ウサギへとよじ登る。
「――――ちゃんと、つかまってね」
シロの腰へと手を回す。近くで見て気付いたが、彼女の左手には血のにじんだ包帯が巻かれていた。
シロにはシロの事情があるのだろう。そして、信念があるのだろう。姫と呼ぶほど慕ってくれていたフルアルの安否が気にならないはずがないのだ。それでも、優先することにエテナを選んでくれたのだとしたら、どんな言葉をかければ良いのか分からない。
ウサギに乗って駆け始め、砂煙を抜けて視界が開けたところで、
「あっちの方にいると思う」
エテナは告げた、どこまでも広がる砂丘に一度だけウサギを止めて。
「カラドリが飛んでいく方角だな」
導くようにして白い鳥が月明かりの照らす夜を飛んでいる。
「うん、そだね。きっとエテナだけじゃないから覚悟してね」
含みを持たせた言い方だが、ライラやメリーもいるということだろうか。自分が無事ならば、というか、自分が無事なのに、エテナも含めた他の者が近くに倒れていなかったことからすると、つまりはそういうことになるのだろうか。
到着した場所は湖だった。もしかしたら、前に来た湖と同じなのかもしれないが、様子がおかしかった。
ウサギから降りて、湖を眺める。
真夜中とは思えぬ異空間――湖は透き通った淡い水色の柔らかな光を満たし、水中には天空の星空を
「お待ちしていました」
湖の中心に人影があった。改めて確認するまでもなく、それはドロシーだった。無事だったのだ。湖面へと腰を下ろした彼女の表情は普段の優しいものに戻り、しかし、闇そのもののドレスを着ている。左手は龍の手のままだが、ひざの上で眠らせる淡い金髪の少女を撫でる右手は人のものだ。
「エテナに何をしたんですか?」
「特には何もしていません。記憶を蘇らせようとして、それらしき破片を見つけましたが、どうやらエテナさんご自身が望まねば、元には戻せないようです。逆に言えば、望みさえすれば元に戻せるよう壊されているということになるので――いえ、戻してみてから、判断した方が良いのでしょうね」
顔を龍の手で覆われた時、何を見たのかはしっかり思い出せないが、ひたすらに苦しかったことだけは記憶している。もしかすると、エテナも同じような目に遭ったのかもしれない。
「ドロシーさん、エテナを返してもらえませんか?」
「いいえ、できませんね」
首を振り、湖の中心にエテナを寝かせ、
「お返しする相手はこれからいなくなりますから」
ゆっくりと立ち上がった。いや、違う。消え去っ――目の前に現れて、龍の手が首へと噛みついてくる。
とっさのことに身動きが取れない。このままでは首が消されて――脳裏をよぎる未来に頭が真っ白に――と、視界がずれた。体当たりだ。シロが体当たりしてきたのだ。予想だにしなかったことに、なすすべなく倒れてしまう。振り向くと、代わりにシロの肩が龍の手に噛みつかれようとしていた。
「遮断っ!」
シロの叫び声。青白く光るローブ。しかし、みるみるうちに黒ずんでいく。
「ドロシーさん、やめてくれ」
倒れたまま声をあげる。このままではじっと見ているだけで、何もできずに失ってしまう。シロまで失ってしまう。そんなのは認められない。受け入れられない。
手を引こうとしないドロシーの足へとしがみつく。
瞬間こちらを向いた輝く水色の瞳は背筋が凍りつくほどに冷気を帯びていた。いや、殺気かもしれない。
ドロシーの右手が燃え盛るように暗黒をまき散らし、こちらへと向かってくる。
あまりに無力すぎた。
「我読む。闇を見守りし光よ、深き
歌うようにシロが告げ――差し迫ってきた暗黒が消えていく。いや、それだけではない。ドロシーの手に渦巻く龍がいなくなり、身体に纏われていた闇が失われていく。全てが光に変わっていくように感じた。
残ったのは長い黒髪と青い瞳と胸元に踊る首飾りで、あとはただ輝くような色白の――――背後の湖へと溶けていくように姿を消した。
「今のは……何を?」
