2-4
「あぁ、それなら洗濯業者に頼んだよ。あんなに血がべっとりついてると、洗うの大変だろ?」
フルアルの言う通りだった。わずかな血液汚れならば、たとえ染みになっても目立たないかもしれないが、今回は違う。普通に洗濯すれば、必ず目立つ染みができるし、匂いも残るかもしれない。それを避けるには水洗いするなど特別な手間が必要で、とても大変だ。
「服についてはあとで僕の部屋へ取りにきてくれれば、貸してあげるから心配しなくていいよ」
「えっ、どうして?」
「そりゃあ、あんな形でも知り合ったのは何かの縁で――あぁ、なぜ知ってるかなら、君のお連れさんが教えてくれたんだ。着替えがなくなると君が困る、ってね」
レターの隣に座って今や遅しと食事を待つエテナが話していたのだ。何も考えていないようで、思った以上に色々と考えてくれているようだ。
「さて、まずは何から話そうか――と、その前に君たちの名前を教えてもらえないかな? まだ訊いてなかったよね?」
「あっ、すみません。俺はレター・ワースで、こいつはエテナ・ワースです」
「へぇ、もしかして兄と妹ってこと?」
「いえ、遠い親戚みたいなものです。今は一緒に旅をしてますが」
ドロシーとの会話での反省を活かし、簡単にごまかせそうなぼやかした表現にした。
「旅ねぇ。わざわざこんな片田舎に来るなんて、君たちも砂丘に眠る秘宝目的かい?」
「砂丘に眠る?」
「知らないなら、違ったか。この街には有名な
勿体つけるようにそこで話を切るフルアル。丁度、食事が運ばれてきたのだ。今日の夕食は野菜のスープと海鮮かに玉だった。
「取りあえず、冷めないうちに食べ始めようか。僕は勝手に話を続けるから、気になることがあったら尋ねてくれればいい」
早速、海鮮かに玉を口に入れたフルアルにならって、スプーンを卵のヴェールへと突き刺して、食べ始める。ふわっとした食感と共に、甘さと塩辛さが絶妙な加減で口に広がり、
「女神の力宿りし忘れ形見が砂の丘にて眠る。女神の力は、砂粒から竜宮城を成す」
「それが噂の内容ですか?」
次なる味わいをスプーンですくい取りながら尋ねる。
「あぁ、でも全てじゃなく、一部さ。最も広まってる噂の一つで、この噂を元にしたと思われる与太話ならかなりの数がある。原型がどれなのか分からなくなってしまうほどにね」
そう告げるとフルアルはスープを口にしてから、ため息をついた。
「僕はね、砂丘に眠る秘宝が魔法道理に関わるものだと思っている。術理は異なるだろうけど、僕の魔術でも砂粒から城を作ることならできるからね」
「魔法道理ですか」
海鮮かに玉を呑み込んでから、言葉を口にした。エテナは食事へと意識が完全に傾いていて、話なんて全く聴いていそうにない。レターが身を入れて聴かねばならないだろう。
「マナとかヰオンって言葉はもちろん知ってるよね? 森羅万象の元素、世界が多様性を構築する要因と考えられているものなんだけど」
「えっと確か、生命の源泉とか魂そのものとか信じてる人もいる?」
今日の昼間、シロの教えてくれた知識をそのまま伝える。
「あぁ、まぁその通りだね。一般的にはヰオン、神秘性を加味すればマナ、魔法道理学にとっては魔法素子――と、呼び名は他にもあるけれど、取りあえず今はヰオンと呼ぶことにしよう。ヰオンは世界に
「ヰオンの偏在あるいは異変?」
「偏在は多いと強くて、少ないと弱いって感じ。異変は、ヰオンが見えるなら色が違う、ヰオンが聴こえるなら音が違うって感じかな。あくまで感覚に基づく強弱や違和感だから、どこまで確かかは怪しいかもね。でも、大勢がヰオンの偏在や異変を感じ取ることが既に異常だとも考えられる」
頷いてから、スープをすする。とにかくヰオンが重要な鍵なのだということは分かった。
「一般的な理解では、ヰオンによって引き起こされる異常現象が魔法だね。まぁ厳密な定義だと異常現象に限らないんだけど、その辺りの判断は専門家じゃないと難しい」
「専門家って一体?」
「魔術師や魔導師のことだよ」
フルアルは魔術師と自らを称したし、シロはエセ魔導師と名乗っていた気がする。何が違うのだろうか。
