1-2

 レンガ造りの家々、石畳の街並みが広がっている。多くの家には木造の部分も混ざってはいるが、やはり和風ではなく洋風、それも中世(ないしは近世)の洋館といった時代を感じさせる古めかしさがある。しかし、レターにとっての重大事は洋風だとか和風だとかではなく、この街並みに一致する記憶がないことだ。

 ――っていうか、和風ってなんだっけ? 洋風と何が違ったんだっけ?

 違うというのは分かるのに、どうしてそんな分類をするのかが分からない。絶対に知っているはずで、知らないはずがないのに、いくら考えてもダメだった。

 だから、分からないことを考えるのはやめ、なんで分からないのかと何が分からないのかを考えることにした。

 なんで分からないのかは、割りとすぐに答えが出た。きっと忘れているからだ。中には元々知らなかったこともあるだろうが、知っているはずと感じてしまうのは忘れていることによるものだろう。それが最も納得のいく答えだった。次に、何が分からないのかを考えた。自分の名前、家族、友人、知人、職業、生活、生い立ち――――要するに自分の過去から現在、全て。と考えてしまいたくなるが、少し違う。エピソード記憶イベントは全く何も思い出せない状態だが、意味記憶ナレッジは部分的にしっかり機能している。今こうして考えられるのがその証拠だ。

「レター、何をぶつぶつ?」

「現状の把握は未知に対処する原則であり、第一歩だ。エテナも覚えておくといい」

 となりを歩く少女は意味が分からないとでもいうように首をかしげる。こんな調子で微妙にみ合わない会話が続いてしまって、エテナから有益そうな情報は得られていなかった。それゆえ、「じっとしていても仕方ないから、街を散策しながら、これからどうするか考えよう」と提案し、反対されるはずもなく、取りあえず落下現場(エテナ談)から離れた。まずは人の多く集まる場所に向かって情報収集したり、イベントを起こしたりするのが行き詰った時の定石だと何かで学んだ気がする。しかし、よくよく考えてみれば、見ず知らずの街で起こるイベントなんて大半がトラブルだ。トラブルによって出会いが生まれるというのもあるにはあるが、危険と隣り合わせで良い出会いとは限らない。

 それに、とレターは思う。街を散策するにあたって、何を自分たちが持っているか調べたのだが――――まず、バック類は二人とも持っておらず、レターは紺色のジャージに白のパーカーを着ていたが、ポケットの中には何もなかった。エテナも同様で、ワンピースのポケットには紙包みにくるまれた飴玉しか入ってなかった。つまるところ、お金も名前の分かる物も何も持っていなかったのだ。これでは、無一文で街を彷徨さまようことになる。というか、既に彷徨っている。どこかのお店に入るのも気後れするし、今夜の宿からして困ってしまう。

「どうしたものかな」

 空を見上げると、雲一つない青空に太陽がぽつんと浮かんでいる。幸いにも高い位置にあり、まだ沈むまでには時間がありそうだ。しかし、あまりのんびりしている暇はないだろう。

「エテナ、本当に飴玉以外、何も持ってないのか?」

 少女はうなずくと、飴玉を差し出してくる。

「いや、飴が欲しいわけじゃない。情報が少しでも欲しい。ここがどこか分からず、道に迷ってるようなものなんだ」

 道に迷うというより、未知に惑うという方が状況をよく表している気がする。

 いずれにしても、どうやら人通りの多そうな場所に出るしかない。もっともそうした場所がどこにあるのかも分からないのだから、そろそろ誰かに道を尋ねる頃合いかもしれない。しかし、いざ尋ねるとなると、二の足を踏んでしまう。どのように誰へと尋ねるかで今後の展開が大きく変わりうるだろう。

