1、青年と少女
1-1
変な夢を見ている気がした。変だというのは分かるのに、どんな内容だか全くはっきりしない。しかも、変だという感覚だけが次第に強くなって、ますます内容は形を失っていく。でも、夢にはよくあることのような気がして、だとしたら、夢の中でそんなことを思っているのだなと、なんとなくそれはそれで変な夢だと思う。
だから、取りあえず、
改めて変だ、と感じた。
夢なら覚めてほしい。だって、頬が痛い。痛いと感じながら、つまみ続ける自分が痛い。
それでも、それだから、鈍い痛みは消えてくれない。いや、むしろ段々と耐えられぬ痛みになっていくのはなぜなのか。
――俺様、教えてください。って、違う。これは俺がつまんでるんじゃなくって、誰かがっ!
解答にいきついてからの覚醒は早かった。瞬時に目を見開いた。「カッ」と擬態語がつくぐらいだ。目の前で顔をのぞき込んできている奴に確認を取れば、「カッ」という文字が見えたと答えるに違いない。
しかし、残念ながら先に訊くべきことがあった。
「……誰だ?」
人の顔を眺め、頬を引っ張ってきているのは、見覚えがあるようで全くない少女。女の子というよりも少女と呼びたくなってしまうくらいの、年でいえば十を幾らか過ぎたくらいだろう。
「起きた?」
薄桃ほころぶネグリジェを身に
「起きたから、頬を引っ張るな。あと、君は誰だ?」
少女はしゃがみ込んだ姿勢のまま、鼻をつまんできた。少女の手の甲まで包み込む
「息苦しいだろ。鼻をつまむのもやめてくれ。それで、君は誰だ?」
目をわずかに細め、今度は頬を人差し指でつついてくる。地味に痛かった。仕方なく指ごと手を握りしめてやめさせると、少女は不満げにため息をつき、
「そういうあなたは誰?」
と眼光鋭く顔を寄せてきた。少女の
「誰なの?」
さらに少女は顔を互いの肌がふれそうなくらいに近づけてくる。
「あっ、あぁ、そうだな。先に名乗るべきか。俺は――――」
少女はまばたきもせず、視線を目と鼻の先ほどの至近距離で真っ直ぐに突き刺してくる。
「俺の名前は………………忘……れた?」
「忘、れた?」
静かに
改めて人の口から聴かされて、疑念は確信へと変わる。自分の名前を思い出せないのだ。名前だけじゃない。
「俺は誰だ? ここはどこなんだっ!? どうして俺は――うっ」
起き上がろうとして、少女の額に思いっきり頭をぶつけた。かなり強烈な痛みが襲ってきて、思わず草地へ寝転がる。そう、再び草地へ寝転がったのだ。少女に気を取られて全く意識しなかったが、少女の背後には青空が広がっていた。つまり、屋外で仰向けになって眠り込んでいた。草の上だったことからすると、少し横になるつもりでつい寝てしまったというところか。
――いやいやいや、ちょっと待て。眠り込んでこの状況はあるか?
痛みで明瞭になった思考を巡らす。身に覚えのない場所で、見覚えのない少女に起こされて、自分の名前を思い出せない――酒にでも酔ったのか。酔っているのか。まだ夢の中という可能性もある。
寝転んだまま、少女のいる側とは反対に顔を向けると――――人の手、その切れ
「なっ――」
飛びのくように起き上がった。が、立ち上がろうとしたところで、気付いた。明らかに人のものではない。形だけは人の腕だが、材質は白っぽい大理石か何かだ。周囲を見れば、他にも白い破片が散らばっていて、どことなく物悲しげな顔も生首状態で転がっている。
「レターのバカ」
少女が再び頬をつついてきた。不機嫌そうに額を撫でている。
「あっ、すまない。痛かったか?」
「少しだけ」
「さっきので少しか……君って結構――――いや、それよりもこれはどういう状況なんだ?」
立ち上がって周囲を見回す。草地は円の形で十メートルくらい広がるのみで、その向こうは白っぽい色で統一された石畳、さらに石畳の先を樹木が取り囲み、樹木の植わっていない方角からは青い空と街並みが一望できる。ここはどうやら高台にある公園とか広場とか、そういった類いの場所だ。ここまでなら、疑問符をつけるようなことは特にないだろう。しかし、寝ていた場所の近く、草地の中心にあった彫像が無残に壊されていた。いや、そこに彫像があったかどうかは分からない。草地に広がった破片と、何かが爆発したような、あるいは衝突したような
「壊れちゃった」
「はっ?」
「落ちてくる時に」
事もなげに告げられた。
この少女は何を言っているのか。もしかして、ここに彼女が落下して壊れたとでも言いたいのだろうか。ありえない。見上げても青空しか広がっていない。鳥しか飛んでいない。
「こんな……落ちてきて、こんな風になってて、なら君はどうして無事なんだ?」
「…………たぶん、魔法で無事になったの」
「そか、魔法ならありう――いや、ないだろ。ここでどうして魔法なんだ? そもそも、どこから落ちてきたんだ?」
「空から、かな」
少女は当たり前のごとく右手人差し指を上へ向けた。疑問符で殴りつけてやりたい心境だったが、状況を理解できていない以上、冷静さを失うべきではない。ちちんぷいぷいでちんぷんかんぷんな答えが返ってくるとしても、取りあえず彼女の話を訊いてみる価値はあるだろう。
「ちなみに、俺はどうしてここにいる?」
「レターも一緒に落ちてきたから」
上空に向けていた指をこちらに向けてきた。
「うん? もしかして、レターって俺のことか? 俺の名前か?」
「レターの名前。さっきワース・レターって答えた」
「そんなこと答えて――――いや、もしかして『忘れた』か。そういうことか」
一瞬だけ自分の名前が分かったのかも、と期待してしまったのが情けなくなった。ただ単純に、「忘れた」が名前だと勘違いされてしまっただけなのだ。訂正する必要性すら感じない。
「それで『一緒に』ってことは俺たち知り合いなのか?」
「…………覚えてない」
少女は自らの唇に指を押し当て、考え込むような仕草を見せてから首を振った。
「はっ? それじゃ、君は誰だ?」
「――――覚えてない」
少女は首を振った。あまりにもあっけなく、少しも取り乱すことなく。
「そんなはず、ないだろ? ここはどこなんだ?」
「分からないの」
「何か覚えてないか? そうだ、落ちてくる前のこと、何か覚えてるだろ?」
困ったようにうつむき、やがて首をゆっくりと振った。
「何も……覚えてない」
「本当なのか?」
「うん、本当」
その言葉を信じて良いものなのか。少女の顔つきからは、何一つ読み取れなかった。しかし、信じておこうと思った。疑い出したらきりがないし、もし本当ならば――信じてほしいだろう。それなら、信じておこう。なんの根拠もなく信じるなんて偽善の
「そうか。なら、君はエテナだな」
「エテナ?」
「あぁ、エテナだ。覚えてないんだろ?」
少女は左右へと首を傾け、身体を揺らし、黙り込んでしまった。
「もしかして気に入らないか?」
「ううん、エテナはエテナでいい。エテナがいいの」
口元を緩ませ、
青年=レター=自分に、少女=エテナ=彼女が初めて見せた微笑みは木洩れ日みたいだった。
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