10 森に潜むもの

 霧が再びまとわりついてきた。

 テオは白い霧の中をゆっくりと歩き出す。静かだった。草を踏み分ける音だけが耳に届いてくる。

 そして、しばらく行くと立ち止まった。サッと手を降ると、彼らの周りから霧がゆるゆると後ずさっていく。そこは少し開けた草原の中だった。


「拾ったのはこの辺りだが、君が知るはずないな。あの獣にも、心当たりはないんだろう?」

「ええ」

「さあ、どうしたもんかな」


 目を閉じてじっと考えこむ。

 人差し指と中指を眉間に当てた。感覚を研ぎ澄ませると、周辺の景色が頭の中に浮かび上がってきた。

 足元の草の中に、小さな薄ピンクや白い花が咲いている。幾種類もの小さな虫達が地面を這い、それを餌をする大型の虫も跳ねまわっている。

 頭上では、梢にとまった数羽の小鳥が遠巻きにこちらをうかがっていた。少し遠くにたぬきのたぐいが息をひそめているようだ。

 草陰にはピクシーも数人。霧に巻かれて森を出損なったようで、途方に暮れた顔だった。

 特別なものは見当たらない。あたりはしんと静まりかえっている。

 退けられていた霧がゆっくりと近づいてきた。再び、彼らは真っ白な霧に包み込まれた。

 ベイブは、音もなく色もなく方向さえも定かでない白い闇の中で、五感が遮断される恐怖を感じた。唯一、確かなものであるテオの胸にしがみつく。その心臓の音を聞いているうちに、少し落ちついてきた。