「あっ、そうか。交番がどこなのか尋ねるのもいいな」

「自首するの?」

 こちらに人差し指を向けてくる。色々な意味で失礼な奴だ。

「いや、困った時に助けてくれる存在といえば、やっぱりお巡りさんだろ? もちろん、例外はあるだろうが、最初に頼る相手としては最も無難だ」

「白いかたまり、壊したのに、逮捕されちゃうよ?」

「壊したから、だろ? っていうか、いつまで人を指差してるんだ? やめてくれ。大体あれを壊したのは、お前だったはずじゃないか」

 実際に壊したところを見ていないため断定はできないが、確かに少女は自白していた。こちらに向けられていた人差し指が少女自身の顔へと向けられる。

「逮捕されちゃう?」

「かもしれないな」

 自白だけではなく、魔法か何かで壊したという証拠も必要だと思うが、この街の秩序がどういった法規で保たれているのかを知らない段階では、正確な判断はできない。

「レターのせい。レターも一緒」

「はぁ……分かった。取りあえず交番はやめとこう」

 こんな証言がどこまで当てになるかはともかく、現場に居合わせた以上、面倒事になることは避けがたい。しかも、身に覚えのない罪状で逮捕される危険もなきにしもあらず。何せ自らの無実を説明しうる記憶がないのだ。絶対にないとは思うものの、記憶がないだけで彫像破壊にレター自身が関わっている可能性も皆無では――――

「どなたか、捕まえてください! お願いします」

 後方から女の叫び声が聞こえた。何事かと思わず振り向いてしまう。

 水色ワンピース姿の女性がこちらを指差し――――いや、違う。こちらに向かって走ってくる黒装束の何者かだ。

「邪魔だ。どけっ!」

 黒いスカーフで目元以外は隠されているが、声は女のもの。肩掛けの革鞄ショルダーバッグを抱え、暗い瞳でにらみつけながら真正面から突進してくる。

 捕まえるべきか、どくべきか、と迷うあいだにも距離は――ない。

 後ろへ飛ばされた。

 とっさに出した右手だけでは身体を支えきれるはずもなく尻餅を突き、後頭部を石畳へとぶつける。しかも、追い打ちで腹部に手を突かれ、たまらず、えずきそうになる。レターと共に倒れた女が体重をかけて立ち上がったのだ。

 ――こいつっ!

 逃げていく女の足首をつかんでやろうとしたが、失敗した。せき込みながら、どんどん遠ざかる後ろ姿を見送った。

「大丈夫、ですか?」

 若い女性が声をかけてきた。叫び声をあげていた女性だ。腰を落として、手を差し出してくれている。ぼーっとこちらを見下ろしているエテナとは大違いだ。

「え、えぇ」

 手を取ろうとして、やはり自力で立つことにした。石畳へ突いた手が少し汚れていた。

「汚しちゃ悪いんで」

 女性の手にはひじ近くまで伸びるレース生地の白手袋がはめられていた。手の甲は隠れているものの、指が全てき出しであることからすると、指を守るためではなく装飾用だ。

「お気になさらずとも宜しかったのですが、申し訳ございません」

 つば広の白い帽子を脱ぐと、胸元に手を当て、柔らかな物腰で頭を深く下げてくる。黒髪が頭の後ろで緩やかに結われてまとめられている辺り、派手さのない落ち着いた雰囲気によく合っている。

「そこまでされるようなことは……逃がしちゃったわけだし」

「いえ、お陰様で鞄を取り戻せましたから。どうもありがとうございます」

 近くに落ちていた革鞄を一度高く持ち上げてみせてから、再び頭を下げてきた。どうやら先ほどの物取りがぶつかった拍子に手放したみたいだ。

「あぁ、そっか。良かった」

「はい。それで、お身体は大丈夫ですか? その、どこか、手など、お怪我されては……」

 手や尻を軽くはたき、改めて確認しても、幸い傷らしい傷は全く見当たらなかった。それでも気真面目さが顔によく表れた女性は、大きな青い瞳をくもらせていた。

「大丈夫ですって。この通り」

 女性の目の前で、少女を持ち上げてみせる。さっきから、じっとこちらを見つめてくるばかりで、身を案じる言葉はおろか何も喋りかけてこなかったエテナだ。

「レター、何、なんなの?」

 さすがのエテナも目を大きく見開いている。その反応が面白くて、持ち上げた状態で左右に揺さぶってやる。

「ほらほら、全く問題なし」

「降ろす。早く降ろすの。すぐ降ろして」

 頬を思いっきり引っ張られた上、腹部に蹴りが入った。調子に乗りすぎたようだ。

「ふふっ、本当に大丈夫そうですね。良かったです」

 帽子をかぶり直しながら、女性は楽しげに笑っていた。

「あっ、その、もし宜しければ、何か心ばかりのお礼をさせて頂けないでしょうか?」

 たった今ひらめいたのか、小さく一度拍手する仕草をみせた。

「いえ、あっと、そうだな。良かったら人の集まる場所を教えて頂けませんか? この街のこと、よく知らなくて」

「うん? そうなんですね。それでは中央通りに向かいましょうか。あちらです」

 どうやら案内してくれるつもりらしい。見た目そのままに優しく親切な人のようだ。こんな人と出会えるなんて、ひとまず上々な展開だ。

 石畳を歩む足取りは自然と軽くなった。

「わたくしはドロシー・ネイレリンスと申します。お二人は?」

「俺は、わー……レター。レター・ワースです」

 まさか「忘れた」という意味だとばれるとも思わなかったが、一応は順序を入れ替えた。

「で、こっちはエテナ・ワース。無口で無愛想な妹です」

 すぐ後ろをついてきていたエテナの背後に回り、両肩へと手を載せて答えた。余計な事を言われないように、と考えたのだ。とはいえ、先ほどからエテナはレターと目を合わせようとせず、黙り込んだままで何か喋るとも思えなかった。それがなんとなく気に入らなくて、両肩に手を置いたままエテナを押すようにして歩き始める。抵抗しないことからすると、どうやら肩に手を置かれるのは嫌じゃないらしい。

「お二人はお兄さんと妹さんなんですね」

 隣を歩くドロシーがこちらの顔をのぞきこんで尋ねてくる。

「えぇ、そうなんです。あんまり似てないけど」

 実際に髪の色から違った。自らの前髪を手で引っ張って視界の端で確認したが、エテナが白に近い金色であるのに対して、レターは黒に近い茶色だった。エテナの瞳に映った青年の姿などを思い起こせば、目鼻立ちも似ていないはずだ。

「あまり見た目は似てないかもしれませんが、きずなは深そうで――――お二人は、カラドリには観光で?」

「えぇ、まぁそんなところです。あっ、カラドリのお薦めスポットとか教えてくれませんか?」

「お薦め、ですか? 砂丘と海岸――は当然ご存知でしょうから、うーん、あとは……そうですね、特に珍しいものはないかもしれません。細かく紹介して差し上げることもできますが、やはり砂丘と海岸以上にお薦めできるものはありませんから」

 この街、カラドリには砂丘と海岸があるらしい。海が近いということは、きっと港もあるのだろうが、陽射しの強さはそれほどでもなく、潮の香りも感じない。天候というよりは季節によるものだろうか。

