2-3
目を覚ましたのは、ベッドの上だった。見覚えのある天井だったが、ここはどこだろうかと考え始めると、すぐに思い出した。
――宿だ。宿に戻ってきたんだ。いや、全て夢だったのか?
隣を向けば、エテナがいた。ベッドに両腕と頭だけを載せ、もたれかかっていた。
幸せそうに寝息を立てている様子がなんとなく気に食わなくて、頬を引っ張ってやる。いつかされたみたいに。
「う、うぅん? レター?」
浅い眠りだったのか、少しつまんだだけで目を覚ましてしまった。ぽけーっと口を開いて、寝ぼけまなこを向けてくる。あれだけ心配させておきながら、あまりに気の抜けた表情だ。
「エテナ、無事なのか?」
見た目に変わりはなく、どこにも怪我はしてなさそうだったが、念のために尋ねた。
「ふぇ、無事? それ、エテナのセリフ」
ようやく目が覚めたのか、翡翠の瞳に鋭い光が宿った。
「レター、大丈夫? 何があったの?」
エテナに尋ね返され、背中に走った痛みの激しさを思い出す。もう痛みは感じないものの、レターは上半身裸で包帯を巻かれていた。
「どういうことだ? お前、やっぱりさらわれたのか?」
思わずエテナの両肩をつかんで、尋ねていた。
「うん? なぜ?」
「違ったのか。さらわれてなかったんだな?」
「うん、さらわれてない……と思う」
曖昧な返事だった。
「なら、俺がいない間に何があったんだ?」
「何があったか話すの、レターが先」
有無を言わさぬ視線を向けてきていた。
あらかた自分に何があったのかを説明してから、エテナが何をしていたのか、根掘り葉掘り尋ねた。おおよそ理解できるまでに一時間近くを要したのは、しっかり尋ねないとエテナがすぐに話の流れを飛ばしてしまうからだ。
分かったことを頭の中で時系列順にまとめていく。
まずレターが宿から出ていき少ししてから、一人の女が訪ねてきた。その女はレターのことで重大な話があるから本人に会えないかと告げたため、いないことを伝えると、それならばレターの代わりに話を聴いてもらえないかとエテナに持ちかけた。その話に乗ったエテナは宿から連れ出され、中央通りを南に進んだ場所にある喫茶店で話し込むことになった。
エテナと女が話した内容は、突拍子のないもので、レターが女の失踪した婚約者なのではないかという話だった。なんでもレターの外見が婚約者とそっくりなのだと知人に聞きつけて、いてもたってもいられず、真相を確かめようとやってきたらしい。
女の話では、カラドリでも有数の名士の家に孫娘として生まれた彼女は何不自由ない暮らしをしていたのだが、ある日ちょっとした出来心から従者を連れずに街へ遊びに出た際、運命の出会いを――――以下、省略。要約すれば、身分違いの恋をして、結婚の約束をしたものの、周囲からの猛烈な反対に遭い、やむをえず駆け落ちしようとしたのだが、急に相手が姿を消してしまった。エテナの断片的な話に補足と脚色を適当に散りばめると大体そんな感じで、その姿を消した相手にそっくりな人物としてレターのことを耳に入れたらしい。
そして、当然のことながら、レターが失踪した婚約者なのかを確かめるために、エテナはレターの様子についてあれこれと尋ねられたそうだ。
エテナがレターについて語っていくと、やがてエテナの知るレターとの決定的な違いが判明した。
件の婚約者が実は女だったのだ。
身分違い以前の問題で反対に遭ったのではないかと思うし、外見が本当に似ていたのかすらも怪しいのだが、レターに起こったことと併せて考えれば、明らかな嘘であり罠であると考えるのが妥当だ。それにしたってあまりに無茶苦茶な話すぎるのだが、エテナは興味津々(本人は否定)で話を聴いてしまったようだ。
それがエテナに起こっていたことで、人違いだと判明してからは、すぐに女と別れ、宿へと戻ったらしい。
「とにかく、お前は何もされなかったんだな。あぁ、それだけは良かった。ほんとに良かった」
「ごめん。エテナのせいで、レター、こんな――」
「それは仕方ないし、お前のせいじゃない。というか、お前を一人残して、その……すまなかった。あと、今朝のこともごめんな。お前だって分からないことだらけで不安だったはずなのに、気付いてやれなかった。許してほしい。この通りだ」
頭を下げて謝ると、柔らかな手でそっと撫でてきた。
分からないことだらけの現状に対する不安を共有できる相手なんて、お互いに他にはいないだろう。そこをもっと分かってやらなければならなかった。本当にエテナが何も覚えてないのかは分からない。けれど、それはエテナから見たレターに対しても同様なのだ。信じても疑っても自分に跳ね返ってくる。ならば、やはり信じる方を自分は選ぶ。なぜなら、エテナを信じたいし、エテナに信じてほしいのだ。
――だとすれば、結局は――いや、別にかまわない。期待するのではなく、希望するだけだ。
頭をあげ、今度は自分がエテナを撫でてやる。翡翠の瞳が心なしか揺れているのは、なぜなのか。まだ、その心情までは読み取れない。