立ち上がってシロの顔を見る。なぜか左目を閉じ、右目のみを開いていた。黒ずんだローブは朽ち落ち、白のワンピースに黒のジャケットを羽織った格好になっているものの、腕や肩がなくなっているわけではない。
「ふーっ…………うん、うまくいったのかな」
両目を閉じ、ため息をついてから、一度だけ頷いた。
「その本は?」
左手に持っている黒くて分厚い本が気になったのだが、意味ありげな視線を寄越したのみで
「それより、エテナだよ――まだ油断しないでね」
淡い金髪の少女は湖の中央に横たわって――沈んでいくのが見えた。今の今まで湖の上になぜか沈まず、浮いている風でもなく、寝そべっていたのに。
「まずい」
考えるよりも早く身体が湖へと――踏み入れた足がどこにも着地しない。突然、湖の中へと落ちていく。しかし、エテナのことを思えば、気にしてはいられなかった。
なんだか泳ぎづらい気がするが、全く泳げないわけでもない。
煌めき満ちる水中にエテナの姿を探し、すぐに見つけた。
どんどんと沈んでいっている。
必死で追いついて、エテナの腕を握った。何度か握り損ねたがどうにか握れた。
あとは泳いで戻るだけだ。戻るだけのはずなのに、全くあがれない。それどころか、少しずつ沈んでいっている。身体中に何かが絡まり、引きずり込まれていくようだ。
このままでは息が続かない。おぼれてしまう。
傍に何かが見えた。白っぽい石か何か。
――女の彫像なのか? 女神様と同じような感じ……って、ライラ? えっ、いや、あれ?
眠るように目を閉じたライラの彫像があった。ライラだけではない。見回すと、いつの間にかメリーや他にも見覚えのある顔の彫像が幾つもあった。
気味悪さを感じた。どうして水中にこんなものがあり、しかも、底にまで沈むことなく微妙な高さで漂っているのかが分からなかった。
けれども、そんなことはどうでもいいことだった。優先すべきは水中から出ていくことで、もう本当に息が――――誰かに腕をつかまれた。白いワンピース姿のシロだ。どうやらジャケットは脱いできたようだ。
引っ張りあげようとしてくれたが、ダメだった。すぐ近くへと来てくれ、何かを取り出して、下へと向けて振り回した。急速に浮上していく。今まであがれなかったのが嘘みたいだった。
息が続かずに、思わず水を飲んでしまい、苦しみの中で意識がもうろうとしていく。
気付いたら砂の上だった。
「ごほっごほっ、ごほっ」
咳込んで水を吐き出す。妙な甘さが口に残っている。
「エテナは?」
「大丈夫だよぉ」
エテナの胸に手を当て鼓動を、鼻に顔を近づけ呼吸を確認したシロが答える。ほっとして胸を撫で下ろし、二人の姿を眺め――水に濡れたシロのワンピース、淡いピンクが透けていた。
こちらの視線に気づいた黒い瞳が自らの服へと向かって、もう一度こち――目をそらした。気まずい沈黙があり、急に立ち上がったシロは何か小声で呟きながら舞うように一回転した。すると、驚いたことに濡れたはずのワンピースが一瞬で乾いていた。しかし、そのことを指摘できる雰囲気ではないし、エテナのパジャマなどは速乾の機能がある魔導服であるため、何もせずとも乾いていた。キャミソールや何かなどは見なかったことにするのが正解だろう。
「あれ? ジャケットが――」
「あなたがお探しなのは、これですか?」
シロの独り言に答えた声――ジャケットを手にしてドロシーが湖に立っていた。
再び現れたドロシーの長い黒髪は青く染まり、透き通るような白い肌は
「そう、それだよぉ。返してくれない?」
ドロシーは何も答えない。内ポケットから黒い本を取りだすと、ジャケットを返さずに下へ落としてしまう。湖の中に呑み込まれていくジャケット。
「魔導書は返して頂きました」
「もう使い終わったからいいよ」
「あら、そうでしたか。折角フルアルさんを犠牲にしてまで、ご主人様の書斎から盗んできたものなのに、随分あっさりとしていますね」
