32
「グレイヴさん、グレイヴさんいますか!」
とっぷりと日が暮れた時間帯。専門店街は店じまいが早く、この辺りは薄暗い街灯以外に人気もない。歓楽街の三番街に人が流れていったのか、遠くの方からは笑い声が聞こえる。なのにこの辺りだけは、人の影ひとつ見つけることが出来なかった。
そんな不気味とすらいえる道を、セイムは一人で駆ける。彼女が知る限り最も腕のいい玉石の鑑定士――グレイヴに、「液体の玉石」の精製方法を聞くためだ。
相変わらずノーヴルは何も言わずにリベリア宮にひきこもって何かを調べているし、ラウも下町が精いっぱいでこちらには手が回らない。動くことが出来るのは、セイム一人だ。
「お嬢ちゃん……こんな時間にどうしたんだ。王宮付きの魔導士が、夜に出歩くことは禁じられているはずだ」
「ゼ……とあるお方からの命令なんです。グレイヴさん、『玉石から精製した液体』について教えてください」
夜の暗闇の中で一層鮮やかに輝くグレイヴの瞳が、わずかに細められた。
誰にも見られない様に警戒しながら彼はセイムを店内に迎え入れ、小さなランプをともす。橙色の光が、柔らかく闇を照らした。
「君の師匠に聞くのが一番早いと思うんだが……それではだめなのか?」
「お師様は何も教えてくれません。それに、あの方も今手が離せないんです」
「なるほど。あのお方も弟子の育成にはよほど熱心と見える。こちらへ来るといい――温かい飲み物を用意しよう」
肩の力を抜いていいと言われて、ようやくセイムは息をつくことが出来た。
先ほどグレイヴも言ったように、王宮づき――特にフェルティニウム城敷地内で暮らす人間は、夜間の外出を禁じられている。近衛隊の一員ともなればその制約はさらに厳しく、故意にその規則を破れば皇帝に叛意ありと取られることも珍しくはないという。
「液状の玉石、または玉石から精製する液体。どれも貴重なものだ。天然生来であり、なおかつ二等級以上の玉石からでないと、純度の高い液体は入手できない。市場でも高値で取引される」
お茶を用意しながら、グレイヴは店の奥の方にある棚から香水瓶のようなものを取り出した。雫型のガラスに入っているのは、ほんのりとした薄桃色の液体だ。
「これは……」
「俺が精製した。丁度君の顔ほどの大きさがある一等級の玉石だったが、精製すればこのようなものだ」
「たった、これだけ?」
「あぁ。これでも多い方さ」
匙一杯分ほどの液体を取り出すのに、それだけ貴重な玉石を大量に使わなければならない。
そうなれば、それを材料として必要とするリードリュンゲンの毒薬を作るのはさらに難しくなるだろう。
しげしげと瓶の中身を見詰めるセイムに、グレイヴは飲み物を差し出した。
「美しい色なんだろう。君のような年頃の娘が如何にも好みそうな」
「とっても……もしかして、見えていないんですか?」
「あの方から聞いているかもしれないが、俺の目はもうこの眼窩にははまっていない。ここにあるのはあの方から与えられたもう一つの眼だ。魔力を視ることには長けているが、細かい色までは識別できないんだよ。例えば、君の肌の色と、そのローブの色。俺にはすべて同じに見えている。やや肌色がかった白だ。微細な差異は、てんで分からない」
魔力を視る。
特殊な魔導を使えばそのようなことが出来ると聞いたが、セイムにはその感覚がまるで分らなかった。一般的な魔導士が魔力を感じることができるのは、ほとんど肌で覚えた感覚である。あるいはその流れまでは読むことが出来ても、はっきりと視覚にそれが現れるわけではない。
呪具を使えばそれも可能だが、そもそもそこまで徹底的に魔力を読み取ることがなかった、グレイヴの見る世界は、やはり彼女とは違うらしい。
「これは、薬品の材料になりえますか」
「その玉石の特性にもよるな。俺は薬学はからっきしだが、有名なものでリードリュンゲンの毒薬が、炎の属性の玉石を用いるらしい」
その言葉に、セイムはハッと顔を上げた。
薄暗い空間を照らすランプの光が、柔らかく揺れている。