気付くと、窓辺から夕焼けが差し込んできていた。世界を赤く温かな色に染めている。
ふと疑問が生じた。
「ところで、俺はどうやって宿まで戻ってきたんだ?」
「あっ、忘れてた。呼ばないと」
何かを思い出したのか、エテナは部屋を出ていくと、しばらくして、一人の男を連れてきた。
「やぁ、身体の調子はどうだい?」
「フルアルさん、どうして?」
「僕もこの宿に泊まっていて、君が目覚めたら呼ぶよう、この可愛い天使に頼んでおいたのさ」
エテナの頭を撫でようとして、逃げられている。なんというか、エテナが苦手なタイプなのかもしれない。
「もしかして、フルアルさんが宿まで?」
「あぁ、そうだよ。君を運ぶのはそれなりに大変だったけど、放っておくわけにもいかなかったからね」
レターに向ける言葉は、黒装束の女と話している時と同じく優しい声音で耳へと響く。
「ありがとうございます。えっと、フルアルさんが包帯も?」
「あぁ、そうだね。応急処置をしたのは僕だ。けれど、君の治療をしたのは、僕じゃない」
レターの
「驚いたよ、あんな治癒魔術は初めて見た」
「治癒魔術?」
フルアルは頷いて、エテナは首をかしげた。
「君の背中は脊髄や内臓へと達するような致命傷とまではいかなくとも、かなり深い傷を負っていたんだ。もちろん応急処置では一時的な止血までしかできなくてね。君たちのことは宿で見かけていたから、取りあえずここまで運んで、それから医者を呼ぶなり、って考えていたんだけど、その子が一瞬で傷を塞いでしまったのさ」
やや興奮気味に語っているように見えたが、内容からすると当然かもしれない。問いかける視線をエテナに送ってやる。しかし、じっと見つめ返してくるだけだ。
「できれば術理を教えてほしいものなんだけれど、ダメかい?」
「術理? 治せるんじゃないかって思ったら、治せただけ」
フルアルの問いかけに実質なんの意味もない返事をするエテナ。
「本当の話なんですか?」
「信じられないなら、包帯を外せばいい。念のために巻いただけで、傷跡が残ってるだけさ」
実際に包帯を取って、背中を手で触れてみるが、傷らしいものはなかった。
「もう傷跡すら残ってないなんてな。ますます興味深い」
フルアルが背中の斬られたであろう場所を指でなぞってくる。ぞわりとしたくらいで痛みは全く感じない。
「でも、僕には術式解読すらできそうにないか、残念だな」
ぼそっと零された言葉に何かを思い出す。
「術式解読って一体? あと、助けてくれた時、土の壁ができたのって、もしかしてフルアルさんの魔法ですか?」
「あれは魔法じゃなく魔術って呼んだ方がいいよ。君は、というか、君たちは魔法道理にあまり詳しくないのかな?」
「魔法道理?」
「魔の道、魔道だよ。魔導具の魔導と勘違いしちゃう人も多いから、世間的には魔の道理と呼んだ方が通じるかもね」
これまでに見聞きした魔法、魔術、魔導という言葉に加え、魔道まで出てきたようだ。何が何やら、全く分からない。
「君たちさえ良ければ、詳しく教えてあげようか?」
「いいんですか?」
「あぁ、もちろん。これから君たちも夕食にするだろ? 食事しながら、ってことでどうだい?」
「えぇ、それでお願いします」
断る理由なんて何もなかった。いい加減に自らの知識が実際の状況とどれだけ異なるのか、また、魔法とは一体なんなのかを知らねばならないだろう。
「だけど、まず君はお風呂にでも入って着替えた方がいいだろうね」
上は既に脱がされて何も着ていなかったが、下にはいていたジャージや下着は血を吸ってしまって、そのまま着続けられる状態ではなかった。血の匂いを漂わせて食事の場に現れるのは、マナー違反以前の問題だ。
「それじゃ、僕は部屋へと戻るから、食事しにいけるようになったら、声をかけてくれるかい? あぁ、そうだ。シーツ類は新しいのを頼んでおいたし、血に汚れたものは僕が片づけておいてあげよう」
「いえ、そこまでは――」
「治ったとはいえ、君は背中を斬られたんだよ?」
微笑みかけてきたフルアルの申し出を断れるはずがなかった。
シャワーで身体にこびりついた血やら汗やらを流し落とす。
――ドロシーさんといい、フルアルさんといい、助けられてばかりだな。いや、殺しにきた奴もいるか。っていうか、殺されかけたのに、のんびりシャワーを浴びているなんて、なんだか間抜けじゃないか? いや……こんなもの、なのか。
シャワーを浴びながら、昨日から今日にかけてのいきさつを思い返して、レターが感じたことだ。
風呂に入って、食事に向かう。そして、フルアルと会話しながら食事をとって――――部屋に戻ったら、ベッドで寝る。何か特別なことがなければ、この流れ通りに今日は終わるだろう。
食事や風呂、何も特別ではないことは、特別なことが起こらぬ限り、いや、たとえ特別なことが起こっても可能な限り、繰り返される。
もし殺されていたらできなかった。生きているからこそ、できる。