なんの話なのだろうか。ドロシーの口振りからすると、フルアルがドロシーと闘っている間に、黒い本=魔導書をシロが盗んできたということなのか。
「フローを、犠牲に?」
シロは穏やかな口調で言葉を繰り返した。
「えぇ、そうです。あなたが魔導書を優先したために、あなたはフルアルさんを助けられませんでした。失ってしまいました。わたくしを抱きしめながら、彼は壊れていきましたよ。ぎりぎりのところで抜け出せましたから、最後まで付き添って彼と一緒に弾けはしませんでしたが、消えてしまったことは分かります。白雪さんも既に気付かれていますよね。この世界に彼でありえたものはもう存在していないのだと」
「――――どうしてあなたはシロを襲いに来なかったの? 監視の鳥だけつけて満足していたってこと? 別に魔導書なんてどうでも良かったんじゃないのかな?」
質問攻めだった。声音は静かでも気迫があった。
「魔導書には罠が仕掛けてありました。
「なら、こっちには全く少しも手を出してこなかったくせに、どうしてフローたちを襲ったの? 教えてよ」
「わたくしが白雪さんではなくフルアルさんたちを狙った理由ですか――えぇ、まずは人々が生活を営むカラドリの街ではなるべくなら争いを起こしたくないと考えていました。そして、もう一つはフルアルさんたちを襲えば、白雪さんは必ず助けに来るだろうと踏んでいました。いずれも白雪さんが
全てドロシーの狙い通りに物事が進んでしまったということなのか。言ってることは、一般人を巻き込みたくないという意味のような気がしたが、なぜか優しさよりも冷たさを感じた。
「最も好ましい、か――ふーん、黒き龍が使えなくなったのに、余裕だねぇ」
「次の朝日が昇る頃に、また使えるようにはなります。フルアルさん相手に消耗したヰオンを全て回復するのには、それでは全く足りませんがね」
「へぇ、そっか」
返事をするが早いか、シロは左手に持った扇を振り回す。雪月花だ。
「じゃあ氷漬けにしてあげるよ。朝日なんて浴びれないようにね」
何かを吹っ切るような語調だった。
巻き起こる吹雪。目の前が一瞬にして白色にかき消されてしまう。
「あなたが大切な方を想うように、わたくしにとってドーリス様から授けられた力は大切なものなのです」
白いカーテンの向こう側から、響く声。やがて龍が現れた。湖の水でできた透明な龍が現れ、そして吹雪によって氷漬けにされていく。しかし、そこで終わりはしない。氷漬けにされた龍を食い破って、新たな龍が、たけり狂う水龍が幾つも現れる。
吹雪く風の音にも負けず劣らない、滝のような、あるいは濁流のような
圧倒的な力に空気が震えている。
叫び声もあがっていた。
「あなたには負けないよっ! 負けられないからっ!」
雪月花を扇ぎ、くるりと一度だけ回るシロ。ちらりと見えた黒い瞳に異様な光が宿っていた。
どこかで見たような光景だと思った。大きな力がぶつかった時、黒き龍と無数の腕がせめぎ合った時――そう、フルアルの割れた瞳を思い出す。
「逃げよう、シロ。このままじゃお前がダメになる」
あんな痛々しい瞳を見たくなんてない。
「シロは負けないの。ダメになったって絶対に負けてやらないっ!」
「お願いだから、やめてくれ、シロ。お前がダメになったら、意味がないだろ。何をする気なんだよ、そこまでして」
背中へと語りかける。振り向くそぶりはない。
「うるさいなぁ。黙っててくれないかな? ここで仕留めなきゃ、もう次はないのっ! フローが作ってくれた機会は今しかないんだよっ!」
聴く耳を持とうとしてくれなかった。戦いに――ドロシーを仕留めることに夢中なのだ。
「そもそもの目的はもっと別にあったはずだろ? 殺し合うことじゃなかったんだろ?」
「邪魔するなら、あなたから氷漬けにするよ?」
背後から肩に手をかけて揺さぶるが、肩を大きく振るうことで払いのけられた。
「お前――――」
「レターたちだけで逃げなよ。ほら、早く」