「問題は解決したか? まったく、君のそばにはあの方もいるだろうに。それに……身にまとうその力は、何とも至高の座にましますお方らしい。剛毅な生命力だ」
「え?」
「魔力と呼べるほど成熟はしきっていないようだが、いずれそれは君を守るだろう。さあ、もう行くといい。疑り深い衛兵に捕まっても知らないぞ」
グレイヴは最後にそう言って微笑むと、何度も頭を下げて感謝するセイムを送り出した。
セイムも誰かに見つかるわけにはいかないので、出来るだけ魔力を感知させないように静かに街を歩く。やはり人の気配がない六番街の街は、沈んでいるかのようにひっそりとしていた。
やがて王城の裏手に出ると、セイムはそこに守衛がいないことを確認して息を吐いた。ここからは少し骨が折れるが、転移魔導を使うしかない。
塀を上るには体力がないし、派手な行動をすればすぐ捕まってしまうだろう。
そもそも、勅命だと胸を張って言えれば真正面から門をくぐって中に入ることが出来るのだ。ゼルシアが一筆書いてさえくれれば、王城ではほとんどのことがまかり通る。
しかしそれを禁じられているのだから、セイムにできるのは大量に魔力を消費する転移魔導を使うことだけだ。
呼吸を整えて、明確に自分の行きたい場所を想像する。
魔力を一定数体に流し込んで、出来るだけ心を落ち着かせねばならない。
簡単な魔導ならば呼吸と等しくほぼ無自覚で発動できるが、こればかりは深く神経を集中させなければ成功しない。
転移中に体がバラバラなんていうことが、魔導士の間ではしょっちゅう起こるのだ。
「おい、そこでなにをしてる?」
だから、こうして話しかけられるのは論外だ。
思わず飛び上がったセイムは、思わずペンダントを握りしめた。いつも使っている鞄は王宮に置いてきてしまったが、イヴァンからもらったこのペンダントがあればそれなりの魔導を使うことはできるだろう。
「……王宮魔導士の、夜間の外出は職務規定により禁じられている。ミズガルズ嬢、理由をお尋ねしてもよろしいか」
夜の暗闇に、真っ黒な軍服。
そこを彩るのは銀色の稲妻――近衛隊の一員であることを示す、「剣」のシンボルだ。
「えっと……すいません、剣の方まではお名前を把握していなくて」
「こちらこそ、名乗らずに失敬をした。我が名はアマルシア。庭師のアマルシアや、「ガーデン」と呼ぶ者もいる。位階は「剣」の七本目だ」
その声の主は、隙なく着こんだ軍服とは全くそぐわない、擦り切れた麦わら帽子をかぶっていた。
目深にかぶった帽子のせいで表情はまるで分らないし、声からも感情が読み取れない。大体、剣士という割に帯刀していなかった。
「もう一度問う。ミズガルズ嬢、ここで何をしていた」
「ア、アマルシアさんは何を」
「質問に質問で答えるな……俺は、夜の
溜息をつきながら、それでもアマルシアはセイムの問いに答えてくれた。
「呪具が、壊れてしまったんです。師から頂いた大切なものだったので居ても立ってもいられず、修理に出してきました」
「魔導士にとっての呪具は我等にとっての剣と同じ、か。だが気をつけるといい。君はあらゆる意味で有名だ。「剣」の姉弟程ではないが、君は若い。ラウも最近こそこそと抜け出しているようだからな、自ら敵を作るような真似は慎むことだ」
一閃させたアマルシアの右手には、セイムの身長より少し大きなはさみが握られている。枝切鋏の形を成しているが、あれではまるで首切りの処刑道具のようだ。
「転移をするつもりなら、止めておけ。この辺りには夜警を抜け出した兵が多くいる。正門はこちらだ」
また右手を振ると、アマルシアの手から鋏は消えている。あまりの早業に、セイムはそれを目で追うことが出来なかった。
ともかく、表情の見えない庭師は今すぐセイムを罰するというわけではないらしい。ローブを着てきたのがよかったのか、彼の後ろについて歩くセイムですら他の兵士に「お疲れ様です」と声を掛けられることも少なくなかった。
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