ソドム





ぼくの住むこの国は、平和だ。

 

平和を絵に描いた様な静かな街と穏やかな人々。


何も危険な事は無い様に見える。

 

この国の首都であるココ東京にだって、これだけの人間がいるにも関わらず、争いに巻き込まれる事や遭遇する事は、他の大多数の国に比べれば極めて低い。

 


一見、平和。


平和を装ったそんな街。


ぼくはふと、巨大なスクランブル交差点の真上に燦然と輝く、電光掲示板に目をやった。



BC 2055 0506


西暦と日付。

 


そうだった。今日は祝日なんだ。


ぼくは、自分が今日は学校の制服ではない、ジーンズにパーカーの私服だった事を思い返した。

普段のぼくは、高校生だ。


毎日学校と自宅を往復するなんの変哲も無い、普遍的な生活を繰り返し繰り返し、時間通りにこなしている。


そんな日々を送るうち、曜日や日付なんてモノを明確に意識する事もなくなって来た。

 


今日は祝日。


 

ぼくはもう一度、心の中で呟いた。


それにしても、この街には人通りが少ない。


ぼくが今いる渋谷という街は、昔はカナリの繁華街で平日でも人でごった返し、土日や祝日にはそれこそ歩道で人が見えなくなるほど混んでいたと学校のテキストで読んだ。

 

現在では、ほとんどの店がシャッターを閉め、お世辞にもガラが良いとは言えない奴らが違法薬物や違法データなんかを売り買いする、マーケットと成り果てている。


「なぁ、兄ちゃん……[ハイパー・ドラッガー]か?」


キョロキョロと辺りを見渡していたぼくに、若い金髪の男が後ろから声をかけて来た。


「……あっ、その……」


「ウチは値段も今ならサービスするよ、どう?」


 ぼくは、思い切って男に尋ねてみる事にする。


「…………『ソドム』は……ありますか?」


「あぁん? 兄ちゃん、悪趣味だな~……あんなんより、良いのがあるって~ほら、この[エデン]一度行ったらもうリアルなんてなくてもいいってなるから~」


「ソドムが……欲しいんだ……」


そうぼくが呟くと、金髪の男はあからさまに顔を不快に歪めていた。

 

ぼくが、わざわざこんな街まで来た理由。

 

それは違法電子ドラッグ[ハイパー・ドラッガー]を買う為だ。


[ハイパー・ドラッガー]は自分の脳内の疑似世界で、違法な遊びを自由に体感出来る電子機器。


そっちの世界に行ったきりリアルに帰ってこれなくなることや常習性が高い事から、大麻や覚醒剤と

同じドラッグと位置づけられている。


幾つか趣向の違った種類があり、その中でも性的な体感が出来る[エデン]は人気だ。


そこでは、強姦・輪姦・小児性愛なんでもあり。欲望のままに楽しめる。


それで性犯罪も減っているのだから政府も[ハイパー・ドラッガー]にもう少し慣用になればいいと思う。


けれど、ぼくが欲しいのはそれでは無い。


「はぁ~、あんなんの何が良いんだかね、アッチの男が確か持ってたよ」


金髪の男が親指で、ビルとビルの間の影に紛れ込む様に立っている初老の男を指して言った。

 

ぼくが、軽く会釈しながら礼を言うと、


「そっちに飽きたら、コッチも試してみな~」


金髪がぼくの背中に、そう声をかけた。

 

見上げれば曇天の空が、終わりなく広がっている。

 

灰色のコンクリートの道と同じ色をした無機質なビル群、大分老朽化しているその建物たちはいまにも崩れてきそうで不安を煽った。


そんなグレーの世界で、妙に色鮮やかな旧式の自動販売機だけが明滅している。


しゃがみこむ男は、そこだけがまるで別次元のように影を作っていて ぼくは、戸惑いながらもその男に声をかけてみた。


「あの……ソドムは……ありますか?」

 

 まるで影と同化しているかの様な全身黒ずくめの初老の男は、ぼくをチラリと一瞥し、


「返品は出来ない」


そして、耳障りなしゃがれ声でぼくを見定めながら呟いた。


「……いくらなんですか?」

 