すぐ目の前にまで迫ってきた水龍を雪月花で直接叩きのめしながら、シロは告げた。
「お前を置いていけるはず――」
「シロは逃げないよ。だから――」
こちらを振り向いたシロは顔を濡らしていた。おそらくさっきの水龍を叩きのめした時のものだ。
「ごめんね、巻き込んで」
右手で押しのけ、左手で小さく雪月花をこちらに向かって扇いだ。
なすすべなく吹き飛ばされていく。ただし、身を凍えさせるような吹雪ではなかった。柔らかな一陣の風だった。
飛ばされた場所のすぐ傍にエテナがいた。
「う、うぅん? どこ?」
エテナが目を覚ました。砂丘とはいえ、飛ばされ、ぶつかった衝撃がかなりのものだったためだろう。
「大丈夫か? 立ち上がれるか?」
翡翠の瞳が見つめ返し、頷く。
「シロと、ドロシー?」
数十メートルは先にある湖を指差す。いや、もう湖と呼べるような代物ではない。
数多の水龍を前に、シロが激しく舞い狂って、氷の
「あぁ、止められなかった」
人間離れした魔術を扱うシロとドロシーなのだ。もうどうすることもできない。どちらかの命が尽きるまで争いは終わらないだろう。
フルアルの時と同じく何もできなかったのだ。
目を背けて逃げ出すしかない。
もしドロシーが生き残ったら、きっと再び襲いに来るだろう。
それまでに逃げ出すしかない。どこか遠くへ。
仕方ないことなのだ。
あんな風に龍が操れるわけでも扇を持っているわけでもないのだ。
「逃げよう、エテナ」
「いいの?」
湖に背を向け、エテナの手を引っ張ったが、彼女は動こうとしなかった。
「良くない。良くはないけれど、どうしようもないんだ」
「でも、姫を頼むよって、フロー君が」
「そんなこと――」
言われた覚えなんてないし、できるはずもないと思った。
翡翠の瞳がじっとこちらを見つめてきた。
どこに持っていたのか、フルアルからもらった人形を抱きしめている。
――姫を頼むよ。
フルアルの割れた瞳が、裂けた唇が語りかけてくるのが聴こえてきた。
「頼むって、どうすればいいんだよ」
「止めればいいと思うの」
「それができるんなら、そうしてるに決まってるだろっ!」
怒鳴ってしまっていた。エテナに怒りをぶつけても意味がないのに。
「止められないの?」
困惑の色を示す声音。
「あぁ、最初からそう言ってるじゃないか。なんの力もなくて足手まといにしかならない俺たち二人に何ができるって――――俺たち二人に――」
何ができるっていうのだろうか。
何かができるっていうのだろうか。
「エテナ、少し無理してもらえるか?」
「うん? うん」
淡い金髪の少女は曖昧な返事をしてから、もう一度力強く頷いた。
戦いは続いていた。
シロが舞い踊り、吹雪が生まれ、吹雪を抜けて水龍が現れる。現れた龍はすぐに凍りつくが、凍りついた奴の中から再び新たな龍が飛び出してくる。やがてシロのすぐ近くまで迫ってくると、シロはワンピースのポケットから赤い石=ザクロを取り出して投げつける。全てを吹き飛ばす赤い火炎が炸裂して、一時的に吹雪も水龍も消え去る。
そこが狙い目だった。
飛び出す勢いで二人の間へと割り込む。頭に思い浮かべるのは、エテナに斬りかかったドロシーの刀を受け止めた時のイメージ。
弾けとび、光となって、収束する。
「やめろっ!」
声だけで止まるなら、苦労はしない。
「レター?」
雪月花を振るったシロの声だ。
あらゆるものを
両腕で顔を守って、冷気を受け止める。
ダメだ。身体の感覚が失われ――――ダメだ。
「あっためて」
エテナの声。光が自分の中心から溢れてくるのを感じた。光は熱となって、伝わってくる。熱いものが駆け巡ってくる。
凍結した時間が再び動き出す。自由に身体を動かせる。
シロに背を向け、ドロシーの方を向いた。
煌めく水の身体をした龍が襲いくる。
迷うことなく、殴りつけた。
次なる龍も払いのけ、砂を蹴って跳び上がる。
「飛んで」
瞬間的に背中へ翼が生えて、一度だけ大きく羽ばたいて形を失っていく。
