名前のない賢者

玖田蘭

プロローグ

 宮廷魔導士が着る純白の法衣は、赤黒い血と埃で見る影もなく汚れていた。しかし尋問と称する暴行の後であるにもかかわらず、秀麗な男の顔は一切苦痛に歪んではいない。むしろ淡く微笑みすらたたえた状態で、目の前の兵士を睨み付けていた。


 皇帝の死は、驚くべき速度をもって国中を駆けまわった。かつて賢帝と呼ばれた王の最後は壮絶であり、実の息子とその後見人たる一人の魔導士によって毒殺されたというのである。

 しかしそれによって、皇位継承権がないに等しい第七皇子ゼルシアがシュタックフェルト帝国第38代皇帝に名乗りを上げ、その後即位。父の喪が明けきらないうちに王宮の全面改革に乗り出した若干15歳の若き皇帝は、その辣腕をもって国内外に名を轟かせることになった。

 それが、この月の初め。大魔導士ヴィア=ノーヴァが捕縛されるよりも少し前のことだった。


「正一位魔導大師、ヴィア=ノーヴァ――私、ティティ・オデッサは知識神ノーナの名のもとに裁きを下します。貴方は今や、先帝陛下を弑逆しいぎゃくたてまつった大罪人である」


 埃臭い地下牢に、年端もいかぬ少女の声が響く。

 正一位――王を補佐する宰相位に就いていた国内最高峰の魔導士であっても、神殿付きの高位魔導士たちによって幾重にも張り巡らされた結界の中では身動きが取れないらしい。涼しげな表情の中に多量の憎悪を滲ませながら、彼は嘲るように鼻を鳴らした。


「ならば私を殺すのか? 神の花嫁だか何だか知らないが、こんな寄せ集めの魔導士如きが、私を、このヴィア=ノーヴァの命を奪うと?」

「口を慎みなさい。私はあくまで、智の番人にして法の執行人、我が夫ノーナの名のもとに裁判を執り行っています」


 表情を伺うことが出来ないヴェールの下で、少女が冷たい声を吐いた。気温が低い地下牢で白い息を吐き出しながら、ヴィア=ノーヴァは長く垂れ下がった髪の隙間から女を睨み上げている。神殿と王宮――表立って対立こそしていないが確執が根深い両者の対峙に、若い魔導士が数人気をやった。


 策謀渦巻く王宮で長い年月を生きた大魔導には虚無と狂気の魔眼が備わっているというのは、巷では有名な噂だ。しかし当の本人にとってそんな話は、心底どうでもいいことである。


「ヴィア=ノーヴァ、貴方が現皇帝ゼルシア陛下を魔導でそそのかし、先帝陛下の食事に毒を盛ったと、今王宮ではその噂でもちきりです」

「だから? だからあなた、誇り高い花嫁様は私よりも下衆な与太話を信じるというのか? 誰よりも公平で誰よりも正しいあなたが!」


 吼える魔導士の声は、ティティを護衛する兵たちによってかき消された。幾ら歴戦の魔導士とはいえ、魔導の使えないそれは一般の兵士よりもはるかに脆弱だ。しかしヴィア=ノーヴァは兵士らの鋭い視線で押さえるように睨み付けると、唇をいびつな形に歪めている。


「あなた、笑っているというの? この状況下で……」

「あぁ、あぁそうだろうとも。これ以上の喜劇などあるものか。よりによってこの私が国賊とは――私はこの三十年、ただひたすら帝国の繁栄のために力を尽くしてきたというのに!」


 朝焼けの空のような長髪を振り乱し狂ったように笑うヴィア=ノーヴァの姿に、ティティの周囲を固めていた兵士たちは皆怯えきっていた。視線を合わせ言葉を交わしただけで相手を呪うことが出来るという最悪の魔導士が、真正面から自分たちを見据え呪詛の言葉を吐いている――末代まで呪われるのではないかという恐怖が、一帯を支配していた。


 だが屈強な兵士たちでさえ身を強張らせるその状況においても、ティティは毅然として声を張り上げる。それは美しい魔導士にではなく、立ち竦む自らの兵士たちに向けての叱咤の声だった。


「狼狽えてはなりません、我等はノーナの天秤。相手がいかな力の持ち主であろうと、決して屈することは許されないのです」


 知識と法律の番人であるティティは、狂ったように笑い続けるヴィア=ノーヴァを冷めた瞳で見下ろしながらそう言い放った。智と魔導を至宝として掲げる帝国において、最高神ノーナの花嫁たるティティの言葉は絶大である。