相場がわからなかったので、地道にこずかいやら昼飯代を貯めていたのを念のため全額リアルマネーで持って来た。


違法な商品なので電子マネーが使えるとは思えなかったからだ。しかし、それで足りるかどうかはわからない。


「返品は受け付け無い、何かあっても自己責任だ」


質問の答えはちぐはぐで、ぼくはただ頷くだけ頷いた。


「あの、ぼく、あまりお金を持って無いんですが……」


全額といっても、学生の貯金なんてたかがしれている。


バカ高い値段をふっかけられる可能性も考慮して、ぼくは男に予防線を張っておいた。


「返品は出来ない。自己責任だ」


また、同じ答え。


金額についての話は、やはりなかなか出て来ない。


「わかりました。それで──」



ぼくがそう言いかけた時、男の手が僕の右頬へスーっと伸びて来た。


体が一瞬硬直し、思わず目を瞑る。

 


そして──




次に目を開いた時、目の前は暗転していた。




「えっ? ……? なんだよ? コレ……」

 


ぼくの目の前から、突然男の姿が忽然と消え失せた。


いや、それどころか、さっきまでいたはずの狭い路地裏や廃ビルや自動販売機、そんなものがたちどころにして目の前から何もかも全て消失し、今のぼくには、ただ暗闇だけが目の前にある。


「ココ……どこだよ?」


全くワケがわからない。


ただ、不安に押し潰されそうになっていたぼくの目の前に、突如また青白い光が点る。


よくよく見れば、それは発光する球体で、恐る恐る手で触れてみた。


すると、球体は眩しいくらいに光りを放ち辺りを照らし出す。


周囲はさながら宇宙船のコクピットを思わせる部屋へと様変わりしていく。



そして、眼前に現れた大型ヴィジョンには──





【WELCOME!】




と、いう文字が点滅していた。


ぼくは、目の前で光りを放ち続ける球体に再度触れてみる。


『ようこそ、ソドムへ!』


女性の柔らかい声が辺りに響く。


『ココは、アナタの脳内に築かれた擬似世界です。思っている事、したい事なんでも思いのままになるココはそう、夢の世界! 普段のつまらない日常があなたの思いのままになるのです』


「ソドム……。じゃあココが……」

 

数年前から流行り始めたこの[ドラッガー]といわれるシステムは娯楽の一つとして普及している。


最初は自分の日常で、性別や見た目を変えたりちょっとした異能力を使っていつもと違う非現実が味わえるようなものだったが、段々と内容は過激になり今では犯罪行為を行えるものが裏で多く出回るようになった。


脳内世界への接続ツールは、小型のチップだ。内耳にそれを貼るだけで、脳に特殊な信号を出し擬似世界への扉を開く。


「もしかして……あの時」


頬ではなく、耳にアノ男は触れようとしたのか?


念の為、耳の中を触ってみる。


特に何か異物は無いがここは脳内世界だ。現実のぼくはあの時、初老の男にチップを張り付けられたのであろう。


『初めての方には、まずこの世界の簡単な説明をさせて頂ます。このソドムシティで可能な事は殺人・殺戮・暴力です。性的な行為はエラーがでますのでご了承下さい。また、この世界で再現出来る事象はあなたが今までで経験した事、見聞きした知識及び、自身の推測出来得る範囲で可能な領域で構成されております』


そう、ここは、自分の脳内世界で殺人行為を楽しむ場所だ。まるで現実としか思えない擬似世界で、本当の事の様に人が殺せる。


性的行為は、[エデン]で体験出来るので、こっちでは対応されていない。エラーとなって、それを実行する事が制限されている。

 


殺人やら強姦やら、そういった非道徳的な事をリアルに体感出来る。


それが[ハイパー・ドラッガー]だ。内容の不道徳な事も電子ドラッグと言われるようになった要因の一つでもある。



『アナタのリアルをぶっつぶせ! 素敵な殺人行為をお楽しみ下さい。殺して殺して殺しまくって、早くアナタもランカーになりましょう!』



『Have a nice death!』

 

ランカーとは、いわゆるこの世界の中の記録保持者だ。


この[ソドム]では沢山の人を殺し、いかに残虐な方法で殺したかで点数が加算されていくゲーム的な要素が加わっている。


直接脳内世界で他人と争うワケではないが、[ソドム]に接続している者同士はその得点を競い合っていて、上位ランカーなるものが存在している。


この辺の情報は、ネットなんかでぼくも見て知っていた。


『レッツら、殺せ~!』

 


間の抜けた声の号令と同時にまた暗転──



と、ぼくの視界には瞬く間に、どこかで見覚えのある光景が広がっていった。



ココは……?


ぼくの街か?