高く舞い上がり、水より生まれた龍の群れを飛び越える。
藍玉の輝きを宿した瞳がこちらを見上げ、龍へ指図するように手を伸ばしてきた。
新たな龍が襲いくるが両腕で払いのけてやる。
しかし、熱が失われたのか、絡みつかれてしまう。
「守って」
心に響く声。全身を光が包み込んでくれているのが分かった。絡みついてきた水龍も元の水へと戻る。
「ドロシーさん、話をさせてください」
伸ばされた手を握って、そのまま体当たりした。
湖の上に転がり、押し倒す形になった。腰まで伸びた蒼い髪の煌めく女性を。
「なんでしょう? フルアルさんの真似ですか?」
「いえ、その――」
「冗談です。お気になさる必要はありません。それでご用件は?」
押し倒された姿勢のまま、ドロシーは尋ねてくる。せめて姿勢を変えようと思って、湖面へ右手を突いたが、あえなく沈んでしまう。どうやらドロシーの身体を支えにしておかないと、湖へ沈んでいってしまう状態のようだ。仕方なく、押し倒した状態のままで話し始める。
「もうやめて頂けませんか? カラドリを、ドーリスを守るためなら、ここでシロと争うべきじゃありません」
「抵抗せずにドーリス様の力を譲り渡せということですか?」
こちらを見つめてくる二つの藍玉が暗い色をのぞかせた。
「いえ、違います。殺し合う以外の道を模索した方がいいということです。ドロシーさん、あなたはこう言いましたよね。カラドリの街では争いを起こしたくない、と。もしも今ここでシロを倒してしまえば、アトラスとの戦争に発展しかねません。そうなれば、カラドリも、カラドリに住む人々も無事では済まなくなる恐れがあります。ドロシーさんも殺生は好き好んでしないし、させないでしょう? なら、シロともっと話し合うべきなんです」
「なるほど。レターさんの言うことも一理あるかもしれませんね。ですが、わたくしも含めてネレイデスの皆は、他国によってカラドリの主権が奪われることを許しはしませんよ?」
属国にならないと宣言していたのを思い出す。
「もっと互いの国が歩み寄れば、殺し合わないで済み、なおかつ、一方の国が他方の国を支配することもない、そんな選択肢だってあるはずです」
「いいえ、隣り合う国が不用意に歩み寄れば、争いは必ず生まれます。妬みや憎しみが火種となるからです。この国の現状で取りうる最善策は不必要な干渉を避けることなんです。それをあえて破って攻め入ってくる国があるならば、断固として力の限り抵抗させて頂きます」
ドロシーの言葉は決して間違ったものとはいえない。関わることが、争いの始まりであり、関わることがなければ、争いも起こらない。
「ドロシーさんの考えは分かります。でも、シロをここで殺せば、それこそ争いの火種になってしまうでしょう。そして、ひとたび争い始めてしまったならば、争いが終わってからも消し去れない憎しみの火種が世代を超えてくすぶり続けてしまうんです。そんなことはドロシーさんも望んでいないんですよね?」
「えぇ、そうですね。しかし――」
ドロシーの視線がそらされる。いや、そちらにいる人物を見上げているのだ。
「レター、どいてくれないかな? そいつにとどめを刺すから」
シロがすぐ傍に立っていた。
水面を凍らせて歩いてきたようだ。
「ダメだ。そんなことはさせられない」
「どうしてかな?」
「もしシロがドロシーさんを殺しても争いの火種は残る。必ず残る。それは良くないことなんだ」
「そんなのは知らないよ? だってシロの中に火種は既に燃えてるもん」
シロは折りたたまれた雪月花をゆっくりと振り上げた。
「優先することを間違えちゃ――」
「別に、間違えてない」
雪月花が振り下ろされ――水龍がシロの左腕へと噛みついた。いや、次々と全身に噛みつき、シロの身体を水が覆っていく。
「ドロシーさんっ!」
「もう手遅れなんですよ。わたくしたちは既に敵対してしまったんですから」