「ねえ、ここに何かあるの?」

「いや、手がかりになるものは見つけられないな……期待させて悪かった」


 テオはつぶやくと、歩きはじめた。

 迷いもなく、またどんどんと歩いて行く。ベイブにはもうどこをどう進んだのかまったくわからない。

 そして不意にニコの姿が現れた。哀れなほど青くなっていて、テオたちを見つけた途端へなへなとしゃがみ込んだ。


「ああ、よ、良かった。置き去りにされたかと……」

「なんだよ。迎えに戻るって言っただろうが。情けない顔するなよ」


 テオはニコの背中を思い切りバンっと叩いた。

 よろよろと立ち上がったニコは、顔を引きつらせながら先を進むテオのローブの端をつかんで付いていった。


「さっき、何かいたみたいですけど、どうなったんですか」

「別にどうもしないさ。逃げられたからな。ま、一つ解ったのは、ベイブはこの森にいる何者かに卵に閉じ込められたってことだな。あの獣はソイツの使い魔ってとこだろう」

「それって、例の……ですか?」

「多分な」


 そっけなく言う。

 その後は、三人ともずっと無言で歩き続けた。そろそろ正規のルートに戻るはずだ。

 すると前方の霧の中に、ぼんやりと数人の人影が見えてきた。


「誰だ!」


 人影が鋭く詰問してきた。

 ガチャリと銃を構える音がした。


「待て! 撃たないでくれよ! 怪しい者じゃない。オレたちは道に迷ったんだ」


 テオはベイブをローブの中に隠すと、右手を上げてゆっくり近づいた。

 ニコも両手をあげて続く。

 霧の中に四人のあずき色の制服を来た兵士の姿が見えた。見慣れないその制服はインフィニードの兵士のものではなかった。

 彼らはジロジロとテオとニコをにらみつけてから、銃を下ろした。

 妙なローブを着た男と真面目そうな少年は、彼らの警戒対象とは違っていたのだろう。うさん臭げに見てはいるが、反面安堵しているのがニコにも判った。


「ここで何をしていた」

「ああ、助かった。ちょっと薬草を摘みにきたんだけど、道に迷って散々でしたよ。あ、オレたち魔法使いやってるんでね。で、インフィニードはどっちですかねえ」


 テオはペラペラと嘘を吐く。


「……あっちだ」


 ふんと鼻を鳴らして、兵士は指さした。

 ペコリと頭を下げて立ち去ろうとすると、リーダーらしき一人が呼び止めた。


「お前たち、この森の中で何か見かけなかったか?」

「何かとは?」

「……お前たちのように道に迷った者とか、馬とか」

「いえ、何も。こんな深い霧の中じゃ誰かいたって、気づきませんよ」


 テオはほんの少し、唇の端で笑った。黒い獣が潜んでいることを教えてやる気は、さらさら無いようだ。

 テオの皮肉に、兵士は不快そうに眉をしかめる。






 四人の兵士たちは、テオとニコの姿が見えなくなると、反対のミリアルドの方角に歩き出した。


「こんなに霧が深いと、何も見つけられやしない。今日はさっさと引き上げよう」

「まったく面倒な仕事だよ……」


 ほとほと嫌気がさしたというように、彼らはつぶやいた。

 リーダーを先頭にしばらく歩いていると、少し霧が晴れてきた。

 前方に人影が見える。一人だ。


「こんな霧の日に森にはいるなんて、今日は物好きが多いな……」


 リーダーは目を凝らした。

 そして、先ほどと同じように鋭く問いかける。


「誰だ!」


 素早く後ろの三人が銃を構える。

 だんだんと霧が薄くなる。小さな人影が見えた。


「あら、怖いわ、兵隊さん」


 大きなウェイブのかかった黒髪の少女だった。

 雪のように白い肌の美しい少女だ。唇が血のように赤い。レースとリボンに飾られた、少女趣味な黒いドレスを着ている。妙に艶やかな笑みを浮べていた。

 怪しむ兵士達に、少女はゆっくりと歩みより指をパチンとならした。

 途端に兵士は銃を下ろし、木偶人形のように突っ立った。そして彼女は、まるで彼らがそこにいないかのように通り過ぎていく。

 少女が十歩と離れぬうちに、兵士たちはまた歩き出した。

 ただ、一人を残して。


「こんなに霧が深いと、何も見つけられやしない。今日はさっさと引き上げよう」

「まったく面倒な仕事だよ……」


 彼らは、自分たちが同じセリフを繰り返していることに気付かず歩いていく。もちろん、仲間を一人取り残していることにも気付いていない。

 元から三人だったように、何の疑いもなく彼らは去っていった。


 少女は微笑みを浮かべた。

 彼女の後ろには、呆けたままの兵士が付いてきていた。

 兵士の瞳は異常なものに変化していた。明るさが変わったわけでもないのに、瞳孔が黒目いっぱいに拡張したかと思うと、すっと収縮して点のようになる。そしてまた拡張しては収縮するという、不気味な動きをしていたのだ。

 兵士の顔は意志を持たぬ人形のようになっていた。


「あの子ったら、あの魔法使いのところに転がりこんで……面白いじゃない」


 少女は立ち止まり、クスクスと笑う。


「いいわ、今は見逃してあげる。これからお楽しみが始まるんですものね」


 少女がもう一度指を鳴らすと地面から霧が湧きおこり、二人の姿をかき消した。






「さっきのはミリアルドの兵士ですか?」


 足早になるテオの背に向けて、ニコが尋ねる。

 そうだとうなずいて、テオはうんざりした声をあげた。


「クレイブがオレに押し付けようとしていた厄介事。王女の捜索だろうな」

「え!? この森で迷子になったんですか? それじゃ助からないですよ」

「そうとは限らないさ。どこか、南の国へバカンスに行っただけかもしれないし。とりあえず、色々調べてるんだろうさ。ま、オレたちには関係のない話だ。……行こう、ベイブの様子がおかしい」


 テオの腕の中でベイブはガタガタと震えていた。


「……だから、行きたくないって言ったのよ……」


 彼女は声も震わせて、身を硬くしていた。

 その小さな体を優しく抱えて、テオは森の出口に向かっていった。

 森を出たところでキャットが待っていた。彼は馬の背の上でのんきに昼寝をしていた。


 家に戻ってからのベイブは、何も言わずにクーファンに潜り込んでしまった。そしてキャットはその側でうずくまると、近寄るなと言いたげにテオ達をにらみつけた。

 二人は彼女が落ち着くのを待つことにしたのだが、十分もたたずにテオは様子を見にいってしまった。しばらく放っておけとニコには言ったくせに、気になって堪らないようだ。


「どうした、ベイブ。あの獣や、森が怖かったか?」


 テオはカーテンを開け、クーファンの隣に座った。

 キャットが鼻を引くつかせながら、片目だけ開けて眺めている。しっぽをゆさゆさと振って、テオの足にぶつける。もっと離れろとでも言っているのだろうか。

 テオは構わず、独り言のようにつぶやき始めた。


「なぜ君は森に入ったんだろうなあ。恐ろしい森だと知らずに足を踏み入れたのか、知っていたが何か目的があったのか……。この質問には、答えられないんだろうね。呪いが邪魔して」


 返事はない。

 毛布の上から優しくベイブをなでた。


「危険な目に合わせてしまったな」


 テオの声は沈んでいた。

 魔女はベイブを殺すつもりで卵に閉じ込めたはずだ。それが生きているとバレてしまった。あの獣が襲ってきたというのは、そういうことだ。

 迷霧の森にベイブを連れていくべきでは無かったと、テオは後悔していた。小さくため息をつく。


「とても本気で襲ったとは思えない。すんなり引いたってことは、魔女は君の生死にもう興味が無いのかもしれないな。希望的観測かな。……ベイブ、絶対に君を守るから、そんなに怯えないでくれよ」


 ベイブが顔をのぞかせた。


「……違うの。あんたのせいじゃないの」


 その大きな目が涙で潤んでいる。テオは息を飲む。

 彼女の涙に、たじたじになっていた。


「そ、そんな、か弱い小動物みたいな目をするなよ。なんだかオレが、子羊をいたぶる狼みたいだ……」


 ベイブはクスリと笑う。指で涙を拭いながら笑う。

 彼の言い訳じみた口調がなんだか可笑しくて、固くなっていた心が解けてゆくように感じた。


「確かに怖かったけど、あんた、あたしを守ってくれたじゃない。頼もしかった……と思うわ、よ?」

「そう?」

「……自分のことを話せないのが、苦しくて堪らないだけなの」

「オレにそれを見抜くことができれば、呪いは全て解けるんだろうな。……時間がかかりそうだ。それでもいい? 何かヒントがあればな……」


 ベイブはすがるようにテオを見つめ、うなずいた。

 キャットの耳がピクンと動き、静かにまた尻尾をゆらした。


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