 

学校の側の駅前、バス停がありコンビニがあって、たまに立ち寄るファーストフードの店迄が細かに再現されている。



ぼくは通学路をゆっくりと歩き出す。


毎朝すれ違うサラリーマンや、違う学校制服の生徒達。


誰かまではわからないが、何処かで見た事がある人々。


それもそのはずだ、ココはぼくの脳内の世界。


ぼくが無意識にでも認識してきた人物や、建物が忠実に再現される。


なんだか本当に今ココが、ぼくの普段の日常世界の様に錯覚すら覚えて来る。


「いや、ココはもう[ソドム]の中だ……」


ぼくは、自分に言い聞かせるみたく呟いた。


更に、歩くとぼくの通う学校が見えて来た。


見慣れた制服の奴らが、吸い込まれるかの様に校門に入り消えていく。


これも、ぼくの作り出した世界の中での光景だ。


ふと、路地にあるカーブミラーに写った自分の姿を見た。


本来この脳内世界の中では、自分の姿、性別や顔、体型・年齢等を自由に変更する事が出来る。


ゲームにインする際に好きな容姿を思い浮かべれば想像した別人の姿になって普通なら出来ない事を普段の世界で楽しむ、そんなところだ。


だが、残念な事に生憎そこまでは気が回らなかった。


鏡に写るぼくは、いつもの代わり映えしないぼくそのものだ。


せめて眼鏡をコンタクトにするとか、それ所か、有名人の顔になる事だって叶ったというのに。つまらない、平凡な自分がそこには写っている。


しかも、制服姿だ。


衣服くらいはそれらしい殺人鬼さながらなモノを、脳内設定で作っておけば良かったか?


大好きな古いホラー映画の主人公さながらにホッケーマスクや、赤緑のボーダーのセーターでも何か想像しておけば良かった。

 

少しだけ、ぼくは後悔した。


けれど、ぼくの思考はすぐに大きな疑問へと移行する。


『今、この世界でぼくは認識されているんだろうか……』


この世界は、ぼくが脳内で造りあげた世界だ。


言わばぼくは、この世界の神なのだ。


ならばもしかしたらこの世界でぼくは、ただの概念の様な存在で、ぼくが造った脳内の中の人々には存在を感じてすら貰えないのではないだろうか?


そんな疑問とも不安とも取れない考えが、一気に押し寄せる。


そもそもこんな本来存在しない世界では、他人に触れる事も叶わないかもしれない。


ぼくは、どうしても確かめてみたくなり、たまたま横を通り過ぎる、同じ学校の名前も知らない女子生徒の腕を、掴もうと手を伸ばした。


「おい! 良太郎ナニしてんだよ?」


後ろから名前を呼ばれ、ゆっくりと振り返る。


「朝から痴漢でもしようってのか~?」


そこにいたのは、ぼくのクラスメイトであり、唯一の親しい友人。浅沼 あさぬまだ。


ぼくは辺りをキョロキョロとして、浅沼に念のため確認する。


「浅沼……ぼくが、わかるのか?」


浅沼はやれやれと言った表情で、ぼくの肩を叩いた。


(触れた…………!)


確かに感触があった。温もりも。


まるで、現実の世界の様なそんな錯覚にまた陥りそうになる。


「お前、いつもの3割増しでおかしいぞ? 大丈夫かよ?」


(あぁ、コレはいつだったか浅沼にぼくが言われた事だ。


完璧に再現されている、まるでデジャヴュだ)


「いや……大丈夫だよ。心配いらない」


そしてコレも、ぼくが浅沼にその時返した台詞そのままだ。


浅沼は、確かにぼくを認識している。


会話も、触れる事も出来た。


あまりのリアリティに、現実と混同しそうになる。


(コレが……[ハイパー・ドラッガー]……なのか)


「今日のテスト、オレ自信が無いんだよな~」


浅沼の会話は続く。


コレも、つい最近のリプレイだ。


もし、ここでぼくが美少女にでもなっていたら、可能な限り浅沼が起こすであろうリアクションを、ぼくの脳内でシュミレートして一番適切なものが再現されるワケだ。


浅沼が、ぼくにどんな対応を取るのか、それはそれで見てみたかった。


だが、本当にこの空間も、雰囲気も、浅沼も、ぼくのいつもいる現実の世界となんら変わりは無い。


普段通りの光景が再生されている中で、ぼくは立ち止まった。


「良太郎……? どうかしたのか?」


立ち止まったぼくを、心配そうに浅沼は見ていた。


ぼくは……。


「本当にやりたい事をやるよ……」



そう、不安気に見つめる浅沼を後にして、学校に背を向け走り出した。


ぼくが、この場所でやりたい事、そんなもの最初から決まっている。

 

