救世主


辺りはもう暗い。



幹線道路沿いの街灯が冷たく光っている。


上弦の月が神々しく、無機質なコンクリートの細長い煙突状の塔みたいな建物を照らしていた。


女たちがバベルの塔だと言っていた、この建物はトラップであり武器という事になる。


まさか、こんなものまで再現出来るなんて……。


「そういえば、どうしてココにいるのがわかったんだ?」


ふとした疑問だった。


遊安はぼくの肩を指差す。


その場所を見てみると、小さな蝿が一匹とまっていた。


「…………そのコが……教えて……くれた…………ので……」


遊安の後ろに隠れたアゲハは、ぼくの様子を伺いながら説明した。


「良太郎が出て行ったあと、アゲハに頼んで追跡させた」


「そうか……。発信機とかいらないな……」


つまり今回も遊安に全てを把握されていたという事だ。


「なあっ、良太郎……そろそろ良いだろ? コレは、どういう事なんだ?」


ずっと我慢していた様子の浅沼が、もう耐え切れなくなったとばかりに未だ痛むであろう唇を押さえて詰め寄ってきた。


「わかったよ。信じてくれとは言わないが、事実を話す……」


ぼくは自分が命を狙われている事……。


そして、遊安がぼくを守る機関の人間、アゲハもその関係者だとかいつまんで話した。


実際、当事者であるぼくですら、ナゼ狙われているのかはまだよくわかっていないのだという事も告げた。


けれど、ぼくは大事な事を浅沼に言えなかった……。



ここが脳内世界であり、浅沼が本当は、ぼくの想像の中の存在だということを……。



「……つまり、今、お前はその殺人鬼達に狙われてるって事なのか?」


「ああ、そうらしい。おかしな事に巻き込まれたよ……」


浅沼は目を閉じ、何やら考え込む姿勢をする。


「ふーむ、でっ、そのピンチを救ってくれるのが遊安さんだと……」


「あぁ、こう見えて彼女は強力な護衛だ。もう何度も助けられた」



そういえば、アレは一体どういう意味だったんだ?


遊安が、ぼくの為にこの世界に来たって、アノ双子は確かにそんな事を言っていた。


それに、ぼくの為になら命を落とす事も厭わない、遊安は一体どうしてそこまでしてくれるんだ。


ぼくは一瞬遊安と目が合ったが、すぐに彼女から逸らされてしまった。


「はあぁぁぁ~~~~……っ、全く、羨ましいぞ……良太郎……」


ぼくは、突然浅沼に首を思い切り後ろから羽交い締めされた。


「えっ? 何がっ……」


「こんな美少女に命懸けで助けて貰えるだなんて!? 男冥利に尽きるだろうがっ!! それに遊安さん学校にいる時となんか全然雰囲気違って、ミステリアス? って言うの? オレはカナリタイプだぜ?」


「お前……こんな時にそんな……」


「こんな時だからむしろだよ! いいかっ!? こういうの吊り橋効果って言ってだな、ドキドキが恋のドキドキと勘違いしちまうんだよ」


女の子と、ともかくお近づきになりたい浅沼にとっては、例え命を狙われていようとも、この状況は羨ましい事らしい。


「何だよ何だよっ!! お前、いつの間にそんなオレよりも早急に、女の子と仲良くなってんだよぉぉぉお~っ!!……って、いててててっ!」


浅沼はもうケガの事など忘れているかのごとく興奮していたが、やはりそう簡単に痛みは退けられなかったらしい。


けれども、未だぼくの首には浅沼のチョークスリーパーは入っている。


ぼくが女の子と特別な関係なのが、余程悔しいのだろう。


先程のゴスロリに比べたら、浅沼の力等子供の悪ふざけ程度だが、それでもさっきの今だった事もあり、ぼくは苦しくて抵抗した。


すると、ぼくの服の裾を下から引っ張られる感覚がする。下に視線を移せば、そこには、


「……その……人も…………悪い人……?」


アゲハが恐る恐る、ぼくの方にその澄んだ瞳を向け、尋ねて来た。


「ひぃっ!! ちっ、違います違います~っ!! オレは、良太郎の友達で~っ……」


すかさず浅沼は飛び上がり、ぼくから遠く離れて両手を挙げ、敵では無いと訴えた。


まぁ、あの現場を見たのだから仕方ないだろう。


出来ればぼくも、アゲハだけは敵に回したくはない。


「こいつは友達だ、だから敵じゃない」


ぼくがそう言うと、アゲハは黙って頷きながらも、少し残念そうな様子だった。


「うん、いや、でも、やっぱ羨ましいぞ良太郎……」


それでもまだ、浅沼はぶつぶつとぼくに、愚痴なのか呪詛なのか小声でそう呟いている。


ぼくは、そんな浅沼の事には構わず、自分の中に沸き上がっていた一つの不安を、思い切って遊安にぶつけた。


「遊安、救世主メシアは、ぼくが死ぬまでコレを終わらせないつもりなのか?」


「多分……」


遊安の返答は、揺るぎ無く確信を持っての肯定だった。


「これから私と来てもらう、良太郎」


「どこに?」


「私の部屋」


「なぁぁぁぁあんだってぇぇぇぇっ!? いって────!!」


アゲハに恐れおののいて、少しぼくらと距離を置いていた浅沼が痛みに顔を歪ませながら叫んだ。


「向こうは、良太郎の周囲を確実に把握している。良太郎がいれば周りをも巻き込みかねない」


「そうか……そうだよな……」


「私の側にいれば、良太郎を守れる」


「あっ、あのあの~、遊安さ~ん、オレも行っていいですか~?」


調子良く、浅沼がこの機会に便乗して来た。


「おい! 浅沼、お前……」


「いいじゃんかよ~、 なぁっ……、オレケガ人、なっ?」


「遊びじゃないんだ、遊安だってそんな急に男二人に自宅に押しかけられても困るだろう……」


「別に、私は大丈夫だ。一人暮らしだし、気兼ねはいらない」


「ほらほら~? なっ、オッケーだってよ」


「一人暮らしには語弊があった。アゲハもいるから二人暮らし」


浅沼は、チラリとアゲハの顔を見て硬直した。


「いっ、いやいやいやっ、女子の部屋に、しかも遊安さんの部屋に行ける、またとないチャンスだ! よしっ、気合いだ気合い~っ!! いって~!」


すっかり、アゲハに脅える様になった浅沼だったが、何がヤツをそこまで駆り立てるのか、ぼくには理解出来ないし理解したくは無い。




結局、ぼくは浅沼とその日、遊安の自宅へ招かれた。


一応、現実世界と同じように母さんには電話で、友達の家庭教師を試験前に頼まれ、泊まり込みでやる事にしたと伝えた。


「もう、牛乳は~?」


そう電話越しで不機嫌にはなられたが、それ以上は何か言われる事は無い。

多分、現実の母さんもこんな感じだろう。




別に、本当はする必要も無いのに、ただ、そういう現実的な行為だけがぼくを正常に保ってくれている気がして、ぼくは「ごめん牛乳は明日」と母に言って電話を切った。




遊安の自宅は、学校から5分程のマンションだった。


外観は、コンクリートの打ちっぱなしで、玄関は古いオートロックだ。


声紋認証や角膜認証、せめてカードキーが主流の時代に、未だシリンダー錠の扉を開けて中へ入り、旧式のエレベーターで5階に上がる。


「この部屋が、私の部屋」


降りてすぐの、目の前にあった部屋の扉をそう言って遊安が、また古いタイプの鍵を使って開けた。


中は、玄関を開けて細い廊下。


部屋は二つ、リビングと寝室。台所は、廊下に簡素な物が造り付けてあるが、特に調理器具の様な物は見当たらず、シンクは銀色に眩しく光り一度も使った形跡も無い。


「楽にして」


そう促され、ぼく達はリビングのソファに腰を下ろし、再び部屋の中を見回した。

リビングには、二人掛けのソファが一つ。


テレビやオーディオは、一切無い。


観葉植物が部屋の隅に置かれているが、それ以外は家具も何も無い。


寝室との仕切りは、取り外されており、一つの部屋の様になっているが、向こうにもベッドがあるだけで、それ以外は小さなサイドボードだけだ。


女の子らしい部屋には、ほど遠い。


と、いうより簡易宿泊施設か、少し広さのある個室の病室みたいだと、それがぼくの率直な感想だった。


「いや~、まさか遊安さんのお部屋に呼んで貰えるなんて~……感激っス!!」


(オマエが、無理矢理着いて来たんだろうが……)


ぼくの隣に座っている浅沼は、そんな部屋でも一応『女子の部屋』という事に、仕切りに興奮している。


「ずっと、ココに住んでるのか?」


「……ココではね……」


「ココでは?」


「この街ではね……」


なんだか、腑に落ちない答えだった。


遊安の後ろには相変わらずアゲハが、身を隠す様にピタリとくっついている。


「お茶でも入れる、アゲハ、彼の手当をしてあげて」


「うん…………」


「えっ……いっ、いやいや、お、オレはだいじょうぶですよ……」


「じっと……して……下さい」


浅沼はアゲハに怯えて微かに震えながら、大人しく手当された。


遊安は部屋の隅にる小さな冷蔵庫から、ペットボトルを取り出すとガラスのコップにそいつを注ぐ。


一応、遊安にもおもてなしの精神はあるらしい。


ぼく達は、遊安の入れてくれたお茶を飲みながら、特に何も話さずしばし無言の時間を過ごした。


ぼくはもう一度、ゆっくり部屋の中を見渡した。


別に女の子の部屋をジロジロ見る趣味がある訳では無いが、何だろうか、初めて来たこの部屋をぼくは知っている気がした。


生活感の無い、無機質で質素な部屋。


何故か、懐かしさすら覚えている。


「もう、夜も遅い。少し横になった方がいい」


遊安の提案で、ぼくらは眠る事になった。


ソファの上に浅沼、ぼくはその真下に寝転がり、遊安とアゲハがベッドで眠る事となった。


会話も特には無く、部屋の灯りを消すとすぐに暗闇と静寂だけが辺りを満たす。



ぼくは、眠れずにいた。



色々な事が、思考が止まらずに、目まぐるしい程駆け回った。


微かな月の光が、カーテンの隙間からぼくの顔に降り注ぐ。


浅沼は、ソファの上でいびきすらかいて爆睡している。


初めて来た他人の、しかも異性の部屋で、これだけリラックス出来るのは、浅沼の天性の才かもしれない。


寝返りを打って、浅沼が眠るソファの真下を何気なく見つめた。


暗闇に慣れた視線の先に何かがあるのが、ソファと床の僅かな隙間に確認出来た。


それを、凝視する。


紙だろうか、少し腕を伸ばせば掴める位置だ。


ぼくは、腕を伸ばすと、指先でそいつを手繰り寄せた。四角い、手の平サイズのつるっとした素材。


裏返っていたそれを、ぼくはひっくり返して確認した。


古い紙の写真だ。


珍しい、いつだったか祖母の家で見せてもらった事がある。


だが、それよりもぼくが驚いたのは、写真に写るものだった。



写真の中には──少年と少女がいた。



ぼくの自宅の前で、二人共微笑んでいる。


一人は、ぼくだ。


少女は、遊安だった。


(どういう……事だ…………?)


ぼくには、こんな写真に撮られた記憶も撮った記憶も、全く覚えが無い。


やはり遊安とぼくは、昔会っていたのか? 


けれども、何も思い出せない。


いや、遊安だって以前、否定していたじゃないか? 違うのか?


本当は、ぼくは遊安と以前に会っているのか?


ぼくは、写真をただただ見つめていた。



「そんな所にあったんだ」



顔を上げると、いつの間にか、ぼくの目の前に遊安が佇んでいた。


月光に照らされた彼女は、どこかこの世の物では無い不思議な空気を身に纏っている。


ぼくは起き上がり、遊安の方をジッと見た。


「やっぱり、会っていたのか? オレ達……」


「会っている……とも言えるし、今この状態では、会った事が無いとも……言える」


まただ。


煙に撒く様な遊安の返事にぼくはただ、彼女の次の言葉を待っていた。


「もう少ししたら、多分全てがわかる。それまでは、貴方の為にも私の為にも、言わないでおく……」


「さっき、双子のヤツらが言ってたよな? ぼくの為に、オマエはこの世界に入ったって……、アレはどういう意味なんだ?」


月光に照らされた、遊安の顔が僅かに曇る。


眉間に皺を寄せ、まるで、苦渋の決断を強いられた時みたいだ。


「確かに、私はアナタを助ける為にここに来た」


「どうして?」


「アナタがこの世界に来てしまったのは、私のせいでもあるから……」



ぼくがソドムにいるのが、遊安のせい?


どういう意味だ?



「じゃあ、オマエはぼくがここに来てしまった理由も、知っているのか?」


「ええ……」


「ここはなんなんだ? ナゼぼくはここにいる?」



遊安は少しの沈黙のあと、ぼくの質問とはちぐはぐな事を言った。



「アナタは……どうして殺人鬼は人を殺すのだと思う?」


「何だよ? 急に……そんなのわからないよ」


殺人衝動のすっかり消失していたぼくには、それは全く理解出来ない事だった。


そういえば……、いつのまに消えたんだろう?


やはり、遊安の存在が大きいとは思うが……。


「じゃあ違う質問。どうして、人を殺してはいけないのだと思う?」


「は? どうしてって……それは……犯罪だから……」


「それは、民主主義的多数意見って事? みんながいけないというから、罰せられてしまうからいけないの?」


「……それが、何か関係あるのか? 今のぼくの質問と……」


「これはあくまで私の仮説だけど、恐らくこのシステムの目的は……、善良な人間を殺人鬼に作り変え量産する事……」


「冗談にしては、笑えないな」


ぼくは苦笑してそう言った。


「そしてそれは、このシステムを作った人間を動かしている、もっと大きな存在が仕組んだ事なんだと思う」


「それって……」



大きな存在?


そんな陰謀論的な事を言われても、すぐに信じる事は出来ない。



「ところで、アナタは『フォリア・ドゥ』という言葉を知っている?」


「なんだよそれ……」


いや、待て、どこかで聞いた言葉だ、確か……。


「感染症とかだよな……? テレビで観た」


「……そう言われている」


「言われてる?」


「例えば、ある機関が本当は感染などしていない患者を隔離してしまい、後にそれがわかったら、どうなると思う? それどころか、その感染症すら存在していなかったとしたら……」


「なんだよそれ?」


「……このおかしな世界は、一つの感染症が原因、そしてそれを動かすのは一つの大きな権力」


「じゃあなんで、ぼくはこの世界に来る事になったんだ? その感染症の患者なのか?」


「今は、忘れている。その内、思い出す。貴方は見ていた……ただ、それだけ」


「見た? 何を!?」


「……まだ、思い出す必要は無い。隠していた事は……認めるし謝る。でも、そうしないといけなかった……」


「ナゼ?」


「他人からの情報の供給は、現実世界のアナタの意識の崩壊を招く可能性がある。だから、私は僅かな情報しかあげられない……後は、自身で思い出さなければダメ」


ぼくの頭の中は、疑問を通り越えた靄で一杯になっていた。


遊安に詰め寄り、全てをハッキリさせたくはある。


でも、またそれは危険だとどこかで警告される。


それを聞いたら、多分、ぼくの中で何かが崩壊してしまう、そんな気がしてぼくには、それ以上の事を追求する勇気が出ない。


予感というものだろうか、これ以上は踏み込んではダメだという言葉が、サイレンみたいに煩く鳴り響いている。


「じゃあ、救世主(メシア)ってヤツはそいつらの仲間か?」


「救世主(メシア)が何者かはわからないけれど、利用されているのかもしれない」


「そいつらの手先なんじゃないのか? オマエが邪魔者だとか……」


「確かに妨害する私という存在は邪魔だから狙われる、それならわかる……でも、あくまで狙いは良太郎、良太郎が死ねば私が傷つくなんて、遠回しはしない。そいつらとは違う気もする」


「じゃあ、その救世主(メシア)ってヤツは、オマエに個人的に恨みがあるとか?」


「恐らくは……」


「じゃあ、顔見知りとかいうことじゃないのか? 心当たりは無いのかよ?」


「無くは無い……でも」


「でも?」


「それは……無いと思いたい」


「思いたい?」


「あってはいけない事だから……」



遊安は黙り込んだ。



「さぁ、今日話せる事はここまで、もう眠った方がいい」


「えっ!? おいっ、そんな、ぼくにはまだ何が何やら……」


「おやすみ」


遊安はスタスタと部屋の奥に設置されているベッドの方へ行ってしまった。


「はぁ……なんなんだよ」


ぼくは大きく嘆息し、仕方なく浅沼の眠るソファ下の床に寝ころんだ。


ぼくがここに今いるのが、どうして遊安のせいなのか、肝心な事だけ聞けば良かった……。




どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。


ぼくは、考え無い様にする自分と、全ての答えを導きたい自分の狭間でもがいていた。


(思い出す……? 何を思い出せっていうんだ……)


さっきの遊安のセリフが頭の中で回っている。


カーテンから差し込んでいた光は、月の冷たげな鈍色から太陽の温かな光へと変わっていた。


(もう朝なのか……)


ぼくはゆっくり起き上がり、ベランダのある窓の側まで行くと、ブラインドの隙間から外の景色を少しだけ覗き見た。


早朝のアスファルトで舗装された道には人影は一つも無い、何だか今のこの状況が全て、ぼくの夢の中で起きている出来事に感じて来る。


もしかしたら、本当にこれは夢で起きたらいつもの日常があるのかもしれない。

ぼんやりとそう思いながら外を眺めていた。



胸ポケットに入れた、電話機が振動するまでは──



カード型のそいつを、取り出しタッチパネルを何も無い空間にプロジェクトさせた。


メッセージが一通来ている。妹のアズから送られて来ていた。


(こんな早朝に?)


ぼくは不思議に思い、それと共に何とも言えない不安感を覚えた。


背筋に、ゾクリとした物を感じる。


カードの液晶画面に慌てて開いたメッセージには、一行だけの文と画像が添付されている。




【助けて】




画像には、血みどろのアズの画像が貼られていた。全部で三枚。


どれも、コンクリートの無機質な灰色の壁をバックに、意識を失っているのか、目

を閉じて真っ赤な液体に塗れたアズが写っている。


震えが、止まらない。


ガチガチと上下の歯が、寒くも無いのに音を立てている。


震える指先で、アズの電話にコールする。


『……おかけになった電話は、電源が入っていない為…………』


機械音声が答える。メールを返信した。


(イタズラ……だよな? アズ電話に出ろ……!!)


もう一度、コール。


『おかけになった電話は、電源が入っていない為…………』


ぼくの手からスルリとカードが落ち、床に無音で着地した。


「良太郎?」


不穏な空気を感じ取ったのか、遊安が歩み寄って来る。


「アズが……妹が……」


膝から力が抜け、一気にガクンと床に崩れた。


ぼくの頭の中は、真っ白だ。


恐怖、後悔、不安、全ての負の感情が一斉に押し寄せて来る。


「良太郎、落ち着いて」


遊安が、ぼくの肩を掴む。


「……なぁ、コレ、ゲームなんだろう? その機関だか権力者に言ってさ……今すぐこのバカげたゲームをやめさせろよっっっ!!」


「良太郎……」


言葉を叩き付ける事しか出来ない。


どうすれば、どうしたら……そんな言葉が頭を巡る。


ぼくは、ぼくは────


「助けに行く……」


「ダメよ……」


どうせ遊安はそういうと思った。


この世界はただの疑似空間、脳内世界。アズだって本物ではない。


でも、たった一人の妹が今、ぼくのいるこの世界で殺されそうになっているんだ。見殺しになんて出来るワケない。


「わかってるよ……どうせここは疑似空間なんだろ? ココでアズが殺されても現実とはリンクしてないんだろ!? でもたった一人の妹なんだ……」


「……違う」


「じゃあ、なんだよ……」



「アナタには妹なんて……いない」



「…………へ……?」


「妹はいない……」


「何言ってんだよ……」


「いない……」


「そんなワケないだろ!? 何言ってんだよ、現にこの世界でちゃんと再現されているじゃないか……」


「思い出して……アナタには妹はいない……」


「嘘だ……」


「けれど……お兄さんがいた」


「兄……さん…………?」


「そして、今ここにお兄さんが再現されている事も……」


遊安が視線を落とす。


その先には……


部屋の隅のソファでまだ深い眠りに入っているであろう、浅沼がいる。



「思い出して、アナタの名字は?」



「ぼく……? ぼくは……」


えっ? ぼくは……良太郎で、上の名前は……。


アレ? なんだ、おかしい……ぼくの名字……。



「……アサ……ヌマ……」



ようやく、口をついて出たのは、親友と同じ名字だった。


浅沼が兄さん?


そんな! ウソだ! アズは!? 母さんや父さんは!?


そう思った瞬間。



ぼくには、いつかどこかで見た映像が鮮明に浮かんだ──



『兄さん、また学校さぼってゲーセン?』


『別にいいだろ?』


『……さんも付き合う事ないですよ?』


『……はオレの味方だからな、……は早く学校行けよ』


『……も学校さぼっちゃえば?』


『こら、……を悪の道に勧誘するな』



(イマノハダレダ)



「今のは、……誰だ……?」


今、思い出したぼくの記憶には知らない誰かがいた。


アレは……誰だ?


よく行くゲーセン、メンバーはいつも三人。


ぼくと、浅沼……いや、遊安が言うとおりなら兄さん……そして……あれはもしかして、遊安なのか……?


「良太郎……」


「じゃあ、アズって誰なんだ……?」


両拳に力を入れ、ぼくは床に落ちたカード型携帯を見つめた。


どうして、こんな事になったのかわからない。


ぼくの、日常はいつからこんなにも狂い出した?



「多分、その場所にいるのは救世主メシア


「……つまりコレは罠って事か?」


「……決着をつける」


「……行くのかよ……?」


「それが目的だったから……救世主メシアなら現実への戻り方もわかるかもしれない、アナタも現実に戻れる」


「ぼくも一緒に行く」


「ダメ……アナタをこれ以上危ない目には合わせられない」


「なんで……なんでオマエはそうやって自分を犠牲にしようとするんだよ……?」


「……最初からそのつもりでココへ来たから……」


「死ぬかもしれないんだぞ……」


「……そうだね」


「それでもいいのかよ?」


「……うん」


「……クッソ……」



ぼくは、思わず目の前の遊安を抱き締めた。



「……良……太郎……?」


「行くな」


「…………」


「行くなよ……」


「……アナタを現実に帰す事が私の目的、その為には……」


「思い出せないんだよ……その現実の事を……いや違う」


ぼくはようやく頭の中で混乱する記憶の理由を見つけた。



「……思い出したくないんだよ……現実なんて」



そうだ。


思い出せないんじゃない。


思い出したくないんだ。


現実なんかより、この狂った空間のがよっぽどマシなんだ。


「だから……ぼくは……」


「……待って」


突然、遊安の表情が険しくなった。


「どうした?」


「彼は?」


「えっ……?」


ふと、先ほどまでソファに眠っていた浅沼の方に目を向けると……。


「いない……」


いつの間に起きてソファから消えたんだ?


ぼくらの間に沈黙が流れた。


「……お~い、良太郎~……」


玄関へと続く短い廊下、明かりはついておらず部屋から差し込む僅かな陽光がぼんやりとそこを照らしている。


そこに、佇む影がゆらりと動いてこちらに近づいて来た。


「浅沼…………?」


兄貴と呼ぶ事は、まだぼくの中で戸惑われる。


「良太郎~……早く行こうぜ~」


「えっ……?」


「早く、救世主(メシア)のとこにさ~」


姿は浅沼ではある。


だが、目はぼんやりと宙を仰ぎ、口元から涎を垂らしたその姿はとても正気とは思えない。


「おいっ、浅沼!?」


「違う……アレは彼じゃない」


浅沼の方へ歩み寄ろうとしたぼくを、片手で制止して遊安が言った。


救世主メシア……」


そうポツリと遊安は言った。


「そうそうそう、ご名答~、いや~しかし本当に久しぶりだね良太郎~、二人ともこの世界を楽しんでいるかい?」


久しぶり……?


コイツはぼくを知ってるのか?


浅沼の体を借りた救世主メシアは、軽快な口調でそう問いかけて来た。


まるでここが、遊園地やパーティ会場かのような質問の仕方だ。


「なんの用……?」


遊安は質問に質問で返答する。


「ははは、いやねもしかして来ないかもしれないな~と思ってね……念には念を……だよ~」


浅沼の姿をした救世主メシアは、首を左右にゴキゴキと動かしながら言った。


「しかし、モブの体は実装には向かないな~、あくまでもモブキャラはモブキャラだね~……」


「オマエ、浅沼に何したんだ……」


ぼくは、浅沼を侮辱されている様に感じ苛立ちを隠せなかった。


「何って~……? 簡単に言えばコイツの中に入っただけだよ~? 僕はこのソドムの中ならなんだって出来るんだ~」


「……やはり、貴方も開発者側の人間って事……本来自分の体でしか行動出来ないこの疑似空間で、他の存在の中へ行き来出来るなんて……」


「やだな~……そんな他人行儀な……絆ちゃん」


無表情だった遊安の表情が一瞬、動揺した様に見えた。


「それで……私たちにどうしても来て欲しくて、ワザワザボスキャラ自ら来たって事?」


「まぁね~……でも、正直言うとそろそろ飽きたんだよね~、だからとっととみんなに殺人の素晴らしさを知ってもらって、現実に戻ろうかな~って……それでさ」


浅沼の体を使っているので、顔は勿論浅沼のはずなのに……。


違う。


その顔はぼくが今まで見たことも無い、醜悪な顔だ。


「現実の方でも~みんなで人を殺そうよ~、殺人行為を了承した世界。そうすればこの世界は救われる~」



(狂っている……)



