01

 それはセイムが17になった年の冬、突然としてやってきた。


「おはようございますお師様――お師様?」


 彼女らが住むレディウムの森は寒さが厳しく雪深い。冬支度をすっかり終えると、二人は大概小さな小屋の中で過ごしていた。防寒対策として張り巡らされた魔導は常に部屋の中を一定の温度で保ってくれる。

 珍しく雪も降らず、晴れ渡った朝のこと。

 目が覚めてヴィア=ノーヴァの部屋へと顔を出したセイムは、その異変を目の当たりにすることになった。


「どうなさったんですか、お師様!」


 普段ならばとっくに身なりを整えて読書をしている師の姿は見当たらない。もしかして寝坊だろうか――普段は見せないヴィア=ノーヴァのそんな姿を想像したセイムは、次の瞬間それをいたく後悔した。

 心もち盛り上がった布団をめくれば、確かにそこには寝そべった師の姿がある。けれど苦しげに呼吸を荒げて胸を押さえている彼の姿に、セイムは声を上げずにはいられなかった。


 セイムが物心ついたときから、彼があまり体が強い人間ではないということは分かっていた。セイムが初めて習ったのは薬草の煎じ方で、それもヴィア=ノーヴァの為に毎日欠かさず薬湯を作っていたのだ。何年たっても外見が変わることのない魔導士の体は、緩やかにではあるが確実に弱っていたらしい。


「セイム、朝からそんなに大声を出すものじゃないよ。私は大丈夫だから」

「大丈夫なわけないでしょう!? ご、ご自分の顔色を見てから仰ってください!」


 苦しそうに息を吐き出しながらベッドから起き上がろうとする師匠の体を、セイムが押し留める。それでもいつものように弟子の頭を撫でながら、ヴィア=ノーヴァはゆっくりと息を吐き出した。

 しかしそれすらもその体に痛苦として襲い掛かるらしく、何度も息をつめては動きを止めるのを繰り返して、ようやく彼はセイムに微笑んだ。出会ってから十七年間、彼が毎日のようにセイムに向け続けた優しくて穏やかな笑顔だ。


「私はね、セイム。それなりに長く生きてきたよ。そうだな、前にも言った通り、今の君の年齢の二倍ほどは王宮で魔導士として過ごしてきた。色々なことがあったよ。何度だって殺されそうになってきたけれど、その度に私はそれを回避してきたものさ」


 セイムの外見がどんどんヴィア=ノーヴァの年齢に近づくにつれ、彼女は幼い頃に聞いた魔導士の話が師匠本人であることを理解していった。数多の禁術を使い帝国を繁栄に導いてきた大逆の魔導士を、それでもセイムは父として兄として慕っていたのだ。


「けれどもうそろそろ、肉体的には限界がきているのかもしれないね。人間の体は、魔導の深淵を覗き込むにはあまりに短い年月しか生きられない」

「お師様……」

「私に先見の能力はないけれどね、きっと大丈夫だ。君は若い。これから歩む道によっては、君は私をも凌駕する素晴らしい魔導士になるだろう」


 何もかも見透かすような深い色の瞳をゆっくりと瞬かせて、ヴィア=ノーヴァはセイムの顔を覗き込む。大きな瞳に涙をためたセイムは、必死に顔を上下させることで意思を伝えようとしていた。

 生まれた時から家族のないセイムにとって、師は唯一の家族だった。読み書き算術、一通りの家事から魔導まで、彼は持てる知識の全てをセイムに授けてきたのだ。

 それはこれからも決して終わることはないと、セイムは信じていた。


「いい子――セイム、君はこの森を出て帝都に向かうんだ。そして、いつか約束したように宮廷魔導士になってくれ。皇帝陛下は、力のあるものを決して軽んじたりはしない。君が女性であろうと、大丈夫、私が君に授けた知識と力は、並大抵の魔導士なんかよりずっと強固」


 話すことも辛いだろうに、ヴィア=ノーヴァはそこまでまくしたてるように言った後で赤黒い血を吐いた。長年にわたって魔導の力で姿を留めつづけてきた代償は、思いのほか大きかったらしい。どんどん青白くなっていく表情に、セイムは終わりを予感していた。


