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「お待ちなさいませセイム様、何処へ行くおつもりです? まだ体が癒えていないのに、朝議だなんて許しませんわよ!」
扇を手に両手を広げるシャルローデの横を走り抜けると、セイムは何度も謝りながら後宮を後にした。先日、従二位魔導令師イヴァン・ヴィクトリカの反乱によって起こった事件で、セイムもまた深い傷を負っていた。魔力が回復し傷が癒えかけてきたところで、ゼルシア直々に朝議への出席命令が下ったのだ。
シャルローデの計らいで数日間の療養をリベリア宮で過ごしたセイムは、万全とはいえないまでも回復していた。その状態で流石にゼルシアからの命令を断るわけにもいかない。ノーヴルが待つ謁見の間まで、そのまま駆けていく。
「ん?」
大概の官吏は、皆出廷してしまっている。ふらふらと庭の方を歩く黒づくめの人間を見つけたのは、セイムがこっそり廊下を失踪していた時のことだった。
「あの、どうかされたんですかー?」
もしかして道に迷っているのだろうか。
セイムが声をかけると、その人影は弾かれたように顔を上げた。ゆるゆるとこちらにやってきて気付いたのだが、黒い服は神殿でよく見られる礼服だ。
「君は……?」
「近衛魔導士隊第十席、セイム・ミズガルズです。えぇっと」
「あぁ、君が例の特例魔導士か――」
頭上から優しい声が降り注いで、セイムも顔を上げる。驚いたのはその髪の色が一切色の抜けた白髪だったのと、顔の上半分が仮面でおおわれていたからだ。
髪などは、イヴァンの銀髪とはまた違う。例えば、元々色が塗ってあった絵画を無理矢理城で塗り固めたような――。
「ちょうどよかった。俺と一緒に謁見の間まで向かってくれないだろうか? その、恥ずかしいことに迷ってしまって。もう、ここまで最後に来たのは十五年以上前だから」
表情はまるで見えないが、唇と声は笑っていた。
確かに王宮は広いし、一度迷ったら中々目的の場所までたどり着くことはできないだろう。セイムは快諾し、男の少し前を歩く。
「この度のことは、大変だったな」
「え?」
「宰相位が皇帝に刃を向けるのは、帝歴七百年代に一度起こったきりだ。言えばそれほど内憂を知らない、安穏とした国だったんだろう」
セイムは、その言葉に立ち止った。
イヴァンのことは、周到に隠されているはずだ。国内で下手な内乱が起きることを防ぐために彼は死んだことにされていると、ゼルシア本人の口から聞いた。
一体、彼は何者なのか――謁見の間の重厚な扉が眼前に迫っているのに、セイムは冷や汗が止まらなかった。
「君、どうしたんだ。ここは子供の来る場所じゃないぞ」
ハッとした時、衛兵が怪訝そうな顔でこちらを見ていることに気付いた。辺りを見渡しても、あの仮面の青年はどこにも見当たらない。
「子供じゃないです。あの、朝議に出席せよとの命が下ったので――まだこの肩書きでいいのかはわからないんですが、「十本目の杖」セイム・ミズガルズです」
本来ならば、彼女の面倒を見ていたイヴァンがする筈だった手続きだ。彼がいなくなってからは、本当にしてもらっていたことの重要さに気付く。先立ってゼルシアから渡された勅書がなければ、セイムはそのままつまみ出されていたかもしれない。
「こ、これは失礼いたしました。会議場までご案内いたします」
勅書を見せた途端、居住まいを正した衛兵がセイムをその場まで案内してくれた。中に入れば忽ち厳かな空気が一帯を支配し。他の「杖」の面々の多くが揃っている。対面に控える「剣」の中には、緊張した面持ちのラウも立っていた。
先ほどの青年は何処にいるのだろうか――まさかこの短距離ではぐれたということはないだろう。
「遅いじゃないか、みんな待ってたんだよ」
