36
「スンマセン、セイムって来てますか!?」
イヴァンの執務室のドアを叩きながら、ラウはそう声を張り上げた。既に午後の始業時刻は過ぎているし、何もなければ彼女はそこにいるはずだ。しかし、呆れたような表情のセイムが出てくるというラウの期待は見事に外れた。
少し驚いたような顔の宰相――イヴァンが、何事かと顔を覗かせたのである。
「どうしました、そんなに慌てて……セイムに何か御用ですか?」
「あ、の。どうしてもアイツに話したいことがありまして」
「ラウ、あなたの隊は午後から演習でしたね? テオドールの許可は頂いていますか」
いきなり部屋に押しかけた無礼に眉を寄せることもなく、イヴァンは冷静にそう問うた。慌てたようなラウの背中を押すように執務室に招き入れると、彼は手ずからラウに茶を淹れた。肩で息をする若い剣士は部屋の中をぐるりと見回すと、唇を噛みながらセイムはどこだどもう一度聞いてきた。
「オッサンの許可は貰ってんだ。頼むイヴァン様、セイムは」
「セイムでしたら、ノーヴルと共に城下へ。頼んだ荷物を受け取りに行ってもらっています。その様子ですと、かなり急いでいるようですね。何かありましたか」
どうぞと淹れたての茶を勧めるイヴァンだったが、ラウはそれに手を付けないまま固く拳を握りしめていた。イヴァンがどうしたのかと再三問いかけるも、それに対する答えは返ってこない。
「私には、言えないことですか。あるいは私的な用事でも?」
「すいません、どうしても言えねぇんです。ただ、今はどうやってもセイムに会わなきゃならねぇ」
「……そうですか、ではこちらに戻り次第すぐあなたのところへ向かわせましょう。元々時間がかかる用事ではないので、半刻もあれば戻ってくるはずです。何があったかはわかりませんが、あなたは少し落ち着くべきだ。一度宿舎にお戻りなさい」
冷静にそう諭されて、ラウは我に返ったように息を飲んだ。
ゼルシアと同じく多忙を極めるイヴァンの執務室には、今も未処理の書類や案件が転がっている。不躾にその中に突っこんできたのはラウ自身だし、それでセイムがいないと焦りを見せるのは分別のない子供のようなものだ。
一度、深く息を吐き出して、ラウは頭を下げた。
静かな言葉は冷たい水のように、頭の中に染みわたっていった。
もう一度一礼して部屋を出るラウに、イヴァンは何も言わずにその背中を見送っていた。白いカップの中で、紅茶の色が酷く鮮やかに見える。
*
六番街の書店でおつかいを済ませたセイムとノーヴルは、イヴァンの執務室に帰るや否やすぐ剣士隊の宿舎に向かうようにとの命令を受けた。
「ラウがあなたたちのことを探しにこちらへ。随分と急いでいるようでしたから、話を聞いて差し上げて下さい」
「で、でもイヴァン様、午後のお仕事は」
「雑務処理くらいしか残っていないので、この辺は私一人でも大丈夫そうです。気にせず行ってきてあげてください」
確かに朝方、山のように積まれていた書類はいくらかその影を小さくしている。そう言う間にも手を動かすイヴァンならば一日で片付きそうな量ではあったが、それでもセイムはどこか申し訳なさそうにその様子を見ているだけだった。
ラウがセイムに用があるということは、ゼルシアからの件について何か動きがあったということだ。だがあくまで慎重に動けと達しが出ているそれに対して、イヴァンの目の前で軽々しく動いてもいいものだろうか。
考えを巡らせるセイムを動かしたのは、ノーヴルの白い指先だった。
「かしこまりましたイヴァン様。お気遣い、ありがとうございます」
早口でそう言ったノーヴルはセイムの手を掴み、足早に執務室を後にする。よほど急いでいると思われたのか、二人を見送るイヴァンの表情には苦笑が浮かんでいた。
「お、お師様! いきなりどうしたんですか」
「これまで音沙汰なかったボウヤが動いたんだ。話を聞きにいかない手はないよ」
