05


 轟々と燃え盛る炎が、広場を赤く照らしていた。

 恐らく王宮か神殿に荷物を運んできた馬車であろう。御者が腰を抜かして呆けている。

 セイムとラウがいた食堂からこの王宮前広場まではかなりの距離があったが、それでも爆音は響いていた。音にふさわしく、広場一帯に炎が燃え広がっている。人々が必死で消火活動に当たっているが、その勢いはとどまることがなかった。それどころか、街を食らいつくさんばかりに大口を開ける炎は、見る見るうちに力強くなっている。


「おいアンタ、大丈夫か!?」

「あ、あぁ……だが火が、火が消えねぇんだ」

「火が消えない? どういうことだ」


 半泣きの御者にラウが詰め寄るが、パニックになっている人間からは何も聞きだすことが出来なかったらしい。舌うち一つで御者を抱え上げると、火の手が届かない場所に避難させた。それと対するように、セイムが一歩前に進み出る。


「おい、何やってんだよ! 黒焦げにされちまうぞ!」

「……あれ、魔導の炎だと思うの。魔導は魔導でしか相殺できない。だとしたら、普通の水じゃあれは絶対に消えないわ」


 周囲に数人の魔導士がいれば、恐らくそうたいした時間もかからずに消し去ることが出来るだろう。鞄から取り出した呪具を片手に周りを見渡せば、それらしき人物は何人か見つけることが出来た。

 しかしその誰もが、セイムから視線を逸らした。これだけの火災を消し去ることが出来れば確かに話題にはなるだろう。しかし、報酬は誰が払うのか。消せなかった時のリスクは大きすぎないか――声なき声が、視線だけでセイムに訴えてきた。


「おい、セイム下がってろ! じきに宮廷魔導士が来るだろ、お前のちっこい身体じゃ無理だ!」

「ちっこく、ないっ! 宮廷魔導士が来るまでに広場焼けちゃうわよ、こんなの……」


 誰が撒いた火種かは知らないが、セイム一人の魔導で消えるかどうかは分からない。師匠以外の魔導の相手を、彼女はしたことがなかった。

 だが宮廷魔導士の到着を待っていれば、本当に周囲の店や家まで焼けてしまうだろう。握りしめた呪具に力を込めて、セイムは腕を前に突き出した。


「わ、海神の瑪瑙、蒼玉を司りし慈雨の女神よ――悪意の炎を御身の名の元に打ち砕かん」


 震える声で呟かれた詠唱に、周囲の音が一度静まり返った。多神教のシュタックフェルト帝国では魔導詠唱の際に神の名を織り交ぜることがあるが、そのどれもが高位魔導である。魔力の消費量も体力の消耗も大きな水の女神の魔導を、セイムのような子供が使えるはずがない――広場に、嘲笑が広がった。


 魔導士にとって失敗こそ最も恐れるべきことの一つだ。呪具を介して自らの魔力を送り込む魔導は、そのランクが高くなればなるほど反動も大きい。最高位の禁術などは、失敗すれば魂ごと喰われてしまってもおかしくはないものだ。だから多くの魔導士は何よりも慎重に自分の力量を見極める。それを超える術を扱えば、自分の命の保証は一切ないのだ。


 しかし、セイムの視線はまっすぐに炎を見据えている。大きな動きはないが、ここからは魔導士と魔導士の術の掛けあいだ。視線を話せば彼女の体は忽ち炎に呑まれる。薄く開いた唇から深く息を吐いて、セイムはさらに畳みかける。


「水女神アルドゥよ、純潔の処女神よ。悪意の炎を、御身の名の元に打ち砕かん」


 か細く紡がれたその言葉の後で、違和感を感じたのはラウだった。風が湿り気を帯びて、僅かに重みを増したようだ。少しの間セイムと炎とでにらみ合いが続いていたが、彼がそれを感じてから頬に雨粒が当たるまではそう時間がかからなかった。


 広場の石畳の色が変わり、弱々しい雨粒は次第に豪雨へと姿を変えた。淡々と詠唱を続けるセイムの身体に大粒の雨が降り注ぎ、炎は次第に収まっていく。それでも彼女は小さくなっていく炎を見据えていた。完全に炎を消し去らなければ、また大きな火事が起こり得てしまうのだ。