[ソドム]も[エデン]も違法のシステムだ。


現実には制限があり、出来る事は限られている。


規制や規則、そういったものがある事で秩序は保たれ、平和でいられるのかもしれない。


けれど、僕は望んでなんていないのだ。そんな見せかけだけの平和なんてもの。


ココはそれを無効にし、仮想空間ではあるが秩序も規則も無い自由に出来る世界なのだ。


人間の理性を失わせ、欲望と本能だけが優先される世界を味わう。


そう、それが[ハイパー・ドラッガー]なのだ。


(さぁ、まずは誰にしようか……)



ぼくは、思っていた。


ぼくの殺人衝動は、ただの好奇心でも快楽の為でも無い。


ただ、漠然とそうしなければいけないという、何かに突き動かされているのだ。


(誰でもいいわけでも……ないよな)


ぼくの足は、自然と繁華街の方へ向いていた。


殺す相手が誰でも良いという、通り魔的な殺人衝動と、ぼくのは違っている。


もっと違った、別の意識や感覚で、ぼくは誰かを殺したいのだ。


しばらく歩くと路地へと入る裏道があり、少し奥まった辺りに人影がちらほらと見えた。


うちの制服を着た三人の男子生徒と、それに取り囲まれた一人の違う学校の男子生徒。


「ほらほら~、早くお金くれないと~君の足が立てなくなっちゃうよ~?」


「……っ!! あのっ、もうそれ以上お金無いんです……」


しゃがみ込む一人の体を、三人が何度も蹴り上げている。


うちの制服を着たヤツらの中に、一人見覚えのある男がいた。


杉原 すぎはらだ。


学年はぼくと同じ。


クラスは違うので直接の関わり合いは無い。


奴は、いわゆる素行の悪い生徒だ。


校内でもケンカは絶えず、恐喝行為等も日常茶飯事。最近では、後輩の女子生徒を暴行したという噂も聞く。


そんなヤツが、学校を追い出される事が無いのは、杉原の父親が権力のある地元の名士だからだ。


校内での事はおろか、外でのこうした行為にも、ヤツは父親の力を使い、何事も無かったコトに出来る。


杉原は、その後ろ盾を存分に利用し、好き放題に生活している。


そんな、ぼくには不条理にしか思えない光景が、今まさにまた目の前で起こっていた。


だが、ココはぼくの世界だ。


ヤツの好き放題にはさせやしない。


ぼくは決めた。


最初に殺す相手は、杉原にする。


杉原とその仲間は、恐喝相手が動かなくなるまで蹴り付けていたが、ヤツらはしばらくすると、飽きて来たのか財布の中身だけを持ち去り、路地から出て繁華街へと歩き出した。


さすがのぼくもいくら自分の脳内だからといえ、ケンカなんてした事すら一度も無いのに、突然三人の不良達を打ち負かす想像は沸いては来ない。



正直、怖い。



ぼくは、杉原が一人になる機会を待つ事にした。


気づかれない様に、三人の後を追う。


こんな時、ぼくは自分の存在感が薄かった事に助けられた気がした。


1時間もしないうちに杉原は仲間と別れ、一人住宅地へ続く舗装された遊歩道を歩いていた。


(さぁ、あとはどうやって殺すかだ)


考えつきやすいのは、ナイフや刃物での刺殺だ。しかし、接近してやるのには、まだ少し抵抗がある。絞殺なんかも、同じ。


更に抵抗なんてされたら厄介だ。本当は拳銃なんかがあったら、楽かもしれない。

だけど、手に入れる事が出来ても肝心の使い方がよくわからない。上手く撃てる自信は、正直ぼくには無い。


自分の脳内じゃ、体感した事が無い事象はなかなか忠実には再現不可能だ。


次は、鈍器で撲殺が思い浮かんだ。後ろから不意打ちで殴る。今のぼくに出来そうなのは、これくらいだろう。


『殺害方法は撲殺に決めた』


そう思い浮かんだ瞬間。


ぼくの足元には、いつの間にか金属バットが転がっていた。


さすがはぼくの脳内だ、アイテムは思い通りに手に入るらしい。


ぼくは、タイミング良く現れたバットを握り、杉原の背中にそっと忍び寄って行った。

 


杉原まであと、5メートル、3メートル……。



心臓の脈打つ音が、自分でもわかるほどに大きくなる。


呼吸が荒くなっていく、しかし、決して気づかれてはいけない。


頭の中でひたすらイメージする、金属バットを杉原の頭に振り下ろす、躊躇せずに振り下ろす、最初こそ固いと思った頭蓋が砕けて柔らかく赤い肉片にバットを振り下ろす。


スイカ割りみたいにすればいいんだ。


辺りに血や脳漿が飛び散って、それでも更に続けるんだ、そのうち杉原は人じゃなくなる。ただの肉塊に成り下がる。


ぼくは、人を殺す。

 

自分の脳内の世界でだが、命を奪うんだ。


生唾を飲み込み、バットを振りかぶった。

 


その時──



肩に一瞬、何かの衝撃があった。

 


ドンっと、重たく冷たいモノが当たった感覚。


ぼくは、自分の肩を反射的に見た。


「…………えっ!?」


口から思わず、小さな声が零れる。



血が、肩から血が流れている。それも大量の!


『なんだコレ? なんだコレ? なんだコレ!?』


ぼくが血を流している!


おかしいじゃないか!?


だってぼくは、殺す側なんだ。


それなのに、なのになのに……、どうして!?


意識はハッキリとしていた。赤い血が、ぼくの制服を染めていく。


必死に肩を押さえながら、ぼくは自分の後ろにいた人物の気配を感じて凝視した。


そこには、黒いセーラー服を着た少女が立っていた。


年は多分、ぼくと変わらないくらいだろう、深遠の闇の様な漆黒の髪は真っ直ぐ伸びて腰まであり、肌は血の気を感じられないほど白かった。



『人間……か?』



黒いセーラー服を黒衣の如く身に纏い、さもすれば死神にも見えなくはない。


そう疑うほどに、まるで人形の様な無表情の少女が、ぼくの後ろで医療ドラマでよく見掛ける鈍色に輝くメスを握っていた。


メスから赤い雫がポタポタと零れ、黒い制服に染みていく。ぼくを刺したのは紛れも無く彼女だ。


「なん、で……? オマエ……誰だよ……?」


ぼくの口から、当たり前と言えば当たり前過ぎる質問が出た。


だがこの質問は、本当の意味で彼女の存在を、ぼくが知らなかったから出た質問だ。


ココはぼくの頭の中の世界。


けれど、ぼくは彼女を全く知らない。



「オマエ、誰なんだ?」



ぼくの再度の質問に、彼女は答える事無く再度メスを振りかぶった。


「…………っ!? うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ──っ!!」


ぼくは手にしていたバットを無茶苦茶に振り回して、彼女の攻撃に備えた。




おかしい! おかしい! おかしい! おかしい!!



ぼくの記憶の中にこんな少女は存在しない。


例え、無意識に視覚にいた人物だったとしても、通行人や雑踏の一部、モブキャラとして登場するならまだわかる。


けれど、ぼくを殺そうとする。


そんな役割で全く知らない記憶に無いヤツが登場するワケが無いんだ。


半分目をつぶりながら、バットを振り回し彼女を威嚇し続けた。

 


その刹那──

 


彼女のメスとぼくのバットが、キーンという金属音を上げてぶつかり合った。


彼女は信じられないが片手で持ったメス一本だけで、ぼくのバットを押さえている。


ギリギリとぼくらは、互いがどちらも引く事無く。お互いの凶器で攻めぎ合い、一歩も引かない、引けない状況だった。

 


しばらくこのままの状態が続くと思っていた。


が、それは一気に変化する。

 

瞬時に彼女の足がぼくの足を払い退けて、ぼくはそのまま後ろに倒れ込んだ。


「うわぁっ!!」


情けない声を出して、尻餅を着いた体勢のまま彼女を見上げる。


彼女が振りかざしたメスがぼくへと下ろされ、ぼくはギュっと強く目を潰る。


『脳内でもやはり、痛いのだろうか……』


そんな疑問が過ぎった。


「イヤだ……死にたくない……死ぬのは怖い……助けて……!」


情けなく懇願するかのように、ぼくは呟く。


しかし、ぼくの時間感覚ではとっくに刺されているはずの時が過ぎても、一切刺される感覚が……

来ない。


脳内だからか?


いや、そんな事は無い。


さっき肩を刺された時は、痛みも感覚もあったのだから。


ぼくは、恐る恐る目を開けた。


鈍く光る銀色の金属の先端が、ぼくの鼻の先に突き付けられている。


少女の表情は、影になってよくわからないが、他人に刃物を突き立てられる事が人生経験において無かったぼくには、例え聖母の微笑みを向けられていても恐怖しか感じ無いだろう。


