38

 本来側妃の中でも最も家柄が高い女性に与えられるのが、リベリア宮紫紺の間である。その名にふさわしく、部屋はとりどりの紫水晶で彩られ、側妃自身に与えられる色もまた深い紫である。

 東国では王族の身しか許されぬ特別な色であるという紫色をふんだんに使ったドレスに包まれて、セイムは小さく縮こまっていた。


「なかなかいいじゃないか。まあ……胸の方は少しばかり貧相だけど、気にすることはないよ。可愛らしいじゃないか」


 専用の軍服に身を包んだノーヴルは、やや動きにくそうに肩を回しながらそんなことを言う。些か、いや若干、かなり余裕があったセイムのドレスの胸の部分には、多分に詰め物がしてある。そうしていないと、ずるずると肩から紐がずり下がってくるのだ。


「可愛くたって、嬉しくないです……せっかく綺麗なドレスなのに」

「君の白い肌にはよく似合うよ。多少断崖絶壁だからってなんだい、シャルローデ様と比べたら、大概の女子は唇噛みしめて敗北を宣言せざるを得ないよ」


 セイムだって、自分の体が年頃の少女たちと比べて貧相なのは知っていた。特に魔導士の場合は、絶大な能力を持つ代わりに体力が著しく低かったりするということは珍しいことではない。自分の胸部の貧相さに関しても、それで決着をつけよう。出来るだけ前向きに、彼女は一度頷いた。


「それではセイム様、ノーヴル様。紺碧の間にご案内いたします」

「待ってくれ、呪具の携帯を許可してくれないか。この状況下だ、万一ということも考えられる」

「……本来、陛下の御前での武器の携帯は許可されておりません。まあ、セイム様の装身具という味方をするならば、その首飾りくらいは……」


 抑揚のない声でそう告げたプリシラが指すのは、イヴァンから譲り受けた雫型の玉石である。紫のドレスに玉虫色の玉石はあまりに似合ってはいなかったが、それでも何も持たないよりはマシだ。

 それ以外は全て鞄の中に突っこみ、部屋の中に置いておく。プリシラの背を追うように歩けば、慣れないドレスに足がもつれた。


「うう、ローブより歩きにくいんですね……」

「そりゃあ、まるで実用性を考えていないからね。私だって、軍服というには些か重たすぎる気がするよ」


 プリシラがこの場にいなければ、セイムはノーヴルに以前にもこうした服を着たことがあるのかと聞いていただろう。

 魔導士の正装はローブであり、それこそ特殊な儀式でなければ軍服は着ない。王の名代として軍を率いるときか、或いは戦争で功績を上げた時くらいだ。現魔導令師のイヴァンでさえ、こうした服を着る機会は少ないだろう。


「シャルローデ様、プリシラでございます。セイム様、ノーヴル様のお二方をお連れしました」


 プリシラの声に合わせて、扉が開く。

 目にも鮮やかな藍の空間が目の前に広がると同時に、甲高い歓声が上がる。


「まあ! まあまあまあ! 来てくださったのねセイム様! やっぱりそのドレスもお似合いですわ! さあ、陛下がいらっしゃる前にわたくしにもっとお顔を見せてくださいませ」


 夢見る乙女のように手を合わせたシャルローデが、満面の笑みでセイムを迎えてくれた。相変わらず人払いを徹底しているようで、紺碧の間にはシャルローデ付きの侍女が三人ほど控えているだけである。


「ノーヴル様も軍服で来てくださったのね? うふふ、まるでお人形のお姫様と騎士様みたい」

「動きにくいんですよねぇ、これ」

「あら、とっても素敵ですことよ? 機能性も大切ですが、軍服というものはある程度の美しさも求められるとわたくし常日頃より考えておりますもの」


 詰襟の軍服を窮屈そうに摘み上げるノーヴルは、ちらりと横目で扉の方を垣間見た。外に一人魔導士がいるのだ。皇帝の侍従か、或いはシャルローデ仕えの侍女か。


「あら、外に誰かおりまして?」


 その視線に気づいたシャルローデが、扉を開けるように命ずる。セイムが動こうとしたところ、ノーヴルが右手を掴んでそれを引き留めた。玉石で出来た彼の瞳が、何かを見つめているらしい。


 何故だか一陣、生温い風が吹き抜けた。やや熱気を孕んだそれにセイムとノーヴルだったが、シャルローデは首を傾げたまま扉に近づく。プリシラに下がるようにと声を掛けられるが、皇妃はやや硬質な声をその魔導士にかけるだけだ。


