1、青年と少女

1-1

 変な夢を見ている気がした。変だというのは分かるのに、どんな内容だか全くはっきりしない。しかも、変だという感覚だけが次第に強くなって、ますます内容は形を失っていく。でも、夢にはよくあることのような気がして、だとしたら、夢の中でそんなことを思っているのだなと、なんとなくそれはそれで変な夢だと思う。

 だから、取りあえず、ほおをつまんでみている。そして、鈍い痛みが続いている。

 改めて変だ、と感じた。

 夢なら覚めてほしい。だって、頬が痛い。痛いと感じながら、つまみ続ける自分が痛い。

 それでも、それだから、鈍い痛みは消えてくれない。いや、むしろ段々と耐えられぬ痛みになっていくのはなぜなのか。

 ――俺様、教えてください。って、違う。これは俺がつまんでるんじゃなくって、誰かがっ!

 解答にいきついてからの覚醒は早かった。瞬時に目を見開いた。「カッ」と擬態語がつくぐらいだ。目の前で顔をのぞき込んできている奴に確認を取れば、「カッ」という文字が見えたと答えるに違いない。

 しかし、残念ながら先に訊くべきことがあった。

「……誰だ?」

 人の顔を眺め、頬を引っ張ってきているのは、見覚えがあるようで全くない少女。女の子というよりも少女と呼びたくなってしまうくらいの、年でいえば十を幾らか過ぎたくらいだろう。

「起きた?」

 薄桃ほころぶネグリジェを身にまとった――――いや、ふわりとした淡い桜色のワンピースを着込んだ少女はわずかに首を傾け、あどけなく微笑んできた(ように見えた)が、それは大きすぎる服をダボッと着てしまう無邪気さの魅せた幻か、などと寝ぼけている場合ではない。

「起きたから、頬を引っ張るな。あと、君は誰だ?」

 少女はしゃがみ込んだ姿勢のまま、鼻をつまんできた。少女の手の甲まで包み込むそで隙間すきまからは、か細く白い腕がのぞいて見える。

「息苦しいだろ。鼻をつまむのもやめてくれ。それで、君は誰だ?」

 目をわずかに細め、今度は頬を人差し指でつついてくる。地味に痛かった。仕方なく指ごと手を握りしめてやめさせると、少女は不満げにため息をつき、

「そういうあなたは誰?」

 と眼光鋭く顔を寄せてきた。少女の淡い金色トウヘッドの髪がするりとこぼれて頬を撫でつけてくる。気のせいか、わずかに柔らかな香りを感じた。

「誰なの?」

 さらに少女は顔を互いの肌がふれそうなくらいに近づけてくる。翡翠ジェードの瞳にはおぼろげながらも青年の姿が映り込んでいる。こんな顔をしているんだなと思った。なぜか思った。

「あっ、あぁ、そうだな。先に名乗るべきか。俺は――――」

 少女はまばたきもせず、視線を目と鼻の先ほどの至近距離で真っ直ぐに突き刺してくる。

「俺の名前は………………忘……れた?」

「忘、れた?」

 静かに吐息といきを零すような声で言葉が繰り返される。

 改めて人の口から聴かされて、疑念は確信へと変わる。自分の名前を思い出せないのだ。名前だけじゃない。

「俺は誰だ? ここはどこなんだっ!? どうして俺は――うっ」

 起き上がろうとして、少女の額に思いっきり頭をぶつけた。かなり強烈な痛みが襲ってきて、思わず草地へ寝転がる。そう、再び草地へ寝転がったのだ。少女に気を取られて全く意識しなかったが、少女の背後には青空が広がっていた。つまり、屋外で仰向けになって眠り込んでいた。草の上だったことからすると、少し横になるつもりでつい寝てしまったというところか。

 ――いやいやいや、ちょっと待て。眠り込んでこの状況はあるか?

 痛みで明瞭になった思考を巡らす。身に覚えのない場所で、見覚えのない少女に起こされて、自分の名前を思い出せない――酒にでも酔ったのか。酔っているのか。まだ夢の中という可能性もある。

 寝転んだまま、少女のいる側とは反対に顔を向けると――――人の手、その切れはし

「なっ――」

 飛びのくように起き上がった。が、立ち上がろうとしたところで、気付いた。明らかに人のものではない。形だけは人の腕だが、材質は白っぽい大理石か何かだ。周囲を見れば、他にも白い破片が散らばっていて、どことなく物悲しげな顔も生首状態で転がっている。

「レターのバカ」

 少女が再び頬をつついてきた。不機嫌そうに額を撫でている。

「あっ、すまない。痛かったか?」

「少しだけ」

「さっきので少しか……君って結構――――いや、それよりもこれはどういう状況なんだ?」

 立ち上がって周囲を見回す。草地は円の形で十メートルくらい広がるのみで、その向こうは白っぽい色で統一された石畳、さらに石畳の先を樹木が取り囲み、樹木の植わっていない方角からは青い空と街並みが一望できる。ここはどうやら高台にある公園とか広場とか、そういった類いの場所だ。ここまでなら、疑問符をつけるようなことは特にないだろう。しかし、寝ていた場所の近く、草地の中心にあった彫像が無残に壊されていた。いや、そこに彫像があったかどうかは分からない。草地に広がった破片と、何かが爆発したような、あるいは衝突したような凄惨せいさんな痕跡の残った台座(らしき石の塊)とから憶測したにすぎない。けれど、十中八九、穏やかではない状況だ。

「壊れちゃった」

「はっ?」

「落ちてくる時に」

 事もなげに告げられた。

 この少女は何を言っているのか。もしかして、ここに彼女が落下して壊れたとでも言いたいのだろうか。ありえない。見上げても青空しか広がっていない。鳥しか飛んでいない。

「こんな……落ちてきて、こんな風になってて、なら君はどうして無事なんだ?」

「…………たぶん、魔法で無事になったの」

「そか、魔法ならありう――いや、ないだろ。ここでどうして魔法なんだ? そもそも、どこから落ちてきたんだ?」

「空から、かな」

 少女は当たり前のごとく右手人差し指を上へ向けた。疑問符で殴りつけてやりたい心境だったが、状況を理解できていない以上、冷静さを失うべきではない。ちちんぷいぷいでちんぷんかんぷんな答えが返ってくるとしても、取りあえず彼女の話を訊いてみる価値はあるだろう。

「ちなみに、俺はどうしてここにいる?」

「レターも一緒に落ちてきたから」

 上空に向けていた指をこちらに向けてきた。

「うん? もしかして、レターって俺のことか? 俺の名前か?」

「レターの名前。さっきワース・レターって答えた」

「そんなこと答えて――――いや、もしかして『忘れた』か。そういうことか」

 一瞬だけ自分の名前が分かったのかも、と期待してしまったのが情けなくなった。ただ単純に、「忘れた」が名前だと勘違いされてしまっただけなのだ。訂正する必要性すら感じない。

「それで『一緒に』ってことは俺たち知り合いなのか?」

「…………覚えてない」

 少女は自らの唇に指を押し当て、考え込むような仕草を見せてから首を振った。

「はっ? それじゃ、君は誰だ?」

「――――覚えてない」

 少女は首を振った。あまりにもあっけなく、少しも取り乱すことなく。

「そんなはず、ないだろ? ここはどこなんだ?」

「分からないの」

「何か覚えてないか? そうだ、落ちてくる前のこと、何か覚えてるだろ?」

 困ったようにうつむき、やがて首をゆっくりと振った。

「何も……覚えてない」

「本当なのか?」

「うん、本当」

 その言葉を信じて良いものなのか。少女の顔つきからは、何一つ読み取れなかった。しかし、信じておこうと思った。疑い出したらきりがないし、もし本当ならば――信じてほしいだろう。それなら、信じておこう。なんの根拠もなく信じるなんて偽善の欺瞞ぎまんかもしれないが、お互い様なのだ。同じように記憶を失っているのなら、一人よりも二人の方が心強い。

「そうか。なら、君はエテナだな」

「エテナ?」

「あぁ、エテナだ。覚えてないんだろ?」

 少女は左右へと首を傾け、身体を揺らし、黙り込んでしまった。

「もしかして気に入らないか?」

「ううん、エテナはエテナでいい。エテナがいいの」

 口元を緩ませ、つぶやくように告げた。

 青年=レター=自分に、少女=エテナ=彼女が初めて見せた微笑みは木洩れ日みたいだった。

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