「先に魔術と魔導を説明しよう。〝魔術〟は魔法を研究する中で分かってきたヰオンの特性を元に、魔法という現象の一部を思い通りに操作する
時おり、フルアルは話に間をあけて食事に口をつけながら、手元の紙に話の内容をまとめ、簡単な関連性を図で示してくれた。
魔法という超常も引き起こしうる現象を操るのだから、それはもう超常なのではないか。と思ったが、一部というのがポイントなのかもしれない。
「どうして魔法の一部だけなんですか?」
「それは、制御不能で魔術として成立していないか、そもそも制御以前に術理構築がなされていないかで、魔法を操作しようにもできないからだね。魔法は既知よりも未知が圧倒的に多いんだよ。いや、既知といえるほどのものがあるかも怪しいな」
そこで話を区切って、しばし黙々と食事した。分からないことがあれば訊いてくれということかもしれないが、何が分からないかすら分からなかった。全く理解できていないとは思わないものの、ほとんど理解できていないような気がする。
「それじゃ、三つ目。〝魔導〟とは何か――簡単に言えば、誰でも実用的に魔法を使用できるようにすることかな。実情は別として、人々の生活に魔術を役立てたいという動きがあってね。その動きから生まれたのが、術理を全て術式に変換していき、ヰオン供給のみで特定の魔術を発動できるように調整した道具――いわゆる魔導具だよ。さすがに魔導具は知ってるかい?」
「えぇ、魔導具専門店を少しだけのぞいたことがあります」
「それなら話は早い。例えば洗濯機なら洗浄のために小規模の
フルアルの視線がレターの横で、黙々と食事しているエテナへと向かう。間もなく食べ終えようかという状態だ。
「細かく話せば切りがないし、そろそろまとめておこう。これで魔法、魔術、魔導と説明したわけだけど、これまで話したような三つの魔に関する理論を魔法道理と呼ぶんだよ」
いつの間にか魔法道理を学んでいたようだ。それぞれの言葉が意味するところをおぼろげながらも少しはつかめたような気がする。
「魔法は現象、魔術は操作、魔導は実用って認識で大体は問題ないかな。ちなみに魔術師は魔術の専門家で魔法を部分的に操る者、魔導師は魔導の専門家で魔導具を作る者って感じだね」
フルアルは長いため息をついて、もう冷めてしまったであろうスープを飲み干す。随分長く喋らせてしまった。
「ありがとうございました。勉強になりました」
「いやいや、これくらいならね。それじゃ君たちについて教えてもらっていいかい? もちろん、答えられる範囲でかまわないからさ」
「えっ――いや、はい。答えられることなら」
何を訊かれるのだろうか。まともに答えられることなんて何があるだろうか。
「レター君はどうして襲われてたんだい?」
「分かりません。あいつが誰かも知らないですし、砂浜に行ったらあいつが現れて、最初はお金を取られるだけだと思ってたんですが、急に襲われて」
襲われる前後辺りで何かあった気がするけれど、思い出せない。たいしたことではなかった気がする。
「そうか。それは災難だったね。命を狙われたのは、強盗の口封じだったのかもしれないな」
なんとなく口封じとは違った気がしたものの、どこがどう違うかは分からなかった。
「そういえば、秘宝目当てじゃないとしたら、どうしてカラドリへ?」
「当てのない旅なので、特に目的というほどのものはないですね」
「着替えなしで?」
「物取りにやられちゃったんです」
実情は記憶泥棒か何かに着替えどころか記憶まで奪われてしまっている。しかし、そこまではあえて話さなくてもいいだろう。
その後も出身地や趣味、これからの予定などを尋ねられたが、ドロシーやシロと話した経験を踏まえ、分かる範囲で答えて、なるべく分からないことは喋らなかった。
「エテナちゃんは――なんだか眠そうだね。今日はお開きにして、また機会を作って訊くことにしようかな」
「はい。お話、ありがとうございました」
エテナは食事を終えてもほとんど喋ることなく、あくびを繰り返していた。早く部屋に戻りたいと言葉にせずとも分かる。
「宿の人に少し確認したいことがあるから、先に部屋へ戻るか?」
「レターについてく」
