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フェルティニウム城皇帝居室は、代々紅蓮の間と呼ばれている。炎のような赤で縁取られた壁や豪奢なつくりの調度品は、どれも皇家に伝わる珠玉の秘宝たちだ。

 皇帝自身の至極私的な空間――禁闕きんけつと呼ばれる部屋であるため、ここに入ることができるのは限られたごく一部のものだけであった。


 先帝ライオネルの治世ではヴィア=ノーヴァとほか数人の側近たちが。当代皇帝のゼルシアの治世では、先代の大将軍ヤカーハと魔導令師イヴァンらがその役目を担っていた。


「陛下、セイムの配属の件ですが……彼女は――苦手とは言っておりますが、薬学にも造詣が深く、また魔導研究に対してもかなり関心が高いようです。特に占星術の分野では、天文台の上席に勝る成績が見られますね」


 その月帝都で起こった問題を報告し終えた後で、イヴァンは思い出したかのようにそんなことを言い出した。

 気だるげに椅子に座りながら書類に目を通すゼルシアは、視線だけを持ち上げてイヴァンを見上げる。不機嫌そうな顔が、何かを思案する表情へと変化した。


「お前はどう見る。あれはジョルジュの元で魔導研究に特化させた方がいいのか、それともお前の元で魔導の技術を極める方がいいのか。最も近くでセイムを見てきたのは、俺ではなくお前だ。俺はお前の意見こそを尊重したい」


 ゆっくりとそう言って意見を求めるゼルシアに、イヴァンは跪き頭を垂れた。神の前で懺悔する敬虔な信者のようにかしずいたイヴァンの様子は、最早神聖ですらある。


「では差し出がましいようではありますが、私の意見を――セイムの能力は未だ発展途上。技能こそ彼女の師により至高のものを叩きこまれてはいますが、やはり経験不足による頼りなさは否めません。彼女はまだ若くありますが、「剣」の二傑のように能力が未知数というわけでもありません。彼女の能力が成熟しきってしまう前に、魔導は最高峰のものを実戦で扱えるよう訓練を重ねる必要があります」


 長く降ろした銀髪を床に垂らすようにしながら、イヴァンは淡々とセイムの現状についての報告を続けた。


 書類の処理に関しては問題がないため、文官として十分な実力を発揮できるであろうこと。ただし突発的な事故や想定外のことに関しては応用が利きにくいということ。魔導士にありがちな欠点ではあるが、体力が剣士に比べて圧倒的に低いこと――この数か月セイムを最も傍で見続けたイヴァンの言葉に、ゼルシアは終始聞き入っていた。


 彼がその唇を開いたのは、大方イヴァンの報告が終わった後である。


「では、お前につけるか。ジョルジュは面倒見はいいが、あれも想定外の事案に弱いな」

「は――すべて陛下の仰せのままに」


 一も二もなく承諾したイヴァンの答えに、ゼルシアの表情が固まった。

 怒っているわけではないのだが、何かを承服しかねているらしい。悪逆非道だなどと言われるが、彼自身怒りをあらわにすることはそう多くはない。ともすれば年より若く見られがちな顔だちを隠すために不機嫌そうな顔をしているが、決して常日頃から怒っているような人物ではなかった。


 むしろ、ゼルシア・ハイドランジアという人間は非常に慎重で温厚な男である。

 しかし普段つけている渋面の仮面を外したゼルシアは、イヴァンに視線を向けて問いかけた。


「イヴァン、一つ聞いてもいいか」

「なんなりと。私で答えられることならば、すべてお答えいたします」

「……お前は、俺をどう思っている?」


 その言葉に、イヴァンは顔を上げた。


 属国の一つで採ることができるという赤い床石には、唖然としたような表情のイヴァンがくっきりと映り込んでいた。

 聡明な彼にしては珍しく、ゼルシアが何を言っているのかを理解していないような顔をしている。


「陛下は、この国の皇帝でございます。民を護り、国を守り、そして繁栄をもたらす象徴、強き国の盟主として比類なき才能を持たれた、ただ一人のお方」


 その言葉は迷いなくはっきりと、ゼルシアの耳に届いた。

 銀髪の下からゼルシアを見上げるイヴァンの瞳に、一切の曇りはない。本心からの言葉であった。


 けれどゼルシアは、その言葉に喜ぶことも、怒り狂うこともしなかった。ただゆっくりと頭を横に振り、イヴァンに立つように命ずる。


 何かを間違えてしまったのか――叱られる子供のように瞳を揺らしたイヴァンに、ゼルシアは静かに語り掛けた。


「俺は、ただの人間だぞ。お前はまるで神のごとく俺を形容するが、俺には何もない。皇帝という称号は俺の中に流れる血と、成り行きによってもたらされたものだ。俺自身にはこの剣の一振りと、シャルローデくらいしか持っているものはない」


「なにを、何を仰いますか陛下……陛下には民がございます。差し出がましいようではありますが、皇帝という称号はあなたに、ゼルシア・ハイドランジア様に与えられた無二のもの」


「父上が死んだとき、俺は腐敗した王宮を正す存在として祭り上げられたが――父上が即位した時も、祖父君が即位した時もそうだったんだろう。何れ俺も暴君として民に死を請われる存在になる……そうだな、ヴィア=ノーヴァに聞けば、何かわかるか」


 自嘲気味に漏れた笑いに、イヴァンは信じられないという表情を浮かべた。

 彼の口からヴィア=ノーヴァの名前が出ることは滅多になかったが、セイムが官吏として城で働き始めてから、イヴァンはこの名前を時折聞くようになったのだ。


「陛下、その者の名前は……」

「セイムの師だろう。俺にとっても、あれは魔導の師だ」

「セイムと師匠は、全てが違います!」


 声を上げたイヴァンは、すぐに我に返って頭を下げた。

 普段冷静なイヴァンが声を荒げるとは思っていなかったのだろう。ゼルシアもわずかに目を丸くした後、素直に詫びた。


「すまん、お前もまたあれの弟子だったな」

「……今となっては、全て昔の話です。彼は死に、今陛下の元にあるのは私と、セイムです――取り乱してしまい、申し訳ありませんでした」


 震える声でそう会話を終わらせて、イヴァンは一礼の後に紅蓮の間を後にした。

 これから居住区にある自室に戻って、薬学に関する論文に目を通さなければならない。

 真紅の部屋を後にして体を引きずるように戻ってきた彼の自室は、書物と論文が山と積まれていた。しかしそれでいて清潔感を喪わないのは、使用された形跡のないベッドや小ぎれいな家具があったからだろう。


 書棚から薬学辞典と魔導書のレプリカを取り出すと、イヴァンは書類に埋もれるようにして設置してある椅子の上に座った。一人がけのソファは、その部屋で唯一使いこまれた形跡があるものだ。


 傷の治療から暗殺に使われる毒物までが網羅されたその辞典を眺め、イヴァンは唇を噛んだ。顔色がよくないせいか、その表情はまるで幽鬼のようである。


「すべては、あなた様の為にあるのです。ゼルシア様、我が絶対の主君にして無二の皇帝陛下――」


 知識を求める魔導士の夜は、そうして今日も更けていった。

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