『いや、むしろ、この状況で笑っている方が怖いかも……』


ぼくの頭に、そんな考えが一瞬過ぎる。


「君には、人は殺せない。もし、それでも殺すというのなら、私が先に君を殺す」


その時初めて聞いた彼女の声は、やはり全くぼくの知らない声色で、どんなにぼくが自分の記憶を遡っても、該当者は見つからなかった。


「……オマエは誰だ…………?」


ぼくは、再度尋ねてみた。


鋭利な刃物を突き付けられて出た質問とは、到底思えないそんなセリフが、ぼくの口から咄嗟に出ていた。


勿論、ココが現実の世界の出来事なら、ぼくもこんな冷静な態度は出来ないだろう。


あくまで、これが自分の脳内で作られた仮視世界だからこそ、こんな反応が出来たんだ。


「私は誰でも無い。君は人を殺さない、もう一度言う、君が人を殺すというのなら、その前に私は君を絶対に殺す」


随分と物騒な物言いだ。


自分の事は棚に上げ、そう思ったぼくは、ただ、突き付けられた銀色の切っ先を見つめていた。


返事を返さずにいると、彼女は刃物を思い切りまたぼくの眼前に振りかざす。


「君は、絶対に人を殺さない」


「……オマエは、誰なんだ……?」


見ず知らずのヤツに、ぼくは殺されるのか……? せめて名前だけでも……。



「私は…………[デビルズ・ハート]……」



そのまま、腕が振り下ろされた。



「ヤメロ……覚めろ! 覚めろ! コレは現実じゃない!!」



 ぼくは思わず、目をきつく潰り何度も何度も現実に戻りたいが為に、そう叫んだ。


 頬を掠めていく刃物の冷たい感触が微かに伝わって、ぼくはそのまま意識を失っていった。








「おいっ! 兄ちゃんっ!!」


頭の中に靄のかかった様な、そんな気分だった。


遠くに何かを叫ぶ声が聞こえ、うっすらと目を開ければ、先程少し話しをした金髪の売人の顔があった。


「…………ココは……現実?」


まだハッキリとしない意識の中で、なんとか今あった事とその発端になった事を整理していた。


「はぁ~、急に倒れんだもんな~……。バット・トリップでもしちまったのかと思って焦ったわ~」


辺りをキョロキョロと見回すが、ぼくが話し掛けた初老の男の姿は無かった。


「あの人は?」


「あ~っ? さっさとどっかへ逃げちまったよ? 男が行っちまって兄ちゃんフラフラこっちに歩いて来たと思ったら、ココで急に倒れるからビックリしたよ」


その部分の記憶は、ぼくの頭からゴッソリ無くなっている。


「あの、ぼくは、どのくらい倒れてたんでしょうか?」


「えっ? そうだな、すぐにオレが気付いて~、駆け寄ってから2、3分ってとこか?」


2、3分。


体感時間的には1時間以上に思えたが、恐らくその2、3分がぼくが[ソドム]に行っていた実際の時間なのだろう。


一体、ぼくは、いつの間に向こうの世界にトリップしたのだろうか。


例の初老の男との記憶もカナリ曖昧で、その答えは出て来そうにはない。


「おいおい、大丈夫か~? バット・トリップはしてないみたいだけど、気をつけろよ~」


『バット・トリップ』それは、[ハイパー・ドラッガー]を使用する事で稀に起こる、最大のデメリット。

国が電子ドラッグを違法としている一番の理由。


脳が仮想の世界に侵食され、バーチャルとリアルの違いが認識出来なくなる。


二度と現実世界には戻る事が出来なくなるのだ。


しかもその時、脳内世界は自分が思った通りの世界では無くなり、永遠に終わる事の無い虚無の空間へと変わるという。


現実では勿論、植物人間状態だ。


昔からあるドラッグと、何も変わらない。


罪深い快楽の代償はどんな時でも重たく、惨い。


たまたまぼくがツイていたのか、それともバットトリップは噂通り稀に起こる現象なのか、とりあえずぼくの脳は、今の所は大丈夫の様だ。


耳の中に触れてみる。


何かが付いていた感覚は僅かに残っているものの、チップらしきものは無いようだ。


「おい、大丈夫かよ兄ちゃん?」


金髪がガラにも無く、ぼくを不安気に見つめていた。


無言で頷き、ぼくは足早にその場を立ち去った。


 





その後は渋谷から無意識に電車を乗り継ぎ、自転車を走らせ帰路へと着いた。


正直、[ソドムシティー]での出来事どころか、渋谷に行った事すら今では白昼夢の様に思えてならない。


大通りを真っ直ぐ進み、住宅街へと入って行く。


見慣れた風景。


ここまで来るとやっとぼくは現実にいるんだという事を実感し始める。


見えてくる白い壁と赤い屋根、庭にチューリップが植わった小さな母のガーデニングスペースが、ぼくを僅かに安堵させた。


ぼくは、小さな門扉をくぐり、自転車を父の愛車が鎮座しているガレージに停めた。




「お兄ちゃん、どこ行ってたの?」


後ろから肩をトンと優しく叩かれた、ぼくは思わずビクっと身構えゆっくりと振り返る。


「……お兄ちゃん?」


ブレザーの制服を着た少女が、ぼくの事をきょとんと見つめていた。


少しの沈黙、自分の記憶を必死に遡りこの人物を特定させる。

 