首を振り、ひじ辺りの浴衣をつかんできた。
宿の人に手紙を預けたのがどんな奴なのか確認したが、何も分からなかった。いや、そもそも手紙を預かった記憶のある者がいなかった。レターに手紙を渡した女自体が宿で働いていなかったのだ。しかも、宿のおばさんはレターが正午ごろに何かを受け取るのは見た覚えがあるものの、女については全く覚えがないと答えた。レターに鍵や手紙を渡したのが誰なのか尋ねても、どうにも思い出せない様子で、しまいには彼女自身が渡したのかもと告げられた。
黒装束の女(あるいはその仲間)の素顔を直接見たはずなのに、どんな女だったのか、宿の者は誰も覚えていなかった。レターも手紙に気を取られたせいか、思い出せない。
――どういうことだ? 宿の中でも安心できないのか? いや、それならおびき出す必要もないだろう。フルアルさんに相談しておくか。服も借りに行く予定だったし。
二つ隣の部屋にフルアルは泊まっていた。今から向かうことにしよう。エテナは丁度お風呂に入ったところで、しばらくは出てこないだろう。
「手紙、か。それなら君たちを狙ったことになるね。しかも人目を避ける必要があった。話を聴いた限り、街中で襲ってくる可能性は低そうだけど、念のためにお守りをあげようか?」
「お守りですか?」
白い土の入った透明な小瓶を渡してくれる。手のひらに収まる大きさだ。
「僕に位置を知らせて呼べる呪文が封じてある。いわゆる
「助けにきてくれるんですか?」
「あぁ、可能な限りね。それと防刃の魔導服を貸してあげよう。刃物類による切断や貫通なんかを防ぐように特化させた術紋が施されている。ただし、金づちとか刃物と呼べないものには布でしかないし、刃物に対してでも
フルアルが差し出したのは、ベージュのチュニックと紺のズボンで、凝ったデザインの紋様が白や黒で描かれている。
「あとはシャツとコートだけど、一般的な魔導服しか貸せないな。汗は吸うけれど、水につけてから持ち上げると一瞬で乾く瞬乾シャツ、ポケットに入るサイズのものなら大きめの鞄一個分くらい入って重さも感じない収納コートくらいでいいかな?」
内容としては全く一般的ではない気がするのだが、見た目は普通のシャツとコートだった。
「これで渡すものは渡せただろうし、そろそろ部屋に戻ってあげたらどうだい? エテナちゃんをまた泣かせても知らないよ?」
「えっ、それはどういう?」
「君の血だらけになった姿を見て、かなり動揺したみたいでね。傷口が塞がっても全く目覚めない君を見つめて声も立てずに泣いてたよ。僕は大丈夫だって言ったんだけどね」
そんな様子、全く――いや、朝にあんなことがあったのに、枕元で寝ていたんだ。その意味を考えれば、おかしなことではない。
「とにかく、あまり心配はさせすぎない方がいい。僕の知る限り、ひたすらにずるい女はいても、ひたむきに可愛いだけの女の子はいないからね」
どういう意味なのかと思ったが、要するに安心させろと言いたいのだろう。
感謝の言葉を告げ、部屋へとすぐに戻った。
部屋の扉をあけると――浴衣が落ちていた。いや、浴衣姿のエテナらしき少女がうつぶせで倒れていた。
「おい、エテナ?」
肩を揺さぶると、意識を取り戻したのか起き上がって、こちらに顔を向けてきた。
とろんとして焦点がなかなか定まらない深く青い瞳。色が違う。瞳だけではない。髪も透き通りそうなほどの白さが青みを帯びていた。けれど、顔立ちは、目元や鼻、唇、それらの形、それぞれを改めて確認するまでもなくエテナだった。
「大丈夫か?」
「レター、どこにいたの?」
次第に視線はしっかりとレターをとらえるようになる。
「フルアルさんに会ってて――エテナ、どうしたんだ?」
「お風呂から上がったら、急に…………よく分からない」
何かを告げようとするかのように口をわずかに開いたが、首を振る。エテナ自身も戸惑っている様子だ。
「何か、おかしなところとかないか? 大丈夫なのか?」
「大丈夫、だと思う」
ふらつきながらも立ち上がってベッドへ座り込む。表情からは異変を読み取れないが、言葉通りだとはあまり思えない。
「髪の色、何があったんだ?」
「へっ、あれ?」