 それにしても、と思う。

「この辺りって、ほとんど雨が降らないんですか? 砂丘って砂漠の小さい奴ですよね」

「砂漠? うーん、カラドリでは雨も降りますよ。特に少ないということはないと思います」

 雨が降るのなら、どうして砂丘があるのだろう。

 そんな疑問は、しかし、すぐに吹き飛んだ。

「お二人はどちらからお越しになったんですか?」

 観光客を相手にした何気ない質問なのだろう。しかし、答えに窮するには十分すぎる質問だった。

「あーっと、田舎ですよ。とーっても辺鄙 《へんぴ》な田舎です」

「田舎? カラドリ周辺の地域なら分かると思いますが、遠いんでしょうか? この街へはどのようにいらっしゃったんでしょう?」

 興味津々という様子でこちらに青い瞳を向けてきた。変にごまかせば、きっと怪しまれる。

「えーっと、空を飛んで、かな?」

 口をついて出たのは、そんな正直で不可解な返事だった。常識的に考えれば、飛行機か何かだと思ってくれそうな回答だったので、ぎりぎりセーフだろうか。

「空を飛んで…………ということは、魔術か魔導ですか?」

「えっ、そんなはずないじゃ――あれ? 魔術か魔導ってどういう意味ですか?」

 質問に質問を返していた。意外すぎる反応だった。何かの冗談じょうだんだとすれば、それで良いのだが、エテナが魔法と言っていたのをなぜか思い出してしまう。

「うん? まさか魔術や魔導をご存じないんですか?」

「あっ、いえ、えーっと、不可思議な力だというのは知ってます。この世にはありえないような超常現象を引き起こすとか」

 記憶の中にある「魔」と呼ばれる言葉の意味を思い返しながら、しどろもどろに答える。かなり怪しまれているのが、どうしてなのかが分からない。

「超常現象ですか。それはむしろ魔法の領域に対する言葉のような気がしますね。レターさん、魔術や魔導は不可思議ではあっても、超常であってはいけないんです。理論的な下地に基づく制御が可能でなければ、恩恵ではなく災厄をもたらすでしょうから」

 教師が生徒にさとすような忠告にも似た助言。優しい口調なのに、底知れぬ不安が湧き立ち、頭の中に疑問が広がる。魔術や魔導なんて存在しえないものの筆頭のはずなのに、虚構フィクションの域を出るはずがないのに、まるで実在するかのような反応が返ってくるのはなぜなのか。

 ――冗談なのか? そんな風には思えないけど、他にどういう理由が。あっ、いや、記憶の内容に間違いがあるのか? 正しいと思い込んでいるだけで、間違っていると?

「レターさん、魔術や魔導ではないとすると、一体どうやってこの街へいらしたんですか?」

 追撃だった。ドロシーにそのつもりはないだろうが、返すべき言葉が思いつかない。彼女の反応からすると、カラドリで飛行機は一般的ではないのだろうし、きっとヘリコプターなどであっても、どこのお金持ちなのかと邪推されてしまいかねない。

「その……実はよく覚えてないんです。だから、この街のことも分からなくて」

 正直に答えることにした。ごまかしてぼろが出るより、ある程度は本当の話を打ち明けた方が良いだろうと判断したのだ。

「よく覚えてない……と申しますと、この街へいらした際の記憶がないという意味ですか?」

「えぇ、まぁ」

「そうですか。なるほど。記憶泥棒の仕業かもしれませんね」

 驚いた様子もほとんどなく、気になる言葉を口にした。

「記憶泥棒ってなんですか?」

「いつの間にか記憶を奪っていく正体不明の何者かです。記憶を奪われてしまった方々のほぼ全てが、いつどのように誰によって記憶が奪われたのか覚えてないんです。ただ、なぜか思い出せないことがある。忘れるはずがないのに、ふと気付けば覚えていない。そういった記憶の欠落が起こるんです。少しのきっかけで思い出せることもあるそうですが、稀ですね」

 それは今のレターが陥っている状況そのものだった。違うとすれば、何かが起こって記憶を失ったとは思っていたが、何者かによって奪われたとは考えていなかったことだけだ。

「どうして、そんなことを?」

「記憶泥棒の目的は分かっていません。記憶を奪うこと自体に意図があるとか、奪われた記憶の内容が肝心だとか、奪った記憶を食べている、なんていう説もあります。いずれも好き勝手に憶測が広まっているだけで――ただ、この街でも時おり奪われてしまう方が現れます」