妹……。


そうだ、彼女はぼくの妹だ。 


「ちょっと、買い物……。オマエこそ何だよ、制服なんか着て今日は休日だろ?」


「部活の練習があったの、来月試合なんだ」

 


妹のアズは、ぼくの一つ下だ。


私立の女子校に通う高校一年生。


弓道部の副主将で、ぼくとは違って明るく活発で友達も多い。


見た目は割と清楚系で、他校の男子からもよく告白とかされているらしいが、妹は男の人が苦手らしく彼氏はいないらしい。


栗色の肩までの髪とパッチリした瞳。一応、美人という部類に入るかと言っておく。


「休みの日も学校行くのか……」


「お兄ちゃんはそんなんだから青春を謳歌出来てないんだよ? 共学なんだし、部活とか入れば彼女だって出来るかもしれないでしょ?」


「そういうの興味ねーし……」


ぼくは、妹と共に玄関を入って靴を脱いだ。


「ただいま~」


元気良く、台所にいる母に妹が声を掛けると母の代わりに小さな声が返事をした。


「ニャー」


黒いふわふわな子猫だ。


「お母さんただいま、えっと……このコのお名前は……」


「……デビルズ・ハート」


「デビルズ……って、お兄ちゃん、なんでこんな天使みたいな子猫にそんな怖そうなお名前を付けるの!?」


デビルズ・ハート、こいつはぼくが捨てられていたのを拾って来た。


雨の中、ダンボールに入れられてニャーニャー鳴いていた。


みたいな、漫画の様な出会いでは無く、学校帰りのぼくの足元に纏わり付いて来て、勝手に家まで入って来たのだ。


「見た目と中身は、同じとは限らないだろ……」


そんな、図々しいというかふてぶてしい態度が、コイツには実は、悪魔の心が宿っているんじゃないかと思わせてならない要因だ。


「デビ……るず~、ん~っ……えっと、にゃんこちゃ~ん」


アズは、もう名前など無かった事にして、子猫の頭を撫で回した。


「ちょっと~、リョウとアズ帰って来てるの~? どっちか夕飯の支度手伝って~」


台所から、お玉を片手に母さんがそう言って顔を覗かせた。


「は~い、私がやるね。お兄ちゃんはにゃんこちゃんにご飯をあげなさい!」


まるで上官みたいな物言いで僕に人差し指を向けるとアズは、いそいそと台所に入って行ってしまった。


自分から母の手伝いを進んでやる。


アズは昔から良く出来た妹だと、ぼくは思い。


そして、それに引き換え自分は何も出来ないヤツだとその度に少し懺悔する。


「お前にエサをやらなきゃな」


ぼくは子猫の頭を撫で、首の下を優しく触れた。


ゴロゴロと喉を鳴らす、その首元には、赤く長いリボンが二重三重に巻かれていた。


猫の真っ黒な体毛があの少女の黒いセーラー服を連想させ、首に巻かれた赤いリボンがぼくの流した大量の血を思い起こさせる。


「彼女は、お前だったのか?」


脳内世界でぼくを殺そうとしたのは飼い猫だった──


なんて、それはとてもメルヘンかつ恐ろしい話だ。


だが、リアルの子猫はぼくの命なんかより、エサが貰えるという期待に尻尾をおっ立てゴロゴロと体を擦り寄せるだけだった。


黒と赤は[ハイパー・ドラッガー]の世界へまたぼくを引き込もうとしているのではないかと、

一瞬、そんな錯覚が過ぎった。

 


脳内の世界でぼくの殺人衝動を阻止した少女は、一体、誰だったのか?