背中を見せたまま自分の前を歩くノーヴルの声は、何処か硬質だった。人の行き来が激しい廊下で二人の姿はすぐに埋没する。二人の間でようやく聞こえるほどの声の大きさで、ノーヴルは話し続けた。
「彼は城下や、他の剣士たちの話を聞いて回ってるそうじゃないか。それは活きた情報だよ。後から聞いたのでは、その情報自体が死んでしまうかもしれない。その真偽は、また別としてね」
「お師様、それはどういう……」
それ以上、ノーヴルは何も言わない。
普段過度なまでにセイムに構い倒す彼にしては珍しく、ただただ宿舎までの道を歩く。
剣士隊の宿舎はモルディア宮と鍛錬場からほど近い場所に存在してる。主に独身の剣士たちが住まうそこは男女で棟が分かれていた。
「近衛隊、ラウ・シューゼンに会いに来た。通してくれ」
「許可証は?」
「あ、えっと……すいません。近衛隊のセイムと申します。許可証はありませんが、これで」
近衛隊の人間が持つ身分証――魔導士ならば金色の蔦を模したブローチは、王宮内でならば多くの場合で絶大な権力を有する。女子禁制の宿舎から図書館の禁出帯まで、それを提示して中に入れないということはまずありえない。
「これは失礼いたしました。どうぞ、お入りください。彼の部屋番号はこちらです」
「杖」として持てる権限の一つであるその身分証を見せる機会はセイムにはそう多くはなかったが、こうも態度が変わられるとあまりいい気はしないものだ。本当に必要な時にだけしか、近衛隊の名前と権力は使わない方がいいだろう。
小さくため息を吐いたセイムは、それでもノーヴルに手を引かれて宿舎の中に足を踏み入れた。
魔力的な素養のないラウを探知するのは難しいので、二人はそのまま教えてもらった部屋まで足を運んだ。通常二人一部屋の宿舎ではあるが、近衛所属のラウには個室が与えられている。
簡素な木のドアに書かれた番号と、守衛に渡された番号が一致しているのを確かめて、セイムは控えめに二度ノックする。
「ラウ、いる?」
返事はなかったが、代わりに扉が開いた。
訓練用の服ではなく至極シンプルな、薄い色の私服を着たラウが顔を出す。辺りを見回して人がいないことを確認すると、中に入れとセイムとノーヴルに向かって手招きをした。
「悪かったな、イヴァン様から聞いたんだろ」
実家が近くにあるせいか、ラウの部屋には意外と物が少なかった。下地の木が剥き出しの椅子に適当な布をかぶせて、彼はそこに座ってくれと席を勧める。
「せっかくボウヤが頑張ったんだから、ちゃんと聞いてあげないとね?」
「るっせーよ……あー、なんつーか、城下じゃなくてアマルシアのオッサン……「剣」の人間から聞いたんだけどよ」
ことさらに声を低くして、ラウは話し始めた。
まず、ゼルシアに手を掛ける事の出来る人間が限定されていること。その上で、何かしら彼と確執がある人間でなければこのような手段には出ないであろうことを述べていくと、セイムが小さく手を挙げる。
「あの、ちょっといい? もちろんラウが言うみたいに、「剣」のお二人やイヴァン様なら、陛下を傷つけることが可能かもしれないけど、今回は食事に毒薬だよ? 一対一で戦うならまだしも……陛下に正面きって何かを言えないから、暗殺っていう手を思いついたのかもしれないし」
「それは俺も考えたけどよ。けどこの国で陛下の暗殺っつったら、未遂でも極刑だろうが。勝算もないのに行動に出るかっつーと、俺はそうは考えられねぇんだよ」
セイムの考えも、もちろんラウの考えにも一理ある。
考えが及ばなかったわけではないが、思わずセイムがだまったその時を待っていたかのように、ラウがぐっと身を乗り出した。
セイムとラウの間にあった空間が、一気に狭まる。
「それと、もう一つ考えるとしたら、それはティティのばーさんだ」
瑠璃色の瞳が、震えるような緊張を湛えていた。
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