シロを完全に水が覆って閉じ込めてしまった。身体中に龍のような影が巻きついている。
息ができないのか、あるいはもっと別の理由か、顔を歪めるシロはひどく苦しそうな様子で暴れている。
「やめてください、ドロシーさん」
必死に訴えかけるが、かぶりを振り、まぶたを閉じてしまう。
どうにか止めなくては、シロが死んでしまうだろう。なのに、状況を変える言葉なんて思いつかないし、どうすればいいのだろうか。
水龍を消し払ってしまえばいい。
エテナの力で、と思って姿を探した。
いた。こちらへと凍りついた湖面をふらつきながら歩いてきている。
声は十分に届く距離だろう。
「エテナッ!」
叫んでから、しかし、気付いた。青く染まっている。瞳の焦点が合っていない。
こちらを向き、何かを呟くエテナ。
しかし、ダメだ。光は生まれない。これでは何もできない。
結局、変わらなかったのか。
もう暴れる元気もなくなり、こちらをにらみつけるシロの視線が突き刺さってくる。
「ドロシーさん、お願いです。やめてください」
ただ願っても、何も変わらない。他人の行動は変えられない。
けれど、それでも願わずにはいられない。
「お願いですっ! 龍を止められるのは――」
あなただけなんです、と言おうとして、何かが引っ掛かった。
何か重要なことを忘れている気がする。まだできることがある気がする。
記憶の糸を手繰り寄せ、視線を彷徨わせる。
シロ、おぼれている。早く助けねば。
エテナ、ふらついている。駆け寄りたいが、そんな余裕はない。
ドロシー、青い瞳でシロの様子をじっと見つめている。願いを聞き届けてくれる可能性はほぼ絶望的だ。
自分の手を眺める。淡い光すら見て取れない。
――そうだ、この手でドロシーの首をしめて、お願いすれば。
それはお願いではなく脅迫で、そんなことをして状況が好転するとは思えない。
――なら胸をもむとか。驚いて龍を消してくれるかも――って、どさくさに紛れて俺は何を考えて、何を考えて? いや、違う。胸、胸、もむのではなくて、そうか。
すぐ近くにあるドロシーの大きな胸を眺める。その通りだが、違う。胸元にある首飾りだ。
ドロシーの首の裏へと手を回し、胸元へと手を伸ばす。
こちらの動きにドロシーは気付かない。
――よし、いける。
一息で首飾りを奪い去る。
こちらに青い瞳が驚きの色を伴って向けられる。
首飾りについた藍玉の輝き放つ勾玉を握りしめ、願う。
「水より成る龍よ、還れ」
瞬時にシロを覆っていた水が解き放たれる。その場に倒れるシロ。まだほとんど動けないようだが、指先は少しだけ動いている。
「ふぅ、良かった」
「全然良くありません。返してください。大切なものなんです」
首飾りを奪い返そうと暴れるドロシー。
「ちょっ、ちょっと待ってください。すぐ返しますから。返すので」
ドロシーの手へと渡し、ようやく暴れなくなる。もう少しで湖へと落ちてしまうところだった。
「今のはドロシーさんを信用して渡したんです。シロを水龍で襲わせないでくださいね」
「わたくしを押し倒し、裸にした方へと信用をお返ししろという意味ですか?」
押し倒したのは結果から言えば事実だが、裸にした覚えなんて、いや、ちょっと待てよ。
今の状況を確認しようとして、ドロシーに鼻をつままれた。
「動かないでください。元に戻すのに、もう少し時間がかかります」
藍玉の瞳は真剣で、刺し貫く冷たさがあった。
「レターさん、先ほどのお言葉について一つ確認したいのですが、白雪さんに襲われた場合には、潔く殺されろということですか?」
「いいえ、違います。その時は身を守るか、逃げるかをして頂きたいです。むしろ絶対に殺されちゃダメです。もちろん、万が一の場合には、身をていしてでもドロシーさんは俺が守るつもりですが、あまり期待しないでください」
ドロシーは微笑みながら、頷く。あとはシロを説得すれば、全て解決なのだろう。
しかし、問題はどうやって説得するかで、何も考えはない。