 

ぼくは玄関を上がると、真っ直ぐキャットフードの缶詰を取りに母さんとアズのいる台所に入った。


二人は、肩を並べて仲良く晩御飯の支度をしている。いつもの光景だ。


昨日までは退屈にすら思えたその光景が、疑似世界で味わった妙な感覚と、未だ残る微かな不安を取り除いてくれて今のぼくには安心出来た。



「今日は、リョウの好きなハンバーグよ」


「お兄ちゃんは、味覚がまだお子ちゃまだよね」


「あら、アズもでしょ?」


クスクスと二人は、顔を見合わせて笑っている。


デビルズ・ハートにエサをやりながら、ぼくは、そんな二人の様子を見て再びリアルを感じていた。



「ただいま~」


「お父さん帰って来た、アズちょっとお鍋見てて?」


「はぁ~い」


家主の帰宅に母と共に、ぼくからドライフードを貰っていたデビルズ・ハートも玄関にテトテトと向かう。


父はいつも、ケーキやら高い肉を猫に土産といって買って来る。


その味にすっかり魅了されたらしく子猫は、家族の中で一番父に懐いてしまっていた。


「お父さんおかえりなさい、すぐご飯だから」


「ニャー」


「おぉ~、にゃんちゃん~! 今日は、美味しいマグロを買って来たぞ~」


小さなふわふわを抱いた父が、母を伴い台所へやって来た。


「お父さん、猫にそんなのあげて良いの? エサならさっきリョウがあげたばかりなのに」


「そうだよ! それ、私が食べたい~」


眉間にシワを寄せ訝しがる母とは対称的に、アズは自分の欲望のままを訴えていた。


どこにでもある普通の家庭。


母は料理が得意で、近所のスーパーで週に3日パートをしている。


父は、サラリーマンで母の尻に敷かれていて、子供達には甘い。


妹は、気が利き明るい性格で家族のムードメーカー。


平凡だが、恐らく幸せな家庭の部類に入るだろう。


現に、ぼくがコッチの世界で殺人衝動に駆られて行動を起こさない理由は、

この家族がいるからだろう。


ぼくがそんな事をしたら、一番にぼくの家族に迷惑がかかるのは明白だ。


彼らをぼくの欲望だけの為に、傷つけおとしめる事などぼくには出来ない。


だからならべくぼくは、家族といる時は普通を装い演技する。


それが、家族の為だと思うから……。


ダイニングテーブルの上に用意されたハンバーグを口に運びながら、ぼくはそんな事をぼんやりと考えていた。

 


食事中、習慣で何の気無しに付けられている壁と一体型のテレビからはニュースが流れていた。



『先日、世田谷区で行方不明になっていた女子高生が遺体になって発見されました……』



「最近多いわねホントに、物騒な世の中よね~? アズも気を付けなさいよ?」


「大丈夫よ~、お母さん。私はそんな人が来たら、返り討ちにしちゃうんだから」


確かに。


妹のこの台詞は、あながち嘘やハッタリではないだろう。


丁度、一年程前の事。


夕方、人気の無い路地で部活帰りの妹を後ろから襲った痴漢がいた。


しかし、アズは痴漢を防犯スプレーで冷静に対処し、いとも簡単に撃破。


見事に返り討ちにしたそうだ。


見た目に反していざという時には対処出来る能力には優れているのだろう。



『遺体は鋭利な刃物で首を切断されており、なお、この事件は先月から都内で起きている、連続殺人事件との関連性も……』



「アズより、心配するならリョウの方が気を付けた方がいいんじゃないか? なよっとしてるから女の子に間違えられるかもしれんぞ?」


父さんがぼくを見て、おどけた表情を向ける。


父なりのユーモアだ。


「そうだよね~、確かにお兄ちゃんは私も心配。ね、ボディーガードしてあげようか?」


「いいよ……べつに」


「つれないな~もう……」


会話はその後も続いた。


何気ない日常の会話。



『遺体の損傷は激しく……』



ニュースで流れてる非日常の事件なんて、ぼくの家族にはまるで無関係の様に思われてならない。



『次は、先週、女子高校生が自殺した事件でいじめに荷担したとみられる教師が……』

 


けれど、ぼくは違っていた。


この世界は理不尽だとぼくは思えて仕方がない。

どうして殺されなくていい人は殺され、殺されるべき人間は少ない咎めでその罪を償い社会に平然と戻れるのだろう。


杉原のような人間のクズみたいなヤツがのさばり続け、弱い物が淘汰される。 


やっぱりこんなのは間違っている。


ぼくが[ソドム]でやりたかったのは制裁だ。


正当な裁き、それを疑似世界で体験したかった。


ほんの数時間前なのに、今では[ハイパー・ドラッガー]であったあの出来事が夢で見た事だった様なそんな錯覚さえして来ていた。



テレビからはまた別のニュースが流れていたが、その内容はぼくにはとても遠い国の話の気がして、さして興味を持てなかった。








『政府は、拡大する感染病[フォリア・ドゥ]の対策として……』
























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