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「可哀想に、女の子の体に風穴開けるなんて酷い事をするものだ。それも、この私の愛弟子に」


 絶対零度の視線に射抜かれたイヴァンは、驚愕と憎悪のないまぜになった表情で固まっていた。王宮の公式見解では、既にヴィア=ノーヴァという稀代の大魔導士は死んでいるはずだ。

 しかし今、イヴァンの目の前で微笑んでいる男は確かに記憶の中で彼が師と崇めていたヴィア=ノーヴァ本人である。十七年の月日を感じさせることのないその姿に、呪具を構えたままのイヴァンはわずかにたじろいだ。


「困ったことをしてくれたもんだ。馬鹿弟子もここまで来ると逆に愛しく思えてくるよ」


 そんなことは微塵も思っていないだろう――百人が百人ともそう思いそうな形相でイヴァンを睨み付けたヴィア=ノーヴァは、その間にも魔力の糸でセイムの傷口を塞いでいった。失血による寒さを防ぐために少しだけ頭を撫でて、美しい魔導師はかつての弟子と対峙した。


「セイム、無事か!?」


 呆然としたままのセイムを揺さぶったのは、切羽詰まったそんな言葉だった。視界の端に映る温かい色合いのブラウンと目が覚めるような瑠璃色が、心配そうにセイムの顔を覗き込む。


「ラウ……あの」

「馬鹿野郎、無茶しやがって」


 頭を小突かれて、だけどラウはそれ以上何も言わなかった。同時に抜かれた細身の剣が、悲痛そうな彼の表情を映し出している。それだけで、何もいらなかった。その後に続いて顔をのぞかせた麦わら帽子の男――確か、アマルシアだったか――が、大鋏を構えていた。あれなら本当に、人の首まで持っていくことが出来るだろう。


「令師……信じたくは、なかった。我等近衛の中で、最も高潔で最も誇り高かったあなたが」


 絞り出すような声のアマルシアに、イヴァンは笑っていた。ラウ、アマルシア、そしてヴィア=ノーヴァ――戦力的にはまるでイヴァンの劣勢であるにもかかわらず、引き攣った笑みはそのままに呪具を構えている。

 イヴァンの魔導発動よりも速く、その体を捉えることが出来るか。剣士たちは、その間合いを計っている。



「イヴァン、今なら三分の四殺しで済ましてあげよう。なに、気にすることはない。元師匠としての私の優しささ」


 嘯いたヴィア=ノーヴァの指先から、氷柱が躍り出る。同じ術を使うセイムとは精度も強靭さも、その冷気や大きさまでもが桁違いの氷塊は、イヴァンがセイムにしたのと同じように心臓を狙っていた。

 対するイヴァンも炎の盾でそれを片っ端から溶かしている。決してゼルシアには攻撃を当てないようにしながらも、耽々と攻撃の機会を伺っている。


「……先帝陛下の杖として名を馳せた魔導士も、所詮この程度。やはりあなたは過去の遺物なのですよ」


 薄らと浮かべられた笑顔に、ヴィア=ノーヴァも同じく毒を滴らせるような笑顔で返した。詠唱破棄などしていられない。気を抜けばどちらかが死にかねないと、二人は直感的に悟っている。


「海神の瑪瑙、蒼玉を司りし慈雨の女神よ――悪意の炎を御身の名の元に打ち砕かん」


 それは、セイムが帝都に来た初めての夜。

 帝都前広場の火事を止めたのとまったく同じ魔導だ。


「水女神アルドゥよ、純潔の処女神よ。御身の嘆きを氷柱に変え、御身の祈りを氷壁に変えよう」


 セイムが意識を失うほどの莫大な魔力の消費を、ヴィア=ノーヴァはまったく動じることなく使役して見せる。やがて降り出した大雨はゼルシアやセイムたちの傍を避けるようにして、イヴァンの上にだけ降り注いだ。驚くのは、その雨粒が全て氷柱になっていることだ。


「くっ……!」


 細かな氷に裂かれたイヴァンの肌が、赤い傷を咲かせていく。雨を振り払うような仕草を見せるが、強力な魔力で生成された氷は的確に彼を傷つけていった。


「ち――失せよ、雲母の渦に巻かれ命脈を手放せ――」


 魔導解除の詠唱すら、体を切り裂かれながらだった。雨を止めてもダメージが大きいのか、それまで余裕の表情を見せていたイヴァンは肩で息をしている。


「誰が過去の遺物だって? 私の魔導を躱すこともできない若造が、舐めた口をきくものじゃあない」


 一瞬だけ動きを止めたイヴァンを逃がさなかったのは、剣士の二人だった。

 声をかけたわけでもなく、それなのに二人同時に駆けだして、その体めがけて剣を振り下ろす――。


「裂!」


 ただ、それもイヴァンの一声で動きを止められることになる。

 剣を振り上げた格好のまま動きを止められたアマルシアとラウが、あっと思う暇もなく、その体に一文字の血しぶきが吹きあがった。


「な……?」

「馬鹿、下がるんだボウヤ!」


 途端にラウが感じたのは、後ろから引っ張られる気配だ。それに従えば、無理にイヴァンから引き離された体が地面に叩きつけられる。


「セイム、」


 かすれた声で、ラウがそれだけを呟いた。

 真っ青な顔をして呪具を握りしめているセイムが、二人を引き寄せたのだ。


「魔導士同士の対決なんて、剣士はお荷物にしかならないんだ――下がってろ。手出しはするな。君たちも、陛下もだ」


 命令口調でそう言い捨てて、ヴィア=ノーヴァは畳みかけるように幾つかの魔導を発動させた。だがそれらは先程の雨のような威力はなく、全てイヴァンに相殺されてしまう。

「流石に、そろそろ限界では? 人形風情の体では、本来のあなたの力の半分も引き出せないでしょう」

「どういう意味だい?」

「そのままの意味ですよ。セイムの魔力に依存しているというわけではなさそうだが、そんなちっぽけな魔力をこけおどし程度に増幅してみせた程度があなたの力ではないはずだ――本当は、二度の転移で魔力を使い切っているのではありませんか?」


 少し遠くの方でやり取りされている言葉を聞いて、目を見開いたのはゼルシアの傍に立っていたセイムである。

 生まれてこの方殆どの時間をヴィア=ノーヴァと過ごしてきたセイムは、彼の肉体が滅ぶその瞬間まで潤沢な魔力をすぐ傍で感じていた。まるで次々と水が湧きだす泉のように枯れ果てることのない魔力を、使い切ってしまっただなんて。


「転移……強制転移だ……」


 その言葉がイヴァンのはったりであるとも考えたが、ラウたち三人を空間ごと強制転移させたとなれば消費した魔力の量にも納得がいく。思わず師の背中に駆け寄ったセイムの足を止めたのは、それまで呆然としていたゼルシアだ。



「陛下、離して!」

「ヴィア=ノーヴァが、そんな考えもなしに魔力を垂れ流すだけの魔導士に見えるのか」

 最も信じていた人間に最も愛する家族を奪われた。その衝撃からこれだけの短時間で立ち直ったとでもいうのか、ゼルシアの瞳には普段の鋭い光が宿っている。


「だが、イヴァンの能力自体計り知れないものだ。お前が今行ったところで、二人纏めて焼き焦がされておわりだな。そうなったら、俺たちに一切の勝ち目はない」


 対魔導士戦の定石は、魔導士同士の対戦であることだ。むざむざ優秀な「剣」を無駄死にさせたくはないと、ゼルシアはゆっくり頭を横に振った。イヴァンとヴィア=ノーヴァの間でのにらみ合いは続いているが、この緊張もいつ断ち切られるかわかったものではない。


「そこでだ、セイム、お前の力を見込んで俺から一つ、提案がある」

「え……?」


 成功するもしないも賭けでしかないと、ゼルシアは肩を竦める。強い風が木の葉を揺する音に負けないように、けれどイヴァンには決して声が聞こえないようにと身を屈め、セイムの耳に唇を寄せる。


「いいか、教えられるのは一度きりだ。……イヴァンを止めてくれ、頼む」


 震えた声で懇願するゼルシアは、そっと一振りの懐刀を取り出した。

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