 唐突にドロシーが立ち止まり、真っ直ぐに見つめてきた。

「その、レターさん、かなりお困りなんじゃないですか? わたくしで良ければ、微力ながらお力になれることもあるかと思うのですが」

「あっと、ありがとうございます。その……実は、えぇ、かなり困っていて、この街について色々と教えて頂きたいです。お願いします。ほら、お前も」

 思わぬ申し出に驚きつつも、どうにか言葉を返して、頭を下げた。何を考えているのか、ずっと黙り続けていたエテナの頭もついでに下げてやった。

「はい、分かりました。お任せください」

 胸元に右手を添えて頷くと、ドロシーは数歩だけ道を進んで振り返った。

「この先が、中央通りです。さぁ、どういった場所にご案内致しましょうか?」

 人々の賑やかな話し声が光のような軽やかさで通りの先から溢れてくる。


 中央通り沿いの赤を基調とした料理店。

「はぁ、おいしかった」

 卵のスープを飲み干し、一息ついた。隣に座るエテナも満足げにため息をつく。急に店の前で一歩も動かなくなってしまった時はどうしたのかと思ったが、腹に入れるものを入れたら、この調子だ。

「でも、本当に良かったんですか? こんな、お金払えないんだけど」

 食べてしまってから言っても仕方ないのだが、改めて向かいに座る女性の顔をうかがう。

「良かったんです。お礼の気持ちですから」

 微笑みながら、ドロシーは水を一口だけ含み、さぁ行きましょうという感じで席を立って、会計まで済ませてしまった。会計の際に「ドロシーさんから頂くわけには」という声が聴こえてきたが、顔見知りか何かなのだろう。

「お仕事の仲介所に向かうんでしたよね」

「えぇ、お願いします」

 中央通りには料理店以外にも雑貨屋や食料品店その他諸々の雑多な店が並んでいた。それらの中で目ぼしいものをドロシーが紹介してくれたものの、(おそらく)初めて見る街並みにどんな店があるのかを把握するだけで手一杯だった。出店や露店の中に、土産物屋があまりなかったことからすると、カラドリは観光地としてはそれほど発達していないのかもしれない。

「本当にカラドリで働くおつもりなんですか?」

 街並みに目を向けていると、ドロシーが尋ねてきた。

「えぇ、お金がなくちゃ何もできないし……記憶を探すにしても、当てがないんで」

 料理店に入る時、お金も何も持っていないことを伝え、その流れで「働かなくては」という話になったのだ。

「その、申し訳ありません。記憶泥棒については何も分かってなくて……」

「ドロシーさんが謝ることじゃないですよ」

 この街、カラドリでは記憶泥棒が捕まる見込みはないらしい。警察が関与するには眉唾まゆつばすぎるからかと思ったが違った。いわゆる警察に当たる組織が記憶泥棒について調査したものの、「何者かの意図は存在すると推定されうるが断定はできない」という期待外れの結果しか得られなかったという話だ。ちなみに警察に当たる組織という言い回しは、レターの感覚によるところだが、カラドリでは司法や行政が明確に分かたれていないようだ。というのも、カラドリは周辺地域一帯をまとめる都市国家ドーリスの中心地区の名前であり、ドーリスでは実質的な国王たる領主があらゆる実権を掌握しているらしい。独裁国家といえば、その通りなのだが、独裁=悪という考え方は必ずしも正しくはない。街の人々の様子を見る限り、貧民や奴隷らしき姿は見当たらず、活気も十分にあって、市場に並ぶ品物も質が良いものばかりだ。ここまで街を見てきて気になった悪い要素は、唯一あるとすれば、物取りと遭遇したことくらいだろう。

「せめて屋敷へと招待できれば宜しかったのですが、部屋に余裕があるとはいえ、あるじの留守に許可なく招き入れるわけにもいきませんから」

「いえいえ、そんな――というか、ドロシーさんって屋敷に住んでいるんですか?」

「はい。住み込みのメイドとしてですが」

 良家のお嬢様みたいな物腰や恰好かっこうから、屋敷住まいはありうると思っていたが、メイドというのは意外だった。よほど裕福な家に仕えているのだろう。

「着きました。こちらです」

 案内されたのは他と比べて二回り以上は大きい建物で、『八百万やおよろず仲介所』という看板が掲げられていた。

 内部は簡素な造りながらも、数多くの受付が存在し、何が何やらさっぱりだ。それぞれの受付をよく観察すると、運送やら結婚やらの文字も見受けられ、職業以外の仲介業も取り仕切っているのだと見当がつく。