「……私を呪いますか、大師。あなたを権力の座から追いやり、国を育てたその力を厭う私たちを」

「まさか。権力など毛の先ほども興味はないね。共に長い年月をこの伏魔殿で過ごした者同士だ。行く先を祝福こそすれ、呪うなんて悪趣味な真似はするつもりはない。……そうだね、呪うというのならば」


 長い年月を生きた、蛇のような笑顔だった。もともと造りが秀麗であるヴィア=ノーヴァの表情は冷酷に歪み、常軌を逸した凄絶な感情が剥き出しのまま晒される。

 髪と同じく朝焼け色の瞳が、一度見開かれてすぐに細められた。



「呪うならば、私はこの身を呪おう。この名を、背負った運命を、私のすべてを呪おう。今後我が名を、我が許可なしに囁く者はすべからく呪われるがいい! 我が至宝たる智の深淵に、我が鍵なく触れる者は須らく苦しむがいい! いいか、私は王の剣。王の盾。決して王に刃を向けることなど有りはしない。覚えておけノーナの花嫁よ。私は必ず、再び玉座にまします王へ膝を折るであろう。貴様らがどう私を退けようと、私は必ずここへ、王の御許へ帰参する! その事、努々忘れるな――」



 絢爛豪華な王宮の奥深く。誰も殺すことができないとさえ言われた大魔導士は、帝国の辺境、魔と蛇がのたうつというレディウムの森に幽閉されることになった。そうして魔導士は、自分の力を受け継ぐことができる弟子を探して今も森の奥底で息をひそめるように暮らしているという――――。



「さ、ここまでにしようか。続きはまた今度。かまどに火をおこすから近づかないようにね」

「え、待ってくださいお師様! まだ魔導士様がどうなったのか聞いてない!」


 智の神の為に作られた、鎮守の森。今は既に人の手が入ることもなく、鬱蒼とした木々が生い茂るそこは、少女の家で、遊び場で、学校でもあった。

 少女の体が半分も隠れてしまいそうな大きな本をふわりと浮かせて、ベッドの上に座る若い男は穏やかに笑ってみせる。


「物語は一番いいところでやめるから美しいのさ。この後はあまりいいことないんじゃないかな、この魔導士」

「でも、気になる!」

「……じゃあ、『悪い魔導士は正義の王様にボッコボコにされて森の奥深くに捨てられましたとさ』めでたしめでたし」

「めでたくないですっ!」


 長髪の男は困ったように笑って、それから少女の頭を優しく撫でた。乾いた咳を何度か繰り返すと、かたわらに置いてあった薬湯を一気に飲み干す。生まれた時から親がない彼女にとって、彼は唯一の家族も同然だった。


「私の可愛いセイム。どうしてそんなに悲しそうな顔をするのか、私に教えてくれないかな?」

「だって、王様だって悪い人なのに……その魔導士様、かわいそう」


 大きな目いっぱいに涙をためる少女に、男は一層笑みを深くした。彼はこの小さな少女に、自分の持てる知識の全てを与えたがっている。薬の煎じ方も、簡単な魔導も、教えれば教えただけ吸収していく少女に、彼は愛を囁くように知識を授けていった。


「優しいね、君は。でもそれでどうするの? 王様はきっと、君のことなんか知らないのに」

「私、王様に会う」

「どうやって?」


 男は問いかける。彼女が自ら答えを出せるように、いつだって彼は明確な答えを示そうとはしなかった。

 故に少女は考える。どうやったら帝都の玉座に座る皇帝に謁見することができるのかを、頭を抱えて考えた。

 

「強くなるわ。魔導や薬の使い方をたくさん勉強して、王様が私に会いたいっていうくらい強くなって、それから、それから……」

「皇帝陛下が君を欲しがるほど? それは随分大きなことを言うね」

「絶対なるもん! お師様――ヴィア=ノーヴァ様より強くなる!」


 純粋な夢に、思わず男は吹きだしてしまった。どうもそれが気に食わないようで、少女は身を乗り出して自分の師匠に反論する。

 けれど男は、少女の夢を否定はしなかった。その小さな体を抱き上げてやると、自らの膝の上に乗せて大きな瞳を覗き込む。


「いい子。君は本当に優しい子だね」


 意味を持って紡がれた言葉は力になる。この国で唯一その名を呼ぶことができる少女を見つめ、青白い顔の男――大罪人ヴィア=ノーヴァは愛おしげに微笑んでみせた。

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