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痛みのせいで明滅を繰り返す視界の中で悠然と立つイヴァンを、セイムは睨み付けた。気を抜けば意識ごと持っていかれてしまう。取り出した呪具を握りしめる手に力を込めて、必死で足を叱咤する。
この状態でもう一撃喰らえば、確実に死ぬ。痛みに朦朧とした頭でもそれだけは分かった。
「イヴァン、貴様乱心したか」
「滅相もございません、陛下。全ては御身の為でございます」
出来た執事のように腰を折ったイヴァンが、秀麗な微笑みを浮かべた。セイムを諭すときと同じ、あの優しい微笑み。手には、禍々しい赤色の玉石。
「その娘は、大罪人ヴィア=ノーヴァ最後の弟子。師からどのような思想を受け継いでいるかわかりますまい」
「それを承知で俺はコイツを拾い上げたんだが……お前はそのセイムを間近で見ていたんだろう」
「えぇ、彼女は非常によく出来た魔導士です。ですが、だからこそ危うい――危険の種は、芽吹く前に摘み取ってしまうのが吉」
穏やかな表情や口調は崩さないままゼルシアとの会話を続けるイヴァンには、底の見えない感情が広がっているように思えた。気休めの止血をしても傷口はまだジクジクと痛い。呪具を構えなおしても、視界が歪むだけだった。
「へ、いか……」
「セイム、あまり動くな。血が止まっていない」
回復魔導を使うことが出来るほど、セイムは魔力を集中することが出来ない。気休め程度に氷の魔導で感覚を強制的に遮断すると、そこに薄い魔力のヴェールを纏わせる。痛みは引かないが、動かないということもないはずだ。
「平気、です。これくらいなら――でも、イヴァン様」
それでもふらふらと立ち上がったセイムは、今一度イヴァンを見詰めた。
月明かりに照らされた白い肌が、不気味なほどの妖艶さを彼に与えている。魔性と形容するにふさわしいそれから、彼女は目を逸らそうとはしなかった。
「急所を逸らしたのは流石ですが、それではただ苦しいだけでしょうに。セイム、あなたは私の兄弟弟子でもあるのです……苦しむあなたを見続けるのは、心が痛む」
森の中という障害物が多い場所で、的確にセイムを射ぬいた魔導の正確さは侮れない。実力主義のゼルシアが、自分に最も近い立ち位置に選んだイヴァンの実力は、セイムのそれの比ではないだろう。絶望的な実力差を前にして、震えた足が止まらない。
「どうして、ですか……私が憎いなら、最初から私を殺せばよかったのに。わざわざ陛下の食事に毒なんか盛らなくたって、あなたなら――先帝陛下だって、殺す必要はなかったのに」
切れ切れにセイムがそう言うと、イヴァンは教え子をさとすように声を落とした。清廉な瞳の輝きは、月の光の下で純粋なまでに輝いている。
「私の全ては、陛下の御為にある。その意味が、賢い君ならすぐにわかってくれると思うんだが……痛みで考えることも出来ないでしょう。私はね、陛下に皇帝陛下として、その名を内外に轟かせてほしかった。七人の皇子の中で、最も不遇で、最も気高く、最も王としての資質にあふれていたゼルシア・ハイドランジア様に、全てを差し上げたかったのです……きっと、先帝陛下も分かってくださる」
まるで愛する人に愛を囁くようにうっとりとそう言いのけたイヴァンに、ゼルシアの方があからさまな嫌悪を浮かべる。魔導士とは理性的な人間でならねばならない。そうでなければ、魔導に自らの魂ごと体を食らいつくされてしまうからだ。
そういった意味で、歴戦の大魔導士であるヴィア=ノーヴァやイヴァンのような存在は、類い稀なる精神力を持つということになる。
清廉で澄み渡る様な判断力と、何事にも動じない胆力。セイムが見るに、今のイヴァンからそれを感じ取ることはできない。まるで何かに憑かれたように、濁り曇った瞳が歪んだ。
「イヴァン」
奇妙に続いていた静寂を打ち払ったのは、凛としたゼルシアの声だった。父親の死の真相を知って顔色は青ざめていたが、その瞳は鋭い光を宿したままだ。
「貴様はそんなことの為に――俺を、皇帝なんぞに就かせるために、父上を弑逆奉ったと。そう言いたいんだな?」
父が死に、兄皇子たちがいなくなった王宮でゼルシアはたった一人だった。本来を皇帝を支えるはずのティティとは折り合いが悪いふりをしなければならず、ヴィア=ノーヴァは魔力を感知するだけでもやっとな深い森の奥底。シャルローデが傍で職務を支え続けたが、ひとたび外宮に出ればそこは孤独と疑念が渦巻く伏魔殿だ。気が触れてしまいそうになる重圧のなか十七年にわたって彼を支えてきたのは、他ならぬイヴァンであったというのに。
「あなたは、何も持っておられなかった。そう、私が手を下さねば先帝陛下はジークリンデ様を皇帝として推挙するおつもりだった! たとえジークリンデ様があなたを王にと推したところで、皇帝の持つ勅令権を行使されれば一介の皇子に選択権などないのです!」
そこで、ゼルシアが駆けた。
体格という点では、ゼルシアがイヴァンよりも勝っている。拳が風を切る鋭い音の後に、骨と骨とがぶつかり合う鈍い音がした。セイムも何が起きたのかは一瞬には理解しがたく、咳き込むその音で何があったのかを知ることになった。
「貴様の下らん忠誠心の為に、どれだけの人間が巻き込まれたと思っている。一番傍で俺を支えていたはずのお前が、何故」
慟哭を絞り出すように言葉を吐き出したゼルシアは、肩で息をしたまま俯いている。その問いに応えたのは、冷静な嘲笑だった。
「決まってるじゃないか。そいつは弱いんだ。あなたの圧倒的な
さざ波のように、異様な空気感を全てさらっていく声。
イヴァンが現れた時の様に、何処か生温い風が一陣抜ける。そこに立つのは、朝焼けの不思議な色をした、背の高い魔導師だ。
「私の可愛いセイム――あの馬鹿に酷い事はされなかったかい? 心配で心配で、ついついあの場の全員転移に巻き込んでしまったよ」
ノーヴルの声。痛む肩を押さえながら振り返ったセイムの目には、途端にいっぱいの涙が浮かんでいた。
「おし、さま」
生前と寸分たがわぬその姿は、セイムの親であり師であったヴィア=ノーヴァそのものである。幾分年若いノーヴルのそれとは違い、優しげなバリトンが鼓膜を叩く。
「遅れてしまって悪かったね。久々の強制転移だったもんで、さっき木の上に落ちちゃって」
尻から地面に叩きつけられたラウたちとは対照的に地面に降り立った男は、まるで何事もないかのようにゼルシアに歩み寄ってその体をイヴァンから引き離した。薄笑いすら浮かべているヴィア=ノーヴァとは違い、イヴァンはその瞳に強い憎悪の炎を映していた。
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