51
「セイムっ!」
弾かれたように走り出したのはラウだった。力なくゼルシアに寄りかかったセイムを、瑠璃色の瞳が気遣わしげに流し込む。
「あー、ラウ……うまくいった? ちょっと起き上がれないっていうか」
未だに視界が安定しない。世界が回っているようだと苦笑すると、ラウからすぐに叱責が飛んできた。
「無茶してんじゃねぇよ! 俺だってわかる、一歩間違ってりゃ死ぬとこだったんだ」
ラウの言うことはもっともだ。セイムだって、玉石が熱くなり出す前はいっそ死すらも覚悟していた。身の丈に合わない魔導を使った魔導士の末路がどうなるかは、嫌というほど師匠に聞かされていたからだ。
「ラウ、セイムをそう責めないでやってくれ。命令したのは俺だ……よくやった」
そう言い残してセイムをラウに預けると、ゼルシアは大股にイヴァンに近づいた。未だ縛鎖に捉われたままのイヴァンは、虚無をそのまま絵に描いたような瞳で力なく主を見上げている。
「陛下……どうして、私はあなたの、あなたに全てを手に入れてほしくて」
「お前にそう思わせてしまったならば、それは俺の無力と無知のせいだ。許せイヴァン」
踏みしめた木の枝が、乾いた音を立てて折れた。赦しを請うその姿は、セイムに見たこともない一人ぼっちの皇子の姿を思い起こさせる。力なく頭を振るイヴァンは、血の気の失せた顔に深い慟哭を刻み付けていた。
「私だけが、あなたをお守りすることが出来ると。そう思っておりました……私の中であなたは、いつまでも一人っきりの孤独な主だった。そう思っていたのは、本当に私だけだったようだ」
白銀の髪はどこかくすんだ様な色をして地面に散らばっている。抵抗しないと踏んだゼルシアが鎖に触れると、それは忽ち空に四散した。力のない瞳が、相変わらずゼルシアを見つめている。
「私が、おらずとも。陛下には信用に値する「剣」と「杖」を、ご自分の手で集められていたのですね」
震える声の間に吐き出される吐息は弱々しい。遠くから眺めていたセイムも、ふらつく足を叱咤してイヴァンの元へ向かおうとしたが、同じく疲労の色濃いヴィア=ノーヴァがそれを制する。
「何故、このような真似をした。お前ほど才覚溢れる魔導士が、どうして」
ゼルシアの静かな糾弾に、イヴァンはうっすらと笑みを浮かべた。ローブの中から覗く腕は、折れてしまいそうに細い。
「この、十七年間。あなたが私を、「二本目」に召し抱えてくださってからの十年間も。私は、常にヴィア=ノーヴァの影に怯えておりました……彼は、必ず戻ると、そう言っていた。現にあなたは、彼の為に「一本目」の座を開けておられました。私は怖かった。築いてきたあなたからの信頼が、一気に彼に奪われてしまうのではと」
与えられた地位は、イヴァンにとってただの付属品だったようだ。地位に比例して受けるゼルシアからの信頼こそが、彼がひたすら高みを目指してきた理由であるとするならば。
「けれど、彼の死を知った時――あさましくも、私は歓喜に震えました。これで、私が誰かに挿げ替えられることはないと、あなたの為に尽くす「杖」の最上位が私であると確定したと、そう考えていたのです」
そこに、ヴィア=ノーヴァの弟子だというセイムがやってきた。その時の彼の心痛を思うと、セイムはどうしようもなく申し訳ないような悲しいような、不思議な気分になった。彼が放った「天井の見えぬ素晴らしい力」とは、そのまま大人になり魔力的な成長がなくなった自分を揶揄していたのだ。
「セイムは、素晴らしい能力の持ち主です。それは、彼女を近くで見ていたのでよくわかります。彼女はやがて、彼女の師をも超えるでしょう」
狂気も、覇気も、精気すらもそぎ取られたようなイヴァンの顔が、ゆっくりとセイムの方へ向けられた。よく知った優しい笑顔は、歪に歪んでいる。
「そんな彼女の力にも、私は醜く嫉妬をしたのです。本当に、あなたを殺そうと思っていましたよ」
指先に込められた魔力も、肩を射ぬかれた痛みも、すべて本物だ。何も言わずにセイムがペンダントを握りしめると、力を失ってひび割れた石の欠片が地面に落ちていく。イヴァンがセイムに向かって指を伸ばすと、じんわりとした痛みが引いてくようだった。
「サヤの魔導の応用です……順当な手順を踏めば、癒手の力もジョルジュの技術も、応用することが出来ます……けれど、あなたには逆にしてやられてしまいましたね。雷の血脈を使うとは、命知らずにもほどがある」
ほっそりとした指先が、空を掻いた。いつの間にかその手には、小さな薬瓶が一つ握られている。
「下らぬ妬心に身を焼かれた結果が、このようなものであると、若いあなたたちもよくよく肝に銘じておくといい」
歌うようにそう言って、薬瓶の蓋を弾く。
「そこまでだよイヴァン」
「ノーナの天秤がこちらに到着するまでは、拘束させていただこう」
硝子が砕け散る音と、二つの声が重なった。
今にも折れてしまいそうなその手から薬瓶を薙ぎ払ったのは、師匠の爪先だ。
「アマルシア……そうでしたね、あなたたちのことも忘れていた」
全てを諦めきった表情で、イヴァンが微笑む。ゼルシアが彼を見下ろすのに浮かべた色は、痛々しいものだ。
「お前の処遇は、俺が決めることじゃない。ノーナの天秤の通達を待て。それまでは、近衛の監視下に置かせてもらう」
ゼルシアの宣言にもまた、イヴァンはゆっくり頷いた。アマルシアやエイリオスはこの為に連れてきたらしい。
セイムがラウの腕を押しのけたのはその時だった。おぼつかない足取りでゼルシアの真横をすり抜けると、イヴァンと同じように地面に座りこむ。
「私も、空っぽです。陛下とイヴァン様のお力がなければ、とっくに死んでいたかも」
首から外したペンダントを、眼の前にぶら下げる。イヴァンの胸元にもセイムと同じような首飾りが下がっているはずだ。虚ろだった両目に、僅かに光が差す。
「……皮肉な、ものですね。同じように私も、あなたの師から玉石を受け取ったというのに。――私は一体、何処で道を間違えたのか」
優しい笑顔のまま、けれどどこか泣き出しそうな表情でそう呟いたイヴァンの背後、恐らくこの状況を視ていたのであろうティティの傘下、ノーナの天秤たちの声が近づいてくる。
そしてそのまた後ろの方では、木々の間からうっすらとした光が顔を覗かせた。
暗く冷たい夜が明け、温かく優しい朝陽が顔を出している。セイムは今度こそ本当に、魔力切れでふらりと体を傾かせた。どこかで、ラウとヴィア=ノーヴァが叫んでいるようだ。
「ご苦労、セイム。今はよく休むといい」
低く聞き心地のいい声が鼓膜を叩いたのと同時に、セイムの意識もまた深い眠りに落ちていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます