死肉の双子
ぼくの勘違いであって欲しい!
大通りに出ると、さっき二人が歩いていた道、左右を見回す。
二人の姿は無い。胸騒ぎがした。
遊安を説得し助けを求めるべきだったか?
でも、恐らく彼女は、ぼくがいくら言った所で実在しない存在を助ける事に意味などないと、言うだけだろう。
確かに、それが正論なのはわかってる。
でも、ぼくはいてもたってもいられなかった。
それに今回は、遊安を巻き込みたく無かったのが本音だ。
男として、女の子に頼ってばかりはもうイヤだ。
なにより浅沼はぼくの友達だ。
ぼくが助けないといけないんだ。
今度こそ助けるんだ!
(今度……こそ……?)
今度って……、前にもあったか?
ぼくが浅沼を…………。
助けられなかった……?
また頭が混乱して来た。
周囲の景色が回り出す。
「いた……」
周る視界の中、ぼくは浅沼を捉えた。
頭がやっと動き出したぼくは、その姿を急いで追う。
(また見失ったか…………?)
そう、思った時、大通りのずっと先に白いフリルと、浅沼の姿を見つけた。
今度は巻かれないよう用心して、ぼくは人混みに紛れ走り寄り、二人の後ろを着かず離れずの距離から追い掛けた。
二人は、大通りを真っ直ぐ歩き、そこから小道に曲がり人通りの少ない道へとドンドン入って行く。
(一体、ドコに行くんだ……?)
二人は路地裏を進み、ほとんど人通りの無い建設途中のビルの方へと向かって行く。
ぼくは、物陰に隠れながら二人の様子をじっと見つめていた。
浅沼とロリータ女は、何やら親しげに話している。
女性には殊更目が無い浅沼の事だ、自分から声を掛けたにせよ、相手から声を掛けられたにせよ、その顔にはデレデレとした笑みが終始浮かんでいた。
運良く尾行には気付かれていないらしい。
ぼくは少しだけ二人との距離を詰めた。
すると、一瞬、女と目が合った。
女は、ぼくに笑いかける。
勘違いでは無い、それは、確実にこちらに向けられた微笑みだった。
(気付かれたか!?)
ぼくは、狼狽しつつ、側に停めてあったトラックの陰に見を隠した。
自分でも、鼓動がうるさい事はわかる。
すぐに一呼吸、ゆっくり吐いて気持ちを落ち着かせると、そっと物陰から様子を伺った。
(いない……)
二人の姿は、既に無かった。
尾行に気付かれて、巻かれてしまったのか。
それとも…………?
頭の中は、嫌な予感で一杯だ。
ぼくは、物陰から出て周辺をキョロキョロと観察しながら、二人の後ろ姿を探した。
だが、工事現場の入り口は固く閉ざされており、少し先の路地を抜ける道にも二人の姿を見つける事は出来なかった。
「……ドコ行ったんだ?」
そう呟いた瞬間、ぼくは、後頭部に激しい痛みを覚え、前に倒れ込んだ。
後ろから、思い切り何かで殴られた感覚。
意識が、段々と遠のいていく。
薄れゆく意識の中、最後にぼくに見えたのは黒いリボンの付いたエナメルの靴だった。
どのくらいの時間が経ったのか、ぼくは未だぼんやりとした意識の中で、なんとか必死に今の自分のおかれている状況を理解しようと、辺りの僅かな空気の感覚を探っていた。
うっすらと開けた瞳には、光は無く、暗闇しか映らない。
そして、何か鼻腔を突く嗅いだ事の無い、嘔吐感を呼ぶ不快な臭いがした。
それと共に、ぼくはさっき迄の記憶を整理し始める。
確か、浅沼と怪しげな女を追っていた筈だ。
しかし、二人を途中で見失い。更に、後ろから恐らく何者かに殴られ意識を失った。
最後に、犯人と思しき相手の足を見た所でぼくの記憶は飛んでいる。
恐らく、尾行していたぼくは誰かに襲われ、ココに連れて来られたというのが一番しっくり来る答えだ。
ふと、背中に誰かの気配を感じた。
僅かな息遣いと、暗闇の中で研ぎ澄まされたのか、皮膚にほんの少しだが、他人の体温の様なものを感じる。
「……誰かいるのか?」
ぼくは、恐る恐る暗闇に向かい尋ねてみる。
「そっ、その声は……り、良太郎か?」
聞き覚えのある声に、ぼくの中で微かな安心と、大きな疑問が沸き上がる。
「浅沼なのか? お前、どうしてこんな所にいるんだ?」
「それは、こっちのセリフだよ。良太郎こそ、何してんだよ? あっ! もしかして、お前もあのお姉さんに連いて来たのか?」
「お姉さん?」
「ああ、真っ白なフリフリのさ~、カナリの美人だったけど」
恐らく、浅沼が言っているのは、ぼくがファミレスで出会い、浅沼と一緒にいたアノ女の事だろう。
「お前、なんでアノ女と一緒にいたんだ?」
「いや~ なんか急にさ~、アノお姉さんの方から声掛けて来たんだよ、道を教えて欲しいってさ」
「道を教えるだけなら、口頭で伝えるだけでいいじゃないか? 一緒に歩く必要があるのか?」
「あっ? 見てたのか~? いや~、オレヒマだったから~良かったら連れて行きますよ~って言ったらむっちゃ喜ばれて、オレにもついにチャンスが来たのかと……」
つまり、浅沼はやっぱりただの下心だけで、見ず知らずの女性に連いて来た、ただのお調子者だったという事だ。
「つ~かさ~、ココどこだよ? すげぇくせーし……。お姉さんを案内してたら、急に後ろからなんか衝撃がして、気が付いたらココだったんだけど」
浅沼が、辺りを探っているのか、何やらもぞもぞと身じろぐ音がした。
「わからん。明かりが無いと出口も見えない……」
幸い縛られたりはしていない。
ただ床に直に座っている様だったので、ゆっくりと立ち上がり壁に手を付き周りを探る。
冷たい、コンクリートの感触が左右の手と背中に伝わって来るが、それ以外は何も見当たらない。
「あれ……? 良太郎、コレなんだ? 床になんかあるぞ?」
浅沼は、這いつくばって床を探索している様だ、彼の手が床にある何かに触れた。
「何だろうな? 冷たくて固い……うわっ! なんか濡れてるぞコレ!? 手に付いた!」
と、浅沼が言った瞬間。
辺りが白くなった。
部屋に電気が点されたのだ。
真っ暗だった視界に、その光は最早凶器の様で、なかなかまともに周囲を確認出来ない。
「ぅっ……うわぁああああああ────────!!」
浅沼の、絶叫が響く。
ぼくは、まだはっきりとしない視界の中、浅沼の姿を探して、視線を床に下ろした。
真っ赤だった──
床は、真っ赤に染められている。
所々、赤黒かったり鮮明な赤だったりと、色に統一性が無い。
そして、へたり込んだ姿の浅沼が、背中をぶるぶると震わせている。
「浅沼…………?」
ぼくの声に、ゆっくりと浅沼が振り返る。
「り、り、良太郎……こっ、コレ……コレコレコレ……」
唇が震え、歯がガチガチと音を起てている。
最初それはマネキンの様にも見えた。
浅沼の足元に無数のバラバラになった、人間の手や足や体のいろんな場所が落ちている。
しかし、それ以外にもピンクや黒いドロっとした臓物や眼球、半分割れた頭部から溢れ出る脳漿が見えた。
「ぅっ……おぇっ!!」
顔を蒼白にして、浅沼はその場で何度もえづいた。
胃の中は空なのか何も吐けずに、ただえづき続ける。
「浅沼、おい大丈夫か?」
様子を伺おうとすると突然目の前を影が覆い、そこからうずくまる浅沼に目掛けて黒いエナメル靴の蹴りが飛んで来た。
「ぅっ……ぐはっ!!」
浅沼は衝撃で後ろに体を反らし、そのまま倒れ込む。
「浅沼っ!!」
「ちょっと~!! アナタ、人の食べ物の上にナニ吐こうとしてるんですのっ!?」
黒エナメル靴の女は、腰に手をあてて不服そうに浅沼を見つめていた。
ぼくは浅沼の体を抱き起こし、ようやく慣れたこの空間を見回す。
赤い床、むせる臭い、そこら中に溢れる死体の数々。
そこに女がいた。
二人。
一人は、ゴスロリというのだろう。
黒いリボンとレースに彩られた黒のドレスに黒いエナメル靴。銀髪の髪を縦ロールにした、青白い顔の美人。
その後ろに、白いリボンとレースに彩られた、さっき会った金髪縦ロールの女が笑みを浮かべている。
「本当に、アノ方が教えて下さった通りですわ~。お友達思いなのね~」
(アノ方……? 誰だ? もしかして、
黒い女は、満足そうに微笑んでいた。
「お姉様~、ワタクシもう、お腹がペコペコですぅ~、早く食事に致しましょうよ~?」
白い女は、黒い方にねだる様にそう言った。
「ま~ったくしょうがないですわね~、もう少しおあずけ出来ないんですの~?」
「だって~、ワタクシ新鮮なお肉には最近ありつけて無かったんですもの~……。それに~、空腹は美容の大敵ですぅ」
「あらあら、それは大変。可愛い貴方の美貌が失われたら、アタクシも困ってしまうわ~」
二人はクスクスと笑いながら、真っ赤な床と死体の中で、まるでお茶会の如く談笑していた。
「お前ら
二人の会話を割って、疑問を投げつけた。
女達はピタリと会話を止め、ぼくらに視線を向ける。
「あらあら、お肉が構って欲しがっているわよ」
「うふふ、そんなに急かさなくとも、すぐに食べてあげますよぉ~」
ぼくの質問は無視され、二人はまた顔を見合わせてクスクス笑う。
「殺人鬼……なんだろ? お前ら……」
もう一度、ぼくは問い掛けてみた。すると、
「殺人鬼~? 可愛いくない呼び方ですのね~」
「こ~んなに可愛いらしいアタクシたちに向かって、殺人鬼だなんて呼び方! ナンセンスですわ~」
「違うのかよ!?」
「そうね~。ワタクシたちは殺人鬼というより……」
「食人鬼ですわ」
黒い方は、床にバラ撒かれている人間の物らしい内蔵の固まりを手に取ると、血の滴るそれをペろりと舐め上げた。
更に白い方は、恐らく女性だろうか、赤いマニキュアの塗られた肘からちぎれている腕を手に取ると、その人差し指を噛み切りグチャグチャと咀嚼しだしたのだ。
「ぅっ!!」
ぼくはその光景に思わず吐き気を感じ、口元を押さえた。
「あら、失礼しちゃぅ~。人の食事を見てえずくなんて~……」
白い女が、ぼくの様子を見て不機嫌そうにそう言うと、部屋の奥へ向かい何か機械の様な物を手にして来た。細く白い両手では、支える事がやっとにすら見える。
「さぁ~! それじゃあ~お料理しましょ~……」
機械が激しい音を響かせ、取り付けられた刃が回転し出す。
白いロリータ服の女は、電動ノコギリを持っていた。
「そうですわね~、アタクシもお手伝い致しますわよ~」
黒いゴスロリ服の方が床に金属の引きずる音をさせながら、大きなハサミを引いて白ロリータの後ろに立った。
「あ~、お料理の前に教えてあげますわ~。アタクシ達は、
二人は揃って片手でスカートを摘み、お辞儀をした。
まるで、何かの発表会、もしくはこれから楽しい演目でも始まるのかと、錯覚してしまいそうだ。
(どうする? 戦うべきか……?)
いや、相手は殺し慣れている、しかも二人だ。浅沼は助けにはならない、ぼく一人でどうにかなる相手とは思えない。
ぼくは浅沼を立ちあがらせ、ともかく逃げ道を探った。
床は赤い。
血と肉にまみれている。
けれど壁はどこまでも無機質な、灰色のコンクリート。
配管のパイプがぐねぐねと天井に張り巡らされている。
よく見ると、錆びた梯子が、壁に取り付けられていた。
上には細い通路、その先には……ココからではよくわからない。
けど、逃げ道はそこしか無さそうだ。
ぼくは、浅沼に耳打ちした。
「あそこから逃げるぞ」
しかし、その為には女達を何かしらで引き付け、隙を作らなければならない。
辺りには、残念ながら引きつけられそうな物は無い。
ポケットの中を探る、携帯とガム、役立ちそうな物は無い。
武器を想像するか? 思考を巡らせる。
いや、まだ何かある……。
手に触れたそれは、ゴムで出来たアレだった。
アゲハのお気に入りの、人から嫌われるアノ虫の玩具。
勿論、武器にはならないが、相手は女だ普通なら嫌悪するだろう。
一瞬だけ気を逸らすくらいなら、使えるかもしれない。
まぁ、あくまで相手が普通だったらだが……。
「……なぁ、ココ、スゲー臭いな? こんなんじゃ虫が沸くだろ?」
ぼくは女たちに向かってそう問い掛けた。
「はぁ~っ? 何言ってるんですの? ココは私たちが造り上げた高層階の砦、バベルの塔。完全に閉鎖していて、血の一滴、僅かな臭いも逃げられませんのよ? 勿論、貴方達もですけど~」
「その通りですわ。出れないって事は、入れもしませんわ。それに死体に虫がたかる前にワタクシ達が全て食べてしまいますもの~」
「そうか……。でもな、死ぬ前に教えてやるが、ゴキブリは高層階だろうが飛んで来るし、1ミリの隙間からでも入って来れるんだぞ?」
「ご心配無く、そんな物がワタクシ達の神聖な食事の場に入って来るなんて事、絶対にありませんわ」
「じゃあ、コイツは何だ?」
ぼくは、ゴキブリの玩具を投げ付けた。
「ひっ!!」
上手い具合に、ゴム製ゴキブリは白いロリータの真っ白な靴の上に着地した。
「ぃっ、いゃあっ!! 気持ち悪い虫がぁー!」
女二人は思ったより動揺し、虫の出現にパニックになった.
「浅沼っ!!」
「ぁっ? ……おっ、おぉっ!」
ぼく達は走り出した、余程、虫が嫌いらしい。
未だパニック中の殺人鬼二人の後ろを走り抜け、壁に取り付けられた錆びた梯子を懸命に登って行く。
「よし、コッチだ」
梯子を登ると中二階の様な通路の先に、真っ暗で先を伺う事の出来ない入口が見える。
どこに続いているかは皆目見当も付かないが、今は、そこに向かうしか無かった。
「お姉さま!! お肉が逃げてしまいますぅ~!!」
「大丈夫よ、ココから出られる訳が無いんだから……ゆっくりお肉を熟成させましょう」
一瞬、振り向いたぼくは、意味有り気に微笑んでいる殺人鬼の顔を見た。
二人は、ぼく達を追いかける事は無く、ただ見送っている様だった。
「ココまで……来れば、大丈夫じゃ……ないか? 追っかけても……来てねーみた……いだしさ?」
浅沼が息を切らし、ゼーゼーと背中を慌ただしく動かす。
「いや、わからない。まだ、脱出出来たワケじゃないし……」
ぼく達は、暗い通路をただただ走って、途中にあった階段や梯子をひたすら降りて出口を探していた。
まるで迷路だ、行けども行けどもただグルグルと回っている感覚がする。
確か、アノ女達の片方がココは高層階だと言っていた。という事は、下に降りる事が得策な気がする。
「ともかく、降りれるとこまで降りよう」
「えぇ~っ!? マジかよ!? まだ降りんのか~?」
「食われたいのか?」
ぼくの言葉に、浅沼の顔が強張る。
「ほら、行くぞ」
ぼく達はまた階段を見つけ、降りて行った。
「なぁ、良太郎。さっきのアイツらの事知ってるのか?」
「いや、知らない。初めて会った」
「でもさっき、お前なんか言ってたろ? えっと……メシ……? なんとかってさ~、何なんだよそれ?」
浅沼は立ち止まり、ぼくに疑問の目を向ける。
「あぁっ……それは……」
正直、浅沼を巻き込みたくは無かった。
ぼくは、元々友達も少ない。気を使わずに腹を割って話せるヤツなんて、浅沼ぐらいだ。
例え今は実在ではない存在でも、そんな友達をこのなんだかわからない殺し合いに参加させたく無い。
いや、もう片足を突っ込んでしまっている事は否めないのだが、どう答える事が正しいのか、ぼくは逡巡していた。
「はぁっ……。たくっ、お前ってそういうトコあるよな?」
浅沼は、やや苦笑気味に言った。
「なんつーか、変なトコ水臭いつーかさ、迷惑かけない様にしてるからなのかしんねーけど、急に余所よそしくなるつーか……。なんか……、スゲー距離置かれた感がハンパねーの。友達なのにさ」
「……悪い」
「いやっ、別にそんな謝る事でもねーけど……。ちょっとは信用してくれよ?」
「信用は……してる。ただ、面倒な事に巻き込みたくない、それだけだ……」
「もう結構、巻き込まれてるみたいだが?」
「……すまん」
「だから、謝んなよ! まっ、話したくないならしゃーねーよな!」
ぼくは、何も答えられなかった。
「良太郎の秘密主義は、今に始まった事じゃねーしな? いいよ、追求はせん!」
「浅沼……」
「まっ、いつか話したくなったか、話せる時が来たら話せや。それまでは何も聞かん!」
浅沼は、ニカッと歯を見せて笑うと気にした様子も見せずに、先に階段を降りて行った。
一体、ドコまで降りたのだろう。
もしかして、地下まで来てしまったのではないか。
そんな不安を感じ始めた。
しかし、階段をどんなに降りても、まるで永遠の様にそれは続き。
今はもう、どちらが上か下かの感覚も薄れて来ている。
「はぁ~っ……なぁっ? コレってホントに出口あんのか?」
「出口がなけりゃ入口も無いだろ、入って来れないじゃないか」
「え~っ、いや入口はあっても出口が無いとか?」
「…………じゃあ、入口は見たのか?」
「見て無いけども」
「……いいから先に進め」
「わかったよ~……」
それからしばらくまた階段を降りて行くとそこに、今までとは明らかに違う壁があった。
ドアノブもハンドルも何も無いが、明らかに色も材質も違うその部分は、扉と呼ぶ形状をしている。
「出口か!?」
「いや、わからんがココしかなさそうだ……」
ぼくは、そっとその扉らしき部分を押してみた。
だが、それぐらいの力では開きそうもない。
仕方無く、今度は全体重をかけて扉を押す。すると、ゆっくりと鉄製らしい重い扉は、内側に押し開かれた。
「真っ暗だな……」
中を覗くと一切の光は無く、暗闇だけが充満している。
開いた扉からの一筋の明かりだけが部屋を照らしていたが、生憎何も見えない。
一歩、踏み出してみた。
ひんやりとした冷気が体に纏わり付くだけで、さっきの部屋の様な匂いも全くしない、無機質なコンクリートの匂いだけだ。
ぼく達は、中へとゆっくり入って行った。
人のいる気配も特には無い。
「なぁ、真っ暗で何も見えないぞ? 良太郎」
「ああ、とりあえず壁を見つけよう」
足や手を使い、ぼく達はまた暗闇の中を探った。
ぼくの手にスイッチみたいな感触があり少し迷いはしたが、思い切ってそれを押してみる。
天井が明滅した、どうやら正解だったみたいだ。
ぼくの押したスイッチは、一気に殺風景なコンクリートの部屋を照らし出す光を呼んだ。
「なんだココ?」
浅沼が、部屋の中をキョロキョロと見回した。
部屋は円形というのだろうか、筒状に壁を作り、打ちっぱなしのコンクリートと鉄冊がぼくらを取り囲んでいた。
「出口は無いのか?」
ぼくらは、手探りで再度扉を探す。
すると、ズズズズズっ……という音が辺りに響き、周りの壁が動き出した。
「なんだこれ……部屋が動いてる……」
まるで生き物のように、部屋の中が蠢いている。
「見~つけたぁ~」
不意に、背後から声がした。
もう追いつかれたか……。
声の主は、勿論わかっている。
振り向くと、白と黒のフランス人形が、服装とは掛け離れた電ノコと大バサミを持っている。
「鬼ごっこは、もうおしま~い!」
白い女が、含み笑いを浮かべている。
「このバベルの塔は、私たちの想像の産物なの~」
「エッシャーってご存じかしら? だまし絵で有名な、ここは彼の作品を再現した空間。錯覚を作って、入り口も出口も無い空間を作ってますのよ」
「そう、私たちが想像しなければ、ココには入り口も出口もないの~うふふ」
つまり、逃げるだけ無駄だったという事か……。
「貴方には、大事な役割がありますのよ? それまで良いコにしていて下さいまし」
黒い女が、満面の笑みをぼくに向ける。
「しかし、面倒です~……貴方を釣る為に餌を用意して、その貴方もアイツを釣るための餌なんですから~」
ぼくを見つめる白い女が、やれやれと嘆息しながら言った。
「アイツ……?」
「貴方がよ~く知ってる」
「アノ女[デビルズ・ハート]ですわよ」
「何のために!?」
「もっちろん!」
「食べる為ですわ」
ぼくは、状況をようやく理解した。
ぼくは、囮だ。
遊安を誘い出す為の、最初から狙いは遊安だった。
でも、それなら……。
「どうして、何でわざわざぼくを囮にした!? 遊安が狙いならもっと、こんな遠回しに誘う意味があるのか?」
女は二人、お互いの顔を見合わせる。
「意味~? そうね~、この方が楽しいもの」
「ただ普通に殺したって、面白くないですわ~」
(コイツら……、本当にゲーム感覚で人殺ししてるのか……)
「わたくし達は特別ですの。アノ方だって、わたくし達により素晴らしい殺人を求めているはずですわ」
「もし、もしアイツが来なかったらどうするんだよ?」
「来ますわよ。その為に、ワザワザこのステキな要塞ともいえる塔に入り口を特別に作っておいたんですもの」
「来るにきまってる~じゃな~い。わかりやす~く扉を開いてあげたんだもん」
その確証が、何を持ってのモノなのかわからない。
だが、それはまるで当然とも言えるほどに、確信に満ちた答えだった。
「エサも入り口も完璧~、そろそろ来る頃なんじゃないかしら~?」
「でも、その前に~、こちらのお友達は食べてもいいんじゃな~い? お姉様~」
「そうね、こっちはとくに必要ないものね……」
二人の女がぼくたちへ近づいて来た。
「アナタは邪魔~……」
白い女の蹴りが、ぼくの腹に重い衝撃を与えてくる。
「グフッ……」
とても女の力とは思えない、ぼくは一瞬、呼吸すら困難になりその場にへたりこんだ。
「うふふ、心配しなくてもアナタも後で食べてあげますわよ~」
「お姉さま~お先にどうぞ~」
「あらいいの?」
「私はアイツを食べる為にお腹を空かせておきたいから~」
「そう、じゃあ、ワタクシは前菜を頂きますわ」
黒い女が、鈍色の鋏を浅沼へと向けていた。
「ど・こ・か・ら・食べようかしら~」
「ひっ……助け……」
浅沼の前髪を女は掴み、その顔を上げさせる。
女の手の鋏はいつの間にか、普通の鋏より一回りほど大きい肉切りハサミになっており、浅沼はその先端を眼前に突きつけられていた。
「まずは~……」
鋏が顔から下へと下りていく、そして下唇でその刃先が止まった。
「ここから~……」
浅沼の下唇に、ハサミがあてがわれる。
「ひっ! たすけて……」
「あっ、浅沼……」
腹の痛みを押さえて、ぼくは起き上がろうと必死だった。
「ダメよ~ちゃ~んと見てなさい」
けれど思い切りぼくの頭は、白い女のヒールで踏みつけられ、身動きが取れない。
「ここ柔らかくておいしいのよ~」
女は、握るハサミに力を入れた。
「まずは、右端から~」
ブッツ!
「ぎゃぁぁっぁぁぁぁあ────!!」
浅沼の悲鳴が響く。
コンクリートの壁に反響して、その声はまさに断末魔の叫びだ。
「ほら~、暴れないの~? 今度は反対側ですわよ」
(何してるんだぼくは!? 戦わなきゃ……武器を、武器を……)
懸命に頭の中に武器を考える。
けれど、ダメだ。
何も思い浮かんで来ない。
冷静に思考が出来ないのだ。
浅沼が殺される!
助けなきゃ!
焦れば焦るほど、何も考えられない。
マンガや小説の主人公みたいに、的確な判断が出来ない。
そう、あの時と、あの時と同じ──
アノ……トキ?
「じゃあ、次は左端ですわね……」
ぼくは……やはり何も出来ないのか……?
「……やっ、ヤメロ!!」
ガシャン────!!
ぼくの叫びと同時に、鉄の扉が勢いよく開かれる音が響いた。
上を見上げると、扉はぼくらのいる場所から、頭上5mほど高い所にあり、スロープや梯子等コチラに降りて来れる設備は何も無い。
空中に浮いた扉の中から遊安の姿が見えた。
「もう~、遅いわよ~! 待ちくたびれてお腹がペコペコ~」
女の抗議にも遊安は無表情だ。
軽々とその場からジャンプして、ぼく達の前に飛び降りた。
そうして、何故かぼくに向かって歩いて来ると、いきなり勢い良く頬を平手打ちした。
「なっ、なにすんだよ!? いきなり!?」
「……人の気持ちも知らないで、君は何故勝手に行動する!?」
声を荒げ、カナリ動揺して見える。
その剣幕に圧倒され、ぼくは口篭った。
「ち、ちょっとちょっと~! ワタクシ達を無視して痴話喧嘩なんて、良い度胸ですわ~」
「そっ、そうよそうよっ! 失礼じゃない~? せっかく特別にご招待してあげたのに!」
無視されてプライドを傷つけられた双子は、大層御立腹な様子で顔を引き攣らせながら遊安に憤慨している。
「……うるさい」
遊安は、俯いたままで表情は見えないが、その一言には冷たく重い今までに見た事の無い様な、怒りとも悲しみにも取れる感情が表れていた。
「ふっ、いいですわよ! 先にコチラの方を料理しようと思ってましたけど、まずは[デビルズ・ハート]!! アナタから料理してあげますわっ!!」
黒い女が浅沼を解放し、その体を人形みたいに放り投げた。
ぼくはすぐに駆け寄り、倒れ込む浅沼を抱き起こす。
「おいっ! しっかりしろ!」
切断された唇からは大量の血が流れている。
「これ、使って……」
遊安は、制服のスカーフを外し、ぼくに手渡した。
ぼくはそのスカーフで浅沼の唇を押さえつける。
その時──
相変わらず双子の殺人鬼に背を向けたままの遊安に、苛立ちを覚えた黒い女が大バサミを振りかぶり遊安に襲い掛かる。
「遊安っ!?」
しかし、遊安はそちらに振り向く事もせず、ただジッと顔も上げる事無く佇んでいた。
「おいっ!?」
ぼくは、自然に彼女を助け様と体が動いていた。
だがしかし、ぼくよりも数秒早いスピードで相手を見る事も無く、遊安はいつの間にか手にしていたメスを黒い女に向け的確に投げた。
「はっ!? ぐふっ!!」
メスは三本。
女を貫き、眉間・首の中央・胸に見事に刺さった。
鮮血が、青白い肌に伝わりそのまま、黒い女は膝を折る形で床に突っ伏す。
「このっ……クソ野郎~~~~っ……よくもよくもよくもよくもよくも……ぉねぇさまぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
血の水溜まりの中で倒れている黒い女を見ていた白い女は目を見開き、憎悪に満ちた表情で遊安を睨みつけている。
憎しみの限界に達すると、人間の顔は最早原形を留め無くなる様だ。
もう、女はそこにはいない、鬼と化した本物の殺人鬼がそこにはいた。
「ぉっ、ぉまえはっ、絶対許さないっ!! 一番残酷に、一番惨たらしく死ね!!そして、食う食う食う食う食う食う食う食う食うっ……食い尽くしてやるぅぅぅぅっ!!」
白い女が電ノコを手にし、けたたましい音を響かせる。
遊安が女の方を向くと、まるでそれが合図かの様に二人は同時に相手へ向かい走り出した。
さほど距離は無かったので、すぐに至近距離まで接近する。
白い女が電ノコを振りかぶり、見事な跳躍力でその場で飛び上がった。
遊安は、メスを構えて下で防御姿勢を取る。
電ノコとメスがぶつかり合い、金色の火花が散った。
「そんなモノで、ワタシの攻撃が防ぎ切れると思うなんて~っ……心外ね!!」
白い女が飛び退いて後退した。
二人はまた少し距離を取り、お互いの動きを探り合う。
「り、良太……郎? あっ、アレ遊安さん……? だよなっ……」
あまりの突飛な一連の出来事に、唇を押さえた浅沼が、痛みを堪えてぼくの腕をグっと掴みながら小声で囁いた。
「ぁあっ……。ちょっと色々ワケありなんだ……」
「そ……れも……話せない……事か?」
浅沼は青ざめた表情をしながら、苦笑気味にぼくに聞いた。
「いやっ、後で話すよ……でも、今は」
何とか、浅沼だけでもここから脱出させる事が出来ないか?
そっちが、ぼくには先決だと思った。
けれど生憎、この場所の脱出出来そうな所は、遊安の飛び降りたあの宙に浮く扉だけの様だ。
「……ぁっ……ぁのっ……」
困り果てているぼくの耳に、微かにだがドコかで聞き覚えのある声が聞こえて来た。
「ぁのぅっ…………」
思わず、声がする方を見上げる。
「助け……ます…………」
上から、顔を半分覗かせ辺りをおっかなびっくり伺うアゲハが、小さな声でそう言った。
「知り合い……か?」
浅沼が、怪訝な顔でぼくを見つめる。
「スマン、後で話すから……」
遊安と白い女は、一向に両者引かず接戦といった所か、互いに傷一つ付けられずにいる様だった。
「さすが、リアルでも殺人鬼だっただけあるわね、[ハンプティ]」
「あら~知ってたの? そうよ、ワタクシはリアルでもこちらでも、殺人鬼ですのよ?」
女がニヤリと歪んだ笑みを浮かべるのが見えた。
「アゲハ! 何か梯子みたいな物はその辺にあるか? あったらそれを下ろしてくれ!」
「……ぁっ……あの……ごめんなさい……なぃみたいです……」
アゲハはキョロキョロとしながら、相変わらずのおどおどした調子で答えた。
(ロープならぼくの想像で出せそうだ……いやでも)
よくよく考えてみれば小さな子供の力では、ロープでぼくらを引き上げるなんて事出来るワケが無い。
「クソっ……何か使えそうな……」
(考えろ! 考えろ!)
「あっ! …………ぁのぅっ……ちょっと……待っていて……下さい……」
言い残し、アゲハの姿は消えた。
少しするとアゲハのいた場所から何やら黒い小さなモノが、ゆっくりと壁を伝って落ちて来る。
「何だ?」
目を懲らすと、それは蟻だった。
そう思った瞬間、黒い点だった蟻はまるで黒い大きなカーテンでも、そこに拡げた様に上からぼくらのいる場所までを一気に黒く染めあげる。
「アリ……さん……たちが……持ち上げて……くれます……」
「ひっ!? ひぇっ!! なっ……なんだよコレ……」
浅沼は、あまりの事にパニックになり、壁際に背中を押し当てながらなんとか蟻に触れ無い様にしている。
「大丈夫だ浅沼! アゲハ、先にコイツから頼む!!」
ぼくの言葉にアゲハは頷き、黒い大群は一斉に浅沼の方へと進む。
「だっ、大丈夫って…… マジ……か?」
最早、観念した浅沼はギュッと目をつぶり、両手を合わせ神に祈りを捧げながら、蟻の大群にゆっくりとだが確実に上へ押し上げて貰っていた。
黒い強固な柱にすら見える、凄まじい数の大群の蟻達は、確かに人間一人を持ち上げていた。
「よし、浅沼! そこからなら手が届くぞ!」
「……なっ!? すっ、スゲー……な……コレ……」
浅沼の体は、アゲハのいる場所のすぐ側まで持ち上げられていた。
後は、自力で手を伸ばし這い上がった方が早いだろう。縁に手を掛け、浅沼はアゲハのいる場所へとなんとか移動する事が出来た。
「……つぎは……良太郎だ、早く……」
「あぁっ」
浅沼を無事送り届けた蟻達が、ザワザワとぼくの足元に集まり始めた。
ぼくの体はゆっくりと、少しずつ上昇を始める。
上では浅沼がぼくに手を伸ばしている。
段々と、体が上へ持ち上げられていたその時――
突然、ガクンとぼくの体は重くなった。
左足が下へと引っ張られる感覚。誰かがぼくの足を掴んでいる。
「……お前っ!? まだ生きて…………!?」
振り返ったぼくは、足を掴んでいた奴の姿を凝視した。
額に刺さったメスからは、幾重にも深紅の筋が出来、血が流れている。
「……ゆっ……許さないっ……ワタクシの……美しい顔に……傷を付けるなんてぇぇぇぇぇぇぇ──っ!!……」
女の咆哮が響いた。
遊安に刺されたメスを胸から抜いた黒ゴスは、ぼくの足を思い切り引っ張り、引きずり落とす。
そうして左腕をぼくの首に巻き付け、抜いたメスをぼくの頸動脈に押し当てた。
「ほら~……、ご覧なさい? アナタの大切な人~、今からワタクシが……ズタズタにして……差し上げますわ~?」
「…………良太郎!?」
女の挑発に遊安の動きが一瞬止まった。
その刹那、白ロリが遊安目掛け振り下ろした電ノコが、遊安の腕を掠め、裂けた制服の袖から見える白い肌から鮮血が飛び散る。
「遊安っ!?」
遊安は負傷した腕を押さえ、後退った。
「あらら~。残念~、もう少しで腕が綺麗に切断出来たのに~」
電ノコが、耳障りな唸りを響かせる。
幸い、腕は切り離されずにすんだ様だ。
だが、傷がカナリ深いのか、大量の血がその腕を伝い床へ流れていく。
「ほら~大人しく観念なさいな~……? この方がどうなっても……良いのかしら~?」
だが、遊安の心配をする間も無く、ぼくの首はぎりぎりと黒ゴスの腕に絞められていく。
冷たく鋭いメスの感触が首筋に伝わり、意識は遠退きそうだ。
「ぼくの……事はいい……遊安……!!」
それでも必死にぼくは、遊安に向かい叫ぶ。
「………………」
じっと、ぼくを見つめていた遊安は、無言でメスを捨てた。
「何……やっ……てんだよっ!?」
ぼくの抗議も、聞こえないのか遊安は俯いたまま、その場から動こうとしない。
「あらあら~。そうそう~、女の子はそれくらい素直じゃなきゃね~?」
白い女がジリジリと電ノコを唸らせながら、遊安に近づいていく。
「おいっ! ……何……やってんだよ!? ぼくの事はいい……から! お前なら……コイツらなんか、すぐに……」
しかし、遊安はぴくりとも動かない。
「アハハハハ……!! 無理よ無理無理~、コイツがあんたを見殺しになんて出来るワケが無いじゃな~い?」
電ノコの不快な音に合わせ、白い女が言う。
「そうですわよ、アノ方が言ってたもの~。ソイツの存在理由~、ソイツはね~あんたの為だけにこの世界に来たんですって~」
黒い女は、ぼくの首をしっかりホールドしたまま、歌う様にそう言った。
首に巻き付く腕の力が、段々と強くなり、キリキリと締め上げられてゆく。
そんな中、ぼくは、意識が遠退く感覚に襲われていた。
けれども二人の言う、『遊安がぼくを見捨てられない、ぼくの為にココへ来た』という話しにぼくの頭は一杯になり、その真意を知りたいという感情が何とか意識を保たせた。
「……ど……ういうっ……意味だ……?」
「あら~、本当に知らないんですわね~? 可哀相に~、いいんですの~? 死ぬ前に真実をこの方に教えてあげなくて~?」
遊安が、ぼくの方をじっと見つめていた。
「言う事を聞く、だから良太郎にはそれ以上手を出すな」
「……ふ~ん、ですって! それじゃあ、予定通りソイツを調理しちゃいなさい」
「は~い! お姉様~っ」
電ノコの歯が、微動だにしない遊安のスカートから出た太腿を掠め、腿には赤い筋が浮かび上がる。
「さぁ~、こっからが本番よ~」
楽しそうな白い女が、電ノコをけたたましく響かせ、遊安は迫り来る凶器の恐怖に、目を固く閉じて顔を背けた。
ぼくは…………また、何も出来ないのか?
浅沼の事だって、本来ならこれ以上遊安に迷惑を掛けたくなかったから、ぼくは敢えて一人で行動した。
それなのに、結果的にぼくは遊安に助けられる所か、遊安を死へ追いやろうとしている。
武器を想像すれば、ぼくだって戦えるそれなのに……。
こんな時になると、何も浮かんで来ない。
武器、凶器、人を殺せるもの、なんで?
わからない、人を殺す?
なぜ?
どうして?
ぼくは……ぼくは……、
「クソっ!!」
ぼくは、後ろにいる黒い女の足を力強く踏み付け、それと同時に上半身を目一杯後ろに倒し、頭突きを食らわせた。
足を踏まれた女は痛みに思わず顔を下に向け、そこに、ぼくの頭突きが見事顔面に的中した。
鼻からは、ボタボタと血が垂れている。
その隙に、ぼくは黒い女の腕から逃げ出した。
「今だ!! 遊安!!」
ぼくの声に気付いた遊安は、即座に後ろに飛び上がると、切り裂かれたスカートの隙間から、素早くメスを取り出して、白い女との距離を取り、瞬時にそいつを投げた。
「くはっ!!」
メスは的確に、白いドレスの胸と腹に刺さり、見る間にそこにはまるで、鮮血の真っ赤な薔薇が咲いたかに見えた。
白い女は、そのまま崩れる様に膝を付いて倒れ込む。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ────────────────!! 許さないっ! 絶対にぃぃぃぃぃぃぃぃぃ────────っ!!」
ぼくは、再度背後から思い切り首を絞め付けられた。
その力は、さっきとは比べモノにならない。
ミシミシと音を立て、今にも骨が砕けそうだ。
「許さないっ……絶対に!! こんな屈辱ぅぅぅ~~~~っ……」
顔を血で染めた黒い女に、ぼくは再度首を絞められていた。
女の持つハサミの冷たい刃先が、ピタリとぼくの顔に触れている。
「仕方ないですわ~……こいつからまず殺してあげますわね~?」
「止めろ! 殺すなら私を殺せ!! 良太郎には手を出すな!!」
遊安が、必死の形相で叫んでいた。
(意識が……)
首筋に巻かれた腕の力が更に強くなり、ぼくの意識は薄れていきそうだ。
目の前には、ぼくを見て呆然と立ち尽くす遊安がいる。
「ぼく……の事は……いいからっ!! 遊安……」
ぼくは、なんとか声を出そうと必死になって、途切れ途切れに叫んだ。
しかし、彼女は首を横に振る。
黒い女がぼくを盾にした体勢でいるから、遊安もメスを投げる事に躊躇しているのだろう。
けれど、ぼくは本当にこれ以上は、遊安の重荷になりたくなかった。
「早く……お前……なら出来るだろ!?」
しかし、遊安は床に持っていたメスを落とし降伏の態度を示す。
「なんっ……で……だょっ……?」
「アハハハハ……! 実に美しいですわね~愛ですわ~、いくら腕の立つ貴方でも、手元が狂って愛しい人を傷付けたくはないですものね~?」
「良太郎を離せ」
「あら~? 離したらワタクシを殺す気でしょ~?」
「……なら、どうすればいい?」
「そうですわね~……あぁ、そのメスで自殺して貰うのはどうかしら~?」
「なっ……!? 止め……ろ! 遊安」
「ちょっと、うるさいですわよ!?」
黒い女はぼくの首をキツく締め上げた、息が出来ない。
「私が、死んだら良太郎は助かるのか?」
「元々、こいつにはワタクシ興味ありませんでしたし~。貴方を食べられたらそれで……」
舌舐めずりをしながら、黒い女はぼくを解放した。
床に叩き付けられた俯せ状態のぼくの頭を、ぐりぐりとハイヒールが踏み付けている。
「わかった」
ぼくが、顔を上げると遊安は床にぺたりと座り込み、自分で落としたメスを拾い上げると、自らの首筋に突き立てた。
「やめ……止めろ……!! 遊安っ!!」
「うるさいですわよ~? ほらっ、自分の為に死ぬ者の最後を見なさいな、ぜ~ん
ぶっ無力な貴方のせいよ?」
ぼくは髪を捕まれ、無理矢理顔を上げさせられた。
「ご機嫌よう……[デビルズ・ハート]」
遊安の白い首筋に、銀色の鋭い刃先が食い込もうとした。
「ザワザワザワザワ…………」
ぼくの耳に耳触りなしかし、何処かで聞き覚えのある音が届いた。
無数の何かが、ぼくの体の上を飛んでいく。黒い大群。
「キャ────────!!」
黒い女がいきなり悲鳴を上げた。
見覚えのあるその光景に、ぼくは驚愕する。
何度見たって、この光景に慣れる事は無いだろう、黒い沢山の蟲の群。
それは無数の蠅だった──
「ぎゃあぁぁぁぁ────────!!」
まだ息のある白い女は胸を押さえ床に這いつくばりながら、必死になって投げ出された電ノコに手を伸ばそうとしていた。
すると、その伸ばした指先に一匹の蝿が止まった。
「ナニよ……コレ……」
蝿は、顔や頭へ次々と数を増やしやがて──
蝿の止まった部分は一瞬でブクブクと腫れ上がり、更にそこから大量の蛆虫たちが溢れ出したのだ。
「良太郎、コッチへ」
様子を見ていた遊安が立ち上がってぼくの方へと歩み寄り、ぼくは差し延べられた遊安の手を取った。
「いゃぁぁぁ──────────────!! だずげてぇぇぇぇぇ……っ」
黒い虫達は物凄い勢いで女たちの体を覆い尽くし、口の中や耳の中、体中のあらゆる穴へゾロゾロと入っていく。
まるで女達の体に黒い影が飲み込まれていく様だ。
ふと、見上げれば、アゲハがコチラを見下ろしていた。
「お前が呼んだのか?」
「ひっ! ……ごめ……んなさいっ……」
すぐに壁の影に姿を隠す。
「いや……、礼を言いたかっただけなんだが……」
ドサリと重たい音がして、最早人間の形の黒い塊となったモノは、声も無く床に倒れた。
隙間から少しだけ見えた、白い手がビクビクと痙攣している。
よくよく目をこらして見ると、指先から無数のウジ虫が沸いていた。
「あのこたちは……螺旋蛆蠅です……ひ、ヒトに卵を産みつけて……孵化したらその生き物を餌にするから……」
「……虫嫌いにはたまらない最後だな」
ぼくは、それを見つめて呟いた。
「行こう、出口はコッチ」
アゲハの助け(正確に言えば、アゲハの虫達の助け)を借り、ぼくらはなんとか塔から出る事が出来た。
「バベルの塔……」
振り返り見たそれは、昔どこかで見ただまし絵そのものだった。
「早く、ここを離れましょう」
塔から少し離れた場所で、ぼくはどうしても気になって後ろを振り返ると、いくつもの白いバンと防護服のヤツらの姿がまた見えた気がした。
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