「どなた?」

「ゼルシア陛下がお渡りになられます。シャルローデ様、セイム様、どうぞお出迎えの準備を――」


 開け放たれた扉の向こうで頭を垂れたのは、ローブを着た細身の男性魔導士だった。金糸で蔓の描かれたそのローブは、確かにセイムが持つそれと同じデザインのものである。

「あら、そうでしたの。わざわざご苦労様」


 席を立ったシャルローデに、セイムがついて歩く。その様子だけならば普段と全く変わらないものであるが、ノーヴルはそこに生じたわずかな歪みを見落としはしなかった。

 一目散にシャルローデに向かって駆け出すノーヴルが、一つ吼える。


「下がれ皇妃!」


 そう喉の奥から叫んだのは、かつてヴィア=ノーヴァとして因縁渦巻く王宮を渡り歩いた経験だったのか。

 咄嗟に声を荒げたノーヴルに驚いたのか、シャルローデの動きが一瞬停止する。その瞬間、眩い光が紺碧の間全体を包み込んだ。


「セイム、皇妃!」

「お師様、私は平気です……シャルローデ様が」


 聡い弟子が咄嗟に障壁を張り巡らせたのか、その声は鋭く闘気を失ってはいない。ほとんどすべての呪具を部屋に置いてきたのだがあの玉虫色の首飾りが呪具の役目を果たしてくれた。これがなければ今頃この部屋は主ごと吹き飛んでいただろう。


「シャルローデ様、ご無事ですか!」

「わたくしは平気よ……けれど、王の背後を守るこのリベリア宮で、随分な真似をしてくださったのね? 王の聖域を穢す、あなたはどこの誰かしら?」


 扇を構えて固い声を上げたシャルローデに、泡を食ったのはセイムの方だ。下手に刺激をして皇妃の身を危険に晒すことはできない。相手は魔導士である。それならば、同じ魔導士であるセイムが壁になった方が幾らか攻撃を緩和することはできる――。


「シャルローデ様、どうかお下がり下さい! ここは私が……プリシラさん、皇妃様を外へ」

「いいえセイム様! この者はあろうことか皇帝が禁闕きんけつ、内宮に土足に踏み入りその領域を蹂躙したのです。内宮の秩序を陛下よりお任せいただいている身として、この狼藉を黙って見ている訳には参りませんわ!」


 構えた扇が、バチンと音を立てて開き、闖入者めがけて閉じられた。そこから飛び出すのは、無数の小さな針である。

 ――鉄扇。しかもあれは、特殊な仕込み武器だ。


「ぐっ……」

「今ですわ、セイム様!」


 細かい針の攻撃を躱しきれず、体勢を崩した侵入者にすかさずセイムが首飾りを構える。グレイヴの見立てでは、この石の属性は決まっていない。今ならば、どんな魔導にでも染まる石である。それを高く掲げて、セイムは指先に力を込める。


「来たれ!」


 詠唱を詠んでいる時間すら惜しかった。相手はおそらく腕利きの魔導士である。この一瞬、それを制することが出来るかどうかで勝負が決するだろう。

 セイムの呼びかけに応じて召喚された氷柱はそう数があるわけではないが、一点集中の攻撃は速度も威力もけた違いだ。


「ちぃっ!」


 だが、目を見張ったのはセイムとノーヴルの方だった。

 確実に男を捕まえたはずの氷柱が、真正面から同じだけの力を受けて砕け散る。市井の魔導士たちならまだしも、近衛に名を連ねるセイムの魔力を相殺するということは、やはり相手はよほどの使い手ということだ。

 砕け散った氷柱の欠片が舞い散る中で、男が部屋の外に駆ける。咄嗟にプリシラが扉を閉めようとしたが、魔導を食らって吹き飛ばされてしまった。


「待って……!」

「駄目だセイム、君はここに残れ。相手は私が追う」


 今にも侵入者を追いかけそうなセイムを視線で押し留めて、ノーヴルは降りはじめた夜の帳の中を走る。今彼女を危険に晒してはならない。ゼルシアが内宮に到着するまでは彼女の力で持たせるはずだ。



 大魔導と呼ばれたヴィア=ノーヴァの知識欲が鎌首をもたげた。知に富んだ歴代随一の魔導士と言えど、その奥底に眠る闘争本能は留まるところを知らず湧き上がっていく。セイムの魔導を跳ね返したほどの実力者と戦えるという現実に、秀麗な人形の顔が歓喜の表情に歪んだ。


「こういうのも久々じゃないか……なんとも楽しそうだ」

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