「お二人は身分証をお持ちですか?」

「身分証?」

 持っているはずがなかった。考えてみれば、身元を保証するものの提示は就職において必須ともいえ、もし提示できないならば、それだけで仕事は見つけにくくなってしまう。紛失したと言い逃れしても解決にはならず、地元はどこだという話になって、窮地に陥ることは分かり切っている。出自も本名も何も覚えていない現状では、まともな職にありつけるはずもないのだ。

「うーん、出身地や名前の確認できるものをお持ちではないですか? 何もお持ちでない場合には身元確認申請書を提出して頂いて、身元の問い合わせをすることになるんですが……確認に手間がかかれば、それ相応の時間をお待たせすることになってしまいかねません」

 眉をひそめてドロシーが顔をのぞきこんでくる。当然のことだろう。何も答えられないというのはそれだけで後ろめたい何かがあるのだと想像させてしまう。

「身元の確認は…………できません。身分証になるものは持ち合わせてないですし、実は何も覚えてないんです」

 正直に話すことにした。適当に話を取り繕っても嘘だとばれるのはほぼ確実だったし、押し黙ったところでなんの解決にもならないだろう。ならば、他に手段があるとすれば、この場から逃げることくらいで、それはどう考えても得策ではなかった。

「……えっと、うん? でも、レターさんは田舎からお越しになったと……違いましたか?」

「それは苦し紛れで適当に話を合わせただけです。ごめんなさい」

 困惑した様子のドロシーに向かって頭を下げた。

「つまり、どちらからお越しになったか覚えてないということですか? えっと、では、名前のみで問い合わせることに――」

「名前も覚えてないんです。レターは仮の名前なんです。エテナも同じで本当の名前が何かすら分かりませんし、俺とどういう間柄なのかも不明です」

 くだんのエテナは他人事のようにこちらの会話を眺めるのみで、焦った様子も全くない無表情だ。

「お話しをうかがった限りでは、お二人は自分が何者でどちらからお越しになったのかも分かっていない、ということで宜しいでしょうか?」

 改めて確認を取られると本当に認めてしまって良いものかと思いもしたが、頷く以外の選択も思いつかず、怪しまれたくなくて嘘をついてしまったと本当のことを述べて再び謝った。

「そうですか。それでは残念ながら牢屋いきですね」

「えっ?」

 唐突すぎる思わぬ話に言葉を失った。

「お二人は身元を確認できるものを持たず、ご自身で身元を明示することもできない。ならば、正規の手続きでドーリスに入国したとは考えづらいですし、あまつさえ虚偽の話を作り上げ、わたくしを騙しました。覚えていないという言葉が真実ではなく、この街に害をなす方々かもしれません。そんな怪しい不届き者は、拘束しておくのが妥当だと思われませんか?」

 正論だった。多少、強引で疑り深いところはあっても、判断自体に大きな誤りはないだろう。それゆえに、何も言い返せなかった。言い返せないまま、この場から逃げるべきかを頭の中で考え始める。拘束されて事情聴取を受ければ、少なくとも彫像破壊の嫌疑はかけられることになるだろう。しかし、ここで逃げれば、それこそ怪しまれてしまうに決まっている。口の中がざらついていく。エテナの顔を横目に見やると、このに及んで涼しい顔をしている。全くどういう奴なのだろうと、疑問を投げつけたいが、今はそれどころではない。口にできる言葉もなく、かといって逃げ出す選択もできず、ただ重苦しい沈黙のみが流れていく。

「冗談です」

 短く告げられた。どうしようかという無意味な自問自答の繰り返しが止まる。

「安心してください。冗談なんです。だまされたので、騙し返しただけです。ごめんなさい」

 頭を軽く下げ、ドロシーが微笑みかけてきていた。状況がよく呑み込めなかった。

「えっと、本当に……冗談?」

「正直な話をすれば、限りなく現実的な冗談です。あなた方が信じられる方かどうかを別にすれば、身元の確認が取れるまで勾留、さらに確認不能と判断された場合には国外追放されてしまう可能性も十分にあります。ただし、あなたはわたくしの恩人です。そして、今日会ったばかりにもかかわらず、自らの置かれている状況をお話ししてくださった。もちろん、偽りによって欺かれたのも事実ですが、状況からすれば、致し方ないでしょう。何より、こうして拘束されるかもしれない状況で逃げる素振りを見せませんでした。それは、わたくしを疑う以上に信用してくださったのだと考えます」

