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「それはそうと、セイムお前酒は飲めるか? この時期にぴったりのいい酒がある」
「お酒、ですか」
ノーヴルの突拍子もない提案に頭を抱えていたセイムだったが、ゼルシアの言葉にふと顔を上げる。
酒は得意ではない、と正直に言えば、ゼルシアは少し残念そうな顔をして頭を掻いた。
「暑くなると大麦の発酵酒が美味いんだ。流水でうんと冷やして飲むと、何とも言えんのど越しを味わえる。苦味はあるが、それもまた良し」
「わ、私はどちらかと言えば果実のジュースの方が……お酒は、本当に強くなくて」
「ふむ、シャーリーも果実酒などを好むが、やはり女性は甘い方がいいのか? 俺は甘みが強すぎると飲みすぎて悪酔いするんだ」
酒杯を干したゼルシアはノーヴルにそれを預けると、軽く目を閉じて椅子にもたれかかった。いい具合に酩酊しているらしく、心なしか目元が赤い。
激務をこなしながらセイムたちを使い王宮の動向を探るのも、気が張るのだろう。自分が完全に信用されているとは思えなかったが、セイムは少しくらい彼に落ち着いた時間を取らせてやりたかった。
「シャルローデ様のお部屋に向かわれては? ここだと、陛下もお休みにはなれないでしょう」
「いい……シャーリーも気を張っているはずだ。あれには、悪いことをした」
声音は、酔いを一切感じさせないほど明瞭なものだ。
やや揺れる視線を厳しいものに戻して、ゼルシアは息を吐く。やがてノーヴルが新しく酒を注いだ盃を持ってきた。
「あの、陛下」
「なんだ」
静かな空間で、セイムはゼルシアに問う。
本来ならば許されない行為だ。近衛とはいえ官吏としては下級も下級、見習い魔導士のセイムが、大帝国の主たるゼルシアに見えることは、まずあってはならない。
既にこの国では貴族制をはじめとする身分制度も形骸化してきているが、それでも皇帝という権力者は絶対だ。
不敬を承知で、セイムは切り出した。
「陛下は、近衛の方々も疑っておられるのですか。イヴァン様、ジョルジュ様、サヤ様……テオドール様に、アマルシア様も。皆、陛下の味方なのに」
全てを疑えと言う言葉に、ゼルシアは面白いと言って笑った。
つまり、それでいいと彼が判断したということだ。間違えれば彼は即座にそれを正してくれるだろう。
ただ、自分の傍に控える忠実な臣下までもを疑うことが出来るのか。
セイムがそれが知りたかった。
「なあセイム、良いことを教えてやろうか。金と忠誠心では腹は膨れん」
「は?」
「いざという時に手元にあったって、金は食料や武器に変えねば使い物にならないだろう? 忠誠なんてものもそれと同じだ。そんなもんあったって、頭の悪い馬鹿に国政を任せればたちまち国は崩壊する。俺の言葉を全て鵜呑みにする人間など、愚の骨頂だ」
ゼルシアはそう言うと、立ち上がって壁に立てかけてあった剣を抜いた。
瞬きする暇もないほどの速さで抜き放ったそれを、ノーヴルの眼前に突き付ける。
「陛下!?」
「セイム。命令だ、イヴァンを殺せ。さもなくばノーヴルが死ぬぞ」
何の感情も含まれずに放たれた言葉に、セイムは息を飲んだ。
寄っているのかと思ったが、その言葉も行動も、酔いに身を任せた人間のものとは思えない。
咄嗟に、彼女は首を横に振る。
「何を、仰っているのですか! 突然妙なことを言いだすかと思ったら、お戯れもその辺にしてください!」
悲鳴染みた声を上げるセイムを見て、ゼルシアは何を満足したのかその剣を手放した。
「そうだ、それでいい。今俺は明らかに王として、一人の人間として間違ったことをしたな? 真の忠義であれば、それを諌めるのもまた忠義。もっとも、お前は俺よりもイヴァンやノーヴルの心配をしたんだろうが……それでいいんだ」
震える体を押さえつけて、セイムは息を吐いた。
本当にゼルシアがおかしくなってしまったと思ったのだ。よく見ればノーヴルは困ったように笑って肩を竦めているだけだし、ゼルシアも普段の様子と変わりはない。けれど放たれた剣の鋭い輝きも、あからさまな殺気も、彼女が見たことがないゼルシアの姿であった。
「俺は、近衛の面子を忠義や忠節で集めたわけじゃない。腕が立つか、頭が切れるか、いざという時、俺と刺し違えても暴走を止めることが出来るか――俺とてただの人間だ。間違える時だってあるさ。だがそれを正す人間がいなければ、苦しむのは民だ」
もしも自分が、施政者として道を誤った時は迷わず殺してくれて構わない。
そう言い切ったゼルシアは、椅子に座り直してまた足を組んだ。
「だが、俺も曲りなりには一国の王だ。それ以外の理由でやすやすと殺されてやるほどお人好しではないし、殺される気もない。純然に俺が気に食わないという理由でシャーリーやお前たちを傷つけるというのなら、俺は持てる力の全てをもってそれを叩き潰さねばならん」
大陸の中央部を占める帝国の権力は絶大だ。ゼルシアが動けば、それに付随して八つの属州と五つの同盟国が動くことになる。
彼が一つ声をかければ、暗殺者の一人や二人くらい生きた痕跡もなく消し去ることは可能だろう。「悪逆非道」の称号をほしいままにする彼ならば、それくらいのことは片手間でやってのけるかもしれない。
「陛下、」
「だが俺はそこまでこの件を大きくするつもりはない。外部からの襲撃ならまだしも、恐らくこれは内部の犯行だ。自国の人間の粛正如きで、国家情勢を揺るがす真似はしたくないからな」
新たに用意された酒杯も全て飲み干したところで、これ以上は飲むなとノーヴルから止めが入った。
矢張り酔いが回っていたのか、ゼルシアは不機嫌そうな顔でノーヴルを睨み付ける。しかしその顔も、かつて彼の師であった人形の前では効力を発揮しないらしい。
「晩酌はいいですが、過ぎた
「なんだ、泊まっていってはダメか」
「でしたら是非紺碧の間に出向かれてはいかがですか。嫁入り前の女の子の部屋に入り浸るなんて妙な噂が立ちますよ」
今にもゼルシアの尻を蹴り飛ばして部屋を叩きだしそうなノーヴルは、虫でも追い払うかのような仕草をする。普通なら手打ちにされても何の文句も言えないような光景だが、既に酒がまわっているのかゼルシアは面白そうに笑うだけだ。
素面も素面、ノーヴルの正体を知っているセイムとしては冷や汗しか出てこないような光景だ。
「わかった、わかったよ。今日は部屋に帰る――セイム、戸締りは忘れるなよ。お前の魔導の腕は信用しているが、相手がお前以上の魔導の使い手という可能性は十分にある」
「その時の為に私がいるんですよ。さ、陛下帰ってください」
壁に掛けてあった剣を取ると、ゼルシアはゆっくりとした足取りで部屋を出た。
結局最後まで酔っているのかいないのかが分からなかったが、恐らく本当に酔っぱらっているわけではなかったのだろう。その証拠に、視線の配り方や歩き方には隙がない。
「ああ見えて君の年齢と同じ時間を、あの方は玉座でただ一人生きてきたからね。妙なところで油断はならないし、正直先帝陛下より厄介だよ」
開いた酒杯を片付けながら、ノーヴルは肩を竦めた。
それ以外は何も言わなかったので、セイムも何も言わずに眠りにつくことにした。
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