06
固いバネの軋む音で、セイムの意識は覚醒した。
「っ……?」
鈍く頭の芯が痛むのを堪えながら体を起こせば、そこは見慣れない部屋であった。セイムの記憶では、自分は食事をとりに行ったはずだが、そこから先をしっかりと思い出すことが出来ない。
糸をたぐるように慎重に、少しずつ自分の行動を
そうだ、広場であった火事を消したのだ。あれだけ大掛かりな魔導は、詠唱こそ知っていたが使うのは初めてだった。水女神アルドゥの魔導、師から最後に教わった魔導の一つだ。気象を操るそれを使うことは恐らく南国リッシーア共和国にでも行かない限り有り得ないと思っていたのだが。
「うー、頭いた……」
魔力を使い果たしてしまったのだろうということは、大方予想がつく。体にのしかかる倦怠感は何度も感じたことがあった。手加減を知らないヴィア=ノーヴァのせいで、高熱を出して倒れたことも両手じゃ数えきれない。
こうして魔力が切れて倒れた時、熱を出した時、常に師はかたわらで微笑んでいた。彼が煎じる薬草は顔をしかめるほど苦かったが、よく効いたのは覚えている。
けれど今、セイムのそばには誰もいない。一度そう考えてしまうと後から後から不安になってきて、視界が歪んでいく。
「はぁーいお嬢さん! 起きた?」
「おいロディ、セイムまだ寝て……お、おう、おはよう……?」
気が弱った寂しさでセイムの目に涙が浮かんだとき、部屋の扉がはじけるように開いた。目に鮮やかな金髪の女性が、満面の笑みでこちらに手を振っている。その横で疲れたような表情をしているのは、確か昨日会った用心棒――ラウか。
「え、と……おはよう?」
「おはよー! 早速だけど汗かいたと思うし、着替えてもらうわよ。着替え持ってきたからラウは外出る!」
金髪美女がニコニコしながらそう言うと、ラウは促されるまま外に出た。初対面の女性と二人きりになって、セイムはいよいよ混乱した。ここがどこだかわからないし、目の前の女性が誰なのかも検討がつかない。そもそも、あの用心棒の青年のことだってよく知っているわけではないのだ。
「はいはいはい、じゃあお嬢さんのお着替えしましょっか」
「あの、ここ……って」
「んー? アタシの店さ。狭い部屋で悪いけど、この時間はみんな寝ちゃっててね。これも店の子のお下がりなんだけど、ないよりましでしょ?」
眼の前の女性は素早い手つきでセイムの服を脱がせると、テキパキと体を拭いていく。あまりの手際の良さに、もう彼女は何も言えなくなっていた。ここは病院か何かなのだろうか。
体を拭き終えると、頭から服を被せられる。簡素なワンピースは柔らかい手触りで、今までセイムが来ていた厚ぼったいローブよりも格段に動きやすい。
「よし、少しは見れるようになったじゃない。ラウが昨日アンタ抱えてきた時はどうしようかと思ってたけど、アレ、アンタの男ってわけじゃないの?」
「え、抱えて? ……って、男!? 違います! 私、昨日ラウと会ったばかりだし」
「あら、一夜の恋っていうのもなかなか夢があるもんだと思うけどね。事実、うちの店はそういう恋を推奨してるようなとこだし」
コロコロと笑う女性に、セイムは余計にこの場所が何なのかわからなくて疑問符を浮かべた。そんな彼女の様子がおかしかったのか、美女が指を一本立てる。
「ここ、妓楼さ。娼館って言い方もあるけど、アタシは妓楼って呼んでる。三番街じゃそれなりに名の売れた店だけど、お嬢さん「ロディ・ナガ」って聞いたことないかい?」
「えぇと……先日帝都に上ってきたばかりで、すいません」
「気にしなくていいさ。アンタみたいなお嬢さんが知ってていいような店じゃないしね。それで、どこか痛むところは?」
「ない、です」
ロディとラウに呼ばれていた女主人は、セイムが小綺麗な格好になったのを見ると満足そうに頷いた。
ここが妓楼ということは、彼女は娼婦、或いは妓女と呼ばれる人間であるということくらいはセイムも理解していた。それがどんな職業かも、知識としては知っている。けれど、師はそれ以上のことは教えてくれなかった。
「ラウも、ここのお客さんなんですか?」
「まさか。あんな青いお子様、こっちから願い下げよ。アイツはうちの用心棒の一人。三番街じゃ結構名うての剣士なんだ」