「きっとレターは、どいてくれないんだよね」
立ち上がったシロが黒い瞳を向けてきていた。
「フルアルさんは復讐なんて望んでないはずだ」
「うん、そだね。きっと違う。分かってる。分かってるんだよ? でも、でもね、そうじゃないのかもって思っちゃう。きっと、でも…………だからね、だから――」
扇を広げるシロ。
「シロ、やめて」
エテナがシロに抱きつく。ふらつきながらもどうにか歩いてきたようだ。
「そっか、エテナも止めるんだね?」
こちらを見つめてくる眼差しは暗い。
「うん、姫を止めてほしいって、フロー君に言われたから」
「そんなはず――」
こちら目がけて扇がれようとしていた雪月花が止まった。
「これは、フローの人形だねぇ。もう、ずるいなぁ…………ずるいよ、ほんとに」
シロの左ひじに土でできた手のひらサイズの人形がしがみついていた。
「はぁあ、もぉいいや。疲れちゃったし」
その場にへたり込むシロだった。エテナも一緒に座ってしまう。
「白雪さん、フルアルさんのことは謝るべきものでも、謝れるものでもないと思いますので、謝りません。ただ、フルアルさんは素晴らしい魔術師でした。こんな形でなかったなら、仲良くなれたかもしれませんし、仲良くなりたかったです」
穏やかな口調で語られた言葉にシロは頷くだけだった。
ドロシーにもフルアルにもそれぞれの立場があって、譲れないものがあったからこそ、こうなってしまっただけなのだろう。どちらか片方が悪かったというよりは、きっと巡り合わせが悪かったのだ。
「レターさん、そろそろ立ち上がって頂けますか? 湖へ沈まないようにしましたので」
「あっ、はい」
ずっと押し倒した状態のままだった。慌てて立ち上がって、エテナたちのところへ駆け寄ろうとして、右腕をつかまれた。
「さて、レターさんはすっかり忘れているようですが、ドーリス様の像を壊した報いはいかが致しましょうか?」
忘却の彼方にあったが、女神像破壊と都市国家の争いは別問題だった。
「レターさんとエテナさんに何かご希望はございますか?」
柔らかな微笑みだった。恐ろしくなるくらいに。
「えっと、希望ですか。できるかぎりなんでも――なんでもするように努めますので、どうか許してください。お願いします」
「エテナはレターと一緒にいれれば、取りあえずそれでいいの」
いや、それは確かに希望かもしれないが、そういう意味の希望じゃないだろう。心の中で突っ込みを入れる。
「でしたら、やはりわたくしにご用意できる選択肢は一つしかないのですが、それでいいでしょうか?」
「ちなみにどんな選択肢なのか教えて頂けませんか?」
奴隷のように働かされるのは勘弁してほしいし、あまり痛い目にも遭いたくは――考え出すと、幾らでも選びたくない内容はある。
「わたくしを信用してくださるなら、何も問わないで報いを受け入れて頂きたいです」
「うっ……わ、分かりました。受け入れます」
ここで信用できるかどうかを問うなんて、あまりにあんまりだと思ったが、受け入れるしかなかった。信用できてしまったのだから、仕方ない。
「エテナさんは?」
「うん、いい。信用する」
「ご信用頂き、ありがとうございます。それではエテナさんもレターさんの横に並んで頂けますか?」
何かされるのだろうか。いや、きっと何かされるのだろう。何をされるのだろうか。
「瑞々しい湖の幽玄に眠る我が
ドロシーの言葉に従って湖の中から白い彫像が浮き上がってくる。水中に沈んでいたライラやメリーなどで、瞳に光が宿ったと思ったら、みるみるうちに色めいていく。
「えっと、えっ? どうして?」
「彼女たちは湖の中でヰオンを補充していたんです」
問いに答えを与えられるが、求めていた答えとは微妙に違う気がした。
襲って来ないのかとかが心配で、どうして彫像の姿にという疑問もあって、そもそも目覚めさせたのはなぜなのかも分からなくて――――しかし、訊ける雰囲気ではなかった。