「あっ……あの……どうかしましたか…………?」


玄関から声がする。


「アゲハ……!」


遊安が叫んだ。


白いコンビニの袋を持ったアゲハが、今の異様な様子を見つめている。


浅沼の体を借りた救世主メシアが、ゆっくりとそちらに振り向き、近寄って行く。


「あっ……あの…………みなさんに……朝食を…………」


「早く逃げなさい!!」


だが、遊安の忠告よりも早く救世主メシアはアゲハの首を羽交い絞めにしていた。


「これはこれは~アゲハちゃ~ん……久しぶりだね~」


「…………あっ……あ…………あ」


アゲハはすぐに、浅沼が今誰なのかを察知した様だ。


「そんなに怯えなくてもいいだろ~?」


「…………救世主メシア……」


「さっすが~、理解が早いね~……」


アゲハは救世主メシアの腕で首を絞められたまま、ガタガタと体を震わせている。


「ほら~言ったよね~? アゲハちゃん、ちゃんと僕の言うことを守ってくれなきゃおしおきだって~……」


「あっ……あぁ……っ…………」


遊安が眠る前に置いたのであろう、シンクの上のメスに手を伸ばそうとする。


「……もし、今そのメスを手にしたら、この場でこの子殺しちゃうよ~」


「くっ……」


メスから遊安の手が離れた。


「そうそう、今は僕のが立場が上なんだから~……さて……」


救世主メシアは、首を絞める腕に力を入れながら、もう片方の手でアゲハの顔を覆った。


「ど~こにしようかな~」


そうして、歌うように指先の一本一本で唇や鼻に触れ、やがて右目の瞼でその動きを止めた。


「今から、眼球摘出手術を行いま~す」


アゲハの体がびくっと強ばる。


「何……言ってんだ……ふざけんなよ……」


「…………」


なんとかアゲハを助けられないか、ぼくはそのタイミングを見計らっていた。

恐らく、遊安もそうなのだろう。


その瞬間を待った。


「目玉って~触り心地良いよね~」


救世主メシアは、指先でグリグリと瞼の中の眼球をいじっている。


「いやぁっ……ひっ……」


「もっと奥に入れてみようか~?」


指先が眼球の上の骨の窪みに、ズズズっと入る。


「いっや……!!」


「アゲハ!!」


遊安はもう限界の様だ、このまま強行突破しかないか?



「……や~めた~……ここで良太郎と彼女を怒らせても何もなんにもなんないもの~」



救世主メシアはそう言って、指先を眼孔から引き抜くとペロリとそれを舐め上げる。


「また遊ぼうね~アゲハちゃ~ん……」


首を絞めていた腕の力を抜き、ヒューヒューと呼吸しながら立ち尽くすアゲハの背中を救世主メシアはトンと押す。


解放されたアゲハはフラフラとこちらに歩み寄り、数歩で倒れ込みその場でゴホゴホとむせている。


遊安がすぐにそこへ駆け寄った。


「さ、じゃあ行こうか~」


悪びれた様子もなく、救世主メシアはニタニタと笑っていた。


(……ぼくは、知っているコイツを……)


その笑顔が一瞬、誰かの表情を思い起こさせ、ぼくの思考が巡り始める。


(やはり会った事がある……のか?)


「大丈夫、意識はしっかりしている……」


アゲハを抱き抱えて遊安は言った。


「さっ、良太郎、それに……絆ちゃんも、僕の所に行こうか?」


首を傾げ、浅沼の顔は妙な笑顔を浮かべている。


「ここは、素直に言う事を聞きましょう……」


遊安の提案にぼくは静かに首肯した。


「じゃあ、僕がナビしてあげるから、良太郎も絆ちゃんも用意が出来たら下に集合~」


まるで、遠足にでも行くような口振りだ。


「ああ、そこへ着いたら相手してあげるから、自慢の凶器をお忘れなく」


ヒラヒラと手を振ってこちらに振り向く事もなく救世主メシアは廊下の闇に飲まれていった。


バタンと、玄関の鉄の扉が閉まる。




ふらつくアゲハをなんとかソファに寝かせながら、遊安は「ゴメン」と呟く。


少年への贖罪なのだろうか?


だとしても、悪いのは救世主メシアだ。


遊安にはなんの責任も無い。


「行こう……」


「ああ……」


遊安はシンクに置かれたメスを手に取り、ぼくらは部屋を出た。



もう二度と、遊安はここに戻る事はないだろう……。



階下に下りていくと、マンションの入り口に浅沼の姿を見つけた。


しかし、またさっきと様子が違う。


ただ呆然と一点を見つめて、直立不動に立っているだけだ。


「もう、彼の中には救世主メシアはいない……」


「じゃあ、元に戻ったのか?」


「いいえ、今はおそらく救世主メシアの所へ導くナビとして存在しているだけ……」


その時ぼくは思った。


本当に、浅沼はぼくの兄なのだろうか?


その感覚がぼくにはどうしても思い出せず、兄貴や兄さんなんて浅沼を呼ぶのには抵抗がある。


ぼくは、思い切って声をかけてみた。


「浅沼……?」


すると、浅沼は視線を合わせる事もなく、フラフラと歩き始めた。


「行きましょう……」


少しずつ陽が昇る時間も早くなり、すっかり明るさを取り戻している早朝の町をぼくらは歩いた。

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