 彼はきっと、もう立ち上がることも出来ない。氷の中で爆ぜる炎を得意げに披露しては初見でやってみろと無理難題をひっかけてくる遊びも、もう出来ない。無茶をするたびに叱られることも、恐らくもうないのだ。


「もう少し、もう少しだけだ……セイム、君は聡い子だ。私のこの身体が既に限界を迎えていることは、理解できるね?」

「はい、お師様」

「聡い子は好きだよ。けれど、私の魂は違う。まだ若い君を一人にするのは心苦しい。王宮は伏魔殿だ。だから私は、私の心を君に遺そうと思う。培った知識はすべて君に授けたはずだ。だが君には、圧倒的に経験が足りない」


 力のこもった視線が、セイムをとらえた。一定以上――恐らくヴィア=ノーヴァほどの魔導士になれば、こうして姿を留めておくことも可能だ。だが、彼はきっとそれ以上のことを成そうとしている。

 直感的にそう感じて、セイムは思わず身を乗り出した。彼のしようとしていることは、この17年の暮らしで手に取るように理解できる。


「私の持つ呪具はすべて君に授けよう。魔導書も、好きなだけ持っていくといい。けれど決して、街で私の名を出してはいけないよ。君が私の名を口にするのは、皇帝陛下に謁見したその時だけだ。恐らくその頃には、私はまた、君の傍に添うことが出来るだろう」

「それは――神の禁忌ではないのですか。そんなことをすれば、お師様はノーナに裁きを下されてしまいます」

「そうだな、確かに多少は不利益が生じるかもしれないが、生憎私はノーナの花嫁と顔見知りでね。可愛い可愛い私のセイムを見守りたいというささやかな願いくらいは、見過ごしてもらえるんじゃないかな」


 恐らく今、ヴィア=ノーヴァがしようとしていることは禁術中の禁術だ。それがなんであるかを分からないほど、セイムは子供ではなかった。神の領域に足を踏み入れた魔導士がどうなったかは、古今東西の与太話でも相場が決まっている。


「それは、してはいけないことではないのですか……お、お師様に頼らなくたって、私、もう17です。立派な大人です……一人でも、国一番の魔導士に、なって」


 徐々に、しかし確実に細くなっていく呼吸を追うように、セイムはしゃくりあげるのを無理矢理堪えているようだった。ゆっくりと光を失っていく師の瞳は、それでも最後の弟子に向けられている。けれど、恐らくもう彼には何も見えていないのだろう。薄く開いた唇から、また一筋赤い血液が流れ出した。


「大丈夫。私が約束を破ったことが一度でもあったかい? 私の魂はいずれ君に寄り添って、必ず力になるだろう。忘れないで……私は、この大師ヴィア=ノーヴァは、王の」


 最期の言葉がはっきりとセイムの耳に届くことはなかった。きっとそれは、顔も見たことがない誰かに向けて放たれたものなのだろう。けれど秀麗な顔に深い疲労を映し出したヴィア=ノーヴァの深い瞳は、もう開かれることはない。稀代の魔術師が自分の名前にかけた呪詛は、術者自身をも喰らいつくしたのだ。


「お師様、お師様――」


 強固な力を持った魔導士の体躯は、その血液の一筋、涙の一滴であっても呪具と呼ばれる魔導の媒介に変化する。自分に何かあった時はすぐその体を灰に還せというのは、小さい頃から何度も言われてきた。下手をすればこの森自体が、魔の名を戴く要塞になることもあり得るのだ。


「紅玉の六角、灰塵の申し子よ。彼の者の肉体に焔の祝福を」


 師の肉体だったものは、最下級の火炎魔導で跡形もなく消え去った。魔導の炎は術者ですら焼き焦がすこともある。詠唱すら必要としないもっとも簡単で威力の低い魔導ではあったが、師から最初に教えられた術式は、せめてもの餞だった。吹き付ける熱気にセイムが目を閉じたころには、既に焼け跡となったそこに眠る者はない。


「必ず、皇帝陛下に会ってみせます。お師様の汚名も、返上してみせますから」


 そして師との別離から一月と経たぬ間に、彼女はレディウムの森を後にすることになる。

 師が遺した幾つもの魔導書を抱えて、セイム・ミズガルズは遺言通り帝都を目指すことを決意したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る