いつの間にかドロシーが片ひざをつき、ひざまずいていた。足元もそれに合わせたかのように人間のものとなり、スリットの入った細身の青い鱗模様(というか鱗そのもの)のドレスを着ている。立てられた足が白い肌をむきだしにしていて、隠すべきところは隠れているものの、目のやり場に困る。
一方、ライラやメリーといった湖の中から現れた乙女たちはレターとシロの前方を取り囲むようにして並び、ひざ立ちの姿勢となって、手のひらを祈るように胸の前で重ねた。
今更ではあるが、明らかに異様な雰囲気だ。
湖を満たすのは静寂。
「ドーリス様の娘ネレイデスが
「忠誠を捧げ、敬愛を尽くすこと、お誓い申し上げます」
彫像から人間の姿を成した者たち全てが一斉に頭を下げ、同一の言葉を口にした。
そして再び静寂。
「我らが誓いを受諾してくださるならば、右手を前にお願い致します」
こちらを見上げる真摯な青い瞳。
求められた通りに右手を前へ差し出した。すると、ドロシーは軽く支えるように右手で握りしめ、手の甲へと口づけをしてきた。
エテナにも同じように口づけをする。
「ありがとうございます、ご主人様」
もう一度、ドロシーは頭を下げた。
それから、どのくらい沈黙があっただろうか。
「えっと、楽にして頂けますか?」
これ以上には何もなさそうだと判断し、ようやく言葉を口にできた。
「はい」
その場にドロシーは正座した。その他の者は座るか立ち上がるかの違いこそあれ、いずれもこちらの様子をじっと見ていた。早速、近くの者とひそひそ話を始めるあたりが乙女っぽい。
「その、できれば普通に話を、っていうか説明をお願いしたいんですが」
「はい」
頷いてから、黙り込んでしまう。
「あの、なんの説明を致しましょう?」
「あぁ、その、なんでしょうね?」
尋ね返してしまった。分からないことが多すぎるけど、多すぎるがゆえに、何を訊けば良いのか分からない。
「あなたたちは何者なの? やっぱり人間じゃないのかな?」
シロがこちらに歩いてきて、すぐ傍に座った。この状況に戸惑わないなんて、むしろ驚きだ。
「いくら人間離れしているからって失礼だろ? 何かの魔術なんじゃないか?」
確かにドロシーにしても、ライラたちなどにしても人間とは思えない部分もあるが、見た目は明らかに人間だし、意思疎通も――――
「いえ、何も失礼だとは思いませんよ。人間扱いされることではなく、わたくしたちをわたくしたちとして認めて頂けることを望みますし、事実、人間ではありませんからね。わたくしたちはドーリス様の娘ネレイデス、人の形を模した人形です。魔術よりも魔導に近いはずです」
「つまり、彫像を元にした人形なのかな? かなり珍しくはあるけれど――」
「いや、ちょっと待ってくれ。本当に人形なんですか?」
「えぇ、そうで――エテナ様、大丈夫ですか?」
倒れかかるエテナをドロシーが支えた。
「眠いの」
ぽつりと言葉を零し、動かなくなってしまう。やがて寝息が聞こえてきた。淡く青く染まった姿。きっとかなり無理をしていたのだろう。
「カラドリに帰りましょう。レター様もお疲れですよね?」
疲れているのは事実だし、頷いた。色々と疑問はあったけれど、急な展開にどんな疑問があるかの理解すら追いついていなかった。
「白雪さんはいかがなさいますか?」
「ちょっと寄り道してから帰るよ。まだドロシーに訊きたいこともあるんだけれど、また日を改めて話せないかな?」
「えぇ、分かりました。それではお待ちしていますね」
さっきまで激しい戦いを繰り広げていたとは思えない二人だった。いや、ドロシーは人間ではなくて人形らしいから正しくは――たとえ人形だとしても数え方は人でも良い気がする。
――うん、というか、本当に人形なのか?
魔術があるのだから、人間としか思えない人形がいたっておかしくはないのかもしれない。
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