ロディは真っ赤な紅を引いた唇を笑みの形に吊り上げると、「この界隈は物騒だからね」と付け足した。その「物騒」の中には、恐らく昨日の火事のようなことも含まれているのだろう。
「聞いたよ。何でも魔導士見習いなんだとか」
「は、はい。師匠が亡くなる前に、帝都を目指すようにと」
「ふぅん。アタシは魔導士様のことはわかんないがね、普通は七つで学府に入学するもんじゃないの?」
そう突っ込まれると、回答に困る。セイムが学府のことについて知ったのは、つい三年ほど前だ。その頃には薬学もある程度叩き込まれていたし、魔導に関しても大がかりなもの以外は使えるようになっていた。学府での勉強が必要ないと師が判断したことなら、それはセイムに疑う余地などない。
ただ、やはり学府での学歴がないといけないのだろうか――答えあぐねて眉をひそめている様に、ロディが笑う。
「いいや、別にいいんだよ。腕のいい師匠なら学府には預けないで王宮付きにするってのもあるみたいだしね。現に、今の宰相様はそうさ」
「宰相様?」
「魔導令師、イヴァン・ヴィクトリカ様。あれはいい男だよ、女みたいに髪伸ばしてなけりゃ、アタシの店に招待したのに」
幾らセイムが森にいたとはいえ、同じ魔導士としてその名を知らないわけではなかった。けれど彼がどんな人物かまでは流石に知らない。師に聞くこともなかった。恐らく、宮廷にいた人物のことを聞いたところで答えてはくれなかっただろう。
曖昧に返事をしながら、セイムはワンピースの裾を握った。
「あ、ごめんなさい。借り物なのに……」
「あぁ、いいよいいよ。アンタが気にならないなら着て帰ってもいい。それより、ラウが外で待ってるんだ。入れてやってもいいかな?」
セイムが頷くと、ロディが扉を勢いよく開けた。虚を突かれたらしいラウが間抜けな顔をして部屋に転がり込んでくる。
「着替え終わったよ。アタシは店開ける準備があるから、話があるならアンタら二人でどうぞ。お嬢さんも、妙な男に捕まりたくないなら日が暮れる前にうちに帰った方がいいよ」
それだけ言い残して部屋を去っていったロディに、二人はしばらく言葉も出なかった。女性であるというのに、話してみた感じはどこか男らしささえ感じる。静まり返った室内でその静寂を破ったのは、ラウの方だった。
「なあ、昨日のこと覚えてるか? あの、雨降らせたんだぜ。お前」
「覚えてるよ。使ったこと殆どない魔導だったから、失敗したかと思った」
実際、体が指先から冷え切っていく感覚に襲われたのまでは覚えている。その前に誰かと話したような記憶もあるが、そこはおぼろげだ。気まずそうに目を伏せるラウは、もしかしたら何か知っているのかもしれない。
「あの、さ。ありがとう。ラウがここに運んできてくれたって、聞いたわ」
「あー、ウチでもよかったんだけど、おふくろがうるせぇから。ここだったらロディがしっかりしてるしな」
「うん、ありがと」
「……お前だけだったな。最初にあの火、消そうとしたの。後から来た奴は、殆ど火が消えてから手伝ってた。俺も、何もできなかったし」
歯噛みするラウの瞳が、僅かな陰りを見せた。瑠璃の宝玉によく似た色が、暗さを増す。握りしめた拳は音を立てており、それだけで彼がどういう思いをしたのかは汲み取ることが出来た。
しかし、魔導の素質がないラウにはあの炎は決して消すことはできなかったのだ。
「ラウは、助けてくれたじゃない。広場で朝まで寝てるなんて、私凍死しちゃうわ。こんなところで死んだら、お師様に怒られるし」
「宮廷魔導士に、なってないからか?」
「うん。うちのお師様、普段は優しいけど怒るとすごく怖いの。魔導の修業も、サボると怖いわ」
「悪い……ただ、そのことなんだけどよ」
手のひらを傷つけんばかりに握りしめられていたラウの拳が、不意に緩んだ。来ていた上着のポケットから一枚の紙を出すと、ことさら神妙な面持ちで続ける。上質な紙には、宮廷書記官の流暢な筆跡で文字が躍っていた。
「王宮前広場で、勅令が出た。皇帝陛下――ゼルシア様が、選定試験の日程を早めるらしい」
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