自らの淡く青い髪を見つめて見開く青。何がエテナを染めたのか。
「鏡、鏡?」
「手洗い場にある」
指で示してやると、そちらに向かっていく。途中で一度、びくっと急に立ち止まって聞き取れないくらい小さな声をあげたものの、それ以外に変わったところはなく、もう足取りはしっかりしている。後ろからついていこうかとも思ったが、取りあえずは様子を見ることにした。
しかし、なかなか戻ってこない。数分のことかもしれないが、気になって仕方ない。
「おい、どうだ?」
返事はない。静寂だけが広がる。
「どうなんだ? 入っていいか?」
バスルームの扉をノックしてみる。
「ダメ」
短く強い口調が返ってきた。それから何度か同じような問答が繰り返され、いつまでこうしているのかと思い始めた頃、ようやくエテナが出てきた。
こちらを全く見ずに、ベッドへと向かってしまう。
「エテナ?」
背中が何も問いかけるなと語っているようだった。
ベッドの端に座って考え込むようにうつむくエテナ。
何も言わずに近づいて隣へと座ってやる。そうするのが良いと思った。
「レター」
ぽつりと零れた言葉。こちらに頭を向けるが視線は下がったままだ。
「うん?」
「仕返しだから動かないでね」
なんの仕返しなのかと思った刹那、レターの股に何かが当た――エテナの手が伸びて、ゆっくり少しずつ何かを探し求めるようにうごめき始める。
突然のことすぎて頭が真っ白になる。出すべき言葉すら思い浮かばない。何がどうしてどうなったのか。まさぐり続けるエテナを思わず突き飛ばそうとして――ギリギリのところで我慢した。エテナの手をつかみとり、引き離すように持ち上げた。抵抗らしい抵抗もなかった。
何を言うべきなのか、うつむいたままのエテナを見つめることしかできない。
再び訪れた沈黙。ただ、つかみとった手だけは包み込むように握りしめ続けた。
「レターの……同じ感触だった」
やがて静かに告げられた言葉が空気を震わせた。
「エテナに生えてたのと」
「――そうか」
つまり、昨夜のことは夢じゃなかったのだろう。いや、もしかしたらとわずかには思っていた。髪や瞳の色が変わるのだから――違う。魔法があるのだから、レターの認識ではありえないこともありえるのではないかと考えていた。
「見た目も似てる」
「そ、そうか」
かける言葉を探すが、うまく見つけられない。こういう場合にどういう言葉をかけるべきかなんて知らない。少なくとも思い出せる知識にはない。
沈黙が重すぎて、どうにかしなければと焦れば焦るほど、まともな思考ができなくなっていく。
散々に迷った挙句、
「えっ、エテナのエッチぃ」
最初に思いついて絶対にそれはなしだと判断していたはずの言葉を口走り、エテナの背中をぽんと叩いた。
あっけに取られた顔でこちらを見つめてくるエテナ。
「って、なっ、何か反応しろよっ!」
「………………ごめん。その……ごめんね」
少しうわずった声音に、気付けば、エテナの頭を撫でていた。
「…………ちゃんと謝った方がいいよね?」
「別にいい。俺は今お前の頭を猛烈に撫で回したいと思っているだけだからな」
「そっか」
エテナは考え込む仕草を見せてから、レターのひざに額を載せて、ベッドの上で自らのひざを折る形、つまりは土下座の姿勢をした。
「レター、ごめんなさい」
「いや、お互い様だし、今回はそんな――しなくても本当にいいんだぞ?」
「この方が…………撫で易いと思うの」
ぎりぎりで聴き取れるくらいの声だった。要するに撫でてほしいのか、と思ったもののあえて指摘はしない。ひざの上で自分の手を待つエテナの頭ならば、一晩中だって撫でてやろうじゃないかと思ってしまっていた。
――少しでも不安が和らいでくれればいい。少なからず不安を和らげてくれているのだから。
ゆっくり穏やかに撫で続けていると、エテナは少しずつ姿勢を崩していき、やがて気持ち良さそうに、ひざの上で寝息を立て始めた。
起こさないように頃合いを見計らってから、レターは自分のベッドへと入った。
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