「す、すいません」
「別に、僕に謝る必要はないよ」
ツンとした表情のジョルジュが、肩を竦めた。イヴァンがいない今、「杖」を実質上束ねなければならないのは彼である。普段は宰相が行う朝議の司会も、ジョルジュが行うことになっていた。
「お静かに。皇帝陛下御入来でございます」
ややあって、ジョルジュが厳かにそう言った。
「なお、司会は私、ジョルジュ・オリエンティウスが務めさせていただきます。これよりイヴァン令師についての弔辞を陛下が延べられた後、先の遠征で亡くなった兵士たちの慰霊式典について――」
一本調子でそこまで言ってのけたジョルジュは、心底面倒くさそうに欠伸をかみ殺した。こうして見れば魔導士はかなり個性的な面々が多い。普段顔を合わせることのなかった他の「杖」も、皆一様に何か別のことをしていた。
「これまで、こうした儀式時の執り行いはイヴァン様のお役目だったから。……「一本目」の称号も、正直僕には荷が重い」
雑務はうんざりだと肩を竦めたジョルジュの言葉の後に、重厚な扉が開く。皇帝ゼルシアと皇妃シャルローデが、ともに会場へと足を踏み入れる。
「まずはジョルジュ、進行役大儀であった」
「勿体なきお言葉」
一言だけ述べたゼルシアが、宮廷百官を見回して暫し時間を置いた。ややあって滑り出した言葉に、セイムもまた目を伏せる。
「本日、諸卿らに集まってもらったのはほかでもない。我が一の杖にして宮廷百官の長、イヴァン・ヴィクトリカのことについてだ」
低く、それでいてよく通る声が会場全体に響きわたった。恐らくジョルジュのように魔導を使っているわけではない。その場の全員が、一人も漏れることなくゼルシアの言葉に注目しているのだ。セイムに笑いかけるその姿とは違う、一刻の主としての姿がそこにある。
「先日、我が后シャルローデ並びに、「十本目」セイムが賊に襲撃された。イヴァンは魔導令師としての職務を全うするためにその賊に挑んだのだが――」
暗赤色の瞳が、僅かに陰ったようだった。けれど押し留めた言葉を気取られないように、ゼルシアは続ける。
「多勢に無勢であった。俺自身も近衛を動員して賊の征伐に動いたが、イヴァンは勇敢にもその侵入者に単身で立ち向かい、それらすべてを撃退した。だが如何なあれだけの魔導士とはいえ、十数人の侵入者を相手取るのは無謀であったのだろう、俺たちが到着したころには、既に」
それが、ゼルシアたちが考えた「襲撃事件」の大まかな脚本だった。
後宮近くで何かあったことは、警護の兵たちにも広く伝わっている。しかし、皇帝の右腕とされるイヴァンの反逆は、あまりに大きすぎる醜聞だ。そこでゼルシアやヴィア=ノーヴァ、話を聞かされイヴァンの捜索に当たった近衛たちが考えたのは、「イヴァンは侵入者に単独で立ち向かい、自らの命と引きかえにゼルシアたちを守り抜いた」という、一見出来すぎた美談だ。
「俺は、――このイヴァンの行動に多大なる敬意を払う。また尊い犠牲の上に成り立つ現在の平穏に、祈りを」
祈りは、ゼルシアの仕事ではない。
この言葉は間接的にではあるが、これまで敬遠になっていた神殿、ひいてはティティとの和解を暗喩したものだった。
「更に、先日の遠征のこともある。故に本日は戦女神ナターリェンの神殿より、ジークリンデ・ハイドランジアを召喚した」
ゼルシアが言ったその一言に、一気に議場がざわついた。
ジークリンデ――つまりゼルシアの実兄。本来なら、ゼルシアよりもこの大帝国の主に近かったはずの人間。
十七年間王宮に立ち入ることのなかった彼が、ゼルシアの要求に応じて神殿を出たということは、宰相イヴァンの死よりも大きな衝撃となって王宮を駆け巡る筈だ。
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