間抜けにも感じられてしまう繰り返し、それが生きて活きる生活なのだろう。
日々に流れていくことでも、流れていくことだからこそ、楽しめるのかもしれない。
(食事にする? お風呂にする? そ・れ・と・もぉ――――)
ふと耳に蘇った声が何かを告げていた。
「そうだ、着替えがないじゃないか。下着すらっ!」
唯一あるとすれば、浴衣のみだ。どうして気付かなかったのか――考えても仕方ない。これから夕食に浴衣だけを着ていくのか。いや、無理ではない。無理ではないけれど――
「エテナの下着、使う?」
「あぁ、頼む」
タイミング抜群で投げかけられた助け船。しかし、乗ろうとした瞬間に一抹の不安を感じた。
「いや、ちょっと待て。お前のは女物だろう? それを着ろって言うのか?」
翡翠の瞳に問いかけるが、あえなく頷く。
「きっと似合う」
「勘弁してく――――っていうか、お前っ! い、いつからそこにいたんだ?」
エテナは仕切りのカーテンをわずかに開き、顔を突っ込んできている。全く気付かなかった。
「現状の把握は未知に対処する原則であり、第一歩」
悪びれることもなく、まともな答えすら返さない。しかも視線をあからさまに下げて――。
「ちゃんと…………ある」
満足げな頷きをはさみ、呟いた。何を把握しにきたんだよ、と考える思考もどこか空回りして、声は出ない。
「一緒に入りたい?」
「――――いや、いい」
首を横に振り、どうにか声を絞り出した。もしもここで縦に振ったらどうなるのだろうかとも思ったが、問いかけてくる翡翠の瞳があまりに澄んでいて怖かった。
エテナはもう一度だけ大きく頷くと、顔を引っ込めた。
「下着、置いておくね」
浴衣の上に置かれていたのは、白黒で小さな星が無数にあしらわれたボクサーパンツだった。男物なのかと思ったが、前に窓はなかった。他にも何か相違点があるのかもしれないが、少し小さめなぐらいで着てみると違いは全く感じられない。
エテナはこういうのが好みなのだろうか。浴衣を着てバスルームから出ると、いつものワンピース姿でベッドに寝転がる彼女が目に入った。そういえば、どんな下着をはいているのかは知らない。今も無防備すぎて見えてしまいそうなのだが、絶妙な角度で見えない。
「あれ? えーっと、この下着どうしたんだ? お前、替えの下着だけは持ってたのか?」
よくよく考えてみれば、エテナはレターと同じく着替えなど持っていないはずだ。
「持ってなかった」
起き上がって、ベッドの上に座り込むエテナ。
「一枚しかなかったから、迷ったけど……」
なぜかそこで言い淀んでしまう。言葉通りに取れば、下着は一枚しかなくて、それはレターが今、はいている。
ということは、どういうことなのか。
きまりが悪そうに顔を背けてしまうエテナの言葉を待った。
「汚いってレターに怒られるかも、って思ったけど」
「べ、別にお前のなら……あっ、あぁ、そんな別に汚いなんて思わないし、怒らないぞ?」
妙な汗をかいている。ワンピースのスカート部分に目が引き寄せられてしまって、慌ててそっぽを向く。
――まさかと思うが、そういうことなのか。だとすると、なら、けど、もうはいてしまったし、返すわけにも、いや、やっぱり返すべきなのか。
「約束したのに、汚いって言わない?」
「だから、汚いなんて言うはず――やっ、約束?」
混乱したレターの頭では意味が呑み込めなかった。
「着替え、一緒に買う約束」
すっかり忘れていたが、そんな約束を確かに昨夜していた。
「あーっと、つまり、一人で買ってきたのか?」
先回りして尋ねる。エテナの様子から判断すると、約束を破って抜け駆けしたことが「汚い」のではないかと気にしていたようだ。朝からの諸々を考えれば、汚いだなんて思えるはずもないし、怒れるはずもなかった。
「実は喫茶店で別れず、下着売ってるお店まで案内してもらって別れたの」
「ええと、婚約者を探しにきた女と、だな?」
言葉の足りてない部分を補ってやる。
「どうしても下着は替えが欲しかったの」
「そ、そうか。いいのは見つかったか?」
「うん、レースのとか、ウサギさんのとか。レターに渡したのは、夜寝る用の暖かくて肌触りのいい奴で、ウサギさんのも買ったけど、そっちの方が似合うかなって思った」
よほどのこだわりがあるのか、随分と語る口調が滑らかだった。もう少しでウサギのパンツをはくことになっていたのかと思うと複雑な心境ではあるが、下着だけでも確保できて正直ありがたい。
「あぁ、おかげで助かったよ。だけど、服は必ず俺と買いに行こうな」
「うん、約束」
「って、明日の服、俺はどうするんだ?」
新たな疑問が生じて周りを見渡すが、レターの着ていた服一式が見当たらない。
「あれ? 俺のパーカーは? それにジャージも、っていうか、何もない」
「フルアルが全て持っていった」
「えっ、どうして?」
エテナは首をかしげるのみだった。
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