 それはどうなのだろうか。逃げ出すことができなかっただけかもしれない。現に逃げ出すことも自分は考えていたのだ。いや、それでも打ち明ければ、打ち明けた内容が真実であるのなら、どうにかなると楽観的に考えていたのも確かだ。それがドロシーを信じていたということにもなるのかもしれない。けれど、もしそうだとすれば――――

「わたくしは信用には信用をお返し致します」

 レターは目の前にいるのがドロシーで良かったと身にしみて感じた。

「お二人の場合には特別な手続きが必要となります。わたくしに手続きの全てをゆだねて頂いても宜しいでしょうか? 実は少し顔が利くんです」

「えぇ、もちろん。お願いします」

 手続きに関して、ドロシーの手助けは必須だろうし、願ってもない申し出だった。

「本当に宜しいんですか? 全て委ねてしまえるほどにわたくしを信じて頂けるんですか?」

 小首をかしげて、尋ねてくる。そんな二つ返事でいいのか、などと試すような眼差しだ。

「えぇ、いいんです。ドロシーさんと喋る中で、この人なら信用できそうだと思ったんです。だから、信用してお任せできるんです」

「そうですか。ご信用頂き、ありがとうございます」

 そこで一息おいて、ドロシーは言葉を続けた。

「でも、レターさん、もう少し他者を疑うことも必要かと思います。でなければ、いずれ取り返しのつかない状況で裏切られかねません。全てを委ねるというのは責任を放棄するにも等しく、その信用は軽すぎるがゆえに重すぎ、重すぎるがゆえに軽すぎます」

 忠告だった。軽く信用を託してしまうことがもたらす重い結末。あるいは、重い信用を預けてしまうことの軽率さ。全てを委ねることがどれほどの意味を持つのか分かっているのか、と言われているのだろう。

「えっと、それはその通りなのかもしれません。いえ、その通りなんでしょう。それでも、信じられる限り信じたいと思ってしまうんです。裏切られていいわけではないけれど、裏切られてもかまわない。それくらいの心持ちでなければ、肩書きや時間の重みがない現状で信頼関係を築くのは無理でしょう」

 自身の置かれている状況に対する認識の甘さ。それがもたらす結末は自分自身で背負うことになる。そのことを踏まえた上でも、ここで引くわけにはいかない。

「考えなしにも等しい甘さを感じます。わたくしがあなたを裏切らない確証がございますか?」

 告げる言葉の冷たさとは正反対に優しく微笑みかけてきた。

「確証がなくたって、裏切らないと信じてしまえるんです。もちろん、こうしてどれだけ信用しているかを訴えかけることによって、より裏切りにくくさせようという狙いはあって……それはずるさであり、信用という言葉を繰り返した時点で、不安を隠しきれていない偽善の欺瞞なのかもしれません。それでも、信じたいと思ってしまった気持ちは本当で、おそらくはドロシーさんの人柄を気に入ったからなんです」

 強い語調で述べてしまっていた。少しでも自らの気持ちを伝えたい。そんな押しつけに近い傲慢ごうまんさを隠そうとすらしていなかったためだろう。

「人柄を気に入ったから、ですか? 本当に本当なのでしょうか? でも、ふふっ、嬉しいですね。えぇ、わたくしもどうやらレターさんのことを気に入ってしまったみたいです」

 とても愉快そうに右手を口元へ当てている。

「手続き代行、うけたまわりました。では、早速お二人の写真撮影から始めましょうか?」

 ドロシーが背を向けて歩み始め、ようやく、ほっと胸を撫で下ろせた。

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