「おい、何の騒ぎだ」


 ただセイムの魔導を見つめていることしかできなかったラウは、その声でハッと我に返った。見上げれば、旅人風の格好をした男が一人そこに立っている。

 暗赤色の瞳を細めた男は、不機嫌そうに同じことを聞いてきた。


「何の騒ぎだ。急に雨が降り出したと思ったら、あの少女は何をしている?」

「火事……火事があったんだよ。俺はわかんねぇけど、その火が全然消えなくてよ。セイム――アイツが一人で消したんだ」

「消えない炎? 火炎系の魔導か、他の魔導士はどうした。ここは王宮前広場、皇帝の膝元だろうが。宮廷魔導士は何をやっていた」

「んな質問ばっかじゃ答えられる訳ねぇだろ。宮廷魔導士はまだ来てねぇし……マズイのは他の魔導士どもだろうが」


 雨除けのフードをかぶった男はラウの話を聞いた後で思い切り眉根を顰めた。物陰から隠れて様子をうかがっている市井の魔導士たちを視線で射抜くと、ことさら機嫌の悪そうな舌打ちを一つ決める。その迫力に、思わずラウも瑠璃色の瞳を丸くした。


「……あの少女」

「あ?」


 旅人風の男が、大股でセイムの近くまで進み出る。その頃になってようやく様子をうかがっていた他の魔導士が、ようやく下級魔導で炎の種を消していた。

 やがて男がセイムに何か話しかけると、彼女の体は糸が切れた人形のように男の腕へと倒れこんだ。思わず立ち上がったラウは、剣に手を掛けたままで叫ぶ。


「おい、オッサン! なにやってやがる――セイムは、」

「魔力が切れたんだろう。上手く応用を利かせたようだが、気象を操る魔導は風、水ともに上級魔導だ。この少女の魔力量には驚かされたが、それだけの魔導を予備動作も準備もなしに使えば王宮の「杖」でさえそう長くは持たん。疲労が積もってはいるようだが、安心していい。眠っているだけだ」


 淡々とそう告げる旅人の男に、ラウは瞬きをすることすら忘れていた。この男が大丈夫だと言えば、無条件にそれを信じられてしまう。そんな不思議な感覚は、頼もしくもあったが同時に不気味なものでもあった。


「オッサン――」


 不思議そうな顔で見つめてくるラウに、男は溜息をついて腕の中のセイムを引き渡した。王宮の方から、多くの足跡が近づいてくる。目を凝らせば、純白の法衣が暗がりの中に浮き出て見えた。恐らくあれが、宮廷魔導士だろう。


「これは、何があったのです」


 法衣の集団を率いてきた銀髪の男が、広場の惨状を目に言葉を失っていた。年若く見える男を、恐らく王都で知らない者はないだろう。現宰相位にして「杖」の二本目、従二位魔導令師イヴァン・ヴィクトリカだ。

 死人が出ていないからいいものの、広場の損壊は激しい。法衣をはためかせてあちこちへと走り回る魔導士たちに指示を出しながら、令師イヴァンはセイムを抱き留めたままのラウの元へとやってきた。


「お怪我はありませんか。彼女は」

「お、俺もコイツも怪我はねぇけど……セイム、魔力切れだってこのオッサンが」

「オッサン?」


 銀髪を揺らして、イヴァンは首を傾げた。それに伴ってラウも辺りを見回すが、あの旅人風の男はすでに影もない。


「ともかく、この雨、水女神アルドゥの魔導は彼女のお陰なのですね? 宮廷魔導士の到着が遅れてしまったのは私の責任です。彼女には悪いことをしました」


 痛ましげに目を細めた銀髪の魔導士は、眠るセイムの前に右手を翳した。柔らかい光が、暗い広場に広がっていく。


「気休め程度ではありますが、魔力切れはとにかく術者に休息を与える必要があります。今夜はぐっすり眠らせてあげてください」

「お、おう」


 とはいえ、ラウはセイムの家など知るはずもない。優しいイヴァンの微笑みに背中を押されるようにして彼女を抱えて広場を後にしたものの、彼女をどうすればいいのかなど考えもつかない。自分の母がいる家に連れて帰る事も考えたが、突然昏睡状態の少女を連れて帰ったところで母にどんな顔をされるかは目に見えている。


「つったら、ロディんとこか」


 しばらく考えて、ラウはセイムの体を抱え直した。ほっそりとした体だが、眠る人間の体は恐ろしく重く感じる。知己の家を訪れてまず一発殴られる覚悟は、